日記5


臨時講師(12月5日)

 今日は、忘年会が3つある。文春の忘年会は日比谷で6:00からだが、それにちょっと行きたいところだが、そうすると6:30の東洋大学の品川の野球部祝勝会には遅れてしまう。それに半蔵門の山人会忘年会もメンバーと仕事の話があるんで、会ってみたい。どうしよう。野球部一本に絞ろうか。

 昨年今年と忙しくて、教室をまともに開いていない。だから鶴ヶ島切り絵塾の生徒も減ってしまった。これから、曜日を固定していきたいと思う。で、私が用事があって講師が出来ない時は、弟子の中西香織にやってもらう事にした。

 これで教室も落ち着くだろう。


腰痛で(12月4日)

 昨日は秩父夜祭に行く予定だったが、腰痛で辞めた。こんなに腰が痛くなるのも最近では珍しい。仕事がハードだったからだろうか。中国整体院に行こうと思ったが、休みだった。

 今日は、埼玉伝統工芸会館に行く。展覧会の精算である。

 今、小さな干支の牛の立体作品を作っている。10cm四方くらいのものだ。毎年買ってくれている山口県の人用である。それに、作家のM氏にも送っている。そして私が残しておきたい一つ。だから、同じものを3つ作っている。

 早く終わって次のを作らないと。


始動(12月3日)

 昨日、川越で私の絵がおいてある土金と岡田畳店本店に、作品を置いてきた。

 特に岡田畳店は、私のミニ常設ギャラリーだから、いろいろな企画作品を置いて行こうと思う。詳細はそちらの案内に任せたい。ただ、その作品をTシャツにしたものを持っていくのを忘れたから、今日も行ってくるつもりだ。

 刺客街という森村誠一さんの文庫のカバーの写真撮りが失敗しているのだ。だから、自腹で再撮影してもらって出版社に送ろうと思っていた。それで、昨日撮影してもらった。いつもの撮影者の中山スタジオでなく、甲府のスタジオの人にデジカメで撮ってもらったもので失敗したのだった。

 そういえばこの中山スタジオの中山さん、欧米で写真が凄い評価されて、代理人が欧米各地で展覧会を開き続けているそうだ。うらやましい。この話は突然あちらの方が勝手に発掘してくれたというパターンだというから、本人が途惑うほどのラッキーというほかはない。


緊張の12月が始動(12月2日)

 12月は課題が多い。B社からの仕事が8冊も入ったことで、本来やりたかった仕事が出来なくなると思うが、できるだけやりたい。でも、無理かな?


開放感(12月1日)

 今年の展覧会のスケジュールが全て終わった。予想以上の開放感である。正月が来たような気分でもある。

 埼玉伝統工芸館のスタッフの方、金子さん・原田さんのグループの方、関口さんのグループの方、春日さん、服部さん、居酒屋かずのグループの方々、居酒屋ますみの飲み仲間の方々、麺屋信玄のご夫妻、私の鶴ヶ島・東京の生徒たち、本当に有難うございました。また、この展覧会ばかりでなく、たくさんの展覧会に足を運んでいただきました。有難うございました。

 昨日はK社の編集者も見えた。昨月発売された小杉健治氏の「5万両の茶器」の売り上げがいいという。またT書店の稲葉稔氏の「孤影の誓い」のカバーの評判が、業界内で高いという。

 だんだん私のカバーの評価が上がってきた気がする。自分ではいい作品を作っていると思っていたが、本の売れ行きが、カバーのせいだということはわからないし、いい作品だと思っていても、作者と言うのは自分を低く評価してしまいがちである。

 低く評価しがちだからマネージャーが必要なのだと思う。それは私に限らず、作る人は大体そうだと思う。

 また、自分が低く評価するものだから、もっといいものを作ろうとするのである。だが、困った習性である。


今日が最後(11月30日)

 今日が埼玉伝統工芸会館展最終日である。今年はいっぱい個展をしたが、その最後の展覧会の最後の日でもある。

 今日はコント百鬼丸一座の登場である。楽しいプロの役者がやってくる。そのうちのコント百鬼丸一座のTシャツでも作ってみたい。売り出してみたい

 今度依頼された森村誠一さんの文庫8冊は、平面でやって欲しいという。立体だと現実的に8冊は1ヶ月で難しい。だが立体のクオリティーの高さは群を抜いている気がする。平面で、どれだけ立体のクオリティーにせまれるかが課題である。だから、今悩んでいる。

 今日はたくさんのお客の来場があることを期待している。


休み(11月28日)

 今日は展覧会場に行くのを休もうと思う。展覧会の作品がドット4日後の戻ってくる。スペースを空けなければ。

 雨だ。テニスが出来ない。


焼き鳥(11月27日)

昨日はある取引先の人が来て、小川町で焼き鳥をご馳走してくれた。

 もちろん日本一の焼き鳥や小川の「日の出」でである。埼玉伝統工芸会館の近くにある焼き鳥屋で、うまくて大きくて、やすい。最強の焼き鳥屋である。

 お二人来たが、I氏の方は糖尿病にかかって酒は飲まなかった。I氏はとても飲むのがすきそうなタイプである。さぞかし無念なのだろうが、飲んでなくても、陽気な人である。

 マラソン大会にエントリーした。太ってきたの走り始めるように、その枷として始めたのだ。ちょっと荒療治だが、さすがに準備のために走り始めた。体重計に乗るのが楽しみになる。


8冊(11月26日)

 最近珍しく本の仕事が来ないなあと思っていた。

 だが昨日入った。久々のB社の文庫である。森村誠一さんの指名で1月あけてすぐ8冊のカバー画を仕上げてくれとのことだ。

 8冊というのは経験あるのだが、同一著者のをどかっとというのはない。

 他の出版社からの依頼が、あると思うので10冊以上にはなるだろう。

 12月は、部屋の整理とかやっていたかかったが、臨戦態勢に入る。


ありゃ(11月25日)

 今日は展覧会場の埼玉伝統工芸会館が休みである。

 昨夜仕事をしていたら、東洋大の助教授で、建築家の先輩M氏から呼び出しが会った。場所はアトリエの隣の「とんでん」である。

 行ったら、驚いた。東洋大学の野球部監督・高橋氏とその弟子たちの野球部出身者である。高橋氏とは3度目の宴会である。

 しかし、その弟子たちの方が凄い。上武大学の野球部監督、浦和学院の野球部監督がいたのである。その方々が、昨日のNHKを見ていて、驚いて私を呼び出したのである。

 上武大学の野球部のOBになんとCATV富士五湖の羽田君がいるという。私は顔を思い出さないが、会っていると思う。ほとんど全員CATVの方とは面識がある。

 高橋監督は、たまに野球部のグランウド(野球部・陸上部は川越キャンパスにある)にいくと、かなりきついコメントでマイクで学生をまくし立てている。しかし、会うとがらがら声であるが、怖い人ではない。

 昔は野球部の学生は、鶴ヶ島で飲み歩いた。だから飲み屋には東洋大出身のプロ野球選手の色紙を見かけるが、最近は飲み歩かないらしい話を聞いた。学生気質が変っているらしい。

 12月5日は文藝春秋忘年会・山梨県人の会・東洋大学野球部祝勝会と宴会が3っつもある。どれに行こうか。全て東京である。


審査(11月24日)

 昨夜、8時45分の首都圏ニュースで昨日の秩父歌舞伎競演が流れた。今日は客が多く展覧会におとづれるだろう。

 それから、展覧会のサブイベントである、灯りの審査も行った。切り絵作家の関口コウさんが特別審査員として参加し、関口コウ賞も決まった。全部で5人の方が選ばれた。しかし、15人の人が応募されただけであった。宣伝が足りないのであろうが、どこかの切り絵協会が協力してくれなければ、なかなか難しいイベントだったのだろう。

 それから、山梨から、「切り絵の森」の方々が展覧会場にいらっしゃった。東京・上野で切り絵協会の展覧会があったのでそちらを見てからおいでになった。全く切り絵の知識がなくて「切り絵の森」を作ろうとしていたようだから、かなりの勉強になったと思われる。

 勿論私の絵を見ていただくのは初めてだ。私もやっと彼らに自分の絵を見てもらって、アドバイザーとして話がしやすくなった。


歌舞伎競演(11月23日)

 埼玉伝統工芸会館で今日は秩父歌舞伎との競演がある。子どもたちの歌舞伎、「子ども歌舞伎」が来るのだそうだ。秩父では子供の頃から、歌舞伎を仕込んで次の世代へと引き継いでいくのだそうだ。

 歌舞伎というのは、江戸・上方の文化として、地方に伝播していった文化である。だから各地にある。私の故郷富士吉田にもある。娯楽の少なかった昔には楽しい催し物だったんだろう。

 出しものは「白波五人男」だそうだ。それも20分で終わるとのこと。仕込みを事前にしていい作品を作りたい。

 NHKの取材が入るというから、夕方の首都圏ニュースに出るのかもしれない。


宴会は大変(11月22日)

 宴会のライブは辞めようとは思わないが、大変である。誰も聞いちゃあいない見ちゃあいない。

 昨夜はいい勉強になった。考えよう。


ヨッシー&ヒャキー(11月21日)

 そろそろ埼玉近代美術館に、展覧会の売り込みに行こうと思い、仲間のご老体、美術評論家のヨシダヨシエ氏に連絡を取った。ヨシダヨシエ氏はその世界では、超有名人である。しかし、その無頼がゆえに、過酷な生活を送っている。ためしにヨシダヨシエと検索すれば、かなりの情報が出てくると思う。

 彼に間に入ってもらうつもりなのだ。

 彼は鶴ヶ島に住んでいる。最初は着物を着た怪しげな人というイメージで近づかなかったが、時間が経過して、付き合わなければならなくなったが、その通り、近づかない方がよかったと思うところもある、困った人である。

 電話で、仕事が何もなく、収入は年金のみだという。

 本を読むスピードと理解力はずば抜けている。文章は特に難解である。

 近年脳梗塞を数回患い、大変な状況であるが、良く生きている。部屋は本で足の踏み場もない。

 そこで考えた。彼を私の展覧会のライブでしゃべってもらおうと。

 余計なことをいわなければ、まだお金を稼げる人である。もう80歳くらいになると思う。


驚き(11月20日)

 今野敏氏のパーティは作家を廃したものだった。私は二次会には出席しなかったが、二次会もそのようだろうと参加した編集者が言っていた。

 彼らしい行動である。敏さんは空手もしているから、そちらの方々も来ていた。

 3日前に、前売り券を買っていたイーグルアイという映画を見た。しかしサイバーテロというのはありえることだ。こうして私もサイバー内で日記を書いているわけだが、恐ろしくなった。


今野敏(11月19日)

