日記2


ホットパンツ(6月6日)

 最近ホットパンツがはやっているようで、ミニスカートより目立っている。でも、全然セクシーではない。足を大胆に露出できるからセクシーに思われているようだ。

 ホットパンツは、どうしてもぴっちりはくことは出来ない。すそが延びてしまうからだ。だから、だらしなくまくれていたりして、からだの線が出てこない。しわがいっぱい入っているし。

 私はホットパンツ反対派だ。


有難う(6月5日)

 昨日は展覧会のオープンパーティであった。さすがに、編集者・作家でにぎやかであった。山本一力さんにお言葉をいただいた。「これだけの人を呼べる草鞋之会は凄い」という言葉が印象的であった。

 他に和田誠さんが見えていたが、早々に帰られて、お話が出来なかった。

 2次会原田維夫がのりのりの司会をして、出席者のコメントをいただいた。私は埼玉に住み、編集者と会うことが少ないので、つくづく原田・蓬田が、編集者との付き合いが凄いんだなあとわかった。二人がうらやましくもあった。

 これから、さらに精進して、皆に愛される作家になっていきたいとおもう。


花花花(6月4日)

 これだけのメンバーがそろうと、出版社からの花の量もすごい。草鞋之会展には、ほとんどの出版社から豪華な花が届いた。私には手塚プロから届いた。有難うございます。

 昨日は私の縁者がいっぱい来た。即興切り絵をし、会場で公開で仕事をし、人と話をし、とても忙しい展覧会である。いつものことではあるが。

 そういえば、風林火山博に来ていただいたお客さんが、いの一番に家族を連れてきてくれた。「あの時感動しましたからね、是非来たかった」とのこと。横須賀の方であった。


昨日(6月3日)

 エスパ昭島に飾ってあった立体切り絵作品を車に積み込み、次の「草鞋之会」展の会場である銀座の伊東屋に運んだ。昭島を出たのは、午後6時ちょっと前であるから、高速が混んでいれば約束の7時には遅れてしまう。

 やはり、高速の渋滞で、着いたのは7時半くらいだった。西さん以外はメンバーがいて必死で作品の展示をしていた。

 私も追っかけて必死で展示をした。終わった。そして、周囲を眺めた。みんなすごい。自分がこのグループにいていいのかなと不安になるが、何とか大丈夫と自分に言い聞かせる。終わったのは、10時を過ぎていた。食事をするというメンバーに、弟子のNを送らなければならないことを伝えて断り、帰路に発った。

 今日から学研の「歌舞伎ギャラリー」という本のカットの公開制作と2時からの即興切り絵である。いい作品が出来たらと念じるばかりである。その前に、締め切り一つ。


いよいよ(5月2日)

 いよいよ草鞋之会展が、明日に迫ってきた。2003年に開いてから4年ぶりとなる。今までは新宿高野ギャラリーであったが、このたびは、銀座の伊東屋である。

 集客といい、雰囲気といい私がやった展覧会のうちでも最高のギャラリーである。ここでの反響が楽しみである。

 今日は夜にその飾り付けがある。だがその前に、エスパ昭島のイベントで、即興切り絵ライブに行って来る。また、2回のライブの合間は、仕事を公開制作でしている。とにかく仕事の量だけはすごいのだ。


即興ライブ(5月30日)

 エスパ昭島の2回通路で、私の展覧会と即興ライブがある11時と4時の2回だ。ギャラリーでやる展覧会の格調高い感じと違い、どさ回りの観がぬぐえない。

 しかし、立体作品は抜群のクヲリティーである。飾り付けの時から、客が関心を持って見ていた。そのライブの時間以外は内弟子と、仕事の公開制作である。というより、そこを仕事場にしているだけである。


昭島(5月29日)

 昭島にあるヨーカドー、エスパ昭島にって来た。昭島はまだ行ったことがないところであった。駅前にあり、でかい施設である。明日から、6月3日まで、「富士吉田物産展」があり、私はライブで盛り上げることになっている。

 ライブで出来上がった切り絵は、チャリティーでどこかに寄付されるらしい。3日からは、草鞋之会展である。イベントが重なっている。


葉書送る(5月28日)

 草鞋之会展の葉書に宛名を印刷の作業をした。プリンターが、葉書をつかんでくれなくて、エラーばかり出て時間が掛かった。


急遽呼ばれる(5月27日)

  
  

 急遽呼ばれて、風林火山博視察の安倍総理とご一緒した。私の作品の説明をしている写真である。緊張した。私の後ろは、人が鮨詰めであることは言うまでもない。


住所録(5月26日)

 草鞋の会用の展覧会葉書を送らなければならない。風林火山博に来た東京近辺の人を住所録に登録する。昨年の埼玉伝統工芸会館に来た東京近辺の方を住所登録する。出版社には送ったがまだまだ、先は長い。送り先漏れもあるかもしれない。


7月末から(5月27日)

 7月末から、チーム百鬼丸の企画で富士吉田の道の駅で個展をする。埼玉伝統工芸会館の個展とぶつかるが、作品をどのように配分するか難しくなる。私のからだも、どのように分配するか難しい。それに、切り絵の仕事もあるし。


吉田に行く(5月24日)

 今日は富士吉田に行く。富士吉田市で作っている自遊大学に私の切り絵の講座を作ったのだ。その講座の始まりは6月なのだが、それに先駆けて開校式があるようだ。

 週一度の講座に富士吉田の弟子たちと交替で講師を務める。デッサンから始める切り絵講座で、しり込みする人が多くてやっと16人ほどが集まったようである。同級生も入っているようだから、楽しい講座になるだろうと楽観的である。

 私が絵(切り絵)を始めたのは27歳の時、まさか絵を描ける人間だとはその時は知らなかった。何もとりえもない人間と思っていたので、とても嬉しかったものである。

 新しい生徒たちが、才能を見つけてくれるだけにでも役に立ちたい。


次第に(5月23日)

 次第に、部屋が片付き始めている。私の内弟子Nが片付け魔なのだ。もうどこに何があるのかわからなくなり始めている。


テニスにいけず(5月22日)

 二日酔いのため、6時に起きてレストランに行って仕事をしようとしたが、何もせず戻ってきた。そしてまた眠った。2時間くらい眠ってやっとからだが戻った。さて仕事だ。


掃除(5月21日)

 アトリエに、内弟子のNと生徒のYとHが手伝いに来た。アトリエは、物がいっぱいで、目をおおう状態であるが、じょじょにきれいになりつつある。

 今は行っている仕事の量が、尋常ではないので、彼らの手伝いがなければ、やりきれないだろう。その仕事が終わったら、新しい私のシリーズを立ち上げるつもりだ。現代物をしようと思うが、楽しい仕事になりそうである。


花粉症(5月20日)

 今年も5月に花粉症が現れた。2月あたりからボツボツあるのだが、5月が例年一番ひどくなるのだ。この間、山梨交通の中央高速バス用の雑誌の取材を受けたが、目がはれぼったいし、熱っぽかったせいか、なかなか思うような気分になれなかった。

 これから、梅雨になるまで続くはずである。一番大好きな季節が、気分良く過ごせないのは残念である。


昨日は(5月19日)

 昨日の即興切り絵は、見学者が多かった。展覧会の今までの即興切り絵作品を載せておく。今回は江戸の物売りをテーマにやっている。左から、これはテーマと違っているが、富士登山、その右は「らお屋」(きせるの管を交換する商売)、その右は「醤油屋」、一番右は油売り。サイズは55cm×80cm、制作時間30分(下絵を入れて)。

   


醤油(5月18日)

 昨日は、2時の即興切り絵ライブに誰も来なかったものだから、安心していたら、雨がやんでからお客がやってきた。それで、3時頃から即興切り絵をした。

 客の中に坂戸にある醤油を作っている会社に勤務しているNさんが来たので、醤油の解説をしてもらいながら、私は醤油売りの姿を切り絵にした。動きはよかったが、最近顔がマンネリしている。Nさん有難う。


盗難(5月17日)

 昨日は12時近くにギャラリーに入った、今制作中の切り絵画集第二集の制作に入っているので、印刷会社に行って打ち合わせをしているのだ。

 それはともかく行った時に3人の初老?中年?の女性がいた。異様に長くギャラリーにある雑多な売り物(服とか、アクセサリー)を見ていた。そして食事をして帰ったが。その人たちが一番怪しいと思うが、私と内弟子、ギャラリーの主人が、お店を閉める瞬間、えもん掛けが二つ何も衣類が掛かっていない状態に気づいた。

 良くあるらしい。ひどい話である。全て、作られた方に弁償するという。


奇遇(5月16日)

 昨日、毎日新聞川越支局の記者・k・sさんが取材に来た。実は彼は4月まで、甲府支局にいたという。だから、私からの展覧会の案内状が来て、驚いたという。

 私のアトリエが鶴ヶ島にあることを知らなかったようで、何で埼玉県坂戸で個展をするんだろうと思ったようである。話していたら、私の郷里の富士吉田局にも3年いたそうで、私のチームのメンバーも良く知っていたし、共通の知り合いもいた。全く奇遇である。

 そういえば、NHK浦和放送局のキャスターR・Iさんも、甲府局から来た人だった。だいぶ前だったが、朝日新聞富士吉田支局のAさんも前任地が川越支局であった。だから、川越の展覧会の取材なんかに仲間に連絡してくれて便宜を図ってくれた。

 仕事が、山積している。大丈夫だろうか。


即興切り絵ライブ(5月15日)

 いよいよ個展の開始である。純然たる個展というのは、昨年の11月の埼玉の1ヶ月の展覧会以来である。

 今回の展覧会では、ギャラリーをアトリエにして仕事を公開しながら毎日いる。それに2時からは即興切り絵ライブをしようと思っている。何をしようか考えている。

 次のエスパ昭島での「富士吉田物産展」での即興切り絵ライブでは、富士講の話をしながら富士講の姿を描こうと思う。

 次の草鞋之会展では、ザブン賞も参加するので、「江戸のエコな商売人の姿」を切り絵で話しながら毎日2時から、即興切り絵をしようと思っている。勿論、仕事の公開製作もするつもりだ。

 このように、展覧会・イベントには必ず参加し、仕事の公開制作と即興切り絵ライブは、必ずやって行こうと思っている。皆さん見に来てくださいね。


サウスポー(5月14日)

 昨日は大学の教職コートで、私とペアを組んでいる教授とテニスをした。あとからA先生に教わっている近所の主婦が2人やってきた。A先生は体育の教授で、私が体育会本部に所属していた現役の頃は良く飲んだ。

 剣道の先生ということで、私が疑問を持っていることを聞いた。一昨日仕事の小説を読んでいたら、母親が自分の髪の毛を切って、刀の鯉口が容易に切れないようにすると書いてあって、そのことを聞いた。刀を抜く前に親指で鯉口を切っておく(つばを鞘を持った手の親指で押して、刀を少し抜く)のだけど、刀の付け根に髪の毛を巻いて太くして、鞘の鯉口(鞘の穴の入り口。鯉の口の形をしているからこの名がある)をきつくするのだという答えが返ってきた。

 それから、鞘に納刀する時の、パチッと音がするという、一度聞いてみたい。

 江戸時代にもサウポーがいて、左手を前にして鞘をつかむのだそうである。刀をさすのも、通常とは逆の右腰なのだそうだ。芝居なんかでは出てこないが、本当なのだろうか。ただし、剣道の試合では現在サウポーもいるとのことである。それに、二刀流者も出場してくるというのである。ただし、二刀流者は、やはり振りが軽いので、なかなか相手に当てても、「一本」を取ってくれないそうである。腕一本、切り去るくらいな一撃が必要なのだそうだ。


もうすぐ個展(5月13日)

 坂戸市にある小さなギャラリー・レ・ボヌウで個展が15日から26日まである。このギャラリーのご主人は私のテニス仲間であった。過去形になったのは私がクラブを換えたからだ。

 この展覧会の出品物は、甲府で作った武田二十四将の半分である。自画自賛であるが、見事な作品ばかりだと思っている。みんなの反応が楽しみである。期間中は、づっとつめて、そこで助手と一緒に仕事をしているつもりであるし、2時から、即興切り絵のライブをするつもりでいる。多忙な展覧会だ。

 ライブといえば、東京都昭島市にあるエスパ昭島で「富士吉田物産展」があるが、そこに即興切り絵で私は借り出されている。日にちは30日と、2日11時から4時である。そこにも武田二十四将は飾られる。即興切り絵ライブは富士吉田のこと(富士講のこと・火祭りのことなど)を語りながら、切り絵を作りたいと思う。即興切り絵も進化したものである。


続訃報(5月12日)

 亡くなった末沢と同期の金井と、私の車で東京に行ったことがある。もう卒業式をひかえた頃だったと思う。何故行ったのか覚えていないが、わざわざ行ったとは思えないので、何か用事があったのだろう。忘れてしまった。

 ただ、その時三人で東京タワーに昇ったのを覚えている。彼らにとっても初めての東京タワーだったらしい。そのあと、私の友人の漫画家で「ザ・シェフ」という漫画をヒットさせた加藤唯史氏のところに連れて行った。誰のところかは内緒で連れて行ったので、二人とも「?」という感じだったが、「シェフ」は知っていて、「わあ」と声を出していた。

 郷里で就職すれば、こんな体験もないだろうと思って連れて行ったのである。加藤氏とは、何年もあっていない。相変わらず「ザ・シェフ」は売れているようだ。のんびりしているが、こだわりの人である。また、私を秋田書店のパーティに連れて行って、手塚治虫さんと遭遇させてくれた人でもある。

 末沢の通夜には、岡山にいる同期の加藤が行った。私は香典を彼に託した。


後輩死去(5月11日)

 昨日の日記の続きになってしまう。車の中で受けた電話は、東洋大工学部テニス部の19歳下の後輩・末沢の訃報だった。

 今は、大学でテニスをすることはなくなったが、彼らの代が入学したと同時に鶴ヶ島に引っ越して、テニス部に出入りするようになった。その当時のテニス部は目を覆うばかりの、レベルになっていた。我々が教わった頃と同じ教わり方をしていて、伸びるはずもなかったのだ。その通り当時私が現役とシングルスをした戦績が、30勝3敗だった。

 当時末沢の代も伸び悩んだが、4年生になっていっせいにメンバーが開花したのであった。その中の一人は、理工学連盟の大会には、本戦シード選手になっている。私も、応援した。いわば、彼らと一緒に、再びテニス部を卒業したような感じさえした。

 末沢はいい面構えをしていた。いい目をしていた。私の絵のモデルにでもなって欲しいくらいだった。容姿がその通りのように、意思がはっきりした。内心はどうだったかわからないが、もっと迷いというものが面に出てきてもいいのではないか思っていた。それが本当の若者だと思っているからである。

 それはともかく、胃腸炎ということで入院し、痛み止めの注射を打たれた10分後に心筋梗塞で亡くなったということだ。胃腸炎でなく腸閉塞だったらしい。それが、速やかにわかっていたら、こんなことにはならなかったのだろう。医者選びに失敗したということか。

 彼らとはよく酒を飲んだ。私のアトリエにもよく来たし、泊まっていった。今年の仲間の結婚式で、香川県の坂出市から東京に来ているものと思って、末沢に電話して「今どこにいる?」と聞いて「すみません風邪をこじらせて、出席できませんでした」という答えが返ってきた。それが最後の私との交信だった。


帰ってきた(5月10日)

 某社の仕事が打ち合わせの不備でイメージ違いの作品だったことがわかり、その作品を再度作りなおしのために帰ってきた。
 
 昨日は、予定通りに市役所関係の方とたくさん会い、夜はチーム百鬼丸のメンバーと「ご苦労さん会」をし、朝は早く起きて、上記のトラブル作品の下絵を制作した。思ったよりすらすら描けた。そのあと、甲府の風林火山博にある、まだ置いてある荷物を取に行った。

 途中、山梨県立博物館で、「勘助展」をしているので見に行った。見ごたえのある展覧会であったし、常設会場も大変面白く見られた。もっと早くくるのだった。

 昼飯は、甲府にある「吉田のうどん」の店でうどんを食べたが、これがすこぶる硬い。これほど硬いうどんは食べたことがない。10段階の硬さが選べるのだそうで、私たち(内弟子も一緒)は一番硬いうどんを食べたのだった。しかし、硬いうどんは硬さが目だって、味を楽しむ余裕などなかった。今度は行った時は考えたい。しかし、混んでいた。やっぱり吉田のうどんは素晴らしいのだ。

 風林火山博では、スタッフにあったかく迎えられて、幸せな瞬間であった。

 そのあと、埼玉に向かう車の中で、携帯電話が掛かり、悲しい知らせが入った。


富士吉田行き(5月9日)

 今日は、郷里に富士吉田に行ってくる。新しく就任した堀内市長に会ったり、富士さんの山小屋用Tシャツの絵を作らなければいけないからだ。

 それに、支援団体「チーム百鬼丸」に甲府での武田二十四将制作終了に報告もしなければならない。3日間の予定で行ってくる。


偏屈じじい(5月8日)

 昨日はテニスにいった。クラブを変えたので、初対面の人が多い。朝8時45分頃行く。私より年齢が高い人ばかりだった。平均年齢60歳くらいだろうか。

 「渡辺です。よろしく」と元気良く挨拶をする。品行方正である。

 中に一人、70歳弱のご老体がいた。同様に挨拶するが無視された。2回チャレンジしたが、同様の反応であった。「耳が聞こえないのかなあ?」

 偶然にも、そのご老体とダブルス試合を組むことになった。彼がミスをする。「あっしまった!」「申し訳ない」といろいろ口走っていたが、こちらが「惜しい」とか言う。時折、会話が成立するのである。聞こえていたんだ!

