日記11

(201112月14日・水)

 さて、延び延びになっている新潮社の単行本は、やっと終わりそうである。ハルキ文庫が心配である。明日は、山梨の切り絵の森に行かなくてはならない。切り絵の森に今まで出品した人たちの同窓会である。

 楽しい語らいの場が出来ればいいが。確か、身延の奥の古くて建物は新しい旅館で宴会・一泊の予定である。私は仕事道具を持って行くつもりである。

 八王子で、にい・みずよしさんを積んで行く。

(201112月13日・火)

 宇野亜喜良さんから電話が来た。宇野さんは私たちの年代なら知っている人も多いだろう。私が学生の頃、沢山出てきたイラストレーターの中でも、ベスト5人にはいっていた人である。

 私の大好きな寺山修司の天井桟敷のポスターを手がけていた人である。私はそちらの方は記憶にないのであるが、そうらしい。大学生だった私は、テニスに明け暮れ、お金なんてない状態だったし、社会に出たら出たで、自分が何をしたらいい河からない状態のサバイバル状態だった。だから、芝居見物どころではなかった。

 カレンダーのお礼の電話であったんだが、ある影絵劇団の絵を担当して欲しいというお話を頂いた。

 引き受けたが、またまた忙しくなりそうである。

 宇野さんによると、私は「のりのリ」の絵を描いているのだそうで、私の絵はすごいらしい、ということだ。

 自分がどの辺のポジションにいるのか、人に行ってもらって初めて分かるというのが現状である。ただ、そのくらいはいっているだろうなと、冷めた目で見たら、多少は分かる。でも、それでも明確には言えないので、なかなか人にはいいよどんでしまう。

(201112月12日・月)

 岡田畳店には人が誰も行かないらしい。私が行かないと人が来ないのである。ちょっと寂しいが、展覧会と作者はセットでないと駄目なのである。

(201112月11日・日)

 非正規雇用の方々の立場が苦しいというような報道がされていますが、安定した収入を欲しいなんてのは、近代以前はなかったことだと思いますよ。人は一人で生きていくのが基本で、どこかの会社に所属して、生きることが保障されているという方が、変だと思いますね。会社自体が、どうなってしまうかわからないほど不安定なんだから、会社が守りに入りたいのは当たり前だ。

 頭を使って、週に2日休みを持ちたいとかソンなのは一人で生きていくとしたら贅沢だ。休みなく働き、楽をして生活をしたいなら、人に苦労させる立場になってからだと思う。その苦労の分、苦労させている方は楽になるだけなんだと思う。ここにエネルギー保存の法則が働いているんだと思う。 

(201112月10日・土)

 今日は展覧会に行く日でもあるが、夕方には英語サークルの忘年会がある。どんな忘年会なのかな。皆若いといっても、本人たちはそうは思っていない、30歳代が多い。前にも書いたが、まだ20代とおもっている若者が、11年経つと40になるのである。目も老眼になり、白髪になる。

 この30と40歳の間に10年間あったら、いいなあと思う。

 先日、ある本が送られてきて、私のページもカラーで紹介されている。時代小説の案内本なのだが、良くできている。しかし、私の生年月日が1954年となっている。1951年である。あれを見た年下が、俺より若いじゃねえかと勘違いされるのが困る。

(201112月9日・金)

 急に兄貴が来た。秩父で会社の関係の方の不幸があり、帰りに立ち寄った。一緒に飲んだが、といっても、私だけだが、いつものように速射砲のように一人でしゃべりまくって帰った。

 私は一日、仕事をしていて、外に出るようなことはなかった。

(201112月8日・木)

 カレンダーの全国発想が、ほぼ終わり、東洋大学のテニス部関係に出していないだけである。こちらが勝手に送っていて、別に不満もないのだが、1000通近く送っているが、例年受け取りましたとかの、連絡が10人ほどなのである。もっとも年賀状に御礼がしたためてあるのがほとんどなのだが。

 それにしても少ないなあと少し寂しくなる百鬼丸でもある。

(201112月6日・火)

 テンスが出来るといってみたら、テニスコートは休みだった。昼飯を食べたら急に眠くなって寝入ってしまった。それから久しぶりのジムに行った。

 テレビを見ると、やたらAKB48が出ているが、一番人気の女の子を少しもいいと思わないんだが(名前は忘れた)、わざとスター性tのない子を選んでいるのかもしれないなあ。

 そういえば秋元康という人も、ちょっと得体の知れない感じの人だなあという感じがする。いつも背広にネクタイ。あまりとっぴな言動はしないし、そのくせテレビにはちゃんと出てくる。

 昔、私の同世代で作家で泉麻人という人がいるが、彼は若くして表に出てきた人で、全く今のまんまの人だった。今は歳どおりの雰囲気で、違和感は感じないが、若いときからあんな爺さんのような感じで、ちょっと私には目立って嫌な存在だった。若くして爺臭い雰囲気、つまり物事を断定的にいう人は私は好きではないのである。

 その代表は、小室等である。

(201112月5日・月)

 銀座の伊東屋が来年も展覧会をするのだそうだ。私に誘いがあった。やってみようと思う。私のスケジュールの原宿展はキャンセルになる。しんどい展覧会になりそうだが、等身大切り絵がメインの展覧会で、売れる作品を展示するつもりはない。言っては何だが、私の才能を披露するつもりである。 

(201112月4日・日)

 久しぶりに埼玉伝統工芸会館に行った。2ヶ月前の売れた作品の精算のためだ。

(201112月3日・土)

 英会話サークルに久々に参加した。このサークルは300人くらいいる団体なのだが、この英会話の会に参加するのは15人くらいで、常時来る人が10人くらい、後は入れ替わる感じである。

 シャベル課題が与えられるので、私は前もって英文を作っていくが、出来るだけ暗記して行くようにしている。だが当日、Ipadに入れていた文章を消去してしまっていたのであった。

 それにしても、偶然なのだが、このようなグループが県内の各都市にあるのだが、いつも規則正しく会を開いているのは川越だけなのである。だから、遠く東京からも来たりする人がいる。

(201112月2日・金)

(201112月1日・木)

 いや長い間、日記を書かなくてすみません。土曜日に金沢に行ってきました。とても暖かい日でした。NPOザブン賞の表彰式が金沢であり, 緊張を体験してきた。

 東大名誉教授の月尾嘉男さん、作家の安部龍太郎さん、画家の西のぼるさん 版画家の原田維夫さんいろいろな方と久しぶりにお会いした。

 日曜日は金沢のホテルで、ゆっくり映画など見ていました。あまり一人で歩くのは得意でないなあと思いながら、予定の飛行機を繰り上げて帰ってきました。私はまだゆっくりした方で、皆さん朝には早々に帰られたようです。忙しいんですね。

 まだ、岡田畳店とカレンダーの発送を一つもしていない。明日頑張ろうと思う。

(201111月26日・土)

 昨日に締め切り、朝双葉社に届けた。午後から岡田畳店「真田十勇士」展飾り付けである。これで失礼。

(201111月25日・金)

 今日もテニスをしようと思ったが、午後から風が吹いて出来ない。明日までに締め切りを頑張ろう。

(201111月23日・水) 

 午前中テニスをした。気持ちのいいくらいの調子である。後から上級者が来たが、仕事があるので帰ってしまった。これから、午後からテニスをしようか。

(201111月22日・火)

 締め切りで、ほとんど外へ出ず。ひたすら、仕事をしていた。いや、それでも昼酒を飲んで、昼寝をした。久しぶり。

(201111月21日・月)

 テニスをした。グリップの位置を変えたら、悩み事がなんだったのだろうというほど、変わってよくなった。今まで、思い悩んできたことは、このグリップの位置を変えることではなくて、握り方を考えただけだった。その握り方は、もうこれ以上パターンはないだろうと思う、いたちの鬼ごっこ的な領域まで来ていて、うだつの上がらないものだった。

 まさかこんなところで握ってはいないだろうという前提で、これまで10何年も来ていて、その根底をくつがえす事になった。15年前にに絶好調から、次の日全くどうラケットを握っていたか忘れて、絶不調になったその原因が、気にしていたところの外にあることだったとは。

 こんなことはまさか絶対やっていないだろうと思ったことが、このところ、やっていたことが判明することが多かった。

 ストロークとかボレーとか過去にかなりのレベルだったものが、忘れてしまったケースがほとんどだが、サービスのように、まだした事にないテクニックにチャレンジしているということも、珍しくある。

 元々、小学校の時ピッチャーをしていて、球も速かったわけだから、私のサービスが並の早さであるわけがないのが、並の速さのサービスなのである。どこかが違うからだと思っていたが、今回工夫して、これかなあれかなと、ラケットと球の当てかたの研究をしている。球は速くなった。だが、もっと速くなるようになりたい。

(201111月20日・日)

 昨日は身延の久那土というところの中学で、切り絵教室だった。私としては大成功だった。生徒も、本当に集中して切り絵をして、驚くほどの切り絵が沢山出来た。

 でも、先生や父兄は、私のことをアマチュアと思っていたらしい。

 切り絵の森のライブは、客が来なくて低調だった。ちょっと寂しい日曜日だった。のんびり出来たからいいかな。

(201111月19日・土)

 昨晩は、東洋大学の建築学科のクラス会が椎名町であった。9人集まった。9人のうち、建設業から外れたのは3人である。もう、リタイアしたのもいた。しかし、クラス会で集まるのは、ある程度の成功者でないと集まらないということだが、ハワイまで行ってゴルフをしようと計画するとは、リッチである。

 楽しいくらいクラス会だった。またきっとこれから頻繁に集まるのだろう。

 今日は同じ東洋大学建築学科の他クラスの同期の中田君から、呼ばれて身延付近の中学校で切り絵教室である。一生懸命教えてこよう。今日は中田君のところに泊りである。

 明日は、身延切り絵の森でのライブである。

(201111月18日・金)

 ちょっと気持ちを楽にしようとしている。かなり飛ばして走りすぎた。リラックスできることだったら、何でもしよう。

(201111月17日・木)

 久しぶりに出版社の新潮社に仕事の打ち合わせに行った。神楽坂駅の近くにあるのだが、若い時代を思い出してとても懐かしく感じた。私は過去に二回の週刊新潮の連載をしている。それで、出版社に缶詰になってやったものだ。

 打ち合わせであったのは、何と佐江衆一さんの「クイーンズ海流」の週刊新潮連載時の編集担当の中村さんと装丁室の高橋さんだった。中村さんとは、もう、13年くらいぶりの仕事であった。ただ、途中で何回かパーティでお会いしたが。

 あの頃の私の仕事の仕方と今の仕事の仕方の違いとか話をした。缶詰めだったので中村さんとの思い出も忘れていたが、思い出した。会議室で作業をし、肩こりになって、頭痛を起こし、方を揉んでもらったりもした。揉んでもらって直ってしばらくすると、疲れてまた頭痛になったりもした。

 あの頃の私の切り絵は、人物は自分でポーズをとり、ポラロイドで撮影しデッサンしていたという形でやっていたので、動きが固かった。あの直後から、何も見ないで書くようになっていて、現在に至っているので多分今やればだいぶ違う挿し絵になっていたと思う。中村さんには、週刊新潮の連載の注文をしておいた。

 そんなことで、久々に三人で時を忘れながら飲んだ。

 そういえば、今取締役になっている石井さんという方がいるが、彼は私がデビューしたJTBの旅で、その当時編集者をして、旅での記事の問題で、たしか立場が悪くなり、作家の山口瞳さんの紹介で新潮社に入ったのだと思うが、新潮45を成功させ社内で発言力を増したのだろう、取締役まで上り詰めた。

 もう、新潮社にお世話になった人はほとんどもういない。寂しいことである。

 寂しい話だが、この新潮社に来ることは何回もないだろう。

 今日は忙しいが意識的に休みを取った。疲れているかもしれないからである。

(201111月16日・水)

 やはり、小田原の方のお話を伺って、私の腕がなる思いである。来年は、いや来年からなのかな、小田原の切り絵を数多くする事になりそうである。

 NHK大河ドラマに北条早雲を!という悲願まで、私が協力するということである。

(201111月15日・火)

 もう、15日である。今日は小田原に、北条早雲あれこれの企画に付いて話し合いに行くのである。まだ、多くは語れないが、観光に私の切り絵をいかせないかという話である。

 久々に小田急のロマンスカーにのって旅気分と、電車の中で発車を待っていたら、「人身事故で、電車は発車しない」とのこと。急いでキップをキャンセルして、湘南新宿ラインでと思って行ったが、待てよ、ウエヴで調べてみようと思って調べたら、東京発の東海道線かな?が東京駅から出ている。では中央線で、東京駅へ。

 ところが、中央線は何故か電車が走っていない。乗客はみな困り顔。それで、これじゃあ小田急で遅れてもいいやとおもって小田急線へ。改札のところにいた、駅員にそれでも聞いてみたら、湘南新宿ラインを勧めてくれた。ということで、ゆっくり酒でもちょっと呑んで、ゆったり行こうと思った小田原行きも、半分はつり革につかまっていた。

(201111月13日・日)

サインかが今日もである。たくさんの人が私のサイン入りのカレンダーを持っていたった。暑くてかなり日焼けした。

(201111月12日・土)

 今日は鶴ヶ島の大田ヶ沼で東京工芸社の、今年のカレンダーのサイン会が午後一時からある。もちろん私がした絵が入っている。

 天気はよさそうだ。山梨から兄貴が来る。川越見物にだ。夜は、川越の若松屋でも連れて行こう。朝の連ドラに団次郎が出ている。なつかしい。

 懐かしいといえば、忘れた、出てこない。そう俳優の小松方正だ。私がマネージャーにときに小田急線の代々木上原から電車に乗ったら、次の駅から小松方正が乗ってきた。それで、いわば同業者の小松方正に声をかけたことがある。一瞬戸惑った顔をしたが、そのまま新宿まで話をしていった。困った客だなあと思ったことだろう。

 代々木上原も今のような繁華街ではなかった。まだまだ住宅街であった。そこに私が、マネージャー最後の3か月ほど勤めた芸能プロダクションがあった。酷いプロダクションだった。ここは、私がマネージャーをやめるといった時もったいないから私のところで働いてといってきて、ちょっと働いてみようかと思って安易に引き受けたとこだった。

 ところが、給料が出なかった。それに、抱えていた役者たちにもギャラは払っていなかった。その女社長とTBSテレビとかに行くのだが、誰かとかち合うといけないということで、彼女は恐る恐る周りを見回しながら歩いていたものだ。あとから分かったのであるが、金銭問題でかなりの借金を抱えていたようであった。

 しかし、こういうプロダクションというのは芸能界にはたくさんあるのだろうか。昔ちょっと端役で出た写真を見せびらかせて信用させたりしていたのだろう。私もそれにのっかちゃった口である。

 私も入るにあたって、出てしまった高校生くらいのタレントから、あそこに入るのはやめたほうが良いと再三言われ、そんなことはないだろうと、たかをくくっていたのであるが、その通りであったのだった。

 その会社の役員の一人が役者であった・・・という。しかし、これだけ営業費もない、給料も出ない状態で、事務所に漫然と何もしないでいるのである。私は次第に腹が立ってきた。なんでこの人は、バイトでもして働かないんだと。当然説教をする前に、40歳くらいになるその男にあきれ果て、私はやめてしまったのである。それでも、まだそのプロダクションにいたお人よしの従業員もいたが、その後どうなったんだろう。

 そのプロダクションに所属していた役者と今でも付き合いがある。水戸の実家を今は継いでいる。またその友達の役者の江良潤さんとは、私は、6月にアートインギャラリーという原宿のギャラリーでの展覧会で再会している。

(201111月11日・金)

 某出版社から、仕事の依頼が来た。8年ぶりである。天狗党の乱の小説の単行本だという。私もまだまだである。

(201111月10日・木)

 東洋大学のスポーツサポートクラブという、最近目覚ましいスポーツの活躍の東洋大学が立ち上げたスポーツ関係者を支援する団体であるが、そこの私は常任理事をしている。来年3月で任期切れである。大学時代のスポーツの先輩後輩というのはいいものである。私はこの組織に入って幸せな気持ちになる。何か懐かしい香りがするのである。

 学生時代の話を聞くと、それはそれは面白い珍騒動ばかりであった。今日の付きが三日月だったりしても、先輩が今日はいい満月だというと「今日はいい満月であります」と後輩は言ったのだそうだ。それに、山手線の網棚に乗って寝たことが何回もあるという。当然、先輩の命令である。ばかばかしはない詩であるが、今となっては大笑いである。みんな歳を重ねると、その時は必至でも、血胸区は生きるか死ぬの話ではないので、笑い話になってしまうのだろう。

(201111月9日・水)

 遅い帰りだった。眠い一日だった。

 歌舞伎を久しぶりに見た。尾上菊五郎・尾上菊之助・尾上松緑の歌舞伎だった。松緑さんはまだ若い。もっと線の細い人かと思ったが意外に、太かった。

 菊之助の女形には見とれてしまったが、3幕の悪役に魅力がなかった。お父さんの菊五郎は結構小粋な面白い演技をするのに驚いた。歌舞伎はこうでなくちゃあと思った。

 私が見たいままでの歌舞伎といえば、心中物とか義経千本桜とか、固めのものが多かったので今回は楽しめた。

 昔、NHKの大河、義経の菊五郎の演技のイメージがあるが、彼も歳をとったもんだと思う。

 ういろうさんと会ったが、大河ドラマに「北條五代をやってほしい」ことの運動を小田原はしているらしい。私が、その一翼を担う役目をする事になるのかもしれない。4年前の風林火山博の公式イラストレーター時代を思い出す。

(201111月8日・火)

 今日は歌舞伎見物である。春に展覧会を小田原でする事になっているが、そのプロデュースをしてくれた「ういろう本舗」のお手配をいただきまして、新橋演舞場の歌舞伎演目「ういろう」を見物しに行くのである。

 くじに公演終了なので、いつも早い睡眠をとるので、眠らなければいいと思う。それにしても、締め切りがどんどん迫ってきている。今日はオール読物の締め切りが終えた。なかなかいい作品である。

(201111月6日・日)

 Ipadにsimなしの表示が出ている。データー通信ができなくなっている。困った。ソフトバンクに相談してみるか。

 さて、今からオール読物の作品作りである。犬飼六岐という気もうな名前を持つ方の小説である。なかなか面白いというより、私に好みが似ていそうなのである。直木賞でもとってほしい。何とかとれるようなポジションにいるのだろうと思う。

 さて、昨日は英語のサークルで、仲間としゃべりあった。私の英語の上達が少しだけだが感じた。今日も英語の教室がある。

(201111月5日・土)

 しかし、私の切り絵には売りが多くなった。最初の立体切り絵は、野田亜人氏と付き合ってから発案したもんだ。ライブは、ふとやってみようかと、決心してやったものではない。その喋りも、しゃべっても切り絵ができることを自慢したかったから喋っただけだ。

 等身大切り絵は、立体があまりに評判が良かったものだから、平面にそれに対抗する平面切り絵はないかと考えて考案した。

 これらの3つは、切り絵ではだれもやっていないだろう。やっても、大したレベルにはならないはずだ。

 そんな構えて発案したもんではないのだが、これから何かが生まれるのだろうか。

 そういえば、ライブで似顔絵をするというのがある。こちらは若い女性が即興でやりだしたとテレビでいっていたから二番煎じであるが、これもやる気になってきた。

 あと何かアイデアがあったら、教えてもらいたい。そういえば、紙芝居とか、漫画とか、絵本とか、アニメーションとか旗揚げはしたが、何とも遠い存在である。

 切り絵にしたってやりたいテーマがたくさんある。天国に行ってまでもやる分がありそうだ。何とか神様に長生きさせてもらって、どんどん作品作りをさせてほしいものである

(201111月4日・金)展覧会は

 展覧会は、ファッションショー、そう決めた。自分の才能を、皆さんに見せる。儲けは後のこと。そう定義したい。

 それからいうと今回の「サンデー毎日」展は、間違いだった。これから岡田畳店の展覧会は、是非皆さんが驚くようなものに指定期待し、他の展覧会もそうである。ご期待下さい。

(201111月3日・木)

 東村山から、時代小説のファンの方がいらっしゃった。大変熱心な方で、ありがたく思った。

 これから、どんどん面白い、いい展覧会にして行きますのでよろしくお願いします。でも、そのためには考えて考えて、どんどん壁を越えていかなきゃいけない。

 壁よこい、打ち破ってくれるから!

