日記12

(20122月5日・日)

 還暦をすぎ、眩しかったイラストの先輩も亡くなったり、高齢になってきた。私がもうその世界の牽引役の年齢に達して、まぶしがられる存在になってきたのかもしれない。

 若い女性のイラストレータが、一団で来た。皆さん私のファンである。彼女たちにいつまでも眩しい存在でいるだけで、後輩にはいいのだと思う。

 これから、ずっと後輩たちに囲まれていくことになりそうだ。

(20122月4日・土)

 切り絵仲間の、筑紫ゆうなさんがポーランドに旅立つ連絡が入った。というより、山梨の切り絵の森の館長さんと会長さんに連れられて?いくのである。ポーランドには切り絵の文化があるらしい。

春にはポーランドの切り絵展を開くということだ。切り絵の森の発展を祈りたい。

(20122月3日・金)

コンピューターで描く絵がある。そして、テレビでとった画像がそのまま輪郭をなぞった形で、ある操作をすると出来上がるのだそうだ。そうして挿絵にしている人もいるのだろう。

それも認めることになれば、それでいい。早く安くできそうである。これから、あのドラマのあのシーンが挿絵になったりするのだろう。

そういえば、そんなことをして描いていると思い当たる画家がいる。

(20122月2日・木)

 旅行気分で、東上線に乗るときもおしゃれなアルミ缶に入った日本酒をホームで飲んだりして、旅行気分でギャラリーに行った。しかし、その時はいいがあとが辛い。

 酔っ払って、だるくなってしまうからだ。今日から心を入れ替えて臨みたい。

 昨夜は次の週にやる日本文芸家クラブの展覧会メンバーが一人欠けてやってきて、みんなで宴会となった。二晩連続の宴会だ。実は初めて会う人もいた。でも、にぎやかで楽しいスタートな気がした。

 でも、昨日は客が入らなかった。

 今日は挿し絵の締め切りである。あんまり力の入ってない作品になってしまった。今日は呑んで帰らないぞ。といいながらどうなることやら。

(20122月1日・水)

 昨晩は、ギャラリーのオーナーの勝田君とその仲間の方と飲んだ。彼は、この原宿育ちで小さい頃の原宿を知っていて、のっぱらが沢山あったという。近頃はよそ行きの飲み屋ばかりで地元の人間がいける飲み屋がなくなったと嘆いていた。

 一日目の客の入りはよかった。

(20121月31日・火)

今やっている原宿のギャラリーは一階にあり、人通りはイマイチだが、若者が通る。しかし、若者は入ってこない。若者は絵に拒否反応しているとしか思えないほどである。だが実際は私たちの時代もそうだったのかもしれない。

昨日、宇野亜喜良さんという巨匠のイラストレーターが見えたので、人に言うと知らない人がほとんどだ。私の代でも結構知らない人がいるのには驚いた。しかし、両巨匠と言われた横尾忠則さんは知られている。

そういえば、私が展示しているギャラリーのオーナーは、歌の作詞なんかもしているから歌謡界に詳しい。今は歌が売れなくて困っているのだという。CDを出しても売れないから、自分で買って、実績をあげようとしている歌手もいるという。もう末期状態である。

(20121月27日・日)

 明日は原宿の展覧会の搬入日である。まだ、何を出品しようか迷っている。メインの真田十勇士はいいが、そのほかである。手拭い、Tシャツはもって行く、干支も持っていく。ライブの道具も持っていく。表紙の新しい立体作品は、まだ額に入れていないのである。だからそのまま飾るか。

 とにかく、迷う。迷うほど作品があるのである。

 今女子マラソンをしている。彼女が出てきた頃からのファンである福士加代子が走っている。途中で身体を壊したので、意外に中距離で延びなかったが、今はマラソンに転向をしている。あの話しっぷりは面白いし、走っているときの苦しい表情は、対照的で面白い。

 私はサッカーの中田英俊の小生意気な顔が大嫌いである。テニスの錦織は、中田を実績では越えていると思う。あの素朴な人柄はとても惹かれる。もっと、コマーシャルもそうだが、表に出てきて欲しい。

 そして、この日記にも彼がジュニアの世界大会のダブルスで優勝したときに、錦織が、テニスの世界で必ず通用する選手になると断言していた事に、私は誇りを持った。彼のプレーはその頃から平凡ではなかった。

 昔松岡修造もいたが、プレーは平凡で、良かったのはサービスだけであった。日本は、戦前にあれほど、世界で通用した選手を出したのに、その技術を否定したところから始まってしまったのが今のテニス界である。

 今の世界の主流のテニスは、昔日本の選手がやっていたスタイルなのである。日本人というのは自国にコンプレックスを持っていて、だいたいが外国のものがいいと思ってきた国である。こんな現象が起こるのも無理からぬことである。

(20121月28日・土)

今日は、東洋大学の野球部監督高橋さんの監督生活40周年のパーティが、東京ドームホテルであった。夕方だと思って葉書を見たら、1時からと書いてあったので、1時間遅刻して行った。

 出版社のパーティと違って、黒い背広の人ばかりだという印象で色気に欠けるのである。東洋大卒業の漫才師ネズッチが舞台の上にいた。

 野球部卒業のプロ野球選手も壇上に上がってコメントを言っていた。松沼の兄が、高橋さんが監督をしてからの最初のプロ野球選手だったんだと思う。私は彼と同級である。

 そういえば、落合も一年の時は東洋大だったはずである。だから、高橋監督の指導を受けただろうが、きっと落合ではそりがあわなかったろう。そのあと東芝に行ったと思う。落合は来ていなかった。

 寒風であった。お酒で顔を赤くしたまま、店の包装紙とかの絵を頼まれている亀戸の、砂町銀座にある「あさりやさん」に行った。この商店街は、素晴らしいとおりであった。おいしそうな惣菜を売っている店が軒を連ねていた。やきとりを頬張りながら歩いたし、酒屋に日本酒を買って飲みながら歩いた。

 「あさりやさん」についた。全部人手で惣菜をやっているわけだから、大変な手間だと目撃して分かる。朝漁に出て、貝を獲ってきて惣菜に仕込む。客には奇遇な事に山本一力さんがいるという。仲間である。

 おいしそうなので、アサリの炊き込みご飯を食べた。やはりおいしい。飲みながら食べながら、手作業をしている店主とお母さんとお話をしていた。申し訳ない。

 帰りは暗くなって、冷蔵庫の中のような寒さだった。ここらに鷲見さんと大森君が住んでいるが、とても、この寒さで遅く帰りたくないんで、電話に出ないんでメールで連絡しておいた。夏の方がいいなあ。

