日記4
私の正念場第二幕、伊東屋の個展が終わる。
そして、私の切り絵が業30周年の日、そして誕生日。57歳になる。
今回の展覧会も思い出深く収穫のあった展覧会であった。
今日は、私の仲間が出演してくれる、コント仕立ての特別バージョンだ。私が目立たなくなるかもしれないが、私は彼らのファンだから、私も楽しみたいのだ。とっても楽しいことが無料で見られるんですよ。来てくださいね。
展覧会もあと2日。
展覧会の来場の方の中に、林家木久翁さんが、自ら筆おとり「私の友人の展覧会です。素晴らしいからご覧になってください」と書いた展覧会の案内状を持っていらっしゃる方が、3名ほどいた。私が20枚ほど束で送っておいたのだ。
有難いことだ。見習いたいと思う。中に、幼馴染の方がいて、「今年同級会があって、木久翁さんもきて、昔のまんまなのよね」とおっしゃっていた。
あと展覧会も3日、私の展覧会の中で、一番入場者の多い展覧会である。さすがに伊東屋である。
今日は作品完成のため、会場には開店前の10時には入っていようと思う。7日にもう一つの作品を完成したいと思うが、無理だろう。
この歳になって、いろいろアイデアが浮かんで、いろいろなことを同時進行でし始めた。遠くを出来るだけ見て、仕事をしていきたい。
展覧会もあと4日である。昨日は雨だったので、展覧会に人が入らないだろうと思い、仕事をしていた。とてもはかどり、文庫用の下絵が一つ終わった。それもいい作品になりそうなのである。
片手間に、印刷物の仕事をするというのは理想である。
昨日は出版美術家連盟のオープニングに寄った。レオ澤鬼さんや冴月さくらさん・切り絵作家の成田一徹さん・同じくの小宮山逢邦さんとお会いした。
特にレオさんとは会いたかった。
伊東屋の喫茶部がギャラリーの隣にある。そこの常連の80歳の井上さんという方が来る。声が大きく元気な方だ。趣味は紙で、船の模型を作る。
伊東屋へ買い物に来た女性、ついでにギャラリーに来たという。ボストンで、会員誌をやっている人がいるが表紙に推薦しても良いかという。それは有難い。それに、アンチークショップもあるから、そこに紹介しても良いかとも。
たまに行く、銀座のクラブEのホステスが来た。お店で、私が凄い人気だという。鼻の下伸びる。
伊東屋の会長さんの伊藤さん、伊東屋さんだから伊東だと思ったら、伊藤が本名だという。私としばらくお話をしていただいた。腰の低い、穏やかな人だった。会長さんの学友の方の息子さんが、「歌舞伎ギャラリー」という拙書の文章を書いた歌舞伎評論家の方だという。偶然である。
私のいとこが、兄弟3人出来た。続いて、同じ父方のいとこがひとり来た。いとこが同時に集まった事になる。最近、親類の葬式にしか会わないいとこが、こういうところで出くわすのはいいことである。
昨日は、江戸の物売りの「唐辛子売り」という即興切り絵をした。仲間の出月さんの仲間がそのタイトルどおりのテーマで、コント芝居をしてくれた。私は、切り絵製作中だから、見られなかったけど、みんなに好評だったと思う。
私は彼らの芝居が大好きである。私が食われてもかまわない。私がファンだからだ。今度6月7日に、またある。今度は私も見ながら、切り絵をしたい。
この一座を「百鬼丸一座」と命名したい。しかし、この一座をもっと発展させることは出来なのだろうか。とても可能性を感じるのだが。
冷たい雨が降っていた。昨日は花粉症で、耳鼻咽喉科の病院によってから、個展会場に行った。だから、到着は12時を少し廻っていた。
今日は特別バージョンの即興切り絵ライブになる。楽しいひと時をお客さんが迎えてくれればいいんだけど。
昨日、また私の担当の文庫を集めている人が現れた。いや、嬉しい反面、それが私の収入にはならないという(印税契約でないので)のが、とても悔しい思いである。
今年の正念場の第一幕が、「吉田のうどんツアー」だったが、第二幕は「伊東屋での個展」である。
飾りつけも終わり、総力で展覧会に望む。展覧会の過去のような手持ち無沙汰さは今はない。ここで、普段の仕事を公開し、また、2時からは即興ライブをお客さんの前で披露する。
ああこの緊張、その快感を享受出来ればいいのだが。
吉田のうどんツアーのテレビ取材を受けた時の、ニュース映像が手に入った。全体にいい雰囲気で映像は流れていた。それにしても、若いといわれても、私はしわだらけだった。歳をとったなあ。
地元では、私のことをミスター地場産業という人もいる。地場産業に貢献する人という意味だ。本当にその通りの、活動である。
今日は久々に車で山梨に行く。伊東屋での展覧会後の富士吉田の火祭りポスターについての打ち合わせが、富士吉田市役所である。この仕事もB1というサイズなので、過酷な仕事である。
次は甲府に向かって、伊東屋に飾る武田の二十四将の立体作品の引き上げがある。14:00着の予定である。18時には戻り、伊東屋の作品を便利屋・菅ちゃん(飲み仲間)の車に積み込む。
展覧会は即興ライブもあり、Tシャツのサインとか、当然仕事の公開制作もあり忙しい。これから、20日あまり、サバイバルの生活が始まる。楽しみのような恐ろしいような。
昨日の締め切りを一日延ばしてもらった。今日は東京に出るので、ついでに渡して来たい。がんばるぞ。
花粉症が現れた。恒例の5月である。2月3月の花粉症より症状が重くなる。これから、本格的な梅雨までこの状態が続く。軽ければいいんだけど。
なぎら健一の歌のタイトルである。この中に若秩父のまわしが取れたという一説がある。
私が子供の頃、見ていなかったのであるが、そばで姉貴が、若の海のまわしが取れちゃったよといっていたことがある。私がテレビを見に行ったが、そのシーンは目撃できなかった。本当だったのだろうか?
明治になって、相撲取りの髷について議論があったという話を聞いたことがある。文明開化は散切り頭である。相撲取りも、それに習ってということだろう。
しかし、良く思いとどまって、髷を結ったままにしたものである。英断だと思う。
欲を言えば、錦絵にあるように、月代をした(頭のてっぺんを剃った)ファショナブルな人も現れていいと思う。外人の力士で、頭が禿げ上がってしまって、天然月代の人がいて、嬉しい。
琴欧州が強い。このまま、安定した力士になってくれればいいんだが。
過去にも、狂ったように強い時があった人がいた。次の場所はさっぱりなる場合が多い。不思議である。名前まで出てこない。
その中で急に強くなって横綱になった人がいた。琴桜である。この人は、大関に終わる人だと思っていた。しかし、30歳を過ぎて急に強くなって、横綱になった。だから、新聞には「狂い咲き、琴桜」とか、タイトルがあったのをおぼえている。彼の強さは本物だった。
昨年だか亡くなったが、角界の良識とかいわれて、今の相撲協会にはかけがえのない人だったようだ。相撲協会の親方を見ると、目を覆いたくなるほど、おとなしそうな人ばかりだ。元旭国が結構骨がありそうだけど。北の海理事長は、相撲と同じように精神的にもろそうである。
昨日、展覧会の打ち合わせで伊東屋に行こうと駅にいったら、人身事故で電車が走っていなかった。私はたまにしか電車に乗らない人間だが、いつもどこかの線で「人身事故で運休中」なんて表示を見る。
力士の疑問(5月22日)
昔から一つ疑問がある。力士の股間の毛である。私はまわしからはみ出ないように剃っているとみる。
あの背中まで剛毛があった関脇・荒瀬でさえ、なかった。
子供の頃印象的な相撲取りを思い出すと沢山いる。見合ったときのポーズが個性的な成山・なんだかしまりのない顔の三根山・内掛けが得意の琴ヶ浜・巻き替えが得意の鶴ヶ嶺・吊りが得意な明武谷・打っちゃりが得意の北葉山・塩をいっぱい投げた若秩父・黒い弾丸房錦・ジャイアント馬場そっくりの大内山・いぶし銀の栃光
一時期のミクロネシア系の相撲取りが、武蔵丸で陰を潜めモンゴル中心の相撲取りが多くなって相撲が面白くなった。やっぱり、子供の頃から相撲をモンゴルも取っているわけだから、業師がいて面白い。
子供の頃、近所の仲間と外で遊ぶのが好きだった。勿論、スポーツも大好きだった。とりわけ相撲と野球は好きだった。だから、漢字も相撲取りと野球の選手の名前でかなりおぼえたと思う。
私が、小学校3年の時にお寺の境内に先生が生徒全員を連れて行き、相撲大会を開いた。その時優勝したのは私だった。これはかなり自慢の話だ。だから、将来は野球の選手か相撲取りになりたかった。
私は相撲のファンだったが、相撲はラジオで聞いていた。栃錦・若乃花時代からといっていい。その前の鏡里なんかはあまり良く知らない。ただ、私の街にも相撲が巡業に来て、横綱・鏡里が大きなトラックの上で、今ではシャッターどおりの道路を占拠して(といっても、車なんか誰も持っていない時だから、道路を封鎖するなんてすぐ出来たんだろう)土俵入りをしていたのをおぼえている。今では考えられないほどの人だかりだった。
うどんツアーに行った方から、相撲の観覧券があるがいけないからどなたか行ってくれないかと電話があった。
残念ながら私はいけないんで、誰か探そうと思う。
私は相撲が好きである。学生時代に一人で国技館に行ったことがある。3階席だったが、その頃相撲が人気がなくて、例の巨人・大鵬・卵焼きの時代であるから、3階席は最後の取り組みが終わるまで、私一人であった。
今の朝青龍と白鵬のように、強い横綱が二人そろった時代というのはなかなかなかったのではないだろうか。大鵬の時代は、誰もライバルがいなかった。柏戸は横綱になってから、弱くなったし、佐田の山や栃の海は、旨かったけど、身体が小さかった。
北の富士は、ライバルのはずの業師?海が盲腸でなくなっている。その後の輪島・貴乃花の時代を待つ事になる。しかし、ライバルになる貴乃花が、故障で大関時代に精彩がなくなる。次は北の海の登場だが、この人は強いのと弱いのが同居していたから、相撲は面白くなかった。しかし、輪島との一戦は少しは見せ場を作った。
そのあとは、千代の富士・二代貴乃花が見せてくれたが、大型外人横綱なんかの台頭で、技の相撲でなく体力相撲になって行って、私も見なくなった。
モンゴル人ばかりで、情けないが、二人の業師の横綱がいるのは面白い。
うどんツアーの画像がアシスタントをしていただいた麺屋信玄の亭主・佐藤さんから届いた。有難いことだ。
画像数が250くらいあったが、抜粋してこのHPに掲載した。皆さんが楽しかった雰囲気が伝わるだろうか。
HPが重たいが、画家であるから、画像がどうしても多くなる。申し訳ない。
台風が、まだ春なのにいくつも日本に近づいている。台風が来ると、私のアトリエは雨漏りがする。バブル時に作ったこのビルの、ローンが残っていてテナントも少ないことから、お金が掛けられないということで、友人関係にある私に、大家が甘えている恰好で修理をしない。
それはそれとして、台風はいくつかの想い出がある。雨漏りは私の実家が引っ越す前の家では、頻繁にそして、狭い家なのに6箇所くらいは雨漏りしていた。子供だった兄弟3人は、深刻にはなるはずもなく雨漏りを楽しんでいたと思う。
台風で、前にあった柿の巨木(子どもには巨木に見えた)が倒れた根には、たくさんのセミの幼虫がうようよ動いていた。せみも驚いただろう。台風一過の空だった。