(201111月2日・水)

 葉書が遅かったせいで、客が誰も来なかったが、一日中飾り付けをしていた。それというのも、一度飾りつけたものを、やめて、立体作品を陳列したからだ。

 毎日新聞が取材に来た。いつか新聞に出るだろう。さて、今日はどうだろう。

(201111月1日・火)いよいよ展覧会

私の常設ギャラリーでの展覧か初日である。葉書は一昨日出したので、昨日ついただろう。来る人は少ないはずだ。元々客は少ない展覧会だ。もう飾りつけてあるのだが、サンデー毎日だけでは、とんでもなく迫力に欠けるので、立体切り絵を追加する。

 客がいない時間はひたすら、仕事にいそしんでいようと思う。

(201110月31日・月)

 切り絵の森のモビール切り絵は、それほど良くなかった。今回の展覧会が最低の出来だろう。私を、急遽投入した方がいい旨館長にメールをしておいたが、どうなるだろう。慎重な方なので、否が出るのかもしれない。

 この頃の山梨に行くと、路上に果物、それからきのこが売っている。きのこというのは冨士山麓の林の中には沢山なっているし、種類も豊富なんで、怪獣を見るように興味深い。

 ただ、小学4年生の時に、先生に連れられて山の中に入ったとき、面白い形をしたきのこが沢山あって、楽しんだものだ。またああいう光景にお目にかかりたい。誰か知り合いがいて山に連れてってくれる人がいないだろうか。

 その中でホコリタケと言うのが思い出深い。前から知ってはいたが、形は真っ黒で小さいチュウリップのような形をしているが、もっとグロテスクで、袋状になっている。回りをたたくとポッと胞子が舞い出る。食用になるのだそうだ。

(201110月30日・日)

ということで、今日は久々の山梨身延切り絵の森に行ってきた。ライブを4回したが一つも売れなかった。それはあとあと売れると思うので、全然心配していない。前より泰然としている。 

(201110月29日・土)

 中学のクラス会は全くのらなかった。疲れていたんだろうか。悪酔いで、朝頭痛になった。本来なら、切り絵の森に行くところが、東京工芸社のカレンダーが完成しないので、行くのを取りやめた。

 なかなか良いのが出来上がって、今年もかろうじて安心になった。

(201110月28日・金)

 今日は締め切り、そして山梨の中学のクラス会に行ってくる。それまで頑張る。

(201110月27日・木)

 我慢できなくて、昨日はテニスを一時間ほどした。いつものように、試しにこれでやってみようという目的を持ってだ。というより、やりたい実験が見つかって、やりたくてしょうがなくいったのだった。その実験が当たったかに見える。

 それが見つかれば18年ぶりの快挙である。このテニスが、出来れば、当時、東洋大学の工学部ナンバー1とオール東洋のナンバー1のタイトルを持っていた4年生とシングルスをして、5-0まで行ったときの調子である。何故6-0でなかったというと、相手の腹の調子が悪くなったのだった。

 まあ、これからテニスが楽しみである。

(201110月26日・水)

 北杜夫がなくなった。私の月刊小説誌の挿し絵掲載でビュー作品は北さんのだったと思う。別冊小説潮で、編集者は能登谷さんという人だった。小説は「銭形平次ロンドンへ渡る」とか言うタイトルだった。

 その能登谷さんは私に2冊の単行本の表紙を発注している。その一冊が、佐木隆三さんの単行本だった。沖縄の話だった。だが、もう一冊の方は、山梨県の上野原にアパートが台風で、相模湖に浸水する事になって、大変な目にあった。

 能登谷さん空連絡がないなあと思っていたら、彼は実は早々になくなっていたのであった。

 私が頻繁に行われる出版社のパーティで、初めて参加したのは潮賞の表彰パティだった。誰も知っている人がいなかった寂しいパーティだったが、ひとり、銀座のクラブのホステスだけが私にくっついて話を仕掛けてくれた。彼女に「私に付いていても客にはならないんで他のところに行ったら」といったが、それでもいたのであった。

 後年か彼女は店を出したが、私も二日目に行ったものである。何度か会ったが、もうだいぶ前に銀座から姿を消しているようだ。今どうしているのだろうか。時々思い出す。

(201110月25日・火)

 月曜日にアシスタントがいなかったため、火曜日にする事になった。アシスタントはありがたい。

 展覧会の合間だが、郵便局やヤマダ電機の修理品を取りにいったり病院に行ったり、印刷会社に行ったり、これでもかとこまごまと忙しい。どこの会社の社長でも、忙しいものだろう。

 そういえば、さいたま市の副都心?に某ホテル系のホテルがあるそうだが、お客さんでホテルの知人の方が展覧会にいらっしゃって、あそこでどうかなというお話をいただき、早速手紙が来た。私は、ホテルとかデパートとかやったことがないが、いずれ通る道なのだろう。そのホテルでは是非やりたいので、返事を出した。中に展覧会に着た方々の感想のコピーを入れておいた。
 さて。

(201110月24日・月)

 日曜日に搬出は止め、夜は仲間と展覧会の打ち上げを、私の弟子のところでやった。場所は丸木美術館の並びの名前は忘れた。

 珍しい会員制の料理屋さんだ。まだ始めたばかりで、工事がこれから始まるらしいが、こだわり料理がすごい。それだけで、ありがたい感じがする。7人で飲んだが呑む人が3人だった。Hさんまたの見ましょう。いつも贅沢なところで呑んでますね。

(201110月23日・日)

 とうとう展覧会の最後の日である。2ヶ月のロングランだったが、私の真田十勇士が6点で終わったことで、ちょっと盛り上がらない展覧会だった。今度は11月1日から私の常設ギャラリー岡田畳店での個展である。今回は28年前に連載した「サンデー毎日」の連載作品を引っ張り出しての個展である。

 それにつけてもファンはありがたい。いつもの常連さんのHさんとKさん。有難う御座います。

 最後の日はライブ作品がよく売れた。これからはライブはひっきりなしでやります。疲れたといっていたが、だいぶ慣れてきた。

(201110月22日・土)

お袋の命日10月27日であるが、一周忌で富士吉田に行った。一度キャラクターを作った東京工芸社のカレンダーだが、嫌になり書き直し始めている。それまで切っていたパーツは全て使えなくなった。

月曜日からまた再会である。記述がせまっているので、早急にやりたい。次の仕事がせまっている。

(201110月18日・火)

 中央公論の締め切りが、明日になった。これが終わると東京工芸社のカレンダーの仕事に入る。毎年やっている仕事だ。何とか早く片付けたい。

 今日はテニス日和だが、テニスコートが休みの日である。埼玉伝統工芸会館に午後から行ってこようと思う。

 そういえば、小川町に行く途中で、また狸が死んでいた。周りには林もなくはないが、結構手狭なところに住んでいるんだと思うが、気の毒に思う。先日は蛇もまだ生きているのだろうかというくらいに顔が生き生きしていた蛇に遭遇したが、バイクで引き返しても、動く気配がなかったら死んでいたんだろうが、外傷が見えなかった。

 彼岸花が、終わって、いよいよ紅葉である。

 予定していた長野の上田の展覧会が、3月に延期になった。私のことを知らないホテルの女将からの電話だから、一応資料を送ることにしようと思う。

 それから、原宿の展覧会を1月2月の2週間やることにした。実はカレンダーを売る機会を上田の展覧会がなくなって逸してしまったのだ。

 十一月から展覧会まで、2か月空いてしまったが、こう展覧会が多いと、空いているほうが変な気がする。

(201110月17日・月)

 とにかく、帰ってから眠り、午前1時から仕事を始める。もう、作品の下絵は終わっていたから、後は切って組み立てるだけだ。立体作品なのだ。無事に午前中に終わった。

 疲れしまった。この勢いで、またもう一つ中公文庫を仕上げたい。展覧会もあと一週間。頑張ろう。

 今日は何もない。宅急便から電話があり、文春文庫のカバー作品を送ったのに、コンビニが宅配便に渡しそこねて遅れるとの連絡があった。コンビニで前にもこんなことがあった。たくさんの人がコンビニのバイトをしているから、分からなくなってしまうんだろうが、危ないことである。今回は何日か余裕があったと思うが、ギリギリだと危ない。本当は今日の午前につくはずだった。

 私は、それでも今日中にとどけてと伝えたら、電車で社員が届けたという報告があった。うっかりがこんな損失に繋がるのである。

 中央公論から、作品の進捗状況の電話が入った、水曜日に作品を取りに来るという。

 しかし、ある出版社から、文庫の仕事が入らなくなった。実は前の仕事で、へまをしたのだった。作品は順調に仕上がったのだが撮影の中山さんが、撮影に失敗(本人はそうは思っていない)。それをパソコンで修正したのだが、私の見たところ原画より、写真がみどりがかっていて困ったなあと思った。それでもいいのかなと思っていたが気になっていた。次にデザインのオペレーターをしている田口さんのところでデザインの仕事であったが、今度は田口さんがミスをしたのである。

 文字に白い輪郭を入れてもらう作業なのだが、その枠を黒い文字の前にパソコン上で置いたので、文字がイメージより細くなっていたのだった。田口さんのミスなんだが、それは彼もわからなくて、ミスが撮影とデザインでいっぺんに重なったのである。それを出版社に入稿した。そして送られてきた、印刷の見本を見るのを私が遅れて、編集者に写真を再度撮影してもらいとデザインの修正をしてもらって、印刷ぎりぎりになってしまった。

 それでもそれを使ったので私の思った通りの原稿が出来た。いい表紙になるというのは私の責任である。それにはほっとしたが、編集者は、怒ったようである。あれからその某社から仕事が来ない。

 これでいいと思っている。さんざん締め切り直前になって仕事を入れられたりしたこともあるし、一生懸命やってきたが、中央公論の編集者と違いここの編集者は私の作品を見ることがない会社なので人の苦労も、作品を通してわからないはず。もう、本のカバーの仕事も潮時なのだと思っている。60代になったんだから、もっと好きな仕事をしていいはずだ。

 ただ、そういっても私の表紙でお願いしますという作家もいるはずで、ここから仕事がなくなることはないだろう。一緒に仕事をしたくない嫌な口調の編集者だった。

こんなことがあって仕事がなくなるのである。他の某社の仕事も来ないが、これも愚かな編集者との確執があるからである。出版界で長くやるとそれなりの垢がたまる。

(201110月16日・日)

 朝まで雨だったが、山梨の市川三郷町の碑林公園は馬鹿っ晴れで、夏のようだった。一年ぶりに会う人が沢山いて、もっとあっていたい人たちばかりで、一年に一度しか会わないのが寂しい気持ちになった。

 市川三郷町の秋祭りと銘打ったこのイベントは、子供の演奏会や踊り、音楽があり、手作り屋台も沢山出ている。私は舞台の片隅で、切り絵をどんどん作って終わりの抽選くじ引き用の切り絵をどんどん作っていたのである。

 このイベントが終わったら、ここのみなさんとみんなで打ち上げがあるのが楽しみだったが、途中で「会員誌譲りは」から、原稿の催促があり、どうしても月曜の午前までに、作品のデーターを送って欲しいとのことで、やむなく終わったら即帰る事にしたのである。

 日曜日は小仏トンネルでの渋滞で、本当に何時間もかかるので前回から大月で降りて、迂回して帰る事にしている。だから3時半に出たが、鶴ヶ島に帰ったのが7時前だった。

 今年の三郷のイベントには、高校の同級生の女性たちが来た。旧知の人は、安田さんと柏木だった。顔だけ知っているのが、二人。お一人は、少し記憶がある。いずれにせよ、3人はしゃべったことがない相手だった。しかし、その中の一人、渡辺さんは小学校から一緒でクラスになったことはないが、顔は良く知っていた。

 私たちの小学校も中学校も、人数が多く、クラスにならない人が多い。特に中学は、一学年14クラス600人いた。当時、この中学はスポーツが県下でも強かったが、この人数がいれば当然である。

 皆さんと別れるのが名残惜しい感じで分かれた。また来年も来て欲しい。

(201110月15日・土)

今日は午前中、英会話サークルがあった。英語で自己紹介は、かなり緊張する。でも、少しだけだがみんなのスピーチが聞き取れるようになった気がする。だが、終わった時はドット疲れる。

 終わったら、即アトリエに行って明日のための絵と機材を積み込まなければならない。毎日が、忙しい。夕方用事があり、今日は埼玉伝統工芸会館を休んだ。

(201110月14日・金)

 文春文庫の仕事を終えた。なかなかいい作品である。埼玉伝統工芸会館に行ったら、松井さんと言う方が見えて、家に伝わる浮世絵のコレクションのコピーがあるのでお見せしたいとのことで、拝見した。

 松井さんはその錦絵に描かれた人物の動きが私の絵にそっくりだというだった。なるほど見れば見るほどよく似ている。私の絵のほうがリアルなのだろうが、ポーズに関してはよく似ている。

 しかし、埼玉伝統工芸会館にいくと、仕事が進まないなあ。

(201110月13日・木)

 ライブ三回、仕事進まず。今日の夜は何とか頑張って、仕事をする。二箇所から催促あり。がんばろう。

(201110月13日・木)

 いろいろなものを郵送しなければならない。今から三好清海入道の等身大の仕上げである。そしてそれから伝統工芸会館である。

(201110月12日・水)

 11日の講演会は完璧でなかった。しかし、よしとしよう。私は自分自身がパーフェクトであること望みすぎるようである。ある種危険人物である。

 (201110月11日・火)

 いい天気である。昨日はテニスを結局しなかった。昨夜の雨でコートが使えるのが、多分昼ごろになると踏んだからだ。

 それにしても、テニスコートのオーナーは雨の日なんかは、日曜日である。その他に毎週火曜日が休みであるから、休みだらけでいい商売という事になる。本人に言わせれば、雨が降ってコート税日するとまたすぐ雨が降ってしまうことがあって、無駄も多いということだ。

 でも、それだけ休みがあるのだから、今日みたいなテニス日和に休みになっているというのは痛恨である。前に入っていたテニスクラブは、月々の会費は安いし、年中無休だし、コートはオールウエザーだから雨がやめば、ほとんどすぐできた。

 ただし、老年の全日本選手を多数抱えていて、そんな何か、アスリートの緊張が伝わってくるのと、喧嘩っ早いテニスをする資格のないのが混じっているのがとても嫌だ。

 次の展覧会のことを書くと、私の川越常設ギャラリーの岡田畳店でである。テーマは「ああ懐かしのサンデー毎日」である。これの後援を頼みに私がサンデー毎日の表紙をもって川越の毎日新聞局に行ったら、何か電話で喧嘩をしていたようで、その興奮があったらしく、私が何で来たか伝えると聞いているのか聞いていないのか、「何か資料持ってきて」で終わったのである。

 この記者、全く察しが悪いと思うが、サンデー毎日の表紙をした人間がわざわざ局に出向いて、サンデー毎日の表紙連載の展覧会をするといったら、身内も同然、門前払いを食らわすなんて、馬鹿じゃないだろうか。

 私は葉書を刷る前に、毎日新聞の協賛でも取りたかったが、記者のあまりの対応の悪さに、葉書に一文を入れるのを断念した。

(201110月10日・月)

 昨日の、早瀬さんも緊張しているようであった。今度は明日私にそのお鉢が回ってくる。鶴ヶ島西中学で400人を前に講演なのだ。こんな人数は初体験。

 今日は久しぶりにちょっとテニスをしようと思う。一時間くらいだ。

 テニスも、展覧会が忙しく月に一回だし、ジムも月一回じゃあもったいない。特にテニスは、クレーで雨の次の朝はできない。だから、私の空いた日とテニスコートのコンデションがあまりにも合わな過ぎて、いけないのだ。

 テニスも毎回課題を持っていくが、今までチャレンジした方法をまた繰り返し試しているのかもしれないから、時間の無駄みたいな気になって、嫌になる。考えてやったことに、最近はずれが多すぎる。行くときの期待がお置きだけにがっかりすることも多い。

 クラス会が大学と中学で近々ある。みんな還暦だからだろう。

 今日は、何とか根津甚八を切り終えたい。それで6作目。何とか8人までやってみたい。これから、上田の展覧会まで、作り続けて終えて、上田ではライブをどんどんやっていきたいと思う。

(201110月9日・日)

 作家の早瀬詠一郎さんが、恵比寿のガーデンプレイスで、その文化祭の催しとして新内流しをした。 時代の流れに抗して、こうして昔のものを見せていくというのは、いいものだ。江戸時代のゆったりした空気を感じることができる。

 早瀬さんとは、講談社文庫で彼が作家で私がカバーがという形でやっている。彼と北原亜以子さんの江戸時代の講座で初めてお会いした。小説を読むと、それだけのことを実行してやっている人だけに、文章にほかの作家と違う味わいがあっていい。その講座で、彼が「鉄漿は色っぽい」と持論を披露したのには驚いた。「鉄漿」は色っぽいかどうかは論争になりそうである。彼の文庫は講談社から12月頃発売されるのだろうか。正式の依頼は来ていないが。

 その恵比寿には、私のほかに講談社文庫の編集者がいた。彼は私の小説挿絵の「連載」を初めて担当してもらった人である。もう30年も前である。

 彼が女性を伴ってきた。とてもきれいな人である。彼女が席を立った時、思わず「昔はきれいだったろうね」といった。彼もそうだろうねといった。あとから聞いたら、付き合っている彼女だということだった。長い間独身でいたんだなあと思った。確か50台の中盤くらいの年齢である。

 帰りは9時半になった。

(201110月8日・土)

 いよいよ鶴ヶ島に市中での講演会が月曜日にある。400人を前に、進路について話してくれとのことである。中学生というと、金銭以外でも大変な時代であると思う。思春期である。悩みは多い。

 いって面白いこともあれば、面白くないし、危険な話もある。煎じ詰めて思うと、何にも話が出来ないんじゃないだろうと思う。

 「人生、絶対かなえて見せると思ったらなるものだ」何て言うせりふが美談のように語られるけど、本当にその確証があるのか。それに皆そう思って、ずっと行ったら、同じような人ばかりで、それが生活に関わってくることだったら、食べていけるはずがない。

 現実にはそう思い続けて、かわいそうな人生を送った人も沢山いたはずだ。美談の陰にそんな悲劇はないのだろうか。

 ボーイズビーアンビシャス!大志を抱け以前に、やりたいことが見つからない。それが現状ではないだろうか。

 それに、子供の頃から夢見たことを大人になって果たしたなんて、とんでもなく美談ではない。珍しいとはいえるが。

 何故って、成長していけば、知識も体験もする。まだ体験も知識もないうちから、人生の方向なんか決まるはずがない。気が変わって当然だと思う。ぶれるなんて最近はマイナス表現で言うが、皆気持ちが変わって当然である。

 そんなことを話をするのかと思う。

(201110月7日・金)

 また、埼玉県志木市の展覧会が決まりそうである。これで、来年は11箇所。これだけの展覧かは初めてである。風呂に入りながら、ダブったらそれでやってみるというのも面白いなあなんて思った。一つは埼玉で、一つは東京。午前と午後。みたいな。

 やってみるとわかるが、こうして来場者によって広がっていくんだなあと思う。これで他県に出て行けたら嬉しい限りだ。

 そして、もうカレンダーの季節で、私も準備しないといけないが、それで来年の予定を伝えることが出来る。

 ただ、展覧会が空振りに終わらないように願いたい。 

(201110月6日・木)

 今日はいい天気である。もう午後になってしまったが今から、伝統工芸会館に行ってくる。

 雑務が多く、そして忘れてばっかりいるから、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。老人は体が衰えるから、忘れるとまた取りに戻ったりして体力を使うから、リハビリにはいいのかもしれない。

 じゃあもっと忘れていいのかも。

(201110月5日・水)