(20121月27日・金)

 今日は本来日本文芸家クラブの新年会があると思った。しかし、和装で身支度も整え、駅に向かっている途中にクラブの仲間に電話したら、昨日にその会があったという。一日日を間違えたのである。

 最近は、郵便物が沢山来て、その整理がおぼつかない。スケジュールをまめに確かめてというタイプでないのでこういうことが起こる。まあ、電車に乗ってついてからわかったとしたら最悪なのでよかったと思う。

 その後、鶴ヶ島の駅の近くの行きつけのココという店に行って一人で久しぶりに飲んだ。日本酒を三合。酔った。ココの店には私の絵の花魁が飾ってある。

 ココの店の客は私が、食うや食わずの画家だと思っている人が多い。早くメジャーになれとかいわれる。この日も、出版社のランクを上げて、もっといいギャラをもらったらというのである。もう、ギャラは最高のランクだと思うし、上がったとしても、一・二万なのである。それに、この出版不況で、出版社は下げるとことは要求しても、上げることはないだろう。

(20121月26日・木)

戦国時代、武田信玄もそうだが、京都の公家から妻をとることが多いようである。

京都の文化を笑われないように学ぶというのもあったろうし、公家の娘というだけで、格式も上がるということにもなったろう。しかし、公家というのは、親族を増やさないため、外からの血をいれずに、親戚同士で婚姻を重ねていくということがあったろう。

それで公家顏といわれる顔ようなのぺっとした、迫力に欠ける顔ができるのだろう。

それにしても、戦国諸将が自分の絵を描かせたとして、その絵が残っているとしたらおかしいと思う。きっとその武将は怒ったに違いないし、破り捨てたりしているだろう。あまりにも下手な絵が残っているもんだとあきれ返るのである。

(20121月25日・水)

今、北条早雲を初めとする北条五代の戦国大名の下絵を描いている。評伝、手紙等を類推するとその人間の性格というようなものも浮かび出てくるが、疑い始めるとキリが無い。参謀がいてやらせてるんじゃないかと思ったりするのである。

そんなことになると暗中模索に陥って、人物が描けなくなる。

今回の北条五代はそういう考察は避けて、五代を描いた古画をあくまでも参考にする。

しかし、北条五代の古画を見るのつけ、多分同時代に描いてないのかもしれないと思われる絵なのである。北条氏綱の絵も、北条早雲をちょっと変えて描いていそうなのである。他の絵も、父親のお顔をほぼそのままといっていいほどで描いているのである。

お粗末としかいいようがない。後世の我々は、振り回されて、それを教科書とか文献に掲載しなければいけないわけだから、先達ももうちょっと真面目に描いて欲しかったと思うのである。

各地にの、歴史人物の肖像画を、改めて描いて欲しいと思っている地方はたくさんあるのではないだろうか。もともと、戦国の武士も、江戸時代に描かれたものとか多いようであるから、今描いたとしても、そんなに遠慮しなくても本来いいだろう。

絵を描く上での私の心構えというのは、その人の存在感である。この人が、人前に立った時なんらかの説得感を持ち得る顔である。その顔探しが私の職務である。

この北条五代の古画にまるで存在感がないが、そこに小田原市が悩んでいるのである。私が託されたのは、北条五代の絶倫な存在感を描くことなのである。

(20121月24日・火)

芥川賞直木賞が大きく報じられているが、小説というものがそんなに存在感のあるものなのかというと、今はそうでもないだろう。昔は楽しみというものが少なかったから、小説が大きな楽しみだったと思うが、楽しむものが多くなって、小説家が力むほど大それた存在ではない思う。

美術書なんかみると、美術について難しいことを語ったものがある、書く方も書く方だが、それが解読できる人がいるというのも、不思議である。難解な美術評論家も、突き詰めると美術家から美辞麗句の評論文を頼まれ、彼らから幾ばくかのお金をもらうのである。我々はその文章に振り回されて、さっぱり、その絵を見て文章と違う印象を感じて、コンプレックスを抱えてギャラリーを出ることになったりする弊害をもたらす人でもあるのである。

人生にそんな難しいものがあるんだろうかと思う。難しく書いて、演出するということはあるだろう。それが解読できないと、バカにする著者もいる。ところが、足元の生活のことを彼らは知らなかったりする。

歳をとると、俺は俺でいいじゃないかと肯定的になる。皆さんもそうだろう。

(20121月23日・月)

私は幼稚園の時は、同い年の中では1番えばっていたと思う。その前の年は藤井まことさんというひとだった。
それが明確にわかるのが、クリスマスの時の芝居である。毎年出し物は決まっていて、赤頭巾ちゃんである。狼役が、一番えばっている奴、いわば取締役がやる役で赤頭巾ちゃんと共に主役である。私はそれを意識していた。私がオオカミの役を絶対取るものと思っていて、そして取った。

この頃のその取締役は、新しく入園してくる同い年と相撲をとって取締役を決めたようである。覚えているのは、高山泰彦君という人が入ってきた時だった。彼はとても相撲が強かった。だから、なかなか勝負がつかなかったが、私が勝った。だから印象深い。

彼のことは「やっちゃん」と呼んで、子供の頃はよく家に遊びに行った。

あの頃子供がたくさんいて、同い年の子供達も、高校まで一緒だった人がたくさんいる。幼稚園から大学まで一緒だったのに、加賀見正というのがいる。これは珍しい。

もうその幼稚園もやっていない。昔は富士吉田の中心街だったが、もう廃墟のようで、街には老人ばかりで、経営は成り立たないんだろう。

寝小便たれだった私は、昼寝の時間に寝小便をしたものである。昼寝は、すごく広い部屋に、布団をそれぞれ持ってきて、一斉に寝るのである。みんな爆睡していた。

私の仲良しの女の子は、中央医院のけいこちゃんにパン屋のあけみちゃんだった。

(20121月22日・日)

ときどき、私の展覧会に行くのに入場料はいくらかかるのかと聞く人がいる。私はそういう質問がくることを想定してないから驚く。当然タダだよと答える。
しかし、こういう人はギャラリーでする展覧会を見に行ったことがないんだろう。

ただ、私もギャラリーでの展覧会の入場料をとるというのも、あるな?と思う。それでも人がくるなら、それこそすごい人気である。ステイタスにもなる。一度やってみたいものだ。

(20121月21日・土)