 このような人に私は初めて遭遇した。人生で、かなり損をしそうな人である。だが、こちらも話をしていると損をした気になる。ただ、私のほうがテニスがうまいから、いつもやっつけることになる。その後どういう反応が返ってくるのかと想像するのである。

 上記の文章作成後、朝テニスに行ったが、彼も来ていた。しかし、昨日とは打って変わって、「おはよう」の挨拶に「おはよう」で答えてくれた。そしてテニスをした。また組んだ。楽しくテニスをした。

 どうやら、私は馴染んだようだ。


内弟子(5月7日)

 内弟子が出来た。甲府にいる間、二人でタッグを組んでやった。実は若い女性である。

 10年前、私は今のような即興切り絵ライブではなく、単に机を置いて、あぐらをかいて川越の蔵通りで切り絵をしていたのであった。そんな形では、最初で最後の行動であった。前から、蔵通りで座って仕事をしていたら、どういう反応があるのだろうと実験をしたかったが、忙しくて出来ずにやっと、行動を起こしたのだった。

 その時、まだやっていなかった切り絵教室の看板も出していた。その時通りかかったのが、今度内弟子となったK・Nとお母さんであった。まだ大学生であった彼女は、直前に宮田雅之氏の切り絵を見て、魅せられていたということもあり、その場で生徒になりますと云うことになった。

 彼女が、生徒として私の教室に通ったのは大学生であった2年ほどだったかもしれない。その後は服飾をしたいということで、また専門学校に行き、アパレルメーカーに就職がきまり働いていた。

 かなりきつい仕事だったらしく、東京に住みながら、私の東京教室にも通えなかったようだ。その間、唯一の日曜の休みの日には、夢中で切り絵に取り組んでいたらしい。だから、まだ他にもいる生徒の中で一番初めに個展をし、何回もやっている。

 彼女が、会社をやめ、切り絵のプロ宣言を私にし、内弟子になりたいといってきたのは昨年の12月だったと思う。私は快諾した。人を育てるというのは余計なおせっかいなのかもしれないが、私は好きである。

 弟子というのは、師匠からいろんな制約を受ける例があることをよく聞く。そんな師匠には私はなりたくないと思う。そのために考えたい。


だらけ(5月6日)

 さすがにだらけている。昨日はテニスの試合があったが、壮年で3回戦で負けた。次にがんばる。そのあと久しぶりに昼寝をした。眠くはなるくせに、昼寝をするタイプではない。その後、行きつけの飲み屋に行った。平均年齢が60歳くらいの客ばかりで、3時からやっている。

 それで私は5時から行った。小さな店だから、すぐにいっぱいになる。甲府では一人でのみに行ったが、その前に実行していたように、鶴ヶ島では一人ではこれから飲まないようにしたい。

 さて今日は、アトリエの片付けである。大変な量である。


汲み取りの話(5月5日)

即興切り絵ライブは、主役の仕事だ。主役の立場に立つことが余りないので、つくづくそう思うのである。今まで作家の小説を読み、彼らの本の表紙の絵を制作してきた。しかし、それは脇役の仕事だった。

 即興切り絵という、少人数の客の前の仕事であるが、自分で切る対象の切り絵のテーマを設定して調べごとをし、客の前で語りながら切り絵をしていく。

 今回甲府に行ったのは「こどもエコライフ」展という展覧会に参加し、お客の前で即興切り絵を披露することだった。テーマを「江戸のエコライフ」にし、2日間で計3回した。

 最初は「江戸の糞尿の始末」ということで「汲み取り屋さん」を語りながら切った。これは子供の頃の我々のトイレを語ることが出来て、お客にも身近なところから入れるので、お客さんも楽しくしゃべりを聞きながら過ごしたようだ。

 6月3日から10日まで行われる草鞋之会(わらじのかい)の銀座伊東屋での展覧会に、草鞋之会のメンバーが参加しているザブン賞という、自然保護団体が展示参加するが、私は毎日行って即興切り絵をやるつもり(2時頃)であるが、この江戸のエコライフをしゃべりながら切ろうと思う。


再び甲府(5月3日)

 今度は、甲府駅近くの平和通沿いにある東横インの一階にあるギャラリーでの、即興切り絵ライブにいくのだ。展覧会が「子供エコ」という催しものであるので、「江戸の便所汲み取り事情」をお話しながらにしようと思う。

 あまりしゃべるのは得意でありませんので、どうなることやら。資料を探して持っていって付け焼刃でお話をします。


終わった(5月2日)

 5月1日に大任の武田二十四将の立体切り絵の製作が終わった。私にとって、初めての自主制作シリーズの完成である。できばえは最高である。これが将来どのような日の目に会うのか私は楽しみである。

 今日は、自転車で、鶴ヶ島川越を散策しのんびりしようと思うが、あんまりのんびりすることも出来ない。15日からのレボヌウ展の準備もしなければならない。といっても、再び明日は甲府行きである。甲府駅近く東横インの一階で「こどもエコ展」をしている。そこで私の即興切り絵のライブがあるのだ。

 この展覧会は私の所属している「ざぶん賞」とジョイントをしている。今度の私の即興切り絵ライブは、「江戸のエコ」がテーマである。そういえば、しゃべりながらであるから、ちょっと調べ物をしなければならない。

 そういう調べものをするというのは挿し絵をする分には、あまりないことであった。これから、ライブも自分なりのテーマを持って辻説教的にやっていくのも一興なのかもしれない。

テニスクラブを辞めた

 同じ川越だが、名細テニスクラブに入った。今日テニスを同時にしてきた。霞ヶ関テニスパークより上級者がいる。しかし、グループが出来ていて閉鎖的だとも聞く。つまり、先に来ていてもグループに入っていないと、誘われずに順番を抜かれてしまうのである。これは悪いところである。霞ヶ関テニスクラブは、順序どおりテニスが出来る、そういう点ではいいところであった。しかし、うまい人はうまい。こりゃ大変だ。


吉川英治賞(4月12日)

 昨日は、切り絵教室をして、その後、月刊誌の作品に取り掛かった。今日がその締め切りの日である。夕方に、吉川英治文学賞を宮部みゆき氏が受賞したので、出かけた。実は今回埼玉に帰ってきたのは、そのためである。

 作品は終わらなかったが、出かけた。風林火山博でのいでたちの書生姿で行ったので大変会場では目立った。皆から、服のことをいわれた。お祝いの声をかける長い列に並んで、宮部さんには、私のしたラベルの付いた日本酒を上げた。

 編集者とは話をしたけど、そういえば作家とはあまり話をしなかった気がする。あとは北原亜以子氏と諸田玲子氏・宇江佐真理氏だったか。みんな女性である。偶然である。それからたくさんの編集者。

 宇江佐さんとは、実業之日本社の越智さんと佐々木さんと共に、帝国ホテルのお店で飲んだ。彼女の講談社の文庫本は私が担当している。函館在住の宇江佐さんは、素朴な人である。肩が凝らなくていい。そのあと、一人寂しいかなと思って、これからどうしますといったら、いやホテルに帰って、マッサージをしてもらって、旦那さんからの開放感を味わうんだとたくましい両手を挙げて、伸びをしていた。宇江佐さんそのうち函館に行きます。

 そのあと、予定通り、銀座のクラブ「エル」にいった。満員ということで、私はカウンターに座り女性も付かなかったが、もう25年の付き合いのある店であり、ママである。またこの次にということで、なんとか川越までの電車にありついて帰ってきた。

 今日山梨県の富士吉田に行き、私の生まれた仲町に切り絵の愛好会が出来たので、ちょっとお話に行って来る。明日甲府に戻る。


出会い(4月11日)

 風林火山博では、バス旅行の団体さんがほとんどである。かなりの高齢の方が、そのまたほとんどである。またまたほとんど絵に興味のない人が多いのも事実である。絵描きとしては寂しい限りである。

 がしかし、好きな人は好きである。客と私はよくしゃべる。そのやり取りは、楽しんでいただけているようで、お客にもいい旅情となっているのではないかと確信している。甲府での滞在が今月いっぱいになったが、私にとっては代表作のシリーズが完結することになる。

 この作品が、何かを私にもたらしてくれることになるだろうと思っている。そんな期待が膨らむ作品群である。


すみれ(3月30日)

 知り合いの庭に咲いていた野生のスミレを何年か前にもらってきた。元気そうな株で、春に咲いたと思ったら種を飛ばして、瞬く間に大きな鉢いっぱいに、スミレが繁殖した。

 昨年、展覧会が続いて水をやらなかったら、ほとんどがかれてしまった。だけど、何とかほかの鉢に種を飛ばして、5株今年花を咲かせている。甲府に行ったきりだから、水をやれないので今日のような雨がたまには降ってほしいと思う。そして、また鉢いっぱいスミレだらけを見たいと思っている。

 また、甲府に戻る。


暖かくなった(3月29日)

 埼玉に帰ってきた。明日また甲府に戻る。甲府市内をうろうろしているとあまり季節感を感じない。電車で帰ってきたが、中央線の線路際には、大好きな菜の花が咲いていた。桜のピンクもいいが、あの黄色のあでやかさも好きである。

 植木等さんがなくなった。大学の先輩でもあるので思いが少し違う。子供の頃はクレージーキャッツに楽しませてもらった。

 それから、相変わらずテレビを見ると殺人事件がいっぱいである。イギリスの女性教師が、変体男に殺された。とても美人の女性である。地球温暖化とともに、人間の頭の中も温度が高くなっているのではないか。

 大リーグ挑戦の桑田が、捻挫をした。ぶつかったあの審判はばか者である。前を見ていて、桑田が見えたはずである。アメリカに行って、この審判の頭をたたいてきたい。

 甲子園で中田という選手がホームランを2本打った。思い出すのは、「琉球の風」という月刊小説誌の小説の挿し絵の取材で、沖縄に行ったときのことだ。タクシーのラジオから、松井が一試合で4本目のホームランを打ったのを報じていたことだ。


休日(3月22日)

 昨日は、東洋大学の工学部テニス部の教職員と現役の親睦大会に、OBとして参加した。実は昨年から、教職員のテニスクラブの高齢化と人員不足を補うために、OBも参加するようになったのだ。

 今年、変えてみたサービスを試合で初めて使うことになった。やはりとてつもなく速かった。みんなふり遅れていた。やはり課題はセカンドサービスだ。ダブルフォルトが、多かった。ダブルフォルトを一ゲームに2本になるとセカンドサービスは元のサービスに戻した。

 だが、他のプレーは、あまり進歩のあとが見られない気がした。練習と実践では違うのだ。ここらはいつまでもついて回りそうである。がっかり。

 今日の朝には、また甲府に戻る。でも、楽しい一日であった。


甲府(3月8日)

 今、風林火山博いう甲府のイベントで、切り絵の公開製作をしているが、私にとっては甲府の街は憧れだった。

 母親が、甲府の朝日町生まれで、私が小さい頃は、多分30歳半ばだったと思うが、リュウマチの治療のために母親は甲府にしばしば来た。そして私を連れて行くことが多かった。

 その頃はバスで、御坂峠を越えていった。長い時間で、小便が近い私はただひたすら、小便を我慢するたびでもあった。峠に着くとバスも一休みしてくれるから、一目散に峠に茶屋の便所に行く。

 大好きな岡島デパートの前をバスが通る。もうここで降りて、大好きなソフトクリームを食べたい、屋上の遊園地に乗りたい、と思うばかりだった。実はソフトクリームもデパートも富士吉田(富士吉田の富士の字は、市になったときにもともとの地名・吉田に付けたもの)にはなかったのだ。だが、まず向かう先は、おじいさんとおばあさんが住む朝日町の家だった。

 一つ下のいとこの松村直子と遊ぶのが大好きだった。本当に仲良しで、毎日遊んでいたと思う。岡島デパートに行くのも本当は松村直子がセットであった。だから、その前に岡島デパートで遊ぶのは物足りなくもなるはずであった。

 朝日町のおじいさんの家の上は、ひかり座という映画館だった。直子と一緒にその空き地で遊んだ。たまにその映画館の裏口から入ったりした。

 長期の滞在になるということで、直子が行っていた幼稚園に行った。吉田の幼稚園では番長だったから、その幼稚園で、毎日喧嘩に明け暮れていたと思う。その殺伐とした毎日で、母親も困ったのだろう、早々にその幼稚園を辞めた。

 甲府にはおじさんおばさんがいて、いとこもいっぱいいた。だから、とても楽しかった。楽しいことばかりの甲府であった。


久々の集合(3月7日)

 今日は久々に草鞋之会の仲間・原田維夫・蓬田やすひろと会う。6月の銀座の文具店・伊東屋での展覧会の打ち合わせでである。草鞋之会展は5年ぶりくらいになる。

 この会の結成は16年前だ。挿し絵の業界は、力のある人がごろごろいる。力の点では、いろんなジャンルでやっている画家の中では一番であると思う。何故かというと、仕事の量が半端でないからだ。その中でもまれてきたら、それは力が付く。

 そんな業界だが、目に入らないほど、地味な業界である。そこで、少しでも華やかにしようと私が呼びかけてこの会を作ったのだ。他に石川県の白山市に在住の西のぼるがメンバーである。

 しかしそんな彼らと、絵を必要としている業界とが結びついていない。私が山梨で仕事が広がっているは、絵を必要としている業界と直接結びついたからである。草鞋之会の仲間は広告業界では知らない人はいないほどの有名人であるが、しばらく一般に言う広告の仕事をしていないという。もったいない野ざらし状態である。