 山本周五郎賞(新潮社)を今年受賞した今野敏さんの作家生活30周年のパーティがあるので行ってくる。30周年といえば私の切り絵画歴と同じ年数である。

 作家の中ではとてもバランスがいい人である。私は彼の小説のカバー画を5冊担当している。

 もう15年くらい前だろうか、私が右腕のじん帯を傷めたときに彼のしている整体に通ったことがある。なにせ、東京に通ったのだから、それほど長く通いきれなかった。

 それにしても、30年作家を続けるのも大変なものだと思う。私は彼の小説は好きである。


壊れていく(11月18日)

 無事授賞式は終わった。スピーチは即興ライブでやったが、失敗といっていいかもしれない。今後にいい影響が出ればいいと思う。

 誰とは言わないが、歳をとると壊れていく。とても悲しい。皆壊れていく。歳をとるというのをまざまざと体験した一日であり、今年であった。


箱根駅伝(11月17日)

 今日は私が富士吉田文化協会から表彰される日だ。行ってくる。

 来年の5月に、東洋大学の校友会横浜支部から、講演の依頼を受けた。それで、お会いしたのであるが、正月には横浜の校友会が、箱根に集まり箱根駅伝に出場する東洋大学を応援するのだそうである。

 私も何年も憧れていたことである。東洋大が集まる場所は、東洋大関係者ならフリーで出入りできるのだそうである。いっぱい飲みながら、大画面テレビで横浜の方々とゆったりと東洋大を応援したい。

 といっても、皆さん東洋大学が目の前を通過すると、電車に乗って先回りして、また応援するのだそうだ。私はそんな執念はなさそうだから、一度目の前を通過したら、上記の状態で過ごそうと思う。


風がないなあ(11月16日)

 明日は富士吉田の芙蓉文化賞が私に授与される日だ。

 即興のライブをしながらの講演会をするつもりだ。これまで結構多くの場所で話をしてきたけど、やはりちょっと緊張しているかもしれない。
 
 それはさておき、私が大学生の頃、この季節は風が吹いてテニスをやるきが起きないほどだった。確か相模工大(現湘南工科大学)と対戦した団体戦のダブルスは大変だった。

 フォアでボレーをするつもりでボールを待っていると、バックで打たなければいけなくなるほど、風でボールが流されてしまったものである。

 12月の初めに、小樽に行く事になった。ザブン賞の小樽支部での表彰式がある。そこで、プレゼンターや講評を言わなければならない。小樽には、大学時代のテニス部の先輩が住んでいる。あってくるつもりだ。
 
 また、札幌・函館の友人に会って来たい。


佐藤俊明(11月15日)

 友人からメールが入った。「私の兄がテレビに出る」という知らせだった。

 録画した番組を今見た。12チャンネル8:00からの番組だった。構造物の壁面を緑化するパネルを製造している方だった。その方が佐藤俊明さんという。

 私は将来、町が緑で覆われると思っていた。それは、葉が寒さから内部を守り、熱さからも守るはずであると思っていたからだ。しかし、植物の根が壁面を壊すというデメリットもあるのだろう。 でもそれが克服されて、現れてこないのが不思議であった。

 これから、緑化用のパネルは開発されるだろうが、この緑化パネルは普及するだろう。そのうち都市の景観が緑になるのは遠くない。


陶壁画依頼(11月14日)

 昨日ある省庁に行ってきた。陶壁画の原画制作の依頼である。それが決定した。埼玉の与野地区に出来る建物に陶壁画が飾られる。

 大きさは3m×6m。完成は来年の夏以降になりそうである。

 これまでの陶壁画は京都宇治市役所ロビーの3m×9m。富士吉田市立病院の3m×7m。吉田高等学校食堂2m×6m。埼玉高速鉄道鳩ヶ谷駅2m×2mである。5つ目の陶壁画である。


これから(11月13日)

 くっちゃべり切り絵ライブの行方はどうなるのだろう。楽しみである。

 なにせ、身体とちょっとした道具で、出来てしまうんだから、すごく機動力がある。

 そして、10点ぐらいのちょっとした展覧会をしたら、見るほうももっと興味をもってライブを見てくれるだろう。


今日は小川町(11月12日)

 12月は展覧会も入っていない。1月後半に、川越の岡田畳店本店で個展をしようと思う。

 そういえば、1月2日からA氏の芝居がある。そのトイレタイムにくっちゃべり切り絵ライブをさせて欲しいと伝えてある。どうなりますやら。実現したら楽しみである。

 このくっちゃべり切り絵ライブを芸を高めて寄席でもやってみたい。それこそ笑点に出たりして。

 それから、浅草(未定)と神保町(時代屋)に私のTシャツが置けそうである。


文春執筆室(11月11日)

 週刊文春での缶詰では社員用の仮眠室に寝ているが、オール読物での缶詰は執筆室である。

 この部屋はビジネスホテル以上の設備がある。文春には二部屋あるが、この部屋で多くの著名作家が執筆したそうである。きっと作家志望あるいは駆け出しの作家の方はここで執筆するのが、夢であるはず。

 私はたわけた事にこの部屋で缶詰になったが、仕事道具の一部を忘れてしまったのだ。それで、一番電車で戻り、取りに戻ったというわけだ。

 必要なものを持って、再び部屋に戻る。


昨日(11月10日)

 昨日の日曜日は埼玉伝統工芸会館の団体客が2組あったんで、くっちゃべり切り絵ライブをした。

 こういう流れの私を知らない客を相手にするのは大変である。まるで期待していないから、好奇の目を向けてこないのである。

 以前に立川のスーパーでやったのとおんなじである。あれは酷かった。ボランティアであった。誰も立ち止まらなかった。もうあんなところでするつもりはない。

 それでも、小さい作品を作って、プレゼントしたので、最終的には盛り上がった。

 そのあと、鶴ヶ島での産業祭りでのカレンダーのサイン会である。今回はいつも来ている人とか、あまりいなかったから、平滑なサイン会であった。

 そのあと、さくら荘というところで、灯りの焼き物展を開いていて、それとあわせてイベントがあり、私も飛び入り参加した。くっちゃべり切り絵ライブで3点ほど作った。しゃべりも快調だった。しかし、一つ仕事を忘れていて中途で作品を作って宅急便に入れた。気がついてよかった。

 今日は、文藝春秋に缶詰である。 


筑紫さんとの思い出(11月9日)

 筑紫さんを初めて見かけたのは、岩見隆夫さんの記者クラブ賞授賞式だった。

 岩見さんはテレビの政治ジャーナリストとして頻繁に出てくるのでご存知の方も多いだろう。6チャンネルの時事放談の最初の司会者である。

 岩見さんが編集長だったサンデー毎日の時に、私が本誌の表紙のイラストを担当したのだった。その後岩見さんとお付き合いが続き、記者クラブ賞に招かれたのだ。そこに筑紫哲也氏がいた。探検家の植村直己さんの奥さんもいた。この式の直前に植村さんは亡くなっている。

 筑紫さんがニュース23の司会をしていた時に、切り絵作家の宮田雅之さんが番組に出て対談していた。その直後に宮田氏は亡くなるのだが、私は筑紫さんに番組宛に手紙を書いた。宮田さんのあとに切り絵作家が育っていますと。それは私なんだが、そのことを伝えた。

 後日長い手紙が筑紫さんから届いた。内容は覚えていないが、カレンダーを同封しておいたので、絵の感想をおっしゃったと思う。その時だったか、娘さんがアメリカで切り絵をしているということを聞いた。まもなく彼女が日本で個展をするということで、見に行った。切り絵を立体にした現代アートであった。彼女とは会えなかったが、「お会いできなくて残念です。見ていただいて大変嬉しい」という内容の手紙が届いた。筑紫さんに後に聞いたのであるが、今は、日本でバイトをしながら、切り絵をしているらしい。

 筑紫さんの力を使えば、もっと頻繁に出てくるはずだが、筑紫さんは娘さんにそんな手助けをしなかったんだろう。立派なことだと思う。

 その後ザブン賞委員会のメンバーとして、彼が会長、私が理事という関係で、初対面となり毎年会う事になる。車の中で隣同士になって、話したことも何回かある。前述の次第で、他のメンバーとは違った関係であるから、特別に話しやすかった。それに、筑紫さん自体が大変話し易い人であった。

 蛇足だが、同じく政治ジャーナリストの鳥井守幸さんを鶴ヶ島にある若葉ウォークで見かける。私もカレンダーを送っていたのだが、確か引っ越されて、今は送ってはいない。

 奥さんと一緒で、杖を突いてお歩きになっているが、また往き会ったら声をおかけしようと思う。たぶん引っ越されてきたか、お子さんのところにおいでになったか、2回もお見かけしているから、通りすがりではないのだろう。

岩見隆夫さん  鳥井守幸さん


サイン会(11月8日)

 今日は恒例のサイン会である。東京工芸社という印刷会社が、鶴ヶ島の商工祭りでお客にカレンダーを配るのであるが、今日と明日一時間だけ、その龍神の絵が入ったカレンダーにサインをするのである。

 大変な行列が出来る。しかし、サインしている人が誰で、なんでサインしているのかわからない風な人も並んだりしている。少なくとも始めたばかりの時はそういう人は沢山いたと思う。

 でも、最近はかなりそのカレンダーも浸透してきて、カレンダー集めている人もいるようになった。私のことを知っている人もかなり増えた。

 ただ、住んでいるところと、私の郷里と出身大学は、なかなかその実績を評価するのが難しいようだ。地元で活躍している人を過小評価してしまうからだ。

 ある人に聞いたら、他の地域の人に言われて、わかるのだそうである。

 午前中は小川町の展覧会場に行き、昼に鶴ヶ島の市役所のにある会場に来る。しかし、ど真ん中にサイン会があるから困る。そのあと、小川町に戻るのだろうか。しょうがないなあ。

 筑紫哲也さんがなくなった。私は今月の23日は、所要があってザブン賞の表彰式にはいけないのであるが、そのザブン賞というNPO団体の会長をしているのが筑紫哲也さんであったから、本来なら23日に会うはずであった。

 昨年、癌闘病後にお会いして元気な姿をお見かけした。まさかと思った。とてもその時太られて元気だったからだ。とても寂しい思いがする。


二泊三日(11月7日)

 久々に東京の町を歩いた。著名人に二人、道ですれ違った。佐高信にラッキー池田だ。

 佐高信は神保町の交差点近く、ラッキー池田は地下鉄の階段だった。

 佐高信はスーツに、ショルダーバックを肩に掛け、いつもの顔で歩いていた。清潔そうな恰好であった。

 ラッキー池田はサングラスをしていた。彼の風貌はサングラスでは覆い隠せない。体型が独特である。ちょっと猫背で、足が細い。

 新人物往来の連載だ一回だけは終わらずに、かえって来た。小説すばる・週刊文春と全部で8カットの作業を自主缶詰でやってきた。次の連載がオール読物で締め切りが12日になったいる。そのあたりで、自主缶詰である。


さあ東京(11月4日)

 先日、小説すばるの缶詰とあったが、編集者と連絡が取れず実は行かなかった。それがずれ込んで本日行ってくる。7時半に集英社に着くように出かけるつもりだ。


きみまろを追いかけろ(11月3日)

