日記


片付(9月12日)

 片づけが苦手である。アトリエにいるとついボーっと過ごしてしまうことが多い。それで、私はカウンターを使って、一日にいくつ片づけをするか設定して、その数だけ片づけをする。これがなかなかはかがいくのだ。そのうちに設定以上の量をするようになったりする。

 ところが、そのカウンターが近頃見つからない。確か展覧会にもって行ったような気がする。それで、もう一つ買ってもいいと思ってバイクで、カウンターを買ったと思うカインズホームを通ったので、よって買おうとしたら、私が買ったものより高かった。どこで買ったのか忘れてしまった。それで、私のアトリエから、30メートルくらいにある100円均一のダイソウに行ってみた。あった。2つ買った。


麺屋信玄(9月11日)

 昨日は、私のファンである麺屋信玄というラーメン屋さんのご家族と2時間半ほどお話をした。お店でである。このお店は鶴ヶ島の、かなり西側にある、新興住宅地の中にある。開店したばかりだ。

 ご夫婦は、私よりちょっと上だが、ほぼ同年代。息子さんが、料理を作りお母さんが、お店のほうをしているという感じで、旦那さんはお勤めをしているとのこと。麺屋信玄と名前をつけたのは、麺屋武蔵を意識してつけられたというから、かなり気合が入っているのがわかる。

 私も、2回ほど食べたことがあるが、初めてのときはさっぱりとしたしょうゆラーメンを食べた。やっぱりさっぱりとして、出汁が効いて、麺もかなりのハイレベルであった。私はダイエットをしているので、なかなかカロリーのあるラーメンは食べられないのであるが、体重が落ちたら、もちょっとカロリーのあるものも食べてみたい。

 このお店の旦那さんの佐藤さんは、私のファンのようだ。この間の土金での即興ライブにも、また富士吉田の駅ビルの展覧会もいらっしゃったという。鶴ヶ島の出身だが、多分私のファンとしては鶴ヶ島一番のファンだと思う。私が住む鶴ヶ島はなかなかファンが出来ない。よく地元が一番遅れるという話を聞くが、それだろう。

 麺屋信玄をお調べになりたい方は、タイトルの「麺屋信玄」をクリックしてください。


三位(9月10日)

 いや、いいドローにも恵まれ、準決勝まで行った。私のテニススタイルは、アガシなんかのようなぐりぐりのドライブタイプ。55歳代というとそういう選手はいない。一般的には、地面についたあとは、球がはねるわけだから、打ちづらい人が多い。しかし、大会に出てくる人は大体が高いボールが好きな人が出てくる。

 たとえば、バックのスライスが得意な人は私のボールは好きなのである。こちらはといえばそのような地を這うようなボールは引っ張り上げなければいけないので、嫌いということになる。

 一回戦は返していれば、勝てそうな相手で6-0であった。2回戦は、今年の大会がシングルス初挑戦だということだし、一回戦が相手が来なかったということで緒戦の緊張もあるだろう。球質は地を這うようで、とても嫌だったが、何とか6-2で勝った。
 3回戦は唯一の、同系相手、球がドライブで弾んでくる。とても打ちやすい球だ。だから、それまでのが嘘のようにばかすか打ち込んだ。しかし、相手は3ゲーム目で足をつってリタイア。

 4回戦は昨年0-6で負けた相手、とてもうまい。テクニシャンだ。今回は0-3で負けていたが、やること何にもなくなったんでサービス&ボレーに切り替えたら、3ゲームとって、3-6で負けた。3ゲーム分実力をつめられたと思う。

 さて、今日は山梨へ行く予定だったが、取りやめた。仕事をする。


試合(9月9日)

今日はテニスの試合だ。普段やっていないシングルスだ。シングルスというのは難しい。今年の春は二回戦で負けたが、二回戦の相手は、私がいい球を打っても、よくもまあ追いついていいボールを返球してきた。サービス&ボレーでネットに出ても、パスしてきた。完敗だった。55歳以上の試合だが、一回戦負けを覚悟している。

 テニスの試合はTシャツは禁止である。ポロシャツでなければいけないのであるが、例外で、あるメーカーのマークがあるTシャツならOKなのである。きっとテニス協会に、メーカーからお金が流れているのだろう。いい加減な決まりだと思う。確かナイキとかヨネックスとか、ミズノとかだ。


看板(9月8日)

  

 私のアトリエの看板がビルの入り口にある。実はお粗末な文字で私が、カッティングシートを切っただけのものだったのであるが、先日の「ぶらり途中下車の旅」の出演の依頼を機に、今度はちゃんとレタリングもして、イラストも付けて作り直してみた。

 出演は駄目になったが、看板はいいものが出来て、それだけでもよかったと思っている。写真をアップしたいが、今カメラを充電中なので、遅れてアップすることにする。

 それを見て、下の読売新聞の販売店の社長が、私の店の看板もやってほしいというので、ただでやってやることにした。実は普段アトリエのゴミを読売新聞の業務用のゴミと一緒に捨ててもらっているという恩がるのだ。


作品公開製作(9月7日)

 私の作品の、下絵から完成までの過程を公開で製作したいと思いついた。毎日デジカメで撮影しなければならない。果たして長続きするかどうか。でも、面白そうだ。

 今は、風林火山博覧会用の山本勘助・由布姫・武田信玄を製作中。難しいのは山本勘助が、すでに53歳くらいの年齢で、武田信玄は青年なのである。武田信玄が青年だとすると、一般的な信玄の貫禄のある晩年の僧形の甲冑姿が定着しているのでどうしたものかと悩む。青年期だとすると、まだ得度(とくど・・・僧になること)してないのだろうし、あの独特の、白いふさふさの毛のある兜もかぶっていないのではないか。

 さて、私のアトリエはビルの3階にある。もう入って4年くらいになるのだろうか。その頃はこのビルには私以外テナント入っていなかった。3年前に一階に読売新聞の販売店、もう少しで二階に警備会社と読売新聞販売店が倉庫で借りるのだそうだ。


常滑次の日4(9月6日)

昨日に続く)それから、歩いた。常滑の28年前は、人がもっと歩いていた。焼き物の町だけあって、ちょっと路地に入ると、焼き物を干していたりした。それに、当時でも驚いたのだが、三輪自動車が、まだ走っていたのである。三輪自動車というのを知らない人が多いと思うけど。昔は、オートバイに二つの後輪と荷台をつけた、つまり三輪自動車なのだが、走っていた。だが、その頃には走っていないはずだった。だがここでは、三輪オートバイが、焼き物の土を運んでいたのである。

 また、藤で編んだ乳母車を引いている老人たちが、歩いていた。藤で編んだ乳母車というものを見たことがなかった。普通はもうビニールのホロのはずであった。何でも、その人が生まれると藤の乳母車を買い、その人が老婆になると荷物を入れたりして、その乳母車を引いて歩くのだそうだ。一生物なのである。

 味噌汁は赤だしである。常滑に来た理由は、急須などのような細工が細かい焼き物があったこと、それに海があることだった。意外に海がある焼き物の本場というのは少ないのである。海なし県で生まれた私にとっては海は憧れの対象であった。常滑では当然泳いだし、つりも経験した。

 海に流れ込む川を見ると、小さなぼらが一杯泳いでいる。これも、私の郷里の富士吉田にはない光景だった。小川に魚がいる光景を見たことがないのだ。最も富士吉田でも繁華街であるから、そうなのだろう。が、富士山のふもとで、小川でも急流なのである。

 私が、陶芸家のところを出て、9ヶ月勤めた勝美商店に着いた。平日で、営業をしているはずだが、その様子がない。表はメナードのエステのお店であった。その店に入っていった。若いハンサムな男性がいた。それが、平野和夫さんの息子さんであることはすぐわかった。私が勤めていたころは、1歳くらいだった。彼に、御祖父さんにあたる大竹勝さんがご在宅か聞いてみた。裏に回ると、大竹さんが丹精している盆栽が、元気よく育っていた。大竹さんの壮健が見える。私はこの勝美商店で、倉庫番をしていたのだ。トラックで運ばれてくる、洗剤やちり紙という雑貨を所定の場所に運ぶ役だった。

 大竹さんは、寝ながらテレビを見ていた。起きた大竹さんは、まだぼけもしない昔の大竹社長であった。85歳だという。耳もしっかり、姿も太りもしていない。目の光も衰えていない。まだ現役で働いているという。昔のように知多半島じゅうを相手に雑貨問屋をしているのではないという。決まった大手のお店に商品をいれて、とても効率よくやっているとのこと。あとは娘婿の平野和夫さんがしっかりやっているのだろう。息子さんもしっかりしていそうだ。

 伊勢湾台風の頃の話し、勝美商店を起こした頃の話を聞かせてもらった。ここにつとめた頃は朝食は、このお宅でご馳走になって出勤した。私の昔のことを社長はよくおぼえていた。私にとって、この勤めが、生涯で一番長いサラリーマン生活であったのだ。

 勝美商店を1時間ほどで去り、外山(旧姓佐藤氏)氏が展覧会から帰るので、途中で私を車で拾っていくとのこと。国道を歩いて拾ってもらい。再び大善院へ。そのあと、柴田さんという方が駅ビルで、木彫の家具・食器をしているということで行った。どちらの柴田さんかわからなかったが、一度常滑時代に会ったことのある陶芸作家の柴田兄弟の兄さんのほうのお嫁さんとその木彫をしている息子さんだった。柴田氏の弟さんの急須が、その頃一番好きだったのである。年齢は、同じくらいだったので、弟子に入るようなことはしなかったのであるが。

 その展覧会場には、小田原さんが来た。私に常滑にいた頃ろくろを教えてくれたり、飯を食わしてくれたりした人である。私の切り絵もかなり持っている。優しい人である。背は高くぬボーっとしている。瀬古選手に顔も似てるし、マラソンも早いらしい。どこかの代表だったとか。彼と常滑でも有名なうどんを食べた。変わったうどんだった。彼は、焼き物と他の仕事のを兼業しているということだが、田んぼをやっている。その面白話を聞いた。いちど、水を引いている池から、田んぼに水を引くのに、太いうなぎが流れてきたとか。それを家族で食べたということだ。怖いくらいに太くて、捕まえるのに苦労したそうだ。

 そして、常滑駅まで送ってもらい、そのまま新幹線を経由して埼玉に帰ってきた。また何年か先に常滑に行くことになるだろうが、常滑の皆は、まだ常滑に私が住んでいて、帰ってきただけという感覚らしい。確かに私もそうなのかもしれない。


常滑次の日3(9月5日)

 (昨日に続く)
 中部国際空港セントレアを出たのは7時半頃だったと思う。セントレアでは井上靖の「風林火山」という小説を買った。来年の「風林火山博覧会」のイラストを担当するとあらば、一読しておかねばならないからだ。

 どうしようかと思った。明日は、埼玉の教室と川越での切り絵ライブがあるから、今日中に帰らなければならないが、昼ごろでいいだろうと思っていた。挨拶しなければならない人はまだいる。じゃあ、そこまで歩いてみようと思って、常滑駅に戻り、歩き始めた。

 その道のりは、思い出の場所をたどりながら歩こうと思った。旧猪飼護(陶芸作家)氏邸をとおり、鵬志堂勇(今初めて彼のHPを見たが大変な売れっ子である)氏が、お好み焼き屋をしていた場所を通ったつもりだったが、違う道だったようだ。

 鵬志堂勇氏の本名は、久野勇である。年齢はわからないが、6歳くらい上なのではないだろうか。私が、常滑に最初に会ったときは、お好み焼きをしているお兄さんという印象だった。彼を引き合わせたのは佐藤健二氏だった。その久野氏は、閉店で余ったうどん粉で、お好み焼きを焼き、佐藤氏に毎日あげていたのであった。いわばその日暮らしの佐藤氏のパトロンであった。

 しかし、ある日その鵬志堂氏の自宅に行って彼の正体といえば大げさだが、わかった。彼は陶芸家を目指して独学で修行をしていたのであった。鵬志堂氏は、お好み焼き屋さんをしている時もそうだが、とてもナイーブな見た目にも優しい人だったが、どこか自信無げな雰囲気を漂わせていた。自分が、どうしょうもなく駄目な、情けない人間だというようなことを言っていたのであった。

 彼は、焼き物について悩んでいた。ろくろを回してきれいな端正なものを作るのが嫌だという。本当に作りっぱなしの作為のない、気取りのない焼き物を作りたいらしいのである。確かにその段階で見た私にも、商品になりそうもない、芋のような焼き物がごろごろしていた。しかし、後年彼がこだわったことが、花開くのである。彼のその優しいまなざしや、独特のキャラクターと素朴な焼き物の姿が、好評となり、今では爆発的な人気陶芸家となっているのである。

 ということで、鵬志堂氏が経営していたお好み焼きやの前ではない道を歩き、現猪飼護邸に向かった。家を忘れたから、ある家に入って聞いてみようと思って玄関に行ったら、猪飼氏の家だったのである。だが留守だ。それで、周りにあった焼き物をやっている雰囲気の工房を見てみようと裏に行ったら、工事中の家の中で猪飼氏が作業をしていた。裏に回らなければ会わなかったのである。すごい偶然が重なった。

 猪飼氏はちょっと頭が後退していた。昔はロングヘアーであった。陶芸家事典で彼のことは常滑に来る前から知っていた。初めてあったときは、ハンサムでかっこいいからスターが来たと思ったものだ。15分ほど話して、彼のところを去った。元気そうであった。工事中の家は、ショップにしようか何にしようか迷っているという。

 猪飼氏に会うまでの偶然を佐藤氏に話したら「渡辺君らしい、そういう偶然が付いてまわるんだよね」と笑っていた。


常滑の次の日2(9月4日)

 (昨日に続く)
 「俺は、攻撃的な人間だ」と自分を磊落な人間風にその陶芸家は見せる。何のことはない、弱い人間に対して、攻めるだけで、負けそうな人間にはへつらうだけなのであった。

 ある時、名古屋で、暗黒舞踊の公演があるということで、私を連れて行った。私は何の講演かわからなかった。見せてもらった。暗い中に裸の男女が、お化けのようにのそっと踊っている。変わっているが、お化け屋敷だ。この方たちのことは知っていた。

 そのあとその陶芸作家が聞くのであった。「どう思う」と「私は気持ち悪いし、好きじゃありません」といった。次に返ってきた言葉が、「サラリーマンになれ」ということだった。私は泣いた。涙がぽろぽろ流れてきた。私は彼のところで懸命に働いている。寝食は頂いているが、金品をもらっているわけではない。他に彼は私に何が不足だというんだろう。余計なお世話なのである。私の行く末に言及するのは。

 だが、彼が私が泣いたことに対する感想が、「明日から一生懸命やるんだ」であった。まるでわかっていない。

 こんなこともあった。私はお金がないから床屋にいけないのである。坊主頭の陶芸作家は、いつも、奥さんにバリカンで刈ってもらったのである。それで、頭を刈ってくれと陶芸家に伝えた。そして、刈るために私の背後に立ったとき、意外な言葉を口走った。「お前は明日から変わるんだぞ」だった。私はまたこの人勘違いしているとちょっと困った。次の日、いつものような私であることに変わりなかった。その後は自分で、坊主頭を刈った。

 寂しいから、人の中にはいろうとするそうすると自己を顕示しようと、今度は言葉が過激になる。今回の旅行でも彼の話題が出たが、酔っ払って公で仲間が対談している場に酔っ払って乱入するのだそうだ。

 大卒の私に「大卒は嫌いだよ」と私に言った。私が彼に魅力を感じていないとか嫌っているとかがわかるんだろうね。ちやほやして欲しかったんだと思う。私は、一人の成年男子が日がな一日労働する価値というものは、すごいものだと思っていたから、毎日一生懸命働いていれば感謝されこそすれ、嫌われるはずはないのであると思っていた。人間仕事が出来ても、今度はそれ以上のことを人に望むのだろうと思う。余計なことである。

 ということで、友達のつてで、市内の雑貨問屋「勝美商店」に就職することが決まったのである。

 それで、陶芸の穴窯のある山の中にある私の宿舎、といっても屋根だけしかなく壁もない蚊帳をつって寝袋でねていたところを出たのである。思えばそんな人里はなれたところに住んだのはいい思い出だったのかもしれない。夜は焼き物が風でぶつかり合う音がする不気味なところだった。


常滑次の日1(9月3日)

 大野や旅館を出たのは朝6時であった。布団の中で、昨日佐山氏から、作ってもらったお結び一つをほうばり、朝飯とした。昨日、外山氏から行ってみたらと言われた中部国際空港セントレアにいってみることにした。常滑から、空港まで二駅である。そういえば昔の名鉄常滑線の客の風情と電車の中の客は違う。旅行客風であり、小じゃれているのである。電車もやけにスピードアップしている。

 このセントレアは、開港時人が集まりすぎて、混乱したと聞いたが、それは地元の人間が押しかけるという予想に反した行動があったからだと聞く。確かにまとめて集めている、いろんな店の種類が多くて、一種のデパートのような感じになっている。地元にはなかなかないものだろう。ちょっとお茶を飲みに、食べに、買い物にとなったら、押しかけてもおかしくない。デートにもぴったりかもしれない。

 その後、歩いて、常滑のメインストリートを歩いた。メインストリートといっても、人影はなく、もともと少なかったお店も閉じられているのが多かった。昔は、焼き物の店がまだあったものだ。天気はとてもよかった。常滑に初めてついた日を思い出す。

 私は焼き物をしようと常滑に来る前に、陶芸家事典というのを買って、常滑の陶芸作家をした知れらべしてきたのだ。人づてはないかった。一番の目標は、ある急須作家の弟子になることだった。常滑について、弟子になりたいの趣旨を伝え、家に来てくれということで行った。その作家氏はお金は払えないから、どこかで働いて生活してくれということだったが、近くのボーリング場に知り合いがあるから、あそこで働いたら? 私が手配しておくからということで、とんとんとボーリング場に行って、そこの支配人の加藤氏に会うことになった。そこで、すぐ就職が決まったのである。

 その後、準備をしに東京に帰り、再び常滑に来るのであるが、その前に、宿泊先である大学のテニス部の後輩増田のアパートから作家氏に電話をした。そしたら奥さんが出たのである。「弟子はうちで入りません」という無碍もない言葉が返ってきた。

 その後しばらくして、作家氏に電話し、彼が出ると、来てくれという。そして、常滑について電話すると今度は奥さんが出て、「いらない」という。とにかく、コミュニケーションが取れていない方々だった。きっと奥さんは私が、ボーリング場で働くことを知らなかったんだと思う。

 ということで、あきらめて、ボーリング場の加藤氏のところに、就職の断りを言いに行った。そ湖で、加藤氏が、商工会議所所に行ってごらんと勧めたのであった。それで、私は市役所にある商工会議所に行った。相手をしてくれたのは村田さんという方だった。かれから、ある陶芸家をおしえてもらった。「来るものは拒まず」という人だという。そして、その人と会ってそこに厄介になったのであった。
 
 だが、そこで、寝食の場を与えれてたのだが、何をしていいかわからなかった。それというのも、その陶芸家は、展覧会が終わった直後で、仕事をする気がうせていたのであった。それほどハードな作業を潜り抜けてきたあとだったのである。それで、その時に、風呂場を裏の空き地に作りたいんで、佐藤君という人が来るので、彼の手伝いをしてくれとのことだった。

 私と佐藤健二氏の出会いであった。私と彼は毎日風呂場つくりをした。どこで覚えたのか佐藤氏は、建物を作っていくのであった。ちゃんとそういう修行をしたわけではないだろう。とにかくたくましい人なのだ。私にとっては、大学を建築で卒業して、最初で最後の建築だった。

 完成して、それが私がこの焼き物作家のところを出る時だった。私はこの作家のことが嫌いだったのである。方々で、私の悪口を言っていることが耳に入ったのである。


大野町平野屋旅館(9月2日)

 常滑に電車で行った。3日に川越の即興切り絵があるので、1泊だけの常滑となる。予約は楽天トラベルで探した。安い物件を探したそれが創業100年の大野町・平野屋旅館である。

 常滑のいくつか手前にある大野町駅で下車して、旅館に行った。犬が玄関の前につながれていて、昔はすごい旅館だったろうなというつくりである。中に入ると、雑然とした感じで、いかにも安そうであった。だが私はこの雰囲気は大好きである。飲み屋さんなんかも、私はそういうのが好みである。

 誰もいなかったが、いないときは携帯電話をしてくれとあったので、電話して6時に再来することにして常滑へ。3:00に常滑市中央図書館のギャラリーで「テッシューズ展」の飾り付けである。来たのは外山(旧姓佐藤)氏と伊奈氏だけだった。5時まで、飾り付けを掛け終わり、外山氏のお寺へ。その後武豊町の佐山千晶氏の家で、宴をもってくれるとのことで出かけたのである。常滑の町は、中部国際空港がある町であるから、様変わりがすごいが、私が住んでいた頃に比べると、人通りがはるかに少ない。寂しい町になっていた。

 宴には平野拓造氏と外山氏の奥さんなお子さんが来た。そして、佐山氏の自慢の料理を食べた。いか墨の料理がうまかった。その隣にあった、ブロッコリーとシメジの料理もうまかった。それから、その料理を頂いた、離れの建物の斬新さはすごかった。天井が薄い紙で出来ていて、彩色され、その上から照明がされているから、ねぶた祭りの飾りが天井にある感じなのである。それに壁は厚く、土壁になっていて、何箇所か窪みがあって、照明やら、装飾品が飾られている。いすは全て、丸太をきったままのものである。あるものが全て手作りなのである。贅沢な建物である。

 今回もって行った作品は「おいらんちゃまシリーズ」が二点であった。小さいがこった作品である。実は常滑にいた頃の切り絵のテーマは「いまだおとろえず」という爺さん婆さんの絵ばかりしていたのである。おいらんちゃまシリーズも単に、若いおいらんに、「いまだおとろえず」を置き換えたに過ぎないという話になって、大笑いになった。やはり、私の作るものは最初に作ったテーマから動かないものなのである。昔話や最近の仲間のどう子など聞きながら、楽しい楽しい宴は終わった。

 旅館に戻った。そしたら、おやじが酒を飲むかと一升ビンをデンと私の前に出すのだった。つまみも出てくる。私はとてもおかしかった。小一時間、おやじさんのいかにこの旅館がやすいかという話をした。その通りである。やっていけるのであろうか。今日の泊まりは私ともう一人だけであるらしいが、土曜は一杯客が来るということである。旅館であるが、ほとんど民宿の感じである。楽しいおやじさんであった。今度来るときも泊まろうと思う。知多半島常滑市の平野屋旅館である。電話は090−4237−0980である。


愛知県常滑へ(9月1日)

 私が、切り絵を始めたのは愛知県の常滑市。焼き物をやりに行って、その焼き物の表面に、紙状に薄く切った粘土を、ナイフである造形に切って張った焼き物を作ってみようと考え、その造形のサンプルを紙で切ったのが切り絵の始まりだったのである。なかなか説明が難しくてわからないかもしれませんが。

 常滑ですぐ、今は大善院というお寺の住職をしている佐藤健二氏という兄弟子に出会った。兄弟子といっても焼き物作家のところを出ていた。そして、焼き物はせず、もっぱらいろいろな家の建物を立てたりして生計を立てていた。そして、版画もやっていた。とても人懐っこい人で、頭の回転もよく、すごい人が世の中にはいるもんだと当時思ったものだ。

 私は東京で、恋愛相談室ということをやってみようと、名刺を版画で作って女子高校生に配ったことがあったが、私のアパートに遊びに来た佐藤氏はその版画の原版を見て驚いたのである。

 私は自分には自慢するものがないと思っていたので、そんなものは自慢のねたになるものではないと思っていた。それで驚くとはこちらが驚いたものだ。彼は「こんなことなかなか出来ないですよ」というのであった。その言葉は私の人生に、絶大な影響を与えることになる。切り絵を始めた時も、同様であった。「自分には誇れるものがある」と感じた自分であった。とてつもない27歳の青春の瞬間であった。

 私は、決断が早いほうである(決断を早くしないと、サボり癖があるので、だらだらしていると、お金がなるからである)。焼き物は3ヶ月でやめ、切り絵作家になろうと決断したのである。焼き物の魅力より、切り絵の魅力のほうが勝っていたし、お金もかからないし早くプロの道に踏み込むことが出来ると感じたのである。

 佐藤氏は、常滑の図書館で、ティッシューズ展という団体展をやっていて、私がいた頃は第二回目であった。それに参加してくれという誘いがあった。私は驚いた。「えっ俺が」であった。とても晴れがましい気持ちだった。絵も高校の授業以来描いたことがなく、芸術とは無縁の人間が、展覧会に出るというのは、考えても見なかったことなのである。

 それから28年、もう何回になるのかわからないが、ずっと続けているのである。久しぶりに常滑に行ってくることになった。


朝練習(8月31日)

 昨日は朝6時からテニスの練習を、今度川越の大会で組むことになっている東洋大のテニス部のOBで、大学院博士課程の学生の塩野とやった。場所は勿論、大学のコートである。もう何回目かだが、当初半年振りということで、塩野は全然打てなかったが、だいぶ打てるようになった。しかし、荒っぽい。私も荒っぽいほうだが、はるかに荒っぽい。スピードもすごい。でも半分以上は入んない。

 一番悪いのはサービスで、ダブルフォルトばかりする。かなり背が高いから、楽なはずだが、体が伸びきらずに打っているから、打点が低い。これを直すのは簡単だが、現役時代ウインブルドンに出るんだといってたプライドマン。実際に理工学連盟の個人戦では、本戦まで行っている。多分1000人くらい参加の大会なので本戦32人に入るのは至難の技だ。そのな過去の栄光とキャラの持ち主に、言っても直さないだろう。


 あと2・3年で卒業だろうから、それまで、組んでいようと思っている。一般で出るのだが、川越はレベルが高い。埼玉の都市対抗戦ではいつも優勝している。私も近頃、強くなったが、執念でつなげるということはなく、気持ちよくテニスをして負けるタイプであるからしょうがない。そのうちに、塩野と組んで本戦にいけたらいいと思っている。

 しかし面白いのは、現役が8時半に、コート整備に来る(9:00から練習は始まる)と、とたんにパワフルに塩野は打ち出すのである。現役にアピールしたいんだろう。単純で、面白い。


つかの間の空白(8月30日)

 4月の銀行での個展をきっかけに、幼馴染が集合して「チーム百鬼丸」が組織され、火祭りのポスター製作をが公開で市役所でおこない、そのあとの道の駅での個展、それにあわせた、地ビールをはじめ織物に、傘に私のイラストが使われ、そして、風林火山博覧会のイラストレーターとして、参加することになった。

 この4ヶ月、目の回るような展開であった。出版中心だった仕事の状況も変わることになりそうだ。


風林火山博覧会(8月29日)

 来年のNHK大河ドラマ「風林火山」にあわせて、観光開発のため山梨県・甲府市・民間のタイアップで、風林火山博覧会が、甲府駅南の場所でおこなわれることになった。その博覧会の、イラストを担当することに百鬼丸がなった。チケットのイラストとか、パンフに入るイラストとか。またおみやげ品もある。こういうイベントで、私が起用されるというのは初めてである。

 現在生きているイラストレーターのなかで、日本というスパンを考えてもこの企画に乗っかれるイラストレーターはそんなにいない。私に来たことは、不思議なことではない。まず信玄・由布姫・山本勘助の3体の立体作品の製作依頼があった。

 また道々に私の武田の二十四将のイラストが等身大の石に刻まれるのだそうだ。何か夢のようだ。


巌流島に行く(8月28日)

 天才百鬼丸必ず勝つ。


帰った(8月27日)

 火祭り実況中継、CATV生出演は、緊張して、最初怖い顔で映っていたと思うが、何とかしゃべれて、後半は普通にしゃべれたと思う。若々しいスタッフと楽しい冒険をした心地だ。それにしてもみんな若くて、すがすがしい感心する。
  
 火祭りの後半は雨が降ってきて、火祭りの別名鎮火祭にはふさわしいのかもしれない。ちょっと時間がないので日記はこれくらいにする。


富士急電車(8月26日)

 さあ今日は、人生二回目のテレビ生出演だ。一回目は1月13日のNHK甲府16分出演だった。今回は「吉田の火祭り」のCATV全国ネット放送だ(川越のケーブルテレビはネットに入っていません)。どんなことになるやら。その前に、やり残した仕事、それから川越即興ライブを終えて向かう。

 車で行くのは渋滞があるので、今回は避けて電車で山梨に行く。電車を利用するというのは何十年ぶりだ。電車に乗って、実家に帰った時、面白い光景を見て驚いたことがある。電車の中から富士山がきれいに見えたのだ。そのとき、全員の客が、左側の富士山の見える窓のほうに移動して、「わあ」っと歓声を上げたのだ。右側に取り残されたのは私だけだった。

 富士山て、やっぱりすごいんだ、と実感したものだ。地元の人間はもともとそんなものだ。だから、富士山の売店の経営している人たちが、自覚がなく糞尿を垂れ流す施設を作ったりするのもうなずける。それに、富士山のふもとはどんどん林が切り倒されて、家が建てられ、道路が縦横に作られている。我々が子供の頃と大違いだ。先日その林の中の道を車で走っていたら、大きな鹿が腹を割られて倒れていた。車とぶつかったのだろう。昔はこんな光景を見たことがなかったから、鹿が富士山のふもとに住んでいるとは知らなかった。


巌流島経由山梨(8月25日)

 今日は一つ締め切ってから、山梨に行かなければならない。富士吉田の駅ビルの「Qスタジオ」において個展中なのだ。そこで、今日はライブ切り絵をやることになっている。何点作るのかわからないが、楽しい時間をお客さんと過ごせたらいいなあと思う。

 8月の川越でのライブの画像をアップした。下の写真だ。リクエストに答えて河童をしたが、なかなかうまく出来た。時間は45分。80×110cm。


教室と直木賞パーティ(8月24日)

 久々に吉田の教室があった。元気者の橋本さんが欠席だった。他に新しく静岡市から青木さんという男の人が生徒に加わった。珍しいことである。埼玉の教室にも群馬から来ている人もいる。これから、富士吉田の教室も何らかの方法を使って、拡大して行こうと思っている。

 あまりにお粗末な市民教室が多いのだ。たとえば、絵は自分で描かせないで、講師の切り絵をそのまま切り抜かせるだけというパターンだ。それだと、いつまで経っても自分で絵が描けないで、止まってしまう。また、他地域との共同展になると、同じ絵があったり、あまりにもうまかったりと、変じゃないかと抗議があるそうだ。追い越されるから、生徒にうまくなってもらっては困るという講師の思惑もあるのだろう。

 埼玉でもそういうことをさせる協会がある。こういう状況は困ったことだと思っている。何とか、余計なお節介をして、「幸せな切り絵」を体験させてあげたいと思っている。

 富士吉田の教室が終わって、バイクで埼玉に向かい、ジーンズのつなぎを着たままで、電車に飛び乗り芥川賞・直木賞パーティ会場の東京會舘へ。30分遅刻でだった。会場はすごいにぎやかであった。だが余り作家の方が来ていないような。最初に話したのは北原亜以子氏だった。「富士吉田の火祭りにつれてって」とおっしゃっていた。そのうち実現したいが、意外に富士吉田のいろんなところを知らないので、道筋をつけなければならない。

 次は北方謙三氏。顔は黒くなっているが、少し痩せたようだ。8キロのダイエットをしたとか。もともとががたいが大きいから、8キロのは見えないが。他に村松友視氏、早乙女貢氏、宮城谷昌光氏とお話をした。それから、銀座のクラブエルに行った。
 何年振りである。私の切り絵も飾ってある。小一時間ほど過ごして、店を出て、鶴ヶ島にたどり着いたのは12時ジャストであった。


TVリハーサル(8月23日)

 26日のCATV(有線放送)の「火祭り実況生放送」のゲストとして、参加するので、そのリハーサルに21日山梨に行ってきた。1月13日にNHKの甲府放送局の生番組に16分と長く出たが、その時はスタッフが6人くらいだった。しかし、CATVのリハーサルは、スタジオに入ったら、20人近くのスタッフが、私を迎えた。

 こんな人数の前でリハーサルをするの? ってちょっと大丈夫かなと思ったものだ。そして、リハーサルはそれこそ、本番と同じテンポとなんだろうと想像できるような緊張感が漂っていた。私の紹介があるまでは私は何もしゃべらず、よくあるワイドショーのテーブルのところに座っている感じなのだが、もうすぐ私が参加するんだと想像すると、どきどき心臓の音が聞こえてきた。

 やはり「百鬼丸です」という時は、息が抜けて、吐息のような声しか出なかった。そのあと何とか立て直したが、緊張が波のように襲ってきてとてもスリルがあるものだった。何とか、リハーサルは終わった。当日はどうなるのだろう。まあ、先のことは考えないようにする。


山梨へ(8月21日)

 今日一つ仕事を仕上げて、山梨に行く。明日、富士吉田で教室があるからだ。それにあわせて、新聞社の取材が一つ入り、また6時から、26日のシーエーTVの生放送のリハーサルがある。今日はそれが終わると、小学校の時の同級生と飲み会がある。女性陣である。

 山梨に帰ると、早朝、ジョナサンというレストランで仕事をする。ここで仕事をするのが楽しみだ。この場所でいくつの仕事をこなしたことか。火祭りのポスターも途中までしたが、B1の絵のサイズだったのでさすがに止めて、真夜中に市役所の作業場で、守衛さんを起こして製作したものだ。

 今回は、講談社の単行本の仕事をすることにしている。デッサンがさっと出来れば、平面作品だけに、早く終わるのだが、果たして。


巌流島に行く(8月20日)

巌流島に行くが、そこの切り絵教室が待っていたりするから大変である。そのあとも勝負、いやその教室の最中敵と切り結ばなければならない。


お詫び(8月19日)

「ぶらり途中下車の旅」空振りました。申し訳ありません。いずれ来ます。お待ち下さい。
今日は下記の川越・土金での即興切り絵、久しぶりである。面白いものが出来たらいいなあと思う。また、テレビ放映等があったから、人が出てくるかもしれない。


途中下車の旅からぶりました。いずれ来ます。お待ち下さい。


太った(8月17日)

 山梨に長期にいたものだから、身体に太りが張り付いた。なかなか取れない。これまで、何回とダイエットをしてきたが、年々体重が落ちなくなっている。テニスが頼りだが、走ったりしたほうがいいのだろう。気を取り直してがんばりたい。

 さて、今日も忙しい一日となる。


巌流島へ行く(8月16日) 

いざ対決。百鬼丸天才、百鬼丸なら出来る。


ぶらり途中下車の旅(8月15日)

 日本テレビから今日電話が来た。何を見たのか、ぶらり途中下車の旅に出演依頼が来た。小倉久寛が旅人だそうである。面白そうだ。撮影は近々であるようだ。放映は9月16日(土)であるようだ。変更があるかもしれない。しかし最近テレビによく出ている。


巌流島へ行く(8月12日)

 とても忙しい。いざ対決。百鬼丸天才、百鬼丸なら出来る。がんばれ。


信玄博参入(8月12日)

 昨日は、展覧会の打ち上げで富士吉田市下吉田仲町の八龍という「チーム百鬼丸の」メンバーの中華料理屋さんに集まった。数は24人、くしくも私がした武田の二十四将と同じだと、チームの堀内氏が驚いていた。

 この「チーム百鬼丸」の仲町での存在というのはどうなのかと推測するが、きっと歴史始まって以来のことかなと思うがそうでもないのだろうか。みんなの喜ぶ顔を見ると、よかったよかったと胸をなでおろすのである。それにしても、チーム百鬼丸の仕事は、すごい量になるのである。爆発的といってもいい。