これも書いたことがあるんだろう。
草鞋の会というのを作って、展覧会をすることになり、メンバーに共通の作家に私達についてのコメントをもらい、案内ハガキに載せようということになり、私は黒岩重吾さんに電話したことがある。
午前11時頃だろうか。電話が取られて「ガチャガチャ」と音がしたあと「黒岩ですが」と声がした。が次の言葉がこちらが名乗っても返事しない。そのうちにまた「ガチャガチャ」と音がして、もしもしと私が言っても返事がなく、そのうちに大きないびきが聞こえてきたのである。

黒岩さんは、多分健気にも電話をとったものの徹夜かなんかしていて、とんでもない状態だったようである。

面白い体験をしたことを思い出して日記に書いた次第である。

(20121月20日・金)

 今日が二つの文庫の締め切りであるが、全然出来上がらない。二つから連絡が昨晩来たが、月曜日にしてもらった。しかし、明日は岡田畳店の展覧会の最終日である。午後から行かなければならない。それに、作品の片づけで作品も入れ替えなければならない。一男去ってまた一難。

 とにかく、一番ベストな作品を飾りたいと持っているのであるから、手を抜くつもりはない。

 明日までの岡田畳店の展覧会は、年に何回かする特別展であるが、明日以降は、常設ギャラリーとなって、私は行くことはないがいつでも見られる展覧会となる。今年は忙しいので岡田畳店での特別展は、年末にしかないと思うが、皆さんには私の留守中の覗いていってほしい。

 ほとんど人が来ない展覧会であり、私の特別展にも一日5.6人である。もっと人がきて欲しいが、あきらめつつ、長くやっていくつもりである。とにかく川越で個人の常設ギャラリーがあるのはここだけなのであるから、貴重なところである。

(20121月19日・木)

 二冊の文庫の切り絵の下絵が出来たが、きり始めたが、全然力が入らない。ちょっと体が思いようだ。最近、友達知人に、アイパッドで作品を撮影して、メールで送っているが、私の仕事の量の多さに驚いているようであるが、このくらいは毎年してきたのであるから、驚かれた事に驚いた。

 しかし、だいたい身体を壊さないでねとかのご心配をされてしまう。でも、あまり年のことは気にかけないで、やっていこうと思う。だ田、よく眠っているの心配なさらないようにお願いしたい。

 体が悪いという面では、ちょっと血圧が高い、血管が固いらしい。毎日酒を飲んでいるが数値は悪くない。新陳代謝が悪いと思うんで、手足の結構も悪いようである。私は病院には、進んでいく方である。

 今は、半年以上は医者に行っていないんで行きたいなあと思う。血圧の薬は医者にもらって飲んでいる。あと、相変わらず、はげ防止の薬も皮膚科にいってもらって飲んでいる。ちょっと前、クスリを毎日飲むなんてなかったが、そののようになった。

(20121月18日・水)

 ザブン賞の私の役割は、その応募作品の優秀賞の作品に絵をつけて、作者の小中学生にプレゼントするというものである。他の作家に原田維夫、蓬田やすひろ、西のぼるの3氏も同じ役割をしている。

 ただ、3氏ともとても忙しいので、もっぱら私が行くことが多い。その絵画作品及び、作者の作品の展覧会もあわせて行われているのだが、私は等身大切り絵を出品することで、郵送するわけに行かないし、展覧会が終わっても、引き取りに行かなければ行けないということで、今日また宇都宮に行ってきた。

 林香君さんという陶芸家の文星美術大学の先生の教え子たちも、手伝いに来ているのだが、渡した北ということで、一年生が、私の話をちょっと聞いていたが、一人の学生が、急に体が揺れたと思ったら、顔が真っ青というより真っ白で貧血を起こして倒れそうになってしまった。そんなに長くしゃべりはしなかったと思うが、驚いた。そんなわけで、午後から今やっている川越の岡田畳店での個展に行かなくてはならず、すぐ帰ってきた。

 午後から、一瀬さんというイラストレーターの一団がくるということで、待っていた。3人の彼女たちを川越を案内した。まだ若い彼女たちに、いろいろ話した。かけがえのないイラストレーターの後輩たちである。長い付き合いになりそうである。

(20121月17日・火)

 土曜日にザブン賞という、水についての環境問題をテーマにした作文を小中学生に書いてもらって、表彰するというNPOの北関東地区の表彰式に行って来た。毎年私は行っているのだが、そこで、切り絵のライブも披露するのである。

 作家の安部龍太郎氏も来る。全国から6000通の応募が来てそこから選ぶのだから大変なことである。

 宇都宮は前は餃子をわざわざ食べに来たことがあるが、なかなか訪れるところではない。こういうことでもない限りないので、行ってみる事に毎年しているわけだ。帰りはスタッフでいっぱいやってホテルに泊まって、埼玉に帰るのである。

(20121月16日・月)

相撲取りを見ていると様々な顔の人が出てくるので面白い。その中で、ひたいの広さには興味を惹かれた。ひたいの広い人は結構多い気がするが、狭い人は稀である。しかし歴代の相撲取りで、二人ほど狭い相撲取りがいた。眉毛から、指3本くらいの狭さだった気がする。

人の顔を描く時、ひたいの形も気になるが、なかなか主役に個性は出しにくい。ひたいの狭い主人公とか、それなりにカッコが悪いところがある主人公ならいいんだが、スマートな人だとそうはいかない。

主人公を描くのではなく、敵役を描く時は、思い切って稀な風貌もいれることができて変化をつけやすい。読者の方もそれも面白いと感じてくれるだろうと思うが、いつもさっそうとかっこいい主人公を見られるというのも、嬉しいのだろう。

(20121月15日・日)

相撲見物は、これまで3回だが、四回目を日曜日にした。椅子席の前からに列目であった。弁当を食いながら、酒をの見ながらが憧れの相撲見物だったが、途中で眠ってしまった。

前は蔵前の国技館で3階席があり、とても安かったが、確か大鵬時代で人気がなく、3階席は最後まで私一人だった。3階席はとても急で、自殺願望がなくても、うっかりすると下に落ちそうなくらいだった。

小学生の時は相撲が強く、小学3年の時はクラスで優勝した。だから、当時相撲取りになってもいいと思ったが、野球の選手ほどではなかった。

それにしても、相撲取りの取り口のつまらないこと。引き技が多すぎるし、よくパタパタ転がる。もっと軽量化した方がいい。重量化して、力士の怪我も多くなるだろう。

先代の貴乃花は、頚椎捻挫をしてから、精彩を欠いた。あれがなければ、横綱になったろう。

稀勢の里を見ると、相撲態度が北の湖に似ている。いつも緊張していて、勝った時も、負けた時も、慌てている。北の湖より慌ただしい。気持ちの優しい人なんだろうと思うが、気の毒である。

(20121月14日・土)