台風一過といえばそのあと富士吉田を散歩すると、屋根が飛んでいる家を時々見かけた。
今年も、そんな台風の季節が来るが、地球温暖化で、どんな台風が来るか心配である。
5月31日からの伊東屋の展覧会に向けて、こまごまとしたことが沢山ある。今回は、武田の二十四将を全部一同に見せる。東京での完全版は初めてである。
その完全版を販売することはやぶさかではないが、全部一式で買ってもらわなければならない。だから、高額になる。とても売れると思わない。
でも、私の著書「歌舞伎ギャラリー」の原画は売りに出す。150作もある。それにTシャツもかなり新作を用意した。
私の苦手な作業が続く。
うどんツアーは、皆さんの笑顔で大成功。本当は写真を掲載したいところですが、私がとっていなかったんで後日。
今度は、吉田の火祭り・吉田のうどんの2枚看板でのツアーである。HPを見ている方もご応募下さい。
さあ、当日である。台風のせいだろう、風が強い。雨が降らなければいいけど。
行ってきます。
吉田のうどんツアーではでは、私の展覧会をしている。そして、即興のライブもある。
それらのお膳立ては、私の応援団体「チーム百鬼丸」が取り仕切っている。ありがたいことである。
歳をとると、どんどん固い頭が柔らかくなる。多分一方で固くなっているのかもしれないが。
切り絵教室は、最初と入ってきた人に、いきなり自分で絵を描いてきってくださいと指導していた。私は、誰でも絵は描けるもので、描けないと思い込んでいるだけだと思っていた。
今もその気持ちは変わらない。絵というものが芸術というような領域のところまでのことを考えているから描けないんで、漫画を描く気持ちになればなんとか描けると思っている。
それでも、漫画を描くということへ頭がシフトチェンジするまで時間も掛かる。
それで、作った切り絵が即飾れて、嬉しいという形をとり始めている。切り絵をいろいろなグッズにデコレーションしてに、グッズを完成させるのである。
この実験は、吉祥寺の教室で先日やってみた。生徒もいい表情をしながら、作品作りをしていた。
私もどんなものが、切り絵に利用できるか、模索しなければならない。
最近、若い頃に比べるとアイデアがいっぱい沸いてくる。若いときにはつまらない常識とか、こだわりがあって、自由な発想が生まれてこなかった。
これからが楽しみだ。
忙しい日程を過ごしてきた。7日の20時に甲府小田切邸についた。しかし、とても疲れていたらしく歓迎のお酒も入らない。奥さん、すまない。
翌日、小田切氏と早朝テニス。
小田切邸を出て、情報プラザの武田二十四将の立体切り絵作品の展示場を見て、作品が無事なのを確認して、レストランでちょっと仕事。そのあと、何人かの方と打ち合わせ、そして、甲府の吉田のうどんを食べに、ネオスペースという会社の方々、「旨い房」という店に行った。
何か消防の人がうろうろしている、稀有な光景である。そのうどん屋さんの隣はくすりのチェーン店である。うどん屋の店主が出てきて、そのドラッグストアーの店長が、車の中で、流行の自殺をしたんだと告げてきた。今死体が運ばれたばかりだとか。
薬局だから、いくらでも、薬品は手に入る。日本全国子の様子だと、頻発している自殺なんだろう。
昨日は、風がやんでから川越・土金に行ったが、3時頃から風が出てきたんで、引き上げてきた。
商品は飛ぶし、風は天敵である。切り絵の仕事は切った紙が飛んでしまうんで出来ない。さて、今日は鶴ヶ島教室が終わったら、甲府に向かう。
初めて使う川越から甲府行きの高速バスである。2200円と安くて便利だ。
東洋大学工学部OB戦(ダブルス)が昨日おこなわれた。OBが20人くらい来た。現役も20人くらい。
現役が運営する大会なので、何ともいえないが、試合の参加が全員ではなかったのが残念だった。試合に出場チームは、9チームだった(午後から来た10人のOBは試合に参加せず)。
それで、優勝したのである。私のペアがうまい人だから優勝できた。
今日は晴れましたね。土金に出かけましょうか。風がやんだら。
今、川越の土産品店・土金で切り絵の公開制作をしながら、Tシャツを売っている。
昨日の人では、凄いもので、蟻の行列のように歩道がなっていた。私は看板を作ってあるんだが、その文句が「時代小説の文庫本カバーでおなじみの」と大きく書いてある。
しかし通る人はその看板を見ているのかどうか、大きな文字なんで見ているとは思うがあまりに反応がない。このことは皆、小説なんて読んでいないんじゃないかと思わせてしまう。
きっとそうなんだろう。
Tシャツの案内をしながら、切り絵の公開制作をしていた私の前に、若い女性がにこやかに現れた。そのにこやかさが、とても親しげで、「私を知っているんですか」と思わず言ってしまった。私を知ってはいないという。とても笑顔の素敵な若い女性だった。
印象に残った。忘れないだろう。
久々の巌流島(5月3日)
巌流島に行って来る。今夏は長期の滞在になりそうだ。小次郎と何回切り結ぶのか。
今日は雨だそうだから、川越・土金に行くことはないだろう。
Tシャツを売っていると、意外に地元の人が買って行くことがある。その理由は、「外国に行くので、手土産に」である。そんなに値のはるものでなく、日本らしい情緒が感じられるものがいいようだ。だから、Tシャツはちょっと高価(\2800)であるらしいが、意を決して買っていく感じだ。
テニスのうまい連中の半分くらいが、独特の顔つきをしている。自分はうまいんだぞという。それに、下手な人と交わろうとしない。とても感じが悪い。
そんな連中が、練習が終わってクラブハウスに集まっているが、会話もなく、あってもまるで面白くない。
いつも私がやっているあんまりうまくないご隠居さんたちとの会話の方がずっと面白い。
人との交流がどれだけ大切か、彼らは気づいていないんだろう。
朝の連ドラの来年の前半の舞台が、川越であるという。昨年の、山梨といい、私の関わるところがドラマの舞台になる。
きっと、撮影現場を川越でTシャツを売りながら眺めることだろう。それにしても今でも凄い人なのに、来年はどうなっちゃうんだろう。
今日も、川越・土金(つちかね)で、Tシャツを売っていた。仕事しながらであるが。
川越・土金はいわゆる、川越に蔵通りにはない。建物は立派な蔵であるが、本川越駅から間もないところにあり、蔵通りに行くには直線であと300mほどあるかなければならない。
だから、午前中の客というのはほとんどない。何故かというと、その観光の中心に早く着こうとする客ばかりだからだ。それがわかった。
そして、土金の買い物客が来る一番忙しい時間が、4時前後であることがわかった。それは見物が終わって、ゆっくり帰ってきて、お土産を買い足りない人が足を止めるお店だったのである。
そんなに売れたわけではないが、私には満足の売れ行きであった。皆、Tシャツにサインしてということで、サインした。しかし、Tシャツをサインし終わった時に、Tシャツをたたむのが精神的に重労働である。たたむことに慣れていないからである。
これにさらに、お金をいただこうとなれば、計算間違え必死である。だが、お代は、店の女将の領分で、ひと安心。
昨日90ccのバイクで上野原に行ったのだが、ジョイソーランが8時まで掛かり、暗くて寒いのでホテルに泊まった。入ったらすぐに電話があり、打ち上げをしましょうという誘い。3時まで、臼井さんご夫婦とスタッフの方々数人と飲みながら話をしていたが、私はもう2時ころにはこっくり。
6時まで寝て、帰って来た。10時半に川越の公開制作をして午後4時に帰ってきたでした。眠い。
よさこいソーラン(ジョイソーラン)はすさまじいエネルギーの塊だった。吸い寄せられそう。
今日は私が4年ほど住んだ、上野原市のよさこいソーラン(正式名ジョイソーラン)の審査員を務める日である。百鬼丸賞というのもあるのだそうで、どんな展開になるのか楽しみである。
私が住んだところであり、ラーメン屋さんの出前をしていた関係上、結構私を知っている人はおおいんだと思う。
昨日は、10月からおこなわれる埼玉伝統工芸会館での個展の打ち合わせに行った。電話があったからである。勿論あちらから来るということだったのであるが、私にその途中にある都幾川村(今は町)に用事があったから、私のほうから行ったのである。
昨年は、コント形式で埼玉の民話を役者の方に演じてもらい、その後ろで私が即興切り絵をやって見せたのだが、今年は、全国からの公募で、切り絵をつのり、それを灯篭に貼り付けて灯りにし、それを審査するというイベントを開く事にした。その打ち合わせである。
この日記を読んだ切り絵作家の方、是非応募していただきたい。50人で締め切りである。副賞は私の切り絵をはじめとするグッズである。
明日ある吉祥寺産経学園の切り絵講座の生徒が一人増えたそうである。
はじめたのが今年からだが、3ヶ月ずっと一人だけだった。それも元々私の生徒だった人である。
それで、4月になって何といっぺんに3人が入って、合計4人になった。10人位にはしたいが、それでも私は赤字の領域かもしれないから、本当はもっと増やしたい。20人くらいになったら嬉しいなあ。
しかし、教えるのが難しいですね。
7月19日〜8月3日まで鶴ヶ島の中央図書館で、個展と仕事の公開制作が決まりそうである。もう5年ぶりくらいの個展である。
何回か展覧会はしているが、一階は全国でも1・2を争う貸し出し冊数の多い図書館で人が多いが、2階の展示場は、すこぶる人が上がってこない。何とか一階の客を二階に上げるというのが、図書館の課題であると思う。
私も今回で4回目の鶴ヶ島での個展である。今までの3回の個展も、惨敗であったといっていい。
だが、前3回は図書館単独で宣伝はいまいちであった。個展であり、今回は市長の直属の展覧会であるから、市の広報などの宣伝活動や教育委員会のバックアップをお願いしたいところである。
私の知名度も少しは上がっていることだろう。
私は海外で展覧会をするのが一つの夢である。日本人とは、私の切り絵は受け方が違うと思うからである。
これまで、切り絵作家として、出版界でデビューして、すいすいと渡ってきたが、売れっ子といわれながらも、出版という小さな枠の中から出られず、今日まで来て、今、私が展覧会を始め、いろいろな場面に私自身が登場しようとしているのは、そんなきっかけを作ってくれる人との出会いを求めてである。
だが、そんな気持ちで始めた「表出(おもてで)」ではあるけど、いろいろな人との出会いがあり、活動が生まれている。とても幸せで、これで終わってもいいかなと時々思うのである。
アトリエの道路を挟んだところに大屋さんの駐車場がある。そこの駐車場には空きがある。そして、その道路にはスーパーもあり、鶴ヶ島で一番人が通る道路であるが、車があまり通らない。
前から、やってみたいと思っていたが、この駐車場で、切り絵の公開制作とTシャツ販売をしてみたい。川越は土日に、平日は鶴ヶ島で。
昔いた、タバコ屋のおばあちゃん風に出来たらいいなあ。
百鬼丸が売ってくれる2
客の中には(4月20日)
