日記3


2007年忘れられない年(12月31日)

 年の半分は埼玉にいなかった

 仕事も沢山やった

 たくさんの人と知り合った

 悲しいことより、楽しいことだらけだった

 皆さん良いお年を


はかどらない(12月30日)

 自己嫌悪。がんばる。


祝・蓬田やすひろ(12月27日)

 蓬田やすひろが文藝春秋のオール読物の表紙をこれから連載するようである。彼は「草鞋之会」という私が作った時代小説の挿し絵画家集団4人のメンバーの一人である。

 彼については、以下の私の日記に書いていた。

 このときの日記は、このオール読物の編集部のT氏にメールの添付ファイルで唯一送っている。他の出版社の編集部には送っていない。何故か、送っても通じない気がしたからだ。

 私のこの文章が、影響したならよかったと思う。もっともっと世間に出張って欲しい。


ラジオと録音(12月28日)

 私はカラオケは苦手だったが、最近カラオケが趣味になった。歌ってみたら、自分が昔の歌を良く知っていることがわかった。それで、ラジオを買って、浅香光代さんが贈ってきた「端切れ」を縫ってラジオケースを作り、それに紐をつけて首からぶる提げてラジオで歌を覚えるべく聴いていた。

 しかし、出てくる曲を録音しなければもったいないと思い、改めて録音機の付いたラジオを買った。HDD内臓の凄い時間録音できる最新録音機にラジオが付いているものといった方がいいだろう。勿論、その機械も同様に首からぶら下げる布ケースをつけ、首からぶら下げるようにした。

 また、思いついたことを録音しておくという方法も考えられる。

 一番好きな音楽はフォークソングである。先日の日曜日にはNHKでなぎら健壱がDJで「懐かしのフォーク」をしていて、遠藤賢司なんかも出てきて結構マニアックな歌が録音出てきたのはラッキーだった。

 来年のバス旅行には何とか、ガイドの歌を絡めたい。戦後の歌謡史なんか語りながら歌えたらいいなあと思う。


何と表紙(12月27日)

 アトリエを留守している間にいろいろな私の作品が載っている印刷物が来ている。その中に何と東洋大学の大学報の表紙に作品が載った。11月3日に東洋大学で即興切り絵ライブをしたときの作品である。

 表紙にさせてくださいといわれたがとても表紙に堪えられる作品ではないと伝えておいたが、大胆にも表紙に持ってきた。でも、顔が気に入らない以外は、なかなかいい作品と思っている。表紙の作品としても結構堪えているではないか。私も即興切り絵を再評価して、勉強になった。下絵も入れて40分で作った(B3サイズ)。

 群馬大泉町の皆さん昨日は有難うございます。服部さんどうもご馳走様でした。明日は展覧会の知らせをHPに載せます。


原宿と群馬(12月26日)

 缶詰の仕事が終わった。150点の歌舞伎の立体切り絵作品だ。丸一年かかった作業である。3月には学研から発売される。本のタイトルは「歌舞伎ギャラリー」だったと思う。

 原宿のギャラリーで個展をする。ピンチヒッターである。突然、予定していた展覧会が取りやめになったのだ。大学の同級生のやっているギャラリーである。日時は1月1日~14日まで、いろいろな準備が出来ないが、5月にやる伊東屋の展覧会に出品予定の作品を、16点ほど飾る事にした。以下の場所である。

ART・IN・GALLERY
(アート・イン・ギャラリー)
 
代表 勝 田 無 一(かつた むいち)
 
150-0001
東京都渋谷区神宮前4-25-3
(有)創設計 ART・IN・GALLERY事業部
 
TEL  03-3408-8419
FAX  03-3408-8965
e-mail art-in-gallery@nifty.com
URL   http://homepage3.nifty.com/art-in-gallery/
 また本日は、群馬の大泉町で個展予定の場所を見学に行ってくる。町が後援の展覧会である。まだ、日程は決まっていない。これで来年の個展は4つになった。まだまだ増えていくだろう。

百鬼丸と行く○○ツワー(12月20日) 

来年から「百鬼丸と行く○○ツワー」を企画していく。まず始めたのが、友人になった浅香光代さんのゴロゴロ会館における新春公演のツワー。残念ながら、私が飯田橋に缶詰になったいるために、大々的に募集出来なかったため8人でいく事になった。私は書生姿で旗を振り、浅草の歴史を語る。浅香光代さんと公演のあと一寸記念写真を撮る事になるだろう。

 そして、5月。私の伊東屋での展覧会で「百鬼丸と行く郷里・富士吉田の旅」を企画募集する。私が全行程ガイドをする、必死の日帰り観光バス旅行である。旗を振りながら富士吉田の歴史を語り、歌を歌い、今は東京のコンビニにも出ている「吉田のうどん」を食べ、想い出旅行になること必死である。

 旅行予定は6月か7月。皆さんには事前にHPでも募集をするのでメッセージで申し込んでいただきたい。個展のたびに冨士吉田に観光客を運びたいと思う。

 さて、ふたたび飯田橋に缶詰に。あと少しだ。

さあラストスパート(12月17日)

 あと20作。今週で飯田橋の缶詰は終わりたい。行ってきます。


最後の調布教室(12月16日)

 昨日は、調布の出版社で3点の作品を仕上げて飯田橋を出た。11時に吉祥寺産経学園にうかがうと約束していたのである。地図を頭に入れてあったが、あるだろうと思っていた方向に歩いていったら、すぐあった。吉祥寺駅から近かったのである。それに場所が有名な焼き鳥伊勢屋の手前・となりであった。これは教室が終わると繰り出しそうである。ただし、あの有名な木造の伊勢屋は消えていて、新しく建てられて工事中であった。

 吉祥寺産経学園はきれいなところであった。まだ真新しいビルである。担当のAさんと話をし、いろいろ打ち合わせた。

 そのあと調布教室に向かった。生徒4人が来た。かなり長い間やっていたが展覧会でも宣伝をせず、ひっそりとやっていた教室である。

 その後すぐ先月にチケットをとっておいた調布の会場での岡林信康のコンサートに向かった。うまい具合に教室が終わってすぐコンサートである。

 前から2列目に陣取った。通路が右にあり、その向こうの席を見たら、見覚えのある横顔のシルエット。小学館を退職した高麗さんであった。声をかけて話をした。今は何もしていなくってご隠居さんだという。

 コンサートが始まった。エンヤトットが日本のロックだと主張してそののりで歌おうとしているが、本人が全然乗っていない。無理している感じがするのである。それにあまり笑わない。客が乗せているようである。これでは受けないぞ。

 休憩を挟んでの後半は往年のヒット曲を網羅して歌った。やっぱり、悲しい歌が良く似合う。エンヤットットの曲は詩が全然つまらない。無理をせず、詩を重視してやっていって欲しい。

 帰りは高麗氏を誘い近くで飲んだがちょっとのはずが話が弾んで10時になってしまった。この高麗氏は私の住む鶴ヶ島から近い高麗川にある有名な高麗神社の宮司とはいとこ関係にある。だが、先日その宮司が亡くなったという。

 高麗氏と初めて会ったのは、富士吉田市に漫画原作者の小池一夫氏が弟子たちと来た合宿所でであった。私は友人の漫画家(ヒット漫画は「ザ・シェフ」)の加藤唯史氏に連れられて合宿に行ったのである。私がまだ29歳くらいだったように思う。

 私は加藤氏から切り絵作品を見てもらえばということで作品を持って行った。弟子たちの作品を指導している現場に行った。弟子たちは、ことごとくぼろくそに言われていた。私が最後である。嫌だなあと思いながら見せたら、ほめられるだけであってほっとした。

 その後高麗氏とは出版社のパーティとかでよく会った。仕事はしたことがないくてよく挨拶する人というのは珍しい。飲み屋さんのウエイトレスと写真を一緒にとって帰ってきた。 

 


東京の生活(12月12日)

 再び飯田橋に缶詰になりにいく、今回は15日までである。15日は調布教室の最後の講座である。

 前回の講座で、調布の市民会館に行ったら、岡林信康のコンサートのチラシがあって、そのコンサートが15日の夜あって、教室の後見る事にした。

 私には岡林のLPが一枚あるくらいのファンである。一枚くらいではファンといえないかもしれないけど、若い時代は貧乏だったから、一枚でもファンのしるしである。

 フォークソングのファンであるあるから行ったコンサートは大体フォークのコンサートである。他に加川良・なぎらけんいち・野坂昭如(この人は作家であるが、大好きな人である)くらいかなやっぱり少ない。

 まだ切り絵もしてなくてそろそろ焼き物の修行にと常滑に行く直前、池袋の文芸座の地下で「森田童子」のコンサートをしていた。そのとき、いいやと思って止めたら、今は後悔している。

 2月22日にはチャーのコンサートもある。これも聞いてみたいものだ。

 飯田橋の缶詰は21日には全て終わりたい。


ラジオがあった。(12月11日)

 全く!なくなったラジオとヘッドホンが見つかった。別のヘッドホンを買った日に見つかるなよと思う。

 新しく買ったヘッドホンは折りたためるし、コードも細い。だが、前のヘッドホンは5ミリくらいありそうなコードであり、いかにも丈夫そうである。

 だいぶ使ったヘッドホンで、ジョギングに行く時にはよくお世話になった。それで、耳の丸い部分が、ぼろぼろになってしまったんで、切れを縫って包んだ。だから、意外にかっこよく、見る側は変わったヘッドホンだと思うだろう。ラジオも、本当に小さいもので今はないアイワのものである。

 正月の浅香光代さんの公演にツワーを組んでいこうと、私の弟子とかテニス仲間を誘っている。しかし、本格的に郵便とかで誘う余裕がない。20人キープしたが、結局10人くらいになりそうだ。今日には、浅香事務所に返事をしたい。行きたい方は今日には連絡いただきたい。(上記のメールアドレスにて連絡下さい)

 本当はバスを連ねて私がガイドをし、旗を振って浅草見物と行きたいのだが、今回は無理である。これをヒントにいろいろな「百鬼丸と行く○○ツワー』というのを企画したい。

 さしあたり春には「百鬼丸と行く富士山見物と吉田のうどんツワー」を企画したい。


ラジオ(12月10日)

 ラジオを聴き始めた。小さいラジオとヘッドホンで聞いていたが、どこに行ったかなくなったので、新しいのを買った。ラジオを机においてイヤホンで聴いていると、ついつい忘れてそのままで立ってしまうことがあって、その度にラジオが机から転げ落ちる。

 それで、首からさげるラジオ用の布ケースを作った。人からもらったハンカチをラジオの大きさに切って針で縫ったのである。すこぶる出来がよく、とても便利である。

 今はどこに行く時にでも首から提げている。実は即興切り絵のしゃべりのねた仕込みにも活用したいと思っているので、仕事でもあるのである。そして昔懐かしい曲をNHKなんか掛けてくれるので、今私の中ではやっているカラオケの勉強にもなる。最近聞いていて、歌いたくなったのは森田健作の「さらば涙と言おう」「友達よ泣くんじゃない」である。

 そういえば、最近は即興切り絵のときにしゃべるねたのために、江戸時代の話とかのノンフィクションの本をよく読むようになった。今度の即興切り絵ライブは、埼玉県の蓮田市の新年会である。芸人の領域の仕事である。

 それでもいいと思っている。


すごくいい話(12月9日)

 昨日は富士吉田に行った。ある和食レストランの新築に当たって、私がその全面的に壁面、外観、サイン等を担当するという話だ。このような話は初めてである。

 オーナーとお話したのであるから、確かな話である。

 電車の中、歩きながら考える。どんな絵がいいんだろうとか。出来上がったら、是非お客になってください。


再び飯田橋(12月4日)

 今日から飯田橋の編集プロダクションに行く。少し太ってしまった。多分一週間後くらいに帰ってくる。


三丁目の夕日(12月3日)

昨日は、のんびりしていた。一昨日の忘年会で頭痛になってはいないが、身体が二日酔い状態。午後から見たかった「三丁目の夕日」を見に行った。この舞台になっている昭和30年代は、映画に出てくる子供たちと私は同じくらいの年齢であるから、是非見てみたいと思うのだ。場内はやはり私の年齢前後と思しき方々が入場していた。そしてかなり混んでいた。