 朝から雨であった。

 毎年やっている東京工芸社のカレンダーが息詰まっている。もう「龍神」というテーマでは、出来ないのかもしれない。いくつしたんだろうか。15点くらいか。

 私を天才と言う人がいるが、とんでもない話で、こんなに息詰まることもある。ただ、実際に机の上で持ち持ちした絵を描いていると、これじゃあ駄目だとやめてしまうこともあるが、見つかることもある。

 それで、思ってもいなかった絵が浮かんで今そちらの方向に行こうとしている。今月は、とんでもなく依頼されている作品が多いから、とっとっとやらなければ。

 それにしても行事が一杯で、そちらの対応もある。忙しい10月である。

(201110月4日・火)

 月刊小説誌ジョイノベルスを終えたのは午前の11時ころだった。文庫でも、小説の挿絵でも描き終えるまでのスピードが心地よい。

 横尾忠則氏のツイッターに「頼まれ仕事をしている時より、好きな絵を描いているほうが収入が増えた」とあった。そんなことがあるのかと目からうろこである。気持ちがなびいてしまう。

 さて、このホームページに新しい絵の作品を掲載しなくなってもう、一年近く経つのではないだろうか。

 何とかしたいがなかなかその気になれない。単に手間の問題で見せたくないわけではない。

 展覧会には午後から言ったりするから、今回はいろいろな人と会えないし、ライブも注文がないとしないから、展覧会に華やかさがないと感じる人もいるだろう。次の上田の展覧会に期待したい。その間に、川越の岡田畳店での展覧会もあるが。

 しかし、バイクで行く小川町までの道すがら、曼珠沙華が満開である。最近この赤が嫌に目立っている気がする。春の桜や菜の花に匹敵する目立ち方だ。切り絵になりやすいからいつでもできると思って、一度もやったことがない。

(201110月3日・月)

 昨日は、NHKと埼玉新聞が秩父篠葉太鼓と私の競演の取材に来た。二日間に渡ったこの共演は私にとってもいい経験になった。また、どこかで競演したい気持ちになった。

 今年こそ秩父の夜祭に行ってこようと思う。

 また、私はいつもそうだが、TVに出ることを人に知らせない。これは私の悪い癖だが、私がTVに出ている姿を、とても怖くて見られないのだ。だから、人に伝えない。これは大きな私のハンディなのだろうと思う。ただ、放映時間が、確定しいなかったこと(うすうすは分かった)、それから、分かった後もとても忙しかったこと。それはあるだろう。

 しかし、一昨日競演を二つやって、昨日二つで終わった後はくたくただった。でも、いい作品ができて自分をほめてやりたい。皆さんには作品をこの日記にお見せできないのが申し訳ないが、私のカメラでは撮っていないのである。

 さて、今日は休みである。連載の締め切りもある。

 そういえば、鶴ヶ島から広報の人が来たが、来年展覧会を鶴ヶ島中央図書館でしてほしいとか、また一つ展覧会が加わった。忙しい。来年は私にとって一番展覧会が忙しい年になりそうである。

(201110月2日・日)

NHK取材。夕方の首都圏ニュースで放映。

(201110月1日・土)

 ついに10月である。とんとん拍子に、10月まで来た。今日は即興ライブの競演を、秩父太鼓とする。明日は、NHKが取材に来るそうなので、午後の首都圏ニュースには私も少し出るだろう。
 今日は早く出るのでこの程度にしておこうか。では、明日のNHKで。

(20119月30日・金)

 昨日は堂さんの通夜とその後の草鞋の会のメンバーとの会合があり、久しぶりに東京に行った。堂さんのお顔を見させていただいた。ありがとうございますという思いだった。

 これまで出版関係の方の葬式には、どれだけ行ったろう。最初は、青木雨彦さんだったと思う。あの時は、私は東京から新幹線に乗って横浜に行こうとした。全く無知だったから、横浜に止まらず、名古屋まで行ってしまった。車掌さんが切符の裏に事情を書いてくれて、戻って横浜で降りた。葬儀に行ったら、誰もいなかった。後から、仏が焼かれて戻ってまた法要があるから、いてくださいと待っていたら、寺の中で親戚友人一同様と一緒に仏の供養をすることになった。近くには、直木賞作家で青木氏の同級生の、生島治郎(私は何冊か表紙を担当している)と映画監督の大島渚さんがいた。大島さんは大きな声で回りに座っている人たちと話していた。私はほぼ彼の隣だった。

 読経が始まると、途中で生島さんの奥さんが静かな中、くしゃみを始めてその自分がおかしくてゲラゲラ笑ってしまって、場が凍りついたものだった。この奥さんは生島さんの二番目の奥さんで、見てはいないが「方翼だけの天使」という映画で、彼女が主役で描かれているのだと思う。在日韓国人の確かソープランド嬢だったと思うが、生島さんは彼女のこんな奔放なところが好きだったんだろうと思う。しかし、それはをそれは、じゃじゃ馬で生島さんも大変だっただろうと想像される。

 あれから25年くらい経ってしまったのだろう。そう、手塚治虫さんのお通夜もある。無くなるちょっと前に、西武池袋デパートでトークショウがあり、その時は痩せてしまっていらっしゃった。それが手塚さんとは最後だった。通夜の日は、今集英社の社長になっている高校の同級生・堀内が、弔問客の案内をしていたのを覚えている。

(20119月29日・木)

 いい天気が続いている。爽快だ。しかし、秋にも花粉症があるらしい。頭痛にはならなかったが、3日連続の頭痛と今日の夜の肩こりと、頭痛気味というのと、鼻水がたくさん出るというのは花粉症のせいだったりして。

 私の花粉症は、萱という類の植物の花粉が強く出るらしい。杉ヒノキは、二番目だった。その通り、スギの花粉の時期はそれ程症状が酷くはない。これから、日が長くなって、暖かくなってという希望が湧いてくる春が花粉症のせいで、水を差されていて、秋は秋晴れが見事で、今年は特に気に入っている。秋が好きになりそうだが、これから苦手な寒さと日の短くなるのにさみしい思いをする。だが、目をふさいで、耳をふさいで秋はいいなあと、満喫したいと思う。

 昨日は久しぶりにジムに行った。相変わらず自転車こぎのマシーンで1時間やっただけだった。昨日は自分の紹介を、英語訳しながら自転車を漕いでいた。これがなかなか、忙しんだが本を読むにはまたとない場であるのだ。また今日も行きたいところだが、今日は先に日記に書いた堂さんの通夜がある。深川である。

 それから、同じ日本文芸家クラブの先輩である小妻要さんが亡くなられた。まだ72歳であるから、若い。小妻さんとは付き合いはないが、後姿の入れ墨の女性の絵を描いていたので有名である。その作品は、私にも出来そうなのでそれほど関心はしていなかったが、男と絡んだ作品はすごい労作で、迫力がある。生意気なようであったが、私に描けるかどうか。彼には、そういう世界が好きな人は沢山いるからファンがかなりいたと思う。

 堂さん・小妻さんお二人をフォローできる絵描きの人材は、いない。あのタッチでは現れないだろう。

 今日は、病院の検査結果を聞きに行ってもいいが、真田十勇士の三好伊三入道の切り絵を完成させたい。

(20119月28日・水)

 今の展覧会が終わると、次は長野県上田の展覧会になると思うが、そのあとは私の常設ギャラリー「岡田畳店二階」で個展をする。今回のテーマは「サンデー毎日の表紙」展である。

 およそ25年以上も前に一年間だけ連載した作品の回顧展である。

 前にも、日記にしたが、サンデー毎日は表紙を切り絵にしたいということで、切り絵作家を探していたのである。それで、毎日新聞の本のブックデザインをしていた熊谷氏が私の担当した文庫本のデザインを担当していたことがから、情報がサンデー毎日に入り、私がオーデションもなく抜擢されたのである。

 今まで、この作品群は恥ずかしくて、なかなか表に出さなかった。何故かって、下手くそだったからである。まだ、切り絵を初めてそれこそ、プロになって3年もたっていなかったんだと思うが、まだとんでもなく下手くそだったのである。

 しかし、そうはいっても、私の作品である、たまには日の目を見せてやってもいいなあと思ったのである。ただ、3年にしては、かなりレベルは高いと思う。そこらへんが見ものである。

 その当時のサンデー毎日の記者というと、編集長が岩見隆夫さん、副編集長が岸井格さん、お二人ともテレビでは今、コメンテーターとして大活躍中である。

 ただ、当時の記者との付き合いで、新聞記者のうだつの上がらない人というのはろくでもない人たちだなあと思ったもんである。言論で勝負をしている人たちであるから、重箱の隅っこまでケチの対象にする。だが、どうでもいいことをこね回していて、面白がっているだけで、話題にセンスがなかった。言葉をもてあそんでいるだけである。

 正義を振りかざしているようだが、スキャンダルを飯のタネにしている連中である。皇室なんかを飯のタネにしてほしくはない。人が右と言えば左といい、その理由を後から考える、そんな手合いである。だだし、私は同じ紙面で仕事をいただいたりしているから、こんな文を書いて良いのかどうか。しかし、それが大人であることである。食べていくことと、自分の考えのギャップに悩む。

 もちろん、そんな記者ばかりではないと思う。

 こんな記者的気質の人間は、もともと日本人にいたのであろうか。西洋の悪しき風潮が明治以降に入ってきたのであるのか。江戸時代にはなかったのだろうと思う。

 考えてみれば人間は始末に負えないものである。飯のタネにならないように、官で管理して、給料を支払えば親方日の丸で、無駄遣い、さぼるというようなことになるし、人間どちらに転んでも困った気質を持った人たちが出てくる。そのシステムを考えられないものか。

(20119月27日・火)

 恩人の堂昌一さんが亡くなられた。80歳を超えていらっしゃったと思う。挿絵画家の先輩である。堂さんは、昔の劇画タッチの絵の系譜の最後の方である。伊東彦造 山口将吉郎が少年誌に素晴らしい挿絵を描いていた、あの系譜の方である。師は岩田専太郎さんだったと聞くが、そうでもないらしい。堂さんのおうちが銀座に喫茶店を出していた時に、岩田さんが客で見えていて、それで、云々カンヌンと言うことで、正式に弟子に入ったということではなかった気がした。

 堂さんとは、堂さんが50歳代に行き会ったのだと思う。週刊新潮での連載を新潮社で制作した帰りに、ご自宅がそのころ神楽坂にあり、新潮社に近く、伺ったことがあった。その時に印象に残った言葉に「私は見なければ描けない」というものだった。つまり、写真なり、対象物がないと描けないというのである。だから、堂さんがいっぱい見せてくれたが、沢山の映画の写真があったのである。堂さんはそれを見て絵を描いていたのである。私はその言葉に影響を受け、自分のポーズをポラロイドで撮り、それをデッサンして絵にするということを徹底するようになった。元々、そのようにしてきたのであるが。

 それがよかった面もあるだろう。おかげで、デッサン力がついた。そして、堂さんの絵に動きがないのが、実はその手法のせいだったのである。その辺を堂さんが見切りをつけていたら、もっとスケールの大きな画家になれたのだろうと、生意気で申し訳ないが思うのである。

 私は、しばらくその言に影響されて、やっていた。だから、ある時期私の絵にも動きがなかった時期がある。

 10年以上も前であるが、「どうも、見て描いて描いていない人がいるような気がする」と、親友の蓬田やすひろ氏に電話してみた。彼は「見て描いていない」という。そういう情報は、美術畑から参入していない私の横のつながりのなさから、伝わってこないのである。

 それ以降、蓬田氏の言の通りに、見ないで描くようになった。現在私の絵が動きがすごいといわれるが、そんな過程があるのである。

 いま日本文芸家クラブに所属しているが、引き入れたのは堂さんである。忙しさにかまけて、堂さんとの付き合いをおろそかにしていたが、人生は時間が短くて、皆さんに「ご免なすって」と遠くから詫びの挨拶をするばかりである。このHPを見てらっしゃる方にも、有難いと思いつつ、お世話にばっかなりっぱなしになるとになるだろうと思う。ご容赦ください。

(20119月26日・月)

 昨日は、リクエストがあって、ライブ切り絵を二点切った。最初のデッサンのやり方を変えようと思う。ここのところ、あるやり方をしてそれがいいと思ったがどうもそうではないらしい。つまり前に戻すという状態になるが、これも試行錯誤である。これでスランプだった即興切り絵も、進捗があるのかもしれない。

 英会話の仲間の飯能のQUATREさん(チャットネイム)が来た。いい話を聞かせてもらった。私は、何か能率のいい英語の覚え方はないかと思ってきたが、それを探しているうちに時間がたった気がするが、そんなものはないんだろうと思われてきた。これから地道にやっていこうと思う。ただ、これまでの、2年間の教師がついた授業は、ほとんど無駄だった気がする。いい教師を選ばなければだめだと思う。いずれにしても学ぶことは独学に近いものだと思うが、その気持ちを引き出してくれるのが教師だと思うが、それがなかった。それに、余計な意見が耳に入って、日記を英語で書いていたが、とん挫したのも、残念だった。私の目的が分からなかったらしい。

 今日は展覧会が休みの日である。行き付けの医者に検査をしてもらいに行ってこようと思う。

 肩こり、頭痛である。コンデションは悪い。

(20119月25日・日)

体調が悪く、昨日は一日中二日酔いが残ったままの状態だった。今日はいっぱい眠った。

 内臓検査に明日行ってみようと思う。明日は展覧会も休みである。私の調子も悪かったが、車の調子も悪かった。小川町に向かう途中で、車がオーバーヒートを起こしそうになった。ゲージがHのほう近くになっていた。だから、途中で止まってGAFを呼んだ。GAFを呼んだのはこれで5回目くらいである。初めて呼んだのは高速道路上でのガス欠。

 15kまでのレッカー移動は無料なのだそうで、行き付けの修理屋さんに運んでもらった。3日くらいは車に乗れない。

 さて、振り回す人のことを前日書いたが、振り回す人の第一の特徴は、感情的であること。当然、みんなを振り回しているなんて本人は思わない。また、これまで会った人は自分は最高に正しいと思っていたのである。だから、相手を怒ったりできるのである。自分はだれよりも優れていると内心思ってもいるようである。

(20119月24日・土)人生とは

 知ることである。自分を知り、他人を知り、さまざまのことを知る。本当に私は無知であったと最近しみじみ思う。それはだれでもそうなんだろうと思う。知ることは人生の成功につながる。ただ知らなくていいこともある。それは、私のように絵描きになるなんてことは、本当に危険なことだが、危険であることを知ったら、とてもじゃないが行動できない。何かをしようと思ったら無知のほうがいいこともある。ただし、あとからリスクを克服する苦労が伴うが

 無知のままで成功する人もいる。それはラッキーである。それを真似しようと思っても、かなえられるものではない。宝くじが当たらないのとおんなじである。ひたすら、修練を積み、いろいろなことを思いめぐらして歩いて行くのである。

 考えるのは楽しい。こうしてみようかああしてみようか、こうだろうかああだろうか。

 ただ、人生の終盤に入って、いい人に巡り会いたい。そんな人たちにだけ囲まれて過ごしたい。もう人に振り回されるのは御免である。

(20119月23日・金)旅行で下絵紛失

 先日の寸又峡の旅行の帰りに、中公文庫の下絵をどこかに置き忘れてしまった。もう一度書き直しであるが、ざっととった鮮明でない写真を撮っておいたので、そこから新たに描き起こした。顔はしたがって変わってしまったが、これはこれで結構大丈夫。何とか完成した。

 下絵というのは、昔は何日もかかったものだが、今は本当に早く描けるようになってありがたい。人間の修練というのはすごいものである。これは描いたかな?私は最近髪の毛の描き方を覚えた気がするのである。まだ、大々的な作品を作っていないが、これから女性の髪を切るときに使ってみようと思う。皆さんご期待ください。 

(20119月21日・水)駆け足で

 東洋大学の工学部の一つ後輩たちと静岡県の寸又峡温泉に行ってきた。動機は集まることがないが、一つしたの後輩たちは、集まって旅行するのが10年経つという。

 皆さすがに髪が薄くなった。それに糖尿病が2人もいる。私も身体に気をつけた方がいいということを実感した。新金谷からSLに載って行き、途中で今度はトロッコ列車に乗り換えて寸又峡には行った。

 SLは見るだけで、乗ったことがない。私が子供の頃は母親と自宅の富士吉田から、富士急行線で大月に行き、電車で甲府に向かうのだが、残念ながらSLは甲府より下りで運行していたので乗れなかったのだった。

 そういえば、SLに憧れていたのだった。それを母親に言った事も歩きがする。私の母方のおじいさんは国鉄マン、それに今朝男という叔父と安幸というおじさんも国鉄マンだった。だから、いつか乗せてやるような話も聞いたことがあるが、乗せてもらえなかった。

 おじいさんは退職後、新幹線がまだ開業してない時、新幹線に試乗していて、その写真に私のいとことが一緒に乗っているのを見たことがある。大人はそれなりに大変だったが、子供だった私は脳天気に楽しい時代だった。そして、甲府とのいとこの交流は、とりわけ楽しいものであった。

 お酒も皆弱くなって、食堂でご飯と共に飲んだお酒で、部屋に帰ってきてみんな眠ってしまった。

 一つ描いておかなければならないが、仕事を行って、それは中央公論社の文庫の下絵であるが、完成間近というところで、どこかに忘れてきてしまった。とんだミスだが、写真を撮ってあるので、初めての経験だが、それをトレースして時間を縮めたいと思う。

 寸又峡は本当に秘境である。山崩れがあったらひとたまりもなく陸の孤島だろう。トロッコ電車の通る軌道も、山際のきわどいところを通っていて、これはこの沿線の補修には莫大なお金がかかると思った。

 このメンバーは、七人いたが、一人は若くして脳梗塞で、ほとんど活動が出来ない状態なのだという。彼は、学生時代はあまりテニスはうまくなかったが、持ち前の運動神経と負けず嫌いで、ある程度うまくなっていた。かなり若い時期から、ちょっと精神にバランスをきたしていた気がする。年齢より、15歳は見た目が老けていた。

 そろそろ私たちの世代も、集まらなければいけないと思う。同期で、西松建設の東南アジアの地下鉄建設に当たっていたやつが、定年で帰ってくる。35年間も海外勤務なのである。気が遠くなるが、それほど面白かったところもあったのだろう。

 もうひとり、私が週刊新潮で挿し絵をした「クイーンズ海流」の作者、佐江衆一さんの甥のK君とも連絡を最近取った。この連載の途中で、K君から電話があり、佐江さんは私の実の甥だと連絡があってびっくりした。ただし、佐江さんの出世作の介護の問題を小説にした「黄洛」(こんな字だったか?)には、二人の兄弟が両親の介護の問題で、断絶をするが、その断絶をした方の甥なのだった。だから、着き合いはなかった。しかし、あれからどうなったのだろう。

 鶴ヶ島に帰って、次の日はすぐ、私のファン20人を連れた切り絵の森への旅行である。吉田のうどんは新倉屋さん。そのあと丸新製麺で麺の買い物。そして、一路、身延の切り絵の森である。ということで無事帰ってきた。私は歌を4曲も歌った。

 今日は、今から下絵を完成して、切って、明日デザインという段取りである。

 本の仕事も少なくなって、知れば心配する方もいるでだろうが、こんな時が私のチャンスでもある。希望に満ちている私である。

(20119月17日・土)

 昨日行くはずだった山梨である。切り絵の森に行くつもりだが、河口湖のギャラリーにも額入れのため引っかかってくる。切り絵の森には午後になりそう。

 明日は、東洋大学のテニス部の一つ下の後輩たちと、静岡県の寸又峡温泉に泊まる。昨年は母の危篤で、誘われたが行かなかった。

 長野の切り絵作家・柳沢京子さんの計らいで、長野県の上田で個展が決まりそうだ。来年かなと思っていたが、11月の下旬になりそうだ。そうすると岡田畳店の「ああなつかしき、サンデー毎日展」のスケジュールが変わってくる。

 その間に絵本の公募展にチャレンジしたいと思うのだが。忙しい。

 上田は、泊まり込みで行くことにする。展覧会会場は、上田駅前のホテル祥園といったと思ったが、温泉も併設されている。やっと長野デビューである。来年は小田原の個展ありで、戦国武将を追うような展覧会になりそう。

(20119月16日・金)

