交友録


無事に(4月14日)

 4月5日に木久扇さんの落語を府中に聴きに行く予定で、チケットをかったが甲府に行ってしまったんで行けなかった。

 次の木久扇さんのスケジュールをHPでしらべたら、12日土曜が甲府になっていた。他に息子さんの木久蔵さん、三遊亭小遊三さん、春風亭小朝さんと豪華メンバーである。

 最新の私がお気に入りのTシャツを手土産に、高座が行われている文化ホールに会いに行った。息子さんと小朝さんは初対面である。小遊三さんは同郷の先輩であり、旧知である。息子の木久蔵さんに木久扇さんが私のことを説明していたが、木久蔵さんは私のことを知っていた様子であったが、「玄関に飾ってある切り絵の作者の百鬼丸さん」と紹介していたから、玄関に私の絵が飾ってあるんだと、嬉しくなった。

 小朝さんは私の姿を見ると、吹き出しそうな顔をしていた。何でだろうなと思いながら、Tシャツを手渡した。

 私が和服の書生姿でいったし、いつものバンダナと袴は股立ちをしていたので、面白かったんだろう。小遊三さんは「よお!」と迎えてくれた。次の仕事で帰り支度をしていて間に合ったのがよかった。

 とにかく、皆さんに無事に渡すことが出来た。


伊藤菜穂子さん(4月8日)

 昨年の信玄公祭りの前日、私は風林火山博のブースで仕事をし終え、一階にある松村酒販のカウンターで、現在マネージャーをしている小林と酒を飲んでいた。

 すると、美人の女性がカウンターの横にある酒の棚を物色しているのであった。私は、人の顔のおぼえの血の巡りは卓越してよく、その女性がテレビのレポーターをしている人だと人目でわかった。ただ名前がわからなくて「佐藤さんですよね」といった。それでももし間違ったら、と思い「テレビに出ている」と付け加えたら、「伊藤です」と帰ってきた。

 その笑顔と同時に、私と小林の間のカウンターにするりと入り込み、彼女は我々と飲み始めたのであった。

 彼女は現在でも4チャンネルの「ズームイン朝」にレギュラー(もうかなり長いレギュラーをしているから、とんでもなく人気のレポーターなんだろうと思う。私もファンであった。)で出ているから、ご存知の方もおおいと思う。

 それから2次会に行き、3次会は山梨の広告会社の打ち合わせに乱入して、どうも雲粋が怪しくなって退散した。

 その後、昨年の銀座の草鞋之会に顔を見せていただき、今回は昨年同様、信玄公祭りの生ナレーターとして信玄の家来たちの紹介をしていた。それで、私は4月5日のナレーションブースに挨拶に行ったのだった。

 次の日彼女が私の展覧会スペースに現れたが、昨夜「しっかり飲んだ」の相をしておった。


高原美由紀(4月1日)

モデルのマネージャーを23歳から25歳までやっていた。モデルのプロダクションは4ヶ月勤め、そのあとはフリーでマネージャーをしていた。

そのとき、ある人から預かってマネージメントをしたのが、この高原美由紀という可愛い女の子だった。

本当に可愛い子で、いたずら好きで、まだ高校出たてであった。

私が彼女のマネージメントをしたのは半年くらいだろうか。よく銀座の制作プロダクションを2人で歩いた。しかし、さっぱり仕事は入らなかった。

一度、「疲れた。おんぶして」といってきたのでおんぶして銀座を歩いた。私は嬉しかった。すっかり恋してしまったのであった。 (マネージャーはほれるくらいじゃないと、心からマネージメントできない。だから、恋するというのは悪いことではない。)

そのあと私はマネージャーを止め、1年後には愛知県の常滑に焼き物をしに行っている。

しかし、常滑でテレビを見ていると、資生堂のキャンペーンガールとして、彼女が抜擢されて、南沙織の「春の予感」という歌に載せてCMに出てきたのである。

その時の驚きは大変であった。

明るい子だったから、もっと出てくると思ったけど、意外にその後出てこなかった。

もちろん私はあれ以来会っていない。もう彼女も、50歳にはなっているはずだ。

今日から甲府の展覧会である。行ってきます。

今日の足取り(3月29日)

今日は山梨に行く、まず富士吉田に行きチーム百鬼丸の朝のミーティングに出る。

それから、甲府に行き4月1日から始まる展覧会の飾り付けに行く。

その後富士吉田に戻り、切り絵教室の講師をする。

 昨日は鶴ヶ島市長とお話を3時間ほどした。とても気さくな方で、こちらも話しやすかった。図書館での書籍カバーの切り絵公開制作及び1月ほどの展覧会が決まりそうである。

これで、今年一年が展覧会で埋まった。


クラブ数寄屋橋40周年記念(2月29日)

  ママと

志茂田景樹氏と 北方謙三氏と大沢在昌氏と

 森村誠一氏と

だいぶ酔っ払っている。


チョコ(2月14日)

 パレンタインにチョコレートはあんまり来ない。

 だが今年は浅香光代さんから来た。それにお菓子も沢山。サンタクロースのプレゼントみたいにどっさり。ありがたいことです。「浅香さんそのうち、愚痴を聞きにうかがいますから」

 それから、チョコではないが手紙を久しぶりにいただいた。直木賞作家・作詞家の山口洋子さんである。もっと本当は会っていい人であるが、脳梗塞でお倒れになってから、血圧が高かったりで、あまり人に会ったり激務をひかえてらっしゃる。

 山口さんとの繋がりは、実際の仕事上ではない。私が彼女の似顔絵をしてから、私のカレンダーとかを送っていたのである。それで、ついに週刊大衆の連載に私とコンビを組たいというご指名が来たのだ。話は順調に進み、山口さんとも事務所でお会いした(出版社のパーティではお会いしている)のであるが、何があったか知らないが突然山口さんが連載をお断りになり、だから、仕事上ではお付き合いはない。

 山口さん、元気でいらっしゃるようで安心いたしました。


浅香光代観劇ツアー(1月14日)

 私のファン7人を連れて行った、浅香光代観劇ツアーは寒風の中始まった。

 この日記の写真のような、書生和服姿で、マイクを持って、旗を振り私は歩いた。浅草の歴史を語ったり、皆で浅草寺に初詣をしたり、ちょっと変わったツアー経験になるんだろうという形で歩いた。

 食事は「釜飯春(はる)」。ラジオでも時々宣伝が出てくる。早めに行ったら、もう、客がいて、3階に回された。しかし、間もなく3階も埋まり、出る頃には1階の階段まで、客が連なって凄い喧騒になっていた。とてもゆっくり出来るものではない。浅草は今でも、人が凄い。往時の混雑はいかばかりかと思う。

 会場のゴロゴロ会館に到着して、早速、連れたちは席に着き、私は楽屋に浅香さんを訪ねた。楽屋の先のお客は浜田光夫さんだった。

 浅香さんはメークを済まし、後は鬘をかぶるだけというスタイルだった。浜田さんに私を紹介し、私との関係をかいつまんで話してくれた。しかし、ニコニコとまるで本番20分前とは思えない、普段どおりの浅香さんであった。