 地方の、いろんなお土産品とかを見るに付け、それに付いているイラストのレベルの低さに、この分野はまだ、未開だと思う。


公開製作(3月6日)

 現在、甲府で行われてる風林火山博の開場ブースで、武田信玄の家来たち二十四将の立体切り絵の公開製作をしている。

 朝は、8時半頃から9時半頃までに、風林火山博に入っている。開場は10時であるから、それまでに文庫本の仕事とか雑多な仕事を片付ける。勿論、もっと早くからいつもやっているようにレストランで仕事をしている。今は平和通り沿いにあるジョナサンに行っている。

 風林火山博の集客は、予定の6割り増しであるようで、その点においてはスタッフは、話題にも出さないほど、のんびりし始めている。がんばった皆さんだから、本当にほっとしているだろう。

 お客さんは、近県のツワー客が多い。目に付くのは名古屋の人だ。愛知の人といってもいい。その次が茨城の人。一番少ないのが、関東では栃木県のような気がする。景気が左右しているのだろうか。

 私の思い過ごしかもしれないがかなりの遠い県からの客は、私の立体切り絵を見て、私の解説を言っても、何にも反応がなかった。立体の切り絵の、顔の目も鼻も口も全部切ってあるというと、中には「え!」と驚いて、近づいて見始める人が出てくるのだあるが、そんな人が一人もいなかった。

 総じて、平均年齢がツワーのお客さんは60歳くらいなのであろうか。男性はいっぱい引っ掛けている人が多い。酒臭く赤ら顔である。私は全く気にならないが、中にはさあっと近づいてきて、いきなり立体切り絵の作品をつかむ人がいる。「触らないでくれますか」というが、そのくらいの人は現れるだろうと思っていた。今のところ、トラブルは一つもない。客に私の作品を解説するのだが、おばさんたちはよく聞いてくれるし、やり取りがあって楽しい。

 やっぱり、美人が来ると思わず解説してしまう。それからファッションがきまっている人には思わずほめてしまう。そのような人は必ず一人ではない。一人で私のとこに現れても、後から男性が来る。ちょっとがっかりしたりもする。

 作品製作は予定よりかなり遅れている。しかし、作品は予定通りレベルが高い。先が楽しみである。 


庭球

 1月20日に甲府で風林火山博が、はじまった次の日、私が博覧会場で、切り絵の公開製作をしているブースに現れた。川越市の大会で、一般ダブルスの予選・準決勝で当たった相手だ。何で、この人がくるわけと思って、「何でここに来たの?」と質問した。彼は「え?」と返事した。「私だよ、私」といっても、彼は横に手を振り、人違いだよという。

 「あなたのこと知らないよ」である。

 いやその瞬間、世の中には似ている人がいるもんだなあ、一時は私の勘違いだと思った。しかし、私は長崎で知り合いに会っても名古屋で会っても、ほとんど間違わないほど天才的に人違いをしないし、誰だかすぐわかる。

 「いや埼玉にいる人によく似ているんだ」 「埼玉にいましたよ」 「テニスをする人にね」 「テニスをします」 その時点で、私が戦った相手だとわかった。その名は小田切。川越の壮年では常連の人だった。私は最近川越の大会に復帰したばかりであり、彼が覚えてないのは、当たり前かもしれない。いや、でもこの偶然にしびれた。

 彼は、2ヶ月前に転勤で山梨に越してきていたのだった。

 彼も私とした試合を覚えていた。あの試合は、我々のペアのパワーが炸裂、予想に反して5-0まで、行ってしまった。それからまくられたが、結局7-5で勝った。

 その小田切氏が、テニスマニアであることを知った。私と引けを取らない。

 家も私の宿泊しているマンションの100mくらい近くで、彼と早朝テニスをしようということになり、たまに誘われてしている。
課題のフォアボレーとスマッシュの練習をするが、フォアボレーについては、多分これだろという球の当て方を得た。散々ラケットのもち方ばかり研究していたが、球の当て方が違っていたのかもしれない。そのあて方でサービスをしたらどうなるだろうと、次のテニスの機会に試してみようと思っている。

 もともと、地肩の強い方で、サービスも速いのだが、もっと速い選手もいるわけで、それが不思議でしょうがなかった。何か違うんじゃないかという感覚が前からあった。

 今度のテニス大会は連休くらいにある。壮年のシングルスとダブルスにエントリーした。一般の方は日程が合わず出場をあきらめた。でも、楽しみである。


笹一

 山梨の笹一酒造から、私がラベルのイラストを担当した酒2本が、届いた。お酒のラベルをするのは、私にとっても夢の一つだった。届いた酒を早速飲んだ。サンプルで飲んだ酒と違うのか、ちょっと味が違うと思ったが、ラベルを見ながらの飲酒は格別である。

 今まで、地ビール・ワイン・日本酒をやってきたが、まだ、焼酎がない。

 埼玉に来て、新たな気持ちで、甲府に向かうことが出来る。甲府に帰るのは明朝になる。

 25日には、「かいてらす」という山梨地場産業センターで山梨の物産祭りがある。そこで私は芸人と化し、一日お客さんの前で、即興切り絵のライブをする。今回はお題をもらわず。干支の一二支を全部作ろうと思う。初のチャレンジでどんなものが作れるか、不安と期待が入り混じっている。よかったら、皆さん覗きに来てください。


某社

 某社の文庫をしている。その担当編集者とはもう仕事をしないことに決めた。

 文庫の装丁の依頼の電話が某社・T氏からあった。いつもの通り、平面作品か立体作品化希望を聞いた。そして「立体だったら、撮影代も出ないんでしょうから、デザインもさせてもらわないとやりません」と前置きをした。、T氏は「デザイナーは決めていません、原稿を読んでから平面がいいか立体がいいか検討していただけますか」ということだった。

 くの一が主人公の忍者小説だった。主人公の女忍者・菊は、忍犬を連れている。これは実は狼である。それに他に将軍足利義輝・忍者権六が脇役で出てくる。

 表紙としては、犬を連れた菊の姿を描くのが定石だろう。しかし、この忍犬だけをダイナミックに描いたらどうだろうと思って、描き始めた。素晴らしい狼の下絵が出来上がった。ダイナミックな犬の姿を描いた文庫はめったにないはずだ。菊もすてて、この忍犬が忍者刀をくわえ、忍者手裏剣をさけて戦っている姿で十分いい作品になった。いやむしろ菊を入れたら、その効果は薄れていく。

 前もって、下絵を見せてくださいということで、T氏にFAXを送った。下絵を見せてくださいというとろくなことがこれまでなかった通り、ひどい話になった。電話での会話だ。「すごいいい絵ですね。」ここまではよかった。「でも、菊をいれてください」とのことだった。予想される言葉である。そのあとがすごい「義輝と権六もいれてください」というのである。私は「えっ」とおもったのである。小さな画面の中に4つの物体を入れるのである。どんどん印象が薄れていく表紙になる。私は「2人を入れるんですか?」と聞き返した。「そうしてください」と答えが返ってきた。

 私はそのあと眠って、早起きで仕事を始めた。怒りで仕事が手に付かなかった。本を読んでイメージして欲しいと言ってながら、T氏の考えで絵を作ってくれと命令が来たのである。それでは小説を読む必要がないではないか。私のイメージなんて必要ないではないか。それに、彼に従って描いたら、酷い絵になり、その表紙の評価は下がる。私のせいではなく編集者のせいでである。

 私は朝8時に、T氏の携帯に電話をした。怒りで声が詰まりながらである。「将軍と権六を入れてくださいなんていっていません」「命令のつもりで言ってはいません」という答えが返ってきた。「じゃあ、私が2人を入れるんですかと聞き返したでしょう」というと「そうですね」といった。そしたら「描いてください!」といったでしょうというとそうですねと正直に答えてきた。

 このT氏はそんな命令をいった気もなく「やってください」といったのである。

 私は「犬一匹の表紙でなければ、この仕事を下ります」伝えた。昼になって上司と相談して報告しますとのことだった。

 電話が来た。忍者犬だけの切り絵で結構です。この時点で私が本のデザインをすることは決定したはずである。「立体でやるんですよね。どんな表紙になるか楽しみです」とT氏はいった。

 撮影のために埼玉に帰り、デザインのオペレーションをしてもらう友人に電話をしておいた。

 タイトルがへんなタイトルだし、著者名もわからないので、T氏に電話をした。Tは留守で、別のこの仕事を認知している編集者に換わってもらった。その彼と電話をしていたら、「百鬼丸さんがデザインをするということは聞いていない」ということだった。いやむしろデザインは私ではないのである。あれほど言ったのにこのT編集者は聞いていないのである。

 実は前回T氏とは仕事をしている。仕事をもらった時点でデザイナーはきまっていた。T氏は私が立体もあると言ったので「どちらがいいですかね?」と聞くので立体の方がいい表紙になると答えた。「立体でやってください。」とT氏は言った。それで、撮影代は出ないということで、手間がかかってこちらが自腹を切るという形で、無理して立体でやった。

 そのことをT氏は忘れている。彼には私は貸しがあるのだ。電話の編集者は、もしかしたら編集長かもしれないが、撮影代はお支払いしますので、デザインはこちらでしますというのである。撮影代はもしかして前回も出せたかもしれないのである。

 いい加減な編集者である。こんな編集者ともう仕事をするつもりはない。某社との縁切りも覚悟の上である。

 それから、もう下絵を見せてくれといわれたら、どこの出版社でも拒否することにした。いい結果にならないからである。


手塚プロ

 文庫本の締め切りで帰ってきた。今月は4冊である。

 前々から、訪ねようと思っていた手塚プロの新座スタジオに行ってきた。実は、調布の切り絵教室に行く途中の武蔵野線新座に手塚プロのアニメーションスタジオがあるのだ。

 このスタジオで、私は手塚治虫さんに会っている。それから、マネージャーと三人で外のレストランに行って、アニメーション「村正」のキャラクターデザインについての打ち合わせをしている。手塚さんのアニメーションリストにある「村正」にはキャラクターデザイン・百鬼丸とある。

 もっと生きていていただいたら、こんなシーンはいくらもあったのかもしれない。

 私も年齢を重ねた。その当時に交流した手塚プロのスタッフとも再度の交流をしたいと思っていたのである。単に話をするというのでは面白くない、一緒に仕事をしたいのである。私の能力で利用出来るところがあるなら、使ってもらいたかったのである。

 いつか新座で降りようと、決意という言葉に相当する気持ちでいたのである。

 手塚プロの旧知のスタッフを尋ねた。もう10年以上もご無沙汰していた方であった。管理職のほうにまわり、苦手な金と人のことをやっているという。しかし、まだまだ、目は夢で輝いていた。

 私が持っていた下絵を見せたら、彼は感激して若いスタッフを連れてきた。彼らも感激していた。意外であった。スタッフはもうベテランで、私の下絵くらいではびっくりしないと思っていたのである。かばんを探したら、完成した切り絵があった。それを見せても感激していた。こちらが感激するほどの感激しようであった。

 これから、手塚プロとの仕事での交流があるだろう。そんな予感がする一時であった。

 さて、仕事だ。


恐怖(2月12日)

 恐ろしい忙しさだ。日記も書いていられない。昨日は東洋大学工学部硬式テニス部OBで後輩の金井君の結婚式であった。私は即興切り絵を披露宴でやった。いい鳳凰の作品が出来た。よいプレゼントが出来たとホッとしている。

 今日はついでに埼玉の切り絵教室をすることになったいる。それから6時から甲府の富士屋ホテルでの鍋パーティに出席する。


歯痛(2月6日)

 12月に歯医者に行ったが、その後すぐ口の中に異変が起きていた。歯茎から血が出る、歯の舌触りがおかしい、とにかく違和感があった。甲府の歯医者にかかってみようかと思ったが、埼玉に戻り、かかりつけの歯医者に行くことにした。

 やはり異変があった。奥歯のかぶせた金属が取れていたのだ。治療してもらって、通常の口内が戻ってきた。しかし、今日すぐ甲府に戻らなければならず、詰め物をしただけで終えた。あと2回治療は必要だとのこと。

 しかし、歯がよくて、なかなか歯医者に行かないほどだが、歯がわるいくなるということは不快なことだなあとわかった。

 さて、甲府に今から戻る。がんばって、いい作品を山梨に残したい。


復帰(2月5日)

 久しぶりの埼玉である。ずっと甲府の風林火山博の特設ブースで公開切り絵製作をしていた。博覧会は予想を上回る客の入りでこのペースで行くと、予想の倍の客入りとなるということだ。

 明日また甲府に行く。もっと詳しい記述をしたいが、時間がないのでここで終わる。


ブースイン(1月13日)

 昨日車で、荷物を風林火山博に運んだが、駐車場がないので、おいて戻ってきた。今から、電車で甲府に向かう。


病院(1月12日)

 しばらくテニスが出来ないと、1時間ほどテニスをし、その帰り道にある笠幡病院というところに行った。実は昨年の12月中ごろから、肩甲骨の辺りが、寝違えたように痛かったのだ。それが、ずっと続いていて、ひょとして肺がんなのではないかと、悩んでいたのだった。

 もっと早く行くつもりだったが、時間が取れず、12日になってしまった。行った笠幡病院で、30分ほど待っていたら、先生が用事で帰ったんで、今日の診察は出来ませんという。時間がもったいなかったと、気分は悪かった。

 それで、近くの池袋病院というところに行った(院長の苗字が池袋で池袋病院)。ところがこちらは混んでいた。会計を済ませるまで4時間かかった。

 検査結果は、レントゲンをとってガンではないとわかった。本当にほっとした。いつか病気の宣告を受けることがあるんだろうが、そのときのために、アトリエとかを、簡素にして整理しておかなければならないし、切り絵作品の行く道も考えておかなければならないと思った。

 そんなことで、予定が大いに狂った。それから、先生から血管が硬いといわれた。どうすればやわらかくなるんだろう。知っている人教えてください。


甲府前日(1月11日)

 いよいよ明日、甲府への旅立ちである。本当は、昔の下絵をいっぱい引っ張り出してもって行く予定だったが、仕事が入っているので、それをやっつけなければならない。それから、いろいろな詰めにかかる。とにかくがんばる。


取材(1月10日)

 昨日は、山梨の放送局UTYのテレビ番組「ウッディーな木曜日」午後5時55分から6時55分放映の取材があった。この番組の進行役が湯原昌幸・荒木由美子夫妻なのである。

 私が、雪の残る私の生家址で切り絵をしているところを夫妻が発見して、話しかけてくる。「何してるんですか?」と。
 隣の堀内マネージャーのところに夫妻が上がって、あれこれと訪ねてくる。そんな設定である。

 しかし、切り絵を余り見たことない夫妻は、かなりびっくりしたらしい。驚き方はすごかった。また、絵は見たことがあると、次第に私の全貌を知るに従いわかってくる。

 私もトークでずっこけたり、お互いに楽しい出会いであったようだ。田舎の町の方々が外や、堀内宅に上がりこみ、撮影の光景を見て、楽しんでくれたようである。とてもハッピーエンドであった。湯原夫妻は、気に入って今度は18日の生放送に私が登場するのだそうだ。

 恐ろしい、生。


富士吉田教室(1月8日)

 今日は富士吉田教室である。11時頃付くように行こうと思う。

 少しづつ甲府に滞在の準備をしているが、漏れがありそうである。その時は取りに来なければいけないので、絶対そんなことがないようにしたいと思っている。それにしても、行ったりきたりである。