 この間、サンバカーニバルに行ったが、それ以来お酒を飲んでいないが、体重が減っている。お酒がカロリーの低い焼酎であろうが、やはり太るものなのだろう。それから、寝つきは悪くなったが、よく眠るようにもなった。得意の早起きが、今度は厳しくなったのが、困る。睡眠というのは難しいものだ。

 昨日は、額入れをしていたら、ガラスが割れてしまって、二点真田十勇士を展示追加しようと思ったが、かなわなかった。

 かえりの、今度入った弟子の人のところに、誘われて寄ったが、すごいロケーションの家であった。ご本人にはかなりの夢があり、それを実現したいという。あまり、ほかの人が持つことのないような大変な夢だったが、どのように実現していくのが見てみたいものである。

 場所は丸木美術館の近くにある。近くに寄ったら、コーヒーを飲んで帰ろう。うまかった。

 今日は山梨であったが、やめる。仕事をしたいと思う。

(20119月15日・木)

 紙わざ大賞から、展示会場に少し空きのスペースができたので、準入賞という賞を急きょ設けるので、展示してもいいですかという問い合わせが来た。

 空いたスペースなんてのはレイアウトをなんとかすればできるはずがない。私の切り絵人生でも、かなりのハイレベルの作品で、それが選に漏れて展示されないとなったら、もったいないと誰かは思ったはずだ。それに私のことをよく知っている人も、関係者の中にはいただろう。

 審査員は、私のことを知っていたら(多分知っていた)、途惑ったと思うし、審査の対象から外したのではないだろうか。プロはダメとは明記していなかったが。

 それにしても、賞の周囲の人たちはいい作品だからと、さぞやもったいながったことだろう。だから、私に問い合わせたんだと思う。展示に厚みが出るはずである。

 まあ、今回のことは私も恥ずかしいが、選ばなかった紙わざ大賞も恥ずかしい。

 ただ、私としては、切り絵界に賞はないし、一度も他の公の賞というものを取ったことがないので、素朴にとりたかっただけだ。もし、大賞でもおかしくない私の作品がレベルであったなら、私の履歴に紙わざ大賞を取ったことを載せただろうから、残念だ。

 ただ、私が準入選という一番下の下という賞をもらったとしても、多くの人が私のことを知るだろう。それが、私のこの応募への最大の目的だった。ただ、3番以下だったというのは計算違いだった。

 しかし、こういう公募展に出すと審査員が必ずいるが、この方々が、公平な判断をしてくれるとは思いにくいなあと思うようになった。ずっとやっていったら、審査員より実績のある私を審査するなんてことになりかねないし、私のファンが審査いんだりすることもあるだろう。もう、こういう公募展に出さないほうがいいのだろうなあと思うが、さみしい。

 私は、本来の自分の土俵である切り絵という武器で、無冠に終わるのかもしれない。

(20119月14日・水)

 今日は、教室があるんで展覧会にはいかない。教室も、もうちょっと力を入れてやりたい気がする。例えば、10回の計画を立てて、この日の技術的なテーマは何をするかというようなこと。私の教室は、生徒が好き勝手なことをしているが、それではちょっと戸惑う人もいるだろう。

 しかし、張り切っては見たもののそれが続かないというのが恒例である。さて、どうしたものか。10回くらいやってみてもいいと思うのだが。

 私は、自民党の方々の自分たちが過去何をしてきたということの反省の上に立って、谷垣さん・石原さん・石破さんは言ってないと思う。あの大して怒ってもいないのに、芝居で怒っているような顔をしている谷垣さん。いつも仏頂面の石原さん。あんまりものを言わずにいたほうがいいんじゃないかと思う石破さん。昔の野党のまねをしている。あの方たちが怒ってばかり、いればいるほど自民党の人気は下がると思う。

 やっぱり野田さんのスピーチはいいと思う。心を動かされる。具体的なことなんか言わなくていいと思う。みんなにやる気、期待を抱かせることを言ってくれればそれだけで、十分だと思う。

 まず、日本の首相は国民投票で選ぶということをしてほしい。でないと、強い内閣が生まれない。いつまでも同じことの繰り返しになる。

(20119月13日・火)

 百鬼丸のバス旅行を生徒が今年は企画してくれまして、私は楽チンでお客さんたちと行きます。20人で、まだ3人ほどの空きがあるようです。ご希望の方はどうぞ。

 今回は切り絵の森の見学がメインの企画で、富士吉田は通っていきません。そして、吉田のうどんも食べません。ちょっと単調過ぎるかなという感じもしますが、あえて何も言わないことにします。

(20119月12日・月)

 昨夜は、お酒を飲まなかった。焼酎の炭酸割を最近呑んでいたので、その影響で胃が荒れたんだろうと思う。今日は、埼玉伝統工芸会館が休みである。だが、あっという間に、その休みが終わってしまった。

 残念だが、「紙わざ大賞」は入選もしなかった。私はプロであり、審査の二人は私のことを知っていたんで、かなりハイレベルな作品だったが、最初から審査の対象外だったのかもしれない。ちょっと残念だが、審査員の方々の他にも、作品は見てもらっただろうから、それでよしとしようと思う。

 先日知り合いの親戚ということで大森暁生さんという彫刻家の方の個展に、渋谷の東急百貨店本店に行ってきた。

 この人は名工だと思う,私より二周りほど若い.とてもオシャレなセンスがある。私の展覧会に一度見えた。

 その後エレベーターで下っていくと、どこかで見たような墨のイラストがあった。電車広告で、洋物のキャラクターを水墨で描いたものがあった。それを描いた人だなと思った。作品は3点あったが、即興で描いたらしく、いい作品ではなかったが、短時間でやるとしたら、そんなもんである。同じように、即興で切り絵をする私には分かる。

 何かイベントで、個展ではないようで、作家の方がいないのかなと思ったら、一人、人に囲まれていた人がいたのでこの人だなと思った。なかなかこういう機会はないからと、私は近づいていって、名刺を渡した。驚いた事に私のことを知っていた。知っててもおかしくないし、知らなくてもおかしくないくらいの程度の私は人間だとおもっているので、驚いたのである。

 「ご活躍ですよね」という。外から見たらそうなんだろうし、私が自覚が足りないのかもしれないと思うが、その実感はない。ただ、私が思っている以上に、私を評価している人たちが沢山いて、名前まで知らないが、知っている人が予想外に沢山いるらしいのである。そして、ファンも、潜在的にいるのだろうと思う。

 是非なんとかそういう人たちと展覧会場で遭遇したいものだと思っている。

 さて、イラストの応募は、プロは不可と書いていなくても、はねられるものなんだろうなと思うとき、もうイラストの応募は辞めようと思った。

 切り絵の賞はなく、私は組織の内部のでの受賞はあっても、公募展等の賞は応募したことがなく、私には実質的な賞歴がないのである。この賞歴がないというのは、なかなか、日本では受け入れてもらえないものである。そういう意味では、よくここまで来たと思う。

 これから、絵本と漫画に挑戦である。こちらではそんなことはないだろう。

 しかし、プロが公募展に出すと、最初からはずされるというのは業界の常識だったのかもしれない。それを私が知らなかっただけなのかもしれない。ある意味では名誉なことであるが、つまらないなあと思うのである。

(20119月11日・日)

  

 埼玉伝統工芸会館の展覧会は2時半で終わり、群馬の大泉のサンバカーニバルに行ってきた。

 町に繰り出すと思っていたが、いろいろな問題があるんだろう、大きな広場にステージを設けて、カーニバルをやっていた。面接試験で、裸にさせてチェックされているんじゃないだろうかと思うほど、きれいな体の人ばかりだった。

 チームは6チームほど着ていて、優勝は浅草のチームだった。飲みながらの観戦は、なかなかいい感じだった。服部さんと奥さんとの三人の感染だが、先日の花火といい、なかなか最近経験していない、貴重な体験をさせてもらっている。とにかく、私の頭の中は仕事だけだ。

 でも、たまにテニスと、お酒が入るかな。結構息抜きはしているかな。

 審査が終わり、一般の人が広場でサンバを踊るというイベントに突入したが、私にはとても踊れそうもない感じ、でも、美女たちが腰をくねらせ、踊る姿はいつまで見ていても飽きない。本能の言うことを素直に聞いて、食い入るように見てればいいんで。

 尾ドラなき割りに、真ん中の写真の子は、へそピアスで、とにかく腰を前後、左右、ロウリングと多彩な腰つきで踊っていて圧巻だった。右の女性は、とにかく動きが大きく、私より背が大きいんだから、とてもダイナミックだった。

 なかなかよそでは見られない面白いイベントで、力さえ入れれば、全国区のイベントになるんだろうが。浅草でも見られるんだね。

 ということで、服部さんご馳走様です。また、楽しませてください。

(20119月10日・土)

 今日は、群馬のH氏に誘われて、群馬県大泉町のサンバカーニバルに行ってくる。

 (20119月9日・金)

 二日続けてのテニス。本のちょっとである。ラケットが5本あるうちの3本のカットが切れているので、張らなければ危ない。もうまともなのは一本と、もう一本は切れる寸前である。

 ガットは張り機があるので自分で張る。大学時代は、手張りで張っていた。お金がなかったから、そうしたのであるが、皆お金持ちだったんだろうな、私から習って張り方を憶えようともしなかった。だから、それ以来お店で張ってもらったことはない。店で張ると3500円から4000円くらいかかるのだろう。その中にガット代が1200円くらいかな、もっと高いガットもある。

 だいたい、一張り40分くらいかかる。学生は、張る時間を競ったりしているから、20分で張る奴もいるらしい。私はのんびりである。しかし、3本となると時間が惜しくなるほどの時間がかかる。

 さて、今から三好清海の切り絵を切り始める。

 (20119月8日・木)

 テニスをした。本の1時間ほどである。ご老体たちは、私が来ない間、無事にテニスをして夏を越したようだ。元気だ。私のテニスは、不調が続いていたが、何とか復調の兆しだが、まだまだ、全然という感じ。

 (20119月7日・水)

 だいたい、文庫本の作品原画はA4の一回り小さい大きさである。原寸だと切り絵では細かくなりすぎるということがある。切り絵は細かいというが、小さい絵を描くには、筆やペンには負ける。それはさておき、私の作品(以後、頼まれ仕事でない作品を指す)は、その通常より大きい。だから、描くのに立てて描くほうが楽なのである。

 イーゼルに立ててやる方法もあるだろう。それでも、大きすぎてやりずらい。大きなイーゼルがあればいいが。それで、初めて窓に作品を張り付けてやってみた。私の下絵は,トレペでやっているから、光で明るく透けて見やすい。これから大きい絵の下絵は、これでやってみようか。

 今日は何をしていいかわからない感じである。目先の締め切りがないから、こんなことになるんだろう。遠くを見れば、連載表紙や毎年やっているカレンダーの仕事もそろそろ入らなければならない。

 アニメーションのソフトをインストールしているが、頭がどうにかなりそうだ。何という感覚なんだろうな。パソコンでしかこういう状態にならない感覚だと思うな。長い旅になると思う。

 さて、そうだ次の公募展のことも考えるか。漫画に応募かな。

(20119月6日・火)

 昨日ふと思った。「俺のやりたいことはなんなんだろう」とやりたいことがたくさんあると前は考えたが、実は今でもたくさんある。だが、ずっとやってきた切り絵はやりたいことだったんだろうかと考えると、やりたかったことだったが、ほかにやりたいなあと思うことが頭に浮かばなかった。切り絵が一番だと思っていた。

 今でも、油絵とか水彩とか彫刻とか版画とか、やりたいと思わない。やりたいと思ったのは与勇樹さんのような人形である。

 そして、漫画を描きたいことは前から思っていたことである。その延長線上にアニメーションもある。しかし、もう残りの時間がない、という以上に、一日が速すぎる。これじゃあ何もしないで一日が終わるような気がするほどだ。一生懸命動いていると思っていても、自分はスローモーションで動いていたりして。

 これから、何かのコンテストに合わせていろいろなものを作っていきたいと思う。そして、その中で新しいものが切り絵以上に見つかったら、それに身を結撫でたいと思う。私は、本当にラッキーに、切り絵に出合い、30年間も食べられてきた男であるが、切り絵は大好きだが、「食べるために切り絵をしていた」という動機も一方にある。

 人に話すのである。みんな絵で食っていけないから、絵をやめるが、私は食べていくために絵を始めたと。その手段の切り絵が、たまたま極上に好きな素材だったということだ。

 しかし、それ以上の試行錯誤はしてこなかった。この年になって、自分の可能性を探ろうとしているのである。

 そういえば、私が切り絵作家になったら一番のライバルだと思っていた人がいる。東大の昔のポスター「とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている」という氏が入ったポスターだった。新聞に大きく話題として載っていた。しかし、それが切り絵だったと知ったのはかなり後だったが、その作者は、今作家として活躍している橋本治である。

 彼は東大を卒業してから、しばらくは切り絵のイラストレーターをしていたが、桃尻娘という小説で賞を取り、イラストレーターをやめ作家になった。すごい、アクションである。

 こんな橋本さんのような活動を他にしてこなかった私である。これから、少しやってみようと思うのである。

(20119月5日・月)

 60歳にしていろいろ考える。HPを眺めていたら、いろいろな公募の一覧が載せてあるところにぶっつかった。こういうのにチャレンジしてみても面白い人生になりそうだと思った。ただし、本来審査される側でなく、審査する方に回らなけれbはいけない立場なのだと思うが。

 私が審査する立場に立てるのは、いの一番に切り絵業界だろう。しかし、業界に賞はない。

 これから、絵本の公募、漫画、アニメーションにも応募していこうか。老後の楽しみというのには、まだとんでもなく早すぎると思うが、それで、新たなチャレンジで気持ちが新鮮になれる気がする。

(20119月4日・日)

 一つ趣味ができた。私の趣味はなんですかと質問されたら、テニスとしか答えられない。あと何があるんだろうと思う。何となく自分が意識しない趣味がありそうだが。

 その一つ趣味が加わろうとしているものは、アニメーションを作ることだ。これは仕事に直結しているものだから、趣味なのではないのだろうが、趣味のように夢中になって作るというようになったらいいなあという希望を込めての話である。

 私は絵描きであるが、もともと絵をかく趣味があったのではなく、ロマンがないが、仕事として始めたことである。今、絵を描くのに夢中というような状態なのかもしれないが、もし、お金を稼がないで絵をやった時に夢中になってできるだろうかと思うと、どうなんだかわからない。

 しかし、私がもっと早く、中学とかから絵を始めていて、どこか芸術にかぶれていなかったとしたら、漫画家になっただろうと思う。だから、今でも漫画家になりたいと思うことがある。そして今からでもおそっくないと思う。

 しかし、その前に、漫画を飛び越えてアニメーションをやろうとしているのである。さて、どれほど夢中になるのやら。

(20119月3日・土)

 英会話教室が閉講という事になり、別の組織を捜したらあったので、そちらに午前中に行ってきた。そのことを忘れて、小川町に出発し、思い出して、あまりまだ遠くへ行ってなかったので戻ってきて、会場の川越駅ビルの喫茶店に入った。

 若者ばかりだった。これまで私が一番年下だったが、今度は私が一番年上だった。ほとんど全員が私より英語の上級者で、私も、英語で話をしたが、頭が着いていかず途中から日本語が多くなった。申し訳ない。

 しかし、前の教室に比べたら、雲泥の差の凄い集まりである。こちらの方が数倍私にとってはいい場所である。これから英会話の勉強がはかどることだろう。 

 (20119月2日・金)

 紙わざ大賞というのがある。私はアマチュア時代に、一度だけ公募展に応募したことがあるが、落選している。その他同じくアマチュア時代だが、学研のボンという雑誌に投稿して、大賞は逃したが、2位だったりが3回ほどあり、賞金が5000円くらい出て生活の足しになったりしていた。

 その紙わざ大賞というのに応募しているのである。これまで、そういう誘いの手紙というのもなかったが、今年初めてその手紙が届いたので、応募してみた。私のHPの上にある「つわもの達 邪鬼」を出したのである。

 その、結果発表が今月の7日なのである。だから、それ以降に通知が来るのである。審査員は日比野克彦と福田美蘭。両方とも年下である。福田美蘭さんは、名前を聞いたことがあるが、何をしている人が知らなかった。私は他の美術家の人を研究とか知るとかというようなことをしないタイプなのだ。

 あちらは私のことを知っているかもしれないが、知らないかもしれない。

 わたしは大賞をとっても、とらなくてもおかしくないと思う。私はシンプルさと人物画のデッサンの迫力で勝負の絵で、そちらの魅力を感じてくれたら、いいところに行くだろうし、アマチュアでも、凝りに凝っててんこ盛りの作品を作ってきて、それが魅力の作品もある。とにかく、分からない。

 外部の人が、仕事で応募作品を見ての感想が漏れてきたが、なかなか見ごたえのある作品ぞろいなのだそうだ。

 さもあるだろう。昔に比べれば公募なんてのが少ないだろうから、ごそっと応募してくるだろう。

 切り絵の世界には、賞というのがない。内輪の会派の賞はあるだろう。私も日本文芸家クラブの美術大賞をいただいている。しかし、公募展というのは、現在もない。

 だから、賞を重んじる日本の風土では、私はハンディがあった。得に山梨県の人なんかは、私に受賞の実績がないことで評価していない人もいるだろう。

 私の賞は、いろいろな連載をいただいたことが賞をもらったのと同等だと解釈してもらわないとかなわない。それにしても、今回の大賞が転がり込んだら、素朴に嬉しい。3位くらいまでだったら、喜びたいと思っている。

 それから、アニメーションのソフトを買った。学校に行かずに、何とか研究をしながらアニメーションをしようというのだ。

 今後、展覧会とかで、毎年新作を披露出来たらいいなあと思っている。簡単なものからね。

 (20119月1日・木)

 パーマをかけた。学生のころに流行っていたが、お金がなくてしなかった。もちろん社会人になっても貧乏は続いたから、かけたいとも思わなかった。去年からの行き付けの美容院で進められたんでやってみた。私の夢だったパーマである。なかなか気に入ってはいるが「すかしている」と見られないかなと心配である。でも、あまり気にせず。

 久々に展覧会に行ってみようと思う。私のところに大森暁生さんという、器用な絵描きさんがいていろいろな作品を作って評判らしい。私の展覧会に一度おいでいただいたが、私のほうから入ったことがない。その方が、大分前だがテレビに出てきて、何かの説明をしていた。その方の個展がある。それに友人の個展も重なっているから行ってみたいと思うのである。

 展覧会のほうは、昨年と比べればかなり入っている。何たって、昨年は暑くて人が出歩いていなかった。

 最近は自分に自分でプレッシャーをかけていることが多くて、昔に比べると緊張していて、滑らかないしゃべれないことが多い。百鬼丸さんおとなしくなったなあと思われる方もいるだろうが、自意識過剰が災いしているのである。自分の理想の状態を知っているから、こんな症状になるのだ。気にしなければいいのだが。所詮人間である、毎日毎日同じ状態が続かない。

 不思議なもので、大きな舞台でうまくいくと、これのマイナー感覚がぽろっと取れるのである。

 また、復活していくだろうが、それまでのんびり待とうと思うのである。

 そういえば、来年の展覧会が決まってきた。今やっている埼玉伝統工芸会館は10月、8月が米国コロラドスプリングス、6月がまだ未定だが銀座伊東屋、日にちは未定だが河口湖のギャラリークルール、やるかも未定だが、「ういろう屋さん」のプロデュースの展覧会も小田原で。それから、今回の真田十勇士展を長野どこかでやる、これは柳沢京子さんにお願いしている。地元・鶴ヶ島のギャラリー「ううふ」でも。現時点で7つある。それに自らのプデュースの常設ギャラリーの岡田畳店での個展が二度入れる。

 もしかしたら、鶴ヶ島の竜神祭りの期間に、鶴ヶ島図書館から展覧会の依頼があるかもしれない。やりたかった原宿での展覧会は、どこかで入れたいと思うが。まあ、来年も展覧会だらけである。どうなるか。

 この展覧会の中で、いいなあと思うのは小田原付近での展覧会である。私は、横浜を含めて、以西で個展をしていなかったからである。

 ただ、埼玉県の中で大宮・浦和地区でまだ個展をしたことがない。これは早急に実現したほうがいいのだろう。

(20118月31日・水)