 何と来年の信玄博のキャラの製作を私が依頼されたのだ。会場内の絵が私に統一されたということで、これは大変な快挙である。チケットとかパンフレットの絵が私の絵だったりするのである。まだ、どんなに私がはびこるのか明確ではないが、目立つポジションに立つことは間違いない。

 大変なことである。


今日は打ち上げ(8月11日)

 今日はチーム百鬼丸の企画「百鬼丸・風林火山を切る」展の打ち上げである。締め切りも厳しく、午後も教室がある中、そのあと行ってこようと思う。18時からだから、間に合えばいいのだが。

 8月26日18時から、シーエーTVで私の即興切り絵が断続的に映される。富士山に絡めた作品だったらいいということで、アイデアがもう浮かんでいる。2時間で作る作品であるからたっぷり使った楽しい作品になるだろう。

 昨日は、即興切り絵でおいらんをした。女をする場合ついついきれいな顔にしてしまうんだが、そうしなくて、面白い顔にした。それがうまく行っていい作品が出来た。初めて、競をして昨日の孫悟空作品とも売った。


即興切り絵受ける(8月10日)

 富士吉田の道の駅でおこなわれた「風林火山を切る展」でも、最終日にフルートの奏者と即興切り絵と競演した。題材は少年時代とチャップリンだった。演奏のタイトルにちなんで、題材を選んだ。

 昨日の生徒の展覧会でも2時過ぎから、即興切り絵をおこなった。展覧会会場であるから、しゃべりも響くので、しゃべりながらやった。15名ほどの人が集まった。知った顔もいる。題材は孫悟空。お題をもらおうとしたが、誰も出してくれないので私が選んだ。動きを出すには最適なテーマである。例によって画像を映すのを忘れたが、何とかできた。しゃべりも絵も受けて満足している。今日も同じ時間にやるので、お時間がある方は見に来てください。


展覧会終わる(8月9日)

 15日間の幼馴染やその親戚・友人・知人によるボランティアの協力でおこなわれた、「百鬼丸・風林火山を切る展」が終わった。会場の設営から、段取り全てお任せであった。有難さは、頭を下げきれるものではない。
 それから、沢山の幼馴染の人が、展覧会を訪れた。子供の頃と近所に住んでいた繁蔵さん・松代さん(まっちゃん)・まゆみちゃん・綾子ちゃん・美枝子ちゃん・吉川さんご夫婦・朝倉加代子さん・けいじちゃん・裏千家のお茶を振舞ってくれたよっこちゃん?・相川さんちのお姉さん。本当に皆さんにはなんともすごいエネルギーを出していただいた。
 
 また、いろんな人が企画を持ちこんできていただいた。この展覧会のあとは12日から、富士急の富士吉田駅ビルの6階で引き続き個展がある。それはお任せ展であるから私は参加せず、一日顔を出すだけだ。それから、酒のラベル・県の企画のイベント・ビールのラベルと一杯である。どんどんこなしていくつもりだ。


中途で帰る(8月2日)

 バイクで前回富士吉田に行ったが、そのバイクを返しに鶴ヶ島に帰ってきた。車とバイクが両方富士吉田にあったので、いずれどの日かに帰ってこなければならなかったのだ。

 午前中に持ち物を用意して、電車かバスで山梨に向かうつもりだ。

 さて展覧会である。会場が道の駅であるから、人の集まりは富士吉田随一であることは明白であるが、果たして展覧会場に足を向けてくれるだろうかということだ。展覧会の会場は冬はスケートリンクなるような場所であり、夏はサッカーやテニスの屋内会場になるような場所だ。展覧会場には不向きなインテリアである。

 それはわかっていて強行したのである。人の出入りのメリットを優先させたのである。このイベントで人が入ったことが元になり、この道の駅に美術館でも作ったらどうかという議論が沸いてもいいと思う。とても人は入っている。

 一昨日から、一番人が集まる道の駅の売店前の広場で、切り絵の仕事(富嶽三十六景シリーズ)をしていた。やはり、声を掛けてくる客がいて、その時は「あちらで、展覧会中です」というと向かってくれることもある。切り絵というのはまだ珍しいらしい。私の周りを囲む人でも、初めて見る人がいて、すごく感激している。1時間ほど、完成するまで見ていった小学生の女の子もいたが、将来切り絵でもするのであろうか? 末恐ろしいことになるが。


映った(7月21日)

 本当にかっこよく映っている。こんなにかっこよく映ると現実の私のギャップに困ってしまうなあと思うほどだ。昨日NHKでam11:00からの「一都六県」に7分も映ったのだ。

 いや、この勢いで、がんがんがんばるつもりだ。皆さん私を眺めていてください。

 さて、今日はNHKの井田さんがごぜんにいらっしゃって、午後からは山梨の甲府に出発する。今度の展覧会用のキーホルダーを作りにいくのだ。甲府に旗やカップを扱う卸屋さんがあるが、そこの社長が、私の大学のテニス部の一つ後輩で、細村というが、そこからキーホルダーを仕入れたのだ。そのキーホルダーに今作業中の、私のパソコンで作った印刷した絵を入れに行くのだ。

 大学時代、細村とは仲がよしであった。沼津の彼の実家に遊びに行ったものだ。風呂に入ったが、初めて入る五右衛門風呂だった。本当に釜の風呂であった。あの釜もまもなく割れてしまったそうだ。まだ私もあどけなかった若い時代だった。

 彼は、親戚の関係の今の会社に就職したが、不況のあおりで、会社が倒産、甲府の支店にいた彼が、そのまま甲府の会社を引継ぎ、同じ業務で社長に就任し、同じ仲間とやっているのだそうだ。スタッフとも会ったが、みんな快活な感じで好感を持った。がんばってほしい。


テレビ出演(7月20日)

 今日はNHKの関東だけに放送の「一都六県」という番組に、am11:00から7分間出演する。かなり長い時間だ。

 初めてテレビに出たのは、まだプロになったばかりの29歳くらいだったろうか。山梨県上野原のスーパー忠実屋(現ダイエー)の入り口前で客に囲まれながら、切り絵をしているところが放映された。当時は、私が町の広報の表紙に切り絵を提供していて、NHK甲府で、各町の話題を取り上げる番組に出演した。

 生放送であった。リハーサルでは多少緊張したが、本番で、5・4・3・・・・と本番までの時間が近づくととんでもなく緊張し、声がまるで、小さくなったのを覚えている。それを録画してくれた友人がベータで録画したため、もらったビデオは再生したことがない。貴重な私の若い姿が見られるのだろうが、とても、怖くて見る気力がわかない。


原田維夫・蓬田やすひろ氏に電話(7月18日)

 20日に、NHK出演があることをお二人に伝えた。考えてみれば草鞋之会の中でテレビ出演が一番多いのは私かもしれない。彼らがテレビに出演したということを聞いたことがない。

 私は埼玉に住み、山梨の出身であるから、ローカルで出演の依頼がある。それに、今では少ない町の路端で切り絵を見せるという趣味を持っているわけだから、テレビも珍しがって寄り付くのだろう。

 お二人とも、元気であった。そういえば、西さんが金沢のデパートで展覧会の最中だという。

 富士吉田行きは、一日延ばした。


今日から富士吉田(7月17日)これから掲示板に書き込み

 23日からの私の展覧会のため、最後の搬入を行いに富士吉田に行く。画集だとか看板だおか、作品ももう少し。一度木曜に帰ってくるが、そのあとは8月6日まで帰ってこない。日記は外から、掲示板に書き込みという形で書いおきますので楽しみに。


よくやった(7月16日)

 昨日は、9時半から午後8時まで、NHKの一都六県の撮影であった。午前中は立体切り絵の製作を撮影した。インタビューも受けた気がする。忘れてしまった。午後からは場所を移して、川越の土金での即興切り絵。今回も画像を映すのを忘れてしまった。本当にカメラのことをいつも忘れるのである。

 今回の即興切り絵のお題は「相撲」であった。人物一人だと早いが動きが出せないので、取り組んでいるところにした。何とか動きのある作品が出来た。途中で雨が降ってきたので、急ピッチでやろうとしたが、もともと急ピッチでやっている作業であるからそれほどスピードが上がらない。作業中、ベンチで3人のおばさんが作業を見ないで、うるさかった。あまり人のしゃべりも気にならないのだが、あけすけだと腹が立つのである。途中で、「シー」といったがまるで無視された。

 それから、また再びアトリエに戻って、山本勘助の平面の切り絵とインタビューである。いつもの癖だがしゃべっているうちの、質問を忘れるので、困る。よくしゃべった。

 放映は7月20日の午前11:00から、7分間である。関東しか放映されないので、ご注意を、よろしく。


千代(昔)のテニスと追突(7月15日)

 それにしても我々が、教わった学生時代のテニスはひどいものだった。全てを告発しよう。

 まずグリップはラケットを地面に立てておき、それを上からつかむ。一般的にはイースタンになるが、イースタンを出来るだけ右に回したほうが上等とされていた。テニスをする方に説明するには「薄い握り方」といったほうがいいだろう。それにダメ押しに、どのプレーもそのグリップを代えてはならない。

 腰は回転させず、後ろから前に移動し、球はへその前で打つ。高い球は打ちにくいから打たない。必ず下がって打つ。

 肘は伸ばしたまま、手首を使ってはならず固めること。

 足はオ−プンスタンスであってはならない。ラケットは必ず立てて打つ。

 そして、球は打つのではなく押す。

 これが私の千代のテニスだ。教わった反対をすればうまくなるんじゃないかと思うくらい、今のテニスと反対である。

 何とか3年時にはレギュラーになったが、ほとんどできない人ばかりだった。
 私のこの当時の被害は、プロはワングリップ(グリップの位置を変えない)だと信じていたことだ。それに、薄いグリップでなければ駄目だという思い込みも4年間持っていた。お陰で、4年間でマスターしたのはバックボレーとバックのドライブだけ。私のラケットの握り方ではフォアのストロークやボレーは物理的に無理なのだ。お陰で、今でも取り戻したいと思っているスマッシュが、2年生で消えた。グリップが知らず知らず、スマッシュの出来ないグリップに変化していったのだ。

 さて、昨日は4時から「アトリエ前のファミレスとんでん」で仕事をしていたら、信じられないような「ばっきん」という爆裂音がした。見たら、目の前5メートルに、駐車中の車が、車止めと花壇の土手を乗り越え、バックで突っ込んだのだ。突っ込んだところは今しがた客が帰ったばかりのところだった。

 壁は曲がり、外から見れば、ぼこっとへ込んでいる。こんなところに遭遇するのは生まれて初めてだ。


テニスはどこでするか?(7月14日)

 昨日はテニスをした。そのあと珍しくというより初めて、テニスクラブの人と、飲み屋で飲みながら話をした。女性二人であった。その中に、テニスは下半身でするくらいのニュアンスの方がいた。

 私はよく野球も下半身でするとかいう人がいるくらいだから、下半身が大事なんだろうというのはわかる。がしかし、やっぱりテニスは上半身、それも腕で打つもので、全てのテクニックは腕の何らかのテクニックにあると思っている。下半身は上半身を球の位置に運ぶものであって、届いたら、下半身の役割は終わり、そのあとの処置は全て上半身の責任だと思っているのである。

 下半身だといったら、我々、毎日やるわけではないプレイヤーがとても、追いつくものではない。それこそいつもキントレもしなければならず、ジョギングもである。すべて、下半身となると、誰もやらなくなるのではないだろうか。

 私は今年はバックのスライス・バックボレーが学生時代に戻ったが、何も下半身の鍛錬をしたわけではなく、単にたまに当てるコツを(方法を)思い出したに過ぎないのである。

 ただ、テクニックが全部出揃ったところで、体力勝負、下半身勝負というのはあるだろうけど。それにしても、下半身・下半身という方が多すぎやしないかと思う。腕でするなんていう人聞いたことない。変じゃないですか。


メジャーか否か(7月13日)

 先週富士急行の社長の堀内光一郎氏にあった。そこでのお話の中に印象的なことを聞くことが出来た。「百鬼丸さんは富士吉田出身者の中では一番のメジャーですよね。」であった。

 実は前日、富士吉田市役所の火祭りポスター公開製作スタジオに、河口湖町のホテル組合の事務局長さん二人が来て、お話をしたのである。その時の話の中に「百鬼丸さんはマイナーですよね」というのがあった。チーム百鬼丸の堀内氏と「むっ」としたものだが、心中その通りかもしれないの一滴の冷たいしずくがたれたのも事実である。

 であるから、堀内光一郎氏のメジャー発言は意外だったのであった。

 私は考えた。実は堀内光一郎氏は、博学の秀才で、知識欲が豊富で、本屋におとづれることが頻繁であったのだ。方やホテルの65歳以上と見受けられる方々は本屋さんに足を運ばれない、ただその一点にあると私は解析したのであった。

 本屋に足を運ぶ人にとっては、私はよく見る画家であって、運ばない人にはそれこそマイナーであるのだ。

 それがようやくわかったとは私もすこぶる凡庸である。


頭痛(7月12日)

 一昨日の東洋大での講義のあと、ほっとしたのか、アトリエで眠ってしまって、起きたら、6時だった。それで、そのまま飲み屋に一人いき、テレビを見ていて、適当のチャンネルを回していたら、ボクシングをしていた。私の大好きなボクシングである。このボクシングを見ていては仕事が絶対手に付かないほどボクシング好きである。

 何とその試合は10何年か前、年間最高試合を取った私がリアルタイムで見た、伝説の戦「マーク堀越対高橋ナオト」の試合であった。まさかこの時間に、フルタイム放映するとは思わなかったら、全部した。この高橋ナオトは、とてもボクシングセンスがよく、私はファンであった。その日本タイトル戦である。高橋ナオトのほうが挑戦者で、マーク堀越は無敗の王者である。

 試合は一回から壮絶な打ち合い、最初にダウンしたのはマーク堀越であり、その後高橋ナオトもダウンを奪われている。高橋ナオトは、ジムの会長の言うとおりに素直に左ジャブを繰り出して、相手に強打を許さず、ウエイビングでパンチをかわす。マーク堀越は、チャンピョンらしくどんどん前に出て、パンチを繰り出す。

 驚いたことには、この試合は一度もクリンチというのがなかったのだ。すばらしい感動を当時私に与えてくれたものが、再び甦ったのである。酒が進まぬわけがない。そんなんで、一人飲みすぎて、昨日は頭痛。

 切り絵教室も終わり、その後NHKの井田さんが来て、取材の打ち合わせをするが、終始頭痛で体調悪く申し訳なかった。井田さんとは、前のレストラン「とんでん」で、迎え酒となったら、ほんのり頭痛も薄まった感じがした。

 さて、今日は山梨の富士吉田市役所で、ポスター原画の手直しであり、新聞・テレビの取材がある。行ってくる。またうどんを食ってくるぞ。


百鬼丸の授業(7月11日)

 昨日は東洋大で講師を務めた。時間は1時半からだったが、その前にオール読物の締め切りが午前中だったから、作業をしていたが、似顔絵が描けなくて途中で焦ってきた。

 11時頃に、それでも完了して、車に授業で見せる切り絵の原画と本を積んで、大学にいった。一緒に講演で対談をする草野律子氏と大学の食堂であって、打ち合わせをした。二年前に同様のことをしたのだが、そのときは一人でしゃべったが、とても単調で、学生は面白くなかったのではないだろうか。それでも、学生のアンケートでは一番面白かったというから、他の授業は面白かったのかどうか。最も授業が面白いという必要はないが。

 教室に行ったら、学生が7割方もういて、ドキッと驚いた。顔がいっぱいである。眺めたら、一人テニス部の現役がいたそれも、私の直属のOBの係りの石黒であった。ときどき報告とかで私のアトリエに来るのである。

 今回は、草野さんが私に質問という形でしたので、とても楽でしたし、全てアドリブですから、学生も面白かったと思います。10分くらいの二人のトークのあと、即興切り絵をしながらのトークでした。内容は来たーリストにした。お題をもらっても良いが、お題が決まるまで時間がかかるというのが通例なので、自分のやりたい作品にした。

 何故、切り絵を始めたのか、これまでの経歴、これからの方向、とうをしゃべった。

 あっという間の授業で、ほとんどの学生が、こちらに好奇の目を持ってみてくれたと思う。成功成功。


今日の授業(7月10日)

 さて、今日は東洋大の授業だ。対談で話すので、原稿は作っていかない。対談相手は一つ上の先輩で、建築のOB会・泉会の会長さんの草野女史。川越で設計事務所をし、大学の非常勤講師でもある。

 この講演は授業であり、単位がもらえるので、学生の出席率はすこぶるいい。私も当然講師として、いくばくかをいただける。

 そのまえの私は巌流島へ行ってくる。


久しぶりのバイク(7月9日)

 昨日は鶴ヶ島教室が終わったあと、調布教室が会ったが、遅刻になりそうなので、バイクで行った。圏央道から八王子インターに乗って、調布で降り何とか7分遅刻ですんだ。

 今日は新しい生徒が調布教室に来た。かなり昔、富士ゼロックスのカレンダーの仕事をしたが、その製作が、銀座のソニービルで1ヶ月の個展と共におこなわれた。その時の受付嬢だった逸見真弓さんの中学生の息子さんの、夏休みの宿題に切り絵の製作を作ろうということで、十何年ぶりに会った。その頃は彼女は独身であり、きゃぴきゃぴな感じの女の子であった。体型も変わらず、ほとんど、気持ちはあの頃と変わらないんだろうと思う雰囲気であった。嬉しい再会であった。

 さあ、今日は富士吉田に行って、上のポスターのデザインである。帰ってきて、オール読物の連載の仕事の締め切りである。


ハードな一週間(7月8日)

 富士吉田の火祭りのポスターを完了して、今帰ってきた。今日は、その作品の撮影をして、鶴ヶ島・調布の教室の二つがある。

明日は、再び山梨に行って、ポスターのデザインをする。月曜日は、東洋大学工学部建築学科のOBとしての授業にいってくる。そして、火曜日はポスター原画の披露式を市役所でやる。なんともジグザグに忙しいこと。


よくある話(6月3日)

 順調に文庫の直しを終えた。午前中は2時間ほど久しぶりにテニスをした。課題のフォアボレー・スマッシュは少しは進化しつつある。往年のスナップが利いたサービスもあった。見ていた同僚が、あれじゃあ手首行かれるよといっているそうである。自慢ではないが、子供の頃ピッチャーをしていた頃、コントロールをつけるために、寝転んで、天井に向かって軟球を投げる訓練をしていて、上に上げて戻ってきた時にストライクだとストライクで、一人三振ごっこをしていた。その遊びをしてみればわかるが、スナップスローでないとうまく上がらないのだ。

 だから、子供の頃野球、テニスを通じて、手首がすごい強いといわれていた。スナップが壊れるように見えるのは全盛に近づいた証拠だと思う。「追い詰めた」テニスはフォア・バックボレー・バックスライス・バックドライブが復活、あとはフォアボレーとスマッシュが課題だ。今年中に、スマッシュの復活と歴史上よかったことがないフォアボレーの取得だ。秋までに何とかマスターしたい。
昨日はレストランで仕事をしていたが、若い子供2人ずれの夫婦が来たが、子供が土足でシートに上がっても平気のである。食事中全部土足であった。きっとそれでいいと思っているのだろう。従業員に「あれはないだろう」と注意したが、何もなかったように知らん振りであった。こういうと起動したらいいいのだろう。別に、やくざの夫婦ではなかったので、注意してもいいのだが。

 さて、今日から山梨県富士吉田に行って、再び9時から市役所ロビーで火祭り製作だ。


贅沢にも(7月2日)

 贅沢にも、ほとんど仕事をせずうだうだしてしまった。今日はがんばろう。


結果的にはそれで良かった(7月1日)

 富士吉田市の市役所のロビーにある「市民談話室」で火祭りのポスターの公開製作がをしている。初日はこの珍しい企画に新聞テレビが勢ぞろいし、あわただしい形となった。

 当初、私は私の立体きり絵と写真との合成というポスターを考えていた。それも市の方と打ち合わせで、もう了承済みだと思っていた。しかし、今回の仕事で、その写真のほうを担当する渡辺和之氏とチーム百鬼丸の渡辺純三氏が、3人になった時に私にいうのであった。「写真とコラージュ? そんな話は聞いちゃあいねえぞ。文昭(私の本名)!文昭が、全部切り絵でポスターを作るじゃあねえのか?みんなそう思ってるぞ。」「おめえは勘違いしているだーわ」というのであった。

 二人が、私に向かってそういうのである「え、俺が勘違いしてたの? 全部切り絵でポスターをするの?」

 ということで、私は次の日、市に確認もせずにポスターの原画を全て切り絵でする作業に入ったのである。ところがである、おかしいと思ったが、私が正しいことが後日わかることになる。だが、その作業を見ていた市の方も、実は全て切り絵でしてもらうことには異存はなく大歓迎というのである。ただし、コラージュ作品も作ってください、2つを比較検討しますからと、まるで漁夫の利をむさぼるの態なのである。

 てなことで、何とB1サイズの、立体切り絵の原画を作成しているのである。それにしちゃあ、酷なギャラだぞ。

 今日は急なことで、文庫のイラストの直しで、かえって来た。月曜日にまた富士吉田に行って、7日まで帰ってこない。


結局(6月27日)

 結局、仕事が長引き今から富士吉田に向かう。今日から市役所で、火祭りのポスターの公開製作だ。いい仕事が出来ればいいとそれだけ念じている。

これから何日が市役所のロビーでやっていますので、見に来てください。


吉田のうどん(6月25日)

今日は富士吉田に行く。富士吉田の名物は「吉田のうどん」である。私の住む鶴ヶ島の周りも、麺類はうどんが中心である。きっと館林、加須の流れを汲んで、うどんが麺の主流なんだろう。

先日、都幾川村の「ぽんぽこ」というかなりはやっている「うどんや」に行った。のめっこいうどんでそれなりにおいしかったが、やっぱり「吉田のうどん」を思い出すと、とても、その足元にも及ばない。

そろそろ、60件(富士河口湖町・忍野村・山名湖村・都留市を入れるともっとあると思う)あるという富士吉田のうどん屋さんの半分くらい入ったのだろうと思う。やはり個々でうどんが違う。前回行ったところでは「蔵ノ介」というところに新しく行った。横町バイパスを河口湖町のほうに行ったところにある。それなりにおいしかったが、麺に愛想がなかった。酒で行ったら辛口の麺という感じだった。そんな麺の好みの人もいるだろう。

私の好みは「麺ズ・富士山」「美也樹」「美也川」まだあるが店の名前を覚えていないんで、今度は「うどんマップ」をもらってきて、皆さんに報告しよう。「麺きょ皆伝」はかなりの人気店だが、麺の固さは吉田のうどんでいいが、のど越しがつるつるしていて、讃岐に似ていて一度行ったが、もう行かない。あと、車屋だったと思ったが、とても吉田のうどんからかけ離れていた。極端にお客が少なかった。

今度の吉田行きで、お店の写真を取ってこようか。そんな暇はないか。


てんこ盛り(6月25日)

 山梨の新聞に私の記事が載ったらしい。それに、県の広報「ふれあい」にも見開き2ページで載ったとのこと。チーム百鬼丸に依頼された仕事も、火祭りのポスター・富士山ビールのパッケージ・ある山小屋のTシャツデザインがあるが、他にも吉田に行ったら早速打ち合わせとなる。

 地場産業の育成が目的であるチーム百鬼丸としても、このくらいでなくてはいけない。大変だけど、これまでの私の画業の蓄積を、つぎ込もうと思っている。


ダブルの教室(6月24日)

 今日は、午前が調布教室、午後が鶴ヶ島教室である。調布教室はシルクスクリーンでTシャツを作る授業をすることになっている。
 電車に乗って、つきに一度旅行気分である。東上線の朝霞台で降り、武蔵野線の北朝霞駅から府中本町駅に行き、南武線に乗り換えて、分倍河原に行き、京王線に乗り換えて調布というルートである。では行って来ます。


まだ巌流島(6月23日)

 まだ巌流島。今日帰らなければ。でも、

やっぱりサッカーは駄目だ。これでサッカー人気は落ちるのじゃないだろうか。とても無理な感じがする。だって成り上がりだもん。おのぼりさんみたいな。にわかスポーツだもん。野球だよ。やっぱり。


いざ巌流島(6月21日)

 次の火祭りのポスター製作の前に、文庫本カバー画二冊をクリアーしなければならない。百鬼丸天才。やれる。がんばれ!

百鬼丸天才。やれる。がんばれ!百鬼丸天才。やれる。がんばれ!百鬼丸天才。やれる。がんばれ!帰るのは6月22日の予定。


紅富士の湯(6月20日)

「紅富士の湯」とは山中湖の入り口にある天然温泉である。18日1時に富士吉田市役所で、「火祭りのポスター」についての打ち合わせがあるということで、その前に吉田に着いたので、その温泉に入ってきた。この温泉は天然温泉という話だが、地元の仲間の話では、循環温泉であるそうな。

実はこの温泉が完成当時、「国立公園内であるから、許可なく木を伐採してはいけない」ということがあるのにもかかわらず、山中湖村の職員が、風呂からの富士山が見えるようにと、「知らずに」伐採してしまったという事件があった。

そのとおり、温泉につかりながら、本物の富士山が見られるという景観であった。しかし生憎その日は雨模様で、富士山は見えなかったが。「知らずに」切ったというが、地元では「わかっていて」切ったともっぱらの、「実は」話になっている。「切ってしまえばこっちのもの」というわけだ。だが虚実は不明である。

前に日記に、吉田の道の駅の皆が採取している「神水」は、水道水か否かという議論であるが、水道水ということになるのかどうかわからないが、本当に地下水らしいが、しかし、滅菌してあるようだ。その水が汚染されたら、管理が市にある以上責任問題になるからだろう。


酔っ払った(6月18日)

一昨日、病院に睡眠障害気味のため、いつも常備している睡眠誘導剤をもらいに行った。行きつけの病院だから、院長も薬をにもらった窓口の女性に、伝言でたまには検査しろといってきた。それで、昨日は血液と尿検査に行ってきた。血液を取られるのは毎回嫌な感覚があるので苦手である。しかし、今回は看護婦さんとの会話が弾み、意識しないで血を取られた。

そのあとは東洋大の建築のOB会が、川越キャンパスあり、余興に即興切り絵をしてくれということで行ってきた。お題を3つもらったが、伊達政宗にした。その注文をしたのは、初めてお会いしたテニス部の先輩河野さんだった。いつもOBにOB会報を送っているが顔を拝見したことはなかったのである。テニス部のOBに会うのは嬉しいことである。

つつがなく切り絵は終わり、皆で切り絵を囲んで写真を撮った。ちょっと若いOBがこないのは寂しいが、いつでも、どこでもOB会存続の危機というのはある。仕事なんかで結びついていけたら、長く続くのだと思うが。

2次会では地下鉄鳩ヶ谷駅の陶壁画で組んだことのある交建設計の桑野さん(担当は彼ではなかった)がいらっしゃった。あの陶壁画というのは、下請けの設計事務所の人が、私の過去に作った切り絵をアレンジして、まずはサンプルとして出してあとは、本番でいいものを私が作るという手はずを皆で話し合っていたのだった。しかし、新しく作った念入りなものを地下鉄の公団のほうが受け付けず、結局設計事務所の方のサンプルを手直ししたものを陶壁画として、飾られたのだった。私としては無念な作品なので、まだ一度もそこに見に行っていない。公団のせっかく良いものを作ったのに、全く受け付けないお役所仕事にもあきれ、ベテランの設計事務所の段取りもどうしたのだろうと思う。

陶壁製作会社も私も赤字の仕事だったが、せめていい作品でも残ればよかったが、それもなかった。

そんなことを桑野さんに愚痴った。


突然の即興切り絵(6月17日)

 今日は午前中に切り絵教室がある。だから、その前に部屋の掃除をしなければならない。そのあと4時から大学の就職のガイダンスの打ち上げがあり、そこで、大学のOB会組織の総会もあるということで、前回すっぽかしたので、今度は行くことを約束した。昨晩突然連絡が入り、即興切り絵をしてくれということであった。学生からどんな見られ方をするのかとか、いい作品が出来るのだろうかとか思う。

 テニスもしたいんだが。フォアボレーの改良でいい方向に行きそうなんだ。


雨漏り(6月16日)

私のアトリエは、長峰宏芳氏という県会議員で、お茶屋さん(そのお茶屋さんの包装紙から、マーク・手提げ袋・パックから、缶入り茶まで私のイラスト入りである)を経営する方が所有するビルの3階にある。山手学院という名前だったと思うが、学習塾のために作ったビルであり、その塾が、子供の減少と共にビルを去ってしまって、10年ほど経って、私が入ったのであるが、その時は、このビルにテナントは入っていなかった。

今のアトリエの前にとんでんという和風レストランがあるが、これが出来る前はぼろアパートがあって、私は大学時代にそこに入っていた。四畳半に3畳と台所・トイレ・庭が付き、風呂は共同だったが、確か6000円くらいだったと思う、今見ると安いが、35年前でも安かったのである。それに駅から3分である。

大屋さんは今のビルのオーナーであって、だから、今も個人的な付き合いがある。

やっと3年位前に、読売新聞の販売店が一階に入りにぎやかになった。販売店ではコピーをやらせてもらったり、ゴミも業者がくるので引き取ってもらっている。

しかし、二階・3階にまだテナントが入っていない。もう修理をしないければならない箇所もあるが、修理できないというのである。金がかかりすぎて。それで、私のアトリエも2箇所雨漏りがするが、3年間見送られている。今日くらいな雨だと染み出てくるくらいだが、台風となるとそうは行かない。ぽたぽた落ちてくるのである。今年も、子供の頃家にあった、懐かしい雨漏りがやってくるだろう。


雑務(6月15日)

 昨日のざぶん賞の会合は寝不足のせいで、余裕がなく自己紹介で緊張してしまった。この会のことについては、今後の会の展開のことが話し合われた。集金のことが、一番の問題になった。今後協賛企業の増加と何らかの手段を使っての収益の確保がということだ。それにメインの事業である小中学生の作文の募集の増加のこともある。

 我々理事をしている絵描き集団、草鞋之会の全国まわりの展覧会の実施で、啓蒙して行くという方法もあると話が出た。

 さて、今日はアトリエの片付けをしようかと思う。その前に昨日作ったイラストのデザインをしなければならない。相棒のデザイナーの田口氏にオペレーターを頼んで、デザインをする。


ざぶん賞の会合(6月14日)

 昨晩、というより午前2時、百鬼丸は巌流島より無事帰った。今日は寝不足の中、ざぶん委員会の会合である。「ざぶん」は地球環境の保全を子供たちに、啓蒙していこうという団体。「ざぶん」は海の波の音である。

 会長は筑紫哲也氏、我々草鞋之会のメンバーは理事として活動している。我々の主な役割は、年に一度、金沢で小中学生の作文の表彰式があるが、その副賞として、彼らの入賞した文章に絵を添えるのが第一の役割だ。他に県別の表彰式もあり、草鞋之会のメンバーが順繰りに当番で、プレゼンターやスピーチをしている。

 本年度は私は千葉の幕張メッセでの表彰式に当番で参加して、プレゼンターとスピーチをおこなってきた。その時、表彰状に我孫子(あびこ)という字があり、これがなかなか読みきれないという不安を抱いたものだ。我孫子という町があるのは知っているが、その漢字を目の前にすると、ぽかっと忘れそうなのである。しかし、その不安も実現することなく、無事に表彰状を渡すことが出来た。

 久しぶりに、草鞋之会のメンバー原田・蓬田に会う。昼飯をはさんでの会合で、いつものように酒を飲むということもなく帰ってくることだろう。


身体を壊せない(6月12日)

「身体を壊せない」、という意識になったのは初めてのことだ。それは富士吉田にチーム百鬼丸というマネージメント団体が出来たからだ。

私は今まで、絵を描くに当たって、自分のためなのは勿論だが、私の絵を見て楽しんで欲しいと一生懸命絵を描いてきたと思う。だから特定の誰かというのを照準にしたことはないといっていい。

ところが今度は違う。チーム百鬼丸の方々は、「私をもっと皆に知ってもらおう」ということで始めた団体だが、私の方は、富士吉田に私の絵を使って産業が起きたらいいと私は願っているわけで、いずれどなたかの生活を支えなければならない立場になるかもしれないのだ。

富士吉田から埼玉に帰る時、チームのミッドフィルダー・堀内丈夫氏がいつも「気をつけて帰れよ。お前が死んだら、おしまいだからよ」と念仏のように言うのであった。つくづく「そりゃそうだよな」と思うのであって、おちおち死ねないのである。


サッカー観戦(6月11日)

 今晩はワールドカップの日本戦だ。楽しみだ。サッカー選手というのは大体好きだが、同じ山梨県人だが中田英俊だけは好きになれない。よく、チームの批判はするんだが、解せないのは自分の反省を口にしたことがない。「あん時、俺ミスしちゃって」とか出てくるのは普通だと思うが、いつも自分は蚊帳の外なのである。

 自分は絶対謝らないってタイプがよくいる。そんなタイプなんだろう。

 大体が、サッカー選手は冷めた顔をしている。それだけ生き残るのが大変だから、笑っていられないのかもしれない。私はでもつまらない。きっと陸上女子長距離の福士加代子タイプがそのうち現れるだろう。彼女はスポーツ界では長島以来のエンターテナーかもしれない。


火祭り(6月10日)

  富士吉田市の祭りである。もともと富士吉田市は吉田という町であって、市制施行の時に富士をつけたのであるから、本当は『吉田の火祭り』である。詳しくはここをクリックしてください。

 吉田は富士山の北口の登山道の街である。私が生まれたところが、「火祭り」という祭りの区域外だったため、子供の頃は詳しく祭りの実態は知っていなかった。また、祭りを眺めにいっても、子供にとってはかなりの距離があり、また急坂であるため、その祭りの本宮である浅間神社まで歩くことはなかった。

 子供の頃は松明の火が熱かったり、そして松明がただただ巨大に見えたりしていた。また日本の三奇祭という事も知っていて、多少自慢の祭りだった。でも、本当の楽しみは子供だから、やっぱり屋台や金魚すくいだった。当時は金魚の水槽に酸素を補給するための装置なんてないから、金魚は捕獲されてから、ある程度で死んだのである。他にも、富士吉田の祭りに流鏑馬というのがあるから、火祭りと流鏑馬で年に二度ほど金魚が飼われることになる。

 本当に金魚はすぐ死んだものだが、そういえば死にそうな金魚を持ってくるということも聞くから、そのためなんだろう。でも、遠からず酸欠でなくなる運命にあったのだろうが。

 渡辺(私の本名)の本家というのが、通りの上手にあって、お祭りの日にはそこに親戚中が集まるのだが、そこはタバコとか登山用のグッズが売っていて、私も小さい時、お客に杖なんか売ったのを覚えている。その頃は、スバルラインなんて車で登る登山道なんてないから、テクテク登山したのであった。今はそんな客もなく、団体で登山した富士講という人たちが宿泊した施設「御師の家」もほとんどなくなり、往時をしのばせるものが少なくなった。

 その火祭りのポスターは全国に配られる。私がそのポスターをすることのなったが、個人のアーティストがそのイラストとアートディレクターを引き受けるのは初めてのことではないだろうか。光栄なことである。


大貫さなえさんの作品(6月9日)