Tシャツを買っていったご婦人が、「本を沢山読んでいる、それも時代物」といったので、「私は本の装丁を沢山しています」といったが、プロフィール等をまだ用意していなかったんで、まるで信用しないようすだった。
「文藝春秋新社に、オール読物と雑誌があって」というんで、新社は付かないですよといったら、私が雑誌の文藝春秋のことをいったと思って、それは「文芸春秋という雑誌の名前でしょ」といって曲げない。オール読物を購読しているというので「オール読物の連載をしている」と伝えたが、もう、耳はどこかに行っていた。
最後まで話がかみ合わなかった。とても悔いが残る。明日はプロフィールを用意していく。
さて、作り始めたTシャツを、川越に切り絵の元弟子の店の前で、私は普段の仕事をしながら(公開制作)売る事にした。土日は出来るだけそのようにしようと思う。
着物を着て、マイクを付け、客の相手をしながら仕事をする。
「百鬼丸が売ってる」というと落ちぶれた感じがするが、「百鬼丸が売ってくれる」と皆が思ってくれるようになったらいいなあ。
私が住む鶴ヶ島の奥のほうに都幾川村というのがある。そこの建具屋さんに額の部材を、作ってもらっていて、たまに都幾川村に行く。
その建具屋さんに近くに農協がやっている農産物センターがある。とても安いし、鶴ヶ島のスーパーでは見られないような野菜や木材製品がおいてある。
今頃は竹の子とかが置いてあるんだろう。先日行った時にはせりを売っていた。春は、新芽が出る。
私もつられて、心の新芽が出てしまいそうな、そんな大好きな季節である。
昨年から、作品をTシャツにして売り出し始めた。私の昨年の山梨での、活動の一つの収穫でもある。Tシャツプリントの会社が、私のブレインになっているのだ。
これからの展開が楽しみである。
いよいよ吉田のうどんツアーまでに一ヶ月と迫った。43人となり、もう締め切ってしまったが、キャンセル待ちが一人出来た。
うどんを食べる場所もチーム百鬼丸が決めてくれた。バスの経路も確定した模様である。その日いい天気で冨士山がながめられたらいいなあと思う。後はガイドの私の才覚しだい。
成功を祈る。
昨日、東洋大のテニス部の後輩が来た。連休中に、東洋大工学部のOB戦があり、その通知をするための会報を作るためにである。
OBの住所は私が管理しているため、新しいOBの住所の入力をしてもらった。
話もしたが、昨年は強くて理工学部連盟に大会で2部に昇格したが、どうも今年から弱体化するらしい。それに、内部の雰囲気が悪い様子。
主将が頑固者でその暴走が部で問題になっているという。
若いのに頑固一徹というのは、若者は、みんな憧れるものだが、今思えば、何も経験もしてこなかった若い時期に、凝り固まった考えをしているということは、柔軟性がないといったほうが適格だと思う。
4月5日に木久扇さんの落語を府中に聴きに行く予定で、チケットをかったが甲府に行ってしまったんで行けなかった。
次の木久扇さんのスケジュールをHPでしらべたら、12日土曜が甲府になっていた。他に息子さんの木久蔵さん、三遊亭小遊三さん、春風亭小朝さんと豪華メンバーである。
最新の私がお気に入りのTシャツを手土産に、高座が行われている文化ホールに会いに行った。息子さんと小朝さんは初対面である。小遊三さんは同郷の先輩であり、旧知である。息子の木久蔵さんに木久扇さんが私のことを説明していたが、木久蔵さんは私のことを知っていた様子であったが、「玄関に飾ってある切り絵の作者の百鬼丸さん」と紹介していたから、玄関に私の絵が飾ってあるんだと、嬉しくなった。
小朝さんは私の姿を見ると、吹き出しそうな顔をしていた。何でだろうなと思いながら、Tシャツを手渡した。
私が和服の書生姿でいったし、いつものバンダナと袴は股立ちをしていたので、面白かったんだろう。小遊三さんは「よお!」と迎えてくれた。次の仕事で帰り支度をしていて間に合ったのがよかった。
とにかく、皆さんに無事に渡すことが出来た。
昨日は全ての日程をこなして、帰ってきた。浅草でやっている切り絵作家の福井利佐展は、週刊文春で未だにひどい挿し絵をしていることから、ちょっと予想していたのだが、人気先行である。
作品については私のライバルではない。
週刊文春で、顔が引きつってでも、人物画をしていかないと彼女の作品的未来には、希望はない。
今日は今から甲府に行く。明日夕方に帰ってくる。
今日は午前中に鶴ヶ島の教室がある。昨年、缶詰だらけで生徒が何人かはなれてしまって、生徒のに人数は少なくなってしまった。今日は情けなくも1人である。
そのあと、私は浅草に向かう。切り絵作家の今注目の福井利佐の展覧会に行くのだ。行くつもりはなかったが、飲み屋のあんちゃんに「行ったほうがいい、何かが生まれる」なんていわれたものだから、それにしたがっていくのだ。
福井さんがいれば、名乗ろうと思うが、向こうが私を知っているかどうかわからない。説明するのも、情けない気がするが。だが、私にとっては歴史的行動である。
そのあと、浅香光代さんのところを訪ねて、
そのあと、吉川英治賞のパーティに顔を出すつもりだ。
そのあと、は未定である。すんなり帰るか?
うどんツアーが43人になった。もう後2人でバスが満員になる。どこのうどん屋さんが受け入れてくれるのだろう。
私の応援団「チーム百鬼丸」が、何とかやりくりしてくれると思うけど心配である。
このツアーについての取材が山梨の朝日新聞からあった。
昨年9月の襲名披露パーティでお会いした木久扇師匠。12日に甲府の文化ホールにHPを見たら、お仕事で見えるようである。ほかに息子さんの木久蔵さん・山梨県生まれの三遊亭小遊三師匠・春風亭小朝師匠が来ている。
私も当日甲府である。展覧会があるので高座は見られないが、何か差し入れしたいものである。小遊三師匠も、ちょっと友人である。
木久扇師匠の落語公演は4月5日に、府中であったので見に行くつもりでチケットを買っておいたが、甲府の展覧会が急遽入って、見にいけなかった。

昨年の信玄公祭りの前日、私は風林火山博のブースで仕事をし終え、一階にある松村酒販のカウンターで、現在マネージャーをしている小林と酒を飲んでいた。
すると、美人の女性がカウンターの横にある酒の棚を物色しているのであった。私は、人の顔のおぼえの血の巡りは卓越してよく、その女性がテレビのレポーターをしている人だと人目でわかった。ただ名前がわからなくて「佐藤さんですよね」といった。それでももし間違ったら、と思い「テレビに出ている」と付け加えたら、「伊藤です」と帰ってきた。
その笑顔と同時に、私と小林の間のカウンターにするりと入り込み、彼女は我々と飲み始めたのであった。
彼女は現在でも4チャンネルの「ズームイン朝」にレギュラー(もうかなり長いレギュラーをしているから、とんでもなく人気のレポーターなんだろうと思う。私もファンであった。)で出ているから、ご存知の方もおおいと思う。
それから2次会に行き、3次会は山梨の広告会社の打ち合わせに乱入して、どうも雲粋が怪しくなって退散した。
その後、昨年の銀座の草鞋之会に顔を見せていただき、今回は昨年同様、信玄公祭りの生ナレーターとして信玄の家来たちの紹介をしていた。それで、私は4月5日のナレーションブースに挨拶に行ったのだった。
次の日彼女が私の展覧会スペースに現れたが、昨夜「しっかり飲んだ」の相をしておった。
この上野原時代に初めてテレビに出ている。生放送だったと思う。朝の番組で、スーパーの忠実屋(現ダイエー)前で、切り絵の実演をしてコメントするというものだ。とても緊張して、本番は声が小さくなってしまった。ローカルのNHKであった。録画したのがベーター形式だったので、その番組は見ていないが見たくない。
それから、上野原で出前をしていて、配達先のお宅を中まで入らないが、何をしているうちかというのがわかり、絵を描いたりしている人に声を掛けて、上野原でグループ展なんかもやった。このグループ作りというのは、富士吉田でもして、同様に団体展をしている。
現在私が作った、草鞋之会というのもそののりで作ったわけだ。
私はたいがいの絵描きには追いつくだろうと、なめていた時代であるが、ある時上野原駅に張られた観光ポスターが目に入った。金沢の観光ポスターだった。5枚くらいで一組の豪華なものだったが、金沢の風景写真の前面に、人物イラストが黒いタッチで描かれていた。
この絵のはショックを受けた。私が、いつまでたっても、それを描いた人に追いつかないだろうと思ったからだ。それが、後年、草鞋之会で仲間になる西のぼる氏である。
一番の収穫は、武田の二十四将のシリーズの次のシリーズを始められたことだ。
展覧会場で、机を置き、公開で下絵をかき始めた。最初は、物売りの女たちを描いていたが、後から出来上がって売り始めたTシャツを見るにつけ、Tシャツに堪えられるテーマということで「花魁のシリーズ」をすることに変更した。
10月までに10点出来ればいいほうだと思う。
新しく出来たTシャツの出来はとてもいい。うれしい。
4月7日に帰ってくる。1日には美人画「江戸・物売りの女たち」の下絵をかき始めた。20人くらいのスケッチを残したい。これは希望的観測であるが。

昨日は昔作った作品の撮影をしに川越の中山スタジオに行った。川越は春祭りで、一番観光でにぎやかな蔵通りが歩行者天国になっていて、渋滞でやっとスタジオに着いた。
この中山スタジオは、いつも文庫本の撮影をしてもらっているお店で、主人の中山さんはすこぶる腕がいい。だから、あまり指示しなくても、いい撮影をしてくれる。
1週間くらい前だろうか。朝日新聞の全国版に10センチ×10センチくらいで彼の記事が載っていたようだ。彼の作品が認めれれてニューヨークのギャラリーを始め、ヨーロッパ各地で巡回でギャラリーを廻っているというものだ。最近では珍しい話である。
彼は元々、新潮社のフォーカスのカメラマンをしていたという。フォーカスが終わって、川越の地にスタジオを持ったようである。いつも無理をしてもらっている。
あわただしく山梨から帰ってきた。甲府の展覧会は武田二十四将と信玄と由布姫を入れて26作のうち18作を展示した。
今回は飾り付けをしてくれる人がいるのかと思ったら、自力の展示であった。一人で、飾りつけたが意外に早く終わった。
飾った後我ながらいい作品だなあと改めて思った。幸せな男である。
そのあと富士吉田の切り絵教室に臨んだ。昨年から始めた市の切り絵教室の最後の日であった。
また4月に募集があり、第2期の教室が6月から始まる。1期生が何人か残り、また新たな人が入ってくる。また新しい出会いが始まる。
今回は車で行ったが、初めてETCを導入して高速を走ってきた。高速料金の早朝割引が心いい
今日の足取り(3月29日)
今日は山梨に行く、まず富士吉田に行きチーム百鬼丸の朝のミーティングに出る。
それから、甲府に行き4月1日から始まる展覧会の飾り付けに行く。
その後富士吉田に戻り、切り絵教室の講師をする。
昨日は鶴ヶ島市長とお話を3時間ほどした。とても気さくな方で、こちらも話しやすかった。図書館での書籍カバーの切り絵公開制作及び1月ほどの展覧会が決まりそうである。