 小川町での秩父歌舞伎を終え、次のお座敷の東洋大学工学部のOBの集まりに。4時というお約束だったが、3分ほど過ぎて到着した。それというのも私の衣装の和服を小川町に忘れてきたのだ。

 それで、アトリエによって、別の和服に着替えていったので、時間がかかったのだ。

 工学部のOB会ではとても受けた。切り絵もそうだがしゃべりもうけた。これから、たくさんお座敷がかかる気がする。

 綾小路きみまろ様、3度ほどお会いしましたが、あなたのライバルがもうすぐ現れますよ。もしかしたら。


Tシャツあちこち(11月2日)

 二日間東洋大学で展覧会をしている。グッズもおいてある。しかし、特にTシャツは少量多品種の仕入れをしているので、埼玉伝統工芸会館においてあるTシャツの一部を持ってきて、並べる事になる。

 埼玉伝統工芸会館のTシャツはサイズがSばかりになってしまった。

 今日、東洋大学工学部では学園祭があり、また、個展会場では工学部出身で私の友人でもある小遊三師匠の弟子が落語を聞かせにやってくる。そのあと、私の即興切り絵ライブである。それは4時から。

 その前に2時から埼玉伝統工芸会館で、秩父歌舞伎と、即興切り絵ライブの競演がある。

 東洋大学のほうは、学園祭にあわせて、OB会をするわけで、私の年齢の前後の男のOBばかり(女のOBはほとんどいない)集まってくるのだ。


今日(11月1日)

 とうとう11月だ。来月は当たり前だけど12月だ。

 ちょっと前まで、短パンをはいていたのに。歳をとると時間が経つのが早いから、ついつい夏が終わったばかりと思って薄着をしてしまう。

 今日は、東洋大工学部で二日間の個展がある。私の身体は午前東洋大学、午後小川町である。飾り付けが終わった後、5月に行われる東洋大学の横浜支部のOB会での講演会の打ち合わせがある。横浜から大学に先輩がいらっしゃるのだ。

 今は小川町の展覧会の葉書に宛名を書いている、といってもパソコンに入力したものを打ち出すだけだ。しかしプリンターの葉書の送りが悪く、エラーばかり出てしまう。滑り易い紙なんだろう。それで、宛名のほかに(追)の文章をプリントしたいけど、はかが行かないんで、別の紙にプリントして貼っている。これが時間がかかる。

 二日は午後4時に小川町の即興ライブを終えて、東洋大にやってくるんだけど。そこでは東洋大工学部出身の落語家の落語があり、その後4時から即興切り絵ライブをする事になる。今回は、首から画板を提げて、小さい作品をお題をもらって何点かしようと思う。

 お題をもらってやるというのは一つ困ったことがある。お題をもらったものに対して、何かコメントしながらやったほうがいいからだ。だけど、そんな博学ではないから、何をしゃべって言いかわからない。といっても、しゃべるどころではなく作品を作るのに必死ならそれはそれで、いいのだが。

 でも、何とかなるだろう。


群馬寂しい(10月30日)

 群馬県大泉町の展覧会の片づけが終わった。優しい人たちに囲まれて個展をしたが、とても去りがたかった。
 いつかまた個展ができても、また去ってしまう寂しさがある。

 それを振り払って、次の個展に向かう。

 昨夜は山梨日々新聞から電話で取材が入った。火祭りのポスターが、私の個人的に発行しているカレンダーに掲載されているのだが、それを見た記者が、そのポスターが没になったいきさつを知り、取材に来たのだった。


群馬寂しい(10月30日)

 群馬県大泉町の展覧会の片づけが終わった。優しい人たちに囲まれて個展をしたが、とても去りがたかった。
 いつかまた個展ができても、また去ってしまう寂しさがある。

 それを振り払って、次の個展に向かう。

 昨夜は山梨日々新聞から電話で取材が入った。火祭りのポスターが、私の個人的に発行しているカレンダーに掲載されているのだが、それを見た記者が、そのポスターが没になったいきさつを知り、取材に来たのだった。


今日は群馬(10月29日)

 今日は埼玉伝統工芸会館のほうには行かない。群馬の大泉町での個展のあと、埼玉伝統工芸会館に展示する作品だけ搬出したのだった。

 だから、大泉町に行って、残りの作品の搬出をしなければならないのだ。

 だが、実は、またその中から、11月1日2日にある東洋大学での展覧会に展示するものを選んで、今日搬入しなければならない。

 いいペースで展覧会をしていると思う。これほどの依頼があるというのは、とても名誉なことだ。


今日から伝統工芸会館展(10月28日)

 昨日は、埼玉伝統工芸会館での展覧会の準備をした。

 古い作品も並べた。2000年から2002年まで週刊文春で連載した宮部みゆき作「ゼプツェン」の挿し絵も飾った。

 かなりにぎやかな展覧会になっている。

 TシャツもTシャツ屋さんが売っているんじゃないかというほどの種類がある。

 私が、展覧会に行っている日は、「百鬼丸のスケジュール」を見てください。突然、いけなくなるときもありますので、その時はご免なさい。


壁(10月27日)

 私の切り絵は立体である。平面もあるが、今は立体を前面に出している。

 その人気は凄い。それは展覧会会場に来場される方の反応でわかる。しかし、切り絵を知っている人に、「立体であるとか、即興ライブがある」とかいっても私の切り絵のことをイメージしにくいようだ。

 どうしても、切り絵というと、白黒の風景画をイメージをする。そのイメージをぜんぜん違うといっても超えられないらしい。言葉で展覧会の様子を伝えることの、今回は限界を感じた。

 「とにかく、騙されたつもりで行ってみな」しかないんじゃなかっただろう。

 即興のライブも、好評だった。

 こんなに驚いた人の顔を見るのは、美術家として幸せなことだ。

 私はこれからも、がんがんやっていく。


展覧会(10月26日)

 今年は良く展覧会をした。全てギャラリー・自治体の企画展ばかりだった。

 来年は生徒の展覧会が一つ入っているだけだ。

 現在夏にやった川越・岡田畳店本店で、引き続き規模の小さな展示を引き続きやっている。だから、私の絵を見たければ、岡田畳点の二階の展示場に行くと見られるようになっている。グッズもおいてある。

 そのギャラリーで、来年は4回ほどの個展をしようと思っている。勿論、他での個展があるならば、回数は減らす事になる。

 来年は気を引き締めてオリジナル(依頼された仕事でない)作品を頑張って作り、発表していきたいと思っている。

ご期待。


あと一日(10月25日)

 大泉町の展覧会もあと一日。今日は、250人くらいはいるかと思ったが、100人ほどだった。ちょっと空ぶったかなと思う。

 明日は何とか200人になってほしいものである。

 昨夜は、無効に泊まり、ブラジル人が経営しているブラジル料理を食べた。惣菜は、ちょっとしたバイキングに出てくるようなものばかりで、食べられた。

 そして店の人が大きな肉を長い剣にさして持ってきて、そいで好きな量だけ置いていく事になるのだが、食べ放題で、次から次へと違う種類の肉がやってくる。いや、凄い量である。久しぶりに肉をたらふく食べた。

 客も、店の人もブラジル人だから、ブラジルの風情を感じられて、とてもいい。安いし。御馳走になったが。

 このブラジルの店は大泉の観光ネタになるだろう。


あと3日(10月24日)

 展覧会もあと3日、来場に来た方は驚いてくれた。サインも握手もいっぱいした。とても嬉しい展覧会だ。


ブラジル学校(10月23日)

 ここ二日ほど、展覧会にブラジル学校の子どもたちが来ている。合計で200人ほど来ている。

 毎日2回、午前午後即興のライブの5分バージョンを4回ほどやって見せている。

 今のところ失敗はない。そして切ったものはあげている。ビンゴをしているようにとても盛り上がる。

 初めてやった試みであるが、皆さんの楽しそうな、嬉しそうなお顔を見られて、やってよかったと思っている。


たぬき無残(10月22日)

 今日は、展覧会をしている大泉町に泊まった。

 しかし、今までこの街まで3往復ほどしたが、その道路上にたぬきが毎日一匹轢かれて死んでいた。

 凄い数である。小狸たちはどうしているんだろうかと気になってしまう。

 カレンダーを全国に送っているが、皆さんからのお礼のメールや手紙が送られてきている。最近名刺をもらった人にはまだ送っていない。パソコンのソフトに入力していないからだ。

 待っていてください。


ザブン賞欠席(10月21日)

 ザブン賞(ざぶんネットワーク)からイラストの依頼が今年も来た。水つまり海・川の環境を良くして、昔のように子どもが遊べるようにしようというNPOである。

 私はそこの理事をしている。毎年全国の子どもたちから作文を募集して、審査して、賞を上げている。今年は5000通の文章が集まったという。

 その中の何点かが賞に入り、私は2つの文章に挿し絵を付ける。ボランティアである。毎年全国表彰は、金沢であり、会長の筑紫哲也さん・月尾嘉男さんが参集して、役員が一堂に会す。一年のうちで、一つの楽しみであった。

 しかし、今年は行けなくなった。展覧会でその日は秩父歌舞伎の方との競演がある。私は即興のライブをする。それも歌舞伎をその場で切るのだ。

 ザブン賞では、金沢在住のイラストレーターの方たちとも会う。彼らと会うのも楽しみだった。とても残念である。


聞きしに勝る(10月20日)

 群馬は切り絵人口が一番多い県だと心得ている。やはりそうだった。

 初日・二日目と展覧会に訪れる人の数がすごかった。私に近づいてくる人のほとんどが、切り絵をやっている人だった。だから、私の切り絵に食い入り見る人の多さは、今までの展覧会には見られない光景だった。

 私の切り絵を「すごい」と皆さんに感動していただいた。

 即興のライブも、大成功だった。40人から60人くらいの人に見ていただいた。そして今回は、ライブで切った紙の切れ端を、お題をもらって切ってお客さんにプレゼントした。初めてのこの試みも、好評だったし、その雰囲気に私も満足であった。

 今日は休館日で帰ってきた。あしたまた、出かける。毎日会場に入る。仕事をそこでしている。


いきなり即興ライブ(10月18日)

 さあ、大泉町での展覧会が始まる。そして、初日からいきなり即興ライブである。

 昨日は上毛新聞から取材を受けた。いっぱい人が来るといいなあと思う。


あった(10月17日)

 昨日、大泉町の飾り付けが終わり、久しぶりにますみに飲みに行った。

 そこにいつものお客Y氏が来た。しばらく飲んでから、べにやに行こうというY氏。彼とそこに行った。

 しばらくして、その店のママが、百鬼さん忘れ物があるという。

 額に入った歌舞伎の絵であった。これは、かなり探した作品だった。もうあきらめていた。

 一月前、東京のあるところに預けてあって、マネージャーと酔っ払って持ち帰ったのだが、二人とも忘れて、その店においてきたのだ。

 あと10日あまりで、歌舞伎の展覧会が始まる。久々に顔を出したお店で、発見するとは。素晴らしい。

 写真は、展覧会のポスター、大写しになっている作品が見つかった。


さすがにくたびれた(10月16日)