 左足の内腿を切ってしまって、あまり動きが良くなかった浅香さんであるが、枯れた演技と表情の巧みさが印象に残った。顔だけで芝居をしているような感じで、他の役者さんとは存在感はやっぱり違った。

 最後は客席まで降りてきて、客一人ひとりに握手して、勿論私の連れたち全員と握手。皆に印象に残ったことだろう。

 皆とは、帰り道を歩き、私一人浅草の飲み屋街に消えた。


蔡国強氏(1月10日)

火薬で絵を描く中国人の蔡さんの番組をNHKがやっていた。迷宮美術館という番組だったと思う。

 彼はニューヨークに渡り、現代アートの旗手として活躍している。でも、その火薬の火が走った痕跡をキャンバスに残すアートは、確かにきれいで斬新なものだが、私がすきになる絵ではない。

 それは現代アート全般に感じることだが、私がいいなあと思うものは少ない。

 ただ、具象画がいいといえるかというとそうでもない、下手な具象画より現代アートの方がまだいい気がする。

 この蔡さんには、15年以上前だろうか、まだ彼が中国から日本に来た頃に会っている。場所は私が、和紙を仕入れている東京の京橋にある「山田和紙」でである。お店のカウンターで、隣同士になったのである。

 なんだったか忘れたが、私が何かを教えたんだと思う。

 それから、年に一回くらいは手紙のやり取りをしていたと思う。自然に、手紙の行き来はなくなったが、彼とは次に何回となくテレビ画像でお目にかかる事のになる。

 そして、今回のテレビ番組で福島県の「いわき」出てきたが、蔡さんといわきは、彼を理解してくれた街として、繋がりが濃かったんだと納得した。何故かというと、私がバイク旅行をしたとき、蔡さんの作品が大々的に飾ってある場所があって、不思議に思っていたからだ。

 蔡さんは北京オリンピックのビジュアル担当アーティストに就任したようであるが、どんなものになるか楽しみである。


我修院達也(若人あきら)参上(2008年1月6日)

 昨日は個展開催中のアートインギャラリーに行った。ギャラリー前の住人のK氏が、初めてのお客として入ってきた。ところがこのK氏、私が山梨だというと「山梨に仕事で出入りしていた会社があった。河口湖精密という会社なんだけど」という。その中のA氏とはとく仲がよかったという。

 河口湖精密とは、私の兄が前にいた会社であり、兄の二人の息子もそこで働いている。そのA氏とは兄の上司であり、当時のその会社のトップの人であった、私とも個人的に付き合いのあり絵も買っていただいている人である。いや驚いた。

 そういえば、昨年12月の山梨県人の集まりの忘年会の2次会で、同じカウンターで飲んでいた人が、我々が山梨の富士吉田の話をしていたら、話を入れてきて、私の義兄が富士吉田市にいるということで、具体的に尋ねたら中学時代のテニス部の同期だった話があるが、まあ連続して驚いた出会いである。

 それから、外人客もこれほどは行った展覧会はない。当然日本人客とは反応の仕方は違う。いい展覧会であった。

 最後の頃現れたのは、我修院達也氏だった。彼は昔、若人あきらという芸名で、郷ひろみのまねをして一世を風靡した。何故彼がこのギャラリーに現れたかというと、このギャラリーのオーナーのK氏は彼のマネージャーをしているからであり、私が会いたいといったからである。K氏がそれに答えてくれて、対面する事になったのである。

 我修院氏とK氏は中学の同級生であり、公私にわたって長い付き合いなのだそうだ。我修院氏はいろいろな活動そしている。それについては彼のHPに載っているのでご参照願いたい。K氏は私の東洋大学の建築家のクラスメートであり、何と建築設計を首席で卒業している優秀な建築家でもあったが、数年前から建築という仕事に嫌気がさし、いろいろな仕事、それも手仕事的なことを仕事にしつつあるようだ。

 その中で、作詞といいうのもあり、我修院氏の作曲作品に詩を付けたりもしているそうで何曲かカラオケにも入っているという。

 3人のギャラリーでの話は、閉館まで続き、場を飲み屋に移したのはいうまでもない。

 あの眉毛は本当につながっているのだそうだ。そして芸能スキャンダル年度2位をとった疾走事件は、本当に記憶喪失だったのだそうである。少年ジェットというテレビ映画で、何とか国の王子を演じた時があったそうで私はそのテレビを見ていた。6歳から俳優をやっていたというから恐ろしい芸歴であった。

 元旦から放送される郷ひろみと共演のパチンコのCMの契約で、3人での写真撮影が出来なかったのは残念である。また仲間が一人増えた。  


ちょっとした旅(11月25日)

久々に飯田橋から帰ってきた。ここ2・3日は、仕事をサボってしまった。

 週刊新潮で佐江衆一著「クイーンズ海流」という小説の挿し絵を1年間したことがある。その作家の佐江さんが中学・高校を過ごした栃木県古河市の文学館で、回顧展をするということで11月23日に行ってみた。

 その回顧展で5回ほど、彼の講演があって、私は「栃高時代の想い出」という彼と友人の対談にうかがった。会場は70人ほどが入り、満員であった。ほとんどが彼の高校時代の先輩・同輩・後輩であるらしい。

 中・高では大変な読書家であったらしいが、意外にそのこと知らなかった同級生もいたようである。日記も読書感想文なんかが、ませた口調で(本人の談)つづられていた。女性があまり来ていないのは栃高というのは男子高だったんだろう。好きだった女性の話とかしていて、その女性の人の消息を知っている人がいて、太って昔の面影はないから、会わないほうがいいよという通知には、会場は爆笑になった。

 佐江さんが作家として知られるようになったのは、「黄落(こうらく)」という小説がベストセラーになってからだ。賞も沢山取っている。私も彼の本のカバーを3冊やっている。

 話は変わるが、私がこの「クイーンズ海流」「という小説の挿し絵をしていた時に、東洋大工学部の私の所属していたテニス部の同期のK君から電話があった。かなり久しぶりだが、時々電話で話すくらいことはあった。彼はぽつりと言うのであった。「佐江衆一は俺の伯父さんだよ」と。びっくりした。佐江さんは二人兄弟で妹がいる。その妹さんの息子という事になる。こんな偶然もあればあるものである。

 会場の方々に、佐江さんは私を紹介してくれた。講演が終わると、少し彼とお話をして私は去った。

 古河で飲んでいこうと思って、飲み屋を探していたら後ろから自転車で来た人が、「百鬼丸さん」どちらに行くんですかと尋ねるので「飲み屋を探している」と答えると、私が案内しましょうと飲み屋に連れて行ってくれた。画家の方であって、先ほどの佐江さんの講演を聞いていた人である。だが、佐江さんとは昼飯の時に同じ店屋に出くわし、佐江さんに声をかけたのだそうである。誰にでも声をかける方である。