 今日は、小川町の埼玉伝統工芸会館には電車で行く。先日の花火を見た宴会で、おいていったのだった。

 やっと猿飛佐助が終わった。これで真田十勇士の二点が終わり、次は締め切りが延びている双葉文庫と、月刊小説誌のジョイノベルスである。3点目の真田十勇士は、由利鎌之助である。

 猿飛佐助と「くの一」の霧隠れ才蔵は手ぬぐいと、Tシャツにしたいと思っている。ただ、才蔵のTシャツは恥ずかしいから着られないのかもしれない。手拭だけにしておこうか。後のメンバーは、一つの手ぬぐい、一つのTシャツに入れようと思う。

 カレンダーも、猿飛佐助だけだと持たないと思うんで、全員載せたものにしたいと思う。それにしても、作る人間だから、グッズを作ろうと思えばいくらでも作れる。だから、作れるのだが、どれをTシャツにするか迷ってしまう。

 会館に行く前に、印刷会社の打ち合わせである。

 今年も、東京工芸社という印刷会社のカレンダーをする季節になった。今年は本体は木でやってみようと思う。それに切り絵を融合するやり方だ。新しい方法で私にとっても楽しみである。

 (20118月30日・火)野田さん

 とうとう30日。あと一日で8月が終わる。今日は秋に様な天気である。爽快で、素晴らしい天気だ。

 車で埼玉伝統工芸会館に来たが、道にはユリが咲いていたり、彼岸花の白い花だろうか、それが咲いていた。これから、赤い彼岸花が出てくるんだろうと思う。今年の夏はこれから台風が来るが、何とか無事過ごすことができたと胸をなでおろす。

 そういえば、新しい首相が決まった。野田さんのスピーチはほかの誰よりも良かった気がした。馬渕さんもよかったようだけど、半分しか聞けなかった。改めてスピーチの大切さを感じた。小沢さんもスピーチがもっと良ければ、首相になれたのかもしれない。

 野田さんが当選したのは、「あの候補が、みんなで結束していれたから」というが、あのスピーチで票を入れた人もいたのだと思う。

 今は、お金で結束することができない時代だから、人望で人をひきつけなければならないし、小泉さんのように国民の後ろ盾がないと政権は長続きしないと思う。そういう意味では、野田さんのスピーチの魅力は可能性を感じるのである。ただし、長続きするという可能性である。

 それにしても、首相は自分で選びたいですよ。

 (20118月29日・月)花火

 久々に花火を見た。打ち上げ花火である。埼玉伝統工芸会館のS女史の自宅が東松山市にあり、その近くの川で花火を打ち上げるのが恒例になっていて、打ち上げるのである。

 見たこともない花火があって、長いこと見ていなかったんだなあと思った。だいたいが、花火の印象は富士五湖の山中湖と河口湖の花火の印象があり、それは湖畔を立ってか座ってか、いずれにせよ凄い人ごみの中で見る印象だった。

 昨日は、その花火の印象とは違い、土手の道路にテーブルと椅子を持ち込んで、惣菜を買って、ビールを飲みながら見るという私にとって初めての花火見物だった。友人の服部氏も一緒だった。

 しかし、ビールがうまかった。むしゃむしゃ食った。印象に残る花火だった。しかし、飲みすぎたのか、体が戻ったのは午後だった。

(20118月28日・日)しばらくの日記だから長く

 しばらく日記を書いてないが、忙しいからだが、その内容は、確かに文庫本の仕事があったりであるが、現在やっている展覧会のタイトル「真田十勇士」のその絵が、霧隠れ才蔵しか終わっておらず、慌てているのである。困ったものだ。ということで、今日猿飛佐助が終わる。

 25日は、展覧会を終え、富士吉田に帰ったが、20歳のころに頻繁に会っていた高校の仲間三人と会って、酒を飲んだ。実に40年ぶりである。一人は私が厄介になったバルセロナに住む女性である。彼女は、実家のホテルのまかないを済ませて、8:00に来た。それからが、あっという間の5時間であった。日本酒を控えていた私は、何とかその時間までもった。

 男のほうも、私と二人で会った時にはしゃべらなかった苦労を語った。離婚しているが、その時の話をしてくれた。何故か、この男は求心力があって、ある種の人間が寄ってくるところがある。今でもそのようである。不思議な才能である。当然女性にもてるから、苦労は女性問題であるということもある。仕事のほうは、人形劇団で長い間やっていて、退団してから仕事を転々としている。現在は、ちょっとした親子ほども差がある女性と再婚したが、死別。高校生の男の子供2人を、頑張って朝飯晩飯を食べさせて暮らしている。苦労話をしないが、精神的にはつらいところもあるだろう。

 次の日は、6時に起き私は仕事をした。火祭の日である。しかし、私はうっかりしていた。火祭は、喪中時は参加してはいけないのである。まだ、母の死から一年がたたず夕方の5時には、もう鶴ヶ島へと帰った。

 その間、今団体展「富士山」展をしている、河口湖のギャラリー「クルール」に行った。有難いことに、そこに置いてある、蟻の富士登山のTシャツが、私がいる間に6枚が売れた。そして、来年の私の制作テーマ「富士山」の郷里の開催が「クルール」に決まったのである。

 それから、今回の富士吉田行きの、一番の目的である、アメリカ・コロラドから、富士吉田に当地の人が来ていて、私の個展の開催の検討ということで、彼らに作品を見せるということがあった。女性3人と、富士吉田に駐在しているロビンに会った。作品を見せたら、その場で個展開催が決まった。

 いろいろ作品はあるだろうが、富士山の作品を持っていくというのもタイムリーである。なぜそんな話になったかというと、コロラドでも昨年のジャクソンホールと同様に、来年火祭りをするのだそうで、そのアシスタントとして富士吉田のメンバーがコロラドに行くのである。コロラドは姉妹都市なのである。

 私も、そのメンバーに今年から入っていて、もちろんビジュアルを担当することになるのだろう。鉢巻ほか、Tシャツを制作するのだろう。

 とにかく、来年の今頃はコロラドで個展である。バルセロナに次いでの海外での個展になる。彼らと会う前に会う約束をした富士山駅の近くにある、昨日飲んだ女性の実家に行った。そしたら、彼女ともう一人の男は、富士山一周のドライブをしてきて今帰ってきたというのである。ちゃっかりいい調子である。仕事で早く帰るといっていたが。来年は、仲間の武藤K君も呼んでみたい。

 毎年のことだが、田圃を見るともう、稲穂が垂れ下がっている。この間田植えをしたばかりなのに。春が好きであるが、花粉症になってからは秋のほうが好きなのかもしれない。でも秋は日がだんだん短くなって、さみしい感じがする。そして冬は身を縮めて春を待つ。考えてみれば、春を待つその気持ちがいいのかもしれないから、冬もまたそれなりの楽しみがあるのかもしれない。

 やっとスランプら脱したテニスも、雨でなかなかできない。展覧会で、ジムにも行けない。昨日はライブを初めてしたが、有難いことに売れた。今回の展覧会は七回目であるから、それなりに、買うつもりで来る方も多いはずだ。

 今日も私は、真田十勇士の制作で大忙し、展覧会のライブが解禁になるのは、展覧会のかなり後半になるのだろう。

 そういえば、作品が売れた。だが、その方が絵を物色している中に、「ういろう物語」という小説本のカバー作品があった。それで、旧知のその作家に、売れてしまうかもしれないよと電話をしたら、あとから小田原の「ういろう」さんから電話が来た。なんと、それを確保したいのだそうである。ついでに、そちら方面で展覧会をしたことがないので、やれたらうれしいと話をしたら、そちらも何とかしてくれそうな空気だったのもうれしい。

 まだまだ、ちょっとしたことでいろいろ話が展開することがあるのだろうなと人生勉強をした思いだった。

 さて、今日は本当は双葉文庫締切の日である。こちらも焦る。

(20118月22日・月)才能

 とうとう飾り付けの日が来た。今回も、全然展覧会の準備ができていない。申し訳なく思うが、せめて毎日行って、あちらで作業をしようと思う。

 ところで、私が各々の人に固有な才能があると思ったのが、20歳のころだったと思う。それまでは、人には平等な才能があり、努力次第で何とでもなると思っていた。「なせばなる・・・」である。

 そう決定的に、思わせてくれたのが、マラソンの宗兄弟と歌手の岩崎姉妹だった。同じ才能が親から受け継がれたからだと思った。

 しかし、才能もないのにひたすら絵を描き続ける人を知っている。知識と根性はあると思うが、いつまでたっても下手くそなのだ。才能のない人というのは自分の才能にも気づかないということなのだろう。

 そういえば、昔テレビで、音楽の寺内たけしとジミー時田が才能の話をして「才能がない」と弟子のことを言ったら、寺内たけしが「私は才能がないが、努力でここまで来た」と憤慨していた。ジミー時田は、面食らった顔をしていたが、この二つの考えは、一般には存在することだと思う。

 私は、自分の才能は自分で見極めてと人にいうことにしているが、それも酷なことなのかもしれない。

 頭の絵の才能をつかさどる部位の血管が太くて、酸素や栄養が特別行き届いているので、才能があるんだと思っている。いわゆる血の巡りがいいというやつである。そういう体の物理的な要因で、才能のあるなしが決まってくのだと思う。

 だから、同じ才能が人には平等にあるのではなく、違う才能が人に平等にあるのだろうと思う。だから、その血管が太い場所がどこなのか探す努力も大切なのだろう。ただ、その才能で「飯が食えるか」いうことになると、平等ではない。「足が速い」というだけでは、オリンピック選手並みの才能が「飯が食える」ためには必要だろう。

(20118月21日・日)

 昨日は涼しかったが、今日も涼しいようだ。ありがたい。去年はひどかった。8月もあっという間に過ぎる。それから、昨日は久々にテニスをした。これだけテニスをしない期間があるのは6年間のテニスの再開以来初めてではないだろうか。

 きっかけは「不調」なのである。この不調はなぜか、しない間に考えていたが、その甲斐あって不調から立ち直った感じがした。これからはもうちょっとましな感じになるだろう。天気もテニスシーズンだし。またまた忙しくなる。

(20118月20日・土)

 埼玉伝統工芸会館の展覧会の作品の第一陣を搬入した。明日は第二陣の車への積み込みである。明日はだれも手伝ってくれる人がいない。

 明後日の朝9時半が搬入時間である。そして、明後日が文庫本締め切りの日である。さらに、28日も文庫本締め切りの日である。

 近頃の文庫作品は、女性を描くことが多い。元々あまり描く機会が少なかったのであるが、できるだけ描いてみようと思って描いていた。今はなかなかいい作品ができているようで、自分でも満足している。

(20118月19日・金)羽の生えたお金

 今日は、22日の展覧会の飾りつけを前に、第一陣の作品の搬入に行きたいと思っている。

 昨日で暑さがピークらしいから、今日から涼しくなっていくのだろう。冬に向かうのはさみしいが、涼しくなってありがたい。

 そういえば、昨日は支払いをたくさんした。額屋さん、印刷屋さん、それからデザインのオペレーションをしてもらっている田口さんにである。

 昔も、本のデザインをしてくれと言われてやったことがある。しかし、その設計図のお約束事みたいなのがあって、なかなか大変だった。今はパソコンがあるので、田口さんにデザインのソフトを操ってもらって、私がああしてこうしてと指示してデザインをしている。

 あと、カメラマンの撮影代とTシャツの制作費の振込がある。羽が生えていくように、お金が飛んでいく。羽が生えたお金が、こちらにたくさん舞い込んでくることを期待したい。

 そういえば、このカメラマンの中山さん、実は世界で活躍しているとても有名なカメラマンなのである。30年前に撮った写真が今認められ、世界のギャラリーを写真が独り歩きしているという状態なのである。日本では知られていない。専門誌には載っている。カメラマン吉行耕平という名で検索してみるといい。その活躍ぶりがうかがえる

(20118月18日・木)怒涛の忙しさ

 今月は、あと文庫が2冊入っている。展覧会の準備もしなければならないし、26日は、山梨県の富士吉田の祭りに行かなければならない。

 富士吉田市に行くのは、来年その富士吉田の火祭りが姉妹都市のコロラドで行われるが、そのプレイベントとして私の個展が催されるかもしれないのだが、26日前後に、そのコロラド州から、何人かの人がやってくることになっているのだ。

 私はコロラドで火祭りをする会というのに入っていて、2か月に一度その集まりに行くはずであったが、なかなか行けず、わからないこともあるのだが、その会の人たちは、一生懸命である。コロラドからくる彼らのホームステイからもてなしまで、彼らが引き受けている。

 切り絵作品の荷物を、今後のこともあるので、どこかの国際交流基金で賄いたいのだが、まだこちらは未経験でよくわからない。何とか実現させたい。

 それから、私が、昨年スペインに行ったときに厄介になった、高校時代のクラスメートが夏休みを一ヵ月間とって日本に帰ってきている。彼女ともう一人の男の仲間三人は、東京の男のアパートで大学一年時、毎週集まって飲んだくれたとても濃い仲なのである。

 その男の友達が、ちょっと受験があったりと青春のちょっとした挫折からくる変化で、我々3人は2年後にはもう会わなくなってしまったが、彼女にしても私にしても、若い時代の強烈な付き合いの思い出を持っている。20歳のあれから、もう3人で会うこともなくなってしまった。彼女も2度の離婚をしている。両方とも一方的に男が悪かった。

 最初の男は私の親友だった。私がその付き合いに手を貸したわけではないが、女を作り、借金を作り、どんどん転がっていった。もちろん離婚したのだが、やくざに追われ、今はやくざの手先になってお金の取立て役をしているという噂である。指も詰められて減っているという。ありそうな話だ。

 もう一人は、これは私が結びつけたのであるが、悪いことをしてしまったと思っているっている。彼とスペインへ渡って、その地で別れ、一銭も渡されずに放り出された彼女は気丈にも、小さな日本料理屋を立ち上げ、立派な店になっている。私がいなければ、スペインには行かなかったのである。

 スペインに行って、店で立居ふるまう彼女を見て、彼女の才能を感じた。これほど、笑い顔がいい人も珍しいと思うのである。彼女はどこででも生きていけると思う。久々に、その三人が富士吉田で会うことになった。

 男も、一度の離婚と死別を経験して、奥さんはいないが二人の高校生を養っている。しかし、元々の脳天気な才能が戻り、苦労を感じさせないところがあって愉快である。

 蛇足だが、彼は受験の時、それ用の絵を勉強していて私によく絵を見せてくれた。「お前はいいなあ、才能があって」なんて私は言っていたものだ。そのくらい私は絵からは遠かった。だから、彼は私が切り絵を始めて、プロになったことを驚いていただろうし、初めて私の個展に来たときは、びっくりした顔をしていた。私も、自分にそんな絵の才能があったのかと驚いたものだったから、ほかの人はもっと驚いたことだろう。

(20118月17日・水)展覧会は

 パソコンに入っている住所録を印刷するとなると、いつもトラブルを起こす。操作を今回二回したらしく、同じものを二回印刷して出てきたのである。考えてみたら、その境を探し出してあとは捨てるという手筈を取ればよかったのかもしれないが、重複カードが500枚もあったものだから、そちらの作業もあり、どうのこうのしていたら、その作業を終えたら、保存しないで元の木阿弥と消えたりして、とにかく、大変な手間がかかって送った。

 しかし、展覧会をやっているが、ぜひとも、埼玉を出て横浜あたりか関西でもやってみたい。いずれにせよ、埼玉の私の付近では二か所。あと大宮方面で一か所。東京で一か所。横浜で一か所という風にしたい。

 またそのほかに、外国でやろうというんだから、大変なスケジュールになる。

 相変わらずの忙しさになるが、アトリエの整理もして、荷物もスリムにしていかなければいけないなあと思う

(20118月16日・火)新しいシリーズ

 展覧会が間近というのに、まだ作品が一つも上がっていない。他の仕事があって、なかなかできないこともあるが。

 それにまだ、展覧会の葉書も出していない。今日ラベルと作って、貼り付けなければ。2000枚くらい出してみたいものだが、その経験がない。いつも1000枚程度だったかもしれない。

 東京あたりをどのようにするかだが、出さなくてもいいかなあ。そしたら、また1000枚程度になる。

 今年は埼玉伝統工芸会館はどうなんだろうか。去年の今頃は私は、会館で展覧会をしていたが、無残な客の入りだった。暑さのせいだが、今年はどうなんだろう。それから震災があり、影響もあるだろう。私の展覧会はこの伝統行程会館が中心で回っている。

 ここで作ったものを、東京で展示するとかすることになる。たくさんのお客さんが来てくれればいいが。

 ライブは、今回は少し大きめの絵にして、新しいシリーズを立ち上げたいと思う。

 そういえば、そのうちに「おろち」という展覧会をしたいと思っている。市川雷蔵の「おろち」という映画があったが、あれが題材である。それをライブで作っていくというのもいいのかもしれない。

(20118月14日・日)冨士

 90ccのスーパーカブで富士吉田に行ってきた。母の初盆である。全然法要のしきたりとか私にはわからない。いつもの格好でいいからと兄に言われ、短パンでいったが、本堂で焼香してこいと兄にいわれて入った本堂に、檀家さんがたくさん受付の役でいらっしゃって、私の服装を見て、途惑った方がたくさんいたようだ。私も途惑った。

 前は、私は土日に移動することがなかった。故郷の富士吉田が観光地近くということで、車で行った場合渋滞に巻き込まれるからだ。だから、兄弟3人が集まることがこれまで少なかった。これから、姉が実家に行くときは無理してでも出かけようと思う。

 そういえば、文芸評論家の尾崎秀樹さんに「富士」の「富」の上が点になったのは明治になってからだと教えてもらったことがある。「富士山に頂がないとおかしいから」とかの理由だったと思う。だから、それ以前は「冨士」なのである。

 昨日の昼ごはんは、寿司屋さんでであった。山梨で驚くことは寿司屋さんが多いことだ。日本で一番マグロの消費量が多いのは山梨だそうだ。山梨は何かというと、もてなしに寿司が出てくる。海がないから、寿司というのが最高のもてなしなのだという。

 先日長野に行った時も柳沢さんが連れて行ってくれたのは、海のものが自慢の店だったが、店だったが、柳沢さんが「ここは新鮮な海のものがたくさんあるから」とおっしゃっていたが、長野もそうなのだろう。

 去年の今頃は、母親は病院に入っていて、早く家に帰りたいといって嘆いていた。うまくもない病院のご飯を、元気にならなきゃあと、一生懸命食べていた。しかし、日ごとに痩せ衰えてきて、生きるために必要な筋力が亡くなり、そのまま「コト」っと逝ってしまった。

 実家の家に行くにつけ、両親が一生懸命働いて、節約をし建てた家なんだろうなと感心させられる。それに、子供を3人も大学にやって。脳天気だった。

 でも、親父とお袋も思い残すことはそれほどなかったろう。

 兄も、会社で重要視されているようで誇らし気であり、カメラの腕も達者で、家の問題もあるようだが、さばさばして思い残すことはない、いつ死んでもいいよと言っている。

 私には死んでも死にきれないというようなことはないが、やりたいことは贅沢だよと言われそうな範囲で、まだある。欲を言わなければ、思い残すことはない。

 今回行も帰りも、アイパッドのGPS機能を利用した。それを利用すると国道16号線で行って、高尾から陣馬山を通って行ったほうが近いようなのでそのルートで行った。前にバイクで一度、車で一度通ったことがあった。しかし、道が細くて対向車が来ると、急坂ではとても危険に感じたので、ここはもうやめようと思いながら通過した。

 帰りは、道志道を通って行った。途中で雨がすごかったので、合羽を着てゆっくり行った。沢山のバイクとすれ違ったが、皆さん合羽を着てなくてずぶぬれで運転していた。こういうライダーは意外に持って乗ってないんだと思った。

 山中湖に向かう車は、高速が混んでいるらしく、かなりの数だった。途中で軽乗用車とワンボックスカーがぶつかった直後に出くわした。運転手が車から出てきたところだったからだ。どちらが悪いのかその車の位置関係だけではわからないが、軽乗用車は初心者マークだった。