 昨日の大泉町での個展の搬入は、疲れた。かなり数が多いので、重かった。

 まだやり足りないところがある。

 今日も頑張ろう。


今日は搬入(10月15日)

 ゆずりはの表紙が、火の玉小僧でやってくれとのことで、差し替え。仕事が増えてしまった。


渋滞(10月13日)

 山梨の市川三郷の秋祭りに行ってきた。前日に入り、女性S氏のところに泊まった。富士川沿いに細長くできている町である。川の両側は山である。旧六郷町というところである。

 わらぶき屋根をとたんで覆ってはいるが、内部は、少しモダンに改装されて、とてもオシャレである。焼き物作家であるから、その中に焼き物がゴロゴロしている。ショップにもなっているようだ。

 到着の日は、高校の同級生の女性S氏と陶芸作家のS氏と飲んだ。陶芸作家のS氏は難病にかかっているという。少しやせた感じがする。でも、とてもにこやかで健康的な方である。同級生のS氏もだいぶ前に、旦那さんをなくし、義理のお父さんとお母さんと息子二人と暮らしているという。

 お二人ともけなげに頑張っておられる。その一途さがとても嬉しかった。そんな、お話を聞いて、一日早く来て、酒を酌み交わす事にしてよかった。

 本番は、なかなか手ごわかった。私の即興のライブも空振りしたかもしれない。来年呼ばれたら、違うことをやろうと思う。

 ただ、もしかしたら、私は六郷町とご縁が出来るかもしれない。そんなお話が今、出ている。お二人とは関係ないところでである。

 帰りの高速は、笹子トンネルでバイクと車の事故と小仏トンネルの自然渋滞で大渋滞であった。バイクの人は亡くなっただろうなと思いながら、あまり遭遇うしない渋滞に、嫌気も差さずにニュースを聞きながら帰ってきた。

 かえって、テニス友達との宴席に2時間遅れてしまった。


多忙な一日(10月11日)

 今日は吉祥寺の教室である。展覧会があるため繰り上げてやる事になった。

 そのあとすぐ明日行われる山梨の三郷に行く。車で作品も運ばなければならず、吉祥寺教室の途中までは車で行く。

 どこに車を置いたほうが良いか、今から地図を見て調べるつもりだ。

 その前に作品を完成させて、撮影をしなければ。


東京オリンピック(10月10日)

 今日は昔は体育の日だった。東京オリンピックの開会式のあった年だ。中学1年であった。西郷輝彦と都はるみがレコード大賞新人賞になった年でもある。

 この年は私にとても、人生を左右した大変な年であった。そのマイナスをやっと最近克服した。時間がかかったが、取り戻せただけいい。


巌流島にまだ(10月9日)

 未だ、尻に火がついている。明日にはあげなければ。


巌流島(10月8日)

 武蔵の尻に火がついた。あっちっち。巌流島に行って来る。


現役の考え(10月7日)

 東洋大学の工学部テニス部が理工科系大学連盟の団体2部リーグ戦第一戦に負けた。

 実は今年4年生が、その理工科系大学リーグの個人戦のシングル・ダブルスで優勝している。これは50年の歴史で初めてのことである。

 だが、その選手が出場を希望しているにもかかわらず、練習に出てこないから、不平等ということで出場させなかったのである。

 この流れは最近の傾向である。歴史的には、強い選手を入部させて、戦ったこともあるくらいである。

 4年生には厳しい裁定だが、そのお陰でレギュラーになれた選手には甘い採決だと思う。強い奴が勝つという、弱肉強食が今の社会である。学生ならではの、私には悪しき平等主義な気がする。


中学のテニス部(10月6日)

 

 先日富士吉田に行くために、新宿の高速バスターミナルで中学時代のテニス部の同僚に合ったお話をした。

 その中学のテニス部時代の話をしよう。私の中学は下吉田中学といって、県下で確か二番目に大きな学校だった(一番は甲府の北中)。クラスが14クラスあって、一学年600人くらいいた。人数が多いわけだから、とてもスポーツが強かった。
 
 私の軟式テニス部も強かった。ほとんど先輩の教わることはなかった。しかし、良く練習をした。中学二年から三年には同期で、朝誘い合って自転車でテニスコートに向かった。全くの日の出の時間である。

 中学三年の夏の県の地区選抜対抗戦には、富士吉田市内の3中学に唯一ある下中のテニス部が参加するのが恒例だった。

 他の地区、とりわけ人口の多い甲府は、甲府市内の中学校のテニス部員全員が参加して個人戦をし、その上位5組が大会に出てくるから最強のチームであることはいうまでもない。

 果たして、その地区大会は我々富士吉田選抜といえば聞こえはいいが、下吉田中学単独チームが決勝まで勝ち上がったのであった。相手は当然の勝ちあがり甲府選抜だった。2−2でむかえ、最後のチームの健闘にかかる事になる。

 その肝心の第5戦に出たのが、バスで行き会ったHであった。とてもうまいとはいえない奴だったが、良く健闘して、試合はもつれたが、負けてしまった。しかし、堂々の準優勝であった。私は全勝であった。

 我々の試合は、年間4試合あるが前年から予算の関係で、3試合しか出場が許されない事になっていた。

 我々の同期は、県でも最強の選手がそろっていたから、2年の秋にある唯一の個人戦の新人戦にはぜひとも出場したかった。しかし、ここで私たちは詐欺にあってしまう。

 私たちが2年生の時、3年の主将が試合に出たいばかりに、3試合目に出たいため私たち2年に廊下で、俺たち試合に出たいから4戦目の新人戦は、校長に頼んで出してもらえ」というのである。いい加減な主将であった。

 私たちは校長に談判すれば簡単に出場させてくれるのかと、いとも簡単に言う主将の言うことを聞いてしまった。

 そして、本来なら主将だったその3年生が、2年生の新人戦出場を校長と折衝すべきのはずである。さらにそんな重要な案件なら、廊下で話すべきことでなく、部会を開いて3試合目に出場させてもらいたい旨を話し合うべきだった。

 実はこの話は、その主将が独断で我々2年生に伝えただけで、3年の同期や同様に被害にあっている女子部も知らないことだった。社会人になってこのことを初めて知った人ばかりであった。

 今はその主将とは付き合いはない。2年の時、次期主将の私と、副将ともう一人の3人で、校長に折衝して「お前らだけ特別なことが出来るか!」と怒鳴り怒られたのは当然である。その罵声は本来我々が受けるものではなく、ぬけぬけと第3戦までせしめた、その主将が浴びなければならない罵声だったはずだ(主将の代の3年生は前年の新人戦を含めると、4試合に出た事になる)。
 
 我々はお人よしだった。
 
 この新人戦は、我々下中が一位二位を独占できたかもしれない大会であった。私は下中の二番手だったから2位である。

 我々が3年になった夏の地区大会は準優勝という快挙だったが、次の学校対抗戦という事になれば優勝候補の筆頭になる。その予想の記事を我々は、出ていると聞いて職員室の新聞置き場に見に行った。我々の記事が5cm×10cm四方の記事になって出ていた。とても嬉しかった。

 ところが、授業をし記事を見て喜んでいたその日は、大会の日だったのである。部長である先生が、県のテニス協会の理事長もしていたので、自分が決めた日にちだからといって、送られてきた大会要綱を確認しなかったのである。勘違いしていた彼は、我々の前で泣いて謝った。

 そして最後の試合男女混合チームの大会は雨で流れた。我々の中学3年の大会は一度だけだった。我々は毎日朝練習をして頑張ったが、我々以外の人たちに足をひっぱられて実力どおりの成績を上げられなかった。

 その我々を陥れた一つ上の主将は今校長をしている。この人物の性根が変わると思えない。

カーチェイス(10月5日)

 アメリカ映画を見ていると、カーチェイスがあって、車がやたらとぶっつかて壊れていく。その車の数は膨大なんだろうと思う。公害にでもなっていないだろうか。

 先日見たウォンテッドという映画は、信じられないくらい凄い映画だった。しかし、車の壊れ方も凄かった。どうなっているんだろう。


あちらへこちらへ(10月4日)

 一昨日の2時半に週刊文春編集部に缶詰のため入った。写真のような書生風な袴の出で立ちで行った。ちょっと恥ずかしい。確かに目立つ。皆私に視線を向ける。大体それで目線をそらすが、中には私の顔をばっちり見て微笑む年配の女性も現れる。

 そんなときは私も目線を合わせ、にこっと微笑む。何か営業をしているような。

 その出で立ちで編集部で仕事をした。カットの下絵を4点ほどして、草鞋之会の会合に向かった。集合場所は松屋の入り口である。私は徳間文庫の締め切りであったから、編集者とそこで落ち合い原稿を渡した。

 有楽町駅の方に行って、静かな個室のあるお店を原田氏が予約を取っていて、おしゃべりを始める。相変わらず血液型の話が面白い。原田氏はB型、蓬田氏はAB型、私はO型である。蓬田氏が一番気難しい人だが、血液型どおりらしい。私は典型的なOだから、皆さんの話に耳を傾けるらしい。そのとおりである。

 それから、私の作品批判が始まったりする。彼らは昔のように私に仕事がないことを気づかっているのだ。しかし、意見をいわれたからって私も変われない。変わるつもりない。

 でも、その談義も楽しい。きっと彼らも私に言い切って帰ってすっきりしたことだろう。私も大人になったものだ。それも愉快な話である。17年の歳月が流れた仲間である。ゆるがない。

 そのあと、文藝春秋の仮眠室に泊まり、昨日の朝は、ちょっとお酒の残った感覚で、麹町のファミレスに6:00に出かけた。週刊文春編集部がしまっていたからだ。それから、編集部に戻り、5点5週間分の作品を納めて文藝春秋を後にした。

 外に出たのは14時30分だった。早く終えて、このあとは富士吉田市の切り絵教室だが、その前に転んで骨折して入院している母親を見舞う予定にしていたから、ちょうど良い時間だ。

 新宿の高速バスに予約なしで行ったら、間近のバスが満席であった。キャンセル待ちを入れておいたら、見事セーフ。待合室に似ているなと思ったら、中学のテニス部の同僚であり中3のクラスメートでもある堀内がいた。彼もキャンセル待ちセーフとなり、かくして、隣同士でべちゃくちゃしゃべりながら来た。学生時代は彼のアパートに入り浸ったり、実家に泊まったりしたどちらかというと悪友に近い。

 冗談ばかり言い合いながら、二人でクラス会のようである。

 母親の入院している富士吉田市立病院は私の陶壁画飾ってある。病室に入ると相部屋であったから同室の人が私にサインを求めてきた。芸能人である。

 私はその日の教室の教材を仕込むために母親のベッドの横で仕事をしりことにした。まだ、母親は手術したばかりで痛いらしい。股関節を骨折している。食事が来たが良く食べている、元気だ。