 私と彼は絵の話、食えない話、家族の話等を話してくれたが、私が聞き役であった。どじょう鍋を食べた。さっき店に入ってきた時にうようよ動いていたのがこうなったんだと思いながら、意外に癖にないどじょうだなあと思いつつ食べた。彼は良く地理のことを知っていて、方々歩き回った人のようである。放浪癖があるという。

 話の中に産経新聞で連載中の山本一力さんの小説の挿し絵をしている原田維夫の版画がいいですというんで、仲間である彼に電話してほめてくれた人がいるよと伝えようとしたが、彼は出なかった。その間にすばやく彼は支払いを済ませてしまっていた。何かわるい気がした。

 そして、東北線から埼京線へと乗り継ぎ、思い出して板橋で降りた。私が23歳の時に住んでいた町である。その頃行きつけていた飲み屋さん「北海」に行ってみた。

 私がいた33年前というのは板橋は閑散としたところで、お店もなくひっそりしていたものだ。まだ開店したばかりの「北海」はそのときには「だるま」といっていたような気がする。

 たまにそれからも行っていたが10年振りである。ママは私を覚えてくれていた。このママも当時は独身で、かなり痩身であったが、今はころころしている。手伝いに来ていた彼女の妹さんがきれいで、私はいっぺんで好きになったが、ある日銭湯に向かう途中で彼女が男と歩いて向こうから来たので、きずかれる前に反対側の道に廻ってやり過ごしたことがあった。それで、彼女をあきらめたものである。その彼女も太りすぎて人前に出られないというから、いかほど太ってふっているのやら。そして私は焼酎のお湯割をいっぱい飲んで、帰った。

 がしかし、元の私が住んでいたアパートはどうだろうと訪ねた。その近辺は変わっていなかった。時間は8時である。大屋さんのところは明かりがついていた。当時私一人だけがそこに住んでいて、そのあとは誰にも貸さなかったそうで、私が最後の住人であったわけである。そのことは、出てから10年にいっぺんくらいは訪ねているから知っているのである。

 久しぶりの訪問であったが、旦那さんが亡くなっていた。今年の9月だったという。ここに住まっていた頃は時々大家さんの居間寄せてもらい、お話をしたことがあった。ご飯も一度くらいはご馳走なった気もする。旦那さんは痩せたおとなしい優しい人であった。また、私が住んでいた頃にお嫁入りしたお嫁さんがいて、出てから初めて訪ねた時、旦那さんが亡くなっていた。結婚15年くらいだったそうだ。その旦那さんとも私はお話をしている。とても気さくな人であった。今はおかあさんとお嫁さんと息子さんの3人暮らしだそうである

 このアパートは下板橋から歩いて2分くらいのところにあり、部屋は3畳であった。大学を出てすぐ住んだアパートであり、オイルショックで就職できなかった私はここからバイトで歩いて池袋にある手塚工務店というところにアルバイトに行っていた。確か朝は駅前の立ち食いうどんでも働いていた。今はなくなっている。

 このアパートは、ねずみがいて天井をよく走り回っていて、ある日布団の上を小さな動物がはっているのを目撃した。私がダニというものを始めてみた瞬間であった。その頃から、毎日とてもかゆかったのであるがその正体はダニだったのである。ねずみが天井から落としているのであろう。

 そんな話も、実は話で今回初めて出して、皆で笑った。私も飯田橋に帰らなければならず、30分ほどで帰った。今度はいつ訪ねるのだろう。 


ライバル(11月12日)

 NPOザブン賞の表彰式に行ってきた。会長の筑紫哲也氏、顧問の月尾嘉男氏もお元気に出席された。

 話はその話ではない。実は筑紫哲也氏の娘さんは、まだバイトをしながらであるが、切り絵作家である。年齢は30歳をちょっとすぎた頃であろう。私は面識はないが、3・4年前に彼女がアメリカ留学から帰ってきた直後の展覧会を飯田橋でやっていて、見にいった。あとから、手紙だったか、彼女から「百鬼丸さんに見ていただいて嬉しかった」というコメントをもらった。

 現代アートっぽい立体の切り絵だった。きれいであったが、ひ弱い感じがした、つまり力を感じなかったのである。これからの人であった。

 今、週刊文春で切り絵の挿し絵の小説連載が始まった。福井利佐さん(HPにいっぱい載っているのでご覧いただきたい)の切り絵である。NHKのトップランナーに取り上げられた、とても美人で、背も大きいといった印象である。モデルにしてもいい感じである。そしてとても幸運なスタートを切った方である。

 彼女の切り絵の特徴は切り方にある。人物画なんかでも、小さい穴を切り絵で開けてそれの集合させて人物画にしている。極端に言えば、テレビは3色で画像にしているのであるが、その小さな色を一つ一つ切り抜いて切り絵にしていると思えばいいかもしれない。

 だが、結局はリアル系の切り絵なのである。小説の挿し絵ではそれを持ち込むのは無理である。彼女はそれがわかるのだろう、出てくる絵は人物が出て来なくて、静物だけである。これで、一年か?通すのはかなり無理があって、彼女は悩むのではないだろうか。(ただ、ちょっと気になるのは人物をあまりにないので、今までの彼女の作品が、写真を引き伸ばして丸写しにしてそれを切り絵にしてないかという懸念である。彼女の作品の中に著名な写真家が映した耳の大きな狐の写真をそのままリアルに切り絵にしていたことである。彼女がそのようなやり方でやっていたとしたら、彼女に未来はない。著作権に引っかかるのは勿論であるが、それより実力が付かないのである)

 だが、彼女にはいい試練であろう。これを通らないと彼女が今絶大な「人気」を誇っている、その通りの「実力」は身に付かない。

 技術的なことは私には気にならないが、知名度と人気は私より数倍上だろう、私にはいい目標が出来たと思っている。

 話はそれではない。前出した、筑紫さんの娘さんと福井利佐さんは年齢も美人度も同じようなもの。たとえは悪いが、ゴジラ対キングギドラである。筑紫さんの娘さんはその毛並みを利用して営業していないようである。これから二人はいいライバルになるだろう。


東京暮らし2(9月10日)

 

 東京暮らしをしている。昔、調布に住んでいたが都心というのははじめてである。飯田橋にある編集プロダクションでである。考えてみれば、27歳に常滑の雑貨屋・勝美商店の倉庫番として就職して以来、団体の中で何日も仕事をするのは初めてある。

 会社の中には、社長さんを含めて6人である。とても静かである。皆黙々として、夜遅くまで働いている。

 木久蔵さんの木久扇襲名披露も、この会社から行った。日比谷の出口で落語家のs・kさんに出くわした。彼は銀座・伊東屋の展覧会で私の即興切り絵を買っていただいた方だ。しかし、「いやまいっちゃったよ。あの絵買って、額を伊東屋の人が入れますかというんで入れたら、「・・・万円」だよ、まいっちゃったよと不満満面であった。神様が引き合わせたのだろう。申し訳なかったし、額がそんなに高かったとは。絵より額の方が数倍高いという事になる。私の責任ではないとはいえ、あとで何かの形でフォローしておこうと思う。