今日は宇都宮のザブン表彰式に出席である。一泊して、日曜日は相撲見物。しかし、仕事をしながらになりそうである。でも、そんなに明るいのかな? 椅子席の上等な席である。

(20121月13日・金)

 次の文庫の仕事が順調に上がっている。しかし、雑務が多すぎて、そちらではかどらない。
 3月の小田原の展覧会はかなり大々的に宣伝をするようである。チラシポスター等が準備されている。私も早く、北條五代を製作し終らねばならない。

(20121月12日・木)

伊東屋の展覧会が5月10日から17日に決まった。当初、伊東屋さんが今年度ギャラリーをするかどうかもわからなかったが、一応することになって、急遽決まった。
6月には原宿でやることになっていたが、キャンセルした。等身大切り絵の展覧会になるので、それだけで埋まってしまうので、売り上げはあまりないかもしれないんで、ううーん。

小田原城、上田市と連続してあって、その3日後の伊東屋の展覧会だから慌ただしい。
そして鶴ヶ島での展覧会はあるが、早々にコロラドでの展覧会の準備にかかる。

(20121月11日・水)

仕事のやり過ぎの時に出てくる症状は、右手が電気が走っているような痺れを感じる。肩が凝り、頭痛になる。
朔日は朝に講談社文庫が終わり、次東洋大ののイラストを切り始めたが、頭痛肩こりで中途でやめた。限界がきた合図である。

しかし、作品を作っていてスランプなないのかと聞かれるが、スランプを感じたことはない。ただ、あとから考えれば、スランプだったな?と感じることはある。

作品を作る時はいつも新鮮で、気持ちはとても初々しいと思っている。いつも作品が完成すると、俺にこんな作品が作れるんだという驚きである。

(20121月10日・火)

メダカを飼い始めた。何回目だろうか。前は8年くらい前だろうか。畦道をバイクで走っていたら、田んぼの水路が波立ったので、何かいるなと思って、バイクを止めて覗いたらメダカがたくさんいたのである。
前も書いたが、私の住む近辺の小川は、富士山の麓の急流でメダカが生息できない。ちょっと離れたところに、蓮池というところにメダカはいたが、子供の当時釣りに行ったが、歌や文章に出てくるメダカが、その蓮池にいた小さな群れをいていている魚だとはは認識できなかったのである。
あれが、後から知ったメダカとの初めての出会いである。

私はそういう意味では、川の生き物とは縁が薄い。田んぼの生き物はそうではない。昔は田んぼにはたくさんの生き物がいた。ゲンゴロウや糸ミミズ、他にもたくさんいた。一度水カマキリと言ったかな、節がついた細い竹のような生き物だった。

暗くなるまで外で遊んでいて、親たちもそれで安心して仕事に専念できた時代である。

(20121月9日・月)

極端な話なのかもしれないが、日本の政治家が外国に行く時に着物で行くようにならないと、日本はよくならない。
玄葉外相がエジプトで王子と会ったとき、あちらは民族衣装である。日本が日本文化に自信を持つ時が、日本の始まりのような気がする。

野田さんも毎日紋付袴で、登院してほしい。

(20121月8日・日)

東洋大学のテニス部の3つ先輩の山本さんが、亡くなっていた。

私が芸能人の名前を忘れ、確かその人は自殺したから、一覧でもHPにあったら載っているだろうと思って、昨年の芸能人の自殺者を調べていて偶然見つけた。高知県の県会議員を何期もしていた人だったから載ったのである。

テニスは、申し訳ないがとてもやってたと思えないほど下手だった。そして、大学は8年間かかって卒業したということで印象深く、大変おとなしい性格の人で、県議会議員になるような政治家タイプの人ではなかった。

資産家の家に生まれたようで、議員さんになる家柄だったんだろうと思う。
時々、OB会にもお金を寄付してくれた。

(20121月7日・土)恐ろしい夢

私は本当にたまに、缶のペンキを使うことがあってか、毒薬の缶の夢を見た。メッキ工場だかの従業員が、缶のふtを開けっ放しで放置、その後自然発火し、猛毒が充満する、そうとは知らずに助手の女性らが、そこを往来する。つかった従業員も何度か通る。

一人の従業員は、別の場所で倒れ亡くなり、次の日、美人従業員が死んだと知らせががあった。その次の日、放置した従業員がなくなった知らせが届いた。それで、私は目覚めた。

 正月から縁起でもない夢である。夢占いにかかると、とんでもない事をいわれそうである。

その後、前にも書いたが、高校から帰ると、胆嚢炎で学校を休んでいた、教師をしていた父親が、毎日家で寝ていたのであるが、その布団が陸亀の甲羅のように盛り上がっていたのである。

母親が父親の上に乗っていていることはわかったが、私は何をしているんだろうと不思議に思っただけで、何回も通り過ぎた。でも、不思議すぎて今でも記憶しているのである。
真昼間、大きな明るい部屋にポツンとある寝具である。今だったらすぐわかる。
私が、鈍くなかったら万事休すだったろう。二人とも焦っていたと思う。
考えてみれば、父親もまだ50歳そこそこ、母親も、10歳違うから、40過ぎで若かったのである。

高校時代、下敷きをカンニングがないように集めてバラバラに配布するが、何かをしていて動作が遅れ、しょうがないから同じく遅れた前の奴の下敷きと交換した。この律儀なアクションを短絡的な高村という教師が目撃してその場で怒ったし、職員室に来いというのである。いっそのこと交換しなければ良かったのである。

私は、やむ終えず交換したと言ったのだが、そんなことは通用しないというのである。二人の真剣な表情をみればわかるはずだし下敷きにカンニングの形跡はなかった。だが認めないのである。ある程度のところで、わかったと言ってくれればいいことだったと思うが、駄目だの一点張りだった。今でも悔しい気持ちが残っている。悔しい思い出が残るほどなのは、やりすぎである。

人には面白い時代が、人それぞれであるようだが、私は小学生の時である。目いっぱいよく遊んだ。高校時代が楽しかったという人があるが、つまらない時代だった。大学もそうだった。楽しくなったのは、自分で判断して自由に動き出した社会に出てからである。

今日は7日である。一つ仕上げないといけない。焦ってくる私である。

(20121月6日・金)

 今年中に、アトリエを引っ越そうと思っている。このアトリエは、広いのであるが、3階である。末のことを考えたら、一戸建てか、エレベーターのあるマンションか、倉庫と事務所が付いている建物がいいと思う。