 教室を終え実家に帰ると、兄は酒を飲んで、真っ赤になってコタツで眠っていた。私はテレビを見ながら義理姉と酒を飲んで、11時には眠ったが、例によって2時に起きてしまったが、横で眠っている兄もおきてしまっていいろいろなことを朝まで話をした。

 私は6:00の電車で埼玉に帰ってきた。下駄履きで、階段は大変だなあと思った。

 午後から今日は鶴ヶ島の教室である。

 私は恵まれているが、こんなに飛び歩いても、人に会っても疲れないのである。


久々に東京(10月2日)

 無事巌流島から帰ってきた。しかし、今日から週刊文春に缶詰だ。連載8回分をやってこようと思う。全部終えて帰ってくる。

 今日は缶詰から抜け出して、草鞋之会の久々の集まりがある。蓬田やすひろ(文庫で藤沢周平・平岩弓枝担当)・原田維夫(文庫で山本一力・挿し絵で宮城谷昌光担当)のメンバーである。在住が石川県の白山市である西のぼるもメンバーである。今回は来ない。

 結成当時は私が一番年下であることで、ちょっと立ち入ったことまで言われたことはあるが、現在はそんなことはなく、楽しいの一色の集まりである。もう17年続いている会である。早いものだ。

 この中で、私が一番売れっ子ではないのだが、他の3人がすごすぎるのだ。子供の頃から絵を描いてそのままプロになった彼らと、27歳で絵(切り絵)をにわかに始めた私であるから、彼らに肉薄して健闘しているといって良い。


巌流島で遊んでしまった(10月1日)

 巌流島で砂遊びをしてしまった。これでは、小次郎に負けてしまう。

 厳しくやろう。明日は、週刊文春に自主缶詰である。


さすがに巌流島(9月30日) 

 昨日のうどんツアーは雨の中、またしても冨士山が見えなかった。今日は、仕事をしなければ。次のイベントは、山梨三郷の会のイベントである。うどんツアー記は後日。


埼遊鬼の会(9月29日)

 26日に埼遊鬼の会が行われた。メンバーはまだ少ないが、埼玉県の?(秘密)のプロを集めている。ただ単に遊ぼうでもいいのだが、何か欲が出てきて、何々しようでもいいのである。それは自然に任せようと思っている。

 今回は、文芸評論家のH氏だけであった。作家のM氏は用事があってこられなかった。それにゲストにお二人を招いて、鶴ヶ島のますみで飲んだ。H氏の本を読んでのスピードの凄さ、記憶力の凄さは、この業界の当たり前の能力だが、神様のようである。

 H氏は、オシャレとは縁遠い方だが、しかし、独特のファッションである。ある意味、もっとはずせばそれなりにファッショナブルになる。それから、私の盟友・蓬田やすひろの絵も最近出ている類似作品も、ぶっちゃけ同じに見えるという。遠近で見れば、同じものなんだと、勉強になった。

 最後は記憶をなくしているというか、私は例によって眠ってしまった。でも、とても楽しい宴会であった。また、集まる。

明日は吉田のうどんツアー(9月29日)

 明日は第二回の吉田のうどんツアーだ。やはりいろいろ今年はあったが、私にとっては一番の大役である。

自分を信じてガイドをしていくつもりだ。

皆さんが心から楽しんで帰られたらうれしい。


三つ目の賞(9月26日)

3つ目の賞をいただく事になった。富士吉田市の文化協会から、本年度の文化功績賞(正式な名前はわからない)をいただく事になった。

とても嬉しい。なかなか郷里には浸透していなかった私である。昨年から今年にかけての活躍で認められたのだろう。

いやとっても嬉しい。

私は広告の方をしていないものだから、そちらには賞は沢山ありそうだが、挿し絵・カバー画の賞というのは講談社挿し絵賞しかない。

これは何回も候補に挙がっているが、ついに取れなかった。

日本文芸家クラブ・美術大賞と報知新聞挿し絵賞の二つが私の賞である。今度の賞は意味合いが違う。

表彰式は11月だという。


久々巌流島に(9月24日)

 武蔵の尻に火がついている。消しに行ってくる。


今池(9月22日)

 名古屋の今池を思い出した。そこは大学のテニス部の一つ後輩が、住んでいたところであった。私が、切り絵をする前、焼き物をしに常滑にいった。その時、焼き物の師匠探しの拠点にしたのが、彼のアパートだった。

 突っ張ることもなく、とても自然な、縁側でのんびり日向ぼっこでもしているのが似合いそうな男である。

 そのアパートが面白い。6畳の部屋の真ん中に布団が引いてあるだけで、家財道具というものがないのである。まるで茶室であった。

 この今池に遊びに来て、初めてソープランドというところに行った。お金がなかったから、1万円握り締めてである。ところが、そのソープランド、手入れを1週間前に受けたばかりだったのである。ソープ嬢は黒のワンピースの競泳水着を着て、相手をしてくれた。こういう経験をした人もあまりないだろう。

 今池の後輩は、家業をついで今は静岡に住んでいる。5年前に一度遊びに行ったことがある。繁華街で、名物のおでんを肴に飲んだ。変わる必要もない無駄のない性格をしている奴だから、相変わらずのなごんだ雰囲気をしていた。また会うだろう。


頑張ろう(9月22日)

 今週は頑張らなければ!いざ。


立体猫シリーズ(9月21日)

  

 生徒に、最近立体の切り絵を教えている。まともにやれば3時間以上かかる作品だが、いろいろな行程を省いて、作ってもらって、2時間ちょっとで出来る作品である。

 立体作品というのは、輪郭線がないので(難しい話かな?)ある面難しくない。手間がかかるだけである。

 その立体のシリーズを猫でやっている。現在作ってもらった作品は3点。今までの教室と違って、静に皆さん作業している。集中している証拠だ。

 これからが楽しみである。


秋刀魚の季節(9月19日)

 ある人のブログをに秋刀魚の話があって思い出した。

 かなり昔、週刊朝日だったか週刊大衆だったかの連載でカットを担当し、そのエッセイの作者の芥川賞作家・宮原昭夫さんと藤沢で飲んだことがある。

 私は若い頃から、魚をきれいに食べる特技があった。だが、彼の魚を余すことなく食べるのには驚いた。私はさすがにひれは食べない。だが、彼はひれも食べてしまったのであった。

 私は、魚をきれいに食べる人は切り絵作家になれるのではないかと思っている。


真澄にて(9月18日)

 昨日は、居酒屋でY氏に会った。この方はかなり古い飲み仲間であるが、久しぶりに会った。

 彼は小説をかなりマニアックに読む方で、実は珍しく私をオール読物紙上で知っていて、ファンだったのである。

 それが、いきなり飲み屋で初対面で会って、「えっあのオールで連載をしている、百鬼丸?」とコメントしてくれた。この鶴ヶ島で、そういうことをいう人はこの人と、もう一人だけだった。

 そして、こんなに若いの?という。皆70歳くらいの人が描いていると思うらしい。


鷲と鷹(9月17日)

「鷲と鷹」は石原裕次郎の映画のタイトルだが、DVDを借りて見た。昭和32年の作品だから私が6歳であった。芸術再参加作品だけあって、日活にしてはなかなか厚みのある作品である。

裏切られて死んだ親父の敵討ちをする主人公が、ある船に船乗りとして乗り込んで、敵のその船の船長を殺そうとする話だ。

俳優が、もう亡くなった人ばかりで懐かしい。生きているのは、船長に無断で乗り込んでいた娘役の浅丘るり子、主人公を追って密航していた女の月丘夢路の女性2人だけである。

懐かしいのは津川雅彦のお父さんの、澤村国太郎が出ていたことである。津川雅彦にそっくりである。この澤村国太郎さんは、後々、確か脳梗塞になり、長い間闘病していたと聞いている。


アドレス帳から消す(9月16日)

アドレス帳から、一人の方を消した。亡くなってしまったからだ。

この瞬間はとても寂しい。

私の高校二年のときのクラスメートで坂戸に住んでいた。それで一時は私の生徒でもあったが、旦那さんが外交官でもあり、ロンドン赴任で5年ほど日本に不在で、かえって来たのは聞いたが、その後連絡がないので、おかしいなあと思っていた。

難病を抱えてしまったらしい。

そういえばこの間、集英社に行った時に、ベテラン編集者のmさんという女性から、私が世話になった編集者がかなり亡くなっている事を聞いた。かなりというより信じられないほどの数であった。

他にもいる。佐々木久子さんだ。酒という雑誌の編集長で、その雑誌の扉のカットを15年くらい連載させていただいた。

最後の彼女のエッセイ本は私の装丁のはず。その完成祝に、編集者も交えて四谷で飲んだ。日本酒は人肌の燗が一番とおっしゃっていた。他に肴のことも話されていたが、忘れてしまった。

時々は、皆さんを思い出して酒を飲んで見たいと思っている。

さぼる

 野外での切り絵をサボっている。皆さんの目にさらされて仕事をするようにしたい。天気もさわやかになったし


アクセス30000件(9月15日)

 私のホームページのアクセス数が今日で多分30000件を超える。昨年の10月2日に設置したから、いいペースでアクセスしてもらっている。

 何か要望がある方は、メールで意見の聞かせて欲しいと思います。とにかく、まだいろいろなところが不備のHPです。ただ、形式だけは気に入っています。最初のページで、リンクで入っていくというのが嫌なんですね。


二回目の新人(9月14日)

 最近、挿し絵の仕事が増え始めている。

 それで、若い編集者と話す機会がある。彼らは私が、15年前に全月刊誌に連載をしていたことを知らなかった。

 その頃はカットも含めて12位の連載を抱えていた。超売れっ子であった。下手だったが。

 若い編集者は私の絵が新鮮に見えるらしい。そして、挿し絵をしてもらえるとは思っていなかったらしい。

 今は方向を変えた。

 出版の仕事で、スケジュールをいっぱいにしたくはない。


教え易い(9月13日)

 昨日は切り絵の鶴ヶ島教室に行ってきた。

 今は猫の立体シリーズをやっている。立体切り絵といっても、厳密には切り絵というジャンルに入るものではない気がするが、私が勝手にそう名付けている。

 立体作品というのは行程がいくつもあって、時間がかなりかかる。だが、平面作品と違って、輪郭線が出てこないので、意外に誰である程度の作品が完成する気がする。

 平面作品というのは、輪郭線が難しい。個性が出るし、巧みな線を真似するというのは至難の技である。だから、私の下絵を渡して、弟子に平面作品を作ってもらっても、すぐ、私が作った作品じゃないとばれてしまうはずである。

 そういう面では、ナイフのふらつきがなければ、ある程度私に近い作品は出来るのだろうと思う。

 そして、この立体作品は生徒に教え易い。


つぶれた(9月12日)

 私のテニスは、ぐりぐりにスピンをかけるスタイルだ。今流行のテニススタイルだが、大学を卒業した次の年に始めた。元々中学・高校で軟式テニスをしていたから、ウエスタンにして打ち方を戻しただけだ。