 またレストランで仕事をするのを復活しようと思う。今年は自転車での移動にしようと思うので、手製で、しょいこを作ろうと思う。


雪(1月7日)

 富士吉田で6日雪に降られた。大体、25センチくらい積もったか。車で行ったが、ノーマルタイヤであった。午後から雨に変わって、道路の真ん中に雪がなくなったので、何とか帰ってきた。今年は甲府に長期滞在なのだが、当初車を使わないようにしようと思ったが、車を持っていくことにした。

 さて、今日は今年初めての切り絵教室である。あまり参加者は少ないが、私はこの時間を利用して、秘密のペット展の作品を作ろうと思う。楽しい作品なんで私も出来上がりが楽しみである。

 また、明日は山梨であるが、電車で行こうと思う。富士吉田の教室である。9日は湯原昌幸夫妻との共演である。ただし山梨だけのテレビ放映である。


いよいよ終わり(1月5日)

 今日山梨の富士吉田に行ってくる。武田の二十四将の複製を19作作ったが、残りの7作を製作にだ。

 それに山梨で行われる風林火山博に公開製作で武田二十四将を作るが、3ヶ月かかるという算段で、博覧会側が賃貸マンションを借りて私に提供してくれた。だが、布団がないので、布団をもって行かねばならない。それで、その布団を今日は積んでいく。

 武田二十四将の製作は全くのボランティアである。であるので、金銭では補えない、いろんな人と出会い、いろんな体験をしてきたいと思っている。

 この私のHPをごらんになった方も、私は約3月末まで、風林火山博のブースで切り絵を公開製作していますので、是非、山梨の観光の機会がありましたら、博覧会の私のプースに足をお運びいただけたらと思います。


初体験(1月4日)

 外にいて帰ってきたとき、家族らしい3人の女性が歩いて、私のアトリエの看板の前で「お母さん、百鬼丸だ」。「この人知ってる、ここにあるんだ」とか言う台詞だ。

 私はその看板の横に立っていたので意識せざるを得ない。私は3人の前で、手を振った。そうすれば本人だということがわかるだろうと思ってだ。「えっ、ご本人なんですか?」「はいそうです」「ここで切り絵教室をなさっているんですか?」「そうです」「・・・」とにこやかに言葉を交わして分かれた。

 あの人すごいテレビにいっぱい出ているんだよと、歩きながらの後姿から聞こえてきた。どうやら、この地域の人ではないらしい。鶴ヶ島の知り合いのところにでも、来たのだろう。地元の人だったらこういう反応はしない。

 やっぱりいっぱいテレビに出たんだ。いっぱい出た基準がわからないが、とにかく私にとっては初体験だというほど確かにいっぱい出た。


初打(1月3日)

 もう3日である。早い。テニスの初打ちに行ってきます。

史上最強の切り絵(1月3日)

 テニスの後、川越のせんべい屋さんの前で、即興切り絵ライブをした干支というお題をもらったので、「いのししの凧あげ」をした。それはいつもの通りである。

 この即興切り絵は、客の沸き方が宮田雅之・滝平二郎もかなわない、史上最強の切り絵といっていい。それはともかく。

 そのあと、5分間切り絵をお題をもらってやりたいと思いますといって、初めてやった。凝ったものだから15分以上かかったのもあった。しかし低価格に客が殺到、15も切ることになった。驚いた。

 それにしてもいい参考にさせてもらった。


禁酒を続行中(1月2日)

 腰が痛い。高齢になってこんなに腰が痛かったら、大変だなあと思う。根本治療をしないといけないと思うが、テニスとは違う腰用の運動をしないといけないんだろうと思う。さて!フラフープにもう一度チャレンジしてみようか。時間がかかりすぎるんだが。

 さて、やってみよう。


明けましておめでとうございます(2007年1月1日)

 さあ、希望の2007年が来た。単純なので、新しいものが現れるととても気持ちが新鮮になったりする。今年は一人酒禁酒だから、アトリエにある酒の飲み残しのビンの中身を捨てようと思う。

 皆さんにとって、今年がいい年でありますよう、お祈りします。


今年(12月31日)

 今年はすごい年だった。1月13日にNHK甲府の「山梨・輝く人」に生出演。この出演は私には大きな出来事だった。具体的に何がと書かないが、とにかく私にとって大きな出来事だったのである。

 それで、同時に甲府で個展をした。テレビ出演の割には人は入らなかったが、まあまあであった。道を隔てたところに山梨県立美術館があったので、私は紹介してもらえる知人もいなかったので、直接学芸員に会いに行った。印刷物等を渡したが、「本人が売り込みに来るという前例はない」とそそくさと戻って行った。私の印刷物も見なかったのだろう。当然展覧会にも来なかった。前例がないということは、学芸員にとって意味のないことである。ひたすら絵に興味を持つべきであり、どんな人とどんな形で会うかもしれないという心の準備はしておくべきである。その点私の会った学芸員は、自分の仕事がなんなのかわかっていない学芸員だった。

 4月には、富士吉田の都留信用組合で、個展をした。今更銀行とお思いでしょうが、タイトルを「吉田高等学校・新食堂陶壁画・原画展」と銘打って、とにかく大勢の人の集まるところで個展をしたかったのである。思ったとおり、大勢の人に絵を見ていただいた。私は「富士山シリーズ」という公開切り絵を毎日、銀行のフロアーに座って作り続けた。

 この個展に来た幼馴染に説教をした。「俺を使って商売をしたらどうですか」というものだった。実は私が本当に全盛期だった頃、武田信玄というNHK大河ドラマがあったが、その時に山梨県の方から、仕事の依頼を待っていたがなかったのである。

 今度の風林火山という大河ドラマは私にとっても最後の、山梨関連の大河ドラマだろうから、こちらから言ってみたのである。そして、幼馴染たちは動いたのである。それから、夏の道の駅の個展をはじめ、数々の企画を幼馴染で作った「チーム百鬼丸」はやり始めた。

 火祭りのポスター・地ビールのパッケージ・日本酒のパッケージ・ワインのパッケージ・富士急ハイランドアトラクションの絵・百鬼丸グッズの作成等である。

 それに、風林火山博の公式イラストレーターの抜擢。これは私の直接のつながりで、選ばれたのであるが、後のフォローをしたチーム百鬼丸も援護射撃をしてくれた。

 ということで、閉めは再びNHKの生出演であった。12月28日の午後6時から7時。忘れられない2006年が去ろうとしている。


禁酒(12月30日)

 来年から一人で酒を飲むのは止めよう。人と飲むのは良いけど。禁酒宣言をします。


出演(12月29日)

 昨日の物語である。私はチーム百鬼丸の渉外・堀内氏と10時に甲府富士屋ホテルに、約束どおり入った。私の即興切り絵ライブで作った二十四将が、ロビーにずらっと並んでいる。壮観である。

 まさか、40分で一作を作り終えたとは思えない、私の中でもさえわたった即興切り絵シリーズである。勘助ののぼりも現れて、いずれ山梨県内でも、いたるところに二十四将ののぼりが見られるようになるかもしれない。

 さて、次はNHKの18時からの番組生出演のため、「NHK甲府」にやってきた。約束の時間は3時、はるかに早く入った。打ち合わせをし、1月13日に私の企画を立ててくれた鈴木アナウンサーと久々の再会。とても生真面目そうなさわやかな青年である。スタジオ内は、若い人ばかりで、活気があった。二台のカメラが行ったり来たり、アナウンサーは自分の台詞を繰り返し練習している。物の配置を、考えている撮影スタッフもいる。

 時間が過ぎて、本番の生放送18時が迫ってくる。私はオープニングで紹介されて、すぐ要請されている「いのしし」切り絵の即興ライブにかかる。しかし、ここでハプニング。下絵をかき始めたら、どうも紙の感触がいつもと違うのであった。

 台においてあった一番上の紙は、切り終わった切り絵を張る紙であったのだ。私がおいたのだろうか?大失敗であった。それでも、早々に気がついたので、取り戻せた。「いのしし勘助」という切り絵が30分で出来上がった。途中で、バンフォーレ甲府のサッカーのコメントをしてほしいというところの後半で、ちょっと緊張が走った。

 そのあと30分ほどニュースとかの報道が行われ、いよいよ私の特集の時間である。何とか、落ち着いて、繰り出される鈴木アナウンサーの質問に答えていく、いい調子に緊張が走らず、時間が過ぎていく。あっというまであった。

 途中、「富士山・信玄・百鬼丸」というフレーズを言った。思い上がりで言ったわけではない。私が山梨の観光に、そんな感じで貢献できれば良いなあという気持ちから言った台詞である。皆からは、好感もって受け入れられたようだ。

 本当に充実した一日であった。


正念(12月26日)

 今日は山梨に行ってくる。武田二十四将の残りの作品を切りに行ってくるのだ。27日まで2日間掛けてやるのだが、多分終わらないだろう。後は来年ということになる。

 来年の風林火山博には1月12日から私は、私の製作ブースに入る。弟子の中西香織がプロ切り絵作家になると宣言したので、彼女にもブースに入って作品作りをしてもらう。彼女にとってもいい経験になるだろう。約3ヶ月、23点の(勘助は終わっている)武田二十四将をする。3日で1点というのが理想だが、そんなに早く出来るはずもないだろう。


暦紙(12月25日)

 昨日は、主なカレンダーの発送を終えることが出来た。今日だけで500近くの発送をした。10月から始めたから約2ヶ月ちょっとかかって全部送り終えた。年賀状を出さずに、代わりに年末にカレンダーを今年の私のことを書いた文章と共に送るのだ。

 年賀状として出すとなると、喪中に人には出せないので、この方法を取っている。

 そのせいか、久しぶりに腰が痛い。久々に今年は腰のことを気にせず生活した。それで、テニス仲間の田口さんの治療院に行って、整体をしてもらった。もっとうまくなって欲しいが、始めたばかりで、まだ修行中である。

 実は、まだ、名詞の整理がしておらず、まだカレンダーの発送は続くのだ。今年は展覧会ばかりやっていたから、人と名刺交換する機会が多かった。多分200枚くらいはあるだろう。今日すべてやり終えたい。

 そういえば、10月の展覧会の入場者の入力もある。いや大変だ。


フラ(12月24日)

 5月に個展をする坂戸市のレボヌーというギャラリーの店主から頼まれて、フラメンコのポスターのイラストをすることになっていた。そこの娘さんが、フラメンコをしていて、そのグループの発表会用のらしい。

 それで、昨日は、そのギャラリーで、フラメンコのショーがあるということで私も見学させてもらった。10日ほど前にも藤水名子氏のフラメンコグループの発表会を見に行っている。

 今回のグループは前回より、上級者のようであった。ギャラリーの娘さんも独演して迫力十分。しかしなんでもそうであろうが、人の存在感とは体つきとは関係ないと感じた。迫力のあるステップはあるとしたら、あとは表情の豊かさだろう。その表情の豊かさで勝負がきまってくる気がする。この領域になると、才能なのだろうか?

 しかし、このグループにも男性はいなかった。男性というのはお稽古事には無縁のものだろう。私も日本舞踊とか、パントマイム、ふくわじゅつ、フラメンコも良いなあ。何か短期間に数多くやってみたいのだが。


良年(12月23日)

 今年最後の教室が終わった。最後に「よいお年を」といって別れたが、正月をもうすぐ迎えるという臨場感が迫ってくる。しかし、何か一抹の寂しさもある台詞である。もう会えないような。年齢を重ねたせいだろうか。

 来年は、ハチャメチャなスケジュールになりそうである。母校の高校からの講演の依頼もあった。どう対処し、自分の心の安定を維持し、多忙の中でも揺るがない私の意志をを通す。こんな力が必要だろう。

 自分の力を信じ、みんなの期待にこたえる自分でありたいと、念じている。

 さあ、もうすぐクリスマス。大晦日。正月。私は働き続ける。


東洋大ビール(12月22日)

 昨日は、東洋大ビールのデザインをしに川越ブリュワリーという川越芋地ビールで有名な工場に行った。ここで、パソコンに向かってデザインするのだと思ったら、私の指示だけで、あとは東洋大生協とビール工場とのその他の打ち合わせであった。

 箱根駅伝出場の東洋大だから、その祝賀会に間に合うようにという思惑もあったらしいが、今頃から始めて間に合うはずもなく、結局今日、私が親しくしている東京工芸社に行って、直接デザインすることのなったのである。その時間は8時半間もなくである。10時から切り絵教室である。だから、現在部屋の掃除をしている。

 NHK甲府から、正式に出演要請があった。28日午後6時から7時、私はコメンテーターとして生出演することになった。山梨だけの放映である。


青島だ(12月21日)

 来年1月9日に山梨の民放の私は出演するが、そのシュチエーションは歌手の湯原正幸夫妻と山梨のどこかで遭遇するという設定であるそうな。湯原正幸はGS時代から知っている。お笑いなんか時々出ていたが、奥さんの元歌手・荒木由美子さんの素晴らしいスマイルの印象のほうが強い。

 あのまま、結婚せずに荒木さんがタレントでいても、芸能界で生き残っていけそうであった。その証拠に、現在放映されているCMに出ている。

 青島幸男がなくなった。タレントとしては地味だった気がするが、放送作家であることを考えれば出っ張れるだけ出っ張った人だと思う。私も子供の頃から、テレビ番組でお世話になっている。彼の台本で、大いに笑ったはずである。

 私は子供の頃(中学前)が一番楽しかった人間である。今でも、幸せの目標はその頃であるから、その状態になれたら良いなあと思っている。その私の大好きだった子供の頃に、華を添えてくれた青島さんだったのである。有難うといいたい。

 昨日、今夏「吉田の火祭り」にコメンテーターとして2時間生出演したCATVのビデオを初めて見た。実は始まったばかりの時は緊張していたので、どんな顔をしているのか見るのが嫌で、見過ごしていたのである。やっぱり最初の挨拶の時は、場違いな顔つきで、たたずんでいた。これから能の芝居でも始まるのかと思われそうな能面であったのだ。

 それが能の面が取れたのは間もなくであった。ただコメントがだらだらとキレがないのが目立った。反省点である。めんどくさい説明をしなければいけないので、整理して話をするのは難しいものである。

 ボクシングの亀田が勝った。私はランダエダを応援していた。自分ではそんなつもりではなかったが、テレビを見ていると「ランダエダのパンチが当たってほしい、がんばれ」と応援していたのであった。それで亀田が勝って、私はすぐチャンネルと換えてしまった。あの亀田のインタビューを聞くのが嫌だったのである。私は彼のコメントを聞くのがうんざりであるようだ。

 しかし、彼は素晴らし精神力の持ち主であることは認める。つらい練習をこなしているんだろうと思う。ボクシング大好き人間としては複雑な気持ちである。


12(12月20日)

 郷里の富士吉田に行ってきた。来年の風林火山博に展示する武田の二十四将の切り絵作品(80cm×110cm)を複製しに行ってきたのだ。実は、原画をスキャナーに取り込んで、切る紙にそれをプリントして、切っていくという作業をしたのだが、実はそのスキャナーで取った画像に、本物とは違うところがあることが、今頃わかったのである。

 この画像は、富士急ハイランドの新しいアトラクションの看板に使われている。この件には間に合わないことがわかった。

 もう一つの使用場所は甲府の町のインテリアとして飾られるのだが、具体的にはシートに印刷して、それを町のあちこちにたらすというものだが、その印刷がもう始まるとのこと。すぐにも新しい画像が欲しいということで、その絵の修復をした。かなりの時間がかかったが、何とか終えることが出来た。