 それにしても物が多いので、半分くらいにしたいが、作品が多いので、半分にはならないのかもしれない。

 川越と鶴ヶ島だとさすがに川越のほうが高い。また何れ引っ越すつもりで奥まったところでもいいと思っている。

 あと、4日で川越岡田畳店の展覧会の開始である。仕事も忙しい。私が千手観音になれればいいなあと思う。

(20121月5日・木)

3日の箱根駅伝、東洋大学横浜応援の崎陽軒会場で大学の研究室の太田先生とお会いした。当時と変わらないお姿だが、耳が遠くなられたとのこと。

一番感謝しているのは、卒業論文であった。私は、卒業論文の意味が結局分からず、毎日考える建築についての雑感を文章にして、提出した。早くいえば、日記である。

私は、足が地につかずに、あっちの文献こっちの文献をアレンジして提出していた同級生に不思議でしょうがなかった。

建築とはなんだろう、どのようにしたら理想の建築ができるんだろうと、迷っていることをそのまま書いた。そんな幼稚な卒論を通してくれたのである。

今でも、イラストについて、芸術についてよく考える。自分なりの考えは、できつつあると思うが、なんだそんなことかと笑われるのかもしれないが、人間の進歩というのは、一生かけて階段の一歩を登るくらいのものなんだと思う。

(20121月4日・水)買いかぶり

私は、人の買いかぶりで、人生のかなりを損をしたことがある。

最近二人ほど、買いかぶり過ぎていたと思う人がいる。

その一人から亡くなった方の追悼文集を作るということで、私には依頼がきた。しかし、文章を書いて出したら、初めての出会いの日にちと、所属を教えてくださいとメールがきた。出会いの日にちまでわからないので、出会った頃の年代をぼかして書き、所属というのは意味がわからないので、質問のメールを出したが返事がなく、しょうがないから、切り絵作家をしていることを濃厚に書き、無所属であることを追記して、またメールを出したら、同じ文句で、メールで要求がきた。

私は、残念なことだが、腹が立って降りた。だが、それから、彼からメールがあり、何か失礼なことをしましたかとマジに分からないらしいメールだったのである。私は「この人はおかしな人なんだ」と思った。そして、もう還暦もかなり過ぎ、治らない人と判断して、無視をした。

それからそのことは忘れていたが、あるミーティングで、亡くなった方の奥さんから彼が任を外されたと聞いた。色々な方に十分に良い文章をもらいながら、私にやったようなことをしていたのだろう。

自治会の委員長をやり、学生運動をし、当時珍しい大学院に行き、現在は大学の教授をしているらしい。私はそんなバランスの悪い人だとは思はなかった。

歳を取ると 人はばれてくる

歳を取ると 人は見えてくる

もう一つは、直接今も身近にいたのだが、この人も周りが見えない人だった。結局、ちょっと長い間振り回されたかなと思う。遠ざかろうと思う。

買いかぶりは、人生にプラスにはならない。よく見れば、最初から見えていたりする。その時、遠ざかることが出来るようにしたい。

大森亘君メールアドレスが教えて。業務連絡です。

(20121月3日・火)

 さて、横浜に駅伝の応援である。全国の東洋大学OBが横浜崎陽軒に集結する。これが最後かもしれないということから盛り上がりは必死である。しかし、対抗の駒澤大学の追い上げがあるだろうから、スリリングな展開になるかもしれない。

 私の東上線沿線には、駅伝の強豪が沢山ある。城西大学、大東文化大学がそうだ。大東文化大学はかつてはかなりの強豪だった。鶴ヶ島の隣の霞ヶ関というところに、東京国際大学というのがあるが、これがまた体育競技に力を入れ始めていて、テニスは何だっけ、皇室にテニスを教えていて、佐藤直子。サッカーはなでしこジャパンが優勝したときに良く解説で出てきたあのファッションの美人解説者が監督をしている。野球部監督は古葉監督である。おっつけ、駅伝に出てくるだろう。

 そんな気はなかったけど、一昨日に長峰園の絵、昨日は金太郎の一日、とやってきたので、もったいないから、一日一切り絵でも実行してみようかと思う。さて、3日目は電車の中で描いて、帰ってきたら仕上げるというのはどうだろう。

 さあ、いつまで続きますやら。

 十何年かやってきた鶴ヶ島の教室を閉じた。生徒もあまり活発でなくなって、だらだらやるのも嫌だったのである。入ったばかりの人は、まだまだ面倒を見ようと思っている。

(20121月2日・月)

 二日である。箱根駅伝の東洋大が楽しみだが、楽勝であった。柏原君は私の後輩に当然なるが、同じ鶴ヶ島にある東洋大学の川越校舎の合宿所にすんでいる。だから、昔は走っているのを見た。しかし、あまりに有名になりすぎて、大学からかなりはなれた人が歩かないようなところをひそかに走っているらしい。

 明日は、往路である。是非とも優勝して欲しいものである。

 それにつけても、柏原の走った4年間はあっという間に過ぎた。早いものである。ちょっと、寂しい感じもする。
 そういえば、東洋だのOBから応援ラッパに入れるイラストを頼まれた。彼はあまり私のことを知らずに頼んできたようだが、そこらがちょっと寂しいが、ほぼボランティアで引き受けた。またまた、忙しい。

 そうだ歌手のタローさん、カレンダー行ってないでしょう。このHPの掲載のアドレスに住所を教えてください。業務連絡です。

(20121月1日・日)明けましておめでとう

 今年はご存知の通り、過酷な展覧会スケジュールである。元旦から、それを考えると緊張する。

 6月7日の誕生日を迎えると61歳である。これも頭にちらつく。これから、できるだけ無駄を少なく、そして楽しく、充実した人生を渡って行きたい。

 元旦に、前に日記に書いたアトリエの大家長峰園の、暖簾用のイラストを作った。知人にはIpadの方のメールで送って見てもらった。なかなかの出来である、前に作ったのが20年弱前であるから、このイラストの出来の差が私の腕前の変化である。

 一番の違いは、早さである。あの時代より、デッサンのスピードははるかに速い。そして、すこぶる上質の作品が出来る。動きも表情もである。

 でも、上には上がいる。私は切り絵作家には、ライバルはいないと思っている天狗である。しかし、イラストあるいは絵画界となれば、いやとても恥ずかしくなる人物がいる。それは蓬田やすひろである。彼はもともと、三度の飯より絵を描くのがすきという人間である。私のように、出来るなら、テニスをしていたいとかいう体質ではない。私とは体質が違うのだ。

 しかし、こういう人物には、いくら天才と時々言われる私でも歯が立たない。

 蓬田氏の友人に醤油屋さんがいて、私はそちらにカレンダーをお送りしているが、そちらから製品のお返しを頂いたのであるが、全てのパッケージが蓬田氏の絵でできている。それはすばらしい。