 以下は6月7日の日記の抜粋である。 

文章中に出てくる大貫さなえさんの作品である。

『次の日は、4時起床。行きつけのファミレス・ジョナサンに仕事をしに行く。実はその日は、ジョナサンのパートで働く大貫さんの娘・さなえさんと会う約束の日であった。彼女はイラストレーター志望であり、半月前に私が注文した絵を持ってきてくれることになっていた。

実は前に大貫さんに、娘さんの進路のことで、相談を受けていたのだ。そして、直接彼女とお話してくれないかということで会ったのだった。私は、美術学校に行くことは反対である。とにかく早くプロになることを勧めるつもりなのだ。何故かという事を身体で知って欲しいという意味で、いくばくかのお金を出して、「かっこいいギターリスト」を描いてきてほしいと依頼したのだ。

やはり、作品は初めての仕事ということで、必死で絵を描いたようで、それが伝わってくる。きっと、プロに早くなって欲しいという私の何故かが伝わったと思う。』


誕生日in山古志村(6月8日)

    

いや楽しいツワーだった。しかしスタートは過酷だった。集合場所はこのイベントの企画をした、せんべい屋さんのお店の前だと思っていたのだ。ところが約束の9時の20分前に行っても、誰もいない。それに携帯電話を忘れた。絶体絶命。たまたま近くを通ったタクシーに乗り込み、バスが集合しそうな場所を回ってくれといって、早々に川越西口でバスを見つけたから良かった。ほっとした。

実は数日前まで、私のところまでバスが迎えに来てくれることになっていた。しかし時間がロスするという理由で、タクシーに荷物を積んできてくれということに変更された。だから集合場所を聞いてなかったのかもしれない。私もそのせんべい屋さんの前と思い込んでいたのである。

山古志村は見た目ではその惨状は今ではあまりわからない。地震の時にいっぱいあった地すべりで、壊れた家はもう取り壊しになっているからだと思う。しかし、地すべりの場所の多さと規模の大きさで、山古志地区全体が、ダム工事のように村全体が工事現場でダンプカーが頻繁に行きかい、我々観光バスが視察するのが申し訳ないようだった。

山古志村慰問は、若い方々は働きに出ていて、だから仮設住宅にいるお年寄りに見せることになった。40人くらいいらっしゃった。

慰問の内容は歌謡と楽器演奏・日本舞踊と切り絵だった。それらの出し物の間、私はもくもくと切り絵をしていたので、切り終わって見せる瞬間しか、慰問には参加していない感じであった。しかし出来上がった作品には驚きの声を頂いた。切り絵の題材は、名物の闘牛と錦鯉ということで、動きが出せる闘牛にして、20分位で出来てしまった。そして誕生日ということもあり、70人位の方々にバースデイソングの合唱を頂いて、恵まれた状況であった。

この慰問には東洋大生が多数来ているようで、冷蔵庫に寄せ書きがいっぱいあるなかに東洋大の文字があったのだ。実は地震の時の村長の長島さんが東洋大出身者のなのだ。

切り絵を山古志村に寄付して(今は長岡市と合併)、山古志を後にした。長岡駅の近くの「へぎそば」を食べさせるというそば屋さんに入り、日本酒とそばをご馳走になった。「へぎそば」とはもともと「はぎそば」という語から来ているという。木をはいで作った器に盛り付けたからだそうだが、その膳にその風情はない。おいしい珍しい味のそばだった。つなぎがふのりなのだという。

とても酔っ払って、行きと違って、修学旅行気分で、かえりは皆と打ち解けて帰ってきた。さすがにおいしい新潟の酒を2本買ってきた。


富士吉田の2日間(6月7日)

大貫さんと 本間さんと 

 何と私の誕生日である。55歳。山梨県富士吉田市下吉田1282番地で生まれた。

 6月5日、9時半に山梨日々新聞・YBSテレビの富士吉田支社に行く予定だったが、夜の12時起きて、ひと仕事して、寝てしまったら、5時にまた寝て、6時半に起きてしまって、遅刻してしまった。内容はまた後日お話しする。

 その後、チーム百鬼丸の会合。

 その後、私の弟子の本間さんが個展をしているCATVの会社のロビーに向かう。実は彼の展覧会で、花をライブで私がいけることになっていたのである。富士吉田に花屋さんで、花を物色して、何とか格好が付いたようだ。とても、楽しい。展覧会はとてもすごかった。迫力満点といって良いだろう。その数もすごい。そんだけの時間があることがうらやましい。展覧会はやっぱり、絵に力があると、こちらとしても楽に見られる。こちらが一生懸命、いいところを見つけなければならないという展覧会は、辛い。

 吉田のうどんや麺ズ・富士山で肉うどんを食べ、次は甲府に。

 富士屋ホテルの方と、展覧会の打ち合わせ。実現できるかどうかわからないが、お話を聞く。

 武田二十四将の絵が置いてある。串信玄にご挨拶。そして富士吉田の実家に帰る。

 次の日は、4時起床。行きつけのファミレス・ジョナサンに仕事をしに行く。実はその日は、ジョナサンのパートで働く大貫さんの娘・さなえさんと会う約束の日であった。彼女はイラストレーター志望であり、半月前に私が注文した絵を持ってきてくれることになっていた。

 実は前に大貫さんに、娘さんの進路のことで、相談を受けていたのだ。そして、直接彼女とお話してくれないかということで会ったのだった。私は、美術学校に行くことは反対である。とにかく早くプロになることを勧めるつもりなのだ。何故かという事を身体で知って欲しいという意味で、いくばくかのお金を出して、「かっこいいギターリスト」を書いてきてほしいと依頼したのだ。

 やはり、持ってきた作品は初めての仕事ということで、必死で絵を描いたようで、その必死さが伝わってくる。きっと、プロに早くなって欲しいという何故かが伝わったと思う。

 次は、市役所に9時半。吉田の火祭りのポスターについての話である。まだ、話を聞くという状態である。火祭りのポスターをすることになれば、全国にそのポスターは配られる。果たして。

 その後再び甲府に、2時に作家の江宮隆之氏に会うためだ。平和通りのデニーズで会った。いろんな私の展覧会にゲストで来て欲しいという話をするためにあったのである。実は彼の本が私のカバーの担当で二見書房から出版されるという奇縁なのである。6月に出る。いい小説だった。面白い。動きも早い。売れたら良いなあと思う作品だ。

 3歳上の彼は、もうすぐ勤務先の山梨日々新聞を退社して、文筆業一本でやっていくとのこと。また、県内での私の個展活動にも協力しましょうと、言っていただいた。フランクに話せて、今後お付き合いが続きそうである。一緒に写真をとろうと思ったのであるが、またまた忘れてしまった。

 その後、串信玄に武田二十四将の絵を引き取りに行き、富士吉田に戻った。絵をチームのミッドフィルダーの堀内氏の家に絵をおろし、そのまま埼玉に戻ったのである。帰りの中央高速はどしゃ降りであった。


明日明後日(6月4日)

明日は富士吉田に行く。雑多な用事がある。朝9時には某新聞社の方と会い、3時には甲府に行って某ホテルの方と会う。その間に弟子の個展に行って、会場に花を生けてくる。これは楽しいのだ。鉢を買って、あの緑色の花をさすやつを買って、花を買って、会場でいけるのだ。こちらは恥をかきたくないし、いい感じに植えたいから、かなり緊張する。だいたいがそんなことしたことないから出たとこ勝負。

話はそれそうだが、花屋さんに花を頼むと、色とりどりで、きれいといえばきれいなんだが、方向性がまるでない。皆さん、自分でいけてください。楽しいから。へんてこでも思い出が残る。これはもらったほうにしても楽しいものだと思う。芸術ってそんなものなんだと思う。

本当は野の花を摘んできて、生けたいものだが、ほとんどが小ぶりで、集めるのが大変な気がする。でも小さなものでもそれなりにいいものなんだと思うが。そのうちにやってみたい。

明後日はまたまた甲府である。串信玄という居酒屋に置いてある武田二十四将の絵を引き取りに行く。チーム百鬼丸でこの絵の使い道を考えるのだそうだ。そして、閉めは先日彼の小説のカバーをしたが作家の江宮隆之氏に4:00に甲府で会うことになっている。

このように作家と個人的に会うとうのは珍しいことだ。実は今年から来年にかけて「風林火山」展をするだろうが、その中のゲストとして、歴史を語ってほしいと思っているのだ。

だが、本日は一本の文庫本カバーの絵の締め切り前日なのだが、それに切り絵教室もある。


某雑誌のインタビュー(6月3日)

山梨県立吉田高校の食堂には、切り絵作家、百鬼丸さんの作品が掲げられている。

 「地球をひったる若者たち」。切り絵の原画を元に壁一面に設えた壮大なこの陶壁画は、さまざまな人生経験をつんできた作者からの、後輩たちへのメッセージだ。

 高校を卒業後、建築を学んだ百鬼丸さんはいったん設計事務所へ就職するが、人に使われるのが肌に合わないとわずか半年で辞め、建築も辞めてしまう。

 ものを作る職人になるか、社長になるか考えた末、夢のありそうなファッションモデルのマネージャー業をしようと、同業の会社で少し仕事を覚えてから、一人で始めた。2年ほどやって、「やはりものを作ろう」と27歳で、愛知県常滑市に乗り込んで、焼き物の世界に転身を試みた。

 未経験から陶芸家を目指すには遅い出発であった。それで、焼き物に自分の何か得意なものを応用して、付加価値のあるものを作れないか考えた。そして思い当たったのが、小学校のとき得意だった版画だった。

 粘土を紙状に薄くし、考えた図案どおりにナイフで切る。そして、それを皿などに貼るというアイデアである。それで、その図案をあらかじめ紙で切っておこうとしたのである。だが、その紙を切る作業に「これまでにない手ごたえを感じて、こんな集中した状態で、人生を終われれば」と百鬼丸さん思ったそうである。そして、肝心の焼き物はそっちのけで、紙を切る作業=切り絵に没頭し、ほんの数日で、切り絵のプロになると決心したのだそうである。切り絵作家、百鬼丸の誕生である。

 1年後、上野原町でラーメン屋のバイトをしながら、切り絵の製作に励み、マネージャー時代に出入りしていた出版社に、作品を売り込むという活動を始めた。意外にすぐに仕事が舞い込んで、3年後には週刊誌の表紙連載をするなど、名実共にプロとなった。これまで手掛けた本の装丁は500冊くらいになる。

 情熱的でフットワークも軽い百鬼丸さん。「いい仕事をしたい。だから、作品にはすごい時間を掛けるんです」と仕事のスタンスはいつも前向きだ。

 そんな百鬼丸さんの作品を、もっと世間にアピールしようと、現在、幼馴染や中・高校のテニス部の先輩たちが中心となって、「チーム百鬼丸」というプロジェクトを立ち上げた。

 その第一弾は、来年の大河ドラマ「風林火山」に向けて、制作された武田信玄のTシャツ。切り絵が時代物に合うため、なかなか趣があり、信玄が後ろ姿で立つ姿もユーモラスだ。

 現在、百鬼丸さんは関東近辺に三つの切り絵教室を開いている。中でも富士吉田市内で開く教室は、月に一度、高齢の両親の顔を見るため山梨に帰る口実でもある。

 切り絵作家として初めて作品が、雑誌に掲載された時、この仕事にそれまで反対だった父親が「よくやった」と電話をよこした。その一言で、ガチャリと電話が切れた。

 「わずか5000円の仕事だったんですけどね。それ以降、もう仕事のことは応援するばかりで、反対なんてしなくなりました」。

 目を細めて嬉しそうに話してくれた百鬼丸さんは、「山梨への郷愁はめちゃくちゃある」という。かつて自分が過ごした町での個展もやってみたいと語ってくれた。「チーム百鬼丸」の活動と合わせ、今後はさらにアグレッシブに、特に山梨での活躍は大いに期待できそうだ。

 最後に現代の若者たちへのメッセージを頂いた。

 「僕も今でいうフリーターやニートに近い、足もとがしっかりしない生活をしていたことがある。だけど、ぼんやりでもやりたいことが見つかったら、とにかく飛び込んでやってみる勇気が必要なんだ。最初から駄目なんて思わないで。

 切り絵でも、立体切り絵とか即興切り絵とか人がやってない分野を創始したけど、まだやりたいことがありますよ。人前で、立体切り絵作品を仕上げるとか。スーパー切り絵と呼びたくなるような切り絵ライブですね」。

 まだまだ野心溢れるその話し方と気さくな笑顔に、こちらも元気をもらった。


誕生日の月(6月1日)

 いよいよ6月だ。誕生日が7日だから、一つ歳を取る。


草鞋之会その後(5月30日)

 草鞋之会が結成されることになって、一同、西さんのいる石川県松任市を訪ねることにした。その時点でまだこの会の名前はなかった。それで、事前に各々が名前を考えてくるということを通知しておいた。

 しかし、原田さん蓬田さんは考えてきていなかったようだ。ここらあたりから、おのおののキャラクターがどんな按配か見え隠れしてくる。西さんのお宅に到着して、北陸中日新聞の記者の方が見えた。

 当時、新聞連載やら、我々もやってみたい新聞連載を連発にやっていたのが、この石川県の片田舎に在住の西さんだったのである。他の3人はまだ経験したことがなかった。時代劇のさし絵の量は当時西さんが一番やっていたのではないか。とにかくすごかった。

 そのことは「日本で一番仕事量が多い時代物の挿絵画家」と我々が西さんのことをいった事に、記者の方は驚いたことだろう。まさかこの一地方の都市から、日本一の挿絵画家がいるはずもないと思うのがご他聞であるからだ。地元の人というのは一番そういうことから、逆に遅れてしまい、外聞を聞いて「えっ」と認識するものであるようだ。

 その後、西さんはこの地で認知され、大いに石川県の文化人として活躍することになる。

 結局、西さんが考えていた「草鞋之会」というグループ名が我々に付いたのであった。ちなみに当時原田さんは52歳・蓬田さんは50歳・西さんは45歳・百鬼丸は40歳であった。


今日はTシャツ(5月28日)

 毎年1度、教室では自分の作った切り絵をTシャツにプリントしている。今日はその日だ。例年5月なのは、感光法という太陽光を利用したシルク印刷用の版作りだから、日照が一番いいと思うからである。

 しかし、今日は曇りである。こんな日は、太陽光に版をあてる時間の設定がわからなくなる。晴天だと3分ほどで、版ができるのであるが。

私の弟子の本間氏が富士吉田で個展(百鬼丸切り絵『免許皆伝』受領記念展)を開く。6月2日から29日、CATV富士五湖1Fギャラリー

師匠として、文章を寄せた。

 切り絵教室を吉田で始めて、早5年が経過した。始めの頃は8人くらいいた生徒も、私の指導不行き届きで、最小2人になった時がある。その2人の中に本間さんが残ったのである。

 自分で下絵を描いて切り絵にするということを、当たり前のことだと思ってやって来た。しかし、人の絵や写真をただコピーして絵にするという切り絵をやっている人が多いらしい。そのことを見る側に正直に披露するならともかく、それをしないで切り絵だといって見せたら詐欺に等しい。見る側は描いて切ったと思うからだ。切り絵の苦労の9割は下絵をかくことだ。そして、その方針を私の切り絵教室では貫いてきた。

 自分が実際にやっていることを、そして、私がプロとして第一線でかなりのスピードでたどり着いたその秘訣を伝授することが私の義務だとおもっている。しかし私のそんな姿勢に本間さんは、よくついて来たものだと感心する。今更ながら、彼の切り絵探求に対する情熱に驚かざるを得ない。

 今回の展覧会の作品群も、本間さんの実力以上の作品が発表されると思う。

 こんな言い方をするのはへんだろうが、実力以上の作品を発表するということはとんでもない労力を費やしたということだ。そして、またいつかその作品を越えた作品を作ろうとする。

 そうしていつか、驚くような高みに実力がのし上がっていく。それが切り絵物語のあらすじなのである。

 師匠として、着実に力をつけている本間さんは、とても目が離せない。そして、私のその一番弟子は、吉田のキラ星になっていると思う。


草鞋之会結成の時(5月28日)

 草鞋之会が結成されて、15年がたつ。日ごろ、j地味な、縁の下の力持ち的存在のさし絵画家たちが、何とか集まって面白いことが出来ないかと思っていた。
 
 一般的な画家という、ちょっと高位な印象の職業の人に比べて、本当は、はるかに挿絵画家の技量は優れていると日ごろから思っていた。そのすばらしい絵を表に出して、披露出来たらというのが夢であった。

 そして行動を起こした。私が大好きな画家3人を選び出した。それ以上でもよかったが。3人しかいなかったのだ。そのことを文藝春秋の編集者の明円氏に相談して、実はどんな人か聞いたのだった。この3人の中で、面識がなかったのが蓬田やすひろ氏だったからだ。西氏はもう友達になっていた。原田氏もパーティ等では何回かお会いしていた。

 そんな訳で、私が結成に動き出したのだ。たまたま、講談社のさし絵賞を受賞した蓬田氏に、その授賞式に赴いてお会いすることになった。すでに西氏・原田氏には参加の快諾を得ていた。それがよかった。蓬田氏は原田氏のことを敬愛し彼が参加するなら嫌もないことを私に伝えてくれたのであった。

 蓬田氏を誘ったのが最後なのが幸いしたのであった。

 こうして、最初は大してつながりもない間柄だった草鞋之会が出発したのであった。

 絵は左から原田維夫・蓬田やすひろ・西のぼる


調布(5月27日)

 鶴ヶ島に来る前に東京の調布に住んでいた。その前が、山梨県の上野原に住み、そこで切り絵作家として、アマチアから、プロになった。上野原では、最初はラーメン屋の出前をしていた。天龍というラーメン屋さんである。

 それはともかく、調布に引っ越したのは映画のエキストラになるのとそれまで、生身の人間を見て描いたことがなかったからデッサンの集まりに(教室ではない)参加するためであった。

 エキストラについては、近くには大映撮影所・日活撮影所があるから、きっと仕事はあるだろうと思ったのである。それも時代劇の。時代衣装を着たかったのである。

 調布には日本一の、映画のための小道具屋さんもある。一度行ったことがある。

 しかし、エキストラになるような状態ではなかった。調布に来てすぐ、サンデー毎日の表紙の連載という大きな仕事が入ったからである。当時は下手だったので、とんでもなく時間がかかった。

 今、埼玉でロケがある映画・テレビのボランティア・エキストラ組織に入っていて、2度ほどオファーがあったけど、やらずにいる。これも仕事が気になってだ。しかし、一日拘束されるが、きっとロケ地では暇この上ないのだろう。きっと仕事も出来るのかもしれない。

 今日は調布の教室がある。生徒は3人である。


霞ヶ関角栄商店街・ふれあいサロン(5月26日)

 霞ヶ関で、角栄といえば東京永田町の話かと思いきや、埼玉県川越市に霞ヶ関という町があるのだ。その町は40年位前に、角栄建設という会社が開発して、角栄団地というのを作り、商店街も作ったのだ。ちなみに角栄建設は倒産して今はない。

 だが、この街も子供たちを育ちきり、若い人たちが、街から離れ活気を失っているのだ。

 そこで、街を活性化しようと、店をしまった本屋さんの空き店に、ギャラリーを作ったのだ。そのギャラリーの管理をしているのが、私が通っている霞ヶ関テニスパークの会員の、日ごろテニスで私にいじめられている4人の仲間なのである。

 そのふれあいサロンで、生徒の展覧会をすることになった。

 今回は、私は山梨県の富士吉田市の道の駅で個展をしているので、残念ながら参加できない。一日くらいは即興切り絵でもしようと思うのだが。


レストラン渡り歩き(5月25日)

 本当は、アトリエで仕事をしたほうがいいのだろうが、のんびりしてみたり、別の作業をしてみたりと、怠け心が顔を出す。本当にはかどらないのだ。

 ちょっとお金がかかるが、レストランで仕事をしている。何で、仕事がはかどるのかわからないが、かなり集中できる。これが、展覧会場だったりすると、即興切り絵の見世物だったら良いが、これも出来ない。

 あまり思い悩まず、出来るところがあるんだからと、もう気にしないことにして、レストランで仕事をすることにしている。

 ただ、できるだけ注文したいのだが、腹に入らないので、それが悩み。太っちゃうよ。

 今日はチーム百鬼丸の絵の製作。リアル信玄だ。顔作りから始まるが、楽しみだ。


締め切り(5月24日)

終わった。


河越館(5月23日)

 河越館(常楽寺)という平安時代から南北朝まで栄えた河越氏の拠点が近くにある。(川越でなく河越と書く)

 鐘楼撮影のため、そこを訪ねた。変わった鐘楼で、かなり古いものらしい。門の上に鐘楼があるのだ。そして、門の両側には仁王像がある。

 その門の下は、野ざらしといった感じで物が無造作においてある。昔の消防用の人力ポンプがあった。10年以上前に来たときもあった。こんなところにおいておくと朽ちていくだけだ。

 そして、まだその門の解説もない。近頃やっと川越市が回りの土地を買って、かつての河越館の遺構を調査し始めた。本当はそれよりもっと広大だったようだ。

 驚いたことにこの河越氏から、源義経の正妻が出ている。この館から輿入れとなったのだろう。しかし、義経の滅亡とともに、河越氏は縁者ということで、滅ぼされたという。

 後に、河越氏の復興がなったが、鎌倉府に反旗を翻し、滅亡したとか。

 川越の北西のほうに東松山があるが、そこで、木曽義仲が生まれている。父親が平将門の乱でなくなり、縁者に引き取られて木曽で成人したらしい。

 身近にいろんな歴史人がいるが、この河越周辺は、歴史的には小さな武士団が、あっちへ付いたりこっちへ付いたりと、めまぐるしく勢力が入れ替わった土地であるらしい。古戦場があちこちにある。

 話は変わるが、文芸評論家の故尾崎秀樹氏がおっしゃったことだけど、富士の「富」という字はもともと冨という字だったという。だが冨士は一番高いので、明治時代に、上の点をつけたのだといいます。新しいんですね。


川越散歩(5月22日)

 昨日は、文庫の仕事に必要な鐘楼を川越に撮影しに行った。

 それで車を市役所前の駐車場に入れ、その前にあるそば屋の「百丈」によって、川越の鐘楼のありかを訪ねたのだ。このそば屋さんは、関係がなかなか濃い。

 まず、そこの娘さんが、私の元弟子であること。

 その店のインテリアを私のテニス部の後輩中山秀明が設計したこと。

 お母さんが、このアトリエの大家の親しい奥さんの高校のクラスメートであること。

 てなことである。

 百丈は、旦那さんが脱サラで始めたそば屋さんだが、テレビや雑誌で紹介されるなど、とても繁盛しているようである。その建物の3階はギャラリーになっていて、私も2回ほど個展をさせてもらった。

 そこを出て、歩きで川越を歩いた。目的の寺に行って、建物を写し、こうやって取材がてら、いろんなものを撮影するのも良いもんだなあと思った。だから、いろんな建物とか気になったものを映してきた。

 一軒空き家だったところに京都のちりめんのグッズを販売している土産物屋がオープンしていた。商品が激安なので、あとで蔵通りの知り合いの本屋さんに聞いたら、1000円ショップだというのである。とにかくほとんどの商品が1000円以下で300円くらいが中心か。
 やはり東南アジアで作っているらしい。そのあとテニスを久々にした。日焼けで腕に小さな水泡が出来た。


OB戦中止(5月21日)

 東洋大学工学部のテニス部OB戦が今日おこなわれるはずであった。現役とOBの役員が企画した大会だったで大学がある土地に住んでいる唯一の役員だから、ほとんど現役と私が企画したに等しい。

 とても残念。

 昨日の暴風雷雨で、コートが使えなくなったらしい。

 面白いもので、多分何年も前の現役だったら、その後晴れたのだから、コートの水を雑巾なんかで、吸い取って準備をしただろう。そうしたら出来ないこともない。

 そういうことをする現役の代としない代があるのだ。ある代から、自然に水がなくなるまで待っているようになったことがある。そういう代が現れると、昔からそうしていたと勘違いするのか、その後ずっとそれが続いていくのだ。

 確かにやわらかくなったコートが水を汲む作業であれたりするだろうから、ほおって置くというのはあるのだろう。

 でも、私は雑巾で、水を吸い取る派だ。テニスをしたいから。

 全国のテニス部のOBの数は400人くらい。そこに会報を出し、OB戦があることを知らせる。OBからの集金もする。大して集まらないが、その金額がほとんど、会報製作代・送料以外は現役のへのものの援助に使われる。

 だから、結構な設備を今は備えている。ほとんどの設備がOBからのプレゼントなのだ。

 それに大学側から、3コート全てに照明をつけていただいたので、ほぼ完璧なクレーコートになっているのではないか。

 秋にでも、また企画しよう。


後ろ向き信玄・勘助・勝頼完成間近(5月20日)

 風林火山展に向けて、Tシャツ用の武田の三将の後ろ向きイラストが完成する。このシリーズは3人で一応終わる。

 次は5頭身のそのシリーズではなく。8頭身のかっこいいキャラクターのイラストを作る、対象の武士は三人に武田信玄の妻「由布姫」をいれて、4作作る。

 また、甲府に「武田館」という武田信玄にまつわる展示場が出来るそうで、そこに飾りたくなるような信玄その他の立体きり絵作品も製作したい。

 ゆくゆくは、立ち姿の武田二十四将・立体切り絵の武田二十四将を製作したい。
 ただ、この仕事に専念しなければ、他の仕事もあり今年中には間に合わないだろう。何とか来年の信玄公祭りには完成したい。 


切り絵作家・柳沢京子氏と会う(5月19日)

(柳沢京子氏のHPは上記の、柳沢京子という氏名をクリックすると見られます。)

 柳沢京子氏に昨日長野に行って、会ってきたのである。

 彼女を初めて知ったのは、NHKの「みんなの歌」の絵を見たときだった。シンプルな切り絵でオシャレで、郷愁も感じられて。

 切り絵のあり方の一つだと感じたものだ。その頃といえば、滝平二郎さんが朝日新聞の日曜版に切り絵を連載した影響からか、関口コウ・にいみずよし・井出文蔵とか活気ある人が現れている。その前に大御所、故宮田雅之も出ている。

 私はといえばようやく切り絵を始めた頃であった。

 関口コウさんは一度お会いしている。にい氏とは一時展覧会をした仲間であり、とても仲がいい。井出氏は私の展覧会にいらっしゃってお話をしたことがある。

  メールでいただいた道筋をたどり、車を走らせアトリエに着きいた。外壁は木造の部材をたて張りにてありとてもオシャレな建物だと感じて、恐れ入った。初対面であるので、ちと尋常じゃない気持ちではあったが、とにかくドアチャイムを鳴らした。

 写真も見たことのない方なので、それに、田中康夫知事を担ぎ上げた、組織の会長さんだったということだから相当いかついおばさんを意識していた。

 お会いしたら、テレビで見た女優さんにお顔がダブってしまったが、そうなとても軽やかな方だった。お年は60を越えたとおっしゃっていたが若々しく、可愛らしい人だった。他に3人の若い人が、アトリエにいて、その方々がアシスタントだとしたら、すごいと思ったが、息子さんと娘さんとだった。息子さんは建築設計士、娘さんはステンドグラス?をしているそうで、もう一人は息子さんの仲間だそうだ。旦那さんは最近なくなられたということで、家族で全員が集まって、作業している現場であった。

 アトリエの中はとてもきれいで、美術館になっていた。シンプルなラインの切り絵作品が並ぶ。うらやましい。
 
 長野の自然を切り絵にしていくというテーマで、仕事をなさっているということで、私と決定的に違うことは「自分の作風を壊してまで、仕事をもらうということはしない」ということだった。

 私の場合、オーダーに合わせて作るのが仕事であり、楽しみでもあるのだが。

 展覧会を2ヶ月に一回のペースで全国を回っているという。何から何まで私と違う。ただ、組織に入るのが嫌だというのは私と同じであった。彼女は切り絵協会的なものには所属したことがないという。

 私は立体作品・平面作品をもって行った。とても感心していただいた。切り絵の実験をしていっていると私の方向性も支持していただけたし、立体も大歓迎だと切り絵はつながっていなければという約束事から外れてしまっても良いのではないかと幅の広さも感じさせていただいた。

 近頃、切り絵だと称して、単に写真や絵をコピーしてなぞり切りするする人が多くて嘆かわしいとおっしゃった。指導者自体が自分で絵を描いていないことが多いのである。埼玉も山梨もそういう団体があり、200人300人と人を集めている。あれは切り絵ではなく「手芸」だとおっしゃっていた。私も同感である。

 下絵を描くということは、大変な労力なのである。それなしに、ほんの上澄みをもらって切り絵と称し、展覧会ではそのことを披露しないとしたら詐欺に等しい。見に来た人間はちゃんと下絵も描いたと思うからである。

 互いに感じ入り、4時間あまり、間断なくしゃべり続け楽しい時間を過ごした。

 そば屋さんに行ってご馳走になった。そこへたどり着く前に、ベンツを走らせた路地がしだいに細くなって通れなくなり、とても難しい状況で、お留守の家の広くない庭に車をいれてターンをした。その誘導を私がしたが、的確なハンドル捌きには驚いた。困った割には解決策が早く、そば屋に遅くならずにたどり着いた。

 そば屋は満席だったが、私たちと入れ替えに出て行った人たちがあり、座れた。みんな荒っぽそうなそばをすごい量食べている。それが普通かと思ったが、どうも大盛りのようである。私たちは普通盛りだったが、食べてみると腹へたまりそうなほどしかりしたそばだった。

 柳沢さんは、長野県内のさまざまな方と交流があるようだ。多分女性としては県内一のフットワーカーなのかもしれない。

 私が、今度チーム百鬼丸を立ち上げたこと、来年の大河ドラマに向かって、山梨県内の観光用のキャラクターを作ることなどを話をしたら、長野も武田信玄だとつながりがあるので、長野でも展覧会をしてほしいとのこと。来年、小布施の美術館ですることになりそうである。全く、山梨県外は考えていなかったので、思っても見ないことであった。

 まだまだ、おしゃべりしていきたいところであったが、お仕事もあろうかと2時半くらいには立ち去った。一緒に写真をとって、HPに載せたかったが、そんなことも思い出しもしなかった。

 帰りには画家の玉村豊男さんの経営する農場およびギャラリー・レストランに足を運んだ。とてもすばらしい、環境で、嫉妬しきりであった。


チーム百鬼丸始動(5月18日)

 郷里の山梨県の富士吉田市に、「百鬼丸の知名度を上げよう」という趣旨で幼馴染の仲間がチーム百鬼丸を始動させた。私はというと、私の絵を使って、富士吉田に産業を興そうという趣旨で、チーム百鬼丸を起こしてもらおうと思っているのである。

 ちょっと、趣旨のずれがあるが活動内容にずれはない。今のところ、来年の大河ドラマ「風林火山」に向けての、グッズ作りのためのイラストを私がそろえること。幸い出版の仕事もそれほど忙しい状況ではないので、その隙間を縫って、作品作りに専念したい。

 といっている矢先の今日は長野の切り絵作家・柳沢京子女史に会いに長野に行ってくる。彼女とは初対面であるが、将来、一緒に展覧会を開こうと思っている一人である。日本のプロ切り絵作家を集結した展覧会を、一度やりたいと思っているのである。

 今のところ、群馬の関口コウ氏・横浜のにいみずよし氏から快諾を得ている。いつ出来るかわからないが、スポンサーを募って、画集を出すとかまで行ってみたいと思うのだが。


Tシャツ完成(5月15日)

 

 今日は富士吉田で、ある雑誌の取材を受ける。それを間に合わせるようにTシャツを作った。当然商品になるように開発したイラストだ。

 本当はもっと、いい写真にしたかったがカメラのほうでカードエラーが出て撮影が続行できなくなった。こんな写真で我慢してもらおう。当然Tシャツは販売するので、ほしい人は連絡下さい。価格は未定。2000円前後だろう。

 武田信玄をモチーフにしたもので、この後姿のシリーズにして、あと山本勘助・武田勝頼を作って行きたい。


天気が悪い(5月14日)

 天気が悪いと、Tシャツが出来ない、というより出来にくい。Tシャツのプリントには、版が必要だ。シルクスクリーンというけど、その版の作り方にいろいろあるが、私の場合は感光法というのを使っている。

 この方法は太陽光が必要となる。晴天のときは2分から3分で版が出来てしまう。しかし、今日のような曇天だと、30分くらいかかる。それも失敗する可能性が高い。

 今日は教室もあるが、Tシャツ製作をしながらになる。


ダビング中(5月13日)

 今まで、テレビ出演あるいはイラストを提供した番組のビデオを、ダビング編集できる最新のHDD・DVDの機械で、まとめている。いや、便利だ。今までたまっていたビデオをすべてハードディスクにいれて、DVDにダビングしている。

 これから、そのDVDを友人たちにばら撒くつもりだ。しかし、いままで、全国放送なんかで出演しても、誰にも言わなかったりしていたが、これからはまめに友人とかには知らせたい。

 ほしい人はご連絡下さい。


思えば遠くに来たもんだ(5月12日)

 月刊小説誌の締め切りが終わった。上の絵がそうだが、何も見ずに描いたがよく馬なんか描けたと思う。昔だったら見なきゃかけない絵だ。見ないで描くといったことが大事なことではないないと思うが、こんな写真なり、絵を探す時間があったら描いたほうが早いのだろう。

 近頃は時代考証の本以外は見ないで描いている。

 職人技なんだろう。


楽しみなTシャツ製作(5月11日)

 これから、しばらくTシャツ用のイラストを製作するつもりだ。15日に、私がイラストを担当した陶壁画のある、山梨の吉田高等学校の食堂で、ある小冊子の取材を受けるが、その時にTシャツが間に合えば良いと思っている。

 みやげ用に、武田信玄をテーマにしたイラストにしようと思うので、少々ダサい可能性がある。画像UPは私がTシャツを着て映りたい。


飾られた絵(5月10日)

  

 もともと、アトリエに絵を飾ってあって、それで、美術館と称していた。しかし、本箱の上部にフックを付けて絵をつるしていたわけで、今度は本が取り出しにくくなって、絵を飾るのを止めていた。

 アトリエ改造とともに、壁が全てむき出しになったので、天井のボルトをはずして、その穴にフックを付けてつるすことにしたのである。まだ、紐の長さも適当だが、定期的に絵を入れ替えていこうと思う。

 見学は下記に連絡の上、ご来場下さい。


ダイエッター(5月9日)

 昨日は、酒を飲んだが、仕上げにラーメンを食べてしまった。体重増である。もう何年もダイエッターをしているが、メモリは上がったり下がったりだが、一昨日は久々に最低記録を更新したばかりであった。

 だが、全くのそれが水の泡となった。また気持ちを新たにして、がんばろう。とほほ。


春最終試合(5月8日)

 期待はずれに終わった。2回戦負けである。ペアがよかったせいで、1回戦より2回戦のほうが緊張した。1回戦は6−1で簡単に勝ったが、2回戦は練習豊富なご老体。前にもやったことがある人たちだったが、とにかくうまい。ミスがない。

 こういう人たちと普段やっていない。私のクラブには60歳以上の方で、こんなにうまい人はいない。私より下の人では、うまいというとがんがん打ってくる人だ。まだ技術的に私はまだだが、それを獲得して、彼らを次に撃破したい。

 これで、川越の春の大会は終わった。次は秋の大会だ。


テニスの試合結果(5月7日)

 昨日壮年45歳の、ダブルスがおこなわれた。結果は1回戦敗退。相手は第3シードだった。バランスのいいすべてに我々を上回っていたチームだった。ちょっと力みすぎもあった。

 一昨日テニスをしたときに、アイデアが浮かんで、サービスを変えてみた。かなり威力のあるサービスになった。これから、これが私のサービスになるだろう。他の人がやっていない珍しいサービスなんだろう。

 今日は最終の試合。壮年55歳ダブルスだ。今度はベスト4にドロー上ではなる気がする。ペアは昨日とは違う。私より実力は上の人なのかな? 