 木久蔵さんのパーティでは、同じ円テーブルの正面に浅香光代さんがいた。席をつくとまもなく、浅香さんの弟子の方が彼女の名刺を持ってやってきた。私も急いで名刺を出し、そしてテーブルの全員に名刺をお渡しした。左の3人の方は日本舞踊のお歴々であった。テレビにしょっちゅう出る方だと右隣の佐藤さんという美術家の方から聞いた。

 驚いた事に踊りの方の真ん中にいらっしゃった女性は私のカレンダーを持っているということで大変驚かれていた。私の知り合いが毎年お渡ししているようだ。奇遇である。

 浅香さんとは、ただ一人、見知りおきの人だけにご挨拶に行った。雰囲気が好きな人である。隣の弟子の方がたまたまいない時だったので、椅子に座ってと促されて、長時間お話した。

 私は次の日一緒に写った写真を送った。そして私の画集とカレンダーはその次の日送った。8日に私は浅香光代さんに誘われて、浅草で呑む事に発展している。楽しい出会いである。浅香さんとは、公私を通じて交流する事になりそうである。

 飯田橋の昼飯は、いっぱいお店があって恵まれている。しかし、会社で食べようと弁当を買って帰ったが、その弁当のプラスティックケースが大量のゴミになると知り、もう外食をする事にした。

 東京暮らしも、たくさんの人と出会い、楽しいものである。今日の切り絵教室後に、再び飯田橋に戻り東京暮らしである。


参議院選山梨選挙区 入倉 要氏(自民党)を応援しています。

  

彼は風林火山博の専務理事であり、私と共に風林火山博を盛り上げた方である。だから、私にとっても、同じ釜の飯を食った中という感じである。とても、エネルギッシュで、やさしい方である。私は政治的には、ノンポリであるが、是非、参議院選には彼に勝って頂きたい。


あちこち(6月12日)

 昨日は山梨に行った。目的は風林火山博に、作品を入れ替えに行くことであった。スペースの関係で、武田二十四将の半分が博に飾ってあり、後の半分は私が先の展覧会に使っていたのであった。

 そのついでにいろんなところに行ってきた。まず富士吉田に行き、Tシャツ等の展覧会で売れ残ったものをチーム百鬼丸に返しに行った。そして、市役所に行き、生涯学習の「自遊大学」の生徒に「印刷物のカットを注文してくれないか」というお願いに行った。

 私は自遊大学のこのたびボランティア講師になった。それで、生徒に自分で絵を描くエネルギーを持ってもらいたくて、印刷物のカットを注文してくれるように頼みに行ったのである。

 小さなチラシに、願文を書き各課に配った。私の試みが成功すれば、きっと生徒は「自分も絵が描けるんだ」と自信と喜びを勝ち得るだろうと思う。

 そのあと、例によって、吉田のうどんを食べた。「冷やしたぬき」の大盛りを食べた。今回は「源氏」に行った。ここは中学の同級生の姉さんがやっているうどん屋さんだ。極うま。

 そのあと甲府に向かい、今度参議院選に出馬する入倉要氏(自民党)の選挙事務所に向かった。彼は風林火山博の専務理事であり、私と共に風林火山博を盛り上げた方である。だから、私にとっても、同じ釜の飯を食った仲という感じである。とても、エネルギッシュで、やさしい方である。私は政治的には、ノンポリであるが、是非、参議院選には彼に勝って頂きたい。

 それはともかく、事務所に付いた時、約束の時間を20分ほど過ぎてしまったが、まさかテレビ局が来ていて、皆さんに私が来ること通知していたとは全く知らなかった。武田信玄を即興で事務所で切った。できばえは最高なものになった。いいものを贈れたと、ほっとしている。殺風景な事務所にはいいインテリアになるだろうと思う。

 そして、風林火山博の会場へ行った。同行の弟子Nと荷物を降ろし、時間があるのでS氏の展覧会に行った。彼の絵を見るのははじめてである。人物の良いのがあった。まだまだ、これから変化しそうな絵であった。

 飾ってあった絵を持って、埼玉に帰ったのは10時半であった。中身の濃い一日であった。


急遽呼ばれる(2007年5月27日)

  
  

 急遽呼ばれて、風林火山博視察の安倍総理とご一緒した。私の作品の説明をしている写真である。緊張した。私の後ろは、人が鮨詰めであることは言うまでもない。


大笑(12月18日)

 今日は今から富士吉田だ。武田の二十四将の切り絵を複製するために行ってくる。出来たら二日間で24作全部やってみたい。とにかくがんばるぞ。

 下の右写真は、作家の藤水名子氏のフラメンコの発表会の後の、記念写真だ。左はそのあとの軽く酒場で飲んだ記念写真。初対面方ばかりだったが、大いに笑った。藤氏にはそんな場を設けていただきありがたく思う。勿論、フラメンコも大変、あでやかで、私も勉強になった。フラメンコの会場は写真撮影禁止だったんで、画像に出来なかった。

  


京王(12月16日)

 昨夜は、三軒茶屋で私の仲間の糸操りの人形芝居の結城座の公演があり見に行った。12年も前になったんだが、「あのこ」という演目で、江戸以来の「写し絵」復活公演というのがあったがあった。いわば江戸時代の持ち運びが出来る幻灯機なのだ。

 その江戸時代以来の写し絵と糸操りの融合した芝居で、私は映し絵の原画を担当したのだ。50作ほど作ったと思う。公演は浅草本願寺の内部であった。私は50作作るために稽古場のある吉祥寺に缶詰になったのである。

 あれから12年もったのである。恐ろしい。先日学研から文庫本を頼まれたが、その作者は江宮隆之という作家で、山梨県在住で、私のとっても彼と組むのは2冊目であり、もう、意気投合した親友とでも行っていい。彼の小説の題材が結城座だったのである。彼は江戸時代初期から延々と続いている結城座に興味を持っていて、書いたということなのである。

 そのうちに彼を結うきざに紹介するつもりでいる。

 話は今日に移る。調布の教室を終え、大泉学園で個展をしている弟子の中西香織の展覧会に向かった京王線であった。向かい側に泊まっている客が、襟首をつかみ合いながらいがみ合っている。出てきたと思ったら、殴り合いになった。一人は60歳くらいの労務者っぽい人で、彼が30歳くらいの180センチくらいの若者に文句を行ったようだ。電車の壁の陰でわからなかったが、手を出したのはお年寄りのほうだったと若者か言っていたが、その後手を振り上げているのを見るのは若者のほうだった。

 どうもお年寄りのほうが多くなぐられていたようだ。お年寄りのほうが冷静さを取り戻したが、若者はまだたけんでいた。駅員に促されて、二人とも事務所に行った。

 それと同じ電車である。どこかの駅で、「子供が落ちた」という声が聞こえた。そあと誰かが走り、駅員が走り、緊急事態発生のベルが鳴り出した。ホームと電車の隙間に4歳くらいの子供が落ちたのである。そんな隙間がないように見える。でも落ちたのである。間もなく助け出された。おじいちゃんらしい人のひざの上で、女の子は泣いていた。このおじいちゃんの失態であろう。