 結果的に、武田の二十四将は12しか切れなかった。また来週いって、あと14作(信玄・由布姫をいれて)を作ることになる。


大笑(12月18日)

 今日は今から富士吉田だ。武田の二十四将の切り絵を複製するために行ってくる。出来たら二日間で24作全部やってみたい。とにかくがんばるぞ。

 下の右写真は、作家の藤水名子氏のフラメンコの発表会の後の、記念写真だ。左はそのあとの軽く酒場で飲んだ記念写真。初対面方ばかりだったが、大いに笑った。藤氏にはそんな場を設けていただきありがたく思う。勿論、フラメンコも大変、あでやかで、私も勉強になった。フラメンコの会場は写真撮影禁止だったんで、画像に出来なかった。

  


本日(12月17日)

 本日も東京である。3日連続東京というのは最近珍しい。昼ごろに、作家の藤水名子氏がやっているフラメンコの発表会が新宿であって、見に行くのだ。フラメンコ体験は2度目であり、フラメンコの絵をかいてくれという依頼もちょうどある。

 会場には彼女の旦那さんやその友人も来ているという。

 そういえばまたまた、NHK甲府の出演が12月28日に決まった。また生出演である。これで、3回目に生出演である。関東にまで流れればいいのだけど、どうなのかわからない。それにどんな番組なのかもわからない。夕方の出演であるようだ。


京王(12月16日)

 昨夜は、三軒茶屋で私の仲間の糸操りの人形芝居の結城座の公演があり見に行った。12年も前になったんだが、「あのこ」という演目で、江戸以来の「写し絵」復活公演というのがあったがあった。いわば江戸時代の持ち運びが出来る幻灯機なのだ。

 その江戸時代以来の写し絵と糸操りの融合した芝居で、私は映し絵の原画を担当したのだ。50作ほど作ったと思う。公演は浅草本願寺の内部であった。私は50作作るために稽古場のある吉祥寺に缶詰になったのである。

 あれから12年もったのである。恐ろしい。先日学研から文庫本を頼まれたが、その作者は江宮隆之という作家で、山梨県在住で、私のとっても彼と組むのは2冊目であり、もう、意気投合した親友とでも行っていい。彼の小説の題材が結城座だったのである。彼は江戸時代初期から延々と続いている結城座に興味を持っていて、書いたということなのである。

 そのうちに彼を結うきざに紹介するつもりでいる。

 話は今日に移る。調布の教室を終え、大泉学園で個展をしている弟子の中西香織の展覧会に向かった京王線であった。向かい側に泊まっている客が、襟首をつかみ合いながらいがみ合っている。出てきたと思ったら、殴り合いになった。一人は60歳くらいの労務者っぽい人で、彼が30歳くらいの180センチくらいの若者に文句を行ったようだ。電車の壁の陰でわからなかったが、手を出したのはお年寄りのほうだったと若者か言っていたが、その後手を振り上げているのを見るのは若者のほうだった。

 どうもお年寄りのほうが多くなぐられていたようだ。お年寄りのほうが冷静さを取り戻したが、若者はまだたけんでいた。駅員に促されて、二人とも事務所に行った。

 それと同じ電車である。どこかの駅で、「子供が落ちた」という声が聞こえた。そあと誰かが走り、駅員が走り、緊急事態発生のベルが鳴り出した。ホームと電車の隙間に4歳くらいの子供が落ちたのである。そんな隙間がないように見える。でも落ちたのである。間もなく助け出された。おじいちゃんらしい人のひざの上で、女の子は泣いていた。このおじいちゃんの失態であろう。

 知られたら、子供夫婦に怒られるだろうなあと思った。でも、電車が走ったら、死んでいたかもしれない。よかったよかった。


展覧会(12月15日)

 来年は展覧会が目白押しである。甲府富士屋ホテルの武田二十四将の展覧会(12月から来年4月まで)。

 風林火山博で公開製作(1月から4月まで)と武田二十四将展(1月から12月まで)、

 5月に埼玉県坂戸市レボヌウで個展、

 6月に銀座伊東屋で草鞋之会展、

 8月の1月間・埼玉伝統工芸会館展、

 何月になるかわからないが,富士吉田市道の駅展。

 後半は未定である。皆さん来て下さいね。


新聞(12月14日)

 今年は新聞にいっぱい載っし、テレビにもいっぱい出た。山梨日々新聞には10回いくら載ったのではないだろうか。だが、その新聞を整理していない、というより今まで、そういうことをしてこなかった。新聞はわりと取ってあるのだが、どこかにつんであるだけである。

 それで、とうとう決心して、アルバムを買ってきた。フィルムをはがして、はさむものである。出来るだけ、とにかく見つけたら、ぶち込んでおきたい。また仕事が増えたが、これはやっておかねばならないことである。

 来年は、風林火山博のブースで、武田の二十四将のライブ製作をするので、またまた新聞ねたになるだろう。一作仕上がったら、その作品をを掲載してもらうようなことがあったら楽しい。24回掲載してもらうことになる。そしたら、楽しみで見に来る客も多いだろう。

 来年は4月までは、そちらのブースでの作業だから、かなりの人と出会うことになる。どんな方と出会うのか今から楽しみである。ちなみに、1月は多分12日のプレオープンからのライブ製作になるだろう。まだつめていないが。


終了(12月13日)

 今年の出版の締め切りがすべて終わった。作品の撮影を川越の中山スタジオでやって、デザインは元出版社に勤務の田口氏にオペレーターを頼んで、パソコンでデザインする。そのあと、霞ヶ関(川越市)のひさごで2人で飲んだ。

 田口氏は私のテニス仲間である。あまりしゃべらないが、出来ればしゃべりたいタイプである。ただ、ついつい臆してしゃべらないのである。だから、しゃべりやすい相手だと、べらべらしゃべりだす。歳が60歳蔵だが、最近飲み仲間が少なくなって、寂しい思いをしているようだ。内容は忘れたが、楽しい酒だった。

 最近は楽しい酒ばかりだ。 


野球(12月12日)

 今日は親友の田村溶吉君と渡辺環さんの誕生日である。人の誕生日というのは、なかなか覚えていないものだが、12月12日というのは覚えやすいので、覚えている。田村君の誕生日を覚えて、彼と同じ日に環さんが生まれたことが印象的で覚えたのだ。

 それはともかく、小学校の3年くらいから野球を始めたのではないだろうか。最初は誰としたか覚えていない。グローブはいとこのよしかず兄さんからもらった。私の球歴で華やかだったのは、小学校5年のソフトボールだろう。学校対抗のソフトボール大会があるというので、野球のうまい連中が集められた。私は最初補欠であった。

 しかし、いいピッチャーがいないということで、その補欠からもう一度洗い出そうとういうことで、一人ひとりみんなの前でチェックされた。そこで、私がそのスピードを買われて、レギュラーの中に入ったのである。そして、正投手の座をあれよという間につかんだのである。コントロールもいい、球の速さも延びも抜群であった。練習試合ではほとんど、ほとんど三振である。

 しかし、内輪の練習試合というのは駄目である。やはり他校との練習対抗試合というのをしないと。初体験の本試合では私は上がったというより、むきになった印象がある。それで、今までの投球を本番で忘れたのである。全く忘れたのである。球は遅い、コントロールはまるで付かない。あんなことは最初で最後であった。みんなの期待を裏切った。

 6年生になって、新5年生がその学校対抗戦に出るということで、前年度のレギュラーが集められ試合をした。私が先発したが、このときの投球は素晴らしくて、これが一年前のあのグラウンドで発揮されたらと悔やみたくなるほどだった。ほとんど打たれず、三振の山を築いた。

 6年になって、それまでなかった少年野球というのが、出来た。私は横町という地区代表で、ピッチャーとして出場した。それまで、軟式野球というのはしたことがなかったが、何とか上手投げの投球はソフトボール同様、早くてコントロールもよかった。

 しかし、悲しいかなコーチのおじさんたちも不慣れであって、我々も準備が出来ていなかった。無知であった。特にピッチャーなんぞというものは肩を作らなければいけないものだ。ほとんどぶっつけ本番である。

 私は第二戦に先発した。第一戦はサードであった。長島である。第二戦は、4対0で勝った。7回を13の三振を奪って勝ったのである。実に半分以上三振を取ったことになる。この記事が山梨日々新聞に載った。これが初めて私が新聞に載った記事である。その記事はとってはいない。「渡辺投手13三振を奪う」というのが見出しの記事だったのを覚えている。その時に初めて13三振を奪ったんだと知ったのである。

 がしかし、次の日から肩痛である。当たり前である。もっと先から準備しなければ、肩は出来上がらない。無知であった。第1回大会だからこんなもんだろう。次の試合はどうだったか覚えていないが、我々は3位であった。私は、最優秀投手かになった。しかし肩が痛かった。

 それから、練習をしなかったが、甲府選抜との対抗戦があるということを聞いて、それに出場してくれということであった。しかし、当日まで、正式な連絡が来ず、どこで何時にという連絡が来なかった。それで、当日その関係の人に聞いたら、もう始まる時間だぞということで、今から考えるとすごい遠いところまで、急いで自転車をこいでいった。

 仲間はもう待っていて、私が来ないので騒ぎになっていたのである。私はでも間に合った。しかし、その間練習もしていないんだよ。それで先発のマウンドに立った。肩が痛い。コントロールは何とかなったが。それで、私は4回まで投げて交代させてもらった。4対3で勝っていた。そのあとのピッチャーはばかすか打たれて、11体4で負けてしまった。

 下って高校の3年の時だった。テニス部に入っていた私は、隣の野球部(野球部は強く、山梨で優勝。当時は埼玉と決勝をしていて、後に大洋へ行った竹内のいる深谷商業に負けて、甲子園にいけなかった。)の志村君とグラウンドでキャッチボールをした。その時志村君が、意外なことを言った。「文昭が野球をしていたら、ノンプロくらいは行ったな」という言葉であった。キャッチボールをしていて、子供の頃の私を知っている志村君が、ボールの回転をみてそう思ったようだ。

 そんな高い評価だったとは、私も驚いた。


笹沢佐保(12月11日)

 作家・笹沢佐保さんとのお付き合いは、上記の過去の挿し絵にある宮本武蔵から始まった。実は彼の遺作の挿し絵も私がしている。名誉なことだというのは、違うのだろうが、記録としてはそのようである。

 この宮本武蔵は、もともと加藤?したのお名前を忘れてしまったが、彼が始めの挿し絵を書かれていたが、早々に体調を崩され、次に大竹明輝さんが引き継いだが、笹沢さんが気に入らず、私に番が回ってきたのである。私はこの連載の5分の4の、足掛け5年くらいの連載だったと思う。挿絵画家としては大変描きやすい小説であった。

 笹沢さんの人物描写は、とても具体的で、後にも先にも、こんなに姿かたちの説明を書く方はいない。いつも人物像を描くのが楽しみであった。私を育てたのは笹沢さんだといっても良い。連載中には彼の住んでいた佐賀に行って、編集者・私と長崎の島原を、訪れたものだ。当然酒席もご一緒した。

 笹沢さんはいつも会うと、私には丁寧な言葉で、扱ってくれた。偶然お会いしても、私のことをお忘れになることはなかった。
 
 連載の晩年は、笹沢さんは癌と戦い、何度かの手術をした。連載も滞りがちであったが、何とか終了し、その後数年生きられた。癖のある人だったが、なかなか最近いないタイプの作家であった。
 
 近年、作家の森村誠一さんから私に、仕事の依頼があるが、森村さんは笹沢さんを一番に尊敬されていたことで、その笹沢さんと組んでいた私に対して憧れがあるのではないかと想像する。


笹一酒造(12月10日)

 笹一酒造の酒のラベルをすることになっているが、この酒造所は非常に活気に満ちていた。若い人が生き生き働いていたという印象である。その笹一酒造の入り口には世界で一番大きい太鼓というのがある。(石川県の浅野太鼓の浅野社長は私の知り合いなので、どこで作ったのか知りたかったが、笹一の方は知らなかった)

 さらに、駐車場があって、何台ものバスからツワー客が降りてくる。甲府観光に行く前にここによってから行くのだそうだ。実はここに笹一の酒の販売は勿論、山梨県内の物産を販売している建物があるのだ。酒もおちょこでちょっと飲ましてくれるが、私は思わず手を伸ばして飲んでしまってから、自分が車で来たことを思い出してしまった。

 中には、ちょんまげ姿のおじさんがいろいろ説明してくれているし、にぎやかである。私は急いでいたので、酒を買って外へ出たが、さっきまで誰もいなかった外の販売所に人がいたので、煮込みにしようか、うどんにしようか、おでんにしようかと迷った挙句に煮込みを選んで食べた。地場の野菜も安く販売している。買って帰りたくなった。

 富士吉田への道は、その存在さえ知らなかった都留市への近道を通っていった。先日乗ったリニアモーターカーの高架もこぐった。

 写真は、11月27日に行われた「チーム百鬼丸」の忘年会の写真。みんな酒を楽しんでいる中で、私は「金太郎」の製作に励んでいた。興味がある人は私の作業を見ていた。


山梨(12月9日)

 山梨に行ってきた。笹一酒造にデザインのことで話しに行って、午後一番で、山梨日々新聞に助け合い運動にいくばくかの寄付金を渡しに行ってきた。そのあと看板屋さんのタイメイへ行ってパソコンのオペレーターを頼んでデザインをした。

 それで一日の行動は終わり、「晩酌」にのみに行った。チーム百鬼丸の堀内氏とである。宴会が一杯入っているようで、知った顔が一杯訪れていた。皆に、挨拶をした。


関口コウさん(12月8日)

 本庄で福田さんと関口コウさんが切り絵の展覧会をしていたので行ってきた。全国的に知られているという点では関口さんは日本で、滝平さんを除けば一番の人気者だろう。

 切り絵交遊録というところで、関口さんを紹介しているが、やはり依然と同様で、子供の路線からつやっぽい女性のほうに路線変更をしていた。ご本人が絵がうまく描けないとおっしゃっていたが、その通りの絵だった気がする。路線変更からかなりの年月がかかっているから、ご本人も不安だろう。

 関口さんとの話の中で、一つだけ提案しておいた。みんな良い子ばかりだから、悪いこのシリーズをしたらいかがですかと。

 関口さんは切り絵界にはかけがえのない人である。楽しい仕事をして欲しい。


欠席(12月7日)

 昨日の忘年会は残念ながら、作品が上がらず欠席した。残念だ。本当に東京に出なくなった。しかし、とにかく忙しい。細かいことをしようと思うと際限がない。

 先日甲府で公開製作した立体の作品の、平面作品の製作。その前に気に入らない信玄の顔を直す。
 富士急ハイランドに、武田の姫を探せというアトラクションの旗指物を作ること。
 笹一酒造のラベルのデザイン。(イラスト終了)
 自前のカレンダーの発送
 自民党の中川政調会長?の似顔絵
 武田二十四将の複製
 風林火山博用の家康・信長の絵

 ちょっと出してもこんなにある。その他に先日の展覧会の入場者のパソコンへの入力などの雑務が山積みである。


二輪(12月6日)

 昨日の忘年会は一日間違えていた。もともと時間と場所を知らなかったから、友人に電話したら判明した。今日行ってきます。
 さて、ロードの中古自転車を買ったと前の書いたが、買ったとき店主が全く磨いて渡してこなかったが、そういうものかなと思っていたが、きっとそうではないだろう。ぴかぴかにしてよこす人もいるはずだ。