これで、今年一年が展覧会で埋まった。
Tシャツ用のイラスト
頼まれて、フラダンスのサークルのTシャツのイラストをした。放って置くとこのイラストのような可愛らしい作品を作る。
重々しい時代物のイラストは、私がやろうとして始めたわけではない。そのような仕事が出版社からいっぱい舞い込んでくるようになったからだ。
きっともっと違ったところで仕事をしていたら、このイラストや火の玉小僧のような可愛らしいキャラクターを作っていく切り絵のイラストレーターになっていただろう。
さらにもっと早くにイラストをしていたら、漫画家になっていたのかもしれない。
鶴ヶ島の弟子がアシスタントに毎日来るようになった。一人の時もあるが、多いときは4・5人になる時もある。そのくらいの人数になると、何を手伝ってもらおうと考えて、こちらの仕事が手に付かなくなることもある。
きっと慣れてくれば、放っておいてもよくなるのだろう。
世代も同年前後で、私の気持ちはとてもいい状態である。
甲府で個展をする事になった。場所は風林火山博のおこなわれていた、県民情報プラザ1階である。9mの壁面を武田二十四将で飾る。私は、仕事を持ち込んで、期間の半分くらいの日数会場にいたいと計画している。
会期中に会場にいるときは1時半には即興ミニライブもしたいと思っている。
何とか甲府の街に華を咲かせたいと思う。
今年はひどい。例年私の花粉のピークは5月なのだが、もうそのピーク時と同じくらいの症状が出ている。
私の場合強く鼻をかむと、右の鼻の穴から出血をしてしまうので、始末が悪い。
バイクを運転するとハクションを連発。だから昨日はバイクで出たとき、マスクとゴーグルをしたら、症状も出ず凄く楽になった。
これから、完全防備で外出しよう。
今年の6月7日が切り絵を初めて30年である。切り絵を始めたのは焼き物修行に行った愛知県の常滑。26歳で、やったこともない(その前の準備として、東京・中野の区の焼き物教室に3ヶ月ほど行った)陶芸の、作家になろうと常滑に行ったのである。
しかし、常滑の同年の焼き物作家はすでに独立し、先生と呼ばれる人が何人もいた。私はこの人たちに追いつくには、まともなことをしていたら駄目だと思い、何とか付加価値のある焼き物を作れないかと考えた。
それが、子供の頃得意だった版画を焼き物に応用することだった。粘土を紙状に薄く切って、それを切り絵のようにある形に切り抜き、皿とかにのせる。そうしたら、変わった焼き物が出来るのではないかと考えたわけだ。
だけど、切り抜く絵というのが次々と頭に沸いてくる。これは何とか切り絵にして保存しておかなければならないと紙をナイフで切り出したのである。
これが私が切り絵を始めるきっかけだったのである。そんな30周年がもうすぐ来る。
相変わらず吉祥寺の産経学園の生徒は一人なんだろう。今日が教室の日である。のんびり吉祥寺の町を歩いてきたい。
ところで、グッズを沢山作っている。今までやってイラストをTシャツにしたり、バッグにしたり。
初めてエクセルで商品管理をし始めたが、それをしていると時間を忘れるくらい面白い。いじっている間に今度はどんな商品を作ろうとか考える。
川越に私のグッズ専門に置く店がそのうち出来そうな気がする。そんな空想を浮かべている平和なひとときである。
その内に商品を画像で紹介する。
ラーメン屋の天龍でのバイトは3時まで、それから帰って切り絵をする。天龍の隣は本屋さんで、学研の創刊2号目の「ボム」という雑誌を買って、切り絵を応募したことがある。ユーモアのあるイラストを募集していたのだ。それで、2等とか入選とかに3回なった。応募したのが全て当選した。賞金が確か3000円から5000円だった。
それが始めて私の作品が印刷物に載ったものだった。
東京の出版社にそこから売り込みに行った。確か上野原に来て、半年くらいだったかもしれない。講談社とか本当にいっぱい売り込みにいった。
講談社は文庫編集部に行った。みんな黙々と仕事をしていて、私の絵を壁にならべて、数珠繋ぎに作品を見てまた机に戻って仕事に入るという冷めた見方をされた。誰一人いいといわなかった。案の定、作品に磨きをかけてまた来てくださいという。
光文社、青春出版社 大和書房にも行った。
その日の最後はJTBの旅編集部だった。もう暗くなっていた。他の出版社に比べるとちょっと和やかな感じがした。
その時に、現在新潮社で辣腕を振るっている石井氏もいた。私と同年で、後々ミステリー作家になる折原一氏は2年後くらいに旅編集部に入ってくる。
私は、この営業で、初めてのプロデビューのきっかけを得たのである。
今日は東洋大学の工学部のテニス部と教職員とOBのテニス大会であった。しかし雨で流れた。
もともと教職員と現役の大会はあったのだが、教職員テニス部の高齢化と人数の減少で、私の進言で3年前にOBも入るようになった。教職員も社会人になったOBと久々に会えるから、現役よりも話があっていいようである。もっと早くから参加すればよかった。
工学部のテニス部というのは、どこの大学でも強くはない。私のクラブも、その工学部の中でも、強豪とまでは行かない。その下のクラスの上位といったところか。
理工学部連盟という組織があって、そこで運営する大会が、我々現役のメインの大会である。そこでの定位置は3部であり、そこから上に上がったり下がったりしている。1部に上がったことはないはずだ。
しかし、昨年は初めてその連盟の個人戦ダブルスで優勝をしている。優勝するというレベルはとてつもなく上級である。それに、団体戦は3部から2部に昇格した。
残念ながら、監督がいないので、いろいろなことが学生の判断でやっている。気ままにやっている彼たちの欠点は、うまい選手が現れても、その技術が後輩たちに伝わっていかないことだ。
その優勝した選手に聞いたら、やはり、後輩たちはうまくなっていないという。もう何年も繰り返されてきたことだ
切り絵ライブを初めて5年くらいになるだろうか。最初は下絵をかかずにやった。
何作かあとに下絵をかかないとダイナミックな絵が作れないと気づき、下絵から書き始めた。
最初はB1という大きな作品を40分くらいで作っていた。
2年前に、しゃべりながら制作するようになった。
だがショーとしてはいいが、欲しいが作品が大きすぎて買えないという人が現れた。
売れると思っていないから、売るつもりはなかった。
小さいものも始めた。作品を買う人が現れた。驚きだった。
先日の横浜では10分の切り絵もいいなあと思った。
小さいものだったら、立って画板を首から吊るして切れる。
最初はこんなにライブが発展するとは思わなかった。
この小さい切り絵で、街に出たい。

横浜の展覧会でやった即興切り絵、A3サイズ10分で下絵から制作。この作品は一番最後にやった作品である。やはり最後との方が出来がいい。前の作品を知りたい方もいると思うが、また次に。

2泊三日で、新横浜のソシア21という結婚式場での個展とライブに行ってきた。結婚式場で、宝石の会員向けの販売があり、それにあわせてのイベントだった。
グッズもそろえ、火の玉小僧の評判がよくて、良く売れた。いつもどおり楽しく過ごすことができた。
今回のライブはリクエストをもらって10分くらいで終わるものを作った。明日、作品は掲示する。
明日から、横浜の結婚式場である会員のための、宝石フェアのサブ会場で、個展と即興ライブをする。どんな人がくるのかわからないから、楽しみである。
展覧会は武田の二十四将の原画と火の玉小僧の原画、そしてTシャツも新しい商品をそろえた。Tシャツについては、5月の伊東屋の展覧会に向けて、ラインナップをかなり充実させてそろえるつもりだ。Tシャツは多分かなり、日本でも魅力的な商品がそろうはずだ。
愛知県の常滑で切り絵を初めて、1年間で戻ってきた。どこを住処にするかという事だったが、お金を持っていなかった。だから、八王子・高尾あたりを探してみた。それでもやっぱり高くて駄目だった。それで、中央線を下って、いいアパートを見つけたのは上野原だった。
上野原時代2
上野原のアパートというのは、中央線を下ると上野原駅の手前500mくらいで、全くの線路沿いの、今でもある真黄色のブロックの建物だ。
ここは6畳と4畳半と台所と風呂が付いていて、18000円だった。駅から近くてこんなに安いのは、上野原の繁華街は駅のずっと高いところにあり、駅付近は不便なところであるかららしい。
でも、東京に頻繁に営業活動をするにはもってこいの場所であった。
上野原時代3(3月10日)
アパートも決まり、上野原に来て最初にしたのは、いささか道具を持っていたので「何でも屋」だった。といっても隣の相模湖の町をパブリカで廻って、屋根がさびさびの家を見つけて、屋根塗りますとか訪ねて行ったりした。だけど、料金の事を聞かれるとさっぱりわからなくて、素ででもないわけだから、そんなことは長く続かず、手っ取り早くラーメン屋の出前のアルバイトにしたのである。
上野原時代4(3月11日)
出前というのは、町中を走るのであるから、街の地理には詳しくなる。だから、上野原の町のことを知るのは役に立った。
まず、朝8時半にラーメン屋天龍に出勤する。そして、昼夜出前を取ってくれたところに車で、皿の回収に行く。当時この天龍は上野原一、出前が多かったところだから、回収する量は多かった。
全ての皿が回収し終わると、それを洗う事になる。
一つ、回収の時にアクシデントがあった。たまに出前をしてくれる若夫婦の家があった。昨日の出前の皿はその朝出しておくというのが、私たちの暗黙のルールがあった。ところが、出してもらってなかったのである。私はうっかり、そのうちが親しい家と一方的に思っていて、奥さんがいたが皿を出していないので、許可もなく家に入り持って来ちゃったのである。あとから、クレームが来た。
きれいな若い奥さんだったし、自意識過剰になるのは当たり前だし、田舎の乗りで入ってしまってこちらが一方的に悪い。
出前をくれる一番遠い場所にあるので再びの回収が嫌だったんだろう。
上野原時代5(3月12日)
出前で一番嫌な天気というのは、みぞれだ。とにかく冷たい。雪は服にまつわりつかないからそんなに大変じゃない。雨も嫌だ。確か、バイク用のチェーンてのがあって、雪の日はやった気がした。
雪がふり終わった直後というのはとてもきれいだ。景色が全て無彩色で。新緑とか紅葉と同じようにきれいだ。そんな景色を眺めながら、皿の回収をのんびりしたことがある。
でも、この景色というのは貴重な景色で、次の日には山の枝から雪が落ちて、直後のきれいさはなくなる。
今日から山梨県の田富町図書館で個展である。私はそちらには顔を出さない。全て、富士吉田の私の援護団体「チーム百鬼丸」がやっている。
この展覧会を企画していただいたのは、会田さんという方である。ながねん山梨の方で教員をされていた。確か吉田商業高等学校で校長をされて退職されたようだ。
この会田さんの奥さんというのが子供の頃住んでいた富士吉田の仲町の隣の家の幼馴染である。
この会田さんの実家は山梨の上野原市であり、私が切り絵のプロデビューする前にバイトをしていた中華料理屋「天龍」から10mくらいしか離れていない出前先であり、よく配達してお話をした。その時に、息子さんと幼馴染が夫婦になっていることを知り、ますますお話をするようになった。