寝ずの番・・・む!(5月6日)

 ちょっと前に映画の「寝ずの番」を見に行った。予告編が面白そうだったからだ。津川雅彦が監督だし、伊丹十三を思わせるなあと思ったものだ。

 見た。しょっぱなに予告編の「おそそ」の部分がある。ちょっと期待はずれに短かったが、まあいいテンポである。

 その後、登場人物が次々になくなって、しょっちゅう寝ずの番をして、なくなった人物の過去のエピソードを披露したり、宴会になったりする。すごい豪華な役者が出演しているのである。

 が、やりようによってはすごい面白そうな映画になるはずが、だらだら、メリハリなく話が続いていくのである。つまらない2時間ドラマを見せられたような気がしてきたものだ。
  
 がっかりした。


夢3(5月5日)

 空を飛ぶことがあるのである。飛び方なんだけど、一生懸命両手を、鳥の様に羽ばたかせる。すると、最初はなかなか浮き上がらないんだけど、そのうちに、電信柱のちょっと上くらいに浮上する。ちょっと羽ばたきを止めても、何とかそこにとどまっているのだが、そのうちに降下に向かう。

 そこでまた、思いっきり羽ばたく。そうするとまた浮上してくる。両手の羽ばたきに比例して、スマートに飛ぶのではないのである。そのうちに、とうとう降下して着地するのであるが、もう羽ばたいても、浮上できなかったりする。

 だが、上空を飛ぶときは、他の人にない能力を持つ自分に優越感を持つのである。


夢3(5月4日)

 実は単位が取れていなくて、未だに大学生だったのを忘れていた夢を見る。卒業して30年以上も経っているのだから、大学にそんなにいられるはずもないのだが、夢の中で「えっ、まだ俺大学を卒業してないの?」と気がつくシーンがあるのである。

 私は大学は好きではない。もう勉強したくないので、全然嬉しい夢ではない。


夢2(5月3日)

 高校の同級生で、グループで良く遊んだ女性がいる。この人の夢を見る時は、彼女がいつも病気で余命いくばくもない状態なのである。だが、いくばくもでなく、なかなか亡くならない。

 私も、夢の中とはいえ、死んでもらいたくない。


富士山にゴジラ(5月2日)

 富士山にゴジラが向かっている。そんな夢をよく見る。山梨の大月あたりを今進んでいる。当然大月は火の海である。おっつけ郷里の富士吉田に現れて、あたりかまわず火炎放射を吐き続けるのは必至。

 みんな、四方にうろたえながら非難している。そこに大八車なんか引いたりしている人がいるのはちょっとおかしいが、そんな状態なのである。

 子供の頃からその夢を見るが、一向に富士吉田に到達しないのだ。夢はただ、そのシーンを繰り返しているだけ。富士山の青木ヶ原の樹海を炎の海としているの見たことがない。


テニス2回戦負け(5月1日)

 昨日はいい天気。やはりこのくらいの暑さはテニスの試合には良い。

 しかし、一回戦の試合というのは緊張するせいで、とても疲れる。不思議なもんだ。私だけではない。みんなそうなのだ。何か人間のしょうがない生理を感じる。だから2回戦になるとのびのびするから、私のようなそこを我慢できない、人間はばかすか打って文字通り打ち死にしてしまう。

 一回戦は、変則的なフォアもチョップ気味のスライスを打つ人だった。3−0とリードされて、ちょっと負けを覚悟したが4ゲーム目でネットプレーに出たら形勢逆転。そのまま6−3で勝ってしまった。多分、ボレーが出来なかった昨年だったら負けていただろう。

 二回戦は、サービスも速い人だったが、セカンドサービスが極端に遅い人で、それで追いつけず取れない球が二本あった。
 今日は得意のフォアの高いところで打つのを封印した。微妙なコントロールが出来ないからだ。そんなことで、一般的なうち方で、打ったがよく球を拾う人で、まあカウントほどに差はなかった人だったと思うが、結果は6−2だった。

 今のところ、シングルよりダブルスのほうが、私は向いているのだろう。しかし、楽しい緊張の一日だった。


私は火の玉小僧(4月30日)

 展覧会が終わって、これから、私を中心にして、いろんな企画を立ててくれる集団が現れた。田舎の幼馴染たちだ。私はその声援にこたえるために一生懸命いい作品を作っていくつもりだ。

 まだ、作品群に手をつけていないが、これからバリバリ作っていく。いい報告が出来たらいいと思う。


展覧会終了前日(4月27日)

 1ヶ月の展覧会も明日で終わりだ。明日は午前中、即興切り絵を3時間して、昼は富士吉田で切り絵教室、その後展覧会の片付けという段取りとなる。25日に朝日新聞・山梨放送の取材があり、私がいないときに人が入ったかもしれない。

 「吉田のうどん」もよく食べた。一番よかったのは、富士吉田のバイパス沿いの昭和医大入り口交差点を、富士山川に曲がってずんずん行かないと着かないうどん屋の「麺ズ・富士山」だ。

 とにかく、周りは富士の裾野の赤松林に囲まれ、富士山の中にある臨場感は抜群だ。それに、うどんそのもののうまさも良い。そこでは、バイパス下に製麺所もあり、麺だけ売っている。

 たまたま来た女性の同級生とそこにうどんを食べに行ったが、とにかくこんなところにうどん屋さんがあるの?って場所で、ラブホテルもあり、一瞬、勘違いされそうになったかもしれない。

 写真は左から、銀行内で製作した作品「月夜の魚」、むかし無断で私の絵を変えて作られたレリーフ(これが原因で、富士吉田市役所から距離を置くことになった)、展覧会を開催中に撮った富士吉田市の富士山。


6つ目終わり(4月26日)

 昨日、6点目のロング即興切り絵が終わった。毎日、二日酔い状態で、やったのと、意外に細かい作品をしたのが、作品製作が少なかった原因だが、作品レベルは何とかキープできた。

 製作に夢中で、写真撮影が気がつかなかったりしている。富嶽三十六景を目指すつもりなので、後30点どこかでやってみたい。


第三コーナー(4月24日)

 今から、山梨に行ってくる。今日と明日で、切り絵の即興は終わりだ。予定通り10点は出来なかったが、いい勉強になった。そしていい思い出になった。じゃあ行ってくる。


帰ってきた酔っ払い(4月23日)

 昨日は、調布教室で、その帰りに府中本町で飲むのが楽しみになっているだが、一人で飲みすぎてしまった。

 昨日は競馬があったらしく、街は喧騒としていた。それに人身事故が京王線であったらしく、道路が混んでいた。本来なら京王線に乗ったらえらいことになっていた。何故かと言えば、弟子の車に便乗して府中本町まで送ってもらったのだ。お陰で、電車の中で、長時間待たされることが偶然なかったのだ。

 私にとって、たまにしかいかなくなった東京は全くのおのぼりさん気分なのだ。

 よく飲んで、よく鶴ヶ島までたどり着いたと思うくらい飲んだ。手荷物も無事にホールドしておった。

 しかし、身体に悪い。たいがいにしなければ。一日おきに・・・・・・?

 そうしようか。


久々のテニス(4月22日)

 今日は調布の教室である。その前にチョロットテニスに行ってくる。二時間くらいしか出来ないが、来週はテニスの大会がある。1回戦突破の目標でがんばりたい。


肝臓どうにか?(4月21日)

 ふるさとでは連日の宴会で、昨日は同級生の美女3人に囲まれてのもてもての宴であったが、アルコールが全然入らず。申し訳ないことをした。また次に会おう。

 よは満足じゃ!


富士山製作に行ってくる(4月19日)

 さて、今日明日と富士吉田市の展覧会に行ってくる。銀行での富士山の製作は2日で3作のつもりだ。でないと予定の作品すうが出来ない。

 何をしようか悩む。今回は何か資料を見ながらやってみてようと思う。
 
 昨日の北方氏の司馬遼賞は、内輪のパーティと思っていたら、雰囲気はかなり大きなことになっていた。宍戸ジョー氏も来たり、なべさだ氏が来たり、それから友人作家のスピーチは楽しいものだが、さすが文章に関わっている人ばかりで、すらすら言葉が出てくる。

 私は作家とは宮部みゆき氏と、森村誠一氏と、夢枕獏氏とお話した。

 

左の写真。左から、北方謙三氏、宍戸ジョー氏、なべさだ氏  右の写真、宮部みゆき氏と私


こんな展覧会初めて(4月18日)

 銀行での展覧会は、一般的には素人の展覧会だが、銀行で張り付いて切り絵のライブをしていれば嫌でも目に付く、宣伝にはとてもいい。それに、街を動かしている大物といわれる人たちが、うろうろしている。

 いろんな企画が持ち上がってきそうな気配だ。

 ライブ作品をアップする。左から、冨士を持つ人・蟻の冨士登山・ふくろうの棲む冨士


今日も富士吉田(4月16日)

 今日はまた富士吉田に展覧会だ。よく眠ったし、いい作品を残して行こうと思う。きっと桜も満開だろう。

 ただ、今日帰ってくる。明日は北方謙三氏の司馬遼太郎賞受賞の内輪のパーティ出席だからだ。


よく眠った(4月16日)

 今日も教室がある。午前と午後だ。その前に仕事を片付けたい。もう2時間ほどで終わる。午後から編集者が取りに来る。よく眠った。薬の力を借りたが。

 富士吉田での都留信展での即興切り絵「富士山シリーズ」は。現在3点が完了したが、早速2点につばがついた。すごいいい作品が出来ているから、売れ方もいいだろうなと思ったがその通りになって、とても嬉しい。最も、10点一括で買う希望の人もいるようだから、そちらが優先になるが。

 さあ仕事を始めよう。読者の皆様健康で今日もがんばりましょう。


寝不足百鬼丸(4月15日)

 疲れた。とにかくばてばてで、3作作った。カメラを忘れたから、その様子も映していない。一日目は昔の私の近所の堀内丈夫さんと昔、織物の市場をやっていた街に出来ていた「そばやー久保田」で飲む。とても素敵な店だった。丈夫ちゃんは現在仕事は止めているそうで、おばあちゃんを見取った犬とその恩返しにと面倒をみているというが、結局は2人の親子に犬が仕えているということだ。私の愚痴も聞いてもらった。

 もともと活発に動いていた人だし、それなりに顔の広い人だ。それだったらそう皆に言って見るとかということばがほとばしる。まんがのキャラに出てきそうなタイプの人で、それこそ「あしたのジョー」の親爺なんかのキャラにぱぴったりだ。

 その店にあとから同級生の羽田武義と渡辺立子が現れて、引き続き飲んだ。もう、かなり酔った。帰ることにして、親友のの佐々木節夫がタクシーの運転手をしているので、彼がいるタクシー屋を歩いて訪ねた。昔の映画館があった西裏とかをよれよれと歩いた。街もよれよれである。別に彼に電話してタクシーを呼んでもよかんったんだが何故か歩いた。

 タクシー操車場までいって、私はばたんと道路で眠った。佐々木に起されて、家まで運んでもらった。彼は「明日は俺のところへとまれよ」といってくれたのでそうすると伝えた。眠れないたちである。眠ったのは12時だと思うが、起きたのは3時だった。もっと眠りたかったが眠れないので、4時にファミレスに行って仕事をはじめることにして、家を出た。

 ジョナサンに行って、仕事を始めた。結局あと1時間で完成というところで、再び銀行に行かなければならない。つらかった。絵は今度は木にたくさんのふくろうが、佇んでいる絵でバックに富士山がある。楽しい絵だ。だがとちゅうで休憩してでは眠り込んだり、とんでもない状態。それでも3時までやったが、完成しなかった。その日の夜は佐々木氏のアパートに行って飲むことになっている。

 彼はまめな人間で、いろいろの具を入れたなべを用意してくれていた。それが終わると彼の目はもういつもと違う、酔っ払い独特の座った目になっていく「文昭、店に行こう」。これで終わりだと思っていたが、そのあと二人は韓国パブを3件はしごしたのであった。帰ったのは2時。そしてまたまた起きてしまったのが5時。買っておいた睡眠薬を半分ので、1時か眠って、それで、何か体調が少しよくなったが、依然つらい状態に変わりない。
 
 そして銀行での即興切り絵。ふくろうが終わり、今度はコノハナサクヤ姫(富士浅間神社のご本尊)にはいる。なかなか良いかおが出来ている。

 そのあと閉店まで、幼馴染の渡辺純三氏が来て、銀行内で話した。私のいろんな活動の希望を伝えた。彼は私がすごい作家になったのでといろんな注文がしにくくなったと勘違いしていたようだ。

 もともと私は大衆化路線が頭にあるのだが、作品のクオリティーの高さで遠慮が皆さんにあるらしい。もっと富士吉田のビジュアルに貢献したいと伝えたのである。

 そして帰ってきた。すごい濃い3日間だった。皆さん有難う。


吉川英治文学新人賞(4月12日)

  

 昨日は吉川英治文学賞の表彰式があった。あまりお付き合いはしないが、仲のいい今野敏さんが新人賞を捕った。今日は私も6時に富士吉田に展覧会で出発なので、長い日記がかけない。アトリエに帰るのは15日になる。

 左から、作家の藤水名子氏・北方謙三氏・受賞者の今野敏氏


ハード切り絵(4月10日)

 昨日は富士吉田で展覧会をしている銀行内で、即興切り絵をした。テーマは「富士山」だが、昨日の内容は「富士に登る蟻」だった。蟻が一列に富士山に登っていく絵だ。

 細かい。結局すべて上がらなかった。明日また行く。

 今日は教室と吉川英治文学賞に表彰式に出席だ。


二作目(4月10日)

 さあ、今日は山梨県富士吉田市の銀行での展覧会で、即興切り絵第二作目の製作だ。朝6時に出発する。前回の作品の出来がよかったので、負けない作品を作って来たい。

 ただ、今回の即興切り絵は、5時間というロングなものなので作品の出来はいいのだが、下絵から完成まで、一括して見られないので、見ている側は、感激が薄い。そのことがわかっただけでもいいのだが。作品を取るか娯楽取るか難しいものである。

 昼は「吉田のうどん」を食べ、日帰りで帰ってくる。明日は吉川英治文学賞の表彰式があり、大好きな今野敏さんが受賞したので行ってくる。彼に絵をプレゼントすると約束してあるので、その作品を持って。


風が強い(4月9日)

 風が強い日は、駐輪中のバイクが転ばないか気になる。二度風で今シーズンは転んでいる。運転中はないのでご心配なく。

 今日は、東洋大学工学部硬式テニス部の現役が来て、5月21日の工学部OB戦についての打ち合わせをする。まず会報を作って、部長の挨拶・現役主将の挨拶・今年の戦力・OBからの寄付金の要請・会計報告・OB戦の日程等を印刷して、全国300人のOBに送る。

 OB戦といっても、なかなかOBは集まらない。連休中というのもいいが、現役に迷惑がかかるので止めている。来年はやってもいいとおもっている。遠方のOBはそのほうがいいと思う。

 工学部OB会の寄付金で、大学のコート内の備品はかなり充実している。工学部OB会といっているが、もう一つオール東洋のOB会というのがある。体質がかなり違っている。接触はない。


いざ、巌流島(4月8日)

今日締め切り・百鬼丸天才・お前なら出来る・がんばれ百鬼・


かもめ食堂(4月7日)

 「かもめ食堂」という映画を見てきた。全体に演劇臭が漂った映画だった。面白かったが、私には違和感のあった映画だった。肌合いが合わないというか。それほどでもないが。主人公が、客が来なくても平然としているところがかっこいいのだろうが、私には、違和感があった。外国で、一人で食堂をし始めて、客が来ないとなれば、心中穏やかではないはずだし、お金は大丈夫なのかとか。

 事実の話らしい。

 でも、全体には楽しめたと思う。


一つ終わり(4月6日)

  昨日は編集者の高橋栄氏が来て、完成した文庫用の作品をもって行った。ほっとした。明日はもう一つの締め切りの中央公論社の森村誠一さんの本「刺客請負人」シリーズのイラストをしなければならない。

 それからもう一つ入っているが、それは10日までに終えて、山梨の即興切り絵ライブに臨まなければならない。いずれにしても、そんなに立て込んでいるわけではないので、気楽に出来る。

 それから、私と多くの本で組んでいた妹尾君というデザイナーが、国立か国分寺かの市長選に立って、デザイナーを廃業するのだという。とてもハンサムな方だから、話題にはなるだろう。民主党からの出馬である。がんばってほしいものである


いい気分(4月5日)

 昨日は初めて、5時間の即興切り絵ロングライブをした。やはり、いい作品が出来た。いい気分である。今まで、見る側が全部見られるようにと40分くらいで80cm×110cmを切ってきたが、それは見る側を意識しての時間だった。

 いい作品を残したいと思ったら、今回のような試みも捨てたもんじゃない。そうだ、一年一日一点作るとか。そんなのとても出来ないだろうが、やってみたい気もするなあ。

 即興切り絵のいいところは、やりたい絵がいっぱいある私としては、それを果たすにはいい機会なのである。


荷物忘れる(4月4日)

馬鹿だよな。一つ荷物を忘れた。芳名録とか吉田高校新校舎のトイレマークのタイルとか。それからスチレンボードも。まあ、それでもそれだけですんだからよかったか。

 今度は10日に行く。

 今日6時間のロング即興切り絵をしたが、やっぱり6時間は疲れる。しかし、今だから出来るのだ。がんばろう。そしていい作品を残そう。今日の作品は撮影しなかった。でもいい作品だった。

 今度行ったときに写真撮りしよう。

 吉田のうどんを昼に、二軒はしごした。一軒は、よくテレビに出てくる白須うどん。具がキャベツのおひたしのみのメニューというのは寂しい。うどんはうまい。

 それから三浦うどん。中のおばあさんは駄目だ。トイレの表示がおかしい。トイレの扉に「お手洗」と大きく書いてあるのはいい、だがその下に「お手洗いは右」で矢印がそのほうこうなってれば行く人もいるだろう。いったら、ベッドの部屋だった。「ちゃんと書いてあるでしょ」とむっとしていたが、こちらも気分を害した。誰だって途惑う。

 お手洗いだけでいいんじゃないの?


さあ飾りつけ(4月3日)

 富士吉田市都留信用組合展の今日は飾り付けに日だ。まだ準備は終わっていない。300点の本のカバーのコピーをしてパネルに貼り付ける作業は終わった。まだ葉書を出していない。そのほかいろいろある。

 出発は11時、それまでがんばる。


花粉症はこれから(4月2日)

 毎年、花粉症は5月が絶好調。今年はストーブをたかなかったから、鼻炎が少なかった。前は鼻炎とストーブの因果関係がわからなかったから、机の目に前において、暖まっていたが、その時は、くしゃみ鼻水がすごかった。

 机を遠ざけたらてきめんに減った。

 それでも2月からは少しは出てくるが、5月が一番ひどい。毎年か見すぎて鼻血が頻繁に出る。教室をしているときに、教えている生徒の前でタラーッと鼻血が出てきたりして。勘違いされちゃうよね。

 ということで、毎年、花にボッチをして授業しているのだが、果たして今年は。まだ鼻血は出ていない。


展覧会の準備(4月1日)

 あと展覧会まで2日、まだまだ、全然準備が出来ていない。ひたすらがんばります。


久々のテニス(3月31日)

 久々にテニスをした。今年は忙しくて1・2月はテニスをほとんどしなかった。3月に入って、始めた。しかし、とても調子がいい。最近、バックのスライスをおぼえた。出来てみれば簡単なもの。すべてのプレーは出来れば簡単なものなのだ。

 簡単だから、ミスが少なく正確に出来る。それが、テニスの(どのスポーツもそうだろう)極意といっていい。

 これで、バック・フォアのストローク、ボレーが何とかいい感じにそろった。後はサービスとスマッシュだ。サービスは何とかなるんだけど、スマッシュはとんでもなく駄目だ。ばらつきがある。スライス回転になったり、振り遅れたり。

 原因はわかっているのだが、一生懸命、もち方とかをいじっているのだが、ぶち当たらない。でも、もうすぐ追い詰めることが出来ると楽観している。

 明日は川越の一般シングルスだったが、うっかり見落として、スケジュールを入れてしまった。

 大ハードになることを考えると、ほっとした気持ちもある。シングルはつらい


富士山の水(3月30日)

 昨日は富士吉田教室に行った。富士吉田の道の駅にある「富士山の水」は本物かという話題になった。

 吉田(富士という文字は、市になったときにかぶせ、もともと吉田という名の町)で一番いい水といわれているのは、北口浅間神社の、水である。近くでもあり、それと同じ水であるとのお触れが、その道の駅の水なのである。

 だが、地元では疑いの目で見ているようなのである。とかく地元というものは、地元のものをいいものと見ない傾向もある。たとえば富士山。あまり、地元の人間は興味がない。富士山が世界遺産になっていないのも、地元の人間が、富士山を大事にしないことが一つの原因になっていると思う。

 というわけで、教室が終わった後、思い出して中・高のテニス部の先輩が社長をしている、道の駅にある「富士山ビールレストラン」の堀内光太郎さんのところに行った。

 驚いたことに、道の駅の「富士山の水」コーナーは5つある流水口が全部埋まり、ちょっと並んだりしているのであった。大きなポリタンクに入れている人もいた。とにかく、一人ひとりが大量なのである。

 私も3つの2Lのペットボトルを買って、入れた。実は、何日か前にNHKラジオの深夜便で、水をもっと取りなさいというお医者さんの話があって、気になっていたのであった。

 つつがなく水を採取して、レストランに行った。だが、堀内さんは「昨日社長職を定年で、おやめになりました」という。寂しい思いがした。「富士山の水」の話も聞いてみたかった。ただし、偽物でも公表するつもりはないが。


金額もさまざま(3月29日)

 昨日は、改造したアトリエの、いらなくなったごみを出しに行った。まず、大量に作ったイーゼル(デッサンのときなんかに絵を置く斜めの台)を壊したので、大量に出た木材、針金・網焼き等の不燃物、ワープロ・ビデオ・テレビ、七輪その他を車に積んで行った。

 最初はテニスクラブのオーナーがほしいといっていたシートをあげに。そしたら、木材もほしいとのことで、そこで木材の長いのだけ下ろす。そして、カインズホームへ。吊り下げ金具、ゴミ袋を買う。次はごみ処理場に行って、木材をおろす。無料。

 次はテレビと断熱材。産廃処理業者に電話するが、テレビは引取り代が2850円かかり、メーカーへの運搬費が3000円かかるという。ヒエーとんでもない値段。断熱剤だけ引き取ってもらうが、1500円。そして、真の目的の額の材木を切ってもらった都幾川村の建具屋さんのところへそれを取りに。

 そして一番最後になったテレビは、ヤマダ電機に電話したら、引取り代は同じだが、メーカーへの運搬費が1000円だという。それで、カインズホームに持ち込んだ。

 不燃物ごみ処理場に行ったとき、ゴミをブルトーザーでつぶしていたが、ちょっと申し訳ない気がした。便利もいいが、裏ではどうしようもない光景があるんだと、もう物は買うまいなんて思った。

 まだ、やらなきゃならない雑事は減らない。 


都留信用組合展まぢか(3月29日)

 山梨県富士吉田市での展覧会が間近だ。今回は都留信用組合という富士吉田のメインの銀行だ。昨年生徒の展覧会をしたときは、頭取、そして役員の方々が全員集まって、私を出迎えてくれた。

 今回は私の個展である。まだ準備が出来ていない。最初は私のやった本の装丁カバーを300ほどコピーして、パネルに張りそれを展示するという予定だ。当然原画も飾るが、5点ほどにしておく。

 そして、その銀行内で6時間かけて、「富士山」というテーマで、切り絵を描いていこうと思う。10日間10点の予定。歴史に残る作品に仕上がったらいいなあと思う。

 でもそういう活動をよく許してくれたもんだと感心する。役員の方とお話をしていると、地域振興のために本当に一生懸命だということがわかる。


桜の下で即興切り絵(3月26日)

 今日は、11時から、蓮馨寺の桜祭りで即興切り絵がある。私には知識がなかったが、かなり有名な祭りで、人が出るらしい。そこで即興切り絵が出来るなんて幸せである。

 ただ、昨日から腰が時々「ぎく」っとしている。今年はコルセットをはずした日は2・3日しかない。コルセットがこれほど、腰痛に有効とはしらなかった。今日だけど、やっている最中に、腰が壊れなければいいけど。

 昨日は5分フラフープをしたが、もっと腰を鍛えなければ。

 今日は私の生徒が桜で来てくれるのだろうか。桜に下の桜である。


僕はピッチャーだった(3月25日)

 甲子園が始まっているが、小学生当時は野球少年だった。打つほうは、全然だったが、投げるほうは優秀で、小学校のソフトボールの代表投手だった。

 もともと守備がいいわけでなく、打つほうも駄目だから、2軍だった。それで、いいチャンスが回ってきた。その2軍選手の中から、ピッチャーを発掘しようというので、監督が、皆にピッチャーをやらせたのである。その中で、私の玉の速さに目をつけられたのである。

 結局、やっていくうちにコントロールも付き、ついに晴れのレギュラーのエースとなったのである。

 学校対抗戦(5年生までの出場資格)では力んで、投げ方自体を忘れて、失敗した。やはり経験不足だろう。

 次の年の我々6年生と下級生との戦で、三振の山を築いたが、5年生の大会で、力を発揮できなかったのは情けなかった。

 その後の、急に始まった富士吉田市地区対抗少年野球大会(軟式)でもピッチャーで、7回を13三振を奪う投球などして、大会3位になり、最高殊勲選手になった。

 中学になって、野球部に入ったがなれない厳しさに、すぐ退部して、テニス部に入った。それから、野球はしたことがほとんどない。ずーっとやりたいなあと思っている。自慢話です。


シクラメン満開(3月24日)

 今年の春ほど、待ち遠しい春はなかった。仕事をレストランで早朝やる習慣がついて、寒さが嫌だったからだろう。暖かくなって、バイクの移動がとても楽になった。

 私のアトリエには都幾川村から採ってきた、野生のスミレが、初代はもう枯れたがその子供たちが、10株くらい繁茂して、昨年は何故か開花せずがっかりしたが今年は、そちらも満開である。

 前回のシクラメンの日記のときは、まだつぼみだったシクラメンも満開になっている。

 昨日は休日にして柴又方面に向かったが境内横で、ブルー何とかというユリの球根を買ってきた。何か花の咲くのがとても待ち遠しくなっているが、このユリの球根の芽が出て花咲くのがとても楽しみだ。

 柴又帝釈天の参道はかなり活気のある雰囲気だった。鶴ヶ島の隣の川越にもない、こじんまりした、しっとりした風情の参道だった。なるほど庶民的な感じがする。

 境内でお守りを買い。参拝した。歴史を感じる雰囲気だ。彫刻ギャラリーとあったので入ったら、お寺の欄干なんかの透かし彫りだった。すごい見事な作品で、すごい量であった。こんだけ人が入魂して作ったものなら、見る人も頭が下がってありがたいと思うだろう。

 考えてみれば、神業というレベルのものを作る人間たちが集まって、仏の祠を作るわけだから、そりゃあ、神様仏様にまつわる建物は神様仏様が宿っちゃうわけだ。そばに酒を昼は飲んで、次は上野を歩いた。桜が2部咲きくらいだった。いたるところにごみ入れがあった。すごいかずである。花見のときにはこれが一杯になるんだろう。


黒髪が戻って(3月22日)

昨日は、文藝春秋から、「漂民ダンキッチの生涯」というタイトルの本(私がカバー画を担当・神坂氏とは3回目の面会である)が出版されたということで、その報告を、ダンキッチ(伝吉)の墓に詣でて挨拶をしたいとのことで、作者の神坂次郎さん(「お畳み奉行日記」の著者として有名)と私と編集者お二人で、南麻布の光林寺に行った。

 そこにたどり着く前、私はそれに間に合うように、鶴ヶ島の外での用事を済ましている最中だったが、美術評論家のヨシダヨシエ氏から携帯に電話があった。家に泥棒が入って、財布を盗まれたというのである。で、お金がないから貸してくれとのことだった。カードも全部持ってかれたらしい。といっても、銀行にお金はないのかもしれないが。

 ヨシダヨシエ氏は最近はトレードマークの着物が脳梗塞のため着られないのか、洋装であった。ということで、お金を寒中見舞いということで、いくばくかを寄付、そして、見つかったと連絡があった財布をもらいに飯田橋の遺失物センターに、一緒に行ってくれということになった。飯田橋で、用事を終え、私は神坂さんとの会食があるので、食事はご一緒できなかったが、ヨシダ氏と蕎麦屋に入り、支払いを済ませて、立ち去ったのである。

 脳梗塞にしては杖も突かないのだが、歩みは遅いし、疲労がすぐ来るという。「俺は、いくら精神が頑強とはいえ、病気には勝てない」と悔しがっていた。

 電動式自転車も2台会ったが盗まれたという。また頼ってこられたら、お手伝いするつもりでいる。

 ということで、40分ほど遅刻して、新橋第一ホテルに着いた。さっそくそこから、光林寺に向かった。光林寺ではテレビ和歌山と朝日新聞和歌山の記者の方が待ち構えていた。お墓は、英文字が彫られたものだった。英文字のほかの墓もう一つあったが、それが有名なヒュースケンだった。こちらも何回も絵にしている人である。

 神坂氏は、カメラの前で、墓掃除をし、和歌山から持参したみかんと和歌山県に地酒らしきお酒を二本供え、水を墓石にあげて、拝んだ。後から、肝心の本をお墓に備える場面を、忘れ、それは取材人が去った後思い出して、残念がっていらっしゃった。我々も、同じようにお墓を拝んだ。

 20年前に来寺したときには、寺の隣にはマンションはなく、景色が変わっているという。境内には、大きな桜があり、まもなく開花とういう大きさにつぼみが膨らんでいた。咲いたら、とんでもなくきれいだろう。

 神坂さんと墓の前で写真を撮った。また変わった形のヒュースケンの墓の横に立って、写真を撮ってもらった。写真をいただいたら、HPにアップするつもりである。

 そのあとは、銀座に行って、会食した。もともと、本を読むのが大好きな人なようで、常に本を読んでいるという。知識がものすごい。仕事は徹夜でやるが、やらなければならない原稿は全然進まず、もっぱら、本読みとか雑事とかをしながら徹夜の時間を過ごしてしまうというのである。

 散歩して、真っ直ぐ歩けなくなったら、「こりゃ駄目だ。寝よう」ということになるのだとおっしゃる。

 お店を出たのは、7時頃であった。次の約束の野田亜人氏の約束の時間を1時間オーバーしたが、その予想を前もって電話をしておいたから問題はなかった。

 中野富士見町で下車して、彼のところに向かう。実は彼が私の髪の毛が、以前より白くなっているから、「ヘナ」という天然染料で染めてやるということなのである。ということで、彼は私より3歳くらい上のはずであるが髪は真っ黒であったが、このヘナを使っているという。

 ヘナの扱いを教授しながら、1時間くらいで、髪全体に塗りたくるのが終わった。その間、しゃべり通しにしゃべりっていた。とてもおしゃべりな人なのである。横では同居人の黒人の、チリさんが即席ラーメンに鶏肉を入れて食べていた。彼は野田さんがアメリカから帰国時につれて帰った友達だ。

 つつがなく、時間が経過。風呂場で、頭を洗って、シャンプーまでしてもらったとても楽しい時間を過ごさせてもらった。

 家に帰ったのは11時だった。

 てんこ盛りの一日だった。


三つ巴戦(3月22日)

 昨日は、我東洋大工学部の現役テニス部員と教員・職員テニスクラブとわれわれOBの三つ巴戦がおこなわれた。親睦戦である。

 もともと、教職員と現役は毎年大会を開いていたが、ちょっと試しに、OBを入れたらどうかと私が提案したのである。結果はとても好評であった。先生たちも、学生と接するのは実はとても大変なところがあるのである。OBが入ると、学生のときの体験談とか、就職のこととか現役は聞いてきたり、やはり話題が広がるのである。

 先生にしても、年齢も近かったりするから、話しやすいだろう。

 ただ、教職員の方々が高齢化し、また、人数が毎年少なくなっていることが気になる。実は実際はテニスをしている人が教職員に入るのだという。だが、大学の教職員のテニスクラブに入ってこないのだという。出来上がっている組織には入りたがらないというのはよくあることだ。

 これから、この大会は毎年開かれることだろう。

 それにしても私はテニスが不調だった。む・・・。


溺死体2(3月21日)

 こんな話ばかりで申し訳ない。溺死を見たのがもう一度あった。小学校4年のときだ。クラスメートの吉田宮貴君と河口湖に釣りに行こうということになった。珍しいことである。

 当日はよく晴れた夏の日だった。子供にとっては遠い河口湖に、多分徒歩で行ったのだと思う。そういう時代だった。

 釣り場所は、今の河口湖大橋がある、右側の梨宮公園の突端にした。今みたいにそこが駐車場になっていなくて、一面溶岩で、その上を歩いていくのである。

 釣りを始めた。今のようなリールの釣りじゃなくて、それでもいっぱしの折りたたみの釣竿であった。ミミズをえさにして、次から次へと釣れたのは「ギィギィ」という、たぶんなまずの仲間だろう。釣れた瞬間「ギギ」となくのであった。

 顔がグロテスクな割には釣ると、すぐ身体を黄色にして死んでしまうのである。食べられないから、そのまま釣っても魚は野垂れ死にするだけなんだけど。

 そして、我々の前を一人、すいすい泳ぐ若者がいたのであった。当時はプールなんてのもない時代だから、湖で泳ぐっていうのもありだと思うが、地元では危険だから子供は禁止されていた。冷たい湧き水が、あって心臓麻痺を起こすからだという。

 その若者が突然「助けてくれ」と叫び始めたのであった。原因はわからない。今思うと、足でもつったんだと思う。背が届かないような深いところだ。我々はその声を聞いているだけだった。人がいるようなところまでは、かなりの距離があり、行って帰ってくるまでにおぼれてしまうと思ったからだ、さりとて、今のようなリールの装備された釣竿だったら助けられたと思うが、とても糸は届かない。

 一度、沈んでいったが、また浮かんできて、叫んでいたが、そこにタイミングよくボートが助けに来たのであった。だが、失敗した。オールをボートからはずそうとしている間に、おぼれる若者の前をボートが通り過ぎてしまったのである。なかなかオールが外れなくて。本当は手でも出せば助かったかもしれにない距離だった。

 結局助けられなくて、若者は沈んでいった。しばらく経って、一杯ボートが来て竹ざおを湖底に突き刺して、その人を探し始めたのである。見ると向こう岸でも、同じようにことをしていた。多分、あちらでも同じようなことが起こったのだろう。

 その後私たちはどうしたのか覚えていない。ただ、このときの情景はよく覚えている。


溺死体(3月20日)

 昨日は寒かった。寒いといえば私の郷里の富士吉田はすこぶる寒い。昔は富士五湖が結氷して富士急ハイランドが出来る前は山中湖にスケートをしに行ったものだ。

 その時、不思議だったのは誰がひいたのか、氷上にきれいにいくつも400メートルリンクが出来ていたことだ。そこで何回かスケート体験をした。風が吹くとおきに流されたりして危険で、氷にピーとひびが入って、怖い思いをする。