 それはともかく、それで、自転車を磨いてみた。5割がた自転車が立派になった気がする。しかし、この自転車に乗ったら、スピードの伸びが違う。今まで乗っていた自転車はなんだったのかと思う。タイヤの幅が狭いから路面との摩擦がないせいもあるだろう。不思議だ。5kくらい離れているテニスコートには、今までガソリンを消費してバイクで行っていたが、私のからだの油を使って、自転車で通うことにした。3回ほど乗ったが、足に少しくるが、階段の上り下りが楽になった気がする。

 ブリジストンのマークが張ってあるが、取った。のりの付いたカッティングシートを切った私の切り絵を、自転車に貼り付けたいからである。
 
 だが乗ると、ああ尻が痛い。


忘年(12月5日)

 今日は、締め切り2つがある。それはともかく、山人会という山梨文化人の会というのの忘年会がある。会長さんの山地さんから電話があり、是非来年は「風林火山博」のイラストレーターになったので、みんなの前でスピーチしてほしいということであった。だから、出席である。

 その前に作品を仕上げて、編集者に渡さなければならない。集中すれば出来ない時間ではない。さあがんばろう。

 忘年会の場所と時間を問い合わせたところ、日にちそのものを間違えていた。明日が忘年会なのだ。


後輩(12月4日)

 昨日は伝統工芸会館の展覧会の最終日であった。東洋大学の2年生で、切り絵をしている学生が来た。建築の内田先生からの紹介である。切り絵を見せてもらった。風景画である。よく出来ていた。しかし下絵は、トレースだという。

 トレースしたら絵ではない。それではプロになれない。そう伝えた。

 他に私が修行時代に過ごした山梨県上野原の人が3人来た。伝統工芸会館に館長さんの仲間という。昼間から飲んで大きな声を出していたが、その代わり、一杯買い物をして行ってくれた。上野原は時々今でもよる。

 上野原は、愛知県の常滑から引き上げてきた時に、過ごした町だ。まず、ラーメン屋の天龍というところで出前のバイトし、3時から、自宅で切り絵をしていた。それにバキュームカーに乗って汲み取りのバイトもした。そこから、出版社に売り込みに行って、プロデビューした町でもある。4年間を過ごした。

 上野原のお客さんは、私が住んでいたことをとても喜んでいた。きっと上野原で展覧会でもしてくれというような企画を持ってきそうである。展覧会の毎日行って、これがその願っていた出会いである。


病院(12月3日)

 昨日は緊急で病院に行った。腹に調子もおかしいし、目のおくも少し痛い。頭の中も少しだが氷を食べた時に頭が痛くなる症状に似ている。風邪だろう。なにか違う病気なんではないかみたいな顔でお医者さんは診断してくれたが、丁寧でよかった。最も病院の客は少なかった。

 一昨日、アトリエの目の耳鼻咽喉科に、鼻の中がアレルギーでくしゃみ鼻水・鼻血がでると行ったが、出された薬を飲まなかった。昨日いった医者にそのことを告げると、胃腸薬を出すから、もらった薬いっしょに飲むように言われた。抗生物質も出ているので、この薬はある面問題になっているので、気になったのである。

 展覧会の打ち上げはさすがに、私は風邪のせいか、いまいちものが食べられなかったし、すぐに眠くてどうしょうもなかった。近頃、あまり飲めないのである。


学友(12月2日)

 昨日、夜仕事をしていたら、テニスのペアで東洋大の建築の助教授から電話があった。学生と私の同期の仲良しの仲間二人が来るから飲みに来ないかということだった。

 場所はスーちゃん。この飲み屋は私のところから一番近い飲み屋だが、2回行ったことがあるだけだ。何故行かないかというとお通しが、20センチくらいのお皿に山盛りくるからだ。それも揚げ物ばかり。コロッケだとかメンチだとか、アジフライだとか。それで、懲りていかなくなった。

 しかし、すごくはやっている。兎に角けたはずれに安いからだ。相手は学生。

 刺身の量、野菜の量が半端ではない。いやすごい。その日も満席であった。

 建築を夢見る3年生の学生に、私ら4人は夢のないことは言わないが、建築に夢のあることもいえないなあと思ってしゃべっていたと思う。

 しかし、学生という社会経験に乏しい人間としゃべるのはとても難しい。せいぜい恋愛の話になると、それなりの経験が共通してあるから話は弾むのだが。

 まあしかし、これから大変だよ。建築は。

 私の学友とはとても仲がいい。恵まれた人生を渡っている奴らでもある。


女装(12月1日)

 今日は風林火山博の打ち合わせで甲府に行ってくる。

 古着を以前よく買った。その中にスカートが二枚ある。それは東南アジアから輸入したようなカラフルな薄手のくるぶしまであるロングな物で、ウエストはゴムになっている。部屋で、寒さよけにどうかと思って買ったのだが、久々にはいてみた。これがすこぶる暖かい。つまり下半身が雪の「かまくら」状態になるからだと思う。

 試してみては!


エコ(11月30日)

 中古のロードの自転車を買った。バイクの面倒を見てもらっている自転車屋さんに長らく飾っていたものだ。昨日早速乗った。とにかく早い。軽い。10キロ以下なのではないだろうか。しかし、腰が痛くなる。それにハンドルを持つ位置が3箇所くらいあるのだが、ブレーキはそのうちの一箇所にしかないから、ブレーキをかけるときは持ち替えなければならない。それが危険に思える。

 そのうちにブレーキだけ、安全なものに取り替えてみよう。

 昨日はテレビ埼玉の夕方のニュースに出た。今日はきっとお客が多いことだろう。


巌流(11月29日)

 まだ、先の12月7日の締め切りだが、3冊いっぺんだから、早めに巌流島に行ってくる。とぼとぼ。


楽日(11月28日)

 無事に、チーム百鬼丸の忘年会に行ってきた。いや、すごい。2000円の会費で、料理が一杯出て、それで、私のイラストの入ったジャンパーとトレーナーと私の会場で即興でやった4センチ×4センチの金太郎のイラストが土産に付く。それに、当たれば、私のA4くらいの大きさの切り絵が2点もらえる。

 それはともかく、宴会場では私は最初から最後まで金太郎を切り続けた。26作である。一点5分くらいのペースで作ったのではないだろうか。最後は酔いも回って、しんどかった。食い物はほとんど食えなかった。でも、やったという爽快感がある。みんな喜んでくれただろう。またやろう。みんな!


吉田(11月27日)

 今日は、展覧会が休みの日である。それで、富士吉田の教室にしてあって、行ってくる。そのあとは実はチーム百鬼丸の忘年会がある。30人ほど出席だそうで、私は全員にその場で、一人一人に切り絵を切ってプレゼントしようと思う。全部で30枚、果たして切れるだろうか。テーマは金太郎。金太郎のいろんなポーズを30切る。

 ただ飲むのも楽しいが、いつもそれはやっていることである。かたやで大騒ぎして、かたやで一生懸命働いているというのは、落差があって面白いともう。


謙信(11月26日)

 昨日は埼玉新聞に載っただけあって、客が多かった。即興切り絵は上杉謙信をした。関東の攻防の中で、同盟関係にある城主に援軍を送っているのだ。厳密に埼玉の武将ではない。そういえば武田軍も、この埼玉に押し寄せている。この展覧会をしている小川町にも、武田軍が押し寄せ、武田のゆかりのお寺もあるそうである。


休日(11月25日)

 昨日は個展会場が、休みで、私は休日であった。

 過去にやった即興切り絵の解説をしてみよう。

 扇谷家上杉定正  有名な太田道灌の主君である。本家筋が山内家となる。太田道灌が、江戸城・河越城・岩附城を作り、鎌倉公方との戦用の出城として城を築き、扇谷家上杉は本家をしのぐ勢いとなる。その活躍を、上杉定正は嫉み、また、山内家上杉顕定の讒言もあり、主君の太田道灌は殺されてしまう。

 そのため、せっかく隆盛に向かっていた扇谷家上杉の権勢は衰え、上杉定正の死後さらに衰えることになる。しかし、こんなことばっかりやっている恐ろしい時代である。


農業(11月24日)

 今日は展覧会場の埼玉伝統工芸会館が休みなので、展覧会も休みである。テニスをしたいが、外は雨だ。

 昨日は、埼玉伝統工芸会館のある道の駅で農業祭があった。沢山の人が来た。しかし、私がやっている個展会場にはそんなのあわてるほど来ていない。入場が有料だからだろう。

 即興切り絵は、足利基氏をした。足利基氏は足利尊氏の長男なのである。厳密に言えば埼玉の武将ではないだろう。しかし、展覧会場近くの嵐山町には、足利基氏が鎌倉から出張った合戦用の城跡がある。一度、展覧会場にバイクでくるとき、近道をしようとして、道に迷ったことがある。そのとき、足利基氏の城跡と標識があるのを見た。いずれ行ってみようと思って実現していないが、その時に無理にでも行くべきだった。

 足利尊氏が、関東管領という関東地方の統治を始めた時、もともとあった関東の豪族たちはいっせいに反発したのである。それを治めるために、鎌倉公方の足利基氏が、埼玉の奥地まで合戦に出かけてきたのである。この時代、この関東はめまぐるしい展開がある。

 鎌倉公方が関東を平定するために派遣される。その家来の上杉家が関東管領という名で、実際のは統治するのだが、足利幕府と鎌倉公方が反目しあうと、幕府側についた上杉氏と上司である鎌倉公方とで争いになる。そして鎌倉公方は、逃れて栃木県の古河に拠点を移す。それから、その名を古河公方というようになる。しかし、上杉も本家の山内家と分家の扇谷家に分かれて,争いになり,古河公方にくっついたり離れたり。とにかく、応仁の乱そのままが、関東にも現出されたようである。

 現代の世の中も、往古の関東の有様と変わらない体が見られて、人間あまり変わっていないようだ。


露天(11月23日)

 今日が晴れなら、道の駅の広場で、即興切り絵をするはずである。今日は農産物祭りというのが広場であるのでかなりの人が来るようである。

 今、即興切り絵は「埼玉の武将を切る」というタイトルでやっているが、全ての埼玉の武将が、殺されているといっていい。それも、だまされてとかもかなりある。この頃の武将は「殺される」といった恐怖感があったのではないだろうか。前も後ろも上も下も右も左も自分を襲ってくるものばかりだと感じたんだろうと思う。

 昨日は、比企能員(よしかず)の即興切り絵をした。比企氏と言わずに比企党と調べるとある。この辺の豪族はほとんどが「氏」とあるが、比企だけは「党」である。この辺のさじ加減はなんなのだろう。調べてみたい。

 さて、この展覧会が行われている小川町は比企郡という中にある町だ。それだけに、印象的だ。それに、昔、タレントで比企理恵さんという人がいたが、テレビで比企党の末裔だというようなことを聞いたことがある。果たして。

 畠山重忠同様、この比企郡の土地が比企党の領地あるいは荘園ということなんだろう。

 しかし、比企能員は鎌倉の頼朝の家来として、普段は鎌倉にいたようだ。二代将軍頼家の母親は比企能員の娘であり、乳母もそのようである。しかし、この名族も北条氏の排除を頼家と画策して露見、北条時政に滅ぼされ、早々と歴史から抹殺されてしまった。ゆえに、この比企党の痕跡は比企郡と地域の名にあるにもかかわらず、遺構がほとんど残っていないという。比企という名は、何かかっこいい名の印象がある。比企忍者とかも、いそうな名である。


季節(11月22日)

 日が短くなると、寂しい。寒くなるのも苦手である。早く冬が通り過ぎないかなあと思うのだが、一年が過ぎるのが早すぎて、それももったいない気がする。


部屋(11月21日)

 アトリエの模様替えが完成した。忙しい中の作業なので、かなりかかったが、気に入っている。これも、教室をやっているからだ。教室の前に何とか、間に合わせなければならないという使命感があるからである。教室をしているいいところである。これから、出来るだけアトリエをいい状態にしていきたい。

 このところ、帰りが雨だったり寒かったりするから、展覧会の番をしてくれている生徒の車で帰ってきてしまって、バイクを展覧会場に泊めっぱなしである。だから、今日は電車で行くのである。

 今回の展覧会は、私が自力でやる展覧会よりも入場者は多い。しかし、新聞社やテレビ局が報道してくれない。昨日やっと埼玉新聞が扱ってくれた。


休日(11月20日)

 今日は休日だが、教室がある。最近は誰が来るかチェックしていない。とりあえずアトリエの掃除。雨だ。テニスが出来ない。残念。


画像(11月20日)

 笹一酒造から司牡丹新酒発表会と渡ってきた。

   

    
笹一酒造にて

 笹一は、年に一度の新酒発表会でにぎわっていた。お祭り騒ぎである。それにしても、笹一はすごい規模の酒蔵であった。入り口のギネスに載っていると言う大きな太鼓があった。

2ステージした。

作業は、ユンボ?の上でやった。作品はお題をもらって、ピッチャーと上杉謙信。


笹一(12月18日)

 今日は、埼玉の展覧会とは別に山梨の大月にある酒蔵・「笹一」で個展をしている。私のサポートチーム「チーム百鬼丸」が実労している個展である。今日はそこに行って、即興切り絵をすることになっている。10時には入りたい。土日にはたくさんの人がツワーで来るのだという。

 私はこの笹一で2本の酒のラベルを担当することになっている。

 そのあとは目黒の雅叙園で、高知県の酒蔵の「司牡丹」の頒布会がある。私がやった山本一力さんの本が、この「司牡丹」を題材にした話なのだ。今は忙しいが、楽しみにしていた企画であるので、行って来たい。帰りは多分酔っ払いである。


巌流(11月16日)

 とうとう巌流島に渡る。今度の佐々木小次郎は強そうだ。必ず帰還する。


北条(11月15日)

 昨日は、即興切り絵で北条氏邦をした。入場者が少ないから、やるタイミングが難しい。とにかく人がいなかったから、勝手に始めたら、人がいすに座り始めた。展覧会場をまわると、私の作品が気に入って、丁寧に即興切り絵を観察してくれる人が出てくる。

 終わった頃理想的な人数が、集まっていて、拍手喝采で終わった。

 昨日は北条氏邦。北条の武蔵北西の要である鉢形城の城主である。関東の豪族は関東管領上杉氏の傘下から、新興の北条氏に降伏し始めていた。ここを治めた藤田氏も例外ではなく、城を北条氏に明け渡すことになる。それで、藤田氏の養子として北条氏康は四男の北条氏邦を送り込む。

 しかし、西国の武田に攻められ、籠城戦で何とかしのぐが、秀吉の関東攻めでは前田利家の攻撃に対して、籠城作戦に出るが、ついに降伏することなる。その後、加賀の金沢ですごし、世を去っている。戦にまさに明け暮れた一生であった。

 これで、5点である。今回は、葉書にして販売したいと思っている。


滅亡(11月14日)

 巌流島が近づいている。その前に、遅ればせながらの展覧会の葉書を出さなければならない。

 さて、先日の金沢でのザブン賞の表彰式で、理事の月尾嘉男さんの地球環境のお話では、もう、地球で、人類を養えなくなっているということ、森林伐採、生物の絶滅等悲惨な状況にあるという。

 皆さん何とかそれらを食い止めないと、あと10年後あるいは、子・孫の時代には、悲惨な状況になりますよ。


内藤(11月13日)