私がお会いした頃の会田さんのお母さんは、今の会田さんの年齢より下だろうから、それ以来お会いしていない会田さんのお母さんと会田さんを思い出すと変な感覚になる。
どんどん日が過ぎていく。暖かいのは助かる。目が今年は特にかゆい。例年は5月がピークなのだが、その頃と同じ症状に今なっている。

有楽町を歩いていたら、人力タクシーを見つけた。とてもオシャレであった。
10:00伊東屋展打ち合わせ(銀座) ○15:00ブライダルステージ ソシア21に行く(横浜) ○18:00大衆文学研究会出席(飯田橋) ○19:30アルク出版企画に行く(飯田橋)
東京行きに、いろいろな用事をいっぺんに済まそうとするとこうなってしまう。
3日前に、軽いぎっくり腰をしてしまった。
飲み屋のママが、店の前にある整体院に通っているというので、そこに行ってみた。
そしてその整体院に入ったら、以前に掛かった整体院の中国人の女性が受付をしていてぎょっとした。
鶴ヶ島には、最初に一緒にやっていたが、仲が悪くなって分かれた2つの中国人整体師グループがある。
私は通っていた整体院に居座っている中国人の整体師のほうに通ったのであるが、この人がとても胡散臭くて、出て行ったほうに行ってみたことがある。そこで治療をしてもらった直後、カード会社から電話があった。「立川で15万の買い物をしましたか」という問合せだった。
「鶴ヶ島では○○整体院というところに行った人が、被害にあっていますが、そちらに行きましたか?」という。
私はその整体院で被害を受けたのである。確かに治療した場所と衣類の部屋は違っていた。
それで、そこには二度と行かなかったが、その治療院が名を変え引っ越して、昨日私が行った整体院になっていたのである。
その時の院長は半年前に亡くなったそうである。また、昔と違いとても広くきれいで、たくさんの日本人整体師がいて、客も多く、衣類も治療のベッドの下であったし昔のようなことはないだろうと思った。勿論中国整体であるから腕はいい。それに安い。当分通う事にする。
安部龍太郎という作家がいる。彼は私よりいくつか年齢は下である。
彼を組んだ週刊新潮の小説「血の日本史」は、彼にとっては2回目の小説掲載が週刊誌の連載という幸運なスタートを切った人である。
もう一つ幸運だったのは、この小説が最初は青山攻さんという作家がやっていたのであるが、仕事の関係で13話で連載を降りてしまって、そのあとのピンチヒッターということで安部氏が担当する事になったのである。
それまで端正な原稿だったのが、安部さんの原稿は直しが多いそれまで見たこともない余白のはずの部分に文字がいっぱい付け足してある原稿であった。また同時に私が笹沢左保氏とオール読物で連載していた「宮本武蔵」のこれまた誤字のない端正な原稿に比べれてこれまた相対にある原稿であった。
それはともかく、この連載で、彼は大きく育ったようである。それからというもの次々に作品を発表してきた。
今度の小説スバルで私と組む事にしたのは、作家生活後半のスタートにあたって、「初心に帰って」という意味で挿し絵を私に頼んできたのである。

ママと
志茂田景樹氏と
北方謙三氏と大沢在昌氏と
森村誠一氏と
だいぶ酔っ払っている。
鬼丸というなの歯医者が、私のアトリエから100m近くにある。今までは、バイクに乗っていった歯医者であった。しかし、この鬼丸歯科という名前がどうも気になってしょうがなかった。
歩いていける歯医者だし、予約は20日前にしておいて、今日がその日である。さて、どんなお医者さんなのだろうか。
それから、サンデー毎日の表紙をしていた頃である。見知らぬ方から電話があった。「あなたは静岡県の百鬼村のご出身ですか?」。調べたら、あった。そこの出身者だという。
埼玉に居住している芸人の集まりを作っている。今のところ少人数だが、もっと増やしていきたい。何をするのかまだ明確ではないが、さしあたり集まって飲むことである。
子どもの頃、豆腐を買いにいった。豆腐屋さんにである。だいたい500mくらいだろうか。500mというのは小さな子どもには遠く感じた。
鍋を持ってである。
いつか、ブルーの豆腐が一つ入るビニールケースに入れてくれるようになった。家では、もったいないとそのブルーのケースをいっぱい取っておいた。でも使い道がないんで、いつか母はためるのを止めた。
このころから、ビニール袋類が巷にあふれ出した。
昔はゴミが全然でなかった。紙類は風呂のたきつけにした。きっとかまどと風呂で、たいがいのごみがここで燃やされたからだろう。そういう意味ではゴミがなかったわけではないのかもしれない。
先日、ドイツのCO2の削減のレポートをNHKでやっていた。ドイツは徹底的に、自然エネルギーを活用し始めている。ゴミも全然出さない。
それを見たものだから、昨日の日記のように、学生運動した世代が、これからドイツのようなことが出来るのか疑問を思ったのである。
ユーチュブに新宿騒乱の動画があった。
ちょっとしたファッションで参加し、いろいろなものを破壊して行った学生たち。学生運動がどれだけ、善の方向に寄与したかはわからないが、世間知らずで、独りよがりで、楽観的で、鈍感な彼らの世代が、温暖化しつつある地球のために何かをするはずがない気がする。
でも、私もその時代の人間だったら、同じことをしていたはずだ。
昨日、弟子の勧めでユーチューブを覗いてみた。凄い動画が満載だった。
私はもっぱら好きなフォークソングを見ていたが、画像ばかりでなく歌も出ているわけで、これでは歌手の方々も上がったりはしないかと心配になってくる。
暖かい。日が伸びてきた。景色が明るい。
春は一番好きな季節だ。
希望がわいてくる。
冬を通り抜けてくるから、余計にそう思うんだろう。
でも、昔と違うのは花粉症があること。
私の花粉の最盛期は5月だ。
でも、今頃から始まる。
いい春を過ごしたい。
明日は直木賞のパーティである。もうなじみの人がこの賞を取るということがなくて、私よりだいぶ年齢が下の人が受賞するようになった。今回の受賞者も知り合いではない。
印象に残るパーティは、李良枝さんが芥川賞を受賞した時(直木賞と芥川賞は同時に表彰式とパーティをする)のパティだ。
李良枝さんは、同郷であり同級生の妹であった。それは知っていたが、その会場には望月さんという中・高校時代のテニス部の先輩・その妹・それから子供の頃から知っている人たちが、李良枝さんの表彰式に参集していたのであった。
まるで、富士吉田をそのまま運んできたような感じがした。
また、李さんは友人の妹とはいえ、面識はなく、その場で田中哲富君の同級生ですと自己紹介したら、きょとんとしていた。兄貴の同級生が何でいるんだって不思議だったんだろう。
私は知らなかったが、そのときには田中哲富君は亡くなっていたようだ。そして、もうだいぶ経つ感じがするが李良枝さんも亡くなっている。
私と彼女との最初で最後の出会いが直木賞パーティだった。
久しぶりに小説スバルから挿し絵の仕事が入った。作家の安部龍太郎氏からの直接の依頼である。室町時代の仕事であるらしい、まだ読んでいない。佐々木小次郎を無事討ち果たして帰ってくる。
3月14・15日の宝飾品フェアの展覧会とライブに備えて、今Tシャツを製作中である。かなりの点数を作るつもりだ。その画像もこのHPに載せようと思う。ご期待下さい。
暗くて寒い中を、バイクを飛ばしてレストランで仕事をすることが多いが、ここ1月はそのレストランに学生が押しかけている。それで、試験が近づいているんだというのがわかる。昨日は一番多かった。
座席の半分が埋まっていた。だいたい男の団体が多い。男女ペアで来る人もいて、中にはベンチすわりで勉強をしているペアもある。
一番目ざわりなのは、座席に土足でねっころがっている奴がいること。一人注意したことがあるけど、そんなのがいっぱいなので止めている。私が子供の頃は馬糞・牛糞が道路にいっぱい落ちていたから、足の裏にうんこが付くことがあって、土足で椅子にのぼったり、板の間に昇ったりすることの否にみんな敏感だったのかもしれない。
この学生さんたちは近くにある明海大学の医学部の学生である。駐車場は車でいっぱいなのであるが、外車も混じっている。
パレンタインにチョコレートはあんまり来ない。
だが今年は浅香光代さんから来た。それにお菓子も沢山。サンタクロースのプレゼントみたいにどっさり。ありがたいことです。「浅香さんそのうち、愚痴を聞きにうかがいますから」
それから、チョコではないが手紙を久しぶりにいただいた。直木賞作家・作詞家の山口洋子さんである。もっと本当は会っていい人であるが、脳梗塞でお倒れになってから、血圧が高かったりで、あまり人に会ったり激務をひかえてらっしゃる。
山口さんとの繋がりは、実際の仕事上ではない。私が彼女の似顔絵をしてから、私のカレンダーとかを送っていたのである。それで、ついに週刊大衆の連載に私とコンビを組たいというご指名が来たのだ。話は順調に進み、山口さんとも事務所でお会いした(出版社のパーティではお会いしている)のであるが、何があったか知らないが突然山口さんが連載をお断りになり、だから、仕事上ではお付き合いはない。
山口さん、元気でいらっしゃるようで安心いたしました。
パレンタインにチョコレートはあんまり来ない。
だが今年は浅香光代さんから来た。それにお菓子も沢山。サンタクロースのプレゼントみたいにどっさり。ありがたいことです。「浅香さんそのうち、愚痴を聞きにうかがいますから」
それから、チョコではないが手紙を久しぶりにいただいた。直木賞作家・作詞家の山口洋子さんである。もっと本当は会っていい人であるが、脳梗塞でお倒れになってから、血圧が高かったりで、あまり人に会ったり激務をひかえてらっしゃる。
山口さんとの繋がりは、実際の仕事上ではない。私が彼女の似顔絵をしてから、私のカレンダーとかを送っていたのである。それで、ついに週刊大衆の連載に私とコンビを組たいというご指名が来たのだ。話は順調に進み、山口さんとも事務所でお会いした(出版社のパーティではお会いしている)のであるが、何があったか知らないが突然山口さんが連載をお断りになり、だから、仕事上ではお付き合いはない。
山口さん、元気でいらっしゃるようで安心いたしました。
昨年、信玄をはじめそれに関わる人物を描いた。たまにマスコミなんかに質問されたんだけど、「信玄はどんな人物だと想像しますか」とかだった。私はもどかしい思いをする。信玄にあったことがないからである。だから、「会ったことがないからわかりません」と答えたりするが、つっけんどんで言ったわけではなく、素直に言っていたのである。
昨日NHKラジオで、その人の本の装丁もしたことがあり面識もある、時代小説作家のM氏が出ていた。商売柄だろうと思うけど、歴史上に人物について、見てきたように評伝するがよく出来るなあと思った。
話は変わるが、そのM氏、あきれるくらい頻繁に会話の語尾上げ(質問しているように話す)で話していた。一時流行ったけど、言葉をあやつっている人間にしては、聞く側のことを考えないちょっと鈍感な人だと思う。