 道志から、相模湖の南を通って高尾に出て、北上するのだが、途中に八王子城跡という看板があったので、行ってみた。八王子という名前は、この城からきているという。その城の名も、城がある山に頂に八王子寺?だったかがあるのでつけた名だという。

 400年前に、秀吉軍が攻めてきて、北条氏照軍が敗戦したまま、その後何ににも使われてこなかったため、そのまま土砂に埋もれて、年月がたったため、石垣階段等がよく保存されているという。名前の由来の城であるから、八王子市もお金をかけて40年前から発掘し始めたらしい。

 それにしても、私の住む埼玉で、北条氏と秀吉軍の戦いの旧跡があるが、関東いちえんに、沢山ある。

 鶴ヶ島に4時間半の長い運転であった。ただし、ガソリン代は600円程度である。私の気にするエコにはピッタリなのだが。

(20118月11日・金)急遽富士吉田

 あにきから連絡があり、明日姉が富士吉田に来るというので、お前が来れば兄弟三人がそろうから来いとのことで今から行ってくる。
 オールは無事終わった。このつぎはかいいんしだ。すでに取りかかったが、明朝下絵を完成させたい。明日の夕方帰ってくる。

(20118月10日・木)オール読物製作中

 さっぱり仕事をしなくなった月刊小説誌。その中で、唯二つやっている中の一つが、オール読物である。犬飼六岐さんという作家のなのだが、とても挿絵が書きやすい人なのである。本の表紙も何作かやっている。

 もったいないことに、私の常設ギャラリーの岡田畳店にお忍びでおいでいただいたこともある。小説は変幻自在。直木賞候補にもなっているが、いずれとってほしい。私は直木賞・芥川賞の推薦票を持っているが、今年は彼に投票した。

 そのオールの挿絵を依頼してきたのは作家本人なのだと思う。いずれどこかでお会いする日が来るだろう。さしあたり、19日の直木賞パーティ。久々に行ってみようと思う。出席と書いてなかなかいかないのだ。

 さて、今日はそのオールの締め切りの日。存在感のある切り絵を描きたい。

 ツイッターを始めたが、これは中毒を起こしそうである。仕事にももちろん有利に使える。

(20118月9日・火)しばらくです

 結局、切り絵作家の「にい」さんも欠席となり、皆さん申し訳ありませんが、故筑紫哲也さんのご令嬢・切り絵作家の筑紫ゆうなさんと切り絵の森経由長野・柳沢京子邸という行程を二人で行くことになりました。

 まず、八王子駅で彼女を乗せ、私が今団体展をしている、河口湖のギャラリークルールに用事があるので、富士吉田に。その前に、「吉田のうどん」を食べてもらおうと、一番人気の「美也樹」へ、何と長蛇の列でキャンセル。ギャラリー近くの「彩花」に行くとここも長蛇の列。それで、クルールに先に行くことにした。

 クルールのオーナーは、筑紫さんが名刺を差し出すと筑紫さんのことを知っていた。研究熱心である。筑紫さんは私の「蟻の富士登山」が一番刺激的な絵だと評してくれた。

 その後、彩花に吉田のうどんを食べに行き、切り絵の森に向かった。ニューヨークに15年も住んでいて、故郷のような感じで時々行くのだそうで、もちろん日常会話はぺらぺらということで、英会話の特訓のために、英語でしゃべりあう時間も設けた。結構大丈夫というお墨付きを頂いた。

 切り絵の森で、蒼山日菜さんの切り絵を見て、もう時間がおしているので、一路長野へ。途中私が仕入れているTシャツ制作会社によった。

 長野市は「びんず様」という祭りなのだが、到着したのが8時だった。それでも、びんず様を少しは見られた。

 その後、料理屋さんで柳沢京子さんと3人で、私だけ飲んで話をした。話をしていると、その交際の広さに驚かされる。柳沢さんは切り絵作家ではあるが、長野県全体の文化人であり、いろいろな方面での活躍している方なのである。そのことに関しては、「柳沢京子」で検索してもらえば沢山の事象が出てくるのでわかっていただける。

 私にとって、柳沢さんに会う理由がある。実は、埼玉伝統工芸会館での「真田十勇士展」を、真田の本拠地「上田」での個展の開催のプロデュースを頼むということがあるのである。

 柳沢さんは、話の中で3人でフランスで展覧会をしようとおっしゃって、実現が出来そうなのが嬉しい。

 柳沢京子さんと話していると、何故か阿川佐和子さんを連想する。話し方は違うが、たたずまいはよく似ている。ホテルに着いたのは、11時を回っていた。私はあまり酒を飲まなかった。食べ物もあまり食べられなかった。

 朝は、光文社の仕事をして、一人でちょっと散歩をした。長野市はさびれていなかった。甲府の寂れ方を見ると長野は、とてもリッチな県なんだと認識した。ホテルも、信州・善光寺の近くであったので、筑紫さんと善光寺参りをした。初めての筑紫さんは善光寺の規模の大きさに驚いていたが、久々に見た善光寺は私としても大きく見えた。

 その後、柳沢さんのアトリエの展示場を見た。作品はシンプル。もうこれ以上削ぎようがないというくらいのシンプルさに心血を注いでいる作品である。

 いろいろ話すことが多く、あっという間に時間が過ぎた。昼は、お蕎麦をごちそうしていただき、本当にお世話になりました。柳沢さんには、もう本当に感謝感謝であります。ぜひ、読者の皆さんが長野市にお出でのせつは、柳沢京子さんのギャラリーにお立ち寄りください。

 帰途は、中央高速が勝沼あたりから、事故渋滞が二つあるということで、富士吉田、秋山村を通って上野原に出て、高速に乗るというコースを取った。筑紫さんを八王子駅で降ろし、鶴ヶ島に帰ったのは、夜9時だった。。長野から6・7時間かかったことになる。

 さあ、今から仕事。

(20118月6日・土)

 東松山の街カフェに展示されている作品を、アシスタントが取りに行ったら、たった一人張り切って、正義感を一身に振りかざして、客にもほかの従業員にも困った人っと思われているだろう「おばちゃん」に、「とっとと持って帰れ」扱いをされたらしい。

 こういうおばちゃんに、何か天が制裁を加えてほしいが、きっと人望がない、あるいは何かの欠陥で幸せは訪れないだろう、と思うしかない。いずれ、街カフェは終わる。今日は、山梨経由長野である。

 そういえば、東洋大学のテニス部の一期下の後輩から、旅行をしないかと誘われている。この一つ下の後輩たちは、仲が良く、毎年どこかに旅行に行っている。それに比べると、われわれの代はそういう気はない。集めようという気がある人がいないのだが、せいぜい私だろう。いや、卒業以来、西松建設の出先の香港、台湾で働いている植竹が、定年で帰ってくればその任に当たるだろう。

 9月18日19日がその旅行の日だ。昨年誘われて、おふくろの状態が悪い時で、行くことができなかった。今年は展覧会であるが、休んで行ってみようと思う。

 今月末には、恒例の埼玉伝統工芸会館展である。昨年は暑くて人が入らなかった。それでも、私はよかったが、ミニギャラリーの人たちは、収入がなくて大変だっただろう。

 今年は、2か月私は埼玉伝統工芸会館に通うことになる。しかし、伝統工芸という世界が、どんどん消滅していく。要は、伝統工芸は手作りで高いというその一点だけがネックである。もう、金持ちもいなくなった日本では、それを支える人もいない。農業と同じで、兼業でないとあるいは趣味の世界でしか生きられない。

(20118月5日・金)

 何とか、光文社の締め切り作品の原案は出来上がった。今日中に下絵を完成させて、明朝には切り始めて、明日宿泊先の長野のホテルで完成と行きたいものだ。それが終わると、すぐ、会員誌に入りたい。

 明日の長野は切り絵作家の柳沢京子さんに会いに行くのだが、たまたま長野市はお祭りの真っただ中らしい。他の切り絵作家と一緒に行くことになっている。どんなお祭りか楽しみである。来年の長野での「真田十勇士」展の打ち合わせもある。

 そんなことを画策して、真田十勇士の連作を作ることになったわけではない。昨年の「つわものたち」展の次に何をしようかと思えば、八犬伝、三国志が自然と浮かんでくる。いずれそれらはするとして、何を今年はしようと考え、真田十勇士をやってみようと思ったのである。

 すでに手塚プロには知らせておいたが、「どろろ」展、「仏陀」展も考えている。ご期待。

(20118月4日・木)次々とこなす

 月刊ジョイノベルスの締め切り作品が終わった。今月、2つ目のサイドワークの仕事が終わった。メインワークというのは、自分で考えた作品を作ることにした。

 次の締め切りは、光文社文庫の8日締め切りである。10日にはオール読物の仕事が入るようだ。その次は、会員誌の仕事に入る。その次は、幻冬舎文庫である。講談社文庫が入ると聞いていたが、どうしたのやら。

(20118月3日・水)

 私はコンピューターは3台目である。一台目は、シャープのノートパソコンだったが、これがすこぶるフリーズばかりして調子が悪かった。一作業に一度フリーズしていた。だから、シャープさんや、いろいろなところに電話をしてお世話になった。

 このことを一度も書いたことがないが、その電話の相手というのはとても辛抱強い人たちで、教育されているのだと思うが、すこぶる親切だった。その分どこかでストレス解消をしているんじゃないかと思うくらい辛抱がいる仕事だろう。

 まあとにかく出版社の人が来て「百鬼丸さん、そのパソコンは仕事になりませんね」と言われて、初めて私のパソコンが異常だと知ったのだった。何せほかの人のコンピューターがどの程度か比較できずにいたものだから、そういうことになった。

 とにかくひどい目にあった。どうも、筆王の住所録が悪さをしているようで、次のデスクトップでも、筆王のせいでパソコンがうーんうーんとうなるのである。

 今度のノートパソコンはまだそんなことはない。パソコンが進化しているんだろう。

(20118月2日・火)コンテスト参加

 初めて文化庁から、私にコンテストの参加の呼びかけメールが来たが、作品はすべてコンピューターを使った作品ということに限定されていた。これでは手も足も出ない。

 今まで、そういうコンテストに応募したことが一度もない。これから、外国でのコンテストほかにも出品していこうと思う。

 もう一つ、島田市の紙のアートコンテストの誘いがあったが、こちらは参加する予定だが、間に合うかどうか。それが問題だ。

 しかし、今までそういう情報は入ってきたことがないが、誰かが私のことをリストに入力してくれたんだろうな。

(20118月1日・月)寒い夜

 今晩は寒い。

 髪を長くして、髷を結おうと思っている。しかし、今の長さはご飯を食べるときに髪の毛がやたら口に入ってくる。こんな体験は初めてである。それでとてもまずい。髪の毛に味なんてないんだが、食感がよくない。

(20117月31日・日)涼しいが

 昨日、100円ショップで首に巻く冷たいベルトを買ってきた。冷たくて気持ちがいい。ちょっと筋肉が冷たくて硬直して肩が凝りそうだが、しばらくやっていよう。

(20117月30日・土)久々に巌流島

 ここのところ少なかった頼まれ仕事だが、今月は通常道理である。今年の収入はかなり減ることになりそうだ。まあ、こういう年もあってもいい。

 そういえば、前に仕事というと、オリジナル作品を作ることと意識が変わればいいと書いたが、では、依頼された仕事は何かというとアルバイトではかわいそうな気がするが、アルバイトにしようと思う。そのくらいの意識で、自分の作品を作っていきたい、中心に置きたいということだ。

 昨夜は、頭痛になってしまった。つい4時間前は苦しくてのたうち回っていた。ちょっと吐きもした。久しぶりのことである。ついでに体重を測ったら66.9kである。つい二月前は69.9kまで行ったから、3kの減である。

 それはともかく、35歳までは頭痛もちで、3日に一度は頭痛に襲われていた。当時は血圧が低く、上が100行かなかった時代で、医者に「これでは元気が出ませんね」なんて言われていた。当時はよく吐いた。

 さて、仕事仕事。

(20117月29日・金)早や金曜日

 眼鏡の注文をしてきた。遠近両用メガネと老眼鏡だ。老眼鏡は普段の仕事にも使うが、ライブの時にも使う。ちょっと奮発してしまった。

 眼科にも行ったのだが、そのお医者は鶴ヶ島の大きなビルに、沢山の病院が入っているところにある。その中の一つに林原皮膚科があって、その奥さんは元私の弟子であった。だから、今でもお医者には私の絵が飾ってある。眼科はその林原さんと同じフロアーにあって、眼下の女性の先生は私の絵を見たことがあり、カルテに百鬼丸と書いてあるようだ。だから、細かい仕事をなさるんでしょう?なんて言ってくる。

 「もうお歳なんだから、メガネの力を借りてください」とおっしゃっていた。4日には眼鏡が出来上がる。眼鏡が出来上がったら、ちゃんとしたルーペでも探そうか。 

(20117月28日・木)すっきりしたところで

 老眼が進んだ。ちょっと油断した。買ったアイパッドを眠れないからと、暗がりの中でやったのだった。その時、目の筋肉をすごく使った気がしたが、やはり、後遺症として残ったようだ。

 ちょっと靭帯を伸ばした状態になったのだろう。今まで読めた新聞がとうとう読めなくなった。

 対策を取ろうと思う。眼鏡を遠近両用にして、終始かけるようにしようと思う。

 還暦を過ぎ、あちこちぼろが出てきているが、致し方ない。一時、右の足首が何もしていないのに捻挫状態になったがあれは引っ込んだ。一時腰痛からくるひざの痛みもあったが、ぎっくり腰を10年以上しなくなってから、それも直ってきた。

 先日頭をCTスキャンで見てもらったが、先生によると、40歳の時にやった脳梗塞の跡がよく見えるという。跡があるとはどういう症状になるのだろう。影が少しあるということなのだが、私のどこかにその影響はあるのだろうか。それから先生は「ぽつぽつあるなあ」ともいっていた。頭の中に、点のように黒くなっているところがあるということらしい。多分年齢が来ればそれはだれでもあらわれるものらしいから、心配ないということなんだろうが、歳を取ればということだから、私は年寄りなのである。

 自虐的な文章になったが、これでいい。何せ若ぶってばかりだから、いいお灸だ。

(20117月27日・水)どうしているのか

 私が切り絵をする前は、常滑で焼き物をしたり、渋谷東映で働いたり、キャバレーエンパイヤー、お好み焼き屋さん、ホテルのボーイをしていたことがある。しかし、そこで出会った人のほとんどと交流がない。住所も何も知らないのである。今なら、携帯電話を知っていれば、ほとんどその番号を変えることがないが、当時は携帯電話はない。

 そういう人たちが、今どうしているのか、会ってみたいものである。役者志望の人、東大を目指していた人、みんな夢を追いかけて働いていた。

 そういえば、昔あってはいないが、私が切り絵を始めたころに小演劇のポスターをしたが、その演劇に出演していた江良潤さんが、原宿の展覧会に来てくれた。山梨の台が原といういうところのギャラリー金精軒の客としてきて、私がその芳名録で見つけたのだった。江良潤なんてそうそういないからだ。

 江良さんのようなことがない限り、そのころの人と会うことはないだろう。モデルのスカウトマンをしていた吉田さんにもあってみたい。同じ睦配膳会にいた黒沢君にも会いたい。

 百鬼丸なんて名前にしているから、なおわからないだろうし、当時私が切り絵作家を目指しているとか言っていれば、パソコンをたどれば写真が載っているからわかるだろうがl、当時私は切り絵作家になるとは思ってもいなかったら絶望的に無理だろう。

 多々、当時私が少しかかわったモデルの高原美由紀さんのをHPで調べると、かなり上位にこの日記が載っているから、彼女が自分を検索さえしてくれれば、切り絵作家・百鬼丸がマネージャーの渡辺さんであることが分かるはずである。

 きっと皆さんも、同じような思いがあるのだろうと思う。

(20117月26日・火)大変だ

 最近、展覧会をすると、原画と下絵と印刷物という3つを並列に並べている。そうすると、下絵のほうが原画よりいいですねと言われることがある。多分それは当たっているのだろうと思う。

 時々下絵より大幅に、原画のレベルが下回ることがある。

 ある出版社は、そのことを感じ取って、ペンで描きませんかというところもある。

 切り絵作家をして、のほほんと30年プロでやってきたが、展覧会をやるにつけ、私のような印刷物が定期的に来ていること自体が驚くべきことで、それ以外で生活している切り絵作家が、よく生活をしているなあと改めて驚くのである。

 今の切り絵作家たちは、私のように、出版社に営業することもなかなかできない。小さいところだったら、昔のように楽だろうが、大手では入り込むこと自体が無理である。私のような切り絵人生を渡ることができる人はこれから出ないのかもしれない。

 展覧会をしてわかることは、展覧会活動というのは、年季がいるということである。ファンがついて、何とか恰好がつくようになるのに、昔だったらそうでもないだろうが、今なら20年くらいかかるのかもしれない。それに、日本には絵を買うという習慣はない。日本に画家という職業はないのである。

 美術学校は、生徒のためのものでなく、そこに勤める講師のためにあるのだと思う。もし、本当に生徒のためを思っているとしたら、食べていく方法も授業に取り入れるはずである。だが、そんなことを教えたら、教えた本人の地位も危なくなる。

 (20117月25日・月)まちカフェ撤退

 いろいろな事情で東松山・まちカフェを撤退した。

 ボランティアの方々ばかりの「まちカフェ」の実態を私が知らなかったということが一番多いということだが、内部の考え方の相違に、私が振り回されたという恰好だ。迷惑な話である。

(20117月25日・月)

 今、切り絵の森で展覧会をしている蒼山日菜さんが、民放テレビに出演したことから、切り絵の森は大混雑をした。私がライブに行ったときには、30人ほどが切り絵会場に集まった。

 この混雑が、ずっと続けばいいが、多分あと10日くらいで終わるのかもしれない。

 渋滞を避けて、実家で眠って3時に帰ってきた。いつものことだが、ガソリンが高くなったり、無くなったりしたら高速道路に車が走らないだろうな、なんて思って運転していた。それから、高速度道路に、電車が走ったりして、なんて思った。人の移動が、車をつかえなくなるわけだから、高速道路網を利用して電車を走らせるというのも、考えられないものかなとおもったからだ

 遅れに遅れている真田十勇士の仕事を、これから優先しようと思う。頑張ろう。。

(20117月24日・日)来週は中止

 今月は、全土日に切り絵の森だが、今度の土日はやめて、デスクワークに専念しよう。仕事が立て込んでいる。

 即興のライブがスランプである。絵がうまく描けないのである。こちらも老化したということが。

 昨夜は、実家で泊まろうと思ったが、偶然実家の庭にいた甥によると、家族全員遅くなるということで、宿泊施設に泊まろう思った。しかし、沢山の車でひしめき合っている、道路の様子を見るとそんな宿泊施設はないだろうと思ったが、それでもと知り合いのホテルに電話したところ、やっぱり満室だった。そこで山中湖の平野というところにある友人に電話した。

 原町ロッヂといったかでかい民宿の旦那で、高校のクラスメートの長田一成君のところである。私にしては遅い、12時まで飲んでいて、お先にもう眠ってしまった。

 しかし、その民宿にバイトをしている、私のも母校の高校卒業の20歳の女性が言うことにゃ、その食堂の壁画を作った私は、全校生徒が私のことを知っているという。特に、トイレマークはかわいくて人気があるという。それから、この高校、今では山梨県下で一番成績がいい子が集まるのだそうだ。昔だったら、甲府一高が一番だった。

 来月からの個展のポスターと葉書ができた。葉書は3000枚刷った。今年のメインの展覧会だから、大奮発である。ポスターは、昨年のひどいポスターに懲りて、自分でデザインしてきた。

 私もそうだが、みなさん満足されることだろう。

 蟻の富士登山をみんなに見せたが、すこぶるいい感想をいただいた。やっぱり自分が作りたいものを作るとみなさんが喜んでくれる。たぶん、売れ残ることだろうから、皆さんにそのうちに披露できるだろう。

(20117月23日・土)