 山梨県の市川三郷町に、即興切り絵をしに行ってきた。作品はカメラに収めなかった。しかし、外に飾っておいたら風で作品がぼろぼろになってしまった。致し方ない。

 この町に去年も来た。そこで会うのが、東洋大工学部テニス部の2歳年上の内藤章氏に会うのだ。ひどいテニスの教わり方をした時代で、彼も被害者であった。今でも彼のフォームを覚えているが、とてもテニスが出来るいったフォームではなかったなあと思うのであった。

 想い出があるのは、私が一年の時、部内の大会(文系のテニス部も含めたオール東洋の部内戦)のダブルスで一つ上の先輩のチームとあたった時で、私はこの当時伸び盛りで、サービスの速さと、スマッシュの速さと安定感は抜群であった(今は出来ないが)。そのため、どんな深いボールもスマッシュで決めてしまうのであった。

 我々のチームは優勢であって、先輩に勝つということで、興奮状態であった。

 その試合の最中に、内藤章さんが私に近づき「スマッシュが人に当たったら、謝れ」というのである。意味がわからなかったのである。試合相手の先輩に一度もあててはいないはずであった。私はわからないからそのまま試合を続行したのである。

 あとで、わかったのである。その試合は、何故か覚えていないが、テニス部の全員がコートを囲んでみていたのであった。そのギャラリーにスマッシュが当たっていたのである。私はスマッシュが決まった瞬間しか見ていないから、その後のボールの行方は見ていなかったのである。見ている人間がよければいいと思うのだが、本当に、速くて切れのいいスマッシュだったから、避けられないのもうなずけた時代である。

 テニス部の全員の中で、怒られ、何をいているの理解できていない私の顔でだったはずで、内藤さんのその時の怖い顔は今でもしっかり覚えている。


金沢(11月12日)

  

   

 飛行機同乗の「ザブン賞」スタッフは百鬼丸・原田維夫・蓬田やすひろ・小岸氏・筑紫哲也氏。金沢も雨だった。到着して、昼飯となった。場所は名前は忘れたが、金沢でも指折りの料亭に繰り込んだ。和風会席である。亭主で板前の方の料理の解説で、料理が次々と出てくる。蟹も出てきた。

 さて、ザブン賞の表彰は、金沢21世紀美術館で行われた。素晴らしい美術館である。
 表彰式では、筑紫さんのスピーチ・月尾さんのスピーチ、「地球はとてつもなく危ないんだ」という趣旨のお話をしていただいた。確かにその通りである。

 受賞家族との宴会に入る。酒は出ない。ノンアルコールビールが出てきたが、結構うまかった。受賞者家族と写真撮影。地元のイラストレーターとの歓談と楽しい時間を過ごした。

 そのザブン賞の文章と副賞が飾ってある展示会場がある。受賞者の文章を印刷した紙を収納するための、焼き物・鉄・漆器で出来ている小器は絶品だ。どこのデパートに出しても、いや素晴らしいそんなレベルではない。

 私も含めて、そんな逸品が皆ボランティアで成り立っている。素晴らしく厚みのある展覧会である。

 宴会での、閉めは私のスピーチであった。大いに笑ってもらって私の役目は終わった。


草鞋(11月11日)

 今日は、金沢に行ってくる。ザブン賞というNPOの私は理事をしている。会長は筑紫哲也氏。石川県にある七尾電気の社長さんの高島氏が始めた会だ。「ザブン」は海の波の音である。

 高島氏はボートを持っていて、海で遊んでいるうちに、海が汚れ、子供たちも遊んでいない。このままでは、自然が滅びてしまうということで、立ち上がったわけだ。

 毎年、金沢・千葉・北海道とかで子供の水についての文章を集めて、表彰している。今回は全国から集めた文章の表彰式である。毎年、その文章に挿し絵を描いているのが、草鞋之会のメンバー私と原田維夫・蓬田やすひろ・西のぼるだ。それで、今年は私が一位の方の挿し絵を描いた。そういえば、この間作った作品をカメラ撮影していないなあ。いずれ、印刷物になるので、アップしたい。

 自然もそうだが、近頃、我々の世代が死んだら、日本は寂しい国になってしまう。シャッター通りどころではない。家々は、人がすまない家だらけだ。土地も家も、めちゃくちゃ余って、ただでも入らない。人がいないから、物が売れない。自然もない。私たちの子供の世代は大変だろう。私たちが出来ることは、出来るだけやっておきたい。

 表彰式及びレセプションがあるので、楽しい宴も控えたりしているから、楽しみだ。しかし私は日帰りである。その次の日に、山梨の市川三郷町で即興切り絵をしなければいけないからだ。


終止(11月10日)

 一昨日、作品を取りに学研の編集者が来た。そこで聞いて驚いた。草鞋之会の仲間の蓬田やすひろが、文庫本の装丁をやめたという。今、とてつもなく仕事が彼のところに集まっている。天才肌で仕事が丁寧、巨星である。本来、頼まれ仕事でなく、どんどんオリジナルで、絵本とかを出していく主役の仕事をやっていい人だ。

 私は彼ほどの量の仕事は来ないが、今はそんなに仕事が来なくていいと思っている。そんなに儲かる仕事ではないからだ。それで一月スケジュールが埋まると今は困る。主役の仕事をしたいからだ。

 時間がたっぷりかかっても、ちょいでやっても、ギャラというのは同じだ。蓬田さんが去るが、安くてもやるという若い人たちが次から次へと現れてくる。出版社が、蓬田さんの行動で、考え直すことはないだろう。

 手間がかかるといえば私も、蓬田さんに引けをとらない。私もそのうちと考えている。


四点(11月9日)

 今は何をやってもいい状況である。武田の騎馬隊をイメージして作っておきたい作品がある。一つ一つの騎馬に風・林・火・山と入れてレイアウトした4点を作りたい。出来上がりが楽しみである。何かのグッズに使えるだろう。部屋の模様替えの配置が終わった。後は所定の位置に物を入れるだけだが、捨てるものは捨てたいが、なかなか捨てられない。


隙間(11月8日)

 文庫のカバー画を一冊終えた。次の締め切りまで間があるので、仕事を含めていろんなことをしたい。まず、部屋の模様替えの完成だ。その次がカレンダーの発送、これは500くらいはやらなければならない。それからまだ葉書ができていなくて発送していない展覧会の案内の発送。それに挨拶文も作らなければならない。

 部屋の模様替えというのは不思議である。完成すると不思議な希望がわいてくる。この仕事場の模様替えは3回目だ。今度が一番使いやすくなるだろうと思う。といっていつもそう思っていたのであるが。

 それが終われば、やりたい仕事をやってみようと思う。次の依頼された仕事は来週からはいることにする。そうだ酒のラベルもあるからのんびりして入られないかな。


頭痛(11月7日)

 昨日はテニスを一時間した。10時に人に川越で人に会うことになっていたからだ。

 そのあと12時からは東京工芸社という、私の絵をカレンダーにして10年の印刷会社だが、毎年、商工祭りというので、サイン会を開いている。しかし、今年は金沢で集まりがあり、それに出席しなければならず、今年は会社に行って、そこでサインを750枚書いてきた。一時間二十分かかった。

 そのあとは教室だった。

 現在珍しく頭痛だ、二日酔いするほど飲んでいないんで、疲れていて免疫力が落ちたんだろう。同時にのどが痛くて、肩が凝るのだが、のどはルゴールで焼いた。


熊谷(11月6日)

 昨日は、下記のザブン賞(小中学校の生徒の水についての作文のコンクール)の表彰式に副賞として贈る絵を、作っていた。11日に金沢で表彰式は行われる。今回は、私の担当は一意の方の作品に絵を付けること。プレゼント用のと展示用のと2点同じものを作った。それで、展覧会には遅刻した。

 昨日は、道の駅の広場では、フォークを演奏していたが、演奏していたのが同世代のおじさんたちだった。のりのりでやっていたので、次にやる私はやりにくい。最初、何かいつもと勝手が違った。でも何とか出来上がった。

 昨日の作品は熊谷直実。源氏の有名な武将である。一の谷の戦で直実は平敦盛の首を取り、それを父の平経盛におくる。経盛は直実に感謝した。

 その後は、彼は悲惨な事件に出くわすという。義父の久下直光とその領地についての争いが起こったのである。それを頼朝の前の調停があったのだが、無骨な武将であるのか直実は、その調停の席で饒舌にことを説明できず、頼朝が不振をもつほどになってしまう。直実はそれを知ってやけになり、証拠の書類を捨ててしまって、出家をしてしまう。その後そのまま僧として天寿を全うしたということだ。

 裁判の席とかで、悪の癖に弁が立って言い逃れそうな人がいそうだ。それとは逆で、善人なのに顔も悪役面で、緊張しちゃって何もしゃべれない人もいそうである。直実は、頼朝の前で緊張で、そしてもともと弁が立たなくて失敗したんだと思う。


風呂(11月5日)

 昨日は、展覧会場に早々といったが、客がいないので、その隙に小川町にある天然風呂温泉に行ってみた。もうしていると思ったら、10時開店でちょっと待ったが、客が並び始めたのである。開店までに30人ほどが並んだ。人気の大型施設だが、こんな施設は初めてだ。名前は忘れた。何とか花の湯とかいうんだと思う。

 1050円だ。施設内で室内着をもらった。甚平っぽい服だがかなりしゃれた柄のものだった。私はそれを着てくつろぐほど時間がないので着なかった。家族風呂もあるらしい。とにかく雑誌とかでも日本で一・二を争う施設だとかいてあるという。確かにその気配はある。
 
 風呂に入った。風呂は鉱泉であるらしい。ぬるい。ぬるすぎる。40度行っていない。なかはどこかの民家の梁と柱を使ったのか、古めかしい材料があるが、本格的なものではない。お湯や風呂場そのもので勝負のところではなく、サービスやシステムが良いのではないだろうか。風呂場は、泡の立つ風呂とかがなく、とても静かだった。あの泡の風呂というのは気にはならないが、こういうところへくると、あの泡の音はうるさいんだとわかる。

 そういえば、並んでいる時に、前の少女が、飛び跳ねていたので、その振動が私の体の伝わってきてそれに、床に着地する時の音がうるさいので「静かにしてくれますか」といった。そしたら、止めた。母親が「すみません」といってきたが、父親が私をにらんだ。おとといも、展覧会場を走りまくる子供がいたが、音がうっとおしい。子供は走る音をわざと出して楽しんだりしているから、困る。

 即興切り絵は、やらなかった。

 それから、私の展覧会場の外では、いろんな屋台が出ていたが、似顔絵を書く女性がいたので、仲間意識で近づいて話をしたが、話し方にとてもとげがあり、私が絵描きだということを言ったので、ライバル意識でも持ったのだろうか。とても感じが悪かった。彼女は、私が個展をしている建物にも入ってきたようだが、10m先にある個展会場にも来なかった。こういう絵描きは珍しい。


畠山(11月4日)

 昨日の即興切り絵は、畠山重忠。この武将は、学校の授業で聞いたことがある。

 紹介しよう。実はこの畠山氏の館が、私の住む鶴ヶ島と展覧会場がある小川町の間の、嵐山町というところにある。その館は菅谷館という。
 この畠山氏も前回の河越氏と同様、平氏の出である。平将門が、関東で勢力を張ったくらいであるから、関東は平氏の土地だったのだろう。であるから、頼朝に仕える前は、畠山重忠は敵方だったといっても良い。しかし、河越氏同様、頼朝の重鎮になるのである。ここら当たりは今日にある平家の一門への反発が、地方平氏の一族にもあったのかもしれない。それに、頼朝の人柄が、よかったとか。

 畠山重忠は、頼朝の信任が厚かったが、北條時政の陰謀にかかって、失脚して髷を落とし、この菅谷館に謹慎している。その後許されるも、再び、北條時政によって今度は謀殺されてしまう。
 それにしても、自分の子供三人を手に掛けた北條政子と父親の時政を見ると、戦国時代がこの頃から始まっていたんじゃないかと思う。いや武士団というものが、そもそも、自然発生的な暴力団のようなものから出来上がっていったとしたら、倫理なんてものはお構いなしなのかもしれない。


河越(11月3日)

 昨日展覧会で、即興切り絵のショーをやってみた。「埼玉の武将を切る」展であるから、武将を切るのであるから、今日は「河越重頼」をやった。

 解説をしてみよう。平安時代中期に秩父の武士団・秩父氏が山を越えて、今の川越の地に荘園を持っち、この地の秩父氏を河越氏と名乗った。平氏であったので、源頼朝が関東で挙兵した時は、反対勢力であったが、頼朝の説得で、頼朝に加担することになった。

 そして、何と彼の娘は義経の正妻であったのだ。義経が奥州に逃れた時も正妻と子供を道連れにしている。そして、義経と共に自害しているのである。静御前が有名であるが、彼女は側室である。であるから、義経の滅亡と共に、河越氏は頼朝によって滅ぼされ、河越重頼も自害した。

 この、河越城は今の川越市の繁華街にあるわけではない。川越市の西側・鶴ヶ島市との堺くらいにある。駅で行ったら東上線・霞ヶ関駅にある。その跡地にはお寺が建っていて、往時の面影はないが、入り口にある門と鐘楼を兼ねた建物は、凝った建物で、文化財になっているが素晴らし建物である。


忙中(11月2日)

 この忙しい中、部屋の模様替えをした。いろんな棚があるが、うまく使いきれない配置であることがわかったからだ。完成は1週間くらいかかるだろう。編集者から催促が来た。やるぞ、いざ。


泡酒(11月1日)

 昨日、東洋大の講師方が、出来上がった東洋大ビールのラベルを持ってきた。色が軽すぎてイメージどおりではなかった。もっと濃くしてもらうことにした。中身は川越の地ビールで、芋ビールだ。


個展(10月31日)

 埼玉県小川町で個展が始まった。一ヶ月のロングランである。昨年もやった。伝統工芸会館という埼玉の伝統工芸を紹介する会館である。県で作り、町が運営している。

 昨年は1万人が会期中、入場した。新記録だという。私の個展を目的にしている人ばかりではないが、NHKの首都圏ニュースに夕方出たので、かなり遠方から来た人がいた。今年はまだ、葉書も出していない。

 今回も弟子たちに手伝ってもらって、個展にこぎつけた。全部で37点くらいの数になる。それに下絵も展示することにした。まだあいさつ文とかがやっていないから、今から、作る。いざ。


搬入2(10月30日)

 生徒の助太刀で、何とか搬入にこぎつけた。点数は15点くらいと思ったが26点になった。それに東京工芸社という私が毎年カレンダーを制作している会社が買い取っている、鶴ヶ島市の祭り「龍神祭り」の絵も展示する。

 この龍の絵は、かなり凝ったものである。一点一点手の掛け方が違う。本当は鶴ヶ島市のほうで、この作品の個展をして欲しいが、全く熱がない。


搬入(10月29日)

 とうとう、展覧会搬入の日の前日になってしまった。まだ額作りが半分である。今日晴れてくれないと、塗装が出来ない。あと16個の額だ。


続々(10月28日)

 仕事が2つ終わった。今度は月刊誌だ。3カット。そのあとはザブン賞の作品製作だ。額も作らなければならない。11月7日には文庫一冊。でもいいテンポで仕事をしている。

 そういえば、11月に、私がやることになっている山梨のお酒のラベル「笹一」の蔵元・笹一酒造で個展があるのだが、18日には切り絵の実演ライブをすることになっている。それが、4時で、終わると先日やった山本一力さんの本のモデルであった司牡丹(くろがねひろしの実家)の頒布パーティがある。

 酒蔵関係が同じ日にあるというのは、そもそも酒蔵とお付き合いがないのに、すごい偶然である。


巌流5(10月26日)