何年前くらいの挿絵画家がそうなんだろうかわからない。私が子供の頃だろうか。昔の小説の挿絵画家は実際の映画を写真にしたものをいっぱい持っていて、それをデッサンして挿し絵に使うようである。
だから、その方面のマニアの人(例えば文芸評論家のN氏・H氏)はその絵を見ると、どの映画のどのシーンの写真を使っているかわかるのだそうである。
年配の方はお分かりかもしれません、昔の挿し絵というのはいかにもリアルで、実際あるものをデッサンしたという感じの挿し絵が多かったことを。
でも、そんな画風な挿し絵も今では少なくなってしまった。
私は何も見て描かない。
昨年の今頃は風林火山博の会場で、武田の二十四将立体切り絵製作で缶詰になっていた。
まだ、博覧会のスタッフは、お客が入るかどうか不安顔であった頃だろう。その後の爆発的ヒットは、まだ誰も予想していなかった。
私は、まず武田の二十四将の下絵を毎日一つずつというスピードで、仕上げていった。私にとっても予想できないほどのスピードだった。傍らではアシスタントのNが、切る専門で座っていた。
私はハンドフリーのマイクを付け、客に絵の説明とかをしていた。そのやり取りはとても楽しいものだった。次第に、スタッフとも打ち解け、また1階の土産品店の売り子さんたちとも仲良しになっていった。
そして夜が更けるように、博覧会を去り、博覧会も終わった。とてもいい1年だった。
今年はまだ、オリジナルシリーズは立ち上げていない、次第に焦り始めている。
テニスをした。今朝は二番電車で、富士吉田から帰ってきて着替えて、すぐテニス行った。私は平日会員から全日会員に鞍替えを今月した。
ずっとフォアハンドストロークが高いところで打てなくなっていた。グリップの握り方か握る位置の問題だろうと思っていたが、ある程度フォアハンドの調子が戻ってからも高いところで打つフォアは戻っていなかった。
昨日は、ちょっと握りを左回転方向に移動させたのである。長い間、右回転方向に頭は行っていたのであるが、ためしに「それはないだろう」とこれまで思っていた方向に試しに換えてみたのである。
そしたら、あたった。正解はそちらだったのである。
大学時代以来、私はバックボレーを忘れてしまっていた。しかし、何年か前に、「これはないだろう」とそれまで頭の中に一つのやり方として温存してあったが、一番可能性がないだろうと思っていたテクニックだからなかなか実行しなかった。もういい加減出来なかったので「やってみるか」と思ってやったら、それが正解だったのである。
そのお陰でバックボレーもそれに今は最大の武器になっているフルスイングのバックのスライスも打てるようになった。
まさかと思うことも「やってみたら」、という教訓めいたものをテニスから学ぶことが出来る。
かつて最大の武器だったフォアハンドが戻れば、また、テニスが楽しめる。
甲府の母方の叔父がなくなった。おじいさんが国鉄マンで、子供二人が国鉄マンになった。深沢今朝夫という。最後は、八王子機関区長で定年を迎えられた。
私が物心付いた頃、叔父は独身だった。間もなく花嫁姿の見知らぬ人がいて、それが花嫁姿だったとは知らなかったが、その見知らぬ人は、まだあったことのなかった親戚なんだと思っていた。だから私は肉親だとずっと思っていたもんだ。
私のいとこが、あちこち生まれていた頃である。だから、私が小学校高学年になった頃は従兄弟のチビどもがいっぱいいた。だから、とてもにぎやかだった。
叔父さんと最後に会ったのはおととしの10月である。風林火山博のプレオープンで私が県民情報プラザで公開制作をしていた時にウイスキーを持ってみえた。
しかし、ちょっと理由があって、その後の甲府に滞在した本番の風林火山博の時には、私のほうから一度も訪ねなかった。二人いる叔母もだった。本当は大好きな叔父だったので訪ねたかったのだが。
先日、私の展覧会に必ず現れる群馬の服部さんのお話をしたが、ファンの中に、私の本のカバーを集めている人もいる。こちらは茨城県の人だ。
古い作品になると情報がないから、私に目録ありませんかとおっしゃっていたが、今は私のHPを見れば大体わかるから、順調に収集されていると思う。
先日草鞋之会の仲間であったが、蓬田さんと話をしたら、月、本の装丁が4・5冊だという。私と変わらないのである。そうか私の本の装丁の制作数は、トップだったんだと知った。
先日、ある出版社に行ったら編集者に冊数を正直にいったら、「凄い冊数ですね。」と驚かれた。一個人がしている冊数なんて、公示されていないから、そういう情報はわからない。
本の装丁のいいことは、発注される画家は一人だけということだ。広告になると、何社あるいは何人かのデザイナー・イラストレーターには依頼をして、その中のいい作品を使うということになる。それに、やり直しとかはないし、あまり、注文をつけてこない。画家任せなのである。
今日は東京では久々の即興切り絵ライブである。どんな作品が出来るか、いつものように不安と楽しみが同居している。
さて、昨日は小川町の埼玉伝統工芸会館にいくのにあたって、途中の都幾川村にある、私の額の部材を刻んでいただいている上さんのところに、支払いもしようとお伺いすると伝えた。
しかし、上さんの所にバイクで行ってそのまま小川町に行くって、お酒を飲むと、バイクを置いていかなければならない。そして、今日の朝電車に乗って取に行くという計画が考えられるが止めた。
バイクで上さんのところに支払いに行って、帰ってきて、電車で埼玉伝統工芸会館に向かった。着いたら、群馬の友人・服部氏が見えていた。私のHPの日記を読んで、私と飲もうと来たのだという。凄いマニアックな人である。
酒の影響で、先日の人間ドックでの検査結果に肝脂肪とあった。そのほか、循環器系も悪かった。そこで、1年間だけ、付き合い以外は酒を止める事にした。前も宣言した覚えがあるが、今度は本気である。
もう3日酒を飲んでいない。
今日は夕方に、年末に展覧会のある埼玉伝統工芸会館(小川町)にその打ち合わせで行ってくる。帰りは、日本で一番うまいその近所の焼き鳥屋さんに、会館のスタッフと繰り出すつもりである。
久しぶりの、お酒である。
この展覧会は、今回灯明に、切り絵を入れて、影絵のぼんぼりにしてコンテストをしようという企画がある。それは一応全国規模でやるつもりである。勿論私が審査委員長。ゲスト審査員に関口コウさんに声をかけているという。
とても楽しみである。
昨日のドタキャン、こういうのは私にとって初めてのことである。どちらかというと品行方正であるから、こんなことはやったことがない。こういうことは確かに私の絵を楽しみにしていた人には申し訳なかったし、また出品すれば、5月に控えている50メートルくらいしか離れていない伊東屋のでの個展の宣伝にもなったのかもしれない。
でも甘えすぎている展覧会である。
2年前の初めてのこの展覧会に私は出品した。とてもむなしかったのをおぼえている。あの思いをまたするのかという記憶が私をドタキャンに向かわせたのだろう。
もう、こういう展覧会は参加しないだろう。
ホームまで行ったが帰ってきた。アートランダム展、搬出・搬入・即興ライブで3日間拘束されて、1点出品で出品料がある。それに、素人が混じって、同じ条件である。
とてもむなしくなってしまって、帰ってきた。団体展であり、山梨と違って東京で知名度があるわけではないので、私を目当てに来る客は少ない。だから大丈夫だろう。
主催者は友人であるからそれがために行こうとしたのであるが、むなしさの感情が抑えがたく。ライブだけには行こうと思う。プログラムには入っているので。
アートランダム団体展の作品搬入がある。こちらも、友情出演というところである。私の作品は1点だけである。
母体が山梨県出身者である展覧会である。どんな方々が見えるのか楽しみである。7日には私の即興ライブがある。興味のある方は久々の東京でのライブですから、どうぞお越し下さい。
3月14日15日の宝飾品フェアというのは、私が表紙を担当している「ゆずりは」の会社が主催しているものであり、入場は会員の方のみである。その時は、私のもちキャラである「火の玉小僧」のTシャツとかのグッズも多数取り揃える事になる。今仕込みちゅうである。
今月から、テニスは平日会員から前日会員になった。平日会員の方のレベルよりはるかに上であった。
大学のテニス部の先輩・S氏(川越代表)がいるので、ついつい一緒にやって、昼までやってしまった。6試合した事になる。先輩は代表であるくらいだから、かなりうまい。私はまだまだである。
もっとうまくなりたい。
いや、東京からの帰りはもう酔っ払って帰るのは止めよう。どこをどうたのか起きたら所沢の小手指だった。もう上がりはない。考えた末にタクシーで帰ってきた。
無駄遣いをしてしまった。しょぼん。
久々に、ついででなくわざわざ集合する。こういう集まりは年に何回もない。
西さんは金沢にいるので、めったに4人で集まることはない。原田・蓬田・百鬼丸が集まる。それに時々ゲストが混じったりする。
原田さんは私より12歳上、蓬田さんは10歳上である。でも、とても楽しい会である。私もこの中に入って、蚊帳の外に置かれることもなく、健やかに輪の中に入れる。
何とか川越出発便は、15人ほどになっている。あと20人くらいは集めたい。
また、35人入るうどん屋さんはないから、分けていれなけらばならないがそちらも問題である。バスの方の保険とかご心配な方もいらっしゃると思いますが、私のサポートしている旅行業者がいるのでご安心ください。
もう一月も30日になってしまった。早い。
先日、野田亜人企画展のあと同様にオープニングパーティをしていた久里洋二展(2月2日まで。銀座。ギャラリー アート ポイント03-5537-3690)に行った。久里さん(もう80歳になるという。昔はイレブンPMという、夜11時から4チャンネルでやっていた番組のレギュラーであった。アニメーターの草分け的存在である。)は頻繁に展覧会をしている方である。
彼の絵は「タイトルと絵」がセットで一つの作品になっている。私はこういう作品は余りお目にかかったことがない。そういう意味で刺激的で、勿論面白かった、楽しかった。
この量産される絵は、売れ残ると捨てるのだという。絵は旬のものだから時間が経つと良くなくなる、からだそうだ。本当かどうかわからない。久里さんは冗談も好きな人だ。でも、本当だろうなと思う方に私は傾いている。
会場には、週刊文春でいちばんHなコーナーを担当している種村さんもいた。彼とも旧知の仲である。とても、自然な人でもある。
私のアトリエの下は読売新聞の販売店である。その読売新聞から小さな看板を頼まれた。といっても世話になってもいるし、プレゼントしようと思っている。
面白い看板を作ろうと思う。きっと話題になるだろう。この看板を手拭いとかTシャツにも出来るくらいである。まだ下絵の段階だが、出来上がったら発表する。
昨日は野田亜人展に、作品を出しに銀座へ行った。この団体展は野田さんのやっているペーパークラフトの弟子たちの展覧会である。それに友情出演といところか。