 前作も見た。前作はこんなことはないだろうというシーンが数箇所あった。特に茶川さんと鈴木オートの社長が殴り合いのけんかをするシーン。喧嘩のあとすぐ仲直りする。昭和30年代は喧嘩の後すぐ仲直りしたものだといいたいのだろうが、そんなことがあるはずはない。喧嘩なんて今も昔も、人にもよるだろうが、後味が悪いはずである。

 今回の作品はそういうデフォルメはなく、自然な感じで、今回の作品の方がよかった。

 私としてはまだ続いて欲しいシリーズである。それにしてもCGが凄い。前作よりはるかに凝っている。ただ、車のスピードがみんな一緒で、整然と動いているのが不自然であった。

無事帰還(12月2日)

 昨日の鶴ヶ島西公民館でのイベントは無事終了。野球・カラス・龍の3点のお題をお客さんからもらってやった。とにかく相手が小中学生とその父兄であるから、飽きないように10分くらいでやるようにした。

 そのあと富士吉田に行って、私のファンクラブの「チーム百鬼丸」の忘年会に向かった。総勢46人。大きな忘年会である。

 私はスピーチで、今年をたどりましたが、最後に昨年の12月28日にNHK甲府に生出演したときに思いついて言った「山梨といえば『冨士山・信玄・百鬼丸』というようになるといいですね」の台詞を是非、来る初詣に行ったときに、願いと共にその言葉を言ってほしいとお願いした。

 それで、皆さんにそのときのために、その訓練をしますといちにいさんの号令の元、その言葉をいっせいに唱えてもらった。みんな大声で言ってくれたが、どこかの宗教のようだった。

 私は皆さんの生まれ年の即興切り絵を30ほど2枚切りで作り、無事完了した。食事はちょっとして、酒も時々がぼっと飲んでいた。無事宴会も終了したが、そのころには全く覚えていない。そのあと、八龍という仲間の中華屋さん行ったらしいが記憶がない。

 朝起きたら、着物姿で眠っていた。


何をしゃべれば(12月1日)

 今日は、鶴ヶ島市の西公民館で小学生・中学生を対象にした切り絵の講座がある。展覧会もあわせてやる。でも、予定より小学生の数が多い。何をしゃべろうか。

 即興切り絵をしながらしゃべるのであるが、黙ってやっていいとおもうのだけど。それに時間を掛けすぎちゃうとあきそうだから、5分くらいでできるものを10点くらい作るとか(でも何を10点つくろうか)。それだったら、しゃべるどころでなく作るので必死だし、生徒も次から次へと出来ていくから楽しいだろう。

 それにしても、デジカメをなくしてしまった。それにヘッドホンもなくした。まったく歳のせいかなくしてばかりである


帰ってきた(11月29日)

 歌舞伎の立体切り絵作品制作150点中、114作が終わった。今年中には何とか終わりそうだ。明日は、午後から富士吉田の自遊大学講座がある。無理に教室に行かなくてもいいともうのだが、明後日の鶴ヶ島での展覧会及び住民・それも子供たちに切り絵を教える講座に武田二十四将の切り絵を全て展示したいので、10点ほど富士吉田に置いてきた残りの二十四将の切り絵を運びたいのである。

 即興切り絵もし、トークもし、教室もする。終わったらすぐ6時からある、富士吉田市の「百鬼丸の忘年会」に参加する。というより私が主役なのだ。忘年会には50人の方々が参加する。私はちょっとしゃべってから、お客さんに、その人の干支を切ってやる。いっぺんに2点紙を重ねて切るから、25作切る事になる。

 昨年は26作の金太郎を切った。これは一点切りだった。とてもいい作品が出来た。今年も一つ5分くらいのペースで切らなければならない。下絵から考えていくのであるから、それは大変である。デモできると思っている。

 主役がそんな馬鹿な状況の忘年会もいいものであると思う。がんばって、皆さんの手土産にいいものを送りたい。

 ちょっともったいない動きをしなければならないのが不経済で残念である。


カレンダーの発送(11月26日)

 年に一度のカレンダーの発送をしなければならない。昨年は4000枚作ったが、かなりの数が売れ、そして配ったので、何にもなくなってしまった。今年は販売数量は少ないが、配る数は多くなったのでなくなることだろう。

 作業はあと半分だ。それから、また飯田橋に戻る。


ちょっとした旅(11月25日)

久々に飯田橋から帰ってきた。ここ2・3日は、仕事をサボってしまった。

 週刊新潮で佐江衆一著「クイーンズ海流」という小説の挿し絵を1年間したことがある。その作家の佐江さんが中学・高校を過ごした栃木県古河市の文学館で、回顧展をするということで11月23日に行ってみた。

 その回顧展で5回ほど、彼の講演があって、私は「栃高時代の想い出」という彼と友人の対談にうかがった。会場は70人ほどが入り、満員であった。ほとんどが彼の高校時代の先輩・同輩・後輩であるらしい。

 中・高では大変な読書家であったらしいが、意外にそのこと知らなかった同級生もいたようである。日記も読書感想文なんかが、ませた口調で(本人の談)つづられていた。女性があまり来ていないのは栃高というのは男子高だったんだろう。好きだった女性の話とかしていて、その女性の人の消息を知っている人がいて、太って昔の面影はないから、会わないほうがいいよという通知には、会場は爆笑になった。

 佐江さんが作家として知られるようになったのは、「黄落(こうらく)」という小説がベストセラーになってからだ。賞も沢山取っている。私も彼の本のカバーを3冊やっている。

 話は変わるが、私がこの「クイーンズ海流」「という小説の挿し絵をしていた時に、東洋大工学部の私の所属していたテニス部の同期のK君から電話があった。かなり久しぶりだが、時々電話で話すくらいことはあった。彼はぽつりと言うのであった。「佐江衆一は俺の伯父さんだよ」と。びっくりした。佐江さんは二人兄弟で妹がいる。その妹さんの息子という事になる。こんな偶然もあればあるものである。

 会場の方々に、佐江さんは私を紹介してくれた。講演が終わると、少し彼とお話をして私は去った。

 古河で飲んでいこうと思って、飲み屋を探していたら後ろから自転車で来た人が、「百鬼丸さん」どちらに行くんですかと尋ねるので「飲み屋を探している」と答えると、私が案内しましょうと飲み屋に連れて行ってくれた。画家の方であって、先ほどの佐江さんの講演を聞いていた人である。だが、佐江さんとは昼飯の時に同じ店屋に出くわし、佐江さんに声をかけたのだそうである。誰にでも声をかける方である。

 私と彼は絵の話、食えない話、家族の話等を話してくれたが、私が聞き役であった。どじょう鍋を食べた。さっき店に入ってきた時にうようよ動いていたのがこうなったんだと思いながら、意外に癖にないどじょうだなあと思いつつ食べた。彼は良く地理のことを知っていて、方々歩き回った人のようである。放浪癖があるという。

 話の中に産経新聞で連載中の山本一力さんの小説の挿し絵をしている原田維夫の版画がいいですというんで、仲間である彼に電話してほめてくれた人がいるよと伝えようとしたが、彼は出なかった。その間にすばやく彼は支払いを済ませてしまっていた。何かわるい気がした。

 そして、東北線から埼京線へと乗り継ぎ、思い出して板橋で降りた。私が23歳の時に住んでいた町である。その頃行きつけていた飲み屋さん「北海」に行ってみた。

 私がいた33年前というのは板橋は閑散としたところで、お店もなくひっそりしていたものだ。まだ開店したばかりの「北海」はそのときには「だるま」といっていたような気がする。

 たまにそれからも行っていたが10年振りである。ママは私を覚えてくれていた。このママも当時は独身で、かなり痩身であったが、今はころころしている。手伝いに来ていた彼女の妹さんがきれいで、私はいっぺんで好きになったが、ある日銭湯に向かう途中で彼女が男と歩いて向こうから来たので、きずかれる前に反対側の道に廻ってやり過ごしたことがあった。それで、彼女をあきらめたものである。その彼女も太りすぎて人前に出られないというから、いかほど太ってふっているのやら。そして私は焼酎のお湯割をいっぱい飲んで、帰った。

 がしかし、元の私が住んでいたアパートはどうだろうと訪ねた。その近辺は変わっていなかった。時間は8時である。大屋さんのところは明かりがついていた。当時私一人だけがそこに住んでいて、そのあとは誰にも貸さなかったそうで、私が最後の住人であったわけである。そのことは、出てから10年にいっぺんくらいは訪ねているから知っているのである。

 久しぶりの訪問であったが、旦那さんが亡くなっていた。今年の9月だったという。ここに住まっていた頃は時々大家さんの居間寄せてもらい、お話をしたことがあった。ご飯も一度くらいはご馳走なった気もする。旦那さんは痩せたおとなしい優しい人であった。また、私が住んでいた頃にお嫁入りしたお嫁さんがいて、出てから初めて訪ねた時、旦那さんが亡くなっていた。結婚15年くらいだったそうだ。その旦那さんとも私はお話をしている。とても気さくな人であった。今はおかあさんとお嫁さんと息子さんの3人暮らしだそうである

 このアパートは下板橋から歩いて2分くらいのところにあり、部屋は3畳であった。大学を出てすぐ住んだアパートであり、オイルショックで就職できなかった私はここからバイトで歩いて池袋にある手塚工務店というところにアルバイトに行っていた。確か朝は駅前の立ち食いうどんでも働いていた。今はなくなっている。

 このアパートは、ねずみがいて天井をよく走り回っていて、ある日布団の上を小さな動物がはっているのを目撃した。私がダニというものを始めてみた瞬間であった。その頃から、毎日とてもかゆかったのであるがその正体はダニだったのである。ねずみが天井から落としているのであろう。

 そんな話も、実は話で今回初めて出して、皆で笑った。私も飯田橋に帰らなければならず、30分ほどで帰った。今度はいつ訪ねるのだろう。 


印刷物(11月17日)

 本当は最近やった印刷物があるのだが、このHPに忙しくてアップできない。しばらく待って欲しい。今日からまた飯田橋での缶詰である。


今日だけ(11月16日)

 上記の会員誌「ゆずりは」の「火の玉小僧」の表紙絵が出来上がったので、その撮影と文庫のデザインとカレンダーの発送のために飯田橋の編集プロダクションでの缶詰から帰ってきた。

 雑務に追われて忙しい一日であるが、出来るだけこなしたいと思う。

 飯田橋での缶詰は、日々の単調にストレスがたまる。「三丁目の夕日」を見に行ったり、テニスをしたり、今後の仕事の作戦を練ったり、元の生活の戻ってやってみたい。

 また、明朝飯田橋に戻って、缶詰生活である。


ライバル(11月12日)

 NPOザブン賞の表彰式に行ってきた。会長の筑紫哲也氏、顧問の月尾嘉男氏もお元気に出席された。

 話はその話ではない。実は筑紫哲也氏の娘さんは、まだバイトをしながらであるが、切り絵作家である。年齢は30歳をちょっとすぎた頃であろう。私は面識はないが、3・4年前に彼女がアメリカ留学から帰ってきた直後の展覧会を飯田橋でやっていて、見にいった。あとから、手紙だったか、彼女から「百鬼丸さんに見ていただいて嬉しかった」というコメントをもらった。

 現代アートっぽい立体の切り絵だった。きれいであったが、ひ弱い感じがした、つまり力を感じなかったのである。これからの人であった。

 今、週刊文春で切り絵の挿し絵の小説連載が始まった。福井利佐さん(HPにいっぱい載っているのでご覧いただきたい)の切り絵である。NHKのトップランナーに取り上げられた、とても美人で、背も大きいといった印象である。モデルにしてもいい感じである。そしてとても幸運なスタートを切った方である。

 彼女の切り絵の特徴は切り方にある。人物画なんかでも、小さい穴を切り絵で開けてそれの集合させて人物画にしている。極端に言えば、テレビは3色で画像にしているのであるが、その小さな色を一つ一つ切り抜いて切り絵にしていると思えばいいかもしれない。

 だが、結局はリアル系の切り絵なのである。小説の挿し絵ではそれを持ち込むのは無理である。彼女はそれがわかるのだろう、出てくる絵は人物が出て来なくて、静物だけである。これで、一年か?通すのはかなり無理があって、彼女は悩むのではないだろうか。(ただ、ちょっと気になるのは人物をあまりにないので、今までの彼女の作品が、写真を引き伸ばして丸写しにしてそれを切り絵にしてないかという懸念である。彼女の作品の中に著名な写真家が映した耳の大きな狐の写真をそのままリアルに切り絵にしていたことである。彼女がそのようなやり方でやっていたとしたら、彼女に未来はない。著作権に引っかかるのは勿論であるが、それより実力が付かないのである)

 だが、彼女にはいい試練であろう。これを通らないと彼女が今絶大な「人気」を誇っている、その通りの「実力」は身に付かない。

 技術的なことは私には気にならないが、知名度と人気は私より数倍上だろう、私にはいい目標が出来たと思っている。

 話はそれではない。前出した、筑紫さんの娘さんと福井利佐さんは年齢も美人度も同じようなもの。たとえは悪いが、ゴジラ対キングギドラである。筑紫さんの娘さんはその毛並みを利用して営業していないようである。これから二人はいいライバルになるだろう。


小沢辞任(11月6日)

 小沢さんが止めて、政党はどこの党も末期症状で、だけど政治は続いていく。末期症状のその末はどんなものが待っているんだろう。政治維新とでもなって、いい人物が排出されて来ればいいのだが。


明日から飯田橋(11月5日)

 明日から、ラストスパートの飯田橋である。かなり、長距離のラストスパートである。本当は、この機会に会いたい人が沢山いたが、無理かもしれない。

 昨年の今頃は、甲府に行って、武田信玄や山本勘助・由布姫の立体作品を風林火山博の、前のイベントとして公開制作していた。あれから、一年である。

 早いといえば早いが、凄く中身の詰まった蟹の足のような一年であった。

 今日は一日のんびりして、明日からに備えようと思う。


ご迷惑をお掛けしました(11月4日)

 東洋大の即興ライブと講演が終わり、4時ちょっとすぎに岐阜に向かった。ちょっと頭が痛かった。岐阜に着き、迎えてくれたS氏とちょっと飲み、ホテルで眠る。

 次の日、即興ライブの打ち合わせ、司会のK氏と話す。しばらくすると、頭の中がフォークボール状態、8月に頭痛が続き、その時からたまにある症状が勃発。「横にならしてください」といってダウン。

 布団を持ってきてもらい会場の会議室で、休んでいました。途中で肩もみ、首もみされたら、相当な疲労だったみたいで、コチコチだったようだ。

 お騒がせした。いや、反省。もっと身体を大事にしよう。

 即興切り絵が終わり、無事に帰ってきた。


ゆずりは(11月3日)

 私が初めて担当した葬儀場「メモワール」の会員誌、「ゆずりは」の表紙の「火の玉小僧」が早くも好評だという。

 ファンレターも沢山来ているらしい。私は、時代物というイメージがあるが、2000年から二年間、週刊文春で「ゼプツェン」という宮部みゆきさんの現代物の小説の挿し絵をしている。その連載は、私に「今までで一番、よかった挿し絵はなんですか?」と問われたら、「ゼプツェン」と答えるだろうというほどだった。

 元々、キャラクターを作るのが大好きである。この連載は6回で終わる予定であるが、その先までずっと続いて欲しいと思う。私の詩も表紙に載っている。

火の玉小僧のつぶやき

 もうすぐ木枯らしがやってくる

 凍てついたハートにも

 疲れたきったハートにも

 火の玉小僧が火をともす

 ああ暖かい


明日、母校で展覧会(11月2日)

場所は文京区の東洋大6号館の地下一階。切り絵ライブは1回目が11時15分〜 。2回目が12時15分〜

その後、私を含むOBの講演会があり、 終了後に懇親会、という手順だ。

 私は川越キャンパスの工学部にいたので本校の方には、現役当時2回ほど行っただけだ。当時は狭いキャンパスだった。しかし近年となりの大きな敷地を買い取り、校舎は高層建築に生まれ変わっている。

 東洋大の人に社会人になって知り合うということは少ない。業界が美術と出版という世界だからだろう。東洋大に美術の学科はないから当たり前だろう。出版の方は、確か2人だけである。でも、一方の方は東洋大については、何の興味もなく、仕事でつながっていても先輩後輩という絆はいっこうに感じない。逆にマイナスに働いているんじゃないかと思えるほどである。


山梨インターネット新聞(11月1日)

 前に聞いていた山梨インターネット新聞が今日から旗揚げされた。私がその新聞に全面的に協力する事になった。それに私の美術館まで出来ている。これは楽しい展開になりそうである。

 これは私にとっても実験場であるし、大舞台でもある。楽しい企画をどんどん立てて、私の遊び場にしたい。

 まだ作品は充実していないが、お待ち下さい。


企画が押し寄せる(10月31日)

 このHPのせいだろうか、最近、いろいろな企画が地方から舞い込んでくる。

 山梨県を今年見渡したが、美術家もそれなりにいるが、著名な方でもエンタテナーとまでは行く人はほとんどいない。どの地方もそうだろう。何かしたいと思っても、それに堪えられるエンタテナー(賞とっているとかは関係ない。いっぱい賞をとっていても一般大衆がつまらないと思う人は沢山いる)はいないから、企画する側は苦しいはずだ。

 その道のエンタテナー(一つの道を進んで、皆が「凄い」と感銘を受けるくらいのレベルの人)はほとんどが東京と東京近辺にしか住んでいない。

 私もエンタテナーの端くれと自負している。そんな状況が生まれるのも自然なことであると思う。

 ただ、地方で活動すると、最初から見下して安く見る人がいる。自滅行為である。


11月は遠出がある(10月30日)

 11月は岐阜と金沢という遠い場所に仕事に行く、といっても岐阜は何もギャラの交渉をしていないのでボランティアかもしれない。それだとちょっとつらいのだが。

 もう一つの金沢はボランティアである。これは最初からその覚悟でやっているからいい。

 岐阜の仕事は、昔「ハナコの首」という小説の連載を岐阜新聞でやったのだがそのときの挿し絵の担当が私だったのである。岐阜に「ハナコの会」というのが出来て、岐阜のイベントに私はよく呼び出された。

 久しぶりの招聘である。ハナコは明治から大正期に、ヨーロッパを公演してあるく日本の芝居の一座に応募し、やがて彼女を座長とする一座を旗揚げし、ヨーロッパを活動してあるいた芸者上がりの女優の一代記である。いわば同時代にヨーロッパで活躍した、川上貞奴のように活動した人であったのだ。

 しかし、彼女の特筆すべきは、日本人でただ一人ロダンのモデルになったことである。その作品は何体もある。この話は意外に知られていない。今回のイベントでも、その作品は飾られるはずである。


ぼんくらの壁(10月29日)

 このタイトルでかなりの量の日記が書けるのだが、すぐわかりそうな組織や人が出てきそうなので書かない。

 しかし、ぼんくらは私にとっては天敵である。忙しい中、今年は私なりに表に出た。私なりの限界である。一人では、もうそこどまりである。ある組織が人間が、ちょっと気がつけば私の今の立場は違っていただろう。

 ある作品群が完成したとき、「完成披露のセレモニーをして欲しい」と直訴したが、その組織のトップの目には「点」が瞬いていた。直訴しても、私の言っていることがわからなかったのである。

 私という文化のつぼみは、残念ながらある場所で花開かなかったのである。

 この経験は二度目である。


がんばる(10月28日)

 サボってしまった。今日はがんばる。


巌流島から帰参(10月27日)

 長かった。これから、締め切りがあるわけではない、やらなきゃならない仕事をのこまごまとしたあれやこれや前後左右上下をやっていきたい。この一週間、私の弟子たちに招集をかけ、直接の私の仕事をしてもらうと言うわけではないが、応援をもらった。

 ありがたい弟子たちである。

 冷たい雨が降っている。これから、大嫌いな冬である。今年から、凍えるくらいの冬でないと地球が危ない。

 郷里の富士五湖が、子供のときのように全面結氷する寒い冬が来て欲しい。


何のために(10月26日)

 どうも最近「何のために・・・・・」と考えることが多い。疲れているんだろう。のんびりした時間が必要なのだろう。


カラオケを歌う(10月25日)

「何のために」 「面影橋」と大学生の頃から中学生「君が好きだよ(佐々木新一)」の頃までの歌ばかり歌った。あの頃が懐かしいのである。「何のために」(フォーククルセイダース)も歌いました。ちょっと疲れております。


巌流島を後にする(10月24日)

 もうすぐ、小次郎を倒すところである。彼はの切っ先は見切った。今度はこちらが、彼につめて私の間合いに入ろうと思う。小次郎の倒れるところを見せてやりたい。後30分くらいだろう。


巌流島(10月22日)

 巌流島で小次郎と切り結んでいる最中である。負けそうである。


巌流島へ寄せる波は高い(10月20日)

 富士吉田市の生涯学習「自遊大学」の切り絵講座が終わった。20回のうち、半分くらいは教えに行った。昨日は雨に中を行き、教室を終えて実家で眠ったが、眠れない体質ゆえ午前3時に目が覚め、そのまま鶴ヶ島に戻ってきた。

 夜中に隣の部屋で眠る母親の叫び声と寝言が聞こえた。子供の頃初めてこの寝言の叫び声を聞いて、兄弟がどうしたんだと母親を揺り起こしたことがある。子供の頃の怖い夢を見ていたらしい。同じような夢を見ているんだろうと今は揺り起こしはしないが、それにしてもサイレンのようなけたたましい声である。

 母親の寝顔を見て立ち去った。


飯田橋から巌流島へ(10月16日)

 今から、ザブン賞の副賞用の作品を作らなければならない。そのあと飯田橋の自主缶詰になりにいく。またこの日記は更新できなくなる。さらばじゃ。飯田橋の向こうには巌流島がある。とぼとぼ渡っていくが出来るだけ早くかえって来たい。


市川三郷町の皆様有難う(10月15日)

 3年目の市川三郷町の町の祭りが終わった。前日にその長で働いている鈴木さんのお宅で、歓迎会をしていただいた。お宅が、とても大きな小民家であり、これだけで拝みたくなった。お食事もいっぱい出てきた、しかし、記憶をなくすほどお酒を飲まなかった。

 たまには三郷に来てくださいとお話しが会って、こんな雰囲気なら、また来てもいいなあと思うようになった。鈴木さんが焼き物作家だから、焼き物をしながら、その終わった後、友達が寄り集まって飲みあうというのは、一つの憧れのパターンである。

 チーム百鬼丸も、たくさん集結した。本当にお金は儲かったが皆はつらつと仕事をして帰った。

 本当に有難うと言いたい。皆さん有難う。


みさとの秋祭り(10月13日)

 今日は甲府に向かう。電車でである。明日、山梨県市川三郷町でイベントがあり、その前日に向かうのであるが、その前に、山梨ではない某デパートでの展覧会の打ち合わせがある。この展覧会が順調に決まると来年は3つの展覧会が決まる事になる。

 印刷物にする仕事をやっていない、ある切り絵作家は、展覧会を毎月一つやっているという。切り絵の原画を売るだけで収入を得ようとするなら、そのくらいやらなければやっていけないのだろう。私もその路線を加えつつある。そして、出版の仕事もやるが、出版社の仕事に頼らないようにしたいと思って動いているのである。

 そのほかにたくさんのお話が来ているが、どれだけぎゅうぎゅう詰めに展覧会がなるか楽しみである。その中に一つ外国が入るといいんだけど。勿論いつも即興切り絵ライブ付きの充実した展覧会をするはずである。


東京に帰れない(10月12日)

 仕事が詰まってきて東京に帰れない。早くか仕事を終えたいが、仕事が立て込んでいる。明日は山梨県市川三郷町である。14日の即興切り絵のライブをやりに行くのである。その前の日に行って、歓迎をアルコールで受けるのである。


カツ丼(10月11日)

 人に何度か話したことがある。私のうちは教師であったから、昔の教師は給料が安いので貧乏であった。母は、甲府から嫁に来たが、機織りを教わって家計の足しにしていた。であるから、毎日早朝から、ガチャガチャ音がしていた。

 家は全くつましい暮しをしていた。二人とも自分の家を持つんだとそれが目標で暮らしていたようだ。周りの家は、本格的に機織りをして、当時はとてもお金持ちだったらしい。5月になると鯉のぼりが、何件もの家の前にそそり立っていたが、私の家だけはそんなことはなかった。

 私の外食というのは、お袋といった映画館の帰りに長栄楼というラーメン屋で、ラーメンを一つ頼んで、二人で分け合って食べることだけだった。

 私が少年野球をしていた小学6年生の時に、大会があって、監督コーチがある食堂に子供たちを連れて行った。

 「皆何が食べたい?」といった時、皆「かつどーん」と一斉に言ったのであるが、私はカツ丼を知らなかった。それで、私だけ追っかける形で「カツ丼」といったものである。そのときこんなにうまいものがあったんだと知った。

 別段両親に不満はない。ただ、冷蔵庫というものがなかった時代だから、佃煮ばかり出て子供にはしんどかった。

 3兄弟で取り合ったのは、釜で炊いたこげたご飯だった。


ジャケ買い(10月10日)

 10月10日というと、東京オリンピックを思い出してしまう。中学一年の時だったと思う。その年、確か西郷輝彦と都はるみがレコード大賞の新人賞を取った年でもあったはずだ。

 先日、私の絵の文庫を「ジャケ買い」したという人に出会った。カバー画(ジャケット)に魅かれて、買うらしい。こんな言葉があるくらいだから、そういう動機で本を買う人が多いのだろう。最近は蓬田やすひろ・西のぼるという私の仲間のような絵が多くなっていて、私のような絵は珍しいから、「ジャケ買い」する人が多いのかもしれない。

 そんな人たちが数字で見えればいいのだけど。

蓬田やすひろの絵 西のぼるの絵


久々の小川町(10月9日)

 来年には個展が2つ決まっているが、新に群馬県のある町での個展が検討されているという。検討するためのサンプル作品がほしいということで、中間に入ってもらっている埼玉伝統工芸会館に持っていた。

 バイクを飛ばして30分くらいである。夏の個展以来であるが、何か懐かしい気がした。暑かった夏の個展だったが、山がちの町はしっとり秋の肌触りであった。

 来年の埼玉伝統工芸会館での個展の日が決まった。10月28日~11月30日である。もう4年連続である。来年はいろいろな企画を考えようと思う。楽しい一大イベントが期間中出来ればいいと思う。

 来年も個展だらけの一年になりそうである。出会うであろう人たちと、いろいろなドラマを体現できれば幸せなことである。


捨てよう(10月8日)

 アトリエには沢山の物がある。私が死んだら、すごいゴミが出る。今から整理していこう。


蝶のように舞い蜂のように刺す相撲(10月7日)

 子供の頃から相撲ファンだった。ラジオに耳を傾け、栃錦・若乃花の一戦を聞いていた。漢字も相撲と野球で覚えた気がする。だから、相撲のことは、15年前くらいは良く知っていた。

テレビであの相撲取りのからだは、全て筋肉で出来ていると聞いたことがある。確かに触ってみるとパンパンらしい。しかし、どう見ても油身が詰まっていそうである。

 いろいろな事件が相撲界にあるけれど、一番駄目なのはうっちゃりも吊り出しもできなくなったあの太ったからだにあると思う。「面白くない」に尽きるのである。

 千代大海のように、突っ張りきれなくてすぐ「はたきこみ」。相撲を見ていると何とあの決まり手が多いこと。あれは技ではない。つっかえ棒はずされてただ倒れたようなものである。

 提案がある。土俵を大きくしたらどうだろう。今は力士の身体が大きくなったが、なのに土俵は昔のままである。小兵力士は、どうしたって一発で突き出されてしまう。土俵が大きくなれば、小兵力士はボクシングのアウトボクサーのように土俵を動き回る。太っちょの力士はもう疲れちゃって疲れちゃって、もうアリとフォアマン戦のようになる。

 かくして、小兵・そっぷ体型の力士が有利となり、相撲部屋はこぞって小兵力士を育て始めると言うわけだ。

 これでどうだ!


所沢市役所(10月6日)

 私の生徒が、所沢市役所のロビーで切り絵の団体展をしているということで、バイクを飛ばしていった。アトリエには3人の生徒が、手伝いに来ていたから、1時間くらいで帰ってこられたらいいなあと思って出かけた。

 川越所沢線という街道を走り、25分位かかって所沢市役所という矢印が左に向いていたので、左折をした。しかし、それから所沢市役所という表示が現れない。途中で所沢児童相談所とかの左折の矢印があったが、所沢市役所という表示はなかったので、直進した。

 防衛医大病院の大きな建物が見える。そのうち前にやったことのある航空公園のテニスコートに付いてしまった。コートの駐車場にいた人に聞くと、やはり、行き過ぎていたのだ。防衛医大の隣だと言う。

 戻るが、私が所沢市役所の表示を見過ごしたのかもしれないと、今度は左右に目を皿のようにしてみたがない。今度は最初に所沢市役所という矢印を発見したところまで来てしまった。そこでも聞いたら、左折して右側にある建物だと言うので、行ってみるのだが、それでも見当たらない。

 昔と違って、現代と言うのは人が歩いていないから訪ねるのが困る。それで、車の中の人に窓を開けてもらって聞いたら目の前のビルが所沢市役所だという。

 ビルに所沢市役所とか書いてないのだ。その周りには駐輪場があるが、駐輪場とかいてあるだけで所沢市役所と言う小さな文字もないのである。私が訪ねた道路は一方通行なので、目の前にあっても進入できず、さっきの所沢児童相談所とか税務署とかという表示がある航空公園駅交差点に行って右折する事になった。

 私は腹が立ってきた。この交差点に、官庁施設の表示がいくつかある中に、やっぱり所沢市役所の文字がなかったのである。私の見落としではない。この交差点の四隅の一角が市役所であったのだった。その表示の中に「所沢市役所と言う文字がいっしょにあったら、それで済んでしまう話なのである。また、その交差点から、市役所の建物を眺めるとやっぱり所沢市役所と言う看板なり表記もどこにも見当たらないのである。
 
 所沢の人は、どこに市役所があるかわかっているのだろうが、よそから来た人間はこれではわからない。結局25分くらいぐるぐる探したのである。何のことはない、わかっていれば鶴ヶ島から30分でついた事になる。

 所沢市役所の人は気が付かないのだろうか。

 この顛末を、受付の女性に伝えた。が無理だろうな。簡単なことだから、わかっているんだろうと思うが、わかっていて放っておくんだろう。


カウンター(10月4日)

 カウンターが取り付けられなくて何年か経ったが、10月2日に設置して、恐ろしいかずのアクセスがあり、その通り恐ろしい。いや、光栄でもある。


寂しい挿絵画家(10月4日)

 挿絵画家というのは寂しい思いをするものである。ただ、私自身が私を挿し絵画家と、明確に規定しているわけではないが、挿絵画家という側面を持っている。

 田舎に行くと、ちょっとした切り絵作家が、どこかの出版社から画集を出したりしている。そして、その画家が「画集を出せていない画家は、一流ではない」と言っているらしい。事実、私は何人かの人に画集は出しているんですかと問われたことがある。その時は、情けない気持ちになる。

 実は私は自費出版以外の画集は出したことがないのである。皆さん意外に思う方が多いかもしれない。しかし事実なのである。

 私の仲間の、本屋さんや週刊誌・新聞の小説だったらおなじみで絵を知らない人がいないくらいの草鞋之会の面々は、誰一人画集というものを出していないのである。草鞋之会の面々だけではない、挿し絵そして本の装丁をしているイラストレーターはほとんどの人が画集を出してもらっていないのである。

 勘違いされて困るのであるが、我々出版に関わっている画家は印税で仕事をしているわけではない。泳げ鯛焼き君のレコードの歌手・しもんまさとがそうだったように、原稿料で終わりである。そして安い。だから、稼ごうと思ったら、数をこなさなければならない。数はそう増えるものではない。同じような本の装丁の絵が並んだら、本屋の平台はつまらないものにもなるはずである。

 私たちの年齢の人間がそれなりに、仕事をもらい続けられるのも、そのクオリティーの高さからだと思う。ただ、誰でもギャラは同じであるから、いくらいい絵を描いても値段は同じである。私が寝ながらでも描けそうな絵でも同じである。せいぜい1万円か2万円違うだけだろう。

 絵の良し悪しは主観的なものだからといえばそれまでである。確かに、見えないものだから出版社も査定するのが難しいはずである。

 小説に挿し絵なんか要らないと私に向かっていった編集者がいる。k社の今はある部署のトップになっている人であるが、彼の影響かどうか知らないが挿し絵を小説誌で、いち小説に一点にしたことがある。その影響だろう、その雑誌は売り上げが落ち、また2点に復活している。

 大概の編集者なそうじゃないだろうと思ってもいるだろうが、もしかしたらいらないのかもしれないと思っているかもしれない。わからないのである。売り上げで本の挿し絵あるいは表紙の影響が見えないからである。

 それはよしとしよう。

 しかし、我々草鞋之会のY・Yという超売れっ子画家が、週刊誌の対談、たとえば週刊文春の阿川佐和子の連載対談に出たことがあるのだろうか?聞いたことがない。中さんは出たことがあると記憶しているが、90歳でまだ現役という挿絵画家であるから出てもおかしくない。他に誰が出たんだろう? (ただし、性格的にY・Yは固辞するかもしれないが)

 挿し絵画家は、私なんぞはそれほど苦労はしていないが、大変な状態で仕事をしているはずである。いわば出版社も挿絵画家・装丁画家に借り、言葉が悪ければ恩があるようなものだと思う。

 何とか、いろいろな雑誌のページにどんどん出て対談やら、ファッションの話、健康の話・趣味の話・酒の話・過去の思い出話などに引っ張り出してもらって、実務の仕事じゃないところで登場させて欲しいものである。出版社の編集者なら、本当はお安い御用であるはずだ。

 身近であるが、見過ごしやすい我々出版社に関わる画家に、そのくらいの思いやりを持って欲しいものである。

 ただし、そんな薄情な業界から抜け出さない私も情けないのであるが。


私はローカル(10月4日)

 山梨の人は、私は山梨だけで、他県では無名だそうだ。

アバウトで見ればそのとおりだと思う。

言われると、静かにうなずくしかなかった。

そして、また闘志を燃やすのである。


缶詰は続く3(10月2日)

 東京にいると目ずらし光景を目にする。

 電車に一組のアベックがいた。立っていたのであるが、女性の手の甲が、向かい合わせの男のひざにつんつん当たり、そのうちに股間に当たり始めたのである。というより股間めがけて手の甲を当てていたのである。

 そのうちに手の甲でなく手のひらを当て始め、それからあたった瞬間に少し握り始めたのであった。その光景を見たいたのは私ばかりではない。他の人の視線を見ると、男女の顔と下(しも)を行き来していて、目が点になっていたのである。

 男の股間は、言うまでもない。


缶詰は続く2(9月30日)

 昨日は、飯田橋から調布教室へ行った。しかし、時間が2時間ほどあったので、私が24歳の頃勤めていたファンションモデルクラブ「モア」(現在のモアとは関係ない)のスポンサーであった新関建設を訪ねた。やっと訪ねた会社は土曜なのでしまっていた。

 帰った来てホームページを探したら、バブルの時代に失敗してもう形のない会社になったらしいのである。私がマネージャーをしていた頃はその新関建設の社長の恋人が、モデルクラブを運営していた。その社長とも話をしたことがある。かなり若くして社長になった印象であるが、そのとき話した仲間3人に対して、「この中で一人、メジャーになる人間がいる」と話していたのが印象的であった。勿論それが私だったらいいなあと思ったものである。その程度である。

 二人はマネージャー、一人はスカウトマンという若者たちであった。その一人とは今でも付き合いがあるが、もう一人はどうしているんだろう。彼は下町の方の潰れたボーリング場の瓦礫の下を住まい(正式に借りて)としていた。

 その新関建設の社長も亡くなっているようだ。その恋人が社長になっていた。その後結婚したんだろう。もし彼女に会えていたら、30年以上ぶりとなる。あちらも驚いただろう。

 そういえば亡くなった社長はラスベガスで確か、スロットをして2億円稼いだことがニュースになったはずである。その後脱税か何かでも、話題になった記憶もある。

 北新宿を歩いたのであるが、私が住んでいたモデルクラブの寮のような崩れそうなアパートがまだ沢山点在していた。


缶詰は続く(9月25日)


人力発電(9月19日)

 こちらでも、この夏の暑さのためだろうか木が枯れているものがある。枯れないまでも、葉がちりちりになって元気がなさそうなのもある。毎年毎年天候が心配になってきた。

 よく、太陽光発電とか、風力発電とかいうが、もう一つ忘れていないかと思う。人力発電である。自転車のような発電機を漕いで、炊飯器や風呂を沸かす・冷蔵庫等の電気をまかなうのである。どれだけ人間が出来るかどうかわからない。

 また、よく街にあるスポーツジムの自転車漕ぎマシーンなんてのはそのまま発電機になりそうである。ジムの発電やプールの水を温めるのに利用できそうである。また、発電量によって割引してくれたりしてくれたら、いっそうのダイエットのやる気が出そうである。

 自分の脂肪を電気に変えるこの方法、真剣に考えられないのだろうか、どんなもんだろう。


昨夜(9月18日)

 昨夜は8月におこなわれた埼玉県小川町の伝統工芸会館での展覧会にお越しになった、群馬県大泉町の方々とその会館の近くの、私の大好きな焼き鳥屋さんで飲んだ。

 いや大変な私のファンである。その中のお一人は確か会期中に3度いらっしゃって、仲間の方も引き連れ、あるいは仲間の方が単独でいらっしゃった。彼は粘土の似顔絵の制作者でもある。かなりの数の仲間の似顔粘土を作っているようだ。その表情の多彩さは私もタジっとする。そして私の個展会期中に作った即興切り絵の最多の購入者である。

 展覧会の打ち上げの時と同様、焼き鳥屋さんの座敷で飲む事になったが、その前にお店のカウンターで飲みたかったが、客が多くてあきらめた。前回の打ち上げの時は、話が品のない(とっても楽しい)ところもあるという幅があったが、昨日はそうはいかない。前回だったら、Hな話に持っていけるなあというところを抑えた。

 しかし、話の内容が狭い(といっても、前回の幅が特殊)がとても楽しかった。およそ3時間展覧会での思い出話とかで、不思議なくらい淀みない。そして大笑いであった。今度は大泉町で出かけて、ご一緒したい気持ちである。

 そして、出来上がったばかりの彼が取得した切り絵がプリントされた「江戸物売り」手拭いをプレゼントした。勿論、大変嬉しそうであった。

 今日はアトリエで仕事であるが、予定を延長して明日の午前に、飯田橋に帰る予定である。


手拭い完成(9月17日)

 
    

 CATV富士五湖の火祭り中継のDVDが届いた。見た。なんともスタート時の顔の情けないこと。聞きなり疲れ顔だった。この原因はスタート前のビールである。ビール缶一本半を飲んだのだった。眠そうな。うぅーん。でも後半は盛り返したぞ。

 それから待望の「江戸の物売り手拭い」が出来た。こちらも嬉しい。いつも作品の二次使用というのがなかった私にとっては、商品になるというのが嬉しい。

 写真右上は、木久蔵さんの木久扇襲名披露パーティの舞台。その右は仲良くなった浅香光代さんと。
 下左は、山梨県北杜市にあるNHK大河ドラマ撮影セットの「風林火山館」、躑躅が崎の城門。その右は本丸。その右は9月15日16日の即興切り絵ライブの模様。その右、観客。題材は、ガクトのイメージの上杉謙信を切った。全て、コピーに残せばいいのだが、コピーがなく売りっぱなしにしてしまった。もったいないことである。


東京暮らし2(9月10日)

 東京暮らしをしている。昔、調布に住んでいたが都心というのははじめてである。飯田橋にある編集プロダクションでである。考えてみれば、27歳に常滑の雑貨屋・勝美商店の倉庫番として就職して以来、団体の中で何日も仕事をするのは初めてある。

 会社の中には、社長さんを含めて6人である。とても静かである。皆黙々として、夜遅くまで働いている。

 木久蔵さんの木久扇襲名披露も、この会社から行った。日比谷の出口で落語家のs・kさんに出くわした。彼は銀座・伊東屋の展覧会で私の即興切り絵を買っていただいた方だ。しかし、「いやまいっちゃったよ。あの絵買って、額を伊東屋の人が入れますかというんで入れたら、「・・・万円」だよ、まいっちゃったよと不満満面であった。神様が引き合わせたのだろう。申し訳なかったし、額がそんなに高かったとは。絵より額の方が数倍高いという事になる。私の責任ではないとはいえ、あとで何かの形でフォローしておこうと思う。

 木久蔵さんのパーティでは、同じ円テーブルの正面に浅香光代さんがいた。席をつくとまもなく、浅香さんの弟子の方が彼女の名刺を持ってやってきた。私も急いで名刺を出し、そしてテーブルの全員に名刺をお渡しした。左の3人の方は日本舞踊のお歴々であった。テレビにしょっちゅう出る方だと右隣の佐藤さんという美術家の方から聞いた。

 驚いた事に踊りの方の真ん中にいらっしゃった女性は私のカレンダーを持っているということで大変驚かれていた。私の知り合いが毎年お渡ししているようだ。奇遇である。

 浅香さんとは、ただ一人、見知りおきの人だけにご挨拶に行った。雰囲気が好きな人である。隣の弟子の方がたまたまいない時だったので、椅子に座ってと促されて、長時間お話した。

 私は次の日一緒に写った写真を送った。そして私の画集とカレンダーはその次の日送った。8日に私は浅香光代さんに誘われて、浅草で呑む事に発展している。楽しい出会いである。浅香さんとは、公私を通じて交流する事になりそうである。

 飯田橋の昼飯は、いっぱいお店があって恵まれている。しかし、会社で食べようと弁当を買って帰ったが、その弁当のプラスティックケースが大量のゴミになると知り、もう外食をする事にした。

 東京暮らしも、たくさんの人と出会い、楽しいものである。今日の切り絵教室後に、再び飯田橋に戻り東京暮らしである。


東京暮らし(9月4日)

 今日から東京暮らしである。某出版社に自主的缶詰になりに行くのだ。寝袋を用意し、着替えをそろえ、道具を忘れないようにチェック。20日から、甲府方面で個展があるし、その間芸人と化して即興切り絵ライブもしに山梨に行く。
切り絵教室もある。ちょっと出たり入ったりだがとにかく見張られながら仕事を早めなければならない。

 何とか今月で、山積みの仕事を終えたい。しばらくHPの更新をしません。


今日の夜は林家木久扇さんの襲名披露である。私も招待されて行ってくる。ただ、招待状が見当たらないので日を間違っていないか心配だ。よくあるのだ。思い込んで調べなかったら、もう終わっていたとか。


千秋楽(9月3日)

 読売新聞の力は大きかった。100人近い人が私の即興切り絵を見にきていた。私は午前中に「江戸の物売りのライブ」もやり、それが押して2時の埼玉の民話ライブまでに、民話を読んでいないという状態に陥った。

 今日の助っ人は、コント役者の出月さんの仲間・里(さと)さん・小坂田さん・金親さん・?島(思い出せない・女性の方)さん有難うございました。 いい想い出になりました。最高のライブだったね。

 そのあとの打ち上げも面白かった。私は人生で一番面白い打ち上げになったよ。今日の焼き鳥屋さんはカウンターで飲んでもらったけど、予想通り感激してましたね。私の自慢のお店です。

 またこんな美酒だったら何度でも飲みたい。皆さん有難う。児玉さんも有難う。これはやっぱり普通の展覧会では味わえない感激だ。改めて即興切り絵ライブ、有難う。


風林火山博(9月1日)

 風林火山博に行ってきた。一月に一度は訪ねている事になる。

 昨日は博の中にある私の平面白黒切り絵・武田の二十四将(サイズB1)が、簡易額に入っているのだが半分以上額の下にずり落ちていた。それで、その修復の作業をした。

 こんな状態な絵をお客さんに晒しておく、風林火山博の方々のあまりにずさんな神経を情けなく思った。よくレストランとかホテルにそういう状態の額に入った絵がありますよね。それが26のうち16くらいが落ちているんですよ。

 今日は、飛び入りで1回のステージで私のサイン会を開いた。沢山の人が色紙を持ってきた。私は信玄の絵を描いてやった。そのあと、博の1回にある酒販売のお店のカウンターでお酒を飲んだのはいうまでもない。


名物焼き鳥(8月31日)

 私が住む鶴ヶ島から展覧会場の小川町の間に、東松山という街がありそこは焼き鳥が名物である。焼き鳥といっても、豚である、だが焼き鳥といっている。それにつける「たれ」は味噌、それに辛い。だが、もうここの焼き鳥を食べたら、東京の電車のガード下の焼き鳥がうまいなんていっても食べられない。

 この焼き鳥の文化圏は、東上線沿線は川越市辺りまでだろうか。奥地は、寄居の方までそうだ。

 昨日出版社の編集者が来たので、埼玉伝統工芸会館の近くの昭和30年代が思い出される焼き鳥屋に入って少し食べた。ここの焼き鳥は東松山の一番有名な見せに引けをとらなかった。素晴らしい味であった。

 9月2日の展覧会の打ち上げはここで行われるが、この店のプライベートな居間が宴会場になる。周りには、いろんな日用品が、雑然と置いてある。あの雰囲気は私が生まれた家の雰囲気である。

 東松山の焼き鳥は観光にも一役買っているようだ。日本で唯一焼き鳥組合があるのだそうで、焼き鳥マップというものも発行されている。

 皆さん、川越以西に来たら是非東松山の焼き鳥を、富士吉田方面に行く方は是非「吉田のうどんを」。


展覧会(8月30日)

 4日ほど前に某新聞から展覧会の取材を受けた。しかし、次の日が埼玉県知事選であり無理だろうと思ったが、未だに載っていない。もうあと数日で終わりだ。

 埼玉県の民話の即興ライブは、あと9月2日(日)の一回でおしまいである。しかし、その日の作品の予約ももう入っていて、8作全て完売である。10000円という安さもあったろう。

 それに比べて、江戸の物売りはオークションに慣れていないせいか3点しか値がつかない。10000円から開始のオークションです。B3の大きさです、どなたか投票しないですか? 

hyakkimaru.teduka@gmail.com


ぶゆ(8月29日)

 私は「ぶよ(方言?)」と呼んでいるが、ぶゆに、26日のCATVの「火祭り生中継」の時の着替えの時に食われた。久しぶりである。何十年振りである。

 私はどうもぶゆに食われるとアレルギーらしく腫れる。左足のすねの中間くらいの場所だが、すね全体が一回り太くなっている。くるぶしも腫れで見えなくなっている。早く言えば骨折した時のような腫れである。

 子供の頃はよくさされて、腫らしたものだ。さされたあとは残り、足のあちこちにツベルクリンの注射のようなあとがかすかにある。首のところに食われた後は、髭が3センチ四方生えなくなっている。

 痒いわけでなく、ただ腫れて最高の時はうずいた感じがする。小学校の頃は休んだりしたが、本当は行ってもよかった。小学校の保健室の先生も見て驚いていたものだ。

 あと1週間もすれば直るだろう。


読み聞かせ風景(8月28日)

  

 埼玉伝統工芸会館で展覧会をしているが、土・日曜日の読み聞かせと即興切り絵ライブのシーンである。読み聞かせというより、コントである。とても楽しいですよ。皆さんもったいないから来てくださいね。ただし9月1日は、読み聞かせは休みですし、私も会場にいません。


大役無事完了(8月26日)

 

 CATV生出演無事終了。反省は、その前に度胸付けで飲んだわけでなく、何が良いと提示された中にビールがあったので一缶半呑んでしまったことだ。始まったら、ただでさえライトで熱くて顔がほてっているのにさらに顔が赤くなっていて、明らかに呑んでるなとわかった顔をテレビに晒したこと。

 それから、モニターに映ってしゃべっていない自分が、目の悪さでか酒のせいでか暗かったなあと思うんだけど。しゃべり始めるいつもと同じであったのだが。これは直らないなあ。

 ビデオをもらったら、ダビングしますので欲しい方は送ります。


巨人でえだんぼう(8月26日)

 さあ、今日はテレビ生出演本番である。午前11時に埼玉伝統工芸会館で即興切り絵をし、車で富士吉田に向かう。昨年は電車でいて、ぎりぎりで入った。久々に即興切り絵を昨日はした。

 忘れていたが、バイクの故障はプラグをスパークさせる基板のような装置を交換することで直った。

 むかし秩父に雲をつくような巨人がいた。秩父の人たちは親しみをこめて「でえだんぼう」と呼んでいた。でえだんぼうは秩父にいい山を作くろうと土が山盛りのもっこを天秤棒でかついだ。その時、足跡がついて地名が横瀬村字芦ヶ久保になった。また、作った山は二子山となった。でえだんぼうは村人のために川をさらって洪水が起こらないようにしたり、いろんなことをしてくれた。でえだんぼうの動きまわったあたりには、それでいろんな地名がついた。蓑山・笠山・粥煮田峠・二本木峠・釜伏峠・姿の池・大霧山・大塚池がある。


バイク故障(8月25日)

 順調に、締め切りを終え小川町の個展会場に3時頃行った。弟子が3人来てくれていた。5時頃通っているバイクで帰る途中で、バイクがガス欠のような症状で走らなくなった。

 山がちの道路を走っていたが、いつも通る道路だから、うら覚えでバイク屋を通過したはずだと思い出し、引いてバイク屋さんにたどり着いた。15分くらい引いただろうか。上り坂だったのでちょっとハードだった。

 しかし、バイク屋さんがプラグも調べたが、どこが故障かわからない。私のアトリエの近くの主治医のバイク屋さんに取りに来てもらって修理をしたほうが良いとの提案をもらった。

 そのようにしようと電話をしたが、「今日は行けない、明日朝」ということで、バイクを置いていく事にした。持ち込んだバイク屋さんは、バイクを置いておくことを快く引き受けてくれた。有難い。

 バイクの故障はどこなのだろうかと思う。


巌流島に午前中(8月24日)

 巌流島に午前中いってくる。無事に帰参できるように祈りたい。


雨漏り(8月23日)

 雨である。私のアトリエは雨漏りが2箇所する。大家が金がかかるからと修理をしなくて5年経っている。台風の時だけなので今日は大丈夫だが。

 雨漏りは懐かしい。私が子供の頃住んでいた家は、家族5人で6畳と4畳半に住んでいた。木造の瓦屋根の古い建物だった。両親が家を建てる前のわび住いにしていたのだ。たらいや洗面器・バケツに雑巾を入れて、跳ねが飛ばないようにしておく。確か雨戸はなくて、窓は板で父親がとんとんと固定していた。何故か父親はその時はたくましく働いていた。

 大きな台風があって、目の前の柿の大木が倒れた時もあった。根元からたくさんのセミの幼虫が現れた。家側に倒れなくてよかった。

 勿論、台風のときは家族5人は、過ごすのだが、窓をたたきつける雨音をのんびり味わっていた。


関口コウ(8月22日)

 切り絵の巨匠・関口コウ氏が日曜日に現れた。私のような頼まれ仕事もするが、自分のしたい仕事をやっていって発表するというやり方の切り絵作家だ。頼まれ仕事がスケジュールの大半を占める私とは違う。

 私がお会いするのは3度目。2度は彼の展覧会に私が出向いたのである。だから、私の原画を彼が見るのははじめてである。子供の頃から絵や書道とあまり外で遊ばないタイプだったようだ。私とは違う。

 作品も、多種にわたる私とは違い、童画を中心に最近では妖艶な女性を描いている。

 全くお話をしていると、何から何まで逆であった。私との対談を、私の生徒たちは食い入るように聞いていた。

 「百鬼丸の方が私より派手だ」おっしゃっていた。私の即興切り絵をみて、目が驚いていらっしゃった。彼との会話も表情も良くおぼえて私は楽しいひと時をいただいた。私よりかなりの先輩だが、やっぱり良きライバルである。


S・Y(8月21日)

 S・Yが亡くなったとか。一人住まいだったとテレビで報じていた。私より2つくらい上だったようだ。昨年か一昨年か実は遭遇している。

 私が20歳代の前半にはパリコレに出て、もうモデルでは桁違いにメジャーだった。でも私は胡散臭く思っていた。それから何年たっても、同じヘヤースタイル&キャラでモデルをしていたからだ。

 人間自分に飽きることがある。いつまでも同じとしたらそれは故意にやっているとしか思えない。その外観はそのまま彼女のつまらなさに通じていたような気がするのである。

 会った時の彼女はまるで30歳代だった。私より上にはずなのに何で?としっかり見た。でも40代前半にしか見えなかった。モデルに行き詰まり、人形の世界に入り、操り人形の芝居の人形のキャラをしたのかもしれない。でも人形はとても素晴らしいものだった。

 その後、私も出席していた打ち上げに、私がモデルのマネージャーをしていた頃のヒロインという親しみもあり近づいていったが、私はあしらわれた。これはだいぶ前に遭遇した石版画のY・Yと同じ反応だった。彼女もきれいで、顔は笑っていたが、私をあしらっていた。

 彼女は、男に対して非常に警戒心が強い人間だったようだ。男ばかりではないのかもしれない。彼女が、一人暮らしで、死んでいったという事に、そのことが思い浮かぶ。


七つの井戸(8月20日)

 秩父の里は、日照り続きで民は困っていた。きこりの小兵衛もその一人だった。ある日小兵衛は柳を切ればそこから水が出ると聞いて、斧で切ろうとする。すると「柳を切らないでくりょ」と女の声がした。また斧を振り上げると同じ声がする。小兵衛はその声が柳の木の精だと気がつく。
 
 小兵衛は「それじゃあ、水が湧き出るところをを教えてくれ」と頼む。「私は後であなたのもとに行って、その場所をお教えいたします。」そう言われた小兵衛は、柳を切らずに帰ってきた。
 
 その晩、やきもきしながら小兵衛は柳の木女を待った。しかし、待ち疲れた小兵衛は眠ってしまった。そんな眠りの中にきれいが女が枕元に現れた。「私の子供の柳の木が、宮地に7つある。その根元を掘れば水が沸く」といって去った 
 小兵衛は唐ぐわを持って、宮地に急いだ。柳の木が7本あった。根元を掘った。ものすごい量のしかも、きれいな水がたくさん出た。近在の民も出てきて大いに喜んだ。
 その後、秩父に日照りはなくなったそうだ。

 

埼玉の民話(8月19日)

 

平日やっている「江戸の物売り」。古傘買いである。

   

土日に読み聞かせと共にやっている埼玉の民話の即興切り絵。左から「八人の将門」「河童のくれた不思議な壺」「首のすげかえ」「鬼をだました話」

 古傘買い。古傘買いが街を歩いて、古傘を集め、古傘を修理する業者に渡し、そして古傘売りに売られる。江戸時代は、なんでも修理して物を使い、大事にしたようだ。道に落ちている紙は、紙拾い屋さんが集めいき、木は炊事の薪にした。街は、舗装もしてないのでほこりっぽいが、ゴミなど落ちていなくて大変きれいでだったようだ。

 「八人の将門」。平安時代、平将門は藤原秀郷に追い詰められて、埼玉と群馬のさかいの山に立てこもり、のち降伏します。しかし「平将門」と名乗る人物が8人も出てきます。その中の一人は、本物の「将門」に違いありません。
 秀郷は、召使の女に将門はどれか問いただしますが、言いません。女は思い悩んだ末、将門の癖を告げます。かくして真の「将門」は捕らえられます。しかし、秀郷は、将門の家来の忠誠心に心を打たれます。

 「河童のくれた不思議な壺」。三吉という力持ちの若者がいました。ある日、川で河童にからかわれます。くやしくて三吉は河童に丘で相撲をとらないかと誘います。しかし、陸上では、河童は力が出ません。とうとう河童は「宝物をあげますからお助けを!」命声を出します。
 贈り物は小判のいっぱい入った壺でした。「小判を一つだけ残しておけば、どんどん増えてなくなることはない。全部使っては駄目だぞ」と言い残す。
 時は流れ、裕福な生活の三吉にも子供が出来、河童の言葉も忘れてしまいました。ある日、子供がつぼを持ち出し中のお金を全て使ってしまいました。その時、三吉のまわりのものは全て消えてしまいました。

「首のすげかえ」。話好きの殿様がいました。家来に話をさせていましたが、「うそだんべ」と最後に言うので、家来も相手が嫌になりました。つまらなくなった殿様は「うそだんべ」と言わないから、誰か話をしてくれと頼みます。それも「うそだんべ」といったら、千両をやるという提案をしました。
 あるとき千恵者の家来が出てきて話を始めました。「殿様が駕籠でお出かけの時、とんびが飛んできて駕籠に糞をしました。そこで駕籠を取り替えました。」「次に、殿様が駕籠から出ると、とんびは殿様の羽織に糞をしました。そして、羽織を取り替えられました。」・・・・・。「とんびが来ました。そうすると今度は殿様の頭にしました。すると家来は別の殿様の頭を持ってきて首をすげかえたといいます」と千恵者の家来が言い終わるやいなや殿様は「うそだんべ」といてしまった。家来はまんまと千両箱を手にしましたとさ。

 「鬼をだました話」鬼がある村に酔っ払ってやってきました。この鬼は村を時々こわしにくるのでほとほと困っていました。そこで千恵者のお坊さんは考えました。酒を飲まして酔わせ石でできた豆腐や固い根っこのほうの竹の子を食べさせてこりごりさせてやろうと。自分たちは、本物を食べていました。鬼は同じものを食べているはずなのに、自分には固くて大変なのがくやしくてさらに一生懸命食べます。やがて、鬼はたらふく食べて体はふらふらで、ずっしり重くなっています。
 そこへ知らせが来ます。「大力坊という怖い暴れ者が来る」というのです。鬼に「大力坊」を退治してくださいと頼みます。しかし、その間に、村人は田畑をいかにも暴れ者が壊したようにひっくるかえしておいたのです。鬼が、そこを通りますと、そのすさまじさを目の当たりにします。鬼は帰りました。二度とくることはなかったそうです。

さて(8月18日)

 今朝5時半おきで、スーパーカブ90で山梨から帰ってきた。寒かった。霧のような雨が山梨から埼玉までずっと続いていた。バイクに風防があるので、濡れるほどではなかった。

 鶴ヶ島に着いて、久々に温泉に行ってきた。いや、のんびりと入った。眠くなりそうだった。

 今日も展覧会場で、埼玉の民話の即興切り絵をおこなう。どんな方が、来場されるか。


リハーサル(8月17日)

 今日は26日・火祭り実況ライブのTV出演リハーサルである。富士吉田に行ってくる。その後、切り絵の教室がある。

 昨日は、女飴売りを埼玉伝統工芸会館で即興ライブをした。いったら、外国人が20人くらい来ていて、「エスペランド語」でしゃべるという団体だった。世界共通語といわれている外国語である。しかし、子供の頃に聞いていたが、その後広がりを見せていなそうな感じである。

 会館側から頼まれて、午前中から即興ライブをする事になったが、英語で話しかけたら、何か怒り出した男の白人がいた。どうも、母国語をしゃべるといけないルールらしい。私には関係ないんで、怒るのはどうかと思う。

 その一昨目は、あまり良いものができなかった。美人の飴屋を作ろうと思ったのである。しかし、瞬時に美人を作るのは難しい。午後に、悔しいのでやってみた。いいものが出来た。


9月以後は(8月16日)

 武田の二十四将の立体切り絵は、作ってから、ずっとどこかで公式に展覧会をされてきた。しかし、今埼玉伝統工芸会館での展覧会以降、1週間以上の展示は予定はない。1日か2日私の即興切り絵のライブ&トークのセットでの展覧だけである。

 NHK「風林火山」も後半である。そろそろ、致し方ないのだろう。

 私も9月以降は、面白い自主制作を企画しようと思っている。30点くらい出来ればいいんだけど、20点でアップアップだろう。自分の時間を使って、誰からもお金をもらわず、何も拘束されない絵を作るというのは、いろいろな意味で力のあるものだと思う。

 ご期待下さい。


野菜売り(8月15日)

 野菜売りは、2・3種類だけを売り歩く人と、いろいろな野菜を売り歩く人がいた。

 売り歩くといっても、魚や同様、かなりのスピードで走り回る。あまり儲からない商売であったらしいから、売れ残ったら大変、勿論売れ残ったら、家族で食べるか、明日仕入れた野菜と混ぜて売る。関西は、細かい網のざるで売り歩いたという。

 江戸の人口は多かったものだから、野菜の供給も大変なことで、慢性的な野菜不足であったらしい。今では考えられないタンポポやツクシ・はこべなんかも食べたといいます。


東京へ行く(8月14日)

 昨日は、締め切りで遅れついでに、出版社にとどけた。久しぶりである。某社も何年振りである。編集長以下、皆年下である。前からそうだったが皆若い。

 しまった!イラストが立て位置の絵なのに横位置に作ってしまった、と編集部に来てわかった。私の担当のy氏は冷静に、目を赤く(疲れ目でである)して、絵を生かす方法を考えてくれた。

 編集部でひと時話をして、銀座に向かった。

 もう、20年以上前に、本の装丁をし、完成したら呑まないかと誘われた、エッセイストの青木雨彦さん編集者N・T氏とご一緒した「龍」という店に行ったのである。銀座で一番古い6人くらいで満席のカウンターバーである。中のママもかなり古い。80歳である。

 戦前は浅草で(上野?)で、裕福な家に生まれ、婆やつきで、習い事も全て幼少期に済ませてしまったという正真正銘の「お嬢さん」である。伝法な物言いも、やはり世間とは違うどこかお嬢さんのとんちんかんが見え隠れする。

 このお嬢様感覚は、先日の草鞋之会の展覧会に来た夢路の恋人・笠井彦乃の妹さんによく似ている。この妹さんも、、お嬢さん独特のテンポであった。

 「龍」に入って私の隣に座っていたのはK社の敏腕編集者で、局長だったH・Oさんだった。局長という肩書きがわからなかった時代であった。

 もう、青木雨彦さんは私の年齢の頃、胃がんで亡くなっている。亡くなる直前お電話をしたことがある。「何か入院なさったそうで」「胃潰瘍でね、やっと出てきたよ。これからまたがんばるよ」と力強くおっしゃっていたが、その後すぐお亡くなりなった。

 私はとん馬で葬儀のとき、東京から光に乗ってしまって、着いたのは名古屋であった。その前に車掌に事情を話したら、切符の裏側に事情を書いてくれて、駅員に渡すように言われた。助けられたのである。

 葬儀場のお寺に着いた時は、もう出棺も終わり、お寺には誰もいなかった。その時、どなただったか、「もうすぐお骨が戻ってきて再び読経があるので、参加してもらえないか」ということであった。

 予期しない展開であった。

 お寺の講堂内は、いっぱいになり、私の隣にはよくぺらぺらしゃべる青木氏の友人・映画監督の大島渚氏がいた。遠くの方には、作家の生島二郎氏と奥さんがいた。

 読経が始まると、生島さんの奥さんが「くしゃみを」何回もし始めた。この奥さんは「片翼だけの天子」という小説で、映画化もされた主人公の方である。韓国人で元ソープ嬢出身ときいている。

 その「くしゃみ」のあと、くしゃみしたのがおかしくて大きな声で笑い始めたのであった。参列者はいっそうシーンと静まり返った気がした。

 そのあと、帰ることにしたら「そこの人初七日をするので、帰らないで」と止められて、宴会となった。生島二郎さんに挨拶に行った。「この人ハンサムねー」と奥さんは連呼していたが、生島さんは困った顔をしていた。

 青木雨彦さんは、晩年の頃カルチャーセンターの講師をしていた。その生徒と一度だけ交際してしまったことがあるといった。しかし、この人は仲間にそれを言いふらし、結局カルチャーセンターを止める事になった。

 「百鬼丸君、女は裏切るよ!」と私は言われた。


NHK放映顛末(8月13日)

 昨日は、NHKの取材があり、そして30人という大勢のお客さんの前で、埼玉県の民話の即興切り絵をした。それはいいが、会場から帰ってきてメールやブログの仲間に知らせたのだが!

 放映時間が6時と聞いていたから、その通りに皆に知らせた。しかし残念ながら、その時間には放送されなかったのである。私は行きつけの飲み屋で、今から映るからと宣言して、客に固唾を呑んで見て頂いたのに放送されなかったというひどい目にあわせてしまった。

 私も知らないのだが、かなり遅い時間に放映があったらしい。

 こういうことは前にもあった。NHKの何かの都合なのだろう。あまりTVに出ることを言わない方だったが、最近は出来るだけ通知するように努めている。しかし、こういうことがあると申し訳ないと思う。

 今度のテレビ出演は山梨のCATV富士五湖である。


読み聞かせ(8月12日)

 昨日は、第三回目のコント役者・出月勝彦(いでつきかつひこ)氏との共演読み聞かせであった。しかし、彼の強力な助っ人が東京から3人も現れた。

 コントであるから、とっても愉快な演出舞台であった。にぎやかがまずいい。彼らがとっとっても一生懸命が好感がもてる。内容も盛りだくさんで、本題の「首のすげかえ」?までに、話を膨らませて笑えた。かぶりもの、白塗りとっても衣装もこっていた。

 普段は声優とかもして、いろんな芸能活動をなさっているそうである。それから、紙芝居のように、話の展開を絵にしてくださった方(名前を覚えられなくてごめんなさい)。いや、プロである。とても楽しかった。私も彼らのファンになりました。
 
 今日は、NHKが取材に来るそうで、もしかしたら、今日の夕方の首都圏ニュースに出るかもしれませんね。


野球(8月11日)

 イチローが、まとめて安打を打っているようだ。やっぱり、野球はいい。

 子供時代は、野球は長島に憧れていた。だから、ポジションはサードをしていた。下手だったけど。構えも真似した。下手だったけど。毎日、学校が終わるとランドセルを家に置いてきてすぐグランドに戻る。確か、学校にそのまま居なかった気がする。一度はただいまと、家に帰った気がする。

 そしてグローブを持って学校に行った。私の通った小学校はグランドが狭かった。30mかける50mくらいしかなかったのではないだろうか、いやそれより小さかったかもしれない。そこで、すごい人数の子供たちが野球以外の遊びもしているわけで、大変混雑していた。

 そんな毎日だったが、とても楽しかった。

 話は違うが、そのグランドだが、元々はその隣にある下浅間の、岩岩の溶岩だらけと同じように、土はなかったようである。

 

 第二小学校も下吉田中学校もそうである。写真の右端にいる人は今の実家に引っ越す前に住んでいた家の隣の人で渡辺繁蔵さんという。私は繁ちゃんと呼んでいた私がうまれたのも知っているというから、すごい。

 彼は下吉田第一小学校の一期生であったという。その時の小学生は勉強はしないで、もっぱら背負子(しょいこ)を背負わされて、それに箱を積んで、「おぶね山」の土をその箱に入れて、各学校のグラウンドに運んだのだそうである。第二小学校はすごい広いグラウンドである、そこにあのおぶね山(800mくらい距離がある)から運んだとはぞーっとする。今だったらPTAがそんなことは許さないだろう。

 そんな今の70歳代の少年たちのお陰で、我々はその上で野球をしたり、遊んだりしていたのである。


夏(8月10日)

 子供の頃過ごした富士吉田は、標高800mもあり涼しいはずだが、地元の子供はよそと比較しようがないから、それなりに暑く感じる。今も暑いが、子供の頃はもっと暑かった気がする。帽子をかぶっていたと思うが、毎日暑かった。

 だけど暑いからといって、まいっていた訳ではない。外で遊びまくっていたのである。今の頃は木を削って舟を作り、スクリューをつけ、動力がゴムで、せき止めた小川で、仲間と浮かべて遊んでいたと思う。うまく進むのをなんとなく競っていた気がする。中には潜水艦を作ったりした仲間もいたが、私はこづかいが少なくそこまで凝れなかった。

 その船を浮かべる最高の舞台は、子供たちの根城から1km位離れたところ(子供にとっては1kmはかなり遠いところである)にある月江寺公園にある池に浮かべることであった。ただし、広い池であったから、動力のゴムの力がなくなったら終わりで、下手をすると池の真ん中で止まってしまう時がある。そうなると、池の水が流れ出る口で何時間も到着するのを待たなければならない。

 いつも一人でいるなんてことはなかった。遊び相手がいない時は、「・・・ちゃん、あそぼ」と友人の家の外から勧誘するのである。電話が普及してから、そういうことはなくなったと思う。

 富士吉田で、テニスをすると気圧が低くて、ボールがやたら飛ぶのである。いつもより余計に回転をかけなければならない。


苦手(8月9日)

 毎月、どの月刊小説誌にも載っていた時代があった。今では月刊誌が来ることが珍しい。久しぶりのオール読物から連載がきた。

 近年ずっと、難しい小説が私に回ってくることが多かった。小説現代の歌舞伎を現代版に面白く焼きなおしたような小説?はとても難しかった。小説新潮の韓国の小説は、挿し絵が途中で打ち切られたが、作家からのクレームだったのだろう、いい仕事をしていたと思うが、作家の方に良さが伝わらず、付いてこられなかったんだと思う。

 小説すばるでは海外に日本人が漂流した小説だったが、これもイメージが浮かばなかった。小説のことを作家に直接聞いたが、あれはちょっと難しかったとおっしゃっていたから、私のイラストもそのまま小説の悪さに引きずられた感じだ。

 夕刊フジのエッセイに裸婦の切り絵をやったことがあるが、私は自ら映倫をかけてしまうところがあり、自分個人で裸婦を切り絵にするのとは違って、裸婦を印刷物にするような仕事は苦手である。この時の作家に二度ほど会ったが無礼者であった。二度と話はしないだろう。
 
 問題小説では、連載小説をやっている。私の得意分野の小説である。今は私らしい仕事が出来る舞台はこれだけである。
 
 これから、月刊誌も次第に復活するだろう。私の絵がまだ必要だと思うからである。

 「最近、百鬼さんに月刊誌の仕事がないなあ」ということでまわってきたのだろう。気にしていただいて有難がたい。


鮎売り完成(8月8日)

 

 ちょっと時間が掛かりすぎた。1時間半である。お客さんも見ているのが大変だったろう。何とかその時間しゃべりとおしたが、お客さん同士で、昔はこうだったああだったというような展開になり、理想的な舞台となった。

 玉川の鮎を早朝に捕獲して、問屋に運んだという。ちょっと優雅な服装である。参考にした本が、芝居のものからとっていて脚色してあるのかもしれない。

 鮎売りは、また京都で「桂女」といい、特殊な職業であった。天皇・公家・京都所司代等に出入りし、婚礼・出産・家督相続などに祝言を述べた。そして江戸幕府の保護を受けて、庶民の祝い事にも出入りするようになった。戦国期は、遊女になり鮎鮨・酒・勝栗を持ち、縁起のよい女性として戦場に現れたという。


鮎売り(8月7日)

 本当は14日から「武田の二十四将展」であるが、もう作品を入れ替えてしまった。本来やりたかった展覧会になった。武田二十四将の動き等、出色の出来である。皆さんには是非見てもらいたい。

 今日は朝から、展覧会に来客がある。だから、早々に出かけなければならない。

 そうだ、某社から、漫画の仕事が入った。表紙ではない。本編の方である。切り絵で漫画であるから、それはつらい仕事であるだろうが、私にとっては、予期した仕事である。

 今年の風林火山博もそうであったが、次から次へと冒険がやってくる。戦いたい。始動は年末。

 そうだタイトルのことを忘れていた。今日は即興切り絵「鮎売り」をするのである。


忘れていた(8月6日)

 富士吉田の道の駅の展覧会が昨日終わった。飾ってあった立体切り絵・武田二十四将(その内の二十三将)の原画をそのままつんで、今個展中の埼玉県小川町に運ぶのだった。小川町の伝統工芸会館では、皆が待っている。

 曜日の感覚が普段からないので、のんびりと高速に向かおうとしたが、1kmほど走ってから、今日が日曜日であることを思い出した。とんでもないことである。時間は午後5時。高速道路の渋滞は最高の時間である。

 友人に携帯で相談した。そしたら雁坂トンネルを通って埼玉に帰ったらという答え。

 雁坂トンネルに向かうには、河口湖を通らなければならない。河口湖に向かった。渋滞である。そのはずであった。今日は有名な河口湖の湖上際の花火大会である。河口湖を抜け出すのにドンだけ時間が掛かるやら、引き返した。しかし、道が進入禁止になっているところがあり時間が掛かった。

 考えた新コースは都留市から秋山村(現上野原市)を通って中央道上野原インターから、高速に入るというコースだ。

 良かった。秋山村は高速の渋滞を避ける車が通っていて、10台くらい珍しく数珠繋ぎだったが、すいすい走った。しかし、たどり着いた上野原の高速道は、のろのろだった。この渋滞がおそらく大月のずっと(中央線の河口湖線から、中央線の本線に入るのに1時間以上は掛かる)前から続いていたものだろうから、本当に正解だった。すぐにぶち当たる圏央道に入り、2時間30分で小川町に着いた。

 伝統工芸会館のスタッフと飾り付けをし、帰ったのは10時半であった。


卵のふわふわ(8月3日)


講談社文庫

 私がカバーの絵を担当した文庫本が増刷がきまったと、編集者からお知らせが届いた。近頃は本に売れ行きが悪くて、増刷が掛からないことが多いらしい。増刷が掛かったことを継げる編集者の声はとても弾んでいた。

 昔で言ったら、おこわを炊くといったところだろう。この文庫は私が担当している宇江佐真理さんのものだから、私もとても嬉しい。

 ところで、増刷といえば私が装丁をした文庫でもう何十刷り(何十増刷)のベストセラーがある。「封神演義」である。講談社の編集者から3冊いっぺんに分厚い原稿を渡され、とても読めたものではなかったが、三つ同時に出版された。カバーではわからないが大変な労作であった。 

 それにもう一冊。これは私が印税をもらえる青い鳥文庫の「八犬伝」である。増刷の度に、文庫が贈られてくる。果たして、その分が振り込まれているのか全くわからない。

考えてみれば全て講談社である。


今年もまたまた(8月2日)

 今年もまたまた、地元のテレビに生出演となった。地元の祭り「火祭り」の実況中継にゲストとして出演するのである。当初、ちょっと出るだけとうかがっていたが、また昨年のようなほとんどメインである。

 昨年は和服で出た。今年はどうしようと衣装のことまで考えている。何か面白いアイデアがあったら、チャレンジしてみようと思う。

 さて、今日はあるセレモニーホールチェーンの会報の表紙の仕事の締め切りである。私には珍しい妖精を作ったもので、出来が楽しみである。

 再び、今度は車で山梨に行く。5日に帰り、そのまま埼玉伝統工芸会館に絵を入れ替えて飾り付けをする。


行ってきます(7月30日)

*富士山アリーナ・風林火山展(富士吉田市)7月28日~8月5日立体の武田二十四将が一同にそろう

 上記の展覧会に1週間行ってきます。HPの更新は少しの間待っていてください。

 昨日は、一昨日やった埼玉の民話「鬼をだました話」を再演して、前回の失敗を取り戻そうとした。一昨日より上回ったが、まだ不満である。平日の江戸の物売りを帰ってから作るのが、楽しみである。


リッター48km(7月29日)

 今度私が買ったスーパーカブ90は、燃費が1リッター48kmだとわかった。

 昨日、もう仕事を止めて悠々自適に過ごしいらっしゃるという方が展覧会に来られた。作務衣をして、頭に頭巾を巻いたまだ現役で働いてもよさそうな品のいい目をしていらっしゃった方である。

 彼の毎日の移動は、スーパーカブ50なのだそうだ。つまり私と同じタイプのバイクの50ccのものというわけだが、リッター60kmだという。

 私も以前乗っていたのは、50ccであった。その時の燃費は38kmだった気がする。だから、すごい燃費が良くなっているわけである。明日、富士吉田に行くが、こんどのバイクで行けば4リッターほどで往復できる事になる。

 昨日の即興切り絵は、出月(いでつき)氏の読み聞かせで埼玉の民話「鬼をだました話」をしたが、いまいち納得のいく絵が出来上がりませんでした。乞うご期待。


油売り(7月28日)

 昨日は油売りをした。力作でいい絵であったが、人物の表情とかがいまいちに思う、もう一度いつかやってみたい。

 油売りは、食用・灯火用・頭髪用といろいろな油を内側が銅を張った入れ物に入れて、天秤棒で運んだ。

 「油を売ってんじゃねえ」と子供の頃お父さんにしかられたことがあると思うが、油は粘りがあって、容器に移すときになかなか注ぎ終わらない。そこで、油屋さんはその間ぺちゃくちゃおしゃべりをしてくれたのだそうで、無駄話のたとえに使われたのである。

 話は世間話が多かったと思うが、一つの話芸にでもなっていたのかも知れなし、それで、客の数も違ったことだろう。

 油売りが左手に持っているものは柄をつけた「穴開き銭」である。「この穴に、油が触れたら御代はいらないよ」なんていってたらしいが、本当なのだろうか? 眼鏡は老眼鏡だろう。

 ちなみに眼鏡は、室町末期に東南アジアから製法をおぼえた日本人が、作り広めたということだ。


魚屋(7月26日)

 魚は鮮度が命である。朝仕入れた魚を午前中には、お得意の家に届けたり、売り切らなければならないから、常に荒っぽく走り回っていたようである。

 魚屋といえば一心太助。いなせで威勢がいいイメージである。その通りである。急いで走るわけだから、向こうから来る通行人に荒っぽく「どけどけ」とか言って走ったのかもしれない。

 特に初鰹を競って食べた江戸っ子は、初鰹に大枚の金をつぎ込んで買ったようである。自然儲けが良いから、チョイわるが集まるのも世の習い。そうとう嫌われ者だったようである。

 江戸では、たらいの中に、関西ではかごに魚を入れて振り歩いた。いや走った。

 そういえば、魚を「さかな」と読むが、本来「さかな」は酒のつまみのことであった。宮中でさかなと言えばそのようであった。その「さかな」に一番されたのが「魚(うお)」であったから、「うお」のことを「さかな」というようになったのだある。


獅子舞(7月26日)

 昨日の即興切り絵のお題は「獅子舞」。もともとインドから中国に伝わり、日本に伝来したという。伊勢の太神楽の方々が獅子舞をして全国の家々を厄払いをしたという。伊勢参りの御師の方々が、自分たちに所属する「講」の方々を、訪問し厄払いをしていたのかもしれない。

 富士講という富士山信仰の方々に吉田(富士吉田市)の宿坊である「御師」が、宗教的なこともして、厄払いの札なんかを渡しに行ったのとよく似ている。

 それが盛んになったのは戦国時代末期から江戸初期であった。獅子舞にも二種類あって、上の絵は一人であるが、この獅子に二人が入って踊る方法(この絵では本当は二人描かなければいけない。時間がないので一人にした。)と鹿舞(ししまい)という名称で呼ばれる角を生やした獅子を頭に乗せ、太鼓を首から提げて一人で踊る獅子舞がある。

 前者は関西を中心に、後者は関東と東北であるという。ちなみに私が住んでいる鶴ヶ島にも町の文化財になっている獅子舞があり、鹿舞のほうである。

 子供の頃はこの獅子舞が来て、怖かったものである。ある本には「若者の小遣い稼ぎであった」とあるから、そんな人たちもいたのかもしれない。

 埼玉奥地の小川町の展覧会である。客も少なく寂しい展覧会である。朝日新聞の埼玉マリオンにも載せてくれる荘であるから、次第に客も増えるであろう。


夜鷹(7月25日)

昨日の即興切り絵は「夜鷹」をした。銀座伊東屋での草鞋之会展では一度「夜鷹」をやっている。だが、この「江戸の物売り」100点くらいそろえて、画集にしてみたいというアイデアが浮かんで、切り絵もコピー可能なB3サイズ(半分半分コピーしてくっつける)にして再チャレンジする事にした。

 「夜鷹」というと、どうも東映映画で「千原しのぶ」あたりがやりそうであるから、ちょっとロマンチックに感じるが、実際は遊郭にも上がれない、おばあさんか病気持ちがやっていたのだそうである。絵の着物も上等な感じがする。もっとぼろぼろだったろう。

 伊東屋で草鞋之会展で、「夜鷹」をしている時に、作家の平岩弓枝さんがいらっしゃていて、私の絵を見て「これではまだ女郎として使えますねえ」とおしゃったのを反省して、婆さんにしてみた。しかしまだ他にも言ってらして「夜鷹も胴元がいて、管理されていたそうですよ」何だそうで、その夜鷹はまだましで、管理下におかれていない夜鷹は、そりゃあひどいものだったらしい。

 ということで「夜鷹」完成。ぱちぱちぱち。


初日(7月24日)

 今日は、埼玉伝統工芸会館の初日である。毎日通うということにしているが、会場で、頼まれてやらなければならない仕事がたくさんある。気を散らさないで、できるかが課題である。

 この会場で、個展をするのは連続3年である。だが、その仕事に集中できない雰囲気がある。

 さて、埼玉にばかり目が行っているが、山梨でのイベントも始まっている。

 まず一足先に、ハイランドリゾートホテル(富士急ハイランド内)ロビーでの立体の武田の二十四将の展示が始まっている。これまで武田の二十四将が一堂に会したことはないのだ。きっと壮観な展覧会になっていることだろう。

 また同時に、富士吉田の道の駅にあるアリーナというところでも、作品を移動して展覧会おこなう。こちらの方には、一週間埼玉伝統工芸会館を抜け出て、行く事にする。

 ただ今回の、富士吉田での個展は、葉書を出していないので、ちょっと私の友人たちあるいはファンたちが知っているか不安である。今からでも出そうかと思っている。でも、とても忙しい。


埼玉県小川町(7月23日)

 いよいよ明日から、埼玉伝統工芸会館での個展が始まる。点数はB3くらいの額が50位だから、かなりの点数がある。それに8月14日から、作品の入れ替えである。

 この小川町に、奈良時代、武蔵の地に住む事になった渡来人たちによって、和紙の技術が伝わったという。その後、江戸開府時代に、和歌山の細川村から和紙の製作技術が再びもたらされ、それが、この小川を中心とする地域に広まったという。

 小川町は、大消費地「江戸」の和紙の供給源として反映し、今でも酒蔵が3軒もあって往時をしのばせる。小京都と呼ばれたそうである。また、江戸に向けてのあらゆるものが生産されている。蚕生産地であり絹織物は盛んであったし、周囲に森林がありそれで家具を製作した。それらのものは、いったん集積基地であった川越に運ばれ河川交通を利用して、江戸に運ばれている。

 今では町も、おとなしくなっているが、土日にはハイキングのメッカとしてリュックを担いだ観光客がたくさん押し寄せる。そのコースに、道の駅があり、そこの埼玉伝統工芸会館があるのだ。


裁縫(7月22日)

 今日は展覧会の飾りつけの日である。しかし前に展覧した作品ばかりである。しかし、この埼玉伝統工芸会館に来るお客は、ほとんどが、ギャラリーの隣に併設してある紙漉き(かみすき)工場にその体験に来る観光客である。だから私の展覧会などあることを知らずにくるので、どの作品も新鮮に見てくれるだろう。

 でも、切り絵といっても、余り興味のない人がほとんどである。立地が、埼玉の奥の小川町であるから、そりゃあ知人・友達はなかなか来ない、川越あたりが限度である。

 昨日は本当はのんびりしてはいけないが、久々に裁縫をした。好きな、テニス用のバミューダにパチワークをしたのだ。このバミューダ、着やすかったので大工作業とかの汚れる時にもはいていて、かなり汚れが染み付いているので、その部分を鋏で切り取り、違う布でふさいだのだ。

 これで、またこのバミューダが息を吹き返す。裁縫は気持ちがゆったりする。のんびりしたいい趣味を