 だから、シングルスの3セットをするとガットが切れてしまう。

 お店でガットを張り替えてもらうと4000円近くする。とんでもなく金がかかる。そこで、ガット張り機を買って自分で張っている。大学時代もお金がなかったから、クラブでたった一人、手張りでガットを張っていた。

 当時は皆回転をかけるプレイスタイルでなかったので、ガットは滅多に切れなかった。でも、私にはお金がもったいなかったので、自分で張っていた訳だ。4年間自分ではり続けたが、誰一人として私の真似をしなかった。

 皆お店で張ってもらっていたのである。金持ちである。

 もう、買って20年近くになる。便利に使っていたが、そのガット張り機のメーカーファーガソンが解散してしまう。ガットもそこで買っていたので、残念である。


新しいお店(9月11日)

 昨日、某誌の編集者が打ち合わせできたんで、行きつけの居酒屋「かず」にいった。

 つつがなく打ち合わせて帰ったが、帰りに最近行き始めた鶴ヶ島の老舗いわし料理の「ますみ」の前を通った。店主が外にいた。「飲んでいかないかい?」と誘われた。

 もちろん、嫌はなく、もう看板近くで客がまばらなお店に入った。一人で飲んでいると、店主がお店を息子さんに任せて、私の隣で飲み始めた。まだ、この店は4回目であるが、初めて行ったときにこのお店の方々は、私を良く知っていた。だから、常連のような扱いをしてくれて、私がまだ学生だった頃の鶴ヶ島の歴史から、私が知る方々の行方とか興味深い話を聞く事になる。

 そして、店主の鶴ヶ島での交友の広さがよくわかった。今まで、鶴ヶ島の方と交流はなくはなかったが、その方たちを通じて、広く付き合いが発展していくというようなことはなかった。

 この店があるのをだいぶ前から知っていたが、入ろうとしたら、私が苦手な客がいたので、この店だけは入らなかった。聞いたら、その客はほとんど来ないということだった。もったいないことをしたと思った。

 これから、鶴ヶ島での人との交流が店主を通じて広がりそうな気がする。

 お店に店主の娘さんもいた。目を合わさず、人と話すのが苦手な娘さんであるそうだが、とても素朴さが絶倫で心がきれいそうである。滅多にいない彼女のファンはきっと多いはずである。本人の意識とは裏腹に看板娘である気がする。


秋(9月10日)

 昨日はさわやかな天気はだった。テニスをした。

 生徒がアシスタントで入るので、40分ほどしただけである。実は前日、バックボレーがまだ学生時代に戻っていないことから、もしかしたら「こうしていたのかもしれない」と考えて「明日はこれを試してみよう」と思っていたのである。

 ボレーは自然に打つと、フォアボレーなら左に、バックボレーなら右に飛んで行くが正常な状態であると思う。私のバックボレーは左方向にしか行かない。右方向は意識しないと行かない。こんなことは学生時代にはなかった。

 その今日の目標をやってみたら、きれいにスピード豊かなボールが無理なく右側に飛んで行った。

 大学4年間でマスターしたバックボレーを、東京でマネージャーをしたり、常滑に行ったりのブランクで忘れ、テニスを再開して22年もかかって取り戻した事になる。時間がかかりすぎだが、これで、ダブルスがいっそう楽しくなりそうである。

取り巻き(9月9日)

 九里洋二さんの展覧会に行った。入り口で宇野亜喜良氏に会った。挨拶をして中に入った。宇野さんがいるのだから、さだめし名のあるイラストレーターがいるのかと思いきや。

 知らない人ばかりだった。

 九里さんの生徒だという若い女性が二人、九里さんにべたっとくっついて、彼を独占している。これでは他の人も入り込めない。また、他の人の話をふるわけでないから、他の人は黙々と食べ飲みしているだけである。

 他の客はさどやつまらなかったろう。

 九里さんの絵は相変わらず面白かった。

 カメラを忘れてしまった。携帯カメラはメモリーがいっぱいであった。


大泉町の展覧会に向かって(9月8日)

 次の展覧会は群馬県の大泉町である。規模がでかいので、途方にくれるところがある。来週にもう一度行ってみようと思う。

 この展覧会は、私の大泉町のファンの熱意で、町を説得して実現した展覧会である。とてもありがたい企画である。

 ただ、送られてきた画像が私のパソコンでは、取り込めず、画像をHPにアップするとすると、画像は印刷は出来るので、それを印刷してから、それをスキャンして取り込むという方法をとらなければならない。でも、もうすぐそうするつもりである。

 大泉町は、国から補助金をもらってない、とても余裕のある町なのだという。工業団地があり、日本一外国人が住んでいる町なのだそうである。展覧会に外国の方も多くいらっしゃることだろう。

 また、群馬は日本で一番の切り絵人口を誇る切り絵の本場である。関口コウ氏を筆頭に、切り絵百景館の後藤氏、故石井一臣氏(息子さんがあとを継いでいて、石井一臣を名乗っているそうな)と名のある人がいる。きっと切り絵愛好家も顔を出すだろう。

 即興のライブの名品も掘り出して展示しようと思う。


九里洋二展(9月7日)

 また、9月8日から九里洋二展がある。「百鬼丸は凄い、うらやましいくらいだ。でんとしていろ、仕事なんかやってやるでいいんだ」と私にアドバイスをしてくれた人である。

 よく個展をする人である。といっても、作品も多産な人である。だから、自然発表が多くなるんだろう。今年80歳だというが、相変わらずの風貌である。なかなかいない、害のない変わり者の人である(害と書いたのは、変わり者の人には、人を傷つけることを言うタイプの人が多い気がするからだ)。

 月曜日がオープニングのパーティである。出かけてみようかと思う。


山梨サポーターズクラブ(9月7日)

 山梨のサポーターたち(やまなし大使)が一同に集まるという目論見のイベントが、六本木ヒルズでおこなわれた。NHKのアナウンサーの古屋氏・國井氏がきた。他にプロレスの武藤・写真家の白籏史朗氏・作家の林真理子氏の顔が見えた。

 多分かなりの人数が出席していないのかもしれない。会場には宝石・織物・ワインと山梨県産の物産が陳列され、また、料理とお酒が振舞われ、我々大使への期待の大きいことが知れる。

 写真を撮ったが、全てぼけていて掲載できなかったのが残念だが、かなりの人と私は知り合うことが出来た。私は出来たばかりのカレンダーを皆さんに配った。また書生姿の私の和服も目を引いたようである。


龍神祭り(8月5日)

 今日は山梨県の「やまなし大使」が集まる会がある。六本木でである。どんな会なのか楽しみである。私は着物で行こうと思う。

 朝日かわら版という朝日新聞系のミニコミ誌に鶴ヶ島でおこなわれた龍神祭りのことが書いてあった。それを書いた記者の方は、前々回の私の個展である鶴ヶ島中央図書館展を取材した記者であった。

 その中で、鶴ヶ島の市会議員と埼玉の県会議員とかの政治家のお祭りでの演説が長すぎるということが書いてあった。そのせいで、クライマックスを見る前に待ちきれない子どもたちが帰ってしまったり、野次を飛ばす人たちも現れたということであった。

 確かに、正月の私の公民館での個展の時に、市会議員が挨拶に来た。お客の前で話をしていたけど、ただ長いだけで、さっぱり面白くなかった。困ったことである。


政治は戦国時代(9月4日)

 室町時代の守護大名みたいなのが、政治家に沢山いる。征夷大将軍になっても、何であいつがなるの?と最初から、小馬鹿にしている。

 この状況は、ずっと続きそうだ。そして、どうして良いか私もわからない。

ただ、信用できるのは基本的に自分だけの時代が来るんだと思う。自警団が出来たり。


福田さんも辞めて(9月3日)

 福田さんも辞めて、日本ががたがた崩れている気がする。外国からは不思議な国だと思われているだろう。

 幕末の無能な徳川幕府に似ている。大政奉還でもしてもらいたいが、奉還する相手がいないなあ。


ライブ大成功(9月1日)

 印象深い展覧会が終わった。畳屋さんの2階にあるショールームでの個展ということで、ご主人やら、ご家族従業員には大変お世話になった。それから、雨が続いたこと。それにもめげず私のファンの方々が訪れ、有難かった。

 最後の百鬼丸一座の皆さん有難うございました。また、どこかでやりましょう。

 今日は展覧会場の片付けがある。ただし、何点かは作品を残していく。いつまでかわからないがそのようにしておく。そして、集英社に自主缶詰である。


本日ライブ&コント(8月31日)

 本日が、展覧会最終日。私の切り絵即興ライブと出月勝彦さんをはじめとするコント役者5人による芝居がある。

 楽しい、コントと切り絵の二本立てという何とも贅沢なイベントである。雨が降らなければいいが。

 この「百鬼丸コント一座」が川越のどこかのお座敷に招かれて活躍できたら、川越の街もいっそうにぎやかになることだろう。

 だがどこの町でもそうだろうが、昔のような酔狂を好む旦那衆がいなくなった今、定着させるのは至難だろう。


菓子屋横丁断念(8月30日)

 菓子屋横丁で、5分くらいで作る切り絵や紙芝居やコントをしようと掛け合ったが、その場所がないと断られた。

 川越・菓子屋横丁は今流行っていて、客が凄いが物売りが入り込めばその風情は増すと思うのだが、流行っているから、それほど冒険しなくてもいいという意識なんだろう。地元の人間はどこでもそのようだ。


秩父歌舞伎(8月29日)

 今日は富士吉田教室の日であるから、展覧会が終わった後富士吉田に行く。

 昨日は10月末に埼玉伝統工芸会館でおこなう「百鬼丸の立体切り絵・歌舞伎の世界展」のゲストとしてきていただく秩父歌舞伎の方々と会うために、展覧会のあと会いに行った。

 秩父歌舞伎は、江戸時代から連綿と続いている、民間芸能である。元々は全国にあったのであるが、、各地のものは廃れ、金比羅歌舞伎と同様戦後、復活今に残っている。

 伺ったら、子どもたちに「白波五人男」の歌舞伎の稽古をつけているところだった。子供の頃から歌舞伎の種を心に植え付けようと、子ども歌舞伎もやっている。その子どもたちを見守る大勢の大人の方々の、暖かい目線に、並々ならぬ歌舞伎への情熱が伺える。

 私の展覧会の会期は1ヶ月と5日くらいだが、2回ほど私の即興切り絵ライブと共演する。今から楽しみである。


久々の晴れ(8月28日)

 展覧会に来る人数は多かった。私も、まだまわっていない展覧会会場に行ってみた。

 アート展を巡っている人に出会うと、私の会場の案内をするんだが、その人たちはやっぱり私の会場が遠いから来ない。

 一ヶ所、写真の展示をしていた人がいて、話をしているとため口である。きっと私を年下だと思っているんだろう。話の内容で、私の年下だとわかるのだけど。最近こういうことが多い。