 一度だけ、氷が割れて、はまった女性が救助されて氷上をボートに載せられて運ばれてきた。私は湖岸の道路上から見ていた。湖岸では、木が燃やされていて、そこに女性が裸にされて、暖められているのである。周りは戸板で見えないように囲んでいるんだが、道路上の私からは丸見えなのであった。勿論道路上は、一杯の人で埋まっていた。

 女性の身体を今のように、淫情に見ることはなかった子供の頃だから、本当に目撃しただけなのだが、女性の体が、ろうのように白かったのを覚えている。あの女性は、どうなったのだろう。


腕のいいカメラマン(3月19日)

 立体切り絵というのは、手間がかかるが、その分作品の出来はすこぶるいいと思っている。だがカメラ撮影をしなければならないから、その代金分ギャラ減る。手間がかかるのにギャラが減るのである。

 まあそれはいいとして、撮影は川越の市役所前の中山スタジオでやっている。このスタジオの主人の中山さんは、当然カメラマンであるが、すこぶる腕がいい。私の撮影をほとんどしてもらっているが、失敗というのは今までなかった。

 影のつけ方の判断のよさ、そして初めて金と銀を使った立体切り絵を持ち込んだときに、金と銀を光らせると言ったときには驚いた。そんなことをすれば、画面がまぶしい感じにならないかと思ったからだ。

 しかし、違った。平面の作品では金と銀というのは、印刷では出ない。しかし、わざと反射させて光らせることによって、金属の金銀の感じが出るのである。立体の一つの特徴である事を発見した。

 そこで、私は今は次第に、無彩色と、金と銀しか使わなくなり始めているのである。

 出会いというものは、当たり前だが、人生を変えるものであるが、私の作風を変える出会いもたまにはあるのである。


情景画花盛り(3月18日)

 最近は、時代物に世話物っぽいものが多いせいか、本のカバー画に、おとなしい情景画が多くなっている。画家は、蓬田やすひろを筆頭に西のぼる・安里何とかである。

 この3人の文庫カバーは、大づかみによく似ている。

 私は、どちらかというと、動きのある戦記物・剣豪物で、人物が多いのだが、この「火縄の寺」は、立体で情景画をしたということで、私が初めてやったシリーズなのである。

 それで、中央公論社の担当編集者が、このようにメールしてきたのである。

『著者の鈴木さんからは、たいへん好評でした。
ホームページの日記に、以下のような書き込みをされています。

「昨日は、中公のF氏から『無言殺剣 火縄の寺』の見本が届いた。
F氏からも事前にきかされてはいたけれど、百鬼丸さんのカバー切り絵は、じかに見
るとすごい出来なのがわかる。
どうやったらこんなこと、できるんだろう。やっぱり百鬼丸さんは天才だ。」

切り絵で情景描写をするという新趣向が、とても成功しているように思います。
このシリーズで、百鬼丸さんの新境地が定着することを願っています。
(逆を申しますと、他社さんとのお仕事では、この手法を使っていただきたくないな
あ、という気持ちであります)』


ハ」の字歩き(3月17日)

 時々、見かける女性の「ハ」の字歩き。漫画の影響だろう。私が小さい頃から、少女マンガの女の子が、つま先を内側にした「ハ」の字で、立っていたりした。

 あれは立っている時だけの設定なんだろうけど、勘違いして歩いているときも「ハ」の字にして歩いている。

 かっこ悪いし、痛々しいんだけど。


日にちを間違えて 再び巌流島へ(3月17日)

今日締め切り・百鬼丸天才・お前なら出来る・がんばれ百鬼

シクラメン満開もうすぐ

いちんち日を間違えてしまって、締切日は今日だった。こういうことってたまにあって、得した気分になる。でも、今日は何とか撮影にまでたどり着きたい。


再び 巌流島へ(3月17日)

今日締め切り・百鬼丸天才・お前なら出来る・がんばれ百鬼

シクラメン満開もうすぐ


いざ、巌流島(3月15日)

今日締め切り・百鬼丸天才・お前なら出来る・がんばれ百鬼・


山梨県人(3月14日)

   

 山梨県人である。多分普通の人より、郷土愛というニュアンスかどうかわからないが、郷愁はかなりあるほうだ。

 これまでは山梨=富士吉田だった。しかし、昨年の甲府駅ビルのデパートでの展覧会以来、山梨=山梨というノーマルな感覚になってきた。

 昨日は甲府に行ってきたのである。富士屋ホテルが甲府にあるが、写真の「串信玄」(電話055−226-1933)の女将の屋ヶ田玲子さん(写真左・真ん中私・右ご主人)の紹介で、副社長の小池さんと合うことになったのである。

 来年のNHK大河ドラマは「風林火山」である。山梨が舞台の山本勘助が主人公のTVであるが、時代小説の挿絵・書籍のカバーを手がけていて、その数は生きている山梨県出身の画家の中では、断トツの一位だと思う。

 前回の「武田信玄」では何も山梨県からはオファーがなくて寂しい思いをしたが、今回は、何とか露出してみたい。生きているうちに、もう山梨での大河ドラマはないだろうから。

 富士屋ホテルの小池さんをはじめ、多くの方々からいろんな企画を持ち込まれてくるだろう。この一年山梨で、大車輪に貢献したいと思っている。

「串信玄」には、現在私が作った「武田の二十四将」が飾られている。そのうちにこの絵画群も、「風林火山」の影響で、どこか別のところに飾られる企画が持ち上がっている。今のうちにご鑑賞ください。


キャパクラ歯医者(3月13日)

 その歯医者は、昼は鏡面ガラスで中は見えず、夜はこうこうと中が見えるのである。私は時々、バイクで走りながら、チラッと中を見るのであるが、若い女が何故かうようよしていて、この歯医者はなんなんだと、好奇を燃やしていたのであった。

 もともと、歯は良い方なので、歯医者にはかからないんだが、年に2回ほど検診に行く。前の歯医者さんが亡くなったのを期に、この歯医者にかかったのである。

 予想通りである。受付が違う。受付嬢といったほうがいいのかもしれない。みんな美人である。その上ミニスカートのワンピースなのである。間違って、入浴料でも払ってしまいそうである。

 いらっしゃいませと受付嬢が言うと、治療室のほうからも女性の声で「いらっしゃいませ」と声をそろえて合唱するのであった。辞めた受付嬢も若くてきれいだったが、私が行きつけのスーパー銭湯のほうに勤めを変えた。

 治療室の中には助手の女性やらがいる。男性の先生も30代半ばと若い。ここも皆ミニスカポリスっぽいのである。

 この間行ったら、一人マスクをしていたが、目がいようにきれいな女性がいた。今度14日に、歯の掃除で行くので、ほんのちょっとだが楽しみである。ほんのちょっと。

 ちなみにこの歯医者は、非常に流行っている。


道中日記(3月12日)

 

野田教室と私と野田亜人氏

久々の東京行きである。旅気分を味わおうと、日本酒なんか買って駅までの道をちびりちびりと。まだ昼の2時である。

 電車に乗った。東武東上線池袋行きである。川越を過ぎたあたりで、座席を確保でき、いつしか暖かさに眠り始めた。起きた。だいぶ眠ったと思った。

 しかし、次の駅のまだ藤み野駅だった。

 なんとお恥ずかしい話だが、池袋からの下りの電車だったのであった。初体験だった。夜でもないことであった。

 ということで、野田亜人氏の教室にはだいぶ遅刻して行くことになった。野田氏の教室の生徒の年齢が私の生徒と明らかに違った。ほとんど20歳前後から30歳代くらいなのだ。ちなみに私のところは50歳くらいが平均だろうか。

 「突如乱入」なんて言っていたが、とんでもなかった。「およびでない」であった。みんな、今日の課題をこなすのに必死の形相なのである。百鬼丸どころではなかったのである。

 野田氏の教室の特徴は、野田氏が、その日にやるペーパークラフトの作るものをあらかじめ用意しておくのである。だから、いっせいに寸法も形も同じものを皆で作るのである。時間も2時から初めて4時間くらいの教室である。

 その中で、生徒が作成したペーパークラフトに装飾するという工程が最後に残っているのだ。この作業は、私には一番生徒には大変に思えた。動物とか植物とか、ちょっとした造形をくっつけていく訳だが、これは鋏できってはいるが、完全に私の切り絵の分野といっていい。

 私が現れたのは、まさにその最後の時間だったのである。13人の生徒たちの作品を見て回って、感想を言ったりして時間を過ごした。ただただ、皆必死だった。この息づかいは私の教室の生徒と同じだった。

 そして最後に、私の切り絵を10分くらい披露した。A5くらいの白い紙に忍者を切って見せた。野田氏に促されたから全員見たのだろう。本当は皆そんな余裕なかった思う。だが、私の切り絵の作業は結局勉強にはなったと思う。見といてそんはないはずだ。

 それからまもなく、教室を後にした。

 今度は予定の読み語りの、芝居?に向かった。場所は千川である。有楽町線であるから、なじみである。池袋に着いた。それからがまずい、なじみだからと私の電車・東武東上線の普通に乗ってしまったのである。まあよかったことは気がついて、池袋の隣の北池袋で降りたこと。だが、上がりがなかなかこなくて遅刻の時刻になってしまった。

 池袋に戻り、有楽町線のホームで、下りの電車が来たのは7:01分だった。この時点で芝居は始まっていたのである。

 さすがに私が最後の客で、暗がりの中、演じる語りの方の前を失礼ながら横切る形となった。前々から下調べをしていないから何の演目かわからない。まだあったことのない人からの案内できたのだが、演じているのはその女性だった。

 初めて見るが美人である。存在感がある。途中で入ったもんだから、ストーリーがつかめないのと、顔に見とれるはで場違いな心持であった。それに「携帯電話はOFFに」というわれて、探したが携帯電話が入り口で見つからなかったのだ。野田氏のところにおいてきたのだろうか。それもめちゃめちゃ気になった。それで、もうなくしたと確信したのだった。

 あの携帯をなくすと、えらいこちゃ。アドレス・電話番号、それに皆から重要な連絡が入る。生活がしばらく不便になるなあなんて考えたのである。

 読み聞かせといっても、一人芝居的な要素もかなり入っていた。映画の吹き替えの俳優をお仕事にしていらっしゃる方のようで、私たちが日ごろテレビを見ていると声で出てくる方々だ。

 3人の出演者の顔の印象が残った。内容については長くなるからやめておくが、私はどうも、人の顔に見とれる癖がある。一般的な芝居を見ていてもそうだ。

 そして、携帯電話を探したが見つからず、野田さんのところの中野富士見町に戻った。それでも、もしかしてと彼のいるビルの隣のコンビニに電話があったので、私の携帯に電話してみた。

 バイブが作動したのである。「えっ」。もうなくしたという気持ちが心を占めていたから、芝居を見てすぐ電話をしなかったのだが。

 ポケットのジャケットの下のチョッキのポケットにあった。手を何回も入れたはずだが、意外にポケットが深かったので、一番奥にあったのだ。

 時間の無駄遣いをした一日だった。


突如出現(3月11日)

 今日は東京に出る。ちょっと芝居見物みたいなのなんだが、その前に野田亜人氏の今日あるペーパークラフト教室の授業中に、私が現れる手はずになっている。彼の生徒たちにも、私のファンが多いのだそうで、それでびっくりさせようというわけだ。

 野田さんとのつながりはもう7年くらいになるだろう。彼は、ペーパークラフトのクリエータとして大活躍し、一世を風靡した人だ。40歳以上の、デザイン関係の仕事をしている人なら誰でも知っている人だ。それに、それ以下の人だったら、12チャンネルの「テレビチャンピオン」での「ペーパークラフトグランチャンピオン」として、知られているのかもしれない。

 私がニューヨークのギャラリーに、売り込みに行こうと決心し、その紹介を頼んだのがきっかけで知り合ったのだ。彼と面識もなかったが、私も知っている人がいなかったからしかたない。それで、電話したのであった。

 彼と会ったとき、私の絵はニューヨークでは受け入れられないというものだった。もっと新しいものをしないといわれたのである。それは絵の内容のことであったが、私に絵の内容をすぐ換えろといわれても、とても雲をつかむようでだったのである。

 そこで、彼に言われなかったのだが、今までの切り絵の技術を使って、立体の切り絵を出来ないかと思いついたのだあった。私が立体の切り絵を始めたのは野田さんがきっかけだったのである。

 そんなつながりから、中途で、週刊文春の宮部みゆきさんの挿絵の連載時に、私が挿絵を立体ですると決心したのを反対されて、ひどいことを言われたので、交友は途絶えることになったのだが、連載が終了した2年後のまた交流を始めたのである。

 ちなみに宮部さんの連載は立体でやったが、本当によくやったと自分をほめてやりほどの名作が続出した。今まで一番の連載は?と問われたら、いの一番で「ゼプツェン」と答えるようになっている。

 ニューヨークには、そのとき行かなかったが、野田さんのニューヨークでは受け入れられないというのは、極端な言い方だと思っている。確かにニューヨークのギャラリーは、現代アートばかりだった。しかし、ニューヨーク在住の日本人画家の方に聞いたら、そんなことはないという答えが返ってきて、私の絵はそのままでいいのではないかと言ってくれた。

 いろいろあるんだと思う。


シクラメン(3月10日)

 もうすぐシクラメンが咲きそうだ。このシクラメンは4年前に買って、その後の2年間は花芽が出ても、摘み取って3年後に豪華なのを咲かせようと思って我慢していた。実はもう2鉢あったが、球根を植えたとき、水をやりすぎて、腐ってしまった。

 水加減は、植え付けのときが一番デリケートだ。その時期さえクリアーできたら、ちょっとでれっとなって水が足りないようって、見た目でわかるときに水をたっぷりやっても、全然平気だ。

 作家の宮部みゆきさんと、鈴木輝一郎さんから展覧会のお祝いにもらった胡蝶ランが、昨年の台風が来る直前、仕事場の廊下の窓外につるしていたすだれを、前もってはずしておいた。しかし、台風が通り過ぎたあとすぐにすだれをしなかったために、暑さで、5鉢あったランが全滅してしまった。

 大切に育てていたのに、その一日で、駄目になった。

 とてもさみしい。


辰吉に父親がいたら(3月9日)

 亀田興毅をみると辰吉丈一郎を思い出す人は多いだろう。彼は今何をしているんだろう? 全く影が薄くなっている。

 昨晩の亀田の試合を見た。相手はメキシコの選手で、左ジャブの手数が多くとても強し選手だった。辰吉だったら負けていただろう。辰吉と亀田の違いは、ガードにあると思う。辰吉は、左手だけ下げて左顔面をがら空きにしたりしていた。これは、相手を誘っておいて、カウンターを食らわすという戦法なんだろうが、勇気が俺にはあるんだというスタンドプレー的な要素のほうが多いと思う。

 亀田には父親がいて、セコンドをしている。きっとそういう甘さは許さないんだと思う。あのがっちりガードを固める姿は、守りの姿だし、守る事をかっこいいとしない辰吉にはないスタイルだ。

 辰吉の試合で、彼はよく打たれていた。それ以上にパンチが強いのとスピードがあったから、強かったが、所詮、かず打たれたら、多少の個体差はあれ、身体は消耗する。辰吉には病の父親がいて、病院から声援を送ったりしていた。がしかし、辰吉の道半ばにして亡くなっている。

 亀田のように父親が壮健でいて、セコンドにでもつけたら、もっと活躍できたと思う。

 亀田は強いと思うが、ロープローを指摘されるような勝ち方はしてほしくない。私はボクシングをした経験もないのでわからないが、強かった相手に、素直に強かったといってほしかった。

 試合後のインタビューに少しがっかりした。あのインタビューで場内が沸かなかったのは、観客も私と同じ感想を持った人が多かったのだと思う。

 辰吉はその点お人よしなくらい、とても正直だった。


北方謙三さしえ(3月9日)

 小説現代の仕事がはいった。3年前にやった小説の続編だいとうが、私が挿絵担当したというのは忘れている。とにかく、久々の北方さんとの競演だ。

 北方さんの記憶にある小説は、ちょっと余計なおせっかい的なところから事件に巻き込まれていく感じがする。今回もそんな匂いのする小説だ。だが、時代小説にハードボイルドを持ち込んだ、ダークな雰囲気は、独創的で、面白い。


いい天気(3月7日)

 昨日は、鶴ヶ島のごみ焼却所にごみを捨てに行ってきた。久しぶりにいっていたら、審査があって、建築関係のごみは駄目になったようで、私のごみは建築資材だというのである。私が作った机を壊したものだったりするからそう見えるのかもしれない。

 結局、場内に入って説明して、納得してもらった。それに、お金がかかるようになっていた。1000円かかった。当然だと思う。

 それからテニスをした。バックハンドドライブが復活して、何とかそのおくの得意だったバックボレーを進化させたかったからだ。大学時代はバックハンドドライブのグリップとボレーのグリップは同じで、バックボレーが出来たんだから、バックハンドドライブができた以上、バックボレーが出来ないのは打ち方のせいと言うことになる。

 確かに、試合をしていても、ちょっと前とボレーは違っている。しかし、学生時代の感覚かどうかわからないのである。こんなうち方をしていたとは思えないのである。

 試合は6試合もしてしまって、全勝ということになった。


無事に教室終了(3月6日)

  

大改造による瓦礫の山の中、何事もなかったようにきれいに教室だけはなり、無事に終了した。(写真中央の機械は、ラケットのガット張り機、私はシングルス3セットマッチだったら、ガットが切れてしまうので、必需品。)

その後、川越で即興切り絵ライブ。二回目の「トンボと羅漢」のときは製作している後ろに写真は撮らなかったが、人がびっちりだった。

一回目二回目と、ずっと見ていた人がいるが、偶然通りかかった、私が封神演義(講談社文庫)のカバーの絵をやりその絵のファンだという人だった。ちなみに、封神演義は、増刷に次ぐ増刷のベストセラーであり、私も入っている「封神演義」コミュのタイトル画は私のものである。

 また二回目が終わったとき、ずっと見とれていたカップルが、前回やって真ん中の写真のはじにある「孫悟空」の即興切り絵を買っていった。

 めでたし。

 即興切り絵ってのは、やっぱり恥ずかしい。もともと恥ずかしいほうだから仕方ない。これにプライドが加わると複雑な心境になるんだ。恥ずかしいやら、腹が立つやら。誰も、足を止めずにすたすたいかれると、途方もなく情けなくなる。

 だけど、子供の頃のことを考えれば、近くに金魚すくいのおじさんや、神社には粘土の型押しおじさんがいたりしていた。ああいう人がいていただいてありがたかったと今では思う。

 私が学生時代川越の丸広通りに、一筆書きの龍やら、蛇やらに絵を描いている人がいた。芸術じゃないたいしたものじゃないと思って通り過ぎたもんだが、私の脳裏には大して残っているところをみると、やっぱりすごいものだったんだろうと思う。

 人の脳裏に焼き付いて、そして思い出へと変化するものというのはそれはすばらしいものなんだと思う。

 私も、いろいろ複雑に考えるたちだが、素朴に「切り絵をやっていたおっさんがいたなあ」くらいで、満足するようになれればいいんだけど。


大改造はかどらず(3月5日)

 改造が8割がた終わるが、隣の空き部屋をちょっとのスペース借りていたが、アトリエのほうにそれを入れようとしても荷物が全部入りきらないことが判明。

 教室を隣の空き部屋にするほうがいいのかもしれない。多分そうなると思う。

 今日はアトリエでの切り絵教室、午後は川越土金で即興切り絵ライブ。がんばろう。


アトリエ大改造2(3月4日)

 アトリエが、書庫・倉庫と化してしまった。過渡期としてはしょうがない。本の取り出しやすさ、収納力は増したと思うので、生徒も使いやすいだろう。


アトリエ大改造(3月3日)

 外部で仕事をすることが多く、アトリエの自分の製作スペースがいらなくなり、荷物も増えたので、アトリエの大改造に着手した。テーマは倉庫・教室・ギャラリー。これで、本を取り出しやすくなったりで、機能的になるはずだ。

 久世光彦さんが亡くなった。10日ほど前の直木賞のパーティでは、お見かけした。タバコを吸いお元気そうだったが。


The有頂天ホテル(3月2日)

 昨日は冷たい雨だった。昼は下記の27人点に顔を出した。私の作品は売れていなかった。客がかなりいた。テニス仲間の恒川の旦那も手伝いに来ていた。テニスの話になった。しかしテニスに対する考え方がまるで違うんで面白い。歳をとっても技術は習得できると私は思っているが、彼は年齢が上になると、体力の衰えがあるから、それなりのテニスをしたほうがいいというのである。

 彼はテニスコートにいっても、このショットが出来ないからといって、技術のせいと思っていないようだ。ラケットが後ろ過ぎたとか足が動いていなかったとか。

 私はテニスに行くときは、技術的に、今日はここを直してみようといつも考えてる。それで、テニスがぜんぜんよくならないことのほうが多いが、よくなるときもある。その積み重ねが上達の近道だと思っている。

 ほとんどの場合私はラケットの握り方と、握る位置の研究である。テニスの一番大切なものはすべて握り方から来ていると思っているのである。

 それはともかく、タイトルの映画にいった。とてもよかった。厚みのある映画で、すごい一杯俳優さんが出て、一生懸命演技をして、その俳優一人ひとりの一生懸命さの積み重ねで映画が出来ている感じで、感激した。見終わった後、とてもうらやましかった。このスタッフに入りたかったなあって。

 寅さんの映画以上に笑った。これから、映画をもっと見に行こう。


馬刺しで(3月1日)

 昨日は、切り絵教室で富士吉田へ行った。

 最初に寄ったのは、退職された前吉田高校校長の山口毅先生の家に、いった。前々から絵を買いたいとおっしゃっていたので、届けたのである。先生はいなかったが、奥さんからお酒をもらった。あとで開いたら「久保田」であった。

 それから、朝から飯を食べずにいて、準備万端で「吉田のうどん」の有名店「武蔵」に入った。メニューはかけうどんと付けうどんといういわば「素うどん」だけで、あとはトッピングで、楽しんでほしいというものだった。

 それでも、「むさし」というメニューがあったのでそれにした。野菜てんぷら、キャベツ、あと何だっけ?とにかくてんこ盛りのトッピングが入ってボリューム満天。うどんも期待の極太、これぞ吉田のうどん。

 本当はもう一軒寄りたかったが、時間がないので、実家に帰った。母親がいた。今日帰る日を知らせていなかったから、おや?という顔をされたが、一月に一度帰っているわけだから、それでもいいだろう。母親は82歳くらいになるだろう。

 3年前には胃がんの手術・それに15年位前にはサルコイドーシスという奇病にかかり、今もステロイドを離せない・それに、昔から持っている軽いリュウマチ。体にいろいろ入って、よたしながらも、何とか生きている。

 父は昔から、首を上下に揺らすことがあったが、右手が揺れているを初めてみた。92歳である。

 それから、県立吉田高校の私の担当した新食堂の撮影にいった。つつがなく写真を撮ったが、生徒たちの感想を聞いた。トイレのマークに「可愛い」という感想が聞かれてほっとした。

 吉田教室は4人が来ていいた。月に一度だから、なかなか皆さんうまくならないのだろうが、2回にしないといけないのかな?と思う。

 そのあと、3月13日からの展覧会がある都留信用組合にいった。会場が他の展覧会とダブっていたので、思った展覧会が出来ないと断りに行ったが、話し合いで、4月1日から一ヶ月となった。めでたし。

 そのあと、幼馴染であり、中学高校の先輩である渡辺博氏のところに、10年ぶりに行った。

 もっと、表に出てこないと駄目だ見たいな話が出てきて、「俺が、何か皆に呼びかけて、なんかしかけようか」というような話になった。私独りでは何も出来ないのである。ありがたい話だ。とにかく、嫌もなく着いていきますよ。

 この渡辺博氏のいとこは、華道家の刈谷崎省吾ある。

 彼は幼少の頃から、この富士吉田に来ていたというから、私も会っているのだろう。

 とにかく、最近私の周りが、私に泡だってくれている感じで、有難い。

 帰りは馬刺しを買って帰り、久保田で、3杯。


風は嫌い(2月28日)

 風がなければテニスができる。だから、昨日みたいに風がある日は大嫌いだ。

 バイクで走っていっても、冷たい風に腹が立つ。でも、相手にならないから、グズッと我慢する。

 今日は山梨。今から、新しく入った生徒用の下敷きを2つ作り、教科書を2セット作る。教科書は私が作ったもので、まだ3級までしかない。本当は10級まで作りたいのだが、気迫が今ない。

 今年中には何とか作りたい。

 ということで、山梨には9時頃でかけるが、その前に作業をする。


雪が(2月27日)

 今日は予定なら、甲府に行くはずだった。甲府の押し花の会の支部長さんに即興切り絵2点を頼まれていたのと、石和の山田さんにも、「山本勘助と由布姫」の即興切り絵を頼まれていたからだ。そのついでに、売れた絵の納品にも間に合わせた。

 ところが、昨日の雨は富士吉田では雪なのだそうだ。車はノーマルタイヤだし、明日の富士吉田の切り絵教室に甲府から向かって、御坂峠を越えることは出来ないと思うので止めた。

 来月は展覧会が富士吉田であることだし、頻繁にあちらに行くことになるので、甲府行きもそんなに遅くはならないと思う。

 富士吉田では、吉田高校の食堂の私がやった陶壁画の撮影をして来たいし、展覧会場の都留信用組合にも挨拶をして来たい。昼飯は大好きな「吉田のうどん」だね。楽しみ。

 もう三月だね。早いなあ。


立ち飲み(2月26日)

 昨日は調布の教室だった。いつも、東上線の朝霞台から武蔵野線に乗り換えて、府中本町でおり南武線に乗って分倍河原に行って、京王線で調布にいく。

 ふと思い出した。府中本町のイトーヨーカドーのところに屋台のたち飲み屋があることを。帰りに寄ろう。と思った。

 教室の帰りに、空腹の腹を抱えて、よった。空はいい天気だ。客は昼まっからいるはずもない。チュウハイに焼き鳥五本注文した。かしら2本に、かわ1本に、なんこつ一本。幸せだな。

 チュウハイ一杯だったのがえらい。

 そのまま幸せの気分を保持して帰宅。教室の中途でテニスしようと、後輩から入っていたので、大学に(私の母校は自転車で5分くらいのところにある)。

 今度の後輩はもう36歳くらいになっている。まだ、チョンガーだが、今彼女がいて、お父さんにも合わせ、今度は彼女のお宅に彼が行くのだそうだ。一度、私の即興切り絵にライブをしていたときに、デートのおかずにされて、あったことがある。

 「俺にはもったいない」といったくらいだから、かなり気の利いた女性だ。私もそう思う。

 まあとにかく結婚式までこぎつけそうだ。結婚式にはお決まりの即興切り絵を披露するつもりだ。

 ながい、いやながくもない(彼にとって女性と付き合うのは初めてだから)独身暮らしもこれで、おわりだ。めでたし。

 私も、満足のテニスが出来た。バックハンドのドライブが学生時代に戻った記念の日になったからだ。


調布教室(2月25日)

 今日は調布での切り絵教室である。いつもは午後2時からであるが、今日は午前10時半に変えてみた。

 昨日は久しぶりにテニスをした。朝7時から東洋大工学部のコートでだ。相手は後輩の大学院生の塩野君だ。4月に川越の大会があるが、ダブルスを組むことになったからだ。

 コートは3面あるが、1面以外はぬかっていて使えない。これから、しばらくは朝練習が始まりそうだ。今年の課題はなんといっても、ボレー。学生時代以来、戻ったためしがない。何かが違うんだろうが、わからない。

 春の大会には、一般男子ダブルス・シングルス・壮年ダブルス・シングルス・55歳以上ダブルスに出るつもりだ。ちょっと忙しいけど、すぐ負けるんだからたいした時間は使わない。


蓬田やすひろ(2月24日)

絵は、蓬田やすひろさんがカバーを担当した文庫である。

 私が作った、時代小説の挿絵画家のグループ「草鞋之会」のメンバーの一人が蓬田やすひろである。小説を読む人なら知らない人はいないだろう。彼は現在、本の装丁カバーイラストの毎月の製作数は日本で一番だからである。 

 とんでもない天才画家である。いつか彼に追いつきたいと思ったものだが、彼の生い立ちを初めて聞いて無理だと思った。

 彼の絵に対する態度が、天性的に私とは違うのだ。

 22日に東京赤坂の中華料理店・維新號(いしんごう)で、七尾電機元会長の高島氏の招待で、草鞋之会のメンバーの原田維夫・蓬田やすひろと会ったのである。今まで、取り留めのない話しで、大笑いしている仲であるが、今回初めて聴いたことがある。

 蓬田氏の幼い頃の話だ。彼は北海道の札幌の生まれで、私より10歳上の64歳である。

 彼は4人の姉さんを持つ末っ子であった。その兄弟の仲でも、学校の成績はすこぶる悪く、人とも交わることの出来ない特殊な子供だったようだ。そこで、彼がやっていたことは絵を描くことだったという。絵がうまかったから、皆が「おお」っと評価をしてくれていたのだという。

 通信簿まで絵で埋め尽くされたというから、本当に絵ばかり描いていたんだと思う。

 それにしても友達づきあいの少なさは、小学校・中学校・高校の友達の誰も名前を覚えていないそうだから知れるが、本当かと疑ってしまう。が、本当らしいのである。ただ一人小学校で好きだった女の子の名前を覚えているということであった。

 絵を描いているときが、何をしているときよりいいということは前から聞いていた。

 こんな蓬田氏だ。にわかの27歳で絵を始めた私とは、画歴が30年近く違うのだ。

 それに、絵に向かう態度が私とは全然違う。暇さえあればテニスをしたいというような私が、追いすがれるどころではない。差は開くばかりだと認識せずにはいられない。あまりにも巨人である。

 金欲、名誉欲みたいのが見受けられない人で、くそまじめである。こんな人を亡くしたら、国家的損失である。

 皆さん彼を応援しよう。


東洋大学工学部硬式テニス部追い出しコンパ(2月22日)

 昨夜6時から、川越にある東武ホテルでおこなわれるテニス部の追い出しコンパに参加した。
 
 参加したほかのOBは須賀さんといって、私より5歳上の先輩である。彼は川越市の団体代表として、都市対抗戦に出ている。川越市は埼玉でも一番レベルの高い都市で、ここ何年か、埼玉県で勝ち抜いて、全国大会に出場している。だから、相当強い方だとお分かりだろう。

 この追い出しコンパに参加するようになって、3年が経つ。実は工学部硬式テニス部のOB会の役員をしているのだ。

 昔は、追い出しコンパは本校の文系のテニス部と合同でやっていた。しかし、合同となると東洋大学硬式テニス部OB会という別OB会が存在して、そちらの役員が来ることになる。

 実は、そちらのOB会と工学部OB会とは交流がないのだ。

 今年で単独でやる追い出しコンパということで、第一回に比べるとかなり現役も慣れてきた気がする。

 今度の卒業生に、昨年の8月に東名高速の玉突き事故でなくなった部員が入っているはずだった。その事故では建築の学生が、3人なくなっている。とても残念だ。

 この10年くらい、テニス部はとても強くて、今年は理工学部連合という組織の大会で現在3部だが、2部に昇格するだろう。

 私もスピーチをしたが、つつがなく式は終わり、須賀さんと2人、二次会に出かけた。帰ったのは11時半だった。

 とても時間が早く過ぎた。

 実は今日は、草鞋之会という挿絵の仲間と赤坂で飲み会である。肝臓が相当疲れていると思うが。
 


ミニ絵27人展(2月21日)

 上記の展覧会の今日は初日である。川越のある団体展に今年参加したが、その飾り付け兼顔合わせに行ったが、とても皆おとなしく、ただ、個人的に酒を飲んでるだけといった按配で、とても面白くなかった。来年は参加しないだろう。

 私が、展示した作品は今年の一月に展覧会を甲府でやっていたときに、甲府のレストランで、作った火の玉小僧シリーズの「火の玉小僧のうんち」と「火の玉小僧のため息」だ。まだ両方とも写真撮りがしてないので、HPにはアップしていないが今日撮影してくる。

 このギャラリー「れ・ぼぬう」の亭主は、私のテニス仲間である。恒川さんといって、そんなにテニスの上級者ではないので、私は可愛そうだが、テニスでしょっちゅうあしらっている。まあほめるところといえば時たま見せる、バックハンドのドロップショットかな。

 この文章を読んでたら恒川さんは、地団太踏んで悔しがるだろう。「悔しかったらかかってこい」

 まあこんな冗談も言い合える間柄なのである。

 さて、実はまだ火の玉小僧の詩の部分を作っていないのだ。 


ミニ絵27人展搬入日(2月20日)

 上記の展覧会の搬入の日だ。火の玉小僧の新作2点を出品しようと思う。


もう一冊(2月17日)

 昨日から入った、鈴木英治著の「無言殺剣シリーズ」(中央公論新社)の二巻目の文庫カバーイラストが完成した。午前2時から、レストランに出かけてやっていた。

 仕事をのりのりでやっているなあという感じだ。なかなかいいカバー画が出来た。前作がかなりハイレベルなので、そのレベルまでの絵が必要だった。

 時間があれば撮影して、アップしたいが、時間がないので無理かもしれない。実は人物一人まだやっていないのだ。

 ご期待。


頭痛肩こり(2月15日)

 昨日は講談社の単行本の仕事だったが、人物を8体作って、肩こりと頭痛に見舞われた。年に何回かあることだ。直って作り始めるとまた、すぐ怒ってします。それで、仕事を止めた。

 この仕事は何とかなりそうだが、次の中央公論のしごとがアイデアが浮かばない。でも何とか2つ三つは見つかったんで何とかなるかもしれない。神様。


談志師匠と似ている(2月14日)

 友人の西出さんから私が談志師匠に似ていると言って来て、思い出した。

 私は談志師匠と友達な訳ではない。

 確か、手塚治虫さんの何回忌かの集まりだったと思う。談志師匠も出席していたのは知っていた。

 帰るときである。下りエレベーターの乗り口で、彼と会ったのである。挨拶をした。二人でエレベータを降りた。そして、降り口で、挨拶をして別れた。

 私はトイレに。そしたら、何と隣に談志師匠。またまた挨拶。

 トイレを出ると、先に出た談志師匠がホテルの出口で、誰かと挨拶をかわしている。だから、そこでまた鉢合わせとなる。外まで一緒に歩いた。

 ロータリーがあり、私は地下鉄に乗るため左回り、彼は右回り、再び挨拶してわかれた。タクシー乗り場が右回りのほうにあったから、彼が右に行った理由はタクシーに乗るからだろうと思った。

 しかし、彼はタクシーに乗らず、右回りで、ロータリーを回ってきたのであった。当然また鉢合わせとなる。

 二人は隣同士で地下鉄に乗って、話をした。談志師匠の心の中はうんざりしていたのかもしれない。

 後にも先にもこんな経験は初めてでした。


混乱(2月12日)

   
パーティ風景


次々に(2月10日)

 さて、今日は小説現代の締め切りだ。2点、官能小説だ。何とかいい作品を作りたい。下絵は出来上がっている。何とか、4時半までに終えたい。

 そして、今日は鶴ヶ島在住の美術評論家のヨシダヨシエ氏の出版記念パーティの日だ。銀座に行ってくる。仕事道具を持って。

 そして、明日はざぶん賞の表彰式に幕張メッセに行ってくる。私が、表彰状を渡し、そして、応募作品の講評を言うことになっている。初体験である。どんな内容を話すというより、どんな服装で行こうと思う。

 明日はだから、幕張のホテル内で仕事となる。


次の作品が(2月8日)