 私がそれを切り絵でするとなると労力だけで大変だというハンディはあるが、これだけの絵が描けるのかなと思うと、いや多分ペンで描けば出来そうかなと思うのだが、そこらが怪しい。

 それで、ペンの仕事もやって見たいと思うのである。多分小さな人物とか建物とか切り絵では無理な作品の領域が広がることは間違いない。しかし、私は切り絵が好きなのである。

(201112月31日・土)岡田畳店展のあいさつ文

「この度は、百鬼丸の「真田十勇士展」におこしくださいまして有難うございます。

それから、明けましておめでとうございます。

もうこちらの、岡田畳店さんに百鬼丸の常設ギャラリーとして使わせていただいて、足掛け4年目を迎えるのでしょうか。

今まで、マニアックな企画でやってきましたが、私のベストの作品を常時展示して行こうと考えを変えました。現在の特別展とは規模は小さくなりますが、常の展示は、皆さんが驚くような展示作品をそろえ川越名物にでもなったらなあと思っています。

さて、またなんで等身大切り絵を始めたかということと、真田十勇士を今回なぜテーマにしたかということですが。

まず、等身大ですが、実は展覧会では近年、立体の切り絵に人気が集まり、平面切り絵が目立たなくなった印象がありました。それで、立体の切り絵に対抗する手段はないかと、考え出したのが、等身大切り絵です。その通りに、このアイデアをやって良かったと思っています。

真田十勇士ですが、何と言っても、私の切り絵は顔の表情と動きにあると思っています。それをこの等身大切り絵でチャレンジしたいと考えました。そうすると、動き?忍者?真田十勇士となったのですね。

とはいえ、真田幸村に惹かれて行く人間たちが、それだけの理由で動くというのは、私は永遠のロマンに感じます。描き甲斐のあるテーマでな?と思っています。

今年は、この展覧会をかわきりに、小田原、信州上田、東京、コロラドと展覧会が続きます。知り合いの方がいらっしゃいましたら宣伝よろしくお願いいたします。」

(201112月30日・金)

大人がゲームをしているコマーシャルがあるが、時間がもったいないんじゃないかと思ってしまう。ゲームの精神的な効用もあるんだろうが、私はそう感じてしまう。

(201112月29日・木)

 今、領収書の整理をしている。これが大変だが、私は何故か集中して出来るのである。ただし、それを計算までして申告までもって行くというのは億劫である。

 大晦日も何か手を動かしているし、正月もそうだろう。来年早々、三つの本のカバーの仕事を納めなければならない。私の仕事は一月だからと行って、仕事が少なくなるわけではない。さぼればあとが苦しい。

(201112月28日・水)

その時代その時代に、やけに使われる俳優がいる。昔は緒形拳や西田敏行、他にもいただろう。

しかし、香川照之は最初から、よく出ていた。浜木綿子の息子で、彼女がプロデュースしたことも考えられるが、それより東大卒ということもあるんだろうと思う。芸能界に東大伐というのがあったりするのだろう。少なくとも、天下った官僚が数多の放送関係や芸能関係の会社にいるだろうし、国民も頭がいいということで一目置くということは大いにある。私も特別嫌いというわけでもない。

ただ、西田敏之のようなのは、使われすぎだし、本人も節操がない。

NHKの大河で新撰組の近藤勇役をしていた香取慎吾も、同時に忍者ハットリ君をしていたのは情けなかった。
いっぺんに香取慎吾が嫌いになった。

東大出の加藤登紀子もあれだけ芸能界にい続けられたのが不思議である。声がずば抜けていい、歌がうまいというチャームポイントがあったとは思えない。

東大出というのをチャームポイントにするならば、知性やシリアスイメージの俳優でなければいけないだろう。お笑いは東大の効力を失う。

(201112月23日・金)ちょっと日が戻りましたが

今日は私が所属しているテニスクラブの親睦テニス大会である。大会といえる大会ではないけれど、こういうのに出るのは久しぶりである。

昨日久しぶりにテニスをした。まあまあである。私のテニスは、ストロークに関してはフルスイングだからとても気持ちいい。野球というのは、ピッチャー以外滅多に球を扱わないから、つまらない。しかしテニスはバンバン戻ってくるから楽しい。

このテニスクラブに入ったのは、もう6年位になる。途中で他のクラブに2年間ほど行っていたが、また舞い戻ってきた。

川越の大会に出たいが、組む人がいない。組もうと誘われるが、私が伸びそうな人とじゃないと嫌だと思うからである。自分が伸びるという希望をまだ持っている。一度組むと解消しづらいからである。

(201112月27日・火)

そういえば、来年の干支の切り絵を作っていない。中島さんすみません。

人の髪が黒いものと思っているが、そちらの方が特殊で、白髪のがノーマルと考えれば、時間の経過を考えれば、そのように考えてもおかしくない。黒髪は40年。人生80年としたら、後の40年は白髪だったとしても、半々となる。

人間が白髪で生まれたら、黒髪になるのが嫌だな?ということになるのだろう。確かなのはとしをとって生えてくるものは歳をとった証拠を突きつけられるから嫌なんだろう。

前の日記に長峰園のアパートで学生時代暮らしたと書いたが、このアパートは良かった。鶴ヶ島駅から3分。部屋は四畳半と3畳で、トイレと台所があり、風呂が共同であった。

確か部屋代は6000円だったと思う。当時でも格安だった。そこで自炊をして暮らしていた。テニス部に所属し、そのため体育会本部に派遣されていたので、体育会の仲間のワンゲル・阿部が飯を食いて来ていた。酔っ払ってくることが多く、朝飯を食べさせた。

その中に後輩の剣道部・柄本がいて、こいつが酔っ払ってくると困った。玄関で夜起きて小便をしちゃうのである。みんなの靴は小便だらけになってしまったものである。これだけは自分のチンチンじゃないからどうしようも無い。

それから、広いから同じアパートの住人にカップルが多かった。だから、夜は勉強しているとHの声がよく聞こえていて、そりゃ困った。

学生運動をしていた闘志も、その仲間同士で子供ができて、学生運動どころでなくなって、3人で暮らしていた。親からの仕送りで暮らしていたんだろうが、親も大変であったろうが、まだよ余裕があった頃なのんだろう。確か山本さんと言ったかな。