 知られたら、子供夫婦に怒られるだろうなあと思った。でも、電車が走ったら、死んでいたかもしれない。よかったよかった。


笹沢佐保(12月11日)

 作家・笹沢佐保さんとのお付き合いは、上記の過去の挿し絵にある宮本武蔵から始まった。実は彼の遺作の挿し絵も私がしている。名誉なことだというのは、違うのだろうが、記録としてはそのようである。

 この宮本武蔵は、もともと加藤?したのお名前を忘れてしまったが、彼が始めの挿し絵を書かれていたが、早々に体調を崩され、次に大竹明輝さんが引き継いだが、笹沢さんが気に入らず、私に番が回ってきたのである。私はこの連載の5分の4の、足掛け5年くらいの連載だったと思う。挿絵画家としては大変描きやすい小説であった。

 笹沢さんの人物描写は、とても具体的で、後にも先にも、こんなに姿かたちの説明を書く方はいない。いつも人物像を描くのが楽しみであった。私を育てたのは笹沢さんだといっても良い。連載中には彼の住んでいた佐賀に行って、編集者・私と長崎の島原を、訪れたものだ。当然酒席もご一緒した。

 笹沢さんはいつも会うと、私には丁寧な言葉で、扱ってくれた。偶然お会いしても、私のことをお忘れになることはなかった。
 
 連載の晩年は、笹沢さんは癌と戦い、何度かの手術をした。連載も滞りがちであったが、何とか終了し、その後数年生きられた。癖のある人だったが、なかなか最近いないタイプの作家であった。
 
 近年、作家の森村誠一さんから私に、仕事の依頼があるが、森村さんは笹沢さんを一番に尊敬されていたことで、その笹沢さんと組んでいた私に対して憧れがあるのではないかと想像する。


画像(11月20日)

  

 
司牡丹新酒発表会にて

 司牡丹では、山本一力さんのサイン会があり、私がその本の表紙の絵をしたので隣で記念撮影と行きたいが、一力さんはサインで忙殺。上段中央の写真の右は講談社の福田氏、その隣は一力さんの奥さん、私、一力さん。

 下段は余興で行われた紙切り。林家正楽さん。近づいていって挨拶した。私を知っていた。それも私がサンデー毎日の表紙をしていた20年以上も前からだそうだ。それに、林家木久蔵さんのところで、木久蔵さんが買って行った私の作品(花魁シリーズの立体作品)を見たという。それに「切り絵界の第一人者」と思っているとおっしゃったことには、驚いた。


金沢(11月12日)

  

   

 飛行機同乗の「ザブン賞」スタッフは百鬼丸・原田維夫・蓬田やすひろ・小岸氏・筑紫哲也氏。金沢も雨だった。到着して、昼飯となった。場所は名前は忘れたが、金沢でも指折りの料亭に繰り込んだ。和風会席である。亭主で板前の方の料理の解説で、料理が次々と出てくる。蟹も出てきた。

 さて、ザブン賞の表彰は、金沢21世紀美術館で行われた。素晴らしい美術館である。
 表彰式では、筑紫さんのスピーチ・月尾さんのスピーチ、「地球はとてつもなく危ないんだ」という趣旨のお話をしていただいた。確かにその通りである。

 受賞家族との宴会に入る。酒は出ない。ノンアルコールビールが出てきたが、結構うまかった。受賞者家族と写真撮影。地元のイラストレーターとの歓談と楽しい時間を過ごした。

 そのザブン賞の文章と副賞が飾ってある展示会場がある。受賞者の文章を印刷した紙を収納するための、焼き物・鉄・漆器で出来ている小器は絶品だ。どこのデパートに出しても、いや素晴らしいそんなレベルではない。

 私も含めて、そんな逸品が皆ボランティアで成り立っている。素晴らしく厚みのある展覧会である。

 宴会での、閉めは私のスピーチであった。大いに笑ってもらって私の役目は終わった。


信玄博(7月29日)

 きみまろ氏とあった後、甲府のほうから作家の江宮隆之氏(http://books.yahoo.co.jp/search?p=%B9%BE%B5%DC&sid=2077471870)と来年の信玄博(しんげんはく)の総合プリデューサー・樋口氏が来た。
 私の作品を見学しにいらっしゃったが、絶賛をしていただいた。それで、信玄博への私の絵の参加等がこれから検討されるようだ。実現すると楽しいのだが。

 今日は山梨の展覧会に戻り、7日まで帰らないつもりであるが、疲れたらまた帰って、鋭気を養うようにしたい。

 写真は江宮隆之氏と。


きみまろ氏と会う(7月28日)

 富士吉田の道の駅で開催中の「百鬼丸・風林火山を切る展」ちょっとくたびれたので、わがままを言って帰ってきた。3日前に、綾小路きみまろさんの河口湖のある彼のレストラン・Aunnteiで会って食事をご馳走してもらった。

 私は彼には3年位前、新宿の路上で私の方から声を掛け、少し話をしたことがある。その時はまさか、彼の自宅が、私の実家の近くの河口湖町大石にあるとはしらなかった。

 幼馴染の菊池(旧姓)という女性がいるのだが、彼女の経営しているお店に、売れない前からきみまろさんが出入りして、仲良しだということを聞きつけ、彼女に連絡し、余りないことにようであるが彼が滞在中ということで会うことになったのだ。最初に出会った時きみまろさんに、似顔絵をかいてほしいと依頼があったのだが、ギャラの交渉が嫌だし、立ち話のことで、こちらからは連絡を取らなかったのである。

 今回は、彼のレストランで、それも彼の給仕で、ジンギスカンを食したのである。自慢の羊の肉は柔らかく、当たり前だがにおいもない。黒豚は故郷の何だっけ? 大分だったかな、そこの黒豚で、三越とここでしか扱っていないと、力説していらっしゃった。油の抵抗感もなくすっと腹におさまったのには驚いた。

 1時間半、例のきみまろ節もお聞きしながら、会話を楽しみ、あるいは一方的に多少の緊張をし、展覧会場に戻った。
 みやげに、次回のきみまろさんのCDアルバムのジャケットのイラストを担当することが決まったので、楽しみにしていただきたい。
 


酔っ払った(6月18日)

一昨日、病院に睡眠障害気味のため、いつも常備している睡眠誘導剤をもらいに行った。行きつけの病院だから、院長も薬をにもらった窓口の女性に、伝言でたまには検査しろといってきた。それで、昨日は血液と尿検査に行ってきた。血液を取られるのは毎回嫌な感覚があるので苦手である。しかし、今回は看護婦さんとの会話が弾み、意識しないで血を取られた。