掲示板に、野田亜人氏の心配のメッセージが入っているが、ご心配有難うございます。でも行かないと駄目なんです。

さて、今日も3時間あまりをレストランで過ごし、次の文庫の下絵(中公文庫・森村誠一作品)が完成してしまった。終わろうと思えば今日中に仕上がるだろう。だが、今日は生徒が、アシスタントに来るので、別の仕事もしなければならない。

 早く下絵が出来る作品というのは、大体が出来がいい。今回の作品もかなりいい作品だ。でも今日7時には画像をアップしたいので楽しみにしてほしい。


おいらんの切り絵(2月7日)

もうすぐ学研M文庫のカバー画が完成する。画像を2時までにアップしたい。

3時やっと終わった。手間のかかった仕事だ。


誘われるんです(2月6日)

 ということで、電話に出た女子高生の相談だという。

 「私には彼氏がいるんです。」「で、彼氏とデートをするんですが、彼がホテルに誘うんです」

 この時点で、なるほど誘うから、どう断ればいいのかなくらいのことかなと思ったのである。

 「私は経験は少ないけどあるんです。」フムフム。

 「でも、じしんないんです。」

 「だから、Hしたとき彼氏に私が、あんまり経験がないということを気づかれないためにはどうしたらいいんでしょう?」

 ということだった。

 私の頭がでんぐり返ったのは言うまでもない。

 こちらは私自身があんまり経験のないのがばれないように必死である。それでも、回転しない頭を何とか立て直して吐いた言葉が、

 「自分から、勝手に動けばわかりゃしないよ」だった。

何と私にとっても背伸びした回答であったことか。

心臓はどこに行ったのかわからなかった

 高校一年女子高生だったんだよ。

 その時はこの恋愛相談を金にするすべが見つからなかったが、何か雑誌に連載するとかしたら何とかなったのかもしれない。

  それで、今もやってみたいなあと思い、ミクシーの恋愛相談等コミューを調べたことがあった。やはりかなりの数があった。
 
 私の恋愛相談は結局1週間でそれ一つであったが、当時は少ないと思ったが、200枚名詞ばら撒いて1週間で1件というのは悪い確率ではない。一途もっと粘り強くやっていけば、かなり増えたろう。
 
 


続・番外編(2月5日)

 駅前で、名刺を配ると男より女のほうが食いつきがいい。特に女子高生は集団で手を出してきた。そして、歩きながらそれを読んでいくのであったが、背中が笑っているのである。こちらを振り返って、笑い合っている女子高生もいた。

 200枚というかずは、今思うとそんなに多くない枚数だということは、後々わかった。でもその当時としては多いと感じて、配る時間も長く感じた。

 それから、何日が経過し、目黒区鷹番の友人の部屋で電話を待っていたのであった。

 5日ほど経った日、高校の友人が訪ねて、3人で酒を飲んでいた。そのときである、電話がかかってきた。

 「相談したいことがあるんですけど。」「はい、どうしたんですか?」が最初の台詞だったと思うが、私はさっと血の気が引いて、冷や汗に皮膚表面が変わった感覚だ。

 「あの、私は高校一年生なんですが、友達と夏に海に行ったんですが、友達がいろんな人とHして妊娠してしまったんです。どうしたらいいでしょう?」というものだった。 その当人は隣でしくしく泣いているという。

 実は私はもっと、心の悩みのほうの相談がくると思っていたのである。

 それに、ほとんど、童貞状態な私に、そのH方面の解説をお願いしたって、ただ単に、狼狽するやらで、なるほどというような答えは出せるものじゃない。その頃は、クラスカンパみたいなので、集金して堕胎することがはやっていたらしいが、それがこのごろはバレテ、学校側も警戒しているとのことで、それは出来ないとのこと。

 お金がないなら「早くしないとお金を持っている、大人に相談してみてください」と答えた。

 「次は私の相談を聞いてください」という。

 続きは明日。

番外編(2月2日)

 設計事務所を止めて、モデルのマネージャーをするまでに、一つやったことがあった。

 私はもてなかったのである。それに直情タイプだったから、すぐ、結論が出て、恋愛に関してはいつもぼろぼろ状態でしたから、俺みたいなのを救ってやろうと思ったのである。

 それで恋愛相談。それで、生活できないかなとぼんやり考えた。ぼんやりである。

 電話がなかったから、電話のある高校の同級生のところに転がり込んで、そして、名詞は金がないから(設計事務所はとても給料が安かった)、版画で作った。

 辞書で書体を丸写しして、すべていかにも普通の名詞を装ったが、やっぱり版画の味は隠せない。(そのときの版は、30歳の頃山梨県上野原に住んでいたときに台風にあい、目の前の相模湖が増水してアパートが水没したときの後始末のときに捨ててしまった。)ちなみに、その版は後年焼き物の修行で愛知県常滑市に行ったときに、友達を驚かすことになるのだが。

 その版画で作った名刺を200枚作って、友達の沿線の自由が丘と都立大前で配ったのである。友達も配ってくれた。一人じゃ恥ずかしかったのである。

 明日に続く

23歳のとき(2月1日)

 ふと思った。サラリーマンにならなくてよかったと。
 
 23歳のときの話である。

 大学の4年生のときオイルショックで、その影響をもろの受けた建築学科の学生は、就職が決まっていても、内定取り消しとか、あるいは設計事務所志望の学生は就職がなかった。

 私は設計事務所の志望であるから、就職浪人をせざるを得なかった。1年間池袋本町にある手塚工務店というところで、バイトとして、本当に常識はずれに安い金で働いていた。足元を見られたのだろう。勉強のためということで。

 それはいいのだが、一年後の3月、相変わらずの就職難で、新聞広告の求人を訪ねても、すごい競争で、設計事務所に入り口には、もう実務をしている経験者がずらっと並んでいる始末であった。私が入り込む隙間はない。

 そこで、電話帳の設計事務所欄を「あいうえお」順に片っ端から電話をして、求職を求めたのである。

 「え」の欄で早々にラッキーなことに見つかり、「ちょうど求人広告を出すところだった」ということで、敵もいないという状態で、すんなり就職したのである。ところが、そこの会社の社長というのが変な人だった。社長に器ではないのである。
 
 私は建築がむかないんじゃないかと思っていた。それは学生時代からである。建築というのは社会性をかなり帯びた世界で、芸術?なんてちょっと思っていた私には、その社会性ゆえに思い切ったことが許されない世界に映ってしまったのだろう。

 本当に建築に夢を見られないかった。

 社長とそりが合わずに6月後の退社したが、その6ヵ月後、この会社も倒産した。無理もない。

 私はといえば、「建築やめた!」と会社を辞めたその瞬時に結論を出したのである。そのときの、それまで、仲間から建築の世界では遅れを取っているという焦りがすっからかんに無くり、会社の外に出て歩いた、会社のあった神田の空は馬鹿っ晴れであった。

 それに、その上嫌な上司の下では働きたくないとサラリーマンになるのさえやめたと同時に結論付けたのであった。それが23歳のときなのであった。

 それから、無能な私は、才能のある人を伸ばそうと芸能マネージャーを目指したのである。ちょっと芸能事務所に入って、仕事を覚えたらとっとと独立しようと考えたのである。

 あるファッションモデルの事務所に4ヶ月勤務し、そして一人で仕事を始めた。

 それから、ずーっと、ほとんど一人なのである。いろんな人が会社にいるだろう。きっとどこかに何か才能が私にはあったのだろうから、若い頃に判断したようなことをしたのだろうが、仕事関連で、サラリーマンの方を会うにつけ、こういう人の下では働けないなと思ったのである。

 ちなみに本当に私は、27歳まで、絵を授業以外は描いたことがないのである。


今から、新井氏のところへ(1月31日)

今7時、今からデザイナーの新井氏のところに行く。下記の漂民ダンキッチの生涯という本のデザインをしにいくのである。

 これで何冊目なのだろうか。私がアートディレクターをして、彼にパソコンのオペレーターをしてもらっている。だから、二人で作業はするが、本に出るのは私の名前だけだ。

 今回はあらかじめ彼がやっていたデザインが、かなりよくて、そのまま使う部分があったので、本には彼と私の名前をいることにする。


手帳を持った(1月30日)

 手帳というものを初めて持った。それまでは、紙のきれっぱしにメモしておくだけ。だからポケットに入れようものなら、どこのポケットに入れたかなと探すし、あるいはその紙が財布につぶされてくちゃくちゃになったり。
 
 当然、頭だけで記憶していたりしていたから、忘れることがある。昨年は調布の切り絵教室では、会場をキープしてなくてそのまんま帰ったこともある。こちらはただただ頭を下げるのみだった。

 手帳は便利である。頭に負担がかからない。記憶をしているエネルギーが要らないからとても楽チン。

 当面は頭の隅っこにあるものをすべて手帳に書き込んで、始末して行こうと思う。

 さて、昨日生徒の切り絵作品展が終わった。寂しいなあ。私の切り絵教室の生徒はとても優秀だから、プロになる人もあっても良いと思うが、とてもその意思だけがない人が多い。

 日本の切り絵作家といっている方の中には、とてもプロのレベルと言えないような人が半分以上いる。その方たちを抜くのは簡単だと思う。

 きっとそのうち、百鬼丸切り絵軍団が巷に露出することもあるかも知れない。


エンダス君に報告(1月29日)

 展覧会は私にとって数多くの収穫をもたらしてくれた。NHKテレビの生出演は、私にかなりの自信をもたらしたと思う。出る前と出た後で、気分が違うのだ。こんな現象が生まれるとはとても思わなかった。

 それから、昨年の甲府駅前のデパートで山梨の押し花の会とのジョイントの展覧会のときに知り合った、屋ヶ田玲子さんという富士吉田で、高校の後輩という人に出会い、飲み屋さん経営ということもあり、甲府宿泊時に飲みに行った。

 そこで、何から思いついたか定かではないが、私がやった即興切り絵の「武田の二十四将」の作品を店に飾らないかということになり、双方が、その利害で一致したのである。

 武田の二十四将をこのまま埼玉に持って帰るというのは、NHKテレビで来年の大河ドラマの「風林火山」の放映があるわけだからもったいないのである。

 その作品を屋ヶ田さんに持っててもらって、すでに「串信玄」という岡島でパートの南側にあるそのお店に飾ったようである。きっとでかい作品であるから、インテリアは激変したことだろう。これから数多くの人が訪れてみることになるだろうが、ありがたいことだ。

 私も近々行ってみて来たい。そのうち写真をアップするので見てください。

 ということで、展覧会を終わり、次の日は山梨県富士吉田市での切り絵教室ということで、運送屋さんに鍵を渡して、アトリエに荷物はおいてもらって、私は富士吉田に手伝いに来ていた弟子の車に乗って、富士吉田に行った。

 途中晩飯ということで、思いついたのが、ミクシーというブログで友達になっているエンダス君の実家のお店に立ち寄ることにした。うなぎ屋さんを経営している。店の名前は「なかむら」。河口湖畔の東側にある。

 入った。いろんな飾り物がインテリアになって、だんなさんの趣味の広さがうかがえる。白髪の割には若そうなお上さんがお茶を運んでくる。エンダス君のお母さんなんだろう。

 しばらくして、うなぎを運んでくるとき、エンダス君の友達であることを告げたが、あまり反応がない、どちらかというとそっけない感じだった。「東京に出て2年だけど、何の連絡もない」あきれた顔がのぞいてくる。

 「漫画なんていう、食っていけるかわからない仕事について、困っているんです」という。

 懐かしいパターンである。エンダス君は25歳。それで漫画を書いているんだろうが。私が切り絵を始めたのは27歳。それもその前に絵をやっていたわけではなくいきなりなんだから、まだ、彼のが早い展開だと思う。

 でも、ご両親の心配もわかる。確かに大変な仕事である。きっとその大変さは若くてわからないだろう。でも、やっていってほしい。

 両親はこの年齢では心配のしすぎだと思う。我慢するのは両親だと思う。もう少しです。

 エンダス君は中野に住んで、遠路はるばる埼玉の奥の小川町の展覧会に来てくれた人である。情熱とまじめさ、礼儀正しさは人一倍な気がした。

 お母さんに、店の近所に住んでいる高校のクラスメートの中村勇名君の名前を出したら驚いていた。お母さんとはそんなに年が違わないはずである。きっと私をエンダス君と同じくらいの年齢に見てくれたのだろう。複雑な気持ちである。


再び甲府(1月24日)

 昨日は漂民ダンキッチの生涯の本のデザインをしたかったが、デザイナーが不在で出来なかった。急に用事ができて駄目だったのかわからないが、予定が狂った。

 それで、時間が出来たので、野田亜人プロデュースの「キス展」のパーティに出た。久々の東京であった。狭い解除は人で一杯で、歩くこともままならない。

 20年前、私のところで何回かバイトをしてもらった、田舎(岡山?)から出てきたばかりの溝口イタル君が出品していたので、会えるかなと思ったが、彼は遅れて現れた。素朴な青年だった彼は、素朴なおっさんになっていた。

 もうちょっと繊細だと思うが、ニューヨークでお世話になった画家の川島 猛氏の素朴さに似ている。

 その頃にイラストは、とても印刷物にはあまり取り上げられそうもない画風だった。今は、下手うまったっちであるが、それだけに暖かみが感じられる絵になっていると思う。

 週刊文春で同時に掲載していた「中村ウサギの・・・の女王」のイラストを担当していたラジカル鈴木さん・髭をそって現れて、三菱のエレベーターの新聞イラストの仕事をいただいた深井四郎さんそのほか、まだイラストレーター卵の野田さんの弟子たちがいた。

 そろそろ、甲府に立たなければならないので、ここで終わる。

 10時に、押し花の先生である屋ヶ田さんの弟子たちに、講師として新しい押し花の実演をしなければいけないのだ。


川越生徒展(1月23日)

 甲府で、下絵を描いて、切っていた神坂次郎さんの「ダンキッチの生涯」のイラストが終わってほっとしている。

 今日は午前中は生徒の展覧会の作品搬入である。昼にはそのイラストの撮影があって、午後からは、デザインに入る。

 友人に新井健民さんというデザイナーがいて、彼にパソコンの操作を頼んで、私がデザインをしている。最近はデザインを編集者に私の方から志願して、やるようにしている。

 以前は、デザインを頼まれても時間がかかって、嫌だったが、新井氏と組むようになって、作業が楽になった。

 川越の生徒の展覧会は、これでもう5年くらい経つのだろうか。生徒の晴れ舞台である。今回は生徒の作品に賞を設けようと思っているのだが、ひがむ人もいるのだろうと考えている。やって、かえってつまらないことになったら止める。

 生徒の作品はすごい。驚くほどの進歩を遂げている人もいる。自分で絵を描いて作るという教室だから、つらいところもあるだろうが、それだけに得るところも多いはず。

 切り絵をやっている人をホームページで見るが、私の教室の生徒は、かなりのハイレベルで、プロになってもいい人もいる。

 それにしても、プロという人たちのそれに比べて、うまくならないこと。

 それに、プロや先生といわれる人で、大きな組織を持っていても、自分で絵を描かずに、丸写しして切り絵にしている人がいるらしいが、正直に下絵描いていませんというべきだ。

30年ぶり(1月22日)

 甲府の展覧会で、中学2.3年のクラスになったA子さんが現れた。30年振りである。

 私と親交のある甲府の切り絵の先生をしている根津英昭さんから、私をすごく知っている親戚の女性がいるということを、展覧会場で知らされた。しばらくわからなかったが、ひょっとしてクラスメートだったA子さんじゃないかといったら、下の名前が一致した。

 次の日彼女はやってきた。外を眺めていた私の視界にめがねをかけた女性が入ってきたのだ。ちょっと遅れて、A子さんだとわかって、扉を開く。ちょっと小じわがあるが、昔と変わらない。

 NHKのテレビも見たという。私が緊張していたという。私はそういう実感はなかったが、きっと緊張が顔に出ていたのだろう。

 緊張の会話が続く、男と女である。

 しかし、彼女とは2年3年を通じて、ほとんど口というのを聞かなかったと思う。それは私の方が理由があって意識的にそうしていた。

 それで、高校を卒業してから、彼女にそのことを謝ったことがある。

 20代前半だったと思う、彼女とは中学のクラス会の幹事で一緒になり、まだ他の仲間が現れる前の時間にあったので、近くの神社に初詣に行こうということになり、二人で出かけた。

 私にとっては初めての初詣だった。初詣っていいもんだなあとそのとき思って、その後は毎年行っている。

 そのとき彼女から、3ヵ月後に甲府に行くんだと聞いた。それがお嫁に行くんだと同義語だったとは後から知った。

 そのとき以来の再会になる。

 学生時代の先生によく会うとか、子供の話とか。驚いたのは同人誌で小説を書き始めたということで、見せてくれた。

 彼女らしいなと思った。内面に、ごっそりと言葉が詰まっていそうな人だから、ありえる。

 私の絵を見て、小説は絵にかなわないところがあるとも言っていた。確かに一瞬で、絵は何かを読み取れるところがある。

 二人で、遠いところを見つめながら話しをしていた。

 長い話だった。

 当たり前である。

火の玉小僧ひさびさ(1月21日)

 今日は生徒の展覧会前で、生徒の作品の点検をしなければいけない。今日は人数が多いので、午前と午後に分けようと思う。

 明日も教室がある。

 甲府では朝4時頃起きて、近くのデニーズで仕事をしていた。そのデニーズで、Kiss展に何を出そうかと考えた末、私の持ちキャラである火の玉小僧で、やってみた。タイトルは「チューにあこがれ」だ。撮影したらホームページにアップしたい。

 それで、引き続き、火の玉小僧のため息・火の玉小僧のウンチと3点の下絵を描いた。こんなテンポで、火の玉小僧を製作したい。今年は、初めて手帳を買ったし、何とかスケジュールを切り詰めてやっていきたい。

 3日間、鶴ヶ島にいて、富士吉田の生徒が甲府の展覧会の留守を守ってくれる。

 仕事が入ってきて、展覧会を26日までに切り詰めた。20日間という遠方の展覧会というのは私のような仕事のパターンの人間には無理なのだろう。

 去ってから訪れる人には申し訳ない。


思い出の町・甲府(1月17日)

 展覧会で、甲府に泊まっていたが、締め切りのため帰ってきた。

 甲府は母が生まれた町だ。小さいときは甲府の朝日町にある、祖父さん祖母さんの所に母と一緒に来た。

 私が生まれた富士吉田というのは、甲府盆地の外にある地域で、甲府から見れば偏狭の町だ。いわゆる甲州弁というのは使わない。沼津とかの方言に近い。

 子供の頃、バスに延々と乗って、御坂峠を越え甲府に行くのだが、憧れの町だった。駅の辺は人通りが多く華やかな雰囲気だった。富士吉田にないものばかりだった。岡島デパ−ト。ここには屋上に遊園地があった。そして、ソフトクリームを売っていた。富士吉田にはデパートもなければ、スーパーもなかった。

 富士吉田の地面は溶岩だ。甲府は違った。石垣がすごい。溶岩で出来ていないんだ。堆積岩かな?川の石である。

 富士吉田は、富士山の傾斜地であるから、水はすこい勢いで流れていく、それに織物の町であるから、小川の水は七色に変化する。染色の水が流れてくるのだ。

 甲府はそうじゃない。どぶがあるのだ。それさえ文化的に感じた。教科書にどぶという文章があるときがあったが、我々富士吉田っ子はどぶの実態を知らなかったのだ。ないから。そのうえ、そこにザリガニがいた。とてもうれしかった。ザリガニは富士吉田に存在しないのだ。

 母親が、リュウマチ治療にために甲府に行ったりきたりしていたから、本当に甲府に来た。

 祖父母がなくなり、よく遊んだひかり座という映画館がオギノというスーパーに変わり、家もなくなった。今たずねるとその頃の面影もなく、住宅が密集している。近くの祖父母の納骨されたお寺を訪ねると、小学校6年のときにお祖母さんがなくなった葬式で訪ねたままのお墓がある。

 にぎやかだった町は、道路が整備されてきれいになっているのとは逆に、人通りはほとんどない。

 岡島でパートの遊園地はまだあるのだろうか。

 乗ってみたい。


長嶋茂雄の言葉が(1月14日)

 昨日のNHKの甲府支局の放映は満足するものだった。どんだけ生出演が、緊張するものかと思っていたが、普通にのんびり会話が出来た。

 まず、8時半にギャラリーに入り、スタジオに持って行くものを選択。NHKの鈴木アナがやってきて、もって行く作品にチャック。しかし、何か様子が変だ。

 「鈴木さん、ひょっとして緊張しているんですか?」とたずねる。

 まだ、NHK入社3年というほやほやの方だが、ニュースを読むのはなれているが、さすが自分で企画した番組となると緊張するのだという。

 私はというと、何故かどきどきしていない。昨日鈴木さんと打ち合わせをしたときは、緊張をしていて、頭の回転がすこぶる悪かった。「本番はどうなるのだろうか、でも大丈夫だろう」

 NHKに到着。まだ、スタッフが現れていないが、先に書生姿に着物に着替える。

 スタッフがそろうと、かなり家族的な人数と雰囲気であった。居心地がいい。そして、ちょっとした打ち合わせに入る。

 持ってきた作品等が、ほとんど映らず、結局切り絵作品は一つになった。それと、武田二十四将の即興切り絵5点。

 それから本番前に、山梨局のキャラクターがあり、それを切っておいてほしいとのこと。信玄君というのがあるが、このキャラは相当難しいキャラだ。しかし何とかクリアー。このくらいのボリュームの切り絵は、私じゃなかったらしり込みするだろう。

 本番30分前からリハーサルが始まった。ちょっとどきどき。でもこのくらいには耐えられる。

 そのとき浮かんだ、長嶋さんの「緊張を楽しむ」という言葉。それを思い浮かべたら、さらに緊張はなくなった。

 本番。袖のドアから、私は現れる。ちょっと、どぎまぎして、うつむいてしまったが、「緊張を楽しむ」が浮かんで、大丈夫。

 さて、進行は続くが、鈴木アナ、リハーサルとは違うことを聞いてくる。こちらも、リハーサルとは違うことをしゃべる。最初から、リハーサルどおりにはしゃべらないようにしようと思っていた。いたずら心もあるが、それのほうが、雰囲気が出るしゃべりになりそうと判断。同じことをしゃべるとつまらないのだ。

 それで、その場で10センチ角の節分用の、鬼を切り始める。だが、何故か手が震えている。緊張していないので、そんなはずはないと思った。後からどうしてだろうと思ったが、右腕が痛かったので、どうも、展覧会や、鶴ヶ島の通いで、重い荷物を持って歩いているからなのだろう。

 切り絵の魅力について、何故、切り絵を始めたのか、本のイラストを書く過程の話し、今後の夢、即興切り絵はお題をもらってやるがそんなに早く絵が浮かぶものなのか、等の質問に答えた。

 16分の生出演は終わった。

 晴れやかな気持ちだった。

 富士吉田の母親に電話したら、忘れてみていなかったという。まあそんなもんだろう。

 でも、一生印象に残る一日になるだろう。

 ビデオがほしい方は、ご一報を。


失敗(1月12日)

 昨日は、時間がどれだけかかるかわからない状況で、中央高速の元八王子バス停に向かったが、とんでもなく時間がかかったのと、高速のバス乗り場の発見に時間がかかった。

 結局着いたら、次のバスが後2分後に来るということで、それに飛び乗った。当然1時間近くの遅刻である。客は来ないだろうからまだ安心だ。

 明日のテレビ出演に備えて、今日は甲府に泊りである。

 東洋大学工学部のテニス部の一つ下の後輩の細村氏の家に泊めてもらうことになった。不思議なことに、私の同期より、一つ下の後輩のが付き合いがあるのだ。一つ下の後輩動詞はとても仲がよくて、たまにあって遊んでいるらしい。

 きっと、早々に彼の家に行って寝付くことだろう。もともと早起きなのが、まずくて人のところに泊まると、早くおきてどうしていいかわからない。これがとても嫌だが、今回は医者処方の睡眠安定剤をもって行くことにした。

 さて行ってきます。


通勤甲府(1月11日)

 初日は飾り付けで終わった。

 昨日は赤帽の車に乗って、甲府に行ったが、運転の地濃さんが、八王子のバス停まで、バイクで行ったらというアイデアを出しててくれた。早速中央高速バスを予約して、八王子のバス停で乗車する。

では行ってきます。

今から、甲府展(1月10日)

 もう運送屋さんが来て、荷物を積み込んでいる。甲府に出発だ。では皆さん。行ってきます。

深夜レストラン(1月9日)

 今日は11時から、ふれあいサロンの絵の交換がある。甲府に展覧会にもって行く作品が、サロンに飾ってあるのだ。最初からもって行かない作品を飾ればよかったのだが、ベストコレクションにしたかった。

 24時間のレストランで仕事をしている。私はどうも即興切り絵をしているくらいだから、外のほうが仕事がはかどるのだ。

 深夜のレストランは、9割がたが喫煙席のほうに客がいる。深夜族は喫煙者が多いということだろう。

 それと、庶民的な価格のレストランほど、うるさい。若い連中が長時間たむろすからだ。となりいい姉ちゃんがいると、引っ掛けたりしているが、一度は警察が来た。未成年の喫煙でよんだらしいが、その時は嫌がる?隣の女性に声をかけていたらしい。
 着メロを大きな音にして、ぱらぱらを上半身だけで踊りだす二人のちょっと顔黒女性がいた。

 昨日はデニーズで、女性一人の若い三人の客だったが、ガチャンと何かが落ちた音と、机をたたく音と怒鳴る声がしていた。若者が女性に怒鳴っていたのである。喫煙席は6割がた埋まっていたが、皆おとなしくしていた。

 外国だったらどんな反応になるんだろう。

手塚治虫さんの存在感(1月8日)

 昨日、今個展中の、川越市霞ヶ関のふれあいサロン展会場で即興切り絵をした。

 二点作ったが、作りながらよくくっちゃべった。しゃべりが結構うけていたが、客に後ろ向きでやっているので、とにかく恥ずかしくなくていい。印象的だったのは、ペンネーム百鬼丸の由来について話をしたとき、手塚治虫さんとの出会いについて話が及んだら、場内がシーンと静まり返った。他の著名人の話をしてもこうはならないだろう。

 手塚さんの人々にとっての存在は大きいことがわかる。

 今回の展覧会のプロデュースは、霞ヶ関テニスパークでいつも、私とテニスをし合っている、言っちゃあなんだけど、技術的に恵まれないいいおちゃんちである。そして、それなりに人間関係で、複雑なところもあるだろうが、私にはそうは全く見えなくて、皆いい人ばかりである。ある部分理想的なテニス場ではないかと思う。

 昨日はそのプロデュース仲間ばかりでなく、主だった仲間が即興切り絵の観覧に来た。お陰で、2回とも盛況であった。

 作品もまずまずで、めでたしめでたし。

 手塚治虫さんとの出会いは、そのうちに。


甲府展三日前(1月7日)

 今日は霞ヶ関・角栄商店会「ふれあいサロン」展の私の即興切り絵の日である。シャッターどおりに進行しつつある商店会であるから、目の前の通りを歩く人もまばらであるから、当然展覧会場に入ってくる人はいないに等しい。そこでやるのだ。

 それこそみかん箱上で歌う歌手というのはかくあらんと言うことになるだろう。

 寒い。出来るなら、それでも外でやりたい。それでないと目を引かないのだ。

 そうだ、考えてみれば、霞ヶ関テニスパークの面々が見物に来るだろうから、かなりの人数が集まるはずだ。がんばろう。

 さて、本の装丁の仕事であるが、一冊は終え、今日順調に行けば、もう一冊終わることになる。小説新潮の連載分が入ってきたからこれを、明日にはたいらげたい。でも、のんびりの百鬼丸である。


今年初切り絵教室(1月6日)

 今日は初切り絵教室なのだが、生徒が2人。ちょっと寂しいスタートである。

 昨日の夜から、山梨の展覧会の葉書をパソコンで作っていた。今日は宛名書きをしようと思っているが、これもパソコンにやってもらう。便利である。

 私の生徒に、吉村という女性がいるが、彼女の本業は宛名書きの仕事である。まだパソコンを使って宛名書きをしていなかったときには彼女に宛名書きをしてもらっていた。

 大量の宛名書きも、何の苦痛の表情も浮かべずやってのけていた。きっと、私の宛名書きくらいの量はたいしたことがないのだろう。

 今はパーティの招待状や賞状とかの文字を書くのだそうだが、昔は年賀状が相当あったようである。この仕事も、不況とパソコンで相当ダメージを受けているようであるが、手書きのよさはまだ捨てがたいようで、失礼にあたらないようにと気にするお相手には利用されているようだ。

 吉村さんは、相撲の千秋楽の優勝の賞状「ヒョーショウジョー」の賞状も「私がやっている」そうだ。驚きである。

 しかし、彼女以外でも、本当に多芸な人が生徒にいて、生徒の一人ひとりの経歴を利用すれば、最強の百鬼丸のプロデュース軍団が出来そうなのだが。


マネージャー渡辺五六八(ごろはち)の初日(1月5日)

 霞ヶ関のふれあいサロン展の仲間たちが、私の作品を取りに来た。早速、渡辺五六八と自己紹介した。やはり、百鬼丸の気持ちとマネージャーの気持ちが、混じって押し寄せてくる。

 いい調子でマネージャーになっているなあと思うと、次に百鬼丸に戻ってくるのだ。マネージャーになっているなあと意識した瞬間に戻るといっていいだろう。これの使い分けはかなりの修練がいるだろう。

 でも、マネージャーになれる瞬間があるのである。百鬼丸だったら、自慢していやがると思うことをさらっといえるのである。

 この修練が、うまく出来たら、そりゃあ面白い。

 絵の飾りつけは、マネージャーらしく指図した。みな、マネージャーといったらそれほど不思議に思わなかったのが不思議であった。なりきっていたのだろうか。

 マネージャーだったら、この展覧会をどうするのだろうと思って考えた。

 10日から、甲府での展覧会があるのである。4日ほどダブるので、最初から、この展覧会のためだけの作品を用意して、飾るということも考えた。そうすれば、展示換えもしなくてすむのである。

 しかし、やっぱり百鬼丸のベストコレクションを飾ろうとマネージャーだったら指示するだろうと考えたのである。

 やはりベストを尽くして、後悔したくないのである。やはり、いい展覧会になった。

 サロンの仲間には、切り絵の生徒を勧誘してくださいとマネージャーとして指示しておいた。


マネージャー渡辺五六八(ごろはち)デビュー(1月4日)

 頼んでいた敏腕マネージャーが、私のマネージメントを辞退した。私が、ここで不満を書いたからというわけではない。もともとああいうことを書いても信頼しあってる関係であるので、差しさわりはないと思っていた。

 彼女は勤めがある。それに相当な多趣味であり、家庭も持っている。その状況の中で、私のマネージメントをするというのが物理的に無理だったのだ。何か相談事があったら、また甘えようと思っている。

 しかし、マネージャーを見つけるというのは難しいものである。短期間ながら、マネージャーというものを持って、本当にギャラの交渉や、こまごまとした打ち合わせは楽だった。

 本格的なマネージャー探しは、出会いを待ってあせらず探すつもりだ。

 それまでの間、私が渡辺五六八という名前で、マネージャーをしてみたい。面白いって言えば面白いんだが、自分で二役が出来るほどマネージャーは、簡単なものではない。

 ジキルとハイドではないが、あるときは製作者。あるとこはマネージャーとその心までが切り替われたら、それは成功する可能性がある。もともと、マネージャー経験者だから、普通の人よりはより所がある。

 まずは、彼の名刺を作ろう。

 さあ皆さんは、このアクションに興味津々であろう。


アート・ランダム展の終わり(2006年1月3日)

 葉書を出したのが12月30日だったから、私の知り合いは、私の即興切り絵のときだけだった。即興切り絵は何とかつじつまを合わせてが、あまりいい作品が出来なかった気がする。

 お題をもらったが、これからはしばらく私のシリーズをやって行きたい。作品をシリーズとして残したいからだ。

 山梨県のNPOが主催した展覧会だけあって、山梨県のアーティストが多かった。その分交流もあったので、それなりに楽しかった。これから、仕事としての交流がどれだけあるか楽しみだ。

 彫刻家の星野敦さんと、今度即興の絵画と切り絵で競演しようなんて話も出たんで、やってみたい。

 来年もありそうなので、また考えてやってみたい。

 さて、今度は上記の「霞ヶ関ふれあいサロン展」。

 霞ヶ関角栄商店街が、商店街活性化のために開いたスペースで、テニスの定年を過ぎた仲間で、おっちゃんたちが運営する場所だ。さあ果たして人が来るだろうか。

 この近辺の新聞チラシには入っているだろうから、私のことを知っている人はくるかもしれない。

 作品制作もあり、苦しい一週間になる。


金太郎の一日と即興切り絵(2006年1月2日)

 あけましておめでとう。今年もこのホームページをよろしく。 

 元旦から仕事をしていた。10日から始まる甲府での展覧会用の作品を作っていたのだ。このホームページにいつも出ている金太郎をである。

 この作品は私がとても楽しく作ったのであるが、それのせいだろうとても評判がよく、それで、販売用に作ったわけだ。一点2800円で販売予定。切り絵自体の大きさは25mmと小さい。ほしい方は、下記の電話にファクスでお知らせください。

 このミニチュワ切り絵シリーズは、干支・歳時記・日本昔話のシリーズがあるが、展覧会までにすべてそろえたい。

 それから、今日はいよいよ上記の展覧会で、即興切り絵をする。その準備をそろそろしなければいけない。テーマはえとということだが、犬なんか難しいなあと思いながら、犬だけでは面白くないので、犬がどうしているのかというお題をもらおうかどうか迷っている。

 今回は初めて、絵描きさんの大勢いる前でやることになるが、人前でやる恥ずかしさはあるだろうが、緊張はないだろうと思っている。

 では行ってきます。


今年(12月31日)

 今年もいろいろあった。

 まず、正月から展覧会だった。甲府駅前のデパート「山交」でだ。しかし、山梨の県庁所在地で、駅前という条件で、勇んでやったが、デパート自体に客が入らず、がっかりした。デパートの外の入り口で、「武田の二十四将」を雪の降る中やったけ。
 一緒に展覧会をした押し花の会のおばちゃんたちとの楽しい交流、また、甲府の親戚のおばさんたちとの交流も楽しかった。
 テニスが2年目に入って、うまくなった、というより取り戻した。川越の大会に出始めた。

 ニューヨークにギャラリー回りをした。ニューヨークも絵が売れなくなっているようで、貸し画廊が出始めていて、日本人のかかわっているギャラリーばかりを回ったが、二軒は貸し画廊だった。
 何か夢がなくなった感じがあるが、ふと入ったすし屋の店主が日本人で、その店のインテリアに切り絵をしていいということで、そちらのほうが楽しそうだ。3月くらいに行ってやってきたい。

 下にある母校・山梨県立吉田高等学校の新校舎の食堂の陶壁画をやった。先日見に行ったが、食堂が意外に狭く絵がやたら目立った気がしたが、これでよかったのかと思うが、気にするほどでもないのかもしれない。
 竣工したら、また写真をこのHPにアップしてみたい。

 教室の生徒が増えた。楽しい生徒ばかりだ。先生は幸せだ。

 埼玉県小川町の伝統工芸会館で個展。2ヶ月のロング展、即興切り絵のテレビで放映され、展覧会後半は人が押し寄せた。毎日行っていたが、人との交流の大切さを勉強させられた。

 仕事が進まなくなるとレストランで仕事。私は朝方仕事タイプだから、深夜にレストランに行って夏はやっていた。長時間いるのが申し訳ない気がするが、私より、もっと長くいる学生たちが一杯いた。
 そのお陰で、一月8冊のカバー画の依頼を乗り越えた。