 また山梨・切り絵の森に出発の日である。1週間が、3日か4日に感じられる早さだ。

 8月6日には、以前展示をした切り絵作家を、個人的に私が集めて、身延でOB会をする。にいみずよし氏・筑紫ゆうな氏・柳沢京子氏・酒井敦美氏が集まることになる。夜はみんなで、お酒を飲みながらのお話である。初めてのことなのでどういうことになるか。

 その日は、昨日電話があったが、浅香光代さんから浅草ビューホテルでパーティがあるので、余興に切り絵のライブをしてくれないかと依頼があった。残念だが断った。切り絵の森で切り絵作家が集まるのは、私が発案したことであるから、当人が出席しないというのは違反である。

 さあ、出発準備だ。

(20117月22日・金)街カフェ

 今、展示をしている東松山市の「まちカフェ」というところが、昨日の埼玉新聞?に紹介されたそうで、昨日は大変な人で、私がいる場所もない気がするほどであった。

 しかし、今まで私はそういう人と接したことはなかったが、このカフェには、福島から避難してこられた方3人が、料理人としてやってらっしゃる。いままで、体験していなかった福島の地震と原発事故の影響を、肌でやっと感じることができた。

 金曜日には、福島への援助のためのバスが東松山から出ているという。行って来たいが、展覧会の準備で、いけないのだろう。

(20117月22日・金)蟻が足りなかった

 蟻が20匹ほど足りなかった。明日、納品だから、さっさと作らなければ、しかし、まだ中途のこの「蟻の富士登山」、米長氏が感動した声で、私にお礼の電話してきたが、時が時だったら、この作品だけで生活ができやしないかというくらい、自分でもいい作品だと思う。

 現在作っている、富士山の大きさは縦35センチ、左右25センチくらいだが、この富士山の大きさや、形を変えていけば、いろいろな蟻の富士登山の絵ができる。

 しかし、そのシリーズをいくつも作るには、暇さえあれば蟻を作るというくらいの根性が必要である。打ち合わせの最中にも切っている、テレビを見ているときも切っている、電車はさすがに周りの人がナイフで切っていては怖がるだろう、まあ、とにかくのべつ幕なし切り続けるという、笑い話のような伝説ができるほどの「切り続け」が必要だろう。

 久々に、自分の絵に感動している百鬼丸である。

 昨日は、東松山で飲んだ。まだいっていなかった店であるが、店主が高齢の男性で、髪の毛の感じは原田芳雄に似ていて「似ていますね」と言ってしまった。

 最初はだれもいなかった店も、瞬時にお客で満員になった。4時から開店の店というのはどこもそうだが、年配の方が入る。東松山の焼き鳥(豚)はおいしい。

 電車は、川越市駅まで行ってしまい、引き返したら、また行き過ぎて終点まで行って戻ってきたらしい、何往復かしてやっとたどり着いた。それでも、池袋まで行かなくてよかった。


 先週、山梨の実家に泊まって、朝起きてガストで、仕事をしようとしたら暗くてできなかった。暗くしているんだろう。今度ヘッドライトを持っていこうかと思うが、ほかの客から笑われるだろう。どうも実家ではできないんで、仕方がない。しかし、富士吉田の夜中は寒かった。

(20117月21日・木)弟子に間違えられる

 最近、自ら展覧会に作品を搬入していると「百鬼丸さんのお弟子さんですか?」と間違えられる。

 前に、鯛焼き屋の主人に私のカレンダーを持っていたら、彼は百鬼丸が、数多くの本のカバーをしているのを知っていてファンだというのだった。そして、毎日私のアトリエの前を通るんだという。
そこで彼は「百鬼丸さんて、どんな人なんですか?おっかない?」というのであった。「俺が百鬼丸」と言ったら驚いていた。

 今回の「まちカフェ」のオーナーも、搬入したときに弟子だと思ったらしく、ほかのメンバーに「百鬼丸さんはいつ来るの?」と言っていたらしい。

 こんな現象いいのやら悪いのやら。

 (20117月21日・木)人にプレゼント

 木久扇さんは感心する。あの人はサービス精神の塊だ。私も、負ける。

 一年くらい前に、浅草の浅香光代さんのところを訪ねたとき、道の途中でばったりお弟子さんを連れて遭遇してしまったのである。私が近づくと、なんか暴漢にでも襲われるのかと思ったらしく、たじろいだので、「百鬼丸ですよ」というと、やっと落ち着きを取り戻し、お弟子さんが抱えていた「割れせんべい」を私にくれた。

 2年前に、甲府の文化会館に、木久扇さんと小遊三さんが来ていて、たまたま甲府にいた私はTシャツを持って駆け付けた。他に初対面の小朝さんと木久蔵さんがいらっしゃったので、彼らにもTシャツをあげた。

 そのときも、木久蔵さんは、木久蔵の鞍馬天狗の人形の付いたストラップを私に手渡した。小遊三さんとか小朝さんは、そんなことはなかった。

 そういう木久扇さんの姿勢というのは、多分珍しいんだと思う。

 そんなことで、私も、そんな木久扇さんの真似をしたい。

 (20117月21日・木)身辺整理

 先日の原宿の展覧会に、亡くなった義理の叔父の弟さんがいらっしゃった。集英社にお勤めで、私が行ったときにたまに寄った。蛇足だが、もう一人の叔父のお父さんは英検の社長さんだった。

 前者の弟さんは、霧箱入りの杯を私の持っていらっしゃった。「もう年齢だから、身辺のものを整理したいの。もらっていただけますか。」と奥さんが言ってらっしゃった。

 私もその身辺整理をしなければならない。私が、まず最初に思い立つのは、本である。これをどうにかしたい。その次が作品である。

 作品のほうは大いに悩むのである。日本に、私の作品を亡くなってから引き受けてくれる人がいるとは思えない。今整理しているが、膨大な量である。ある程度の大きさの倉庫がいる。

 美術家は、その後の作品の処置に困っているという。

 ほとんどの美術作品は、廃棄される運命にあるのだろう。

 富士吉田や今住んでいる鶴ヶ島も、作品引き受けのような体力はない。私がこてこての有名切り絵作家だったら別であるが。

 本のほうであるが、いずれ、本は廃棄することになるだろう。以後は買ってあるiPadに頼りたいが、どれほどその要望に応えてくれるか。電子書籍の普及は、身辺整理に面でも大いに貢献するだろうと思うのである。

 還暦を過ぎ、人と出会うと、日本でなく海外で活躍してくださいという声が大きい。店じまいの前にやることが、沢山ある。

 原田芳雄が亡くなって、とてもさみしい。意識はそんなにしなかった俳優だが、私の中では存在感のある人だったのが亡くなってわかった。71歳で彼は亡くなったのであるから、私の10年後である。71歳で私が亡くなるという前提で、活動しようと思う。

(20117月20日・水)木久扇さんから、ラーメン届く

 といっても、最近の話ではない。先日の原宿の個展の後である。私の個展にいけないくて申し訳なという意味だと思う。

 さっそく食させてもらいました。大変素朴な味でおいしくいただきました。

 そういえば、木久蔵ラーメン、富士吉田にもありました。でも、すぐになくなりました。店の立地が悪く、すぐ店が変わるところでした。その後会った時に「あそこはまだ早かったな」と自戒してらっしゃったが、建てたところが悪かったんだと思います。それにしても、そういう計画はご本人がされているんでしょうね。そのことをすかさずおっしゃっていたんですから。

 あの人は私は大好きなんですよ。大人になる前にお会いしたかったですね。大人になると忙しくて。あの人のおかげで、浅香光代さんとも友達になれましたが、木久扇さんと浅香さんよく似てらっしゃいますね。喋りが面白くて。

 人というのは面白いですね。同じことを言って人によっておもしろかったり面白くなかったり。

 でも落語の古典も、演者によって違いが出るというのはあるんどろうと思いますが、そういうところで勝負してほしくない気がしますね。古典はあくまでも修練の場であって、常に新作を発表する根性がなければいけないと思いますよ。古典・古典といいますが、新作を生み出すほうが才能もいるし、手間もかかるし、度量もいる。

 何度も、同じ演目を聞かされるのは、正直飽き飽きする。

 木久扇さんに、ラーメンのお礼に「招き猫」を送ったら、今度はご自分の本を送ってきた。きっと、そのお礼を送ると、また何か帰ってくるのだろう。私はそれで打ち切ったが、それを続けるのも何か一興かなとも思う。

 最近、日記が更新されて、読者の方々、さぞやご満悦のことと思います。夏を乗り切りましょう・

(20117月20日・水)蟻の富士登山

 外は静かである。台風はどこかに行ってしまったようだ。ただいまの時刻2時半。締め切りを無事クリアー。薬も手に入った。閉院2分前に飛び込んだ。

 今日から、エンジンかけて、仕事をしていきたい。

 ちょっと前まで田植えだったのが、稲が繁茂して水面が見えない。本当に稲というのは、育ちが早くて頼もしい。以前は、育ちが早いなんて思わなかった。時間の経過を早く感じる年齢ならではの感想なのだろう。

 河口湖のギャラリー「クルール」で、団体展がある。テーマは「富士山」。有名な河口湖ステラシアターの手前にある。私もその団体展に参加する。今月29日は、飛び入りでライブをする。東松山のまちカフェは、申し訳ないが不参加である。

 さて、今からそのクルールに納入する作品の制作である。「蟻の富士登山」。山梨の代議士の米長氏に、某社がブレゼントしたものを、あまりにいいものだったので、シリーズ化する第一弾である。蟻は沢山切ってあるが、まだ足りないかもしれない。

 蟻の富士登山シリーズは、どこかで個展をしたい。

 そういえば、富士急行の社長の堀内さんから、富士急ハイランドの美術館に作品の納入を頼まれたが、手間のかかる作品テーマの依頼だったため断ってしまった。実は、外国の切り絵作家が、富士山と富士急ハイランドを立体の切り絵で描いた作品を、美術館では所蔵しているのだが、その作品に対抗する作品を作っていただきたいとの依頼だった。その作品は遊園地を細かく描写したものだった。

 しかし、人物は眼も鼻も描いた細かいものなのだが、描いてあって、切ってないのである。つまり、人物は輪郭だけ切ってあったのである。外国ではこういう手法でも切り絵というのである。それは最近よくわかった。だが、私は全部切らないと切り絵ではないと思っていたものだから、私がやれば大変な労力になる。それで断ったのである。

 堀内社長が作ってもらいたかったものが、どういうイメージだったのか、具体的にはわからないので、考えすぎなのかもしれないが。

 しかし、この蟻の富士登山。日本橋から蟻を這わせる絵を作ってみたいのだが。それを実現させてくれたら、美術館に納入したい。

 われわれ、ふもとで富士山を眺めながら生活したものは、まともな富士山が描いてあるだけでは実は満足しないのだ。富士山に外の人は感動しても、地元の人間はそうでもない。だから、富士山は観光資源として、地元の自覚のないせいで食い荒らされてしまう。

 そんなわけで、私が描く富士山は、地元の人でも楽しめる富士山を目指している。そうだ、蟻の富士登山展じゃなくて「百鬼丸の富士山展」でいいんだろう」

(20117月19日・火)

 今日は締切であるが、この日記を書いている時点でまだ終わってない。あと1時間くらいか。

 今日は、夜中から一生懸命しようと思ったが、いつも通り、あれやこれや思い出してほかのことをしながらの作業でいつもの通り、遅れてしまった。

 それから、東松山のまちカフェに作品の搬入をした。まだらな雨のおかげで、雨間に作品の荷卸しができた。雨なのでおきゃは二人だけだった。それでも、一点作って、一点売れた。それで、早々に帰ってきた。

 さあ今から、作業の続きである。中公文庫の何とか奉行のシリーズである。作家は上田秀人さん。まだあったことがない。そのうち遭遇するのだろう。

 作業の締め切りは、5時から6時。その前にギャラリー一印の搬出もある。それに病院も行きたい。はげ薬をもらいに。そのあとジムにトレーニングに行きたいが、もうこと切れているかな

 明日は台風。客も入らないだろう。暇ならどうしよう。やることはたくさんあるが。

(20117月18日・月)

 昨夜帰ってきた。小仏トンネルまで37kの渋滞とあって、用事があって身延から富士吉田回りできて、秋山村(上野原町)を通って、上野原インターから中央高速に入った。

 7時に富士吉田を出たが、着いたのは9時半だった。通常の1時間オーバーで帰ってこれた。正解だったのかもしれない。

 暑い。今日は本来「まちカフェ」展の初日だが、展覧会が19日からに延期になった。もう葉書も出してしまったが、お祭りで展示場所が使用禁止になったのだそうだ。

 だから、一応11時には行って、会場前の貸しスペースで、ライブはしなければならない。

(20117月17日・日)メール

 どくしゃのみなさん、新しくパソコンを買い、メールアドレスはこのHPにあるgmailを使用しています。携帯電話とアイパッドは持って歩いている確率が高いので、こちらへのメールは便利です。次に便利なのが、持って歩くことが多くなっている新しいパソコン。

 今一番使わないのが、アトリエのパソコンメールです。アイパッドのメールアドレスはkirieworldstar568@i.softbank.jpです。

(20117月17日・日)長生館

 下部温泉の波高島地区にある温泉「長生館」に、私は富士吉田から切り絵の森に行く途中で立ち寄る。朝風呂である。

 下部ホテルは石原裕次郎が、骨折したとき長逗留したところであるが、その温泉の質と違い、この長生館は硫黄が混じっている。それで人気で、その近在の人が入りに来る。

 さっき入ったばかりであるが、お話をした中に、毎週日曜日に池袋から車で入りに来るご老体がいた。前々回に私が入った時もいらっしゃっていた。その時は話はしなかったが、かなりの博学の方で、何かやっていそうな人である。外国にもあちこち行っているようだ。ただ風呂なので、音の反響があり、聞き取りづらかったのが困った。

 また何回も会う人だろう。

(20117月17日・日)

 昨年の埼玉伝統工芸会館の記入名簿見ていると、2か月個展をやったとしては人数が少ない。確かに、夏の展覧会で、御客の入りは悲惨なものだった。私の客のほうが一般客より多かった気がし、私のファンが会館を訪れない日はなかった。

 今年もあとひと月で、個展が始まる。今回は真田十勇士をする。まだ作り切っていない。ちょっと、不安である。

 そのあと、長野の上田をはじめ、切り絵作家の柳沢京子さんの力を借りて、長野県内で個展をしていこうと思う。来年の話である。来年は銀座の伊東屋の個展もあるかもしれない。今年と同様に急がしい日々が続きそうである。

 そういえば、私は山梨で個展を今年はしていない。そろそろ個展をしてみたい。

 富士吉田に来て、兄と酒を飲むことが多いが、しかし、自分の話はして、私はその話をよく聞くが、兄は人の話をさらっと受け流して全く聞こうとしない。それを気付かないのである。

 今日の朝は下部温泉に入ってから、切り絵の森に行くつもりだ。

(20117月17日・日)メール

 どくしゃのみなさん、新しくパソコンを買い、メールアドレスはこのHPにあるgmailを使用しています。携帯電話とアイパッドは持って歩いている確率が高いので、こちらへのメールは便利です。次に便利なのが、持って歩くことが多くなっている新しいパソコン。

 今一番使わないのが、アトリエのパソコンメールです。アイパッドのメールアドレスはkirieworldstar568@i.softbank.jpです。

(20117月17日・日)長生館

 下部温泉の波高島地区にある温泉「長生館」に、私は富士吉田から切り絵の森に行く途中で立ち寄る。朝風呂である。

 下部ホテルは石原裕次郎が、骨折したとき長逗留したところであるが、その温泉の質と違い、この長生館は硫黄が混じっている。それで人気で、その近在の人が入りに来る。

 さっき入ったばかりであるが、お話をした中に、毎週日曜日に池袋から車で入りに来るご老体がいた。前々回に私が入った時もいらっしゃっていた。その時は話はしなかったが、かなりの博学の方で、何かやっていそうな人である。外国にもあちこち行っているようだ。ただ風呂なので、音の反響があり、聞き取りづらかったのが困った。

 また何回も会う人だろう。

(20117月17日・日)

 昨年の埼玉伝統工芸会館の記入名簿見ていると、2か月個展をやったとしては人数が少ない。確かに、夏の展覧会で、御客の入りは悲惨なものだった。私の客のほうが一般客より多かった気がし、私のファンが会館を訪れない日はなかった。

 今年もあとひと月で、個展が始まる。今回は真田十勇士をする。まだ作り切っていない。ちょっと、不安である。

 そのあと、長野の上田をはじめ、切り絵作家の柳沢京子さんの力を借りて、長野県内で個展をしていこうと思う。来年の話である。来年は銀座の伊東屋の個展もあるかもしれない。今年と同様に急がしい日々が続きそうである。

 そういえば、私は山梨で個展を今年はしていない。そろそろ個展をしてみたい。

 富士吉田に来て、兄と酒を飲むことが多いが、しかし、自分の話はして、私はその話をよく聞くが、兄は人の話をさらっと受け流して全く聞こうとしない。それを気付かないのである。

 今日の朝は下部温泉に入ってから、切り絵の森に行くつもりだ。

(20117月16日・土)切り絵の森雨が降らず

 切り絵の森も雨が降らないのだそうだ。芝生が一部かれていたりするという。埼玉もそうだが、昨年同様、木が枯れてくるという現象が現れるのかもしれない。そうだ台風が来る。台風がこれから恵みの気象になるのかもしれない。

(20117月16日・土)あっという間の切り絵の森

 先週の土曜日日曜日、蒼山日菜氏と外国切り絵作家との遭遇から、早くも一週間が過ぎた。時の経つのの早いこと。

 昨日は、富士吉田の無尽という、私には経験したことのない積立組織の宴会に顔を出した。富士吉田はこの無尽が発達していて、PTAの役員になり、解散するとそのまま無尽の会が発足する。何かみんなで旅行しようというわけで、お金を積み立てるのである。

 そして、その集まる場所が、飲食店であるから、不思議なくらい富士吉田の飲食店は安定して店が維持できるのである。

 私の無尽の会は、来年の八月に富士吉田市のアメリカの姉妹都市コロラドスプリングスに吉田の祭り「火祭」を再現しようという会である。日は来年の八月、私はあちらで個展をするということになるのかもしれないが、まだ未定である。メンバーの中に、富士吉田市役所に駐在しているアメリカ人がいて、昨日その話をしたのである。

 今日は切り絵の森で、NHKの取材を受ける。

 さて、自宅の近くに寿海という割烹料理屋があるが、何と店主の息子さんがニューヨークに支店を出したのだそうだ。その店に私の火祭りのポスターが飾ってあるという。そのポスターは、親父が死んだばかりに、使われなくなったポスターである。親父は自分がタイミング悪くなくなって、火祭りのポスターが使われていなくて、さぞ天国で悔しがっているだろう。

 昨日の埼玉医大の「物忘れ外来」はCTスキャンの結果、単なる老化現象という結論に達した。ひとまずほっとした。6時間もかかった待ちぼうけであった。

(20117月15日・金)

 二日酔いである。もっぱらテニスをせずに、運動はジムで、自転車をこいでいる。90分しかいられないコースで契約したら、こちらの時間の負担が少なく、長続きしそうである。自転車を約80分くらいこぐと、400kcalくらいの消費になるらしく、ちょっとソフトクリームでも食べれば、体重が元の木阿弥だから、自制することになる。

 おかげで、体重が少し減った。久々の67k台である。この勢いで頑張ろうと思う。しかし、自転車から降りると足がふらふらである。

 昼間に近くを通ったからテニスコートによってみた。テニスを10人ほどがやっていた。もっといっぱい普段は来るという。みな私より高齢者ばかりである。

 今日は、埼玉医大の「忘れ物外来」に行ってくる。8時半からの受付というから、もうすぐでなければいけない。

 「あちらを記憶すれば、こちらの記憶が零れ落ちる」といった状態が頻繁だから、何かの異変が起こっていると思うからだが。この年齢になると、特別おかしいといったものではないのだろうが。

 そのあと、身延のライブの準備のため、車にものを積み込む。これが億劫だ。今日山梨に行くので、今日積み込むわけだ。前回の日記のようなことがないように、作品も4点ほど積み込み、それを載せる台とイーゼルを乗せるので、ちょっと大がかりなのである。今日も暑い日になるだろうが、熊谷40度なんて日もあるのだろう。魁皇の勝利記録は楽しみだが、気温の記録は勘弁してほしいが。