そのあとは東洋大の建築のOB会が、川越キャンパスあり、余興に即興切り絵をしてくれということで行ってきた。お題を3つもらったが、伊達政宗にした。その注文をしたのは、初めてお会いしたテニス部の先輩河野さんだった。いつもOBにOB会報を送っているが顔を拝見したことはなかったのである。テニス部のOBに会うのは嬉しいことである。

つつがなく切り絵は終わり、皆で切り絵を囲んで写真を撮った。ちょっと若いOBがこないのは寂しいが、いつでも、どこでもOB会存続の危機というのはある。仕事なんかで結びついていけたら、長く続くのだと思うが。

2次会では地下鉄鳩ヶ谷駅の陶壁画で組んだことのある交建設計の桑野さん(担当は彼ではなかった)がいらっしゃった。あの陶壁画というのは、下請けの設計事務所の人が、私の過去に作った切り絵をアレンジして、まずはサンプルとして出してあとは、本番でいいものを私が作るという手はずを皆で話し合っていたのだった。しかし、新しく作った念入りなものを地下鉄の公団のほうが受け付けず、結局設計事務所の方のサンプルを手直ししたものを陶壁画として、飾られたのだった。私としては無念な作品なので、まだ一度もそこに見に行っていない。公団のせっかく良いものを作ったのに、全く受け付けないお役所仕事にもあきれ、ベテランの設計事務所の段取りもどうしたのだろうと思う。

陶壁製作会社も私も赤字の仕事だったが、せめていい作品でも残ればよかったが、それもなかった。

そんなことを桑野さんに愚痴った。


大貫さなえさんの作品(6月9日)

 以下は6月7日の日記の抜粋である。 

文章中に出てくる大貫さなえさんの作品である。

『次の日は、4時起床。行きつけのファミレス・ジョナサンに仕事をしに行く。実はその日は、ジョナサンのパートで働く大貫さんの娘・さなえさんと会う約束の日であった。彼女はイラストレーター志望であり、半月前に私が注文した絵を持ってきてくれることになっていた。

実は前に大貫さんに、娘さんの進路のことで、相談を受けていたのだ。そして、直接彼女とお話してくれないかということで会ったのだった。私は、美術学校に行くことは反対である。とにかく早くプロになることを勧めるつもりなのだ。何故かという事を身体で知って欲しいという意味で、いくばくかのお金を出して、「かっこいいギターリスト」を描いてきてほしいと依頼したのだ。

やはり、作品は初めての仕事ということで、必死で絵を描いたようで、それが伝わってくる。きっと、プロに早くなって欲しいという私の何故かが伝わったと思う。』


富士吉田の2日間(6月7日)

大貫さんと 本間さんと 

 何と私の誕生日である。55歳。山梨県富士吉田市下吉田1282番地で生まれた。

 6月5日、9時半に山梨日々新聞・YBSテレビの富士吉田支社に行く予定だったが、夜の12時起きて、ひと仕事して、寝てしまったら、5時にまた寝て、6時半に起きてしまって、遅刻してしまった。内容はまた後日お話しする。

 その後、チーム百鬼丸の会合。

 その後、私の弟子の本間さんが個展をしているCATVの会社のロビーに向かう。実は彼の展覧会で、花をライブで私がいけることになっていたのである。富士吉田に花屋さんで、花を物色して、何とか格好が付いたようだ。とても、楽しい。展覧会はとてもすごかった。迫力満点といって良いだろう。その数もすごい。そんだけの時間があることがうらやましい。展覧会はやっぱり、絵に力があると、こちらとしても楽に見られる。こちらが一生懸命、いいところを見つけなければならないという展覧会は、辛い。

 吉田のうどんや麺ズ・富士山で肉うどんを食べ、次は甲府に。

 富士屋ホテルの方と、展覧会の打ち合わせ。実現できるかどうかわからないが、お話を聞く。

 武田二十四将の絵が置いてある。串信玄にご挨拶。そして富士吉田の実家に帰る。

 次の日は、4時起床。行きつけのファミレス・ジョナサンに仕事をしに行く。実はその日は、ジョナサンのパートで働く大貫さんの娘・さなえさんと会う約束の日であった。彼女はイラストレーター志望であり、半月前に私が注文した絵を持ってきてくれることになっていた。

 実は前に大貫さんに、娘さんの進路のことで、相談を受けていたのだ。そして、直接彼女とお話してくれないかということで会ったのだった。私は、美術学校に行くことは反対である。とにかく早くプロになることを勧めるつもりなのだ。何故かという事を身体で知って欲しいという意味で、いくばくかのお金を出して、「かっこいいギターリスト」を書いてきてほしいと依頼したのだ。

 やはり、持ってきた作品は初めての仕事ということで、必死で絵を描いたようで、その必死さが伝わってくる。きっと、プロに早くなって欲しいという何故かが伝わったと思う。

 次は、市役所に9時半。吉田の火祭りのポスターについての話である。まだ、話を聞くという状態である。火祭りのポスターをすることになれば、全国にそのポスターは配られる。果たして。

 その後再び甲府に、2時に作家の江宮隆之氏に会うためだ。平和通りのデニーズで会った。いろんな私の展覧会にゲストで来て欲しいという話をするためにあったのである。実は彼の本が私のカバーの担当で二見書房から出版されるという奇縁なのである。6月に出る。いい小説だった。面白い。動きも早い。売れたら良いなあと思う作品だ。

 3歳上の彼は、もうすぐ勤務先の山梨日々新聞を退社して、文筆業一本でやっていくとのこと。また、県内での私の個展活動にも協力しましょうと、言っていただいた。フランクに話せて、今後お付き合いが続きそうである。一緒に写真をとろうと思ったのであるが、またまた忘れてしまった。

 その後、串信玄に武田二十四将の絵を引き取りに行き、富士吉田に戻った。絵をチームのミッドフィルダーの堀内氏の家に絵をおろし、そのまま埼玉に戻ったのである。帰りの中央高速はどしゃ降りであった。


富士山製作に行ってくる(4月19日)

 さて、今日明日と富士吉田市の展覧会に行ってくる。銀行での富士山の製作は2日で3作のつもりだ。でないと予定の作品すうが出来ない。

 何をしようか悩む。今回は何か資料を見ながらやってみてようと思う。
 
 昨日の北方氏の司馬遼賞は、内輪のパーティと思っていたら、雰囲気はかなり大きなことになっていた。宍戸ジョー氏も来たり、なべさだ氏が来たり、それから友人作家のスピーチは楽しいものだが、さすが文章に関わっている人ばかりで、すらすら言葉が出てくる。

 私は作家とは宮部みゆき氏と、森村誠一氏と、夢枕獏氏とお話した。

 

左の写真。左から、北方謙三氏、宍戸ジョー氏、なべさだ氏  右の写真、宮部みゆき氏と私


吉川英治文学新人賞(4月12日)

  

 昨日は吉川英治文学賞の表彰式があった。あまりお付き合いはしないが、仲のいい今野敏さんが新人賞を捕った。今日は私も6時に富士吉田に展覧会で出発なので、長い日記がかけない。アトリエに帰るのは15日になる。