アート・ランダム展(12月30日)

 今渋谷の文化村で、アートランダム展をやっている。

 やっぱりつまらないのである。正直な感想だ。絵がつまらないという内容だけの問題じゃなくて、やっぱり、絵は映画や遊園地やスポーツ、芸能には、相当な覚悟の絵でないとかなわないなあと思うのである。

 そんなことはないという人もいるだろう。でもそれはほんの一部の人に過ぎないと思う。

 私は切り絵にたずさわって、悔しいのである。何とか、そんな部門との差を縮めたのである。

 そのために考えよう。皆が百鬼丸を見たいと思うように。


マネージャー(12月29日)

 今、出版の仕事は引き続きしているが、そこから少しシフトを変えて、他の分野に進出しようとしている。

 ミク友のエンダス君がさりげなく言ってくれたが、百鬼さんの名前が知られないのは「主役じゃないからじゃないですか」だった。

 そうなのだ。皆私の絵は本で見ていて知っているが、目当てはその本の著者なのである。

 近頃、専属ではないが、マネージャーをしてもらっている人がいる。とても、アイデアマンで、信頼している。

 だが、その才能がほとばしるあまり、売り物の私を為口で、なじるときがあるのだ。

 正論だったりするから反論はいえなかったりするが、むかっ腹が立つのである。作家が、その通りに動けたら苦労はしないのだ。こだわりもある。

 確かにいろいろと言ってくれる人はいないのでありがたいのだが、仕事に差し支えるのである。

 私もマネージャーだった時期があるが、タレントにほれ込めばほれ込むほど、楽にスポンサーに物が言えた。「この子は最高です。」と。

 しかし、物を作る立場になると、自分のことがさっぱり判断付かないものだ。ついつい安売りをしてみたり、高飛車に出たり。
 でも、マネージャーとさしで話をして、言いたいことが言い合えるというのはいい芸人とマネージャーなんだろう。

 そのようにこれから関係が育てば理想なのだが。


亡くなってみれば(12月28日)

 石井一臣さんという切り絵作家が、少し前に亡くなられた。彼は埼玉県在住でなく、群馬の桐生の人だった。

 彼はしかし、埼玉の土屋前知事と旧知の間柄で、埼玉県全土で個展の開催を公の場所で、開催してもらい、彩の国大使として、外国での個展、また、広報誌での連載等、とても優遇されていた。

 私は彼の存在を埼玉に越してくるまで知らなかった。絵柄も風景画だけで、各都市に一人いる切り絵作家としか私の目には映らなかった。多分、それが本当は現状ではあったのではないか。

 只、切り絵をしていると、彼に間違えられるのであった。

 文藝の世界での話ではあるが、売れっ子切り絵作家という自負があった。

 そこでライバル意識をたぎらせ始めようと思ったのが、今までほとんどしてこなかった個展活動であった。

 埼玉では無名であった私が始めたのは切り絵教室だった。生徒が個展の客を連れてきてくれると思ったからである。

 あれから8年の歳月が流れ、生徒の存在は私には欠かせないもののになっている。

 当然、個展には友達親族を連れてくる。絵もちょっぴり買っていただく。仕事も手伝ってくれる。個展の準備や受付もしてくれる。こんなことは予想もしなかったことである。

 現在鶴ヶ島教室だけの生徒が25人ほどいる。

 即興切り絵を始めて、人前でしゃべらなければいけなくなったが、人前でしゃべれるようになったのは切り絵教室で生徒を教え始めたからだと思う。これは予想を超えた副産物であった。

 人が集まるのだから、生徒同士の好き嫌いがうまれるのはしょうがないが、それを超えて、私に従ってくれる生徒に感謝したい。

 だが、元をただせば、亡き石井一臣氏に対してのライバル意識から端を発している。

 改めて、感謝したい。


今日は飾りつけ(12月27日)

 今日は下記のアート・ランダム作品展の搬入の日だ。百鬼丸は今は出版の仕事を中心にやっているので、こういう小品販売の展覧会はとても苦手だ。

 売るものがないのである。だから、小さい品物をかき集めて展示するんだが、売れないだろう。絵なんてのは描いた人に対する思い入れがなければ売れるものではない。

 この展覧会に来る人は私のことはほとんど知らないはずだ。知らない人に作品を買ってもらうには、作品が良くて、値段は安いということしかない。

 今回は、かなりハイレベルな作品を切り絵で複製した。複製なんて作業は、なかなか出来ない。だから、複製だからといって、馬鹿に出来ない希少価値だ。当然安く設定した。それでも3万以下だが、買う価値はあると思うんだが。

 それでも高いと思うだろう。いくら安くしても、目利きの客は少ないから高いと思うのである。

 前に週刊文春で連載した宮部みゆきさんとの連載「ゼプツェン」の立体切り絵の原画展をして、最高額3万円くらいで売ったが、売れなかった。ほとんど手間賃にもならない値段だったが、客は安いと悪いものと思って、値段が高いと思うようである。
 その後、がっかりしたので、15万くらいにあげたが、2点ほど売れたのである。

 それから、私は切り絵の値段は馬鹿らしいので安くしないのである。

 で、今回は超安にはしていないけど、安いのである。

 これを見た人はどうぞ、買いに来てくださいね。


神田川なんて曲は嫌い(12月27日)

 昔のフォークソングが好きだ。

 亡くなった高田渡氏のコンサートも、なくなる3ヶ月前に行った。ニューミュージックといわれるジャンルより、四畳半フォークが好きだ。

 だから「神田川」なんて、一種のラブソングなんか嫌いだ。

 何故って、あれは同棲していてそれで、二人手をつないで銭湯に行く話があったりするよね。これみよがしに貧乏だった、なんていったて、恵まれてるよ。

 俺若いときにもてなかったから、あんな経験なくて、とてもうらやましかった。同棲なんて、最高級生活ですよね。「何がなくとも江戸むらさき」じゃないけど、こちらは女もいない、ましてや同棲なんて、最高ランクですよ。女と同棲で、貧乏じゃなかったりしたら、罰当たりですよ。

 今の若者も、同棲している人はほんの一部で、女性と口を聞くのも苦手な恵まれない若者がきっと多いと思う。


振り返る(12月26日)

人付き合いで一番嫌なのは、喧嘩腰というやつだろう。一方的に怒り出す。

 大体が、こちらが予想もしない些細なことでである。

 一人は、切り絵をやっているかなり古い付き合いの女性である。いつももう一人の切り絵作家と2人で展覧会を開いていて、前に私も入っていたのだが、仲のいい二人の仲間とまた展覧会をやろうと思ったのだが、「百鬼丸が入るなら、私はやめる。これ以上面倒見切れない」と怒鳴りはじめるのである。

 どうも、もう一人の切り絵作家が、何もしないらしいのである。彼女は大阪に住んでいて、それは葉書とかの製作から、ギャラリーの連絡等は、横浜にいる切り絵作家がやればいいことなんだが、しないらしい。

 それで、一方的に怒っているのである。電話を切ってから前にも、言われたことがある気がした。こういう類は経験したことがある。直らないのである。付き合いを考えることにした。

 それから、テニス。テニスをしていると、「そういう打ち方は止めなさいよ」とか、ああだからこうだと人のプレーを分析したがる方が、私がやっているクラブにいる。ダブルスの試合中に、こちらがミスしてあやまってもも、にたにた笑っているだけで、何のリアクションもない。

 問わず語りで、見当はずれの分析を人に教えたがるのである。

 人にテニスを教えるのは、聞かれた時だけでいいのである。

 自分が相当うまいと思っているのだと思う。

 そして、テニスをしていると、いつも、いいおじさんふうに笑っているのである。冗談を言い、気取ったしゃべりをして。胡散臭いなあ。

 そしてちょっと前に、試合中に私が、ちょっと変わったサービスをしたら、「切れた」のである。

 私と仲間は「あの程度で?切れるの?」と思ったのである。前にも、ボレーが手に当たった時に「切れた」ことがあった。

 皆あの程度で?であった。スマッシュでもなければ、強烈なボレーでもないのである。
 
 仲間で話したら、やはり皆余計なことを言われるのでペアで組むのをのを嫌がっていた。62歳くらいの彼はいつもやっている仲間より20歳くらい上なのである。その若い連中のほうが、いつも話を彼に合わせて付き合っているのであった。

 「そういう打ち方は止めなさいよ」といわれた私のフォアハンドは、今は完成して、抜群の威力になっている。

 いろんなテニスがあることを知らないのである。もうその方との付き合いをやめたいのである。


昨日の即興切り絵(12月25日)

 あさ、2時に起きて?いや夜2時かな、起きてレストランで、問題小説の挿絵の仕事を始めた。何とかした絵を描き終えて、即興切り絵の青山に行った。

 昨日の埼玉はかなり風が強かった気がしたが、青山はそれほどでもないとのことで、2時間遅れて行ったが、待っていた人がいた。

 300ミリの酒をぶら下げて、ボックスギャラリーキューブに着いた。早速、即興切り絵を開始して、お題をいただき、仙人をやった。仙人がただ佇んでいるだけだと、紙のスペースが余る場所が出来る。そこで、仙人がギターを抱えて演奏しているように、杖をギター風に抱きかかえた絵にした。

 大体が、即興切り絵というのは1枚目はいいものが出来ない。多分二作目だったらもっといいものが出来るだろう。

 この最初の作品がよくないというのは今後も続くだろう。

 二作目は龍だった。龍はとても難しい。成功したのは1度しかない。やはり思ったものは出来なかった。

百鬼丸の即興切り絵の様子はここをクリック


即興切り絵in青山(12月24日)

 今日は2回目の青山での即興切り絵である。前回は野田亜人氏の生徒展があって、生徒が一杯見物客で来ていた。今日はどうかわからない。

 2回ほど11時半頃からしようと思っている。

 前回は何とかいい作品が出来たが、今日も不安である。毎回出たとこ勝負なんだ。その不安が私を真剣にする。それが、客に伝わって、はらはらどきどき。これが即興切り絵のいいところなんだろう。

 即興切り絵というのは「切り絵の真髄である」といってもいい。

 白と黒のコントラスト、急いでいるから、線はシャープにせざるを得ない(が、その線に経験と自信が加わらなければ魅力に欠ける)、それに思い切った構図と顔の魅力が加わる。それで、鬼に金棒なんのだ。

 芸術論になるが、私は絵はいつも新しく、どんな絵が出来あがる、見られるのか、そんな期待感を私も感じ、見る側も感じる、それが絵描き使命だと思っている。それは、スポーツ観戦や遊園地なんかの楽しみとほぼ同じように、芸術も観客を驚かせたり、楽しませたり、うれしくさせたり、そんな人々の感動を喚起させたりするものだと思う。

 それが、芸術の存在意義だと思う。

 その意味で、即興切り絵は、単なる切り絵の魅力ばかりでなく、そんな今まさに目の前で、生まれてくるものに対する期待感が加味されて、単に切り絵の真髄を超える領域までいく可能性がある気がする。

 それだけに、出来上がった作品の研鑽が要求されるようになるのだろうが。


暮れ正月なし(12月24日)

 毎年暮れも正月もなく働いている。10年位前は2日くらい休んだ。しかし、その心底休んだ感じから、復帰するのに1ヶ月くらいかかって懲りたから、だから、自分のペースを守るために仕事をしている。

 仕事はホームページを見ていただくとわかるようにいっぱいある。他にも身辺の雑多なことを入れたら、とてもやりきれないことばかりだ。

 アトリエの模様替えをしたい。隣の部屋の一部を倉庫として借りているが、そこに荷物を移して、教室のスペースを広くして、作品展示もしたいんだ。

 まずは、目の前の月刊誌を今夜中に片付けたい。原稿読んで、2つのカットを朝までに仕上げたい。

 今日は、青山で即興切り絵と一人の女性に切り絵を教えければならない。


自転車に免許証を(12月23日)

 ちょっと前に自転車を盗まれた。

 歩行者は信号を守ったりするが、自転車に乗っている人は無法者が多い。

 駅前に駐輪する人や、駅前のコンビニなんかに駐輪する人って、けちな連中だよね。ちゃんと駐輪場があるのにそこにとめない。 そういうせこい連中とは友達になりたくない。

 大きな犯罪の起源は、そんな小さな犯罪から始まるんじゃないかと思う。

 ごみのポイ捨てもそうだ。毎朝、私の仕事場のビルの植木のところに、缶やビニール袋が投げ込まれている。
 
 自転車に免許証を与えて、罰金免停なんかしてもらってもいい気がする。

 タバコ・酒の増税より、そちらの罰金を税金に還流したらいいと思う。

(フラフープ20分・67.6k)


締め切り(12月22日)

 今日は久しぶりにレストランに夜中の2時に行って仕事をした。最近は寒いので、夜中にバイクで移動するのはしんどいから、アトリエでやっている。でもレストランは、こんなパソコンをいじることも出来ないので、仕事に集中できる。

 今月中に、依頼されている3冊の装丁を片付けたい。がしかし、月刊誌が3誌入っている。渋谷の文化村の展覧会はなかなか会場にいけないと思う。ただ1月2日には文化村で即興切り絵はやる。

 ただただ忙しい。
(フラフープ20分)


ひたすら仕事(12月21日)

 今日はひたすら仕事。
(フラウープ20分)


吉田のうどん(12月20日)

 故郷・富士吉田はいつの頃からか、うどんが名物だ。

 富士吉田にも「ほうとう」の看板をつけた店があるが、あれは山梨だったら「ほうとう」としか知らない客を当て込んだちょっといやらしい店だと思う。

 ほうとうは甲府盆地の食べ物だ。だから、ほうとうは甲府盆地で食べたほうがいい。

 富士吉田はうどんだよ。

 市役所に行くと「うどんマップ」作っていてもらえる、60軒くらいあるんだ。

 麺は太麺でかたい。舌触りはつるつるじゃない。本当に野郎うどんという感じ。

 いつかテレビで、讃岐対加須(埼玉)なんてうどん対決をしていたが、あれはテレビのディレクターの無知。
 讃岐に対抗できるのは「吉田のうどん」なのだ。

 富士吉田は今川・北條・武田の領地を行ったりきたりしていたところだから、大体が、方言が静岡だったりして、一般に言う甲州弁というのは使わないんだ。

 甲州文化圏じゃないから「うどん」なんだろうな。


富士のふもとへ(12月19日)

 今日は富士吉田の切り絵教室の日である。私の郷里である。父も母もかなり高齢であるが健在である。

 なかなか、教室を作る前は富士吉田に帰らなかった。仕事のことが気になって、帰っても夜で、次の日の朝には帰ってしまうという始末だった。

 それで、2年前の母親のがんの手術を機に教室を作って、毎月帰ろうとしたわけである。帰るときは出来るだけ、昼に行って母親と食事を取るようにしている。吉田のうどんを食べに行ったりもする。

 実家は兄が継いでいるので、そのほかのことは心配がない。

 富士山は私の町の南にでんとでっかく聳え立っているのだが、見るのを忘れる。実は地元の人間はそんなに見ないのである。先月も、行ったが見た記憶がない。帰って、今すんでいる鶴ヶ島から富士山を見たりする。


フラフープと便通(12月18日)

 腰痛防止のためにフラフープを毎日やり出した。一応私がやっているブログには、欠かさずやるように、毎日やったことを報告している。

 30分くらいやったほうが経験的に効果がありそうだが、長い。だから、一応20分を目安に、テレビを見ながらアトリエでやっている。左回りの回転でやっているが、右回転でやってもみたいがこちら生だ、20回転くらいしか出来ない。これから修行を積もう。

 だがだ、タイトルのように、フラフープをしている最中に便意をもよおすことが多いのである。私は便秘症ではないので、別段うれしいなんて思わないんだけど、便秘にはいいのかもしれないと思ったりする。

 多分、この日記に便秘症の方は反応するのであろうなあ。

 ちなみに、私の愛用のフラフープは組み立て式で、パイプをいくつかつなげるタイプなので、コンパクトにすることも出来る。


テニス教室(12月17日)

 今日は鶴ヶ島の切り絵教室だ。その前に、私の生徒たちだけのテニス教室を立ち上げることになり、それも相談なしだ。

 やっぱり。誰も参加しない模様。・・・・・・・。

 でもいつか、参加する人も出てくるだろう。それまで一人コートの網にボールを過ごすことになるだろう。

 テニス教室は、若葉の公園の中にある2面のコートのうちの一つ、どなたか私とテニスしたい方は来てください。

 といっても来る方はいないだろう。遠くで眺めて、「おお、いるいる」と笑われてしますかも。

 2時から切り絵教室だ。ちなみにテニス教室は12時半から。


帽子(12月16日)

 帽子をもらった。前に鶴ヶ島のジムに行ってたときの水泳仲間のお姉さんからだ。

 彼女は、水泳で休憩をしているとき、しょっちゅうプールのターンのところで、人と話しているので、とても邪魔で印象的であった。

 ところが、私が今は閉館となったギャラリー新宿高野で、支配人の天野さんのところに展覧会の打ち合わせに行ったとき、ちょうど帽子の展覧会をしていたのである。

 そこにどこかで見たことがある女性がいたのである。どこでだろう?

 私は非常に人の顔の記憶力がいい。展覧会のときのようにいっぺんに人が現れると無理だが、とても普段は覚えがいい。

 どこかでお会いしましたね。出版社の方ですか? あっそうだ、ジムの水泳の人だ。

 あちらは全く記憶になかったが(私はゴーグルをとることもなく、黙々と水泳をしていたから無理もない)、判明した。

 それからの付き合いになるが、本当にアトリエのご近所だったのである。

 その方は石井正子さんという帽子作家だ。昨日の青山行きには彼女からもらった帽子をかぶっていった。


ヤマトのメール便(12月15日)

 今年はカレンダー1000枚増やして4000枚すった。昨年もあまったが、今年は気軽にポイポイ配るためだ。買ってもらいたかった昨年までとは違って、宣伝のためと割り切ったからだ。

 昨日で、外国へ送る分と、出版社に送る分を残してすべてやった。膨大な数になる。前にやった分を入れると1200は送ることになると思う。

 だけど、かなり昔からカレンダーを作っていたが、その送料はすごいものだった。今は一枚カレンダーだが、昔は卓上のカレンダーで重かったから、郵便で170円かかっていた。

 最近はヤマトのメール便があるから、郵便だったら1枚カレンダーとはいえ140円かかるだろうが、80円で送ることが出来る。とてもありがたい。

 ヤマト運輸はもうなじみだから、ひいきにしてしまう。

 一方の、郵便局は、割れ物注意でも、私の近くの川越にし郵便局に勤めているフリーターの人が関係なく投げますといったので、止めているが、たまたまふと間がさして焼酎を送ったら、やっぱり割れて帰ってきて、弁償すると郵便局の人が言ってきた。

 このいい加減さは当分続くだろう。

 ヤマト運輸の売り上げは落ちているという、ヤマトがんばれ。

追)フラフープ20分実行


私の悩み(12月14日)

 大それた話ではない。腰痛なのだ。最近は、ちょっとしたコルセットを毎日やっている。これをすると多分ぎっくり腰になっているだろうなあと感じる程度で治まる。

 20歳のときの夏休みに、実家の表にあった石を裏に運ぶ作業をやった。そして、腰痛で3日間寝ていた。

 そのあとは30歳のときこちらは完璧なぎっくり腰だった。運動不足がたたった。テニスも月一回しかやっていなかった。
 ただそのとき、初めて整体院に行ったのだ。

 自転車をこいで、看板が会ったところに入った。爺さんが一人でやっている保険が利かない病院だったが、歩くのも苦痛な状態だったから、とにかく治してくれと訴えた。

 治療のあと、すくっと立てて痛みも和らいで自転車をこいで帰った。

 そのあとは時々ぎっくり腰になってきたが、もう4年くらい遠のいている。
 
 今は、フラフープを時々やる。20分くらいだ。昔は腸がねじれるとかいったけど、腰にはいいようだ。効き目がある。
 これから、毎日フラフープをするためにこの日記に、「やった」と記述する。そうしないとやらなくなるんですみません。


NHK生出演(12月13日)

 昨日は、NHK生出演の電話が来て、興奮した。その興奮を冷ますために、酒をちょっと飲ましてもらった。

 生出演といえば、30歳くらいのときに、山梨県上野原の忠実屋(現ダイエー)の前で、切り絵をしているところを生で映されたことがある。リハーサルのときはしゃべれたのに、本番に秒読みが始まったら、体内の血流がざわついてきたのを覚えている。表は、まことに声が小さくなったのを覚えている。

 それ以来だ。


青山の即興切り絵報告(12月12日)

 さて、昨日の即興切り絵の、映像報告をする。ちょっと寒かったけど、いい作品が出来た。

      

 猿飛佐助 青海入道 花魁


青山で即興切り絵(12月11日)

 今日は青山の即興切り絵がデビューである。時間は11時から、もう何人かの人が見に来る予定のようだ。盛況であればいいなあと思う。

 晴れてはいるが風が心配だ。外でやるからね。

 今から和服に着替えて、それから、2点しか出来なかった販売用の切り絵も終わってない。

 夜はテニスの仲間と越乃寒梅で忘年会。髭君には申し訳ないけど全部飲んじゃうよ。


調布切り絵教室(12月10日)

 今日は調布の切り絵教室がある。もう結構長くやっているが生徒は2人、最近1人入ったから3人だ。かなり寂しい教室だ。月一回だ。
 私にとっては、ひょっとしたら、その教室が月一回の東京行きということになることがままある。

 調布という土地は、私が鶴ヶ島に来る前に住んでいた土地である。最初は京王多摩川駅の下車で、競輪選手が宿泊している施設の隣にあったアパートだった。しかし、木造アパートの悲しさ、下に住む子供の地団太踏む音がうるさくて出てしまった。

 その次は多摩川住宅というところに入った。かなり古い団地だったが、日活撮影所があったり、多摩川があったりと、結構楽しめた。

 私が教室を開いているところは、調布駅の北側にある画材店の「奈良堂」だ。

 この店には思い出がある。もうとっくに切り絵作家としてデビューしていた私であるが、人物を描くときに何もそれまで見て描いていなかったのである。だから、奇奇怪怪の人物しか描けなくて、それで、その奈良堂でやっていた裸婦デッサンの集まりに参加したのであった。

 裸の女性を目にすることはともかく、周りの人がかなり上手なんだろうと私は勝手に思って、一人緊張していたのである。

 一回目のクロッキーが終わるまで、左右の人のデッサンを見る余裕もなくやっていたが、休憩時間になって、左右の方のクロッキーを見ると下手だったのである。

 それからは、のびのびとクロッキーができたのであるが、そのときのことははっきり覚えている。

 そして、クロッキーを初めて半年が過ぎ、私にびっくりするような大役が回ってくる。

 サンデー毎日の表紙のイラストの連載が、私に決まったのである。32歳くらいだったのかな?

 とても下手だったのである。


切り絵教室(12月9日)

 今日は切り絵教室がある。先日の展覧会で、生徒になりたいという人が5人現れた。全員参加するとは限らない。

 生徒には私が切り絵をかなり早く進歩させていったという過程を、同じように通って行ってほしいので、ちょっとつらい部分もあってもそのとおりにしてもらっている。

 第一に切ることに慣れたら、自分で下絵を書いて切り絵にしていくという作業だ。

 第二に、自分が印刷物という媒体でうまくなっていったので、印刷物に生徒のイラストを外部から注文されて、使ってもらっている。こちらのほうは生徒も自分の絵が、巷にさらされるわけだから、かなり力が入ってくる。

 連載だったりするから、その連載が終わるとかなりの力が付くことになる。

 また、JTBのたびの雑誌の仕事も生徒でやった。ちゃんとギャラも出て、いい思い出になった。


続・三丁目の夕日(12月8日)

 映画の三丁目に夕日を見てきた。場内はかなり込んでいた。ヒットしているのが窺える。ちょっと遅刻したんで、プロローグが見られなかった。

 孤児のような子供が、小説家志望の茶川さんに引き取られるんだけど、飲み屋のママにその子供を返しに行ったりするところが、その子供の心中を思うととても可哀想だと思った。

 結構そういう残酷なところがあって、私の中では反発していたが、不思議な、現実にはありえないような仲直りの仕方で、涙を誘ったりする。

 昭和30年代がこんなに喧嘩が多かったりしたとは思わない。でも、そんなデフォルメがないと映画にならないのかなと思ったが。

 しかし、泣いちゃったな。

 何回も。


三丁目の夕日(12月7日)

 今日は、ぜひとも「三丁目の夕日」という映画を見に行こうと思っている。この漫画も、私が切り絵を始める以前、ちょうど手塚治虫さんの漫画を読んでいた頃、同時に読み漁っていた漫画だった。

 本来ならもっと早くに、映画やらになっていい作品だったと思う。

 私の自主制作シリーズでいつか、昭和30年代の子供たちというのをやってみたいと思っている。

 そのときには「三丁目の夕日」は欠かせない資料になるだろう。

 話は変わるが、私はミクシーというブログにはっいているが、私の描いた講談社文庫の「封神演義」中巻があるコミュニティーのタイトルに使われていた。

 早速そのコミュニティーに入ってみたが、一応私が絵をしたことを表明したが果たして反響は。
http://mixi.jp/home.pl


弟子が辞めた(12月6日) 

 来年の1月23日から一週間生徒の展覧会がある。それに当たって、参加者の確認のメールを打った。だが、一人松田という男の弟子が、切り絵教室からの退会を申し出てきた。

 私より、5歳くらい上のような年齢の方だったが、私の絵が大好きなようで、最初の頃はよく教室に来ていた。

 作品も一作目から、力作を製作して行った人で、私も彼の作品を見るのが楽しみだった。もともと水彩をやっていたらしいから、それもうなずける。

 とても人柄もよく、本当に切り絵を楽しんでいる様子だった。

 しかし、ご婦人が入院したとかいつかのメールに書いてあった。

 その後、私の展覧会にも顔を見せなかったが、とうとう辞めるという事態になった。

 とても残念だ。私も彼のファンだったのである。


二日酔い(12月5日)

 昨日はテニスの試合だった。川越の団体戦だが、3チームのリーグ戦で戦い、順位が決まったら、その順位の中でトーナメントをするという形だ。結果は二位で、二位トーナメントでは初戦敗退。

 私は1勝2敗だった。予想通り、ボレーは出来ないから、満足な試合ではないけど、楽しめた。

 二日酔いだ。そのあと忘年会があったのだ。霞ヶ関(川越)の駅前の飲み屋だったが、20人ほど集まった。私は酔っ払った。私はテニスの後でうれしかったせいだろう。ビンゴゲームではマフラーを獲得。


 そして、二日酔いなのだ。

 東洋大学の工学部キャンパスにいってきた。それというのも昨朝、試合前に仲間と大学のコートで練習したのだ。そのとき愛用に帽子をコートに忘れたのである。

 しかしコートには帽子はなかった。私がパッチワークをしてあったお気に入りの帽子だった。とても悲しい。

 帰りにキャンパス内にある私が所属して事務局長をしていた体育会本部を訪れた。何十年ぶりだろう。中に入ったら、趣が違っていた。中はごみためのように雑然とし、整理整頓がなされていなかった。私たちの時代とはぜんぜん違っていた。

 それに一番意外だったのは、体育会委員長をはじめとする役員が、学ランを着ていなかったことだ。全く普段着だったのである。

 我々の頃が、学生服であった。それも、中には襟を高くし、すそを長くし、裏地がすごい絵の入った極彩のものだったりした。いわいる「花の応援団」スタイルである。

 それでも「おっす」という言葉は、化石のように残っていた。

 革新派だった私も、何か寂しい思いがした。 

 同学年の、つまり同期の委員長・田尻はもう15年くらいに、朝布団の中で突然死でこの世にはない。

 体育会本部で、局員の誕生日だといっては宴会を開いていたが、そのとき全員歌謡曲を歌うんだが「自分歌わせていただきます」と後ろで両手を結び、直立して歌うのであったが、田尻の「雨に打たれながら、たたずむ人がいる・・・」という歌手は忘れたが、その歌が耳に残っている。

 彼は姫路だった。


テニス団体戦(12月4日書く)

 今日は川越市の大会今年最後の試合だ。いい試合にしたいが、ボレーが出来ないんで、まだ試合を楽しめないだろう。

 さて昨日は、切り絵教室の後、2回目の展覧会の打ち上げをした。新人の松田氏・石田氏もくわわった。

 石田氏は男である。私の教室には酒飲みがこれまでいなかった。

 昨年、教室の展覧会で、打ち上げをしようと飲み屋に10人ほどで入って、さあ一杯やろうかと思ったら、男2人いるのに誰も飲まなかった。

 石田さんはほおって置けばかなり飲めそうな逸材のようだ。それに女性では自ら「飲める」と豪語する天羽(あもう)氏が、入っている。


12月初の教室(12月3日書く)

 毎回のことだが、アトリエが教室ということは、その度に、部屋の片づけが必要となるのだ。

 締め切りが沢山あるときは大変となる。教室用のデスクには資料や道具が一杯、最期には掃除機をかけるんだが、この掃除機をかけると見違えるように不思議に教室の雰囲気をかもし出してくれる。

 教室は1時半からだから、12時頃から片付け始める。

 この教室がなかったら、この部屋はどんだけ物の山になるのだろう。

 今日の生徒は7人。

 生徒募集中。


寒い(12月2日書く)

 季節で一番好きなのは春なんだが、これが、大変。私の花粉症の本番が5月なのだ。だから、多少のスギ花粉のアレルギー症状が現れてから、6月の露を迎えるまでの間は、くしゃみ鼻水・鼻づまりに、鼻血が加わる。

 鼻血は厄介で、ちょっと鼻に触るだけで現れるから、風呂に入っているときは大変、顔を洗うたびに出てくる。

 共同浴場に行ったりすると、ずーっと洗い場で、上を向いて鼻を押さえていることになる。

 季節はいいのにね。

 春は希望があるし、これまた次に好きな夏に向かっていくわけだ。

 早く春が来ないかなあ。


カレンダー発送(11月30日書く)

 今日は仕事もひと段落したことだし、大量のカレンダーを発送しなければならない。買ってもらったカレンダーから、プレゼントのカレンダーまで、かなりの数だ。一日では終わらないだろう。

 12月1日は、久々に東京に買い物だ。そして12月2日は、夜は文藝春秋の忘年会パーティがある。久々のパーティ出席である。12月3日は切り絵教室。12月4日は川越市テニス団体戦。夜はテニス仲間の忘年会。それにクロッキーの会の搬出日でもある。


佐々木久子さんから越乃寒梅大吟醸(11月29日書く)

 佐々木さん(作家であり、評論家であり、テレビにも頻繁に出ているいらっしゃる広島カープスの大ファンのあの佐々木さんである)から大吟醸が届いた。昨年は届かなかったのだが、今年はどうしてだろうと思うが、そんなことはどうでもいい。とにかく大吟醸なのだ。越乃寒梅の別撰というのは同じく佐々木さんからいただいて飲んだことがあるのだが、一昨年いただいた大吟醸は飲んだことがなかった。

 売っている別撰でさえ720mlだって、2300円位したのを覚えているんで、大吟醸となったら、いかばかりか。佐々木さん有難うございます。一緒に飲むメンバーを厳選しなければならない。

 この私の解説を聞いただけで、私の友人の何人かは入れ食い状態で、眼はひっくり返り、鮫のような目になることだろう。


アトリエの大改造(11月29日書く)

 これまで、アトリエには当たり前のように私の机があった。しかし、ここでは教室もやっているし、今はやっていないが、美術館も再開するつもりだ。それで今年中に大改造して、教室と作品倉庫と美術館ということをテーマに私の専用のデスクというのを止めてしまおうと思う。今もその場所でやっておらず、教室用の広いデスクでやっている。

 部屋の改造は、何か夢と希望がわいてくるものだ。弟子たちにも手伝ってやってもらってやってみるつもりだ。

 計画では、私一人でも、明日から初めて、何とか12月9日までにやってみたい。


ざぶん賞表彰式から帰る(11月25日書く)

ざぶん賞展覧会場 ざぶん賞表彰式

下段中央私、右隣会長の筑紫哲也氏 芸者さんを迎えた

舞う芸者さん  真ん中の芸者さんは私の名を知っていた


金沢にざぶん賞表彰式に出席 (11月26日書く)

 今日はざぶん賞の表彰式に出席のため、金沢に行ってくる。今日は原田維夫氏・西のぼる氏の草鞋之会のメンバーが集まる。蓬田やすひろ氏は多忙のため欠席、また、今回の挿絵のほうも辞退している。昨年も出席したが、環境問題の討論の時には乞われて、筑紫哲也さんや月尾さんなんかが討論している3人の壇上に上って、私も発言した。今回はデジカメをもって行くので、出来たらHPにアップしたい。
 
 草鞋之会は、私が作った時代挿絵画家集団だ。2年に一回ギャラリー新宿高野で展覧会をしていた。しかし、ギャラリーが閉鎖してしまい、今は活動が休止状態だ。だが、このような活動には積極的に参加している。

 また、各々が、大活躍でいてくれるので、とても鼻が高い。私もあおられてしまっている。

 昨日は山梨に行ったが、母校の下記の陶壁画を見てきた。トイレのマークも見てきた。意外に陶壁画が飾ってある食堂は狭かった。その狭いところに銭湯のようなでかい壁画があるわけだ。評価を待ちたい。

 トイレは新任の三森校長と私を採用した山口校長とは感覚が少し違うようで、トイレのマークについては三森校長は、評価を心配しているようである。今のところ、私に入ってきている感想は、トイレのマークについてはすこぶるよいのだが。


 金沢から帰るのは、明日午前中で、切り絵教室の間に合うように帰ってくる。


山梨県富士吉田教室(11月25日書く)

 今日は久々に、私の故郷・山梨県富士吉田市の切り絵教室のために出かける。もう何年になるだろうか。教室を始めて。今は生徒は4人人になったが、9月までは2人だった。始めた当時は、6人くらいいたが、私の指導が早急だったために減ってしまったんだろうと思う。今は教科書が出来て、教えやすくなっている。
 初期の生徒のなかに、切り絵をやっているというご年配の婦人がいらっしゃった。その方に、自分で絵を描いて切ってくださいといったら、途惑った顔をした。それがなんだか私にはわからなかった。

 後々わかったのだが、切り絵をしているといっても、写真や誰かの作品を丸写しにして、それを切るだけの切り絵をしていたんだとわかった。私にはそういう実態があることを当時は知らなかったのである。それだと、切り絵をしていることにならない。切り絵の「絵」の部分が欠落しているのだ。

 多分その方を指導している先生自体が、そういうことをしていて絵を描かないんだろうと思う。
 
 2回ほど来て、その年配のご婦人は止めていった。

 鶴ヶ島・川越近辺もそうだが、切り絵教室と称して、絵の指導をしていない教室が何と多いことか。とても嘆かわしい。

 今日は、その富士吉田に行ってくるんだが、昔は織物の町だったが、その産業の今は陰もなく、今は富士急ハイランドとうどんが名物である。その前にでっかい富士山が、自慢なのであるが。


久々にすっきり(11月24日書く)

 昨日は延ばしてもらった締め切りが終わり、出版社には今朝ボジが着くことだろう。今日は某焼肉チェーン店の店内を飾る切り絵を即興で製作する。3点だが、私のアトリエの外で製作しようと思う。私のアトリエの近くの人で、このHPを見たい人は見に来るといい。

 いい作品が出来るといいなあと思う。テーマは炎と太鼓とお祭り。やりやすいテーマだ。


10.000人突破(11月23日書く)