私たちが学生の頃は、本当にいい時期だったと思う。学生がのんびり学生運動なんかできたんだから。ものが売れたから、新聞の家電品、車等の宣伝がすごかった。

そのせいで、著名なイラストレーター、カメラマン、デザイナーがたくさん出てきた。芥川賞作家が売れていたのもこの頃である。今は直木賞作家の方が売れる。

もう、政治家のトップが私の年下になってしまった。

思えば、いろいろな人の引退で、それが節目になっている。巨人の長島の引退は淋しかった。同世代の貴乃花の引退、ヤクルトの八重樫は同い年の最後の野球選手で、彼の引退も寂しかった。引き潮のようにみんな無くなって行く。

ところで、人の髪が黒いものと思っているが、そちらの方が特殊で、白髪のがノーマルと考えれば、時間の経過を考えれば、そのように考えてもおかしくない。黒髪は40年。人生80年としたら、後の40年は白髪だったとしても、半々となる。

人間が白髪で生まれたら、黒髪になるのが嫌だな?ということになるのだろう。確かなのは歳をとって生えてくるものは歳をとった証拠を突きつけられるから嫌なんだろう。

(201112月26日・月)

明治維新から、150年。長いのか短いのか。あれから富国強兵で、頑張って戦争をいく度かして、世界で一番の時があって、すごい特殊な国民のような気がする。頑張りがすごい。

隣の韓国も中国も頑張ってはいるが、今ひとつ品がない気がする。とは言え日本のビジネスマンの現状を目の当たりにすることはない切り絵作家であるから、日本がどの様だったが知らないのかもしれない。

日本人の特徴といえば、この一途な真面目さと、決断力のなさである。この決断力の無さは江戸時代にさかのぼるのだろう。失敗すると腹を切らなければいけないとかお家断絶とかの時代である。皆で、責任の所在がわからないようにして、助け合ったのだろう。

優しいのであるが、決断力がないのである。優しくて決断力がないから、知らないうちに戦争なんかをする羽目になってしまうのである。日本には良い独裁者が、必要な国民性なのではないだろうか。天皇とか、将軍とか。誰か。

昨年、アメリカに行った時、日本人は好きだという人がいた。それは慎み深いという事で、日本人のかっこよさに通じるのだそうだ。よくあちらに行ったら、自己主張をしないといけないというが、その慎み深さを武器にできないものだろうか。多分損もするだろうが、徹底すれば、武器になるのではないか。

(201112月25日・日)

久しぶりに富士吉田の実家に来た。それで今、近くのガストで明日締め切りの仕事をしている。

歴史小説の挿絵の仕事だが、固有名詞が出てきて、この人たちがどういう性格だったか、判断がし難い。会ったことがないから当たり前であるが、私と同じ人間であるので、性格というのはあったはずである。だが、それを判断する手掛かりは、人物のその時の行動と手紙と言い伝えくらいしかないだろう。

しかし、それにしても参謀がいて、ほとんどその人の案を実行にしたいたに過ぎないと思えば、またまた、分からなくなる。占いでやっていた人もいただろう。

絵なんかも残っているが、時代が下ってからだったり、残っている絵はとことん下手だったりする。

この小説は真田の話であるが、真田というのは、ちょっとした地方の豪族にしかすぎないのが、よく渡り歩いて大名になり、江戸まで残ったが、うまくというイメージの割には、結構駄目だろうと思う窮地を選択してもいるわけで、かなりの運・偶然が左右した部分があるのではないだろうか。津波に呑まれても生還した人のように。

ただ、人を描く時に、確保したいことがある。それは存在感だ。それにカリスマが現れていたら尚いい。小説の登場人物というのは、だいたいが、正邪に分けられて描かれているから、悪は悪らしい存在感で描きたいと思う。意外に主人公は難しかったりするが、さっと描けたりもする。私も分からない。

話は変わるが、何で歴史上の人物が下手に描かれているのだろうか不思議である。家康にしたって、信長にしたって、秀吉にしたってそうである。皆さん不思議に思いませんか。素人の絵ばかりである。もしかしたら、絵描きという商売がなかったとも考えられる。征服された大名なんかは、いい絵は焼かれたとかあるだろう。

それについて、どなたか解説している識者がいるんだろうか?絵からは、だから性格を想像出来ない。

(201112月16日・金)

 切り絵の森の同窓会、切り絵作家が集まった宴会が昨日終わった。切り絵の森の建設的な話があるのかと思ったが、そうでもなかった。
 日記が滞っているが、見ている方々ごめんなさい。

(201112月24日・土)

絵は数やれば上手くなる。だから人には、上手くなりたかったらプロになれといい続けているが、それは私の経験であり、しかし、驚くほどプロになっても上手くならない人がいる。私の目からみると、申し訳ないがほとんどの人がそうである。

プロで飯を食べている人は、数をすれば上手くなる残った一握りの人ということになるのかもしれない。

才能というのだろうか。そこらは、プロにならないとわからないし、ある程度して自分で才能があるかないか判断しなければならない。人の才能は、いつ開花するか人には分からないところもあるのかもしれない。

私は、子供の頃絵はうまかったようであるが、三度の飯より絵が好きというタイプではなかった。今でもそうである。(今、私が仕事の締め切りを守れないのも、そこらに原因があると思う)そして、プロになれるほどとは思ってもいなかった。

もし、絵が好きだったら絵の学校に行っていたろう。そして、多くの才能を見て、絵描きをやめていたかもしれない。

私は絵の才能というのはあると思うが、才能を持っていることにうぬぼれはない。それは才能のある人が、それを本人自身知らないで、あるいは知っていても、他のことをやっている人がたくさんいると思うからである。私が出身地で個展をすると「文昭より俺のが絵はうまかった」という仲間がたくさん来るのである。私は、素直に聞いている。

私はたまたま奥手で、27歳の時に自分の才能を発見したのである。もっと早くに知っていたら、漫画家になっていたと思う。27歳では遅いと思ったし、手っ取り早く収入を得たいと思ったのである。今考えれば、バイトを続けながら、漫画家の道を歩めば良かったのかもしれない。

だが、まだ今密かにそんな夢が描いている。

(201112月23日・金)

金正日が亡くなったが、そのお父さんもなくなるのを見た。親子二代の葬儀を見られるというのはそう珍しことではないだろう。

天皇家でいうと昭和天皇の死と平成天皇の告別を目撃することになるのだろう。寂しいことだし歴史が作られて行くことを実感する。

昔仲のいい作家の赤瀬川隼さんが、今の天皇は天皇はいなくて皇太子だと厳然としていっていたが、確かに私にも皇太子に見えるのである。平成天皇が、多分若い頃を知っているからだと思う。彼の資質のせいではない。