野田氏とのつき合いは、野田氏が60歳になるというから、会った時に彼が50歳の誕生祝をしてもらって、私も参加したから、10年になるわけだ。野田氏とは当時頻繁にあっていた。
彼はペーパークラフトの似顔絵で一世を風靡した人だ。今は12チャンネルの「ペーパークラフトグランドチャンピョン」というイメージが強いだろうが、その世界の草分け的な人である。
私が立体を始めたのは、彼がやったらと言ったわけではないが、彼が新しいことをしたらという助言にもとずいて考え付いたものである。だから、彼がいなければ立体切り絵の存在はなかっただろう。
明日はそのパーティがあるので出席する。もう一つ私のことを大変評価していただいている、アニメーターの九里洋二さんの個展のパーティもある。
最近は連続して、遠くに行っている。ちょっと落ち着きたくなってきた。
昨日は吉祥寺産経学園の教室を誰も参加しなそうなので中止にしたが、連絡が取れない一人の方が来るかもしれないと、思い立って、吉祥寺に出かけてみた。
やはり来ていた。それも、信号の向こうとこちらで鉢合わせして、彼のほうは教室がないと聞いてひきあげてくるところだった。だから、個人教授をする事になった。
このカルチャーセンターには子供の教室が多いのか子供の声が沢山していた。
帰りは本当に久しぶりに、吉祥寺の焼き鳥屋・伊勢屋行った。しかし、ビルを出て30メートルも行かないうちに2年前に、東洋大学を卒業したテニス部の後輩の女性と出くわした。「笑う才能」のある女の子である。昨日もニコニコ笑いながら話していた。名前は覚えなかったが顔は良くおぼえている。ちょっと歓談してから、伊勢屋へ。
井の頭口の伊勢屋は初めてだった。昼間なのに満員である。木造の煤けた建物がなんといってもいい。煙ももうもうとしている。焼き鳥を頼んだ。昔だったら、きっとおいしいといって食べただろう。しかし、私が住む鶴ヶ島の近くに名物の東松山の焼き鳥ブランドがある。
この東松山の焼き鳥には、伊勢屋の焼き鳥も全然勝てない。さらに小川町の伝統工芸会館近くの焼き鳥屋はおいしい。
ということで、伊勢屋でちょっと飲んで、昨年小川町の伝統工芸会館展で、埼玉の民話をコント芝居にしてくれた出月さんの芝居を見に下北沢へ。ここは学生時代、兄貴が住んでいたところであり、兄貴が去った後も、友人が住んでいて良く泊まりに来たところである。だが、全然様子が違っている。
また、その劇場では小川町でこれまたお世話になった児玉さんに出くわした。面白い演劇の後、本当はお二人と飯でも食べたかったんだけど、さすがに疲れて帰ってしまった。
吉田のうどんは、日本一だと思う。私の住む鶴ヶ島地区はこれも評判の「加須のうどん」の流れを汲む、うどんが人気のエリアであるが、やはり私には物足りない。
うどんと焼き鳥のおいしいものを知っていると、その二つをどこで食べても感激しないから、不幸なのかもしれない。

昨日は、9時過ぎに富士吉田の教室を終え帰ってきた。しかし、電車で行ったので乗換えがいっぱいあったし、その間外に出るから、寒かった。そして眠かった。
富士吉田は予想よりいっぱい雪が残っていた。富士急の電車は、お座敷列車にも使っているらしく、前後のシートの間隔が一シート分空間があり、とても広かった。珍しい。
帰ってきたのは12時半頃である。
明日は、吉祥寺産経学園の講師であるが、ひょっとすると生徒は誰も来ないかもしれない。予定している生徒から連絡がないという。これから生徒獲得に努めよう。
私が今度講師をする学校であり、明日が初めて教鞭をとる日である。ただ、なかなか今は生徒が集まらないらしい。多分、明日は寂しい教室になるだろう。たぶん、2・3人といったところだろう。
私も、それなりに宣伝していこうと思う。
明日の第一回の教室は、私の切り絵のコピーを切ってもらうところから始まる。納得のいくまで、切ってもらうつもりだ。そのうち自分で、絵を描きたい人が出てきたら、それに対応していきたいと思う。とにかくソフトランディングで屋って来たい。このHPを見ている方、ぜひ参加して欲しい、また宣伝もお願いしたい。
今日は富士吉田の市営の教室である。午後4時頃向かう。夜の7時30分から講座があるのだ。泊まらずに帰ろうと思う。こちらは私の熱意でやっている講座であるから、交通費のみである。だから、余計に生徒が集まって欲しいと思っている。まだまだ少ない。といっても、3箇所の講座の中では一番多い。
今は月に二度講座があり、私は1度出向いている。後は弟子に任せている。
今月はカバーを担当するはずの小説が来ない。
私のところに依頼があったのであるが、鈴木英治氏と村咲数馬氏の作品が、小説が完成せず延期の通知が来た。
珍しいことである。2冊いっぺんというのは記憶がない。
ほうとうレストランが私の絵を売りにするということだが、それは急増する外国人の観光客(韓国人・中国人)を取り込もうとする作戦らしい。
これから、いかにも「日本」というものが、出来始めるだろう。建築・土産物はその傾向になるだろう。外国人観光客が増えて、近代建築といわれる無国籍的なものはもうなくなり、思わぬ理由から「日本」の風景が復活してくるのかもしれない。
またまた、缶詰が始まりそうである。
私の絵を売りにするという某「ほうとう」レストランで、「江戸の美人画」20点ほどを8月までに制作する事になった。また、そのレストランで缶詰である。
その間に、火祭りのポスターの原画を山梨の富士吉田市役所で6月頃、公開制作しなければならないから、缶詰ばかりである。楽しみである。やりきれるのか不安もある。でも、出たとこ勝負である。
風林火山博フィナーレセレモニー。いや、みんな嬉しくて大騒ぎ、私も、大騒ぎ。泣いていた人もいました。皆でまた集まろうといったら、40人も、連絡先くれました。
今年中に、一度くらい集まろうか。いや、来年の1月20日が良いや。


想い出の風林火山博の終わりの日である。
私にとっても、この展覧会が大きな曲がり角になったと思う。この展覧会のブースで制作した私にとっても初のシリーズ・立体の武田の二十四将は、これから私の出世作になるはずである。また、いろいろなところに出て行って展覧会をし、即興ライブをし、マスコミに露出し、そして今は、それを目撃した方から仕事をいただいている。
これから、昨年のような激しい動きはもうないだろう。
そしてたくさんの人と出会い、楽しい時間、思い出をいただいた。
また、甲府に行ったら、仲間が集まる場を設けられたらいいと思う。今日は皆にそれを提案しよう。
明日は蓮田市での即興切り絵ライブである。何を切るのかわからなかったが、獅子舞という注文を受けた。
このテーマだとしゃべれる。不安が少し解消した。
だが、それが終わると、展覧会作品を積んで、すぐ甲府に向かわなければならない。午後6時から、『風林火山博』の閉幕の式典がある。何とか2時間半あれば着くだろう。そして、式典のあと2次会になって、甲府に泊まる。
21日の朝は、風林火山博の開幕2日目に知らずにやってきた、川越テニス協会の大会で戦って、甲府に転勤してきた小田切氏とテニスをする。
昨年の今頃は、風林火山博のブースで客の前で切り絵を制作していた。だが、小田切氏と夜が明けきらないうちに河川敷のコートで、二日おきくらいに早朝練習をしていたのだ。
まだ、その頃はフォアハンド、バックのスライス・ドライブ、バックボレーくらいしかできなくて、課題はフォアボレーとスマッシュだった。あまりテニスは昨年出来なかったけど、最近テニスをして課題のプレーもマスターした。これですぺてのプレーをマスターした事になる。
大学時代から、これほど戦力がそろったことがない。今年の川越の大会が楽しみである。
何と東洋大学学祖・井上円了の肖像画を頼まれた。勿論大学からである。この肖像画をアルバム等、多岐にわたっての用途に使われ、また学生たちにも観覧できるような場所に原画が飾られるようである。
先日の、東洋大学での展覧会及び即興ライブ、講演で、東洋大の皆さんが立体の切り絵に魅せられたという。
立体切り絵というのは、美術のポジションとしても、とても斬新ものだと思っている。

私は、展覧会に付随しての即興切り絵ライブはしたことがあるが、即興切り絵ライブで宴席に呼ばれるのははじめてである。
私の切り絵芸人デビューの日である。少し不安である。
さあ、19日までに4冊。ある程度、下絵は出来ているが、波は高い。
今日は久々に、アトリエで仕事である。山積みの仕事を処理しよう。次のイベントは20日。
私のファン7人を連れて行った、浅香光代観劇ツアーは寒風の中始まった。
この日記の写真のような、書生和服姿で、マイクを持って、旗を振り私は歩いた。浅草の歴史を語ったり、皆で浅草寺に初詣をしたり、ちょっと変わったツアー経験になるんだろうという形で歩いた。
食事は「釜飯春(はる)」。ラジオでも時々宣伝が出てくる。早めに行ったら、もう、客がいて、3階に回された。しかし、間もなく3階も埋まり、出る頃には1階の階段まで、客が連なって凄い喧騒になっていた。とてもゆっくり出来るものではない。浅草は今でも、人が凄い。往時の混雑はいかばかりかと思う。
会場のゴロゴロ会館に到着して、早速、連れたちは席に着き、私は楽屋に浅香さんを訪ねた。楽屋の先のお客は浜田光夫さんだった。
浅香さんはメークを済まし、後は鬘をかぶるだけというスタイルだった。浜田さんに私を紹介し、私との関係をかいつまんで話してくれた。しかし、ニコニコとまるで本番20分前とは思えない、普段どおりの浅香さんであった。
左足の内腿を切ってしまって、あまり動きが良くなかった浅香さんであるが、枯れた演技と表情の巧みさが印象に残った。顔だけで芝居をしているような感じで、他の役者さんとは存在感はやっぱり違った。
最後は客席まで降りてきて、客一人ひとりに握手して、勿論私の連れたち全員と握手。皆に印象に残ったことだろう。
皆とは、帰り道を歩き、私一人浅草の飲み屋街に消えた。
昨日はたくさんの宇都宮のボランティアが集まり、式典及びライブ演奏・ダンスがつつがなく終わった。子供たちの文章を、受賞した本人に読んでもらうという初の企画は、子供それぞれの読力ででますます文章が光ってくるという面白い試みだったと思う。
そのあとは、作家の安部氏、文星芸術大の林氏、陶芸家の中村氏、運営の高島氏と宇都宮の屋台村の一角で飲んだ。ちょっとのはずが、話が弾んで、2時間以上になった。皆で新幹線に乗って帰ってきた。
さて、今日は浅香光代剣劇ツアーである。どれだけお客さんが楽しんでもらえるか、下調べもしていないんで、少し不安である。行ってきます。
今日は宇都宮に行ってくる。上記のイベント及び表彰式で、私が講評をしゃべるのだ。ざぶん(波の音)賞(小中学生に、水についての作文を書いてもらって、表彰する賞)の表彰式の講評をしゃべるろうとすると、どうしても昨今の究極の問題「地球温暖化」を取り出さなければならない。
そのことを、子供たちの前で話していいものか、そんな話題は私が取り出さなくてもいいことなのか、でも、お笑いで終止するような気持ちにもならない。そこら辺で自問自答してしまう。
果たして私は何をしゃべるのだろう。