 複雑な気持ちである。


バスツアー(8月27日)

 本当は昨日東京出発の第二回の吉田のうどんツアーがあっはずだった。人が集まらないでやらなかった。

 そして第二回が9月29日にやる。今度は埼玉出発便であるから、人は集まっている。現在は13人くらいだが、楽観している。前回のリピーターも多い。

 昨夜は、展覧会のあと、大学時代のクラスメートと川越で飲んだ。仲間内で飲んだことはあるが、二人で飲んだのは、意外に少ないのかもしれない。初めてなのだろうか。もちろん男である。

 私の大学は工学部であったし、そのキャンパスは工学部だけであったから、女性は当時少なかった。全体で4・5人くらいだった。そして私の学年には一人もいなかった。今は2000人の学生の中に200人くらいは女性がいるようだ。


夜明け(8月26日)

 夜明けが遅くなった。寂しい。


雨の展覧会(8月25日)

 雨の展覧会。天敵である。

 初めてやった個展は、25年前くらいになるのか、ちょうどサンデー毎日の表紙を担当していた時に、ギャラリーが急に空いたからということで、急遽やった。

 場所は、銀座一丁目の銀座通り一階の良い場所にあった越後やギャラリーであった。このときに降ったのが雪だった。一週間の会期中、2回も降ったから、その時は一日二人とかとても無残なものだった。

 私は個展は人が入らないんでいやになり、やらなくなった。

 そして、印刷物として個展をしているようなものだからいいやと思った。

 しかし、埼玉に引っ越してきて、石井一臣なる聞いたこともない群馬の切り絵作家が埼玉の大使として、知事の庇護を得て活動していた。私は、日本で一番仕事をしている切り絵作家であったから、そのプライドを賭けて彼に挑戦しようと再び個展を始めた。その石井氏は今は亡くなっていないが、そのまま、私は個展をいっぱいしている。

 今日も雨なんだろうか。


伊勢屋(8月24日)

 吉祥寺切り絵教室のあと隣のビルにある、新装がなった伊勢屋に行った。

 勘定をして驚いた。1050円である。焼き鳥を6本食べた。チュウハイいっぱい。炭酸と焼酎も頼んだ。焼き鳥も大きかったが80円である。伊勢屋の魅力は安いことなんだろう。

 中で、焼き鳥を焼いている人がゴーグルをしながら、無表情で焼いている。ちょっと怖いから、客も何か頼むのにも「すみません」を接頭語につける。

 この焼き鳥屋は、私が、糸操りの「結城座」の公演「あのこ」の時に、背景の幻灯機映画のキャラクターを50人ほどやったときに、吉祥寺のアパートで1ヶ月缶詰になっていた時に、仕事を終えてよく来た。


野球の敗戦(8月23日)

 私は星野仙一という人を好きではない。まだ人生経験もない若い時代から、悟ったようなことを言う人は胡散臭くて嫌いである。天野祐吉?とか小室等とか。

 昔から嫌いかというとそうではない。若い時代は、若いのにしっかりした意見を持っていて、凄いなあと思ったものである。

 そんなイメージを持っていた星野仙一である。そしてボクシングの亀田興毅を「おもしろいやっちゃ」と持ち上げていた。誰でも間違いはあるのである。星野仙一を持ち上げすぎである。


あるってアート川越2008(8月22日)

 昨日から、あるってアート川越をしている。25人のアーティストが、川越市からスペースを託されて個展をする企画だ。このイベントをすべて巡ると自然に川越の観光も出来るようになっている。

 私は、観光名所に沢山点在しているアートスペースからぽつんと離れたところにあり、人が来ないハンディーがあることがわかった。しかし、畳屋さんも皆さん大歓迎してもらっているし、他のところと違う独特の雰囲気がある。とても気に入った場所である。

 合同のオープニングパーティが合ったが、国際色豊かで、アーティストの熱気が伝わってくる集まりであった。とても楽しかった。今日は芥川・直木賞パーティに行ってくる。


ソフトボール(8月21日)

 オリンピックでソフトボールをやっている。小学生の頃、学校対抗ソフトボール対抗戦があって、私はピッチャーだった。

 だから、ソフトボールを見ているとそのころのことを思い出す。

 私は、もともとイレギュラーだった。しかし、コーチの先生方がイレギャラーの中から、ピッチャーを見つけようということで、全員ピッチャーをして、試された。それで球が速いと私が選抜されたのだ。

 結局私は、のし上がって正投手になってしまった。

 しかし、本番ではむきになってしまって、投球を忘れてしまった。ぶざまに打たれた。

 6年生になると、次の代と先輩として練習相手になる。そのときのピッチングは最高だった。ほとんど、三振をとってしまって、打たれることはなかった。先生たちは本番でそれを出して欲しかったと思ったことだろう。申し訳なかった。

 そのときのベスト9人を思い出してみよう。ファーストは和光敬二郎・セカンドは田村溶吉・ショートが渡辺君夫・サード渡辺辰巳・レフト渡辺よしかず・センター渡辺公三・ライト渡辺智英夫・捕手渡辺よしみ。渡辺公三君は、20代前半で自ら命を絶っている。今でも親交がある人が多い。


展覧会の準備(8月20日)

 いつも弟子が手伝いに来るのだが、どうも来ないようだ。一人でぼちぼちやっていこうと思う。

 今日は、来年のカレンダーが完成してくる日である。この展覧会にあわせて作った。お買い求め希望の方は300円ですので、HPのメールでお申し込み下さい。大量に購入の方は割引もあります。

 日記も、短めに仕事をする。


店に飾られる(8月19日)

 

 鶴ヶ島の行列のできるラーメン屋さん、「麺屋信玄」に私の絵が飾られた。

 このラーメン屋さんの近くに私が良く仕事をする(客として、切り絵の作業をしている。時々ボーイをしているのかと間違われる)レストランがある。その帰りに見つけたラーメン屋で、きっと山梨の人が経営しているのだろうと入った。まだ、店が工事が終わったばかりで開店してないときだと思う。

 ところが、右の写真の左の息子さんが、店主なのだが、そのお父さんが山梨に頻繁に仕事に行き、武田信玄のファンだったことから、この名をつけたのだという。

 それから、私のイベントにはお父さんは訪れ、写真をバチバチとっていく。これから、何かお役に立つこともあるだろう。長いお付き合いになりそうである。


四十九日法要(8月18日)

 四十九日法要に富士吉田に行ってきた。富士吉田は曇天で霧も時折かかっていた。とても涼しかった。お寺は西念寺という、渡辺家代々のお墓があるところにである。私の同級生が高校3年の時に交通事故で亡くなりここのお寺に埋葬されている。

 法要後の食事の途中には、皆さんの前で私は話しをした。列席の余りお付き合いのない遠い親戚の方の思い出をお笑いで語り、遅れて浅香光代さんからの、葬式の弔辞用に送られてきたカセットを皆さんに聞いていただいた。

 彼女は、長い文章を達筆で巻紙にしたためて送っていただいたのであるが、読めないと困ると思って、自分でその文章を読んでカセットに吹き込んでくれたのである。私のお宝である。

 皆さん印象的な法要になったのだろうと思う。


ふんどし(8月17日)

 10年位前から、パッチワークをするようになり、衣類にいろいろなものを縫い付けてきた。

 そうすると布を集めるようになる。そうしてたまった布の処置を最近どうしようと悩んでいる。それで考えた。

 ふんどしを作ろうと。布の端を閉じたりすると時間がかかるから、布を裂いた状態での切りっ放しで、紐も切り裂いただけのものにした。

 ただ、本体の布と紐の布を縫ってくっつけるだけでいいのだ。そんなふんどしを昨日3つ作った。実は前に2つ作ってあるから、5本である(本でいいのだろうか?)。

 この夏、エアコンを一度も使っていないが、このふんどし一つに、裸足でいるととても軽くて快適である。汗は首から垂らした自分の絵柄の手拭いで拭く。

 扇風機が有難い。


デコトラックアートの巨匠・関口操(8月16日)

 今年の4月だったか山梨県の上野原市で開かれたジョイソーラン発表会で、私は審査員をしたのであるが、同じ審査員に招かれた中に、トラックアートの関口操氏がいた。

 私は彼のことを知らなかったが、その世界では親分とまで言われている方らしい。

 ところが、彼からいただいた名刺の住所が、埼玉県東松山市であったのだ。東松山市は、毎年おこなっている埼玉伝統工芸会館での展覧会に通勤する途中にあり、彼を何ヶ月か前に突然訪ねた時は、まさにその通勤の道をちょっと入ったところにあったのだ。

 彼は元々、絵描きではなくトラックの運転手で趣味でトラックに絵を描いていたのであるが、それが評判になりプロになったのだという。

 彼は私より3歳ばかり上の60歳で、彼は私を45歳くらいに見ていたようだ。年齢を通知したら、目の色が変わり、幾分丁重な言葉遣いになったような気がした。

 風貌はいかついが、とてもシャイな方のようで、優しい対応をしていただいた。

 ジョイソーランの上野原の地で、思わぬ出会いがあった。


映画(8月15日)

 映画を最近良く見ている。先日はビデオを借りてきてみた。石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」と赤木圭一郎の「霧笛が俺を呼んでいる」だ。両方ともだいたい似たようなあらすじだった。

 日活では浅丘るり子の方が好きなのだが、「俺は待ってるぜ」に出演している北原三枝はとてもきれいだった。

 赤木圭一郎は、リアルタイムで映画を見たことがないし、その後も見たことがなかった。裕次郎に比べると垢抜けないが、その不器用そうなところが、一途な雰囲気を出すのにぴったりな気がした。

 昨夜は、ダークエンジェル(バットマン)を見た。もう顔を背けたくなるほどの暗い映画だ。それが丁寧に作ってあるし、迫力は十分。だが、もういいだろうというほど長い映画だった。だけど、作っているスタッフの気合が伝わってくる作品だと思う。


信念の誓い(8月13日)

 アトリエの模様替えをしたが、すぐ散らかしてしまう。これから、すぐ片付け、またまめに整理をしていくことを誓う。


錦織を見たい(8月13日)

 オリンピックに出場するテニスの錦織のプレーを見たい。しかし、日本女子は皆強いなあ。


夕立(8月12日)

 新しくアトリエの奥の、2畳ほどの小さな部屋を仕事部屋に改造しておいたのだが、昨晩のもの凄い夕立で、窓を開けっ放しにして留守をしていたもので雨が振り込んで、部屋が水浸しになった。

 図書館から借りた文庫が水浸し、それから、オール読物の今日締め切りの下絵が、びしょぬれになった。もう一度清書しなおした。何とか部屋も原状回復した。

 これから、外出時は窓を閉めていこう。


突然(8月11日)

 東京出発版の「冨士山観光と吉田のうどんツアー」は定員に満たなかったため、中止になった。

 参加される方には通知をしたが、昨日通知した足立区のご夫婦が突然埼玉県鶴ヶ島市のアトリエにやってこられた。一度行くとなったら、絶対に行きたいんで単独で行きますとのこと。