今のお顔を見るにつけ、髪を黒くしたら、まだまだお若い童顔である。

昭和天皇を知らない人は、今の天皇を私なんかと違い、天皇という実感を持っていると思う。

話は変わるが、知人の葬儀が多くなり、別れが多くなったが、私なんかの歳になると、おっつけ私自身が亡くなるので、またすぐあの世で会えるじゃないかと頭の中に浮かぶ。しかし、そんなことがあるもんかと科学の世の中にいる私は一方で思う。

これは科学の発達の欠点だと思う。これでは日本文化が滅びるのも当たり前だと思う。日本人の行いなんて、死んだ先のことまで考えて行動していたわけだ。いいことをしないと末代まで祟られるとか、浄土へ行くための守らなきゃならないことが沢山あって、それが今の自然な法律のようなものになっているわけだ。昔はそんな宗教に身を委ねていれば良かった。

神社仏閣なんて、亡くなった方の天国へ行き着くのを祈り、自分自身も極楽浄土へ辿り着くことを願うための施設で、あの世を信じなくなったら、無用になってしまう。

人間あの世を信じないほど強くはなれない。だから、科学の世でもまだまだ、神仏が生き残っていられる。

私も中途半端に神仏を信じて、神頼みをする方である。同じような人がまた、一月元旦に、神社仏閣に集まる。

(201112月22日・木)

幼馴染のお母さんが亡くなった。子供の頃、同い年の幼馴染がいたんで「まあちゃん、あそんべー」と言って遊びによく行ったもんだ。

蛇足だが、考えたら、電話がなかった頃で、無駄足がやたらあったんだんだが、今では電話をかけてからいかないと失礼に当たるらしいが、昔はいつ人が現れるかわらなかったのである。こんな時代の方がいいと思うのである。

私は今でも電話をして人に会いに行くのが億劫である。だから間際まで電話しないで失礼?することが多い。私の幼児体験からきているのが今わかった。

その「まあちゃん」のお母さんとお袋と近所のおばさんたちが旅行に行った写真を持っている。みんな若くて30代中盤くらいの年齢なんだと思うが、いい写真である。

そのお母さんは、華道の假屋崎省吾の実のおばさんでもある。子供の頃は假屋崎省吾氏も富士吉田にも遊びにきたという。

(201112月21日・水)

iPadを買って、カメラもついているから、そのままメールで人に送ることが出来る。それで私のアトリエのパソコン内にある人のメールアドレスを移しつつある。

最近は、友達、仕事関係と私の仕事の途中経過を写真に撮りメールで始めているているのである。これはかなり送られている方は楽しいんじゃないかと、勝手に思うのである。出来上がったのをみるより、下絵からだから仕事をしているという臨場感をうかがえると思うのである。

私の画像が送られてこないと、寂しくなったり、私が病気じゃないかと思ったりすることになるかもしれないと思う。笑っちゃうが。

画像を送って欲しい人はアドレスを送って欲しい。

(201112月20日・火)

郵便物が沢山来る。ところが、処理能力がないからたまる一方である。

きっと私は完全主義者なんだと思うが、全く結果的に完全主義者ではない。もし完全主義者だったら、東大にでも行っているだろうし、こんなに片づけが下手なはずがない。かろうじて、いい切り絵を作る能力が完全かなあという程度である。

 この歳になって、自分が片付下手と宣言したい。アシスタントを生徒出身の人物にしてもらっている。勿論お金を払ってであるが、とても助かっている。

 これまでも、誰かに頼んでいたが、もっと早くから、そういう人たちに頼めばいいと思った。

 これから、いろいろなものを棄てていかなければいけないし、残すものも残さなければいけないと思っている。いや、人生の大掃除である。

(201112月19日・月)

 金正日が亡くなった。占い師のように今後のことを私はどうなるかなんて考えていないが、平和になってくれさえすればいい。

 ただ、平和になればなっただけ問題も生まれる。すぐ浮かぶのが人口増加だ。人類はもぐらたたきのように、問題が吹き出てくる。

(201112月18日・日)

ラジオの深夜放送の定番はNHKの深夜便であるが、3時から5時までの間のニッポン放送の栗万太郎のオールナイトニッポンがいい。しかし、終わってしまうんだという。

3時からのNHK深夜便の歌がいいが、しかし苦手な歌もある。かなり昔のオペラのような歌い方の歌である。

よく、いい声というとあの声楽家の人の声を言ったりするが、あれで声がいいとはとても思えないのである。その証拠に人が聞きに行かない、だから食えない。日本人は芸術がわからないと言ったりするが、とんでもない。あの声楽の声は誰が歌っていても誰が歌っているかわからないのである。声がいいというのは由紀さおりさんのような声をいうのである。

食えないというのは、日本人の本音を知らないからである。あるいは食えなくても、好きなことができればいいやと思っている人である。

童謡も苦手である。童謡はみな美しすぎるのかもしれない。私の子供の頃は、どちらかというと漫画の世界のようなお笑いどたばた喜劇のようなもので、叙情というようなものではないんで、どうも実感がないのである。

60歳になると、色々なことを体験してきて、いろいろなものが見えて面白い。ところが皆さん定年を迎えるが、人生これからということをいう人が多いが、その通りである。無駄なことはせず、本当に合理的な暮らしをするようになる。本当の人生の楽しみはこれからである。

こんな気持ちはいくら言っても若い人にはわからない。彼らはどう逆立ちしても、年寄りを体験することが絶対にできないからである。

(201112月17日・土)長峰園

鶴ヶ島にあるお茶屋さんの名である。

時代小説の仕事をしていると「お茶屋」というと出逢い茶屋なんていかがわしい方に連想がいってしまう。ということでウィキペディアで「茶屋」なんて調べると枝葉でいろいろなことが調べられる。のんびりこういうのを眺めて暮らしたいものである。

話はそれてしまったが、この長峰園は今の私のアトリエの大家である。そして、目の前にある「とんでん」レストランのとのところには木造のとても味のあるアパートがあって、私は学生の頃そこの住人だった。だから、アパートの大家と今のアトリエの大家は同じである。

この長峰園の包装紙から、パッケージまで私のイラストである。

しかし、その長峰園が川越蔵通りの札の辻にお店を出すのだそうだ。この蔵通りに店を出すということは、もう繁盛間違いなしである。何しろ観光客がすごいところである。

それで、私のイラストを暖簾にしたいというのである。
このイラストは、もう20年前に作ったものであるから、今一気にいらないから、やり直してもいい気がする。でもあちらから言われていないわけだから、無料の仕事である。どうしよう。

早速申し出てみよう。今だったら、もっといいものができるはずである。

それにしても片隅に私のグッズでも置ないかな?。