(20117月14日・木)ライブをする条件

 ライブをするときに大切な条件の中に、私の普段している作品と印刷物を見せておくというのがある。これをしないと、ライブ作品が買われなかったり、安く叩かれたりする。

 先日の切り絵の森でのライブも、私の作品が置いてある常設ギャラリーを経ないで来た人がいた。

 その方々は途中で退場するし、好奇心も薄いのかもしれない。

 埼玉伝統工芸会館の普段のライブは、作品が置いてない分ハンディーがある。完璧なライブにしようとすれば、それなりの装備をしなければならなくなる。

 昔、八王子のスーパーで展示かとライブをしたことがある。前のマネージャーが「やれ」との命令だった。スーパーにレベルの高い絵があるはずがないという先入観があるし、人は買い物に夢中で絵なんかに興味がないのだと思う。人はほとんど立ち止まらなかった。

 その時は、ギャラなしだった。いくら義理があるからといって、こんなことをさせられたらたまったものじゃない。

 あの屈辱は忘れられない。

(20117月14日・木)失敗

 還暦を迎え、展覧会に来る方、生徒から、「先生、早く世界に羽ばたいてください」といわれることが多い。

 諸事情があって、ままならないのだが、私もそのようにしたい。乞う、ご期待。

 さて、いろいろなことの尻に火がついている。ちょっとタイトにいろいろなことをしなければならない。ここのところ、ちょっと緊張感が足りなかった。

 月曜日から「東松山 まちカフェ」展が始まるが、私のプリンターで葉書を作ったのであるが、はがきを光沢紙を使ったため、滑ってプリンターが取り込まず、手間がかかった。これでは印刷会社にプリントを頼んだほうが、よっぽど安く早く上がったと思う。これから、そのようにしようと思う。

(2011711日・月)訂正

 切り絵の森に行ってきた。展示の半分のメンバーが知らなかったが、やって来た。

 蒼山日菜さんもやってきた。蒼山日奈さん以外の外国の方の全貌を見て、私の前に日記に書いた感想は違っていたなと思った。

 やはり、それはそれで素晴らしいものだった。

 私がまだ手に染めていないジャンルの切り絵ばかりで、見てよかったという感想に変わったのである。

 いずれ、このメンバーと私もツアーを組む可能性もある。

 行ってよかった。

(20117月9日・土)今日は切り絵の森

 今日は今から切り絵の森に行く。今月は毎土日は切り絵の森だ。がっちり稼いで来ようかと思う。

 (20117月8日・金)

 ちょっと忘れ物外来で、埼玉偉大に行く予定だったが、勘違いして、午前中に行かなかった。紹介してくれた須田さんという方に申し訳ないことをしてしまった。

 まだまだ、忘れ物が多いのは変わらない。

 今日から、坂戸市と川島町の間にある、まさかこんなところにギャラリー?というような「一印(いちじるし)」ギャラリーで団体展がある。私は、客が繰るかどうか分からないんで、詰めることを辞退しているが、今から言ってこようと思う。

 もう何年やっているのか。私よりちょっと上の女性が一人でやっている。ちょっと気の毒な感じがするが、どうしたものか。

 それから、東洋大学野球部の祝勝会が、後楽園ホテルであるが、これも申し訳ないが辞めておこうと思う。連日の遅い帰宅になるので、ちょっとしんどい。

 
 中旬にある東松山の「まちカフェ」展は、小さなコミュニケーションカルチゃーレストランである。つまり、ちょっとした人が来て、いろいろなお話をお客としながら食事をするといった空間である。

 だから、東松山市から補助を受けてやっていた。しかし、近々その期限が過ぎてしまうらしい。だから、儲けなければいけないらしい。
 私は人が来るための仕掛けをしなければならないから、責任重大である。

 それはともかく、日本で唯一、「焼き鳥の組合がある街」の東松山だから、絶対電車で来て、焼き鳥を食って呑んだくれて帰ろうと思う。

 お店は、11時から4時までと短い。

 それにつけても、葉書を作ろうと思ったが、つるつるの葉書をプリンターがかんでくれないので、印刷が出来ない。私のプリンターでは葉書印刷が出来ないこととあきらめようと思う。もう押し詰まってしまったが、今から印刷屋に駆け込んで、プリントしてもらおう。

  (20117月7日・木)東京

 中旬にある東松山の「まちカフェ」展は、小さなコミュニケーションカルチゃーレストランである。つまり、ちょっとした人が来て、いろいろなお話をお客としながら食事をするといった空間である。

 だから、東松山市から補助を受けてやっていた。しかし、近々その期限が過ぎてしまうらしい。だから、儲けなければいけないらしい。
 私は人が来るための仕掛けをしなければならないから、責任重大である。

 それはともかく、日本で唯一、「焼き鳥の組合がある街」の東松山だから、絶対電車で来て、焼き鳥を食って呑んだくれて帰ろうと思う。

 [まちカフェ」は、11時から4時までと短い。

 それにつけても、葉書を作ろうと思ったが、つるつるの葉書をプリンターがかんでくれないので、印刷が出来ない。私のプリンターでは葉書印刷が出来ないこととあきらめようと思う。もう押し詰まってしまったが、今から印刷屋に駆け込んで、プリントしてもらおう。

 さて、久々に出版社の接待で、浅草である。

  (20117月5日・火)党利党略

 今、教育テレビで「あともどりの日本史」?だったけっか、やっている。

 何故、太平洋戦争になったのか、満州事変はどうして勃発したのかとどんどん大正・明治をたどっていく。

 今日は、伊藤博文の藩閥内閣に変わって、政党内閣が大隈重信と板垣退助の党同士の合併によって初めて出来上がったという。しかし、考え方、意見の違いからこの内閣は短命に終わった。そのあと、原敬の政党内閣も登場するが、その足取りが、どうも今の自民党と民主党とそうかわらない党利党略に終止しているのである。

 民主がどうの、自民がどうのという以前に、日本だけの話なのかも知れないが、何か政党というものの限界を感じる。

 世界で、理想的な国家なんかないんだろうから、私が考えなくてもないんだと思う。

 もううんざりだから、天皇に、軍隊に、宗教の教祖になんて発想が浮かんでくるのもうなずける。

  (20117月4日・月)福井烈よ

ウインブルドンテニスが終わった。決勝の会場には大好きだった、マッケンローやボルグが顔を見せていた。ジョンニューカムもいた。

解説の元テニスプレヤー福井烈が、今のトップスピンテニスの生みの親は、ボルグだといっていた。

だが本当は違う。大正時代、慶応大学の軟式テニスの清水善造がウインブルドンに参戦して、シングルス決勝まで勝ち進んだのである。

以下は清水善造に対してのコメントである。

清水のショット、特にフォアハンドは、当時のテニスの評論家から観れば醜いものであった。通常、右利きであれば、左足が前に出るのであるが、テニスをしたての頃の清水は右足が前に出たという。このスタイルは、後期こそ無くなりつつあったものの、基本的な体の動きは終生変わらず、チルデンと対戦した時にも時折、右足が前に出たらしい。当然、この打法は今でも「基本でない」と言われているが、右足が前に出る事で、自然に上半身、上腕が足より遅れるように現れ、結果として現在の基本であるインサイドアウトの状態になったようである。事実、身長や手足の長さ等で、他の外国人選手に劣る清水が、強豪を上回る鋭いショットの持ち主であった。

この記述のように、清水は軟式テニスのプレースタイルをそのまま硬式テニスに持ち込んだのであるから、この大正時代に、今のトップスピンフォアハンドを行っていて、右足が出るというスタイルだったのである。今の、テニススタイルの元祖は、実はボルグでなく清水だったのである。

情実の文章の中に「醜い、テニススタイル」というのがあるが、当時の日本人は、他国のテニススタイルと違うことを恥じて、軟式テニスうちを辞めてしまったものと考えられる。

だが、今では正々堂々とそのことを告知してもいい時代である。

なぜ、このことを福井はもっと話さないんだろうか。怠慢である。不思議な神経である。

 (20117月1日・金)セーラ亡くなる

 私がモデルのマネージャーをしていた時に、ティーンのトップモデルだったハーフの子である。セブンティーンの専属モデルをしていたのかもしれない。

 私も、当時セブンティーンに海野何とかというモデルを使ってもらうこと成功している。その時の、担当者は集英社の片桐さんという編集長だった。切り絵作家として再会した時、私のことを全く覚えていなかった。

セーラは50歳の癌だったという。さみしい気持ちだ。

考えてみれば、今の沢尻エリカを品を良くした感じでよく似ている。

(20116月28日・火)スポーツは

 とてもテニスをするようきではないが、する気が起こらない要因に年齢もあるのだと思う。

 しかし、テニスは夏やるスポーツではない時代の到来なのだろう。もともと、夏は厳しかったのであるが。そうなると、梅雨時には出来ず、冬は風があってできず、3月から5月までのスポーツということだろうか。それに秋がちょっとできるかな。雨が降れば、次の日の午前中は駄目というクレーコートだから、晴れてもなかなかできない。

 自然とテニスから遠のきそうだ。

 今月から入ったスポーツジムは、予想外に行っている。もう、7回ほど行っていると思う。7月はもっと行く事になりそうだ。

 私は鶴ヶ島の古いジムのオーク2にはいった。もう出たり入ったりを5回ほど繰り返している。勿論長続きしなくて終わってしまっている。2年くらい続いた時もあった。そのときは、かなり痩せたと思う。そして、水泳も2キロ以上は泳げるようになった。

 今回は、90分コースといって、90分で出なければいけないのだが、時は金なりの私には、そのくらいがちょうどいい。90分が早いこと。今のところは、iPadを使って英語の勉強をしている。でも、かなり飽きてきてしまう。
 テレビも付いているからその気になれば見られる。

 しかし、このジム、隣にコナミというメジャーで巨大なジムがあるにもかかわらず、スタッフの努力だろうか、全然衰退していないのだった。今、それで何と道路前に巨大な、温泉つき新ジムを建設中なのだ。

 しかも、現在、私が今まで来た中で一番の込みようを呈している。ただし、高齢者ばかりであるが。

 明日、鶴ヶ島から引っ越した東洋大の先輩・内野さんの見舞いに、仲間と佐世保に行ってくる。一泊の強行軍だが、仕方ない。明後日は、博多の切り絵作家・小西氏と会ってこようと思う。

 このあたりでは、相当な切り絵の猛者だと思う。会ったことはない。私を知っていればいいんだが。

 (20116月27日・月)切り絵作家 蒼山日菜

今、フランスで活躍して話題の蒼山日菜さんと、切り絵の森で遭遇し挨拶を交わした。

写真で見る蒼山さんより、もっと身近に感じられる出で立ちだった。

荷物が届くだけだと思っていたので、本人が現れると聞いていなかったんで驚いた。

切り絵を見た。ハサミできる切り絵としては、驚くべき線の細さである。量産は難しい作品だから、高価なのもわかる。

私の世界の印刷物としては、その繊細さが伝わらないので、向かないと思う。やはり、実物を見せて感動を呼ぶ作品である。

これから、蒼山さんは切り絵の流派を立ち上げて、沢山の弟子を抱える家元のような存在になって行くことになると思う。

7月から、彼女の友達の外国人の切り絵作家の展示もする。

  (20116月25日・土)切り絵の森

 山梨県身延の切り絵の森に行って来る。糸の渦の中にいると、時々面倒くさくなるような事に出くわす。人間というのは、喜びも与えてくれるが、嫌気も与えてくれる。

 さしづめ、徒党を組むやからはろくな奴がいない。小者ばかりである。その大将といえば、それらしく見えるが、結局、麻原彰晃と変わらない、ただ押し出しのいい人間だけなのであって、胡散臭いのである。

 (20116月24日・金)能面

頼まれて能の絵を描いている。下絵を書くだけで切って渡すわけではない。

能の中で、私が一番感心するのは、面である。この能面をみるにつけ、作った人のセンスを感ずる。やはり、北斎写楽と同様に、世界に誇れるものだと思う。

改めて感心した。しかし、私は彼らが羨ましい。私も後世に作品が残せたらと思うのである。

最近、自分の仕事をしだすようになって、徐々に本格的作家の方向に行っているのではないかと思えるようになってきた。もっともっと展覧会を展開して、日本中は勿論、世界中を駆け巡るようになりたい。

  (20116月23日・木)ウィンブルドンのファッション

伊達公子のテニスのファッションをみて、似合うと思わない。いま流行りのロウライズなスコートを着ているが、ほんの少しなのだが脂肪がのっている腹回りがよくわかる。気の毒な気がした。

伊達公子のファンだから、15年前の可愛いスタイルを覚えている。多分契約しているスポンサーからのお仕着せだろう、今、ほとんどの選手がタイトな服を着せられている。気の毒に思う。

上着はゆったりと、スコートはちゃんとウエストで着てほしい。

そう言えば、伊達公子のファッションは、再デビューからずっと冴えないファッションだと思う。

(20116月22日・水)たい焼き屋さん

鶴ヶ島の駅前に「たい焼き・太陽」という店がある。夫婦でやっている店だが、先日夫婦に子供が産まれた。
しかし、早々に奥さんが働いて、びっくりした。すごい安産だったそうで、4時間で産まれたそうだ。

そういえば、先日、私が出た「ぶらり途中下車」という番組に、たい焼き屋さんが出たそうである。

出産祝いに、手に持っていたケーキを思わずプレゼントした。

(20116月21日・火)髪の毛

薄毛の大敵は、湿気と紫外線だという。そういえば心当たりがある。昨年の、猛烈な脱毛は、快晴の日、無帽子でテニスをした時だった。

そして、一昨日、最近入ったスポーツクラブで水泳をして帰ってきた時、鏡を見て、前の方の毛が少なくなった気がしたのだった。もう水泳もするのは止めておこう。

  (20116月20日・月)バッグ

 私が持つバッグは、時によって変わる。最初は、小さいバッグであまり物を入れなかった。しかし、だんだん物を多くいれるようになって、バッグが大きい物に変わっていく。

それで重くなって、元のバッグに戻る。その繰り返しばかりしている。
 
 鶴ヶ島の駅前に「たい焼き・太陽」という店がある。夫婦でやっている店だが、先日夫婦に子供が産まれた。
しかし、早々に奥さんが働いて、びっくりした。すごい安産だったそうで、4時間で産まれたそうだ。思わず、人にあげるために買ったケーキを出産祝いとあげてしまった。

  (20116月19日・日)

 最近、人を雇って、作品整理やら、雑務をしてもらっているが、来る日が、あちらのペースなので、いてほしい時にいなかったりする。

 展覧会が終わり、片付けには、生徒の親と鎌倉から来た生徒が来た。

 車の作品をビルの3階にあるアトリエに上げた。東洋大学のテニス部の現役をバイトで呼んで上げてもらおう。

 それにしても、アトリエと倉庫が3階にあるというのは、これからしんどい。どこか一階の倉庫でも、安くあればいいんだけど。このアトリエは、教室二つ分もある広いところである。それに大家が友達で安い。しかし、3階だし、暑い。夏は冷房はしない。部屋がほおって置くと窓を開けても、40度以上になる。だから、ここで仕事はしない。

 (20116月18日・土)

 さて、展覧会最終日。

 外国で展覧会をしたいが、ただ漫然と展覧会をするという目標より、映画かテレビのタイトルバックやコマーシャルなんかどこかの国でやるという目標を持ったほうがいいのかもしれない。

 そんなことを思った。でも、そんなっことをぼけっとお持っているのも幸せなことだ。

 そういえば、私はほとんど切り絵ーターとしては夢は実現してきた。そういう意味では思い残すことはない。

 次なる夢は、いっぱいある。今迷っているのはアニメーションをどうするかということ。今からアニメーションのアプリケーションソフトを買って習うか。学校は行くことはないだろう。九里洋二さんのところにいってみようか。

 (20116月17日・金)小遊三師匠来る

 明日は、東洋大学川越校舎卒業のOBの集いがある。ゲストに、三遊亭小遊師匠が来る。門弟の三遊亭遊喜が、東洋大学川越校舎卒業の私の後輩に当たる。

 私は展覧会があるからいけないが、プレゼントを誰かに託そうと思う。Tシャツくらいになると思うが。

 私より、背は小さいが、太っているから、LなのかXLなのか微妙である。

 小遊三師匠は、山梨県の大月市の生まれで、同郷であるから、一応親しい。それに、山梨県は御坂山系を境に、甲府地区(国中地区)と郡内地区の二つに分かれていて、私と小遊三師匠は、同じ狭い郡内地区の生まれであるから、方言も甲府地区と違うのである。

 甲府だと「あなた」を「おまん」というが、私のところでは「わりゃあ」である。

 この郡内地区は、戦国時代に、北条・今川・甲斐といろいろな領地になっていたんで、方言が静岡に近いのである。

 (20116月16日・木)

 展覧会もあと二日のようだ。まあ、まあかな。ファンもふえてくれたようだ。

  (20116月13日・月)東洋大学優勝

 全日本大学野球で、慶應を破って東洋大学が優勝した。いやめでたいことである。まだ一度も鶴ヶ島でのパレードを見たことがないが、今年は見られるのかな?

 そういえば、藤岡という東洋大学のエースを、ホンダ技研との練習試合で、東洋大学グラウンドで見た。その時マウンドに上がっていたのが藤岡だったが、あまりかっこいいというタイプではなかった。がっちり、ずんぐりでスマートさがなかった。

 どうも今年のドラフトナンバーワンなのだというが、どうなるのだろう。

 そういえば、私が小学校6年の時に、少年野球で完投勝利をしたときの写真がない。ないというより撮らなかったのである。なんとなく末っ子というのはこういうときにワリを食う。お父さんも兄貴も応援していたのだが。

 まさか、そのとき最高殊勲選手になるほど活躍するとは思わなかったんだろう。私も、まさかと思ったんだから、しょうがない。

 (20116月12日・日)還暦六日目

 還暦も、このくらい経過すると、六日目なんて入れなくてもいい感じがする。

 さて、出足がかなり遅れたが、埼玉伝統工芸館ライブに行って来る。やる必要がなかったりして。

 (20116月11日・土)還暦五日目

 昨日も客が少なかったかな。今日終わると、明日明後日は、展覧会は休みである。でも、明日は埼玉伝統工芸会館ライブ。

  (20116月10日・金)還暦四日目

 昨日は、展覧会の客も少なかった。そういえば今月は文庫のカバーの仕事が一冊も入っていない。こんなことは今までなかった。

 会員誌一誌だけだ。出版社の不況もあるんだろうな。もっとギャラの安い人にシフトし始めているとか。

 このくらいのことはこれから沢山あるだろう。

 (20116月9日・木)還暦三日目

 還暦3日を迎えた。今までの誕生日と違う。何か、ちょっと重たいような。

 積極的に何かをしなければならないが、何かを棄てていかなければいけないという感じもある。今日も、展覧会である。展覧会場の紹介やギャラリーのオーナーともであう。これから、展覧会の場が広がっていくのだろう。どんどん積極的にスケジュールを埋めたいと思う。

 さて、まだギャラリーまで、1時間ほどある。アトリエで、やることが沢山ある。何からやろうか。

(20116月8日・水)還暦二日目

 還暦まで来ちゃったかあと、ため息をつく。

 視界から、見える景色の鮮明さは、子供の頃と変わらないんだがなあ。ただ、右目に飛蚊症(こうかくのだろうか?)の黒いゴミ屑が、ちらちらしている。

 昨日のライブはたくさんの人が来てくれた。ありがたい。今日は晴れるのだろうか、今までちょっと雨だったが。

 今日はどんな人が来るんだろう。今から、レボヌーへ

 (20116月7日・火)いろいろな日

 誕生日である。そして、還暦である。そして、展覧会初日である。

 楽しい一週間が過ぎることを期待したい。そして、どれだけ良い即興ライブが出来るかである。

 アトリエの外に、バイクが置いてあるが、それにあるリュックのポケットにメモリースティックがあるが、別の物を入れて、持って入れたら、そのメモリースティックを持ってくるのを忘れた。情けない。取りに行って来る。

 今日am1時から、展覧会の文章を作っていたのだった。