 それで、お勧めのうどん屋さんを聞きにいらっしゃったらしい。いや、驚くべき執念。

 たまたま、2枚ほど「吉田のうどんマップ」が残っていたのでそれをお渡しし、解説を加えた。

 富士山の絶景の場所もお教えして、冨士山周遊のご案内も少しした。まあ、当日は吉田の火祭りであるから、それだけ見ても、見ごたえのあるもののはず。

 わざわざ来ていただいて、来てよかったといっては頂いたが、ご満足だったのだろうかと気になったが、精一杯の対応であった。

 アトリエは駅から近いが、だいぶ迷われたという。申し訳ない。


百丈(8月10日)

 立体作品はいつも川越市役所前の、中山スタジオというところでやってもらっている。中山スタジオの店主は若い頃は、フリーのカメラマンとして、フォーカス等の雑誌で活躍していた信頼のカメラマンである。

 その中山スタジオの前の市役所大駐車場をはさんで、向こう側に「そば屋・百丈」がある。観光客が押し寄せて今では、大変盛況なお店でもある。店主は脱サラでお店を始めた方である。

 この百丈が開店した当時、3階で2回ほど個展をしたことがある。それで、このお店とは繋がりが濃いのであるが、まだ繋がりがある。

 このお店の建物は、大正時代に建てられたもので、川越指定の文化財である。それで、この建物をお店に改造するに当たって、外観はもちろんある程度の規制があった。

 その内装設計を担当したのが、中山秀明という私の大学時代のテニス部の3つ下の後輩であるのだ。彼はこの建物で、川越の設計賞をもらっているはずである。

 また、百丈の娘さんは一時私の弟子であった。

 奥さんは、私のアトリエの大家さんである長峰さんの奥さんの高校時代のクラスメートである。

 その長峰さんのアパートが、私のアトリエの道を挟んで向かい側の、今は「とんでん」というレストランのところにあって、学生時代は私はそこに住んでいた。

 もちろん、長峰さんが経営しているお茶屋さんの包装紙ほかは私が担当したものになっている。

 そんな繋がり深い百丈に、今は江戸物売りの手拭いを置いてもらって販売している。


若者たち(8月9日)

 町を歩いていると若者たちに出くわす。ちょっと不満を思う。

 しかし、自分が若かった頃を思い出すと、その頃の大人にどれだけ私たち若者に、とんでもない奴らだと思われたことだろう。

 ラッパズボンをはき、髪の毛を汚く伸ばし、たまにパーマをかけ、サングラスをし、髭を伸ばして、自分のことを差し置いて人を攻撃したりとまだまだいろいろなことをやってきた。考えてみたら、今の若者より始末が悪いとんでもない奴らだった気がする。それにその人数はめちゃくちゃ多かった。

 今も昔も、若者はつまらない。そして、つまらなくない若者はうさん臭い気がする。


取り扱い注意(8月8日)

 三つの教室をしていると、私の取り扱いの違いが出てくる。

 一番敬意を示してくれるのが吉祥寺産経学園の生徒たちである。

 次が、鶴ヶ島の生徒たち。

 次が、富士吉田の生徒たちである。

 富士吉田の生徒たちの半分は、多分私のことを知らないで入ってきているのではないだろうか。ただ、市が運営している切り絵の安い講座があったので、入ってきた人が多いのではないだろうか。

 私が、ほぼボランティアで遠路を月二回も行っているのに、出席の人数が半分だったりする。

 講座が安いから気軽に休めるのだろうが、こちらはたまったもんじゃない。

 屈辱感を味わってしまう。

 居住地もそうだが、出身地も活躍している人間が身近にいるはずがないと思っているから、一番対応が遅れてしまうのが、世の常なのだ。(だから、先日の鶴ヶ島中央図書館でも、毎年やっている埼玉伝統工芸会館でも、必ず10人くらいは、私の絵が載っている本のカバーを見て、それを真似して切り絵を作って展覧会をしていると思う人が出てくる)

 こんな話がある。直木賞作家で盛岡在住の人気作家・高橋克彦さんが、週刊文春だかで連載をしていた時、盛岡のクラブに行った。そこのホステスは彼が作家で、名前も高橋克彦と知っていた。そして、週刊文春に載っている小説を書いている作家が「高橋克彦」であることも知っていた。

 しかし、彼女はクラブに訪れた高橋克彦さんに、「高橋さんと同じ名前の人が、週刊文春で小説を書いていますけど、同じ名前の同業の方がいるんですねえ」みたいなことを言われたのだそうである。


面白がる(8月7日)

 数日前、ラジオから落語家のT氏とその門下生のタレントの何人かの、雑談をNHKが流していた。

 毒蝮とか、T氏より面白いと思うが、話がT氏に遠慮がちでイエスマンに成り下がっている。嵐山氏も山藤氏も頭で会話をこねくっているだけで、腹を抱えて笑えるような会話はない。

 この年代の特徴だろうか。朝日ジャーナルを小脇に抱えて歩いた年代なんだろうが、笑いをえらい高尚なものにすえて、それについてこられないと馬鹿のレッテルを張られそうな気がするのである。

 私には、本人たちは会話を楽しんでいないし、ただ、面白がっているだけのような感じがする。

 唯一、松尾貴史は面白い。他の人より才能を感じる。

 T氏も知識はあるんだろうが、とても笑える人ではない。唯一彼に好感を持つところは、彼が照れ屋であるところである。


頭痛治る(8月6日)

なかなか眠れなかったが、12時過ぎに眠りに入って、何とか頭痛が治った。

手当たり次第に雑務をこなしていくつもりだ。


頭痛になっちまった(8月5日)

何か免疫力が落ちたのか、頭痛・喉痛・肩こりが起こった。全て例によって右側。

整体に行って、喉をルゴールで自分で焼いて、眠れば治るだろうが、眠れそうにないので、映画に行ったが、HPで調べていかなかったから、間が悪く、何も見ずに、「ハンコック」という映画の前売りを買って帰ってきた。

おとなしく眠るつもりだ。

整体は中国整体。昔高額で治療してもらったところであるが、今は保険が効いて、1000円で30分も面倒見てくれる。本物の中国整体だ。

ふくらはぎが疲れたいるとのこと。今日は展覧会の搬出日で、働いたからね。それに、搬出の返す刀で、部屋の模様替えまでしてしまった。

広くなった。

ショップ(8月5日)

 今日は展覧会の搬出である。

 アトリエの廊下をショップにしようと思ったりしている。次の展覧会の会場の畳屋さんも展覧会のあとも、引き続き、作品を置いておくことが可能とのこと、それは有難い。川越のアンテナショップになったらいいなあ。

 畳屋さんですからね、マニアックでいい感じがします。時々私がそこで仕事をしたりして。

また一つ終わり(8月4日)

 一つ展覧会が終わった。この次の川越での展覧会まで10日あまり。この期間サボることなく仕事を遂行しよう。
 仕事が山積みである。


現る(8月3日)

今日は展覧会最終日である。昨日ご覧の本の著者が現れた。

 私のHPも見てくださっていて「百鬼丸さんの造形は独創的で創造性にあふれ、まことに見事なものです。私の三大芸術家(宮崎駿、村上豊、百鬼丸)の一人であります。」とおっしゃる。

 本をいただいたので、早速読んだ。この本は久山氏が大曲元中尉という太平洋戦争で、硫黄島に就いたまだ、存命の元兵士から取材され、大曲氏の監修という形で正確に硫黄島での戦況を、記述した本である。

 久山氏は、この本を絵本にしたいということで、私に依頼に来たのである。いやといえないほうの私であるが、さすがににの足を踏む。

 私に出来るのであろうか?とまず思う。この本の情景を私の画力で描けるのか?描けるにしても、どれだけの労力がかかるのか?

 それはともかく、悲惨な戦いである。皆さんに読んで欲しい本である。

 あと一人、私の前に何も言わずに座り込んだ男性がいた。最初に発した言葉が「おいしい野菜を食べていますか」だった。市の農業委員をしているかただという。珍しい対面をする人である。

 そのあと、野菜の食べ方とか選び方をおしゃべりになり、さらりと帰っていかれた。やさしそうな方であった。

 昨日は机の前が、一瞬人だかりになり、サービスで即興のライブをおこなった。人だかりにさらに輪がかかった。


あと2日(8月2日)

 展覧会のあと、富士吉田に行ったので、何か8月1日は長い気がした。

 展覧会もあと2日である。次第にお客が増えてきている。口コミだろう。

 良かったので、連れてきましたという人も多い。

 だが、この展覧会で、ファンをまた獲得できたと思う。いい展覧会だった。


昨日(8月1日)

 とうとう8月だ。早い。

 昨日はたくさんの方が展覧会に訪れた。市長も来た。この展覧会のために、控えめに鶴ヶ島のお祭り「龍神祭り」のTシャツを作って売っていた。

 それが最後の一枚になっていたのだが、それを市長が買った。何といいタイミングか。残っていたのは市長のために残しておいたような、XLだったのである。

 それにしても、皆さん熱心に見てくれる。有難い。


いろいろな人(7月31日)

 展覧会にはいろいろな人が現れる。昨日は、富士吉田出身で毛呂山在住の方が来た。小中学校が一緒の3歳上の人であった。

 私が小学一年生に入学した時に、その小学校の教頭を父がしていたから、父のことを知っているのではないだろうか。

 話はそれるが、私が一年生入学時に、新入生代表ということで入学証書をもらいに壇上に上がったのを覚えている。その前に先生が急に私を呼び出し、その段取りを教えてくれた。

 先生たちが面白がって、親父が息子に入学証書を渡す演出をしたのである。

 親父は嬉しかったことだろう。


不労所得(7月30日)

 私は、本のイラストを描いているが、印税ではないので今まで不労所得というものがほとんどなかった。出版で絵描きが印税を稼ごうとしたら、絵本の分野に行かなければならない。

 今年から、自分でTシャツを作り始めた。展覧会ではそれを売っている。

 今やっている鶴ヶ島中央図書館での個展は、図書館側がお金を払えないから、小額のものというくくりで売ってくださいということで、Tシャツや画集を売っている。

 売れると私にとっての不労所得である。


最後の1週間(7月29日)

さあ、展覧会最後の1週間である。あと1週間で図書館にいけないのが、寂しい気がする。

入らない若者(7月28日) 

図書館の二階の展覧会場の前を通っていくと、自習室がある。若者がそれを利用するために、展覧会場を眺めながら通っていく。しかし、その若者たちが展覧会場に入ってきたためしがなかった。

 だが、昨日は3人ほどが入ってきて、熱心にながめていた。

 だいたいが、展覧会に入ってくる人は35歳以上の方々が多い。中学生から35歳くらいの人は、なかなか入ってこない。きっと絵に対して希望を持っていないんだろう。絵よりもっと面白いものがあるだろうと期待している年代でもあるのだろう。

 その年代というのは、まだ地に足が着いていない時代なのではないだろうか。