      今日は展示替えで、今終りました。
    本当は朝一でお礼を言いたかったのですが、
    遅くなりました。
    会期中の入館者を計算してもらいましたら
    10,000人を越していました・・・すごーい!
    新記録の樹立です。ありがとうございます。
    写真をまとめておきましたので、あとで
    お送りいたします。
    本当に楽しい展覧会でした、また来年よろしく
    お願いいたします。
    先生、腰と風邪無理やり治してしましましたが
    あまり無理をせず、お体大切ししてください。
    世界の“百鬼丸”を祈っております。

               埼玉伝統工芸会館

以上のようなメールが届きまして、10.000人入場者があったそうです。テレビの影響だと思いますが、すごいですね。ということで、来年も伝統工芸会館でやることに決まりました。

昨日(11月21日書く)

 昨日は、早速テニスにいった。ちょっとやりすぎたが、楽しかった。今度、切り絵教室の弟子たちとテ二スクラブを設立した。ほとんどやったことのない人ばかりだが、私がコーチをしてうまくしてみたい。月一度だ。
 それから、締め切りが明日と迫っている角川春樹事務所の鈴木英治さんの小説の文章を読んだ。今回の小説は、全体におとなしい気がした。こういうときはカバーの絵は難しい。何とか下絵まではこぎつけたが、今日の夕方までに出来るだろうか。とても心配である。

最終日の作品《11月21日書く)

 最終日の作品三点だ。もう一点舞妓さんというのがあったが、撮影を忘れた。一番右の作品は隣の紙漉き工房の名工・島野さんの似顔絵をした。裏から切る技法でやっているので、デッサンを左右逆にしなければならず大変だった。何とかなった。80×100cm 35分。

真ん中のだるまさんはかなりレベルが高い作品だった。このくらいのレベルで即興切り絵が出来たらすごいんだが、80×100cm 35分。1ヵ月半よく毎日通ったと自分をほめてやりたい。

島野氏と撮影

展覧会最終日(2005年11月20日書く)

 さて、今日で、埼玉伝統工芸会館での「百鬼丸の切り絵・三つの扉展」が終わる。昨日、一日早いが、会館の職員の方と打ち上げをした。女性ばかりだから、にぎやかでとても楽しかった。私は、朝早くから起きていますので(夜というのかもしれませんが)、眠くなってダウン。また来年も展覧会をやろうということになりました。
 展覧会は1月半で1万人が見たといいますが、本当なんでしょうかね? 凄い数ですよ。会館始まって以来とか。
 
 展覧会の前半は雨ばかりでした。毎日バイクで、35分かかる伝統工芸会館に通いました。途中で、東洋大学の図書館で、展覧会があり、学生時代にお世話になった先生の前で、即興切り絵をしました。
 NHKの取材が来ました。その後は、来客がどっと来るようになりました。即興切り絵はしゃべり始めて、それから、描く絵のお題をいただくようになって。
 川越のかくれんぼでの展覧会がありました。
 私の青春だったりした気がしました。

締め切り間違い(11月19日書く)

 昨日角川春樹事務所から電話があった。締め切りだったのだ。来月の締め切りだと思っていたが、全く思い違いで、来週の火曜日までにやらなければならない。何とかなるだろう。ちなみに鈴木英治著「勘兵衛シリーズ」だ。

 彼の小説のカバーは月に一冊来る。ちょっと気に入らない作品も出来るが、あらかたすごい手間をかけて、いい出来具合のラインナップになっている。2・3ヶ月前には鈴木英治フェアがあって、書店に私の作品がずらっと並んだのは壮観だった。
 さて、今日は埼玉伝統j工芸会館展の終わり1日前だ。軽い打ち上げがある。それに、即興切り絵もある。
 最新の私の担当したブックカバーをアップしていないが、そろそろアップしようと思う。待っていてくれ。

久々の切り絵教室(11月18日書く)

 今日は久々の切り絵教室だ。展覧会開催中で止めていた。私の教室の特徴は、自分で絵を描いて切り絵にすることが義務付けられていることだろう。といっても、そのハードルはかなり低いのだが。絵がかけないという人がいるが、そういう人は「絵がかける」というレベルをハイレベルに置いているようだ。漫画でも、また、写真や人の絵を見て描いてもいいのである。とにかく、トレペをのっけて丸写しにするようなことをしないことなのである。
 それだと、デッサン力が付かず、いつまで経っても「絵がかけない」ということになるのである。その上、切り絵をしていることにならない。「これ自分で描いたの?」と質問されたときに、ばつが悪いものである。
 だが、ただ写真や人の絵をトレースして切り絵教室ですといっている教室が多いことは嘆かわしい。

アメリカ人学生来る(11月17日書く)

 昨日は、隣の紙漉きのコーナーに東京国際大学のアメリカから来た留学生がやってきた。かなり、私の絵を見て興奮していた。すごい、すごい、と片言の日本語で言っていた。私の画集やら、カレンダーを買ってサインを求めてきた。その中で、何人か切り絵を体験して行ったが、全く器用に切っていった。やはり、外人は手が器用でないというのは嘘ではないかと思う。

 今日も、埼玉伝統工芸会館に行く。隣の和紙の工房の島野さんという名工が、即興切り絵で、紙漉きをしているところを切ってくれとのこと。彼の写真を見ながら、似顔絵切り絵を即興でやろうと思う。即興で似顔絵をするのは初めての体験となる。出来るかどうか。

あと5日で終わり(11月16日書く)

 昨日は休みだったが、だいぶさぼってしまった。かくれんぼ展が終わり、伝統工芸会館が休みで、私の緊張感も氷解してしまったようだ。寝坊してから、指圧に行って、展覧開催中にぎっくり腰をした腰の治療に行った。それから足が冷たくて仕事に集中できないので、足つぼマッサージ用のスチーム式の足温器を買った。使ったが、普通の足温器に比べたらはるかに暖かい。ただ足がふやけてしまう。

 さて、今日は伝統工芸会館に10時頃はいる。まだ人出はあるのかわからないが、あと5日で展覧会は終わる。いい展覧会だった。いろいろ勉強になった。


かくれんぼ展終わり(11月15日書く)

 展覧会が終わるたびに、一時代が終わったような寂しさがある。あまりギャラリーには行けなかったが、オーナーの気遣い、その友人たちの熱い声援に感涙を禁じえない心境だった。
 これからも、オファーがあれば、こちらのギャラリーでやるつもりだ。有難う。
 
 今日は埼玉伝統工芸会館が休館なので、展覧会も休み。
 ざぶん賞という海・川の水を大切にしようという集まりがある。その集まりが、全国から水に関しての作文を募集している。理事長は筑紫哲也氏。私は理事という立場でいる。役割はその作文に絵を付ける事。この企画には画家の西のぼる・蓬田やすひろ・原田維夫各氏がメンバーの時代小説の挿絵画家グループ「草鞋之会」が理事となって、私と同じ任に当たっている。
 
 その仕事の締め切りが19日、26日には表彰式で金沢に行ってくる。

いざ即興切り絵(4月30日)

いざ即興切り絵だ。10時に川越駅ビルアトレに入る。売るもの、切り絵教室もあるから、生徒が8人も応援に来る。五百羅漢はたしていい作品が出来るであろうか。ご期待、ご来場をお待ちしています。


昨晩(4月28日)

昨晩は最近このビルの下に入った、テニスの仲間と飲んだ。
 3年前には毎日飲みに行ってた「のぶ」という店に、久々に行った。カウンターが10席ほどと4人がけの座敷があるだけだが、あい変われず満席だった。
 昔、仕事の小説を読みながら、飲んでたら、常連に「本を読みながら酒を飲むもんじゃない」なんて、言われて行かなくなった。
 その場では、頭にも来なかったが、後から、むかむかきていかなくなったのだった。
 


山梨放送テレビ出演(4月27日)

久々にテニスをした。絶好調だった。だが、まだボレーに力が入らない。何かが違うんだよな。スマッシュも悪い。
 山梨に行った。1ヶ月の都留信用組合の生徒の展覧会に飾った絵を持ち帰るのと、教室があるからだ。
 驚いたことに、今日は山梨放送が、教室を取材しにくることになっていた。忘れていた。もっと衣装をこったものにしたかったなあ。
 緊張しながら取材は終わった。

5月3日の6時から山梨放送テレビのニュースで流れる。


うっかり(4月25日)

仕事場の窓を開けて、外の植物に水をやって、あけたままで行ったら、雨が振り込んで、窓際にあった、作った額が水浸しになって、だめになった。修理をする時間がもったいない。


ポール牧(4月25日)

子供の頃は、顔を見ただけで笑っちゃうコメディアンがいた。堺正章の親父の堺駿二、近くは渥美清、由利徹・関けいろく・トニー谷・エノケン・いっぱいいたなあ。
 ポール牧も同じで、面白かった。ただテレビ時代だから、ちょっと、写す方向によって、陰影が出るのは仕方ない。
 お笑いに徹すれば面白いキャラになっただろう武田鉄也は、知識人のイメージがあって、もったいない。
 小朝も、頭がいいのを隠さず出す。もったいない。
 ビートたけしも、デビューした頃のほうが面白い。

 生きているけど木久蔵さんは馬鹿みたいで面白い。
 桑野(桑まん)も本格的なコメディアンになってほしいな。
顔面白いもん。
 なぎらけんいちもいいなあ。
 ポール牧惜しい人がなくなった。


百鬼丸の切り絵ファンクラブ立ち上げ(4月22日)

ペンネームと同じように、冗談半分で、自らファンクラブを立ち上げるという、暴挙に出た。
 私の切り絵が好きな人、私を個人的に好きな人、惚れている人、これからホームページを見て好きになる人、みんな集まれ。
 百鬼丸の大活躍を目撃しようではないか!


ヨシダヨシエ(4月21日)

友人経由で、ヨシダヨシエ氏からすぐ来てくれという電話があった。美術評論家として、現代アートのほうでは著名な彼だが、私と同じ鶴ヶ島の住人だ。
 同じ美術関係を生業としているということで、互いに言葉を交わすようになったが、5年前に心筋梗塞、昨年は脳梗塞と血管系の疾患に襲われて、「余命いくばくもない」と本人が言うののだが、なかなかくたばらない。
 3日前に今度は心筋梗塞で救急車で運ばれたという、それで、動きがままならないが仕事をしなければならないというのに老眼鏡が見当たらないという。
 それで、私が行くことになったわけだ。私の持っている100円の老眼鏡10本あまりを持っていった。
 色艶もよく、寝床の中で相変わらず、スケベなことを言っていたから、まだ大丈夫だろう。
 ヨシダヨシエを知っている方、そんな状況です。


テニス(4月19日)

テニスはマニアだ。普通のテニスに対する考え方と違う、テニステクニックマニアといって良い。だから、テニスをする人のアドバイスは大体言うことが一緒で、「そんなことをして、すぐ出来たらテニスは苦労しない」といいたくなってしまって聞かない。
 たとえばボレーのときに「もっと、踏み込んで打て」なんていわれても、「踏み込んだら打てる」かというととんでもない話なのである。つまり「踏み込めない理由がある」わけだ。そこをコーチングしなければテニスはうまくならない。
 大学時代は、イングリッシュグリップという、打ちづらいクリップで、すべてのプレーをするように言われたので、出来たのは、バックのドライブとバックボレーだけだった。社会人になって、中学・高校でやっていた軟式テニスのグリップに戻して、硬式テニスを始めた。当時は同じグリップのボルグがデビューした頃で、参考になった。
 それから、テニスは飛躍的にうまくなったが、私の人生の変遷のせいで、しばらくテニスから遠ざかることになる。
 それで、10年後、テニスを再開していたときには大学のとき得意だった、バックのドライブとボレーは忘れていた。
 大学の1年のときはフラットサービスとスマッシュが得意だった。
 フォアのボレーは出来たことがなかった。
 
 ここへきて、10年不調だった、フォアハンドのストロークが戻り、違うタッチだが、バックのドライブが少し戻り、フォアボレーが出来るようになり、サービスが向上し、バックボレーをなんと30年ぶりで思い出した。
 すべての戦力が、このときになってそろいつつある。これからのテニスライフが楽しみになった。


百鬼丸切り絵大賞(4月18日)

百鬼丸切り絵教室も次第に人数が増え、生徒が18人になった。生徒の毎月の画集を作り始め、教科書も出来つつある。
 ひとつ何か、毎年の核になるものがほしい。そこで、生徒の作品に賞をやろうと考えた。教室に一年間の中心の一日を作りたいという目的だ。
 全国から切り絵を集めて賞をするってのも楽しそうだが、まだ荷が思い。
 賞状と副賞は私の作ったアートな焼き物だ。


ギャラリー新宿高野閉館(4月18日)

ギャラリー新宿高野が閉館した。草鞋の会という私の作った時代小説の4人の集まりだ。2年に一回展覧会をしていた会場が、ギャラリー新宿高野だった。しかし、今年の3月で閉館した。ギャラリーの支配人の天野さんが、90歳と高齢で、引き継ぐ人もいないということで閉館になった。
 3月の閉館の前日3人で訪ねた写真を掲載した。
 当分、草鞋の会としての展覧会活動はない模様だが、いつかどこかで復帰する。
 写真左から蓬田やすひろ・天野さん・原田維夫・百鬼丸


いい天気だ(4月14日)

今日はいい天気だ。午前中テニスをしてきた。久しぶりだからとてもうれしい。
 明日は富士吉田の銀行で生徒の展覧会をしているが、そこで師匠が即興切り絵のパーフォーマンス。題材はまだ決めてないが、こどもの日が近いから、金太郎でもしようか。
 それから、川越駅ビル「アトレ」でのパーフォーマンスが4月30日から5月1日の12時から3時まである。これも金太郎をやってみようと思う。
 写真は昨年志茂田景樹さんと、ホテルマウント富士でコラボレーションをしたときの、風景。
 写真の後姿が、百鬼丸だ。


気遣い酒(4月5日)

毎日の締めは酒だ。気を使って飲む酒はやっぱり体に偏重をきたす。いつも客が入ってない店にたまにはいってやろうと思って入ったが、店主が寡黙で、緊張してるから、こちらも緊張が乗り移って、そのせいか酒をがぶがぶ飲んでしまう、というしだいで、久しぶりに夜中に頭痛がして吐いてしまった。
 それでも、朝には今日の空のように晴れやかで、懲りもしないで、酒はのめるの気合が満ち満ちているのであった。


デビュー(3月17日)

 たまたま川越駅ビル「アトレ」を歩いていたら、5月の連休中にそのビル内でやるパーフォーマーを募集していた。迷ったが応募してみた。昨日1人鶴ヶ島の養老の滝で飲んでいたら、その答えが携帯に入ってきた。かなり興奮した雰囲気が伝わってきて、「アマチュア」の方々ばかりで、プロの方でも謝礼はあまり出せませんがということだったが、こちらもお金をもらおう何て思っていなかったら、面食らった。
 ともかく、私は15人枠のパーフォーマーとして合格したのだ。
 これまで切り絵の即興切り絵でのパーフォーマンスは、展覧会の延長みたいなものだったし、気楽だった。今度はそうはいかない。プロの切り絵の技はこれまで通りで、それ以上のものを出しようがないが、考えてどうにか人をもっと楽しませる手段を考えないといけない。
 どなたか「私が盛り上げる」という、漫才の相方みたいなのをやってみる人いませんか。日は5月1日。終わったあとの酒はうまいですよ。


東洋大学工学部追い出しコンパ(3月5日)

 2月28日にタイトルどおり、追いコンが川越のプリンスホテルで行われた。最近は工学部のコートに顔を出さないから、顔は知っていても名前まで覚えられない。後輩たちの面倒を見始めてもう20年弱になる。東洋大工学部のある鶴ヶ島に舞い戻って13年、さどやうまくなったと思ったら、とんでもない話。俺より下手なのがうようよいたし、社会人になって、学生時代に教わったテニスが間違いだったことを気づいたものだが、まだ現役は俺が学生だった頃のテニスをしていたのであった。当然弱い。その頃のテニス部は理工学部テニス連盟の3部から5部くらいまで、どたどたと落ちに落ちをしていたのであった。
 見かねて私が、テニス部の面倒を見始めたのであった。その頃私も絶好調で、現役とやっても一年間に30勝3敗と圧倒的だあった。
 そんなテニス部が、今は何とか3部には定着をしている。工学部だから、セレクションはないのであるが、練習は厳しい。
 今は追い出しコンパといっても涙はでないが、かつては面倒を見た後輩の追い出しコンパに涙した時期もあった。そして、今の一年生は、我が子と同い年なのである。


風邪(3月4日)

風邪をひいちまった。風邪なんてめったに引かないんだけんど、この間近くなのに一度も行っていない青梅にある吉川英治文学館にいった。こんな寒い時期に何も行かなくてもと、後からきずいた。
 いたのだ。嫌な咳をしていた客が、映らなきゃいいなあと思ったら、私が現像される羽目になった。いつも、ちょっと喉がおかしいと思ったら、ルゴールを塗るんだけど、今回はいきなりぬれない奥のほうまで炎症を起してしまった。
 仕事がないと思っていた今年であるが、本の装丁イラストを5冊も抱える売れっ子になっている。嬉しいやら、やれやれやら。
 今はやりたい製作があるので、頼まれ仕事と両立させるのが難しい。

2004年10月3日(日)

雨だ。今日は川越の体育祭のテニス大会一般男子ダブルスに出場するはずだったが、延期か。しかし川越のコートはオム二コートで、少しの雨だったら出来る。やるのかも、とにかく行ってくる。昨日はシングルスだったが、二回戦で負けてしまった。昔はこの大会で、ブロック優勝して、本戦に行ったことがあるが、めっきりフォアハンドがだめになり、面白くなくて、テニスもやめていた。しかし、今年の4月から、霞ヶ関テニスパークというクラブに入ってテニスを始めた。
 しかし、昨日の試合は、テニス人生で初めてやった、サービスアンドボレーというスタイルでやってみた。実は1ヶ月前にひらめきがあって、ある形のボレーを試してみた。それで、それが凄い感触が良く、それをこの大会で、試してみようと思ったわけだ。
 思惑は大きく当たり、得点を面白いほどボレーで決めた。2回戦で7-5で負けたが、このボレーとかつてのフォアが復活すれば勝てた相手だった。来春の大会に期待したい。

10月4日(月)

今日も雨だ。昨日のダブルスの試合は17日に延期された。
 今、実業之日本社から依頼されている今野敏さんという作家の、単行本のカバーをしている。イラストばかりでなくデザインも依頼されている。
 今野さんと仕事をするのは10何年ぶりだ。講談社文庫から「ハイパーサイキックカルテット」というシリーズだったと思うけど、その本のカバー4冊を私が担当している。そのときのカバーは気に入っていて、とても楽しく仕事が出来たのを記憶している。小説は4人のミュージッシャンが、沖縄から北海道から引き寄せられるように出会い、ここら辺は水滸伝や八犬伝に似ているけど、バンドを組むんだった。でも一人一人が、超能力を持っていて、襲ってくる悪と戦う。沖縄の出身の主人公はドラムス担当の比嘉という名だったと思う、、空手がめっぽう強い。確かベース担当のの主人公はコーヒーの香りをかぐと、未来を予測することが出来るとか。だったかな?
 その作者の今野敏さん(「びんさん」と呼んでいる)と9月7日に銀座の文壇バーで会った。草鞋の会というのがあって、その集まりが終わって、その文壇バーには独りで行ったのだった。もう酔っ払っていた。そしてその店に後から入ってきたのが、今野敏さんと横溝美晶さんという作家だった。二人とも出版社のパーティで面識があったんで、そこでの後半に合流した。そこでいきなり、単行本を今野敏さんから依頼されたのだった。
 次の日に続く

10月6日(水)
 雨がやんだ。冷たい雨だった。こういう雨は苦手だ。昔、デビュー前にラーメン屋さんの出前を、山梨県の上野原でやっていたが、一番嫌だったのは、みぞれだった。その次が雨、それも冷たい雨はみぞれに匹敵した。
 今野さんの続きを話そう。実はその店で、いきなり今回の単行本「とせい」をやってくれと頼まれたのだ。こういうケースはありそうだが、私にはほとんどない。何故、彼が私に頼む気になったのかは知れないが、彼がいつでもそういう気を持っている人だということだ。それは小説をよんでみればわかる。「とせい」の登場人物の男気が今野さんと一致しているのだ。そう彼はかっこいい。さあみんな彼のファンになろうぜ。
 その後、もう一軒の文壇バーに2人で行ったときは、へべれけの「へべ」くらいには出来上がっていた。出る頃には後半の「れけ」状態なのはご想像通り。今野さんに手を振って別れた後、どこをどう歩いたのか川越市駅で「お客さん終点ですよ」の車掌さんの声が、また人生の始まりになった。もうこの向こうには電車はいってくれない時間だったので、タクシーで帰った。まったく贅沢な一日だった。
 そのありがたい仕事の締切が迫っている。その前に学研の文庫「後三国志」の仕事を片付けなけらない。下絵があがっているから、5時間くらいの作業になる。二冊とも10月の新刊だ。とても面白い作品だ。特に「とせい」は涙が出た。私はこういう小説(お人よしのやくざの話)が大好きだ。売れてくれるといい。「後三国志」は中国物が大好きな人には答えられないだろう、話が厚い仕上がりになっている。売れればシリーズ化されるとの事だから、売れてくれと私も念をかけたい気持ちだ。

10月8日(金)
 体重を減らしている。そういうとなぜか気が楽だ。ダイエットをしているというと、ちょっと恥ずかしい気持ちになる。やっと4キロ痩せた。体重計に毎日乗って体重が変化していくのを見るのは楽しい。1人で仕事をしていると、変化していくものを見るのが楽しみになるようだ。その一つが植物だ。
 仕事場には胡蝶蘭がある。みんな展覧会のときもらったものだ。もらった鉢に三株くらい入っているが、展覧会の後、一株ずつ別の鉢に植え替える。かわいそうなくらい小さくビニールの鉢に押し込められているものだ。今は、九鉢あって、作家の宮部みゆきさんや鈴木輝一郎さんからもらったものもある。その胡蝶蘭の葉が、もったいぶって、一年間に数枚しか出てこない。それが出てくるのが楽しみとなる。なかなか出て来る兆しがないときがあって、心配になったりする。その理由はわからないが、わかるのは花の芽がでてくるときだ。このときは、胡蝶蘭も花の芽を大きくするので必死だから、葉は出てこない。そんな風に胡蝶蘭を眺めていると、展覧会のことを思い出したりする。展覧会の花は会場を飾るばかりでなく、そのあとも思い出を引きしてくれる。話は変わるが、昔のことを思い出すと、最近涙もろくなっている。そのことはまたいつか話すが。
 来年には胡蝶蘭の花芽がいくつか出てくるだろう。とても楽しみにしている。その頃には、私のダイエットも、願いの領域まで下がっていれば、いいけど。
 百鬼丸カレンダーが出来上がった。200円で、販売する。昨年は2000枚すったけど、完売してしまった。今年は3000部すった。購入希望の方はFAX049-287-1686で申し込みください。

10月13日(水)
 何日か書かなかったが、忙しかったと解釈していただきたい。
 ポンチョを買った。行きつけのリサイクルショップでだ。今年はテニスを再開したので、かなりその店から買い込んだ。Tシャツなら50枚くらいはあるだろう。ポンチョをそれで、鶴ヶ島町を着て歩いている。今の季節にはちょうどいい服だ。寒さが微妙に入り混じり、仕事をしていても落ち着かないときがある。前はTシャツの上にトレーナーやシャツを着たんだけど、ちょっと締め付け感があって、「違うな」と思いつつ仕事をしていた。それに仕事場では絹のスカーフをしている。そろそろ首周りが寒くなっているて、服を一枚羽織るよりこれのほうがあったかかったりする。ポンチョもそうだが、リサイクルショップでは意外なものに遭遇することがある。ポンチョを買ったときも、子供用の小さな革ジャンがあった。「バッグにするのにいいなあ」と思った。ただし、裁縫をしなければならないから、すぐは使えない。それに、持ったときに重かった。バック自体が重いというのはないなと思って買うのはやめておいた。話を戻すが、気に入りの服を見つけたときは桂三枝の「ごたいめーん」って感じで感動してしまう。裁縫は趣味の一つだ。

10月14日(木)
 昨日小説現代連載中の「歌舞伎ものがたり」のカット2点が終わった。これで、出版の仕事は新聞連載以外はなくなった。こんな日は一年を通して、まずない。こんなときには部屋の片付け、頼まれ仕事以外の作品を製作するとかした方がいいはずなんだが、ほうけてしまう。今日はずーっと雨で、出来なかったテニスをした。楽しかった。一時間半ほどした。生徒が2時から作品を見てくれと約束をしていたので、短かったが、そのくらいが丁度いいのだ。酒は毎日飲んでいたが、時々店で眠ってしまうほど飲んだり、記憶がなくなので、奇数の日は飲まないことにした。ただ、来客が来る日はその限りではなく、その方と痛飲してもかまわないことにしている。
 ちょっと前には1人では飲まないことにしたんだけど、客が来ると嬉しくって、猫や犬がじゃれつくような心境になって、目の中にハートマークのついたラベル入りの焼酎ビンが、点滅しているのではなかったろうかと思うような状態だった。とにかく酒に卑しくなって大変だった。その点、奇数日に飲まないというやり方は、なかなかいいかなと思っている。
 とにかく、そんな気分もつかの間、学研のM文庫のカバー画のイラスト注文が来た。だがその前に東京工芸社という印刷会社から頼まれた、カレンダーをやらなければいけない。もう毎年頼まれて10年くらい経つ。欲しい人は、百鬼丸切り絵美術館まで取りに来てくださいね。無料です。

10月15日(金)
 仕事は朝早くからしている。夜は酔っ払いだから、早々に眠ってしまうし、もともとそうでなくても早く起きてしまう質なんだな。家から朝3時か4時に起きてくる。夏はいいけど、冬は大変だ。寒い。これから、起きるのが嫌になる。でも布団の中で起きているわけだから、時間がもったいない。生来貧乏性だから、何かをしないではいられない質。それはそれは、ちゃんと起きて仕事場に来るわけだ。

10月17日(日)
 今日は川越市体育祭のテニスの試合だった。この大会を勝ち進むと県大会へ、そこを勝つと全日本ということになる本格的な大会だ。結果を話そう一回戦負け。川越のレベルはかなり高く、一回戦でも、本格的なボレーが出来る人がほとんどだ。昔の天皇皇后両陛下がしていた形の古いテニスの人が10年前までかなりいいポジションにいたが、今はそういうの形でやっている人が誰もいない。お分かりにならない方が多いと思うが、今の硬式テニスは、軟式と同じ打ち方になっているのだ。その形をテニス界に持ち込んだのがビヨルン・ボルグだ。だが、本当はボルグは日本人から排出されても良かった。なぜなら、軟式テニスが日本にはあったからだ。大正期に、日本人でウインブルドンシングルスで準決勝にいった人がいた。清水善造(孫が男優)という人だ。彼はウインブルドンに軟式テニスを持ち込んでそこまで上り詰めたのだった。しかし、当時の日本のスポーツ界は、評価しようとはとはせずに、清水善造さんどまりで、彼のテニスを継承する人はなく、その後日本のテニスは、欧米流のテニスを取り入れて沈滞していったのだと思う。彼のテニスの合理性を認めて、取り入れていれば、かなりの実績を日本人が残せたはずだ。
 思いついたんだが、このホームページで「百鬼丸の切り絵作家交遊録」というコーナーを作り、私のお気に入りの切り絵作家を訪ねて紹介するページにしたいと思う。まず手始めに、同い年の切り絵作家久保修を尋ねてみたい。彼は10月27日から11月2日まで、伊勢丹浦和店で個展をしている。そこを訪ねて取材したい。ご期待下さい。

10月20日(水)
 好きな切り絵作家は、故宮田雅之氏。彼が亡くなっても、未だにライバルだ。肩を並べたところもあるし、かなわないところもある。彼の線が好きだ。デフォルメも好きだ。ただ顔が好きではない。皆同じ顔だからだ。顔にこだわる百鬼丸とはそこが大きな違いだ。
 生きている切り絵作家の中で一番好きな作家は、井出文蔵氏だ。出版の世界にも何人か切り絵作家はいるが、どなたもまだまだな気がするが、井出文蔵氏なんかもっと使われてもいいはずだ。一度私の展覧会にいらっしゃって、お話をした。私は上から絵を見られていた気がする。当時はそんな切り絵だった。いつかまたお会いする日が来るだろう。

11月4日(木)
 パソコンのいろはがまだわかんないから、とバブルが起こると、ホームページを枯れられなくなる。参謀が欲しいものだ。今日、鶴ヶ島で開催されたソフトボールの国体のお土産用の「手ぬぐい」が届いた。いい出来だ。本当は売ってもらって、私のギャラに還元して欲しいところだが、売り出すことはなかった。鶴ヶ島のプロの美術家といったら、私がその代表の1人だろう。その代表がいる市が、予算がないからと、私に依頼してこないのは本当に残念だ。出来るだけ、相談して欲しい。出来る限り協力する。

11月8日(月)
 昨日は(私に日曜はなく、365日働くつもりで仕事をしている)15日から始まる川越駅アトレ6階・ビーポケットでの生徒展のため、生徒に、住所のラベルを貼りに2人来てもらった。昔ラベルを大量に買ったが、半分が注文のラベルでなく、気がついたのが2年後で、一応仕入先に抗議はしたが、交換してもらえず、そのラベルのプリントして、葉書に貼っているんだが、住所や名前のところにラベルの切れ目が来たりするから、手間取る。書くよりいいかと諦めるが。
 私が教室を開くようになったのは理由がある。埼玉では有名な切り絵作家・石井一臣さんの影響だ(それまでは印刷物で発表しているのが個展のかわりで、実際の個展なんて必要ないさなんて思っていた)。自分では、日本で切り絵作家としてはトップクラスだと思っている。がしかし、埼玉に越して、聞いたこともない石井一臣なる切り絵作家が有名だったのである。ただ悔しさに、「個展を始めて、百鬼丸の存在を知らしめよう」と思って個展を始めたのである。もう6年前になる。それで、地の利がない私に、客寄せのために思いついたのが「教室」であった。「教室をすれば、生徒が客を連れてくる」ただそれだけの理由で始めた教室だった。だが、思っても見ない展開になったのである。
 生徒たちが私のアトリエに手伝いに来るようになったのである。展覧会の前の額いれ。自前で作っている額作り。住所録の整理。掃除。生徒たちは私のファンなのである。「先生様の活躍を願っているだあ」「もっと有名になってけろ」(こんな方言の人はいないが)なんて言葉が暗黙のうちに私の心に伝わってくる。生徒と先生のつながりは、私にとって、第三の人間関係であった。親兄弟・友人それから生徒という訳だ。嬉しい誤算だった。
 石井一臣氏は土屋知事の庇護のもと、私にはとても太刀打ちできない存在だった。今は悪あがきはやめて、石井氏に関係なく個展をやっている。
 だが、こんなことがあった。テニス部の後輩の結婚式に出席したとき、私は即興切り絵を披露したのだが、それを見ていた客の中に石井一臣氏の切り絵をもっている人がいて、仲間が石井氏から、切り絵を買わないかと売りにこられて迷っている「買う価値があるか」と聞いてきた。金額が何と800万円だったのである。800万円なる切り絵は切り絵の巨人・故宮田雅之氏もつけていない売値である。
 即座に答えた「買う価値ありません」と。営業妨害をするつもりはないが、石井氏の実力と全国的な知名度のなさからいうと、高すぎるのである。
 また、今は生徒は私の支えになっている。いつまでも先生でいさせて欲しいものである。

11月11日(木)
 勉強することが最近大変ある。私は、切り絵教室の生徒を中心に「百鬼丸アーティストクラブ」というのを創設した。外部からの依頼の仕事を、メンバーが担当するという組織なんだが、そのメンバーの中に筒井さんという若い女性がいる。彼女に印刷会社から、カットをやってくれないかという依頼があったのだ。ギャラは安い。とても安い。それで、彼女のサンプルのカットはスポンサーは当たり前の話だがOKを出した。そして、前作終わったら彼女は印刷会社に届けるというのだ。私は反対した。「取りに来てもらえ」といったのである。安いギャラの何倍もいい作品を作って、その上持って行くっていうのは、とんでもなく自分の価値を下げるものだと思うのである。だが、逆に私が彼女の立場なら、きっと持って行ったろう。私の性格も彼女に近い。しかし、第三者からみると、見方がかなり違って見えるものなんだなあとしみじみわかったのである。そういう見方で、自分に目を向けられたら、マネージャーなんていらないだろうにな。とにかく、ちょっと私はプロデューサー兼マネージャー業に片足を突っ込む。

11月25日(木)
 皆さんご無沙汰しております。私のホームページが重いというご意見をいただき、友人の山崎修氏の指導のもと、学習し、ホームページを多分かなり軽くなったことと思います。それで、しばらく日記をつけていませんでした。「切り絵交遊録」の久保修しには作品の資料を送っていただいたのに掲載しておらず申し訳ない。まもなく実行しますので、お待ち下さい。それから、他にもこに日記に書くことが沢山あるのに、書かずにおいたことはファンには申し訳なく思っています。これから、またがんばって、ホームページの更新をしていきたいと思います。

12月1日(水)
 日本農業新聞の展覧会初日だ。客がはいればいいなあ。

12月10日
 昨日は作家の藤水名子氏の忘年会があって出席した。2年ぶりの出席だ。前回と同じ人は3人ほどで、全部で10人ほどだったが、楽しいひと時を過ごした。私はファッションが趣味だから、出かける前は大変だ。「今日はどの手で行こう」なんて考えるから、でも楽しい。昨日は下は、デニム地の茶色のズボン、家は赤のボーダーTシャツに、半そでの前チャックの白のシャツ、その上に、寒そうなのでデニム地のグレイのチョッキ、帽子はいっぱいバッジがついたデニム地の黒のベレー帽、コートはフードのついいた黄土色で、馬の人形を左肩に縫い付けてある。ちなみに中にきているシャツなどは私のパッチワークが全部ついている。面白いもので、電車の中で、目に引くのはこの馬のぬいぐるみなのである。ほとんどの女性はこれを見て、笑いそうな表情になる。笑われて何ぼというのがファッショのテーマだから、それでよしとしている。
 ということで、新宿の末広亭近くの地価のスナックで、忘年会は行われた。左隣の講談社の文藝第一の北村さんと作家の霜島さんと主に話をしたが、内容が恋愛に際しての女の心理・男の心理って話で、なかなか面白い話だった。内容はきわどい話ばかりなので、記述しないが、霜島さんはばっちり、私の話を取材していたようだ。小説現代の仕事があったので、9時には帰ったが、さすがに酔っていて、下車駅の鶴ヶ島駅を眠っていたため、覚めたときには鶴ヶ島駅をゆっくり電車は発車している状態だった。若葉の駅を降りたときにベンチに座ったのが間違いで、またまた寝入ってしまって、上がりの電車に乗らず、何と若葉駅に着いて40分後の最終の池袋行きに乗った次第だった。今日は小説現代の締切。夕方までだ。

2005年4月10日
 ずいぶんとご無沙汰していた。昨日テニスに行った時、霞ヶ関テニスパークのクラブハウスに飾ってあるラケットのことでオーナーと話をした。そしたら、私が持っているウイルソンT3000が値打ちがあるという。さっそくインターネット-で調べたら、T3000は15000円、もう一つダンロップの200Gが6000円だった。ラケットカバーがついていると値段が倍位する。私はカバーはいつも捨ててしまう。霞ヶ関テニスパークに、ラケット2本は飾られることになっっている。

トップページにドロン