 今日巌流島から帰れそうだ。万歳。


巌流4(10月25日)

 いや、次の仕事につながりそうだ。


巌流3(10月24日)

雨だ。長い雨だなあ。このまま雨が降り続けると人類は滅びるよなと思う時がある。

 昨夜はNHKで吉田拓郎とかぐや姫のつま恋のコンサートをしていた。「我が良き友よ」を歌っていた。この曲と「木綿のハンカチーフ」を聞くと、ファッションモデルの事務所にマネージャーとして就職した直後に、事務所でかかっていたのを思い出す。

 「ファッションモデルの事務所ってどんなだろう」と思い、どんな格好で面接に行ったらいいのだろうと、とりあえず無難にとスーツに眼鏡で行った。後らからスタッフに、あんな硬い感じじゃあ無理だろうと思ったそうだ。(断っておくが、あとからわかることだったが、全てのモデル事務所がラフというわけではない。硬い格好をしている事務所もある)

 しかし、来てくれといわれた次の日、私は眼鏡をはずし、普段どおりのラフなスタイルで通勤したら、スタッフが相当途惑った様子だった。同一人物に見えなかったようだ。


巌流2(10月23日)

 今日一つの戦。明日一つの戦。そして富士吉田の切り絵教室である。天才百鬼丸は行く。


巌流2(10月22日)

とても厳しい状況だ。がんばる。百鬼丸天才。絶対出来る。 


希望(10月21日)

 それにしても甲府駅周辺の寂しさは想像以上であった。甲府は憧れの場所であった。

 子供の頃である。私の母は甲府の人であるから、甲府は頻繁に行ったところである。バスに乗って太宰治が逗留したという御坂峠の頂上を通り、甲府へ向かうのだが、心はあのにぎやかな都会に行ける嬉しさでいっぱいであった。何より好きだったのが、ソフトクリームを食べること、岡島デパートの屋上の遊園地で乗り物に乗ること、それにいとこで二つ下の直子と遊ぶことであった。

 今でこそ富士急ハイランドが生まれた富士吉田にはあるが、その頃はソフトクリームも遊園地もなかった。

 それが今では、浅草六区状態の寂しさなのである。だから、地元の方々はその復興に心血を注いでいる。甲府駅周辺は官庁街であるから、それなりに通勤客はいる。それらの人のための飲食施設はある。しかし、マンションのような居住のためのビルがなく、住んでいる人が少ないのだ。町に庶民の生活が感じられない。土日の午前はひどくて、観光客もまばらであるから、人の気配もなく、ビデオの一時停止状態である。

 私は公開製作を、毎日その駅前近くの施設でやったのであるが、何とか私の役に立つことがあるのだろうかと考えたものである。それで、武田の二十四将の立体切り絵を、私のためであるが、山梨のためににも残したくなったのでる。その製作は来年1月から3月までを掛けてやって、風林火山博覧会会場内にブースを設けてもらって、公開製作することになった。


試乗

 今日、リニアモーターカーに乗ってきた。甲府での公開製作の時、県庁のリニア推進の委員会の方が来て、乗ってもらいたいのですがと話をいただいた。それで、そのリポートを書いてもらいたいとのことであった。

 リニアモーターカーは金丸信さんが生前、誘致の運動の先頭に立ち山梨にその実験ラインを作ったものだ。もう実験を始めて8年がたつという。昨日の甲府での公開製作がおわり、吉田の実家に帰りそして、今日はリニアに乗ったのである。あと2人お連れしても大丈夫ということで、チーム百鬼丸のメンバーの渡辺純三氏の父母の泰敏さんときみ江さんがいらっしゃった。泰敏さんは当年90歳であり、それに富士吉田からこの大月までのやく25kmを、軽四を運転してきたのである。とんでもない人だが、耳はいいしまだまだ闊達の御仁だ。私もこの方のお陰で、幼少にはつりに連れて行ってもらったり、植木のうんちくやら、多芸の技を目撃している。早々、この方は私の家の隣にすんでいたのであるが、自動車を界隈で一番最初に買い、テレビはいつも、家に上がりこんで、見させていただいた映画劇場の持ち主でもあった。

 リニアモーターカーはつきの何日か、試乗会があるのだという。今日は6回の試乗があるのだという。リニアの仕掛け等をJRの職員が説明し、リニアに乗る。ほとんど窓も同様であるが、飛行機のようにインテリアだ。だから、思わずシートベルトをしたくなるのである。レーンの中間地点にある登場場所から、バックで秋山方面つまり東京方面に向かう。だいたい300kmくらいのスピードであった。そして今度は本格走行。しかし、予定の500kmまで立ち上がるまでの早いこと。一挙に数秒間であるが時速500kmを体験したのである。ああ500kmと思う間に終わってしまうのである。

 ああもっと乗っていたい。とても残尿感が残る試乗であった。飛行機と同じような耳の気圧から来る痛みとか、振動とかが感じられたが、慣れればどうということがないはずである。楽天的な気持ちで乗り終えたが、さて、この早いものが日本に必要なのかとか思うと天を仰ぐといった按配だが、少なくとも日本のためにこの技術が、輸出できたらいいのだがと思う。


もったいない(10月2日)

 甲府に行くのに何を使っていこうか迷っている。車・バイク・電車。車を使うのは実はいつも、罪悪感がある。ガソリンを消費するからだ。CO2の問題が気になると言うわけだ。バイクという手もあるが、タイミングが悪くこの雨だ(甲府まで、満タン12Lで往復半出来る)。電車で行くとなると荷物を宅急便で送ることになる。さてどれにしようか。


踏んだりけったり遊んだり(10月1日)

 昨日は、調布で教室が会ったので、出かけた。Tシャツの製作ということで、私は4枚ほどのTシャツとそれから、生徒の作品と私の額の入った包みを持って、出かけた。しかし、途中でその包みを置き忘れた。京王線・JRと探し、届けを出し結局教室が出来なかった。

 遠く千葉から通っている生徒とかとにかく申し訳なかった。これからは手荷物というのは用心しなければ。まだ望みを捨てていない。出てきてくれればいいのだが。

 その後、約束しておいた作家仲間と飲んだ。嫌なことは忘れて、作家たちの博学の話や悩みとお、正直に語り合って、山あり谷あり。まあ語彙が豊富だから、絵描きの私は、ただただ聞き役。調布ホテルに帰ったのが、午前2時。昨日午前1時の起きているから、24時間起きていたことになるが、近頃こういう無理はしたことがない。眠かった。
 


東洋大ビール(9月30日)

 先日、東洋大の助教授である先輩の松下氏から、ビールの話を聞いていたが、忘れていた。昨日、そのビールの具体的な話を持って、講師の又重さんがいらっしゃった。

 どうも、大学間で、自分の大学の地ビールが流行らしい。サンプルに早稲田ビールを持っていらっしゃった。ただシンプルに英字でWASEDAと入っているだけだが、色は自慢の早稲田カラーのエンジとでも言うのだろうか。なかなかアンティークな感じがする。

 いつだって、仕事が来れば、不安である。どんな図案にすればいいだろうか。楽しみでもある。


主役(9月29日)

 「百鬼丸さんがメジャーになれないのは、主役じゃないからですよ」と友人のエンダス君に言われたことがある。この言葉が私の耳に焼き付いている。私のメインの仕事が、小説の本の表紙やさし絵ををしているからだ。

 そこから抜け出すのが私の課題である。


発進(9月28日)

 10月3日から、甲府の県民情報プラザ内で、公開切り絵が行われる。もって行くものの準備・心の準備が必要となる。健康で頑張ろう。


山梨(9月26日)

 いざ、山梨。今日は甲府。明日は富士吉田。だいぶ寒くなっただろう。そういえば安倍晋三新首相が河口湖の別荘にいたという。2年位前に、河口湖のベルというスーパーで車に乗っているところを見た。

 隣に犬を抱いた奥さんが座っていた。思わず手を振ったら、手を振って奥さんが答えてきた。安倍さんもこちらを向いて微笑んでいた。


結果(9月25日)

 結果3回戦敗退だった。うーんレベルが高い。次をがんばろう。

 さて、仕事だ。こちらもがんばろう。明日は甲府だ。その次は富士吉田の教室だ。


試合(9月24日)

 いよいよ今日が、川越市テニス大会一般男子ダブルスの試合だ。15年くらい前は、もっと出場者も少なく、一般男子シングルスでは本戦に入っていた。しかし私が不調になって出場しなくなってる間に、テニススタイルが変化して、若い強打者が参加するようになり、川越のレベルは上がった。

 私のぺあは、大学院生の若者だが、大学時代は、レベルが高かったにしても、院生だから現役学生と練習しているわけではないので、練習不足で私が頼りに出来るペアではない。一回戦突破を目標にがんばりたい。

 しかし私のペアの塩野はストロークのスピードはすごい。フォアもバックも入ったら、スマッシュを受けているようだ。このスピードの球を見たことがない。練習をしていても、私は返球をするのが精一杯で、私の練習にならないくらいである。私もかなりスピードがあるほうだが、とてもかなわない。


昨日(9月23日)

 昨日は誘われて、東洋大学の建築科の二つ先輩で、助教授の松下吉男氏と一つ上の潟Aサヒの社長・菅野氏と飲んだ。

 建築学科の教授は、東大閥である。東大の先生が東洋大の教授として派遣されてくる。
 助教授と教授になるのは難しいらしい。東洋の建築学科から、助教授・教授になったのは創立約50年でたったの2人である。私は東洋大学の工学部建築学科の10期生である。それで、創立当時の学生が、数多く助手・講師として残ったのであるが、残念ながら、未だに講師のままなのである。

 松下氏は、数少ない生え抜きの助教授として、学生の面倒、OB会の面倒を見ている。私のテニスのペアでもある。


公開製作(9月22日)

 風林火山博覧会用のイラストを、甲府市の情報プラザ内で公開製作することに決まった。10月1日からだ。どうなることやら。半月の予定だ。


額作り(9月21日)

 昨日は、額作りに入った。10個だけど、まだ足りない。今日には全て作り終えたい。


木枕(9月20日)

 中途半端なところで、起きてしまうことが多く、睡眠の欲求不満になる。

 頭痛の時、気持ちいので、テニスのラケットの柄を枕にのせ、頭痛に効く後頭部のつぼの部分にあてていたことがある。最近、それからヒントを得て、5cm角の棒を枕の上において眠っている。頭痛ではないが、やっぱりそのつぼに棒が当たっていると気持ちがいいのである。でも、長時間あてていると痛い。布か何か少し巻きつけたほうがいいのかもしれない。

 それからよく眠れるようになった。


完成(9月19日)

 今年も自主制作のカレンダーが完成した。今年は、火祭りのポスターと母校の吉田高校の陶壁画の原画「地球をひっぱる若者たち」を載せた。このカレンダーをお世話になった方に、今年の思い出の文章と共に送る。それが恒例となっている。送る量がすごいから、作業も大変になる。それでも、郵送料がすごかった昔に比べると宅急便のメール便を使うので、助かっている。かなり安いのだ。

 その前に、今年行きあった人の名詞をソフトに入力しなければならない。展覧会が多いとそれだけ、名詞が増えるのである。これも大変な量である。


即興(9月18日)

 昨日の川越即興ライブに私が通った桃太郎パソコン教室のとてもきれいな野田先生が、友人と一緒にみえた。この即興切り絵ライブも、私のHPを見てくる方も、ぼちぼち現れている。いつも、出かける前に今日はよそうかなと思うことがある。昨日は即興切り絵ライブのあとは、鶴ヶ島教室だったので、アトリエの片づけをしなければならないからだ。

 だが、野田先生が来たんじゃあその思いも吹き飛んだ。お題は宮本武蔵。一度やったことがあるお題だ。お題を出した方はお話をしたら、調布であった。私が鶴ヶ島に住む前の居住地だある。それも私が住んでいた近くの日活撮影所の敷地内に建てられているマンションだという。それに私の出来たてのカレンダーの中にあった作家の宇江佐真理のファンだという。縁のある人だった。無事に作品を作り終えて、野田先生のお帰りになる後姿を眺めつつライブを終えた。


マイク(9月17日)

 昨日は山梨県富士吉田市の商工会祭りに参加した。私は切り絵ライブをしてきた。そこで使ったのが、製作しながら、しゃべれるようにと買ったマイクだ。耳にマイクのコードを引っ掛けるので、マイクを持つ必要のないものだ。だが、会場の喧騒のために、音がなかなか届かない。

 それに、絵に集中するとしゃべれないし、しゃべりだすと絵に集中できない。こんなはずではなかったが、しょうがない。3回のライブのうち二回目の「河童」は過酷だった。時間が1時間20分もかかった。思わず「かったりー」という言葉を吐いたら、マイクが素直に拾って、お客さんも笑っていた。今日は川越の即興ライブである。


台風(9月15日)

 台風というのは、子供の頃大変だった。家族がぼろ屋に住んでいたからだ。6畳と4畳半に家族5人が住んでいた。風呂はあとからできた。台風が来ると雨漏りがした。一畳に一箇所くらいだ。それに、雨戸もなかったから、親父は窓に板を打つつけて防戦していた。そして、雨の中を瓦が飛んでないか確認したり。

 子供と母親は雨漏りの番だ。「あっちから出てるよ」というと、たらいや洗面器を持っていって、それにはねよけの雑巾を入れておくのだ。台風のあとのばかっぱれは、なんともすがすがしかった。「春の来ない冬はない」?だっけ、困難のあとは、いいことがあるというたとえで。「晴れを連れない台風はない」というのもいいのではないか。

 台風の馬鹿っぱれの中を歩いたことがある。空の青さとは反対に、屋根が吹き飛ばされている可哀想な家を何回か見かけたことがある。そういえば、私が上野原町に住んでた頃、台風でアパートが浸水したことがある。その頃はビデオがまだ高くて、ビデオを一番最初に高いところにおいて、避難した。「荒野の用心棒」をビデオで見ていたときだった。室内は膝上くらいまで水だったが、外に出てったら、胸まであった。
 
 今日は午後から山梨に行ってくる。上記の富士吉田の商工会祭りに参加のためだ。それから、着いたらテレビの取材がある。


雨漏(9月14日)

 私のアトリエは、3階建てのビルのてっぺんにある。台風が来ると必ず雨漏りが二箇所からする。普通の雨では雨漏りしないのである。この間の夜の大雨の時も雨漏りしないのである。不思議なことだが。

 1階に読売新聞のテナントが入っているが、2階は今まで入っていなかったから、大家は大規模修理をしたくないというのである。甘ったれた話である。台風が来る。バケツを2つ用意して待っている。


拡声(9月13日)

 9月16日に第一回富士吉田市産業祭りが、道の駅でおこなわれるが、私も即興切り絵ライブで参加する。私のグッズも販売される。即興切り絵ライブは、屋内では出来るだけしゃべりながら作業をしようと思うが、屋外は後ろ向きで作業することもあり、声が通らないので、しゃべらない。

 しかし、今度拡声器を買った。百鬼丸はしゃべらないほうがいいという人もいれば、喋りが面白いという人もいる。しゃべらないほうがいいという人は、喋りが調子悪い時に感想を言う人だ。滑らかな時は遭遇した人は、面白いというのだろう。40分間の切り絵ライブをじっと見続けるというのもかなり根気のいることだと思う。だから、しゃべりで楽しんで欲しいのだ。

 しゃべりといえば、綾小路きみまろを思い出すが、本当にしゃべりの才能があれば、即興切り絵ライブの漫談が出来る。そんな可能性を秘めてはいる。そんな才能があればである。