 左から、作家の藤水名子氏・北方謙三氏・受賞者の今野敏氏


黒髪が戻って(3月22日)

昨日は、文藝春秋から、「漂民ダンキッチの生涯」というタイトルの本(私がカバー画を担当・神坂氏とは3回目の面会である)が出版されたということで、その報告を、ダンキッチ(伝吉)の墓に詣でて挨拶をしたいとのことで、作者の神坂次郎さん(「お畳み奉行日記」の著者として有名)と私と編集者お二人で、南麻布の光林寺に行った。

 そこにたどり着く前、私はそれに間に合うように、鶴ヶ島の外での用事を済ましている最中だったが、美術評論家のヨシダヨシエ氏から携帯に電話があった。家に泥棒が入って、財布を盗まれたというのである。で、お金がないから貸してくれとのことだった。カードも全部持ってかれたらしい。といっても、銀行にお金はないのかもしれないが。

 ヨシダヨシエ氏は最近はトレードマークの着物が脳梗塞のため着られないのか、洋装であった。ということで、お金を寒中見舞いということで、いくばくかを寄付、そして、見つかったと連絡があった財布をもらいに飯田橋の遺失物センターに行ってくれということになった。飯田橋で、用事を終え、私は神坂さんとの会食があるので、食事はご一緒できなかったが、ヨシダ氏と蕎麦屋に入り、支払いを済ませて、立ち去ったのである。

 脳梗塞にしては杖も突かないのだが、歩みは遅いし、疲労がすぐ来るという。「俺は、いくら精神が頑強とはいえ、病気には勝てない」と悔しがっていた。

 電動式自転車も2台会ったが盗まれたという。また頼ってこられたら、お手伝いするつもりでいる。

 ということで、40分ほど遅刻して、新橋第一ホテルに着いた。さっそくそこから、光林寺に向かった。光林寺ではテレビ和歌山と朝日新聞和歌山の記者の方が待ち構えていた。お墓は、英文字が彫られたものだった。英文字のほかの墓もう一つあったが、それが有名なヒュースケンだった。こちらも何回も絵にしている人である。

 神坂氏は、カメラの前で、墓掃除をし、和歌山から持参したみかんと和歌山県に地酒らしきお酒を二本供え、水を墓石にあげて、拝んだ。後から、肝心の本をお墓に備える場面を、忘れ、それは取材人が去った後思い出して、残念がっていらっしゃった。我々も、同じようにお墓を拝んだ。

 20年前に来寺したときには、寺の隣にはマンションはなく、景色が変わっているという。境内には、大きな桜があり、まもなく開花とういう大きさにつぼみが膨らんでいた。咲いたら、とんでもなくきれいだろう。

 神坂さんと墓の前で写真を撮った。また変わった形のヒュースケンの墓の横に立って、写真を撮ってもらった。写真をいただいたら、HPにアップするつもりである。

 そのあとは、銀座に行って、会食した。もともと、本を読むのが大好きな人なようで、常に本を読んでいるという。知識がものすごい。仕事は徹夜でやるが、やらなければならない原稿は全然進まず、もっぱら、本読みとか雑事とかをしながら徹夜の時間を過ごしてしまうというのである。

 散歩して、真っ直ぐ歩けなくなったら、「こりゃ駄目だ。寝よう」ということになるのだとおっしゃる。

 お店を出たのは、7時頃であった。次の約束の野田亜人氏の約束の時間を1時間オーバーしたが、その予想を前もって電話をしておいたから問題はなかった。

 中野富士見町で下車して、彼のところに向かう。実は彼が私の髪の毛が、以前より白くなっているから、「ヘナ」という天然染料で染めてやるということなのである。ということで、彼は私より3歳くらい上のはずであるが髪は真っ黒であったが、このヘナを使っているという。

 ヘナの扱いを教授しながら、1時間くらいで、髪全体に塗りたくるのが終わった。その間、しゃべり通しにしゃべりっていた。とてもおしゃべりな人なのである。横では同居人の黒人の、チリさんが即席ラーメンに鶏肉を入れて食べていた。彼は野田さんがアメリカから帰国時につれて帰った友達だ。

 つつがなく、時間が経過。風呂場で、頭を洗って、シャンプーまでしてもらったとても楽しい時間を過ごさせてもらった。

 家に帰ったのは11時だった。

 てんこ盛りの一日だった。


道中日記(3月12日)

 

野田教室と私と野田亜人氏

久々の東京行きである。旅気分を味わおうと、日本酒なんか買って駅までの道をちびりちびりと。まだ昼の2時である。

 電車に乗った。東武東上線池袋行きである。川越を過ぎたあたりで、座席を確保でき、いつしか暖かさに眠り始めた。起きた。だいぶ眠ったと思った。

 しかし、次の駅のまだ藤み野駅だった。

 なんとお恥ずかしい話だが、池袋からの下りの電車だったのであった。初体験だった。夜でもないことであった。

 ということで、野田亜人氏の教室にはだいぶ遅刻して行くことになった。野田氏の教室の生徒の年齢が私の生徒と明らかに違った。ほとんど20歳前後から30歳代くらいなのだ。ちなみに私のところは50歳くらいが平均だろうか。

 「突如乱入」なんて言っていたが、とんでもなかった。「およびでない」であった。みんな、今日の課題をこなすのに必死の形相なのである。百鬼丸どころではなかったのである。

 野田氏の教室の特徴は、野田氏が、その日にやるペーパークラフトの作るものをあらかじめ用意しておくのである。だから、いっせいに寸法も形も同じものを皆で作るのである。時間も2時から初めて4時間くらいの教室である。

 その中で、生徒が作成したペーパークラフトに装飾するという工程が最後に残っているのだ。この作業は、私には一番生徒には大変に思えた。動物とか植物とか、ちょっとした造形をくっつけていく訳だが、これは鋏できってはいるが、完全に私の切り絵の分野といっていい。

 私が現れたのは、まさにその最後の時間だったのである。13人の生徒たちの作品を見て回って、感想を言ったりして時間を過ごした。ただただ、皆必死だった。この息づかいは私の教室の生徒と同じだった。

 そして最後に、私の切り絵を10分くらい披露した。A5くらいの白い紙に忍者を切って見せた。野田氏に促されたから全員見たのだろう。本当は皆そんな余裕なかった思う。だが、私の切り絵の作業は結局勉強にはなったと思う。見といてそんはないはずだ。

 それからまもなく、教室を後にした。

 今度は予定の読み語りの、芝居?に向かった。場所は千川である。有楽町線であるから、なじみである。池袋に着いた。それからがまずい、なじみだからと私の電車・東武東上線の普通に乗ってしまったのである。まあよかったことは気がついて、池袋の隣の北池袋で降りたこと。だが、上がりがなかなかこなくて遅刻の時刻になってしまった。

 池袋に戻り、有楽町線のホームで、下りの電車が来たのは7:01分だった。この時点で芝居は始まっていたのである。

 さすがに私が最後の客で、暗がりの中、演じる語りの方の前を失礼ながら横切る形となった。前々から下調べをしていないから何の演目かわからない。まだあったことのない人からの案内できたのだが、演じているのはその女性だった。

 初めて見るが美人である。存在感がある。途中で入ったもんだから、ストーリーがつかめないのと、顔に見とれるはで場違いな心持であった。それに「携帯電話はOFFに」というわれて、探したが携帯電話が入り口で見つからなかったのだ。野田氏のところにおいてきたのだろうか。それもめちゃめちゃ気になった。それで、もうなくしたと確信したのだった。

 あの携帯をなくすと、えらいこちゃ。アドレス・電話番号、それに皆から重要な連絡が入る。生活がしばらく不便になるなあなんて考えたのである。

 読み聞かせといっても、一人芝居的な要素もかなり入っていた。映画の吹き替えの俳優をお仕事にしていらっしゃる方のようで、私たちが日ごろテレビを見ていると声で出てくる方々だ。

 3人の出演者の顔の印象が残った。内容については長くなるからやめておくが、私はどうも、人の顔に見とれる癖がある。一般的な芝居を見ていてもそうだ。

 そして、携帯電話を探したが見つからず、野田さんのところの中野富士見町に戻った。それでも、もしかしてと彼のいるビルの隣のコンビニに電話があったので、私の携帯に電話してみた。

 バイブが作動したのである。「えっ」。もうなくしたという気持ちが心を占めていたから、芝居を見てすぐ電話をしなかったのだが。

 ポケットのジャケットの下のチョッキのポケットにあった。手を何回も入れたはずだが、意外にポケットが深かったので、一番奥にあったのだ。

 時間の無駄遣いをした一日だった。


突如出現(3月11日)

 今日は東京に出る。ちょっと芝居見物みたいなのなんだが、その前に野田亜人氏の今日あるペーパークラフト教室の授業中に、私が現れる手はずになっている。彼の生徒たちにも、私のファンが多いのだそうで、それでびっくりさせようというわけだ。

 野田さんとのつながりはもう7年くらいになるだろう。彼は、ペーパークラフトのクリエータとして大活躍し、一世を風靡した人だ。40歳以上の、デザイン関係の仕事をしている人なら誰でも知っている人だ。それに、それ以下の人だったら、12チャンネルの「テレビチャンピオン」での「ペーパークラフトグランチャンピオン」として、知られているのかもしれない。

 私がニューヨークのギャラリーに、売り込みに行こうと決心し、その紹介を頼んだのがきっかけで知り合ったのだ。彼と面識もなかったが、私も知っている人がいなかったからしかたない。それで、電話したのであった。

 彼と会ったとき、私の絵はニューヨークでは受け入れられないというものだった。もっと新しいものをしないといわれたのである。それは絵の内容のことであったが、私に絵の内容をすぐ換えろといわれても、とても雲をつかむようでだったのである。

 そこで、彼に言われなかったのだが、今までの切り絵の技術を使って、立体の切り絵を出来ないかと思いついたのだあった。私が立体の切り絵を始めたのは野田さんがきっかけだったのである。

 そんなつながりから、中途で、週刊文春の宮部みゆきさんの挿絵の連載時に、私が挿絵を立体ですると決心したのを反対されて、ひどいことを言われたので、交友は途絶えることになったのだが、連載が終了した2年後のまた交流を始めたのである。

 ちなみに宮部さんの連載は立体でやったが、本当によくやったと自分をほめてやりほどの名作が続出した。今まで一番の連載は?と問われたら、いの一番で「ゼプツェン」と答えるようになっている。

 ニューヨークには、そのとき行かなかったが、野田さんのニューヨークでは受け入れられないというのは、極端な言い方だと思っている。確かにニューヨークのギャラリーは、現代アートばかりだった。しかし、ニューヨーク在住の日本人画家の方に聞いたら、そんなことはないという答えが返ってきて、私の絵はそのままでいいのではないかと言ってくれた。

 いろいろあるんだと思う。


直木賞出席(2月19日)

  
私・北方謙三氏・エルのママ・大沢在昌氏・私・宮部みゆき氏

昨日は、北原亜以子氏が主宰する時代小説研究会の講義が新潮社であるのと直木賞のパーティがあるため東京に出かけた。2つのイベントともとても久しぶりだ。

 その前に出来上がった作品を中央公論編集者の藤平氏に渡すため、飯田橋のドトールコーヒーで待ち合わせた。藤平氏も満足した模様。

 1時間送れて時代小説研究会へ、浮世絵の中にある風俗を絵解きしていこうということである。江戸時代というのは優雅でもあり、過酷でもあるのだろうが、その匙加減がわからない。そのあと飲み会があった。
会では、仲間の草鞋之会の原田維夫・蓬田やすひろ各氏が来ていた。久しぶりである。

 蓬田さんは、かなりまじめな人で、過激なことを言うがかなり後々くよくよ悩むらしい。話している限りはそうは見えない。いつもそうだが、3人であって話をすると笑いどうしである。

 それから、直木賞のパーティへ。

 会場は東京會舘。久しぶりだったが、お世話になった編集者が、なんだか歳を取った感じ。それに一線から退いた人もいうる。

 今回はしばらく会場を眺めていた。

 皆年下が、編集長になっている。私も歳を取ったもんだ。

 北方氏と遭遇、写真をぱちり、意外にシャイな人なんだけど、やることは大胆である。彼の周りには銀座のホステスがいつも群がっている。華やかな人だ。

 渡辺淳一さん、知り合いではないが何か歳を取った感じ。

 津本陽さんとは長い間挿絵の仕事をしたが、完全にご老体となっていた。

 宮部みゆきさんとも遭遇。写真をパチリ。

 宮部さんには私が作った干支の飾り物を毎年送っているが、今年は中断しているがいずれ送ることにしている。

 それから、会場を出て、草鞋之会の面々と銀座の巷へ、へべれけになって、帰宅。AM1時であった。


2004年2月9日の手塚治虫17回忌の集まりにて

 その日は教室の熱烈な手塚治虫先生のファンである、筒井美香子氏をマネージャーと称して連れて行った。

 会場は、出版社のパーティより、ご年配の方々が多かった。往年のベストセラー作家の漫画家がずらっとそろっている。我孫子さん、斉藤たかお・水島しんじ・後忘れちゃったなあ。手塚プロの清水さんと話しをした。久しぶりだよ。

 それから手塚眞君久々に話しをした。切り絵のアニメーションをしたいと伝えた。治虫さんの奥さんとも話をした。

 もう少し手塚プロに顔を出そうと思った。

 
写真は左から大林信彦氏(そこで知り合う)・大好きな林家木久蔵師匠・そして私

百鬼丸の画集を持って、大林監督に宣伝してくれている木久蔵師匠。木久蔵師匠は絵は私の切り絵を2点買って持っているのだ。

手塚眞氏(治虫さんの息子さん)と話す百鬼丸

木久蔵さんからの手紙

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