(追)上記の展覧会案内に、草鞋之会のメンバー蓬田・原田・西の作品も展覧するとありましたが、多忙のため私のみの絵の展示になってしまいました。お詫び申し上げいたします。
時々風呂屋に行く、風呂屋に行くと、いろいろな身体の人に出会う。腕がない人、腹に大きな傷のある人、びっこをひく人、さすがに体中に、吹き出物があるような人は、同じ湯船に入っていることを意識すると、たじろぐ。
先日までいた飯田橋の銭湯には、パイナップルのような睾丸を持った老人がいた。手でおおいながら歩いてくるのだけど、やっぱりわかってしまう。
飲み仲間にそのことを話したら、脱腸じゃないかという。そうかもしれない。そのものをお持ちのご老体は、全くすがすがしい、まるで病気の体をなした風情ではなかった。
昨年は、生徒をほうりっ放しでいたから、教室に集まる生徒も、少なくなっている。また盛り返そうと思うのだが。
火薬で絵を描く中国人の蔡さんの番組をNHKがやっていた。迷宮美術館という番組だったと思う。
彼はニューヨークに渡り、現代アートの旗手として活躍している。でも、その火薬の火が走った痕跡をキャンバスに残すアートは、確かにきれいで斬新なものだが、私がすきになる絵ではない。
それは現代アート全般に感じることだが、私がいいなあと思うものは少ない。
ただ、具象画がいいといえるかというとそうでもない、下手な具象画より現代アートの方がまだいい気がする。
この蔡さんには、15年以上前だろうか、まだ彼が中国から日本に来た頃に会っている。場所は私が、和紙を仕入れている東京の京橋にある「山田和紙」でである。お店のカウンターで、隣同士になったのである。
なんだったか忘れたが、私が何かを教えたんだと思う。
それから、年に一回くらいは手紙のやり取りをしていたと思う。自然に、手紙の行き来はなくなったが、彼とは次に何回となくテレビ画像でお目にかかる事のになる。
そして、今回のテレビ番組で福島県の「いわき」出てきたが、蔡さんといわきは、彼を理解してくれた街として、繋がりが濃かったんだと納得した。何故かというと、私がバイク旅行をしたとき、蔡さんの作品が大々的に飾ってある場所があって、不思議に思っていたからだ。
蔡さんは北京オリンピックのビジュアル担当アーティストに就任したようであるが、どんなものになるか楽しみである。
特許庁は霞ヶ関の官庁街にある建物で、やっぱり他の館長の建物と同じで、警備員が外に立っていて入ってくる人のチェックをするから入りにくそうだ。
その警備員に身分照明になるものとかを見せて建物の中に入る。次は持ち物検査。そして入場となる。
以前来た時は、特許を申請する前にその登録内容がすでに特許に登録されているかどうかを調べる100台くらいあるパソコンは人でいっぱいだったが、そんなに人がいなかった。
個人のパソコンから特許庁にアクセスして、同様の調査をすることが出来るようになったからだろうか。
私の案件は、パソコンで調査しただけに終わったが、登録はされていなかった。登録するには一件につき8万強掛かる、そして10年ごとに15万くらい掛かる。これは高いなあと思うが、今金額を低くしようと検討しているそうで、遠からずエコノミーになりそうだ。
帰りは虎ノ門から永田町駅まで歩いてみた。行政の中心の永田町街である。財務省・外務省と道の左右に官庁が続いている。道にある地図を見るとそのさきに皇居が続いている。そしてその前に桜田門がある。
江戸時代には、この官庁街の各々の土地は、大大名の上屋敷であったようで、そのまま上屋敷を出て途上出来るわけだ。
今日は人間ドッグである。本当は飯田橋に缶詰になっていた時にやりたかったが、予約が出来る日が早くてこの日しかなかったのだ。だから、今から飯田橋に行く。
午前中だけなので、そのまま缶詰になっていた編集プロダクションに行って挨拶に行く、そのあとは特許庁にちょっと行ってみようと思う。
特許庁は前に布をまいた眼鏡を考案したときに行ったことがある。しかし、その時は申請はせずに帰ってきた。今日はなんのとお思いでしょうが、秘密である。
飛び歩いているだけで、切り絵の実務が出来ないのでそれが終了後に帰ってくるつもりだ。それでも、外が暗くなる頃なのだろう。
そういえばいまやっている展覧会がどこか昨日の日記には書いてなかった。原宿である。
昨日は中学のクラス会で富士吉田市に行った。クラス会はやらないようだったのだが、私が行くから集まるべえということでやることになった。だからクラス会ではないかもしれない。
いやまたまた記憶をなくすくらい飲んだ。でも、私は今までのクラス会の中では一番面白かった。とっても騒いだ。「ばかやろう」「しずかにしろ」とかそりゃあ、幼馴染でもあるから、口の聞き方は全く普段と違った。そこが実にも白い。そうない、こういう酒の場は感激である。
方言も多少飛び出しているかもしれない。私のクラスは他のクラスより地味なクラスというイメージがあった。だから、クラス会も面白くなくて、集まりが悪かったのだが、この雰囲気だったらみんな来るだろう。
という分けで、まだ酔いのさめない状態で朝早く帰ってきた。電車の中で、友人の弟に似ている人がいたので挨拶をしたら、そのまた弟だった。よく似ている。
電車であったその人の兄というのは昔、キックボクシングの日本チャンピョンだった渡辺みよしである。骨が細くなる病気でチャンピョンのままで引退したようだが、その頃の話を聞いたことがる。
日本チャンピョンがタイにいって、あちらのチャンピョンと対戦したのだそうだ。ところがなめていったら、とんでもなく強くて殺されそうだったという。嬉しい事に、彼は私の顔をテレビで見て知っていたのだという。
昨日は個展開催中のアートインギャラリーに行った。ギャラリー前の住人のK氏が、初めてのお客として入ってきた。ところがこのK氏、私が山梨だというと「山梨に仕事で出入りしていた会社があった。河口湖精密という会社なんだけど」という。その中のA氏とはとく仲がよかったという。
河口湖精密とは、私の兄が前にいた会社であり、兄の二人の息子もそこで働いている。そのA氏とは兄の上司であり、当時のその会社のトップの人であった、私とも個人的に付き合いのあり絵も買っていただいている人である。いや驚いた。
そういえば、昨年12月の山梨県人の集まりの忘年会の2次会で、同じカウンターで飲んでいた人が、我々が山梨の富士吉田の話をしていたら、話を入れてきて、私の義兄が富士吉田市にいるということで、具体的に尋ねたら中学時代のテニス部の同期だった話があるが、まあ連続して驚いた出会いである。
それから、外人客もこれほどは行った展覧会はない。当然日本人客とは反応の仕方は違う。いい展覧会であった。
最後の頃現れたのは、我修院達也氏だった。彼は昔、若人あきらという芸名で、郷ひろみのまねをして一世を風靡した。何故彼がこのギャラリーに現れたかというと、このギャラリーのオーナーのK氏は彼のマネージャーをしているからであり、私が会いたいといったからである。K氏がそれに答えてくれて、対面する事になったのである。
我修院氏とK氏は中学の同級生であり、公私にわたって長い付き合いなのだそうだ。我修院氏はいろいろな活動そしている。それについては彼のHPに載っているのでご参照願いたい。K氏は私の東洋大学の建築家のクラスメートであり、何と建築設計を首席で卒業している優秀な建築家でもあったが、数年前から建築という仕事に嫌気がさし、いろいろな仕事、それも手仕事的なことを仕事にしつつあるようだ。
その中で、作詞といいうのもあり、我修院氏の作曲作品に詩を付けたりもしているそうで何曲かカラオケにも入っているという。
3人のギャラリーでの話は、閉館まで続き、場を飲み屋に移したのはいうまでもない。
あの眉毛は本当につながっているのだそうだ。そして芸能スキャンダル年度2位をとった疾走事件は、本当に記憶喪失だったのだそうである。少年ジェットというテレビ映画で、何とか国の王子を演じた時があったそうで私はそのテレビを見ていた。6歳から俳優をやっていたというから恐ろしい芸歴であった。
元旦から放送される郷ひろみと共演のパチンコのCMの契約で、3人での写真撮影が出来なかったのは残念である。また仲間が一人増えた。
もう、5日である。とても早い。今日は現在原宿でやっているピンチヒッターの個展に顔を出す。
行って仕事をしていようと思う。逆に作業に興味のある人はラッキーかもしれない。
兄貴のクラス会は、富士吉田駅に近い「和光」というところでやった。なかなか拡張のあるところである。寂れた富士吉田にも、時々こんなところがあるのかというほど、盛ってきれいなお店がある。
私は上の写真のような書生姿で、即興切り絵をした。
兄貴の中学のクラスの先生は土屋先生といって、女性っぽい感じではないが、男性にはなかなかいない男っぽさを持っている人だ。竹を割ったような女性というのがぴったりかな。
皆さん、お元気な方ばかりで、もうお亡くなりになった方も数名出ている。でも、全員で30名ほど集まったんだから良く集まったものだ。その中で兄貴も良くしゃべる。
私は片隅で柱に、板を立てかけて、先生のプレゼント用の作品を作り、他に注文があった作品を作った。私のクラス会も6日にあるが、こんなに盛り上がらないのではないだろうか。
二次会が富士急ハイランドの施設内でおこなわれたので、ついでに私の絵でアトラクションを飾ってある「由布姫を探せ?」に行った。百鬼丸ですというとさすが名が知れていて、どこでも素通りであった。これは気持ちいい。
そういえば「和光」の店主も、百鬼丸さんの名を吉田で知らない人はいませんよ。流石に昨年一年で名が知れわたったようだ。
そのアトラクションの写真を撮ってきた。ストロボをたけばよかった。とにかく酔っ払っていたんでこんな写真になってしまいました。
2次会が終わり、私は電車で埼玉に帰ったが、私は酔っ払い、千葉まで行く同じ路線で帰る方がいなかったら、どこまで行ってしまったらやら。
帽子の向こうに私の絵
ケースの中の絵は私の絵
題字は私
入り口に私の絵
今日はスケジュールにクラス会とあるが、これは兄貴のクラス会なのだ。クラス会で即興切り絵をしてくれと頼まれたのである。
そういう意味では、芸人として初仕事である。がしかし、ギャラが発生するのか兄貴任せである。1時にいかなければならないが車ではいかない。今日帰ってくるつもりだ。
いい作品が出来ればいいが。
元旦から仕事をしている。昔、いっちょ前に休みを取ったら、気持ちの緊張を復活させるのに、3ヶ月くらい掛かったのだ。それで、仕事をする事にしている。
私の場合、好きなことをしているせいか、休みというものがなくてもストレスはたまらない。
昨日は野田亜人さん(12チャンネルの「テレビチャンピョン・ペーパークラフトグランドチャンピョン」)の企画した、銀座での展覧会に出品する作品を制作した。まだ、下絵の段階であるが、あまり制約がない仕事というのは楽しいものである。
明けましておめでとうございます。今年も百鬼丸をよろしくお願いします。
いや頭がいっちゃって来た。残ってる髪をこれから大切にしよう。早速養毛剤を買ってきた。
また一つ戦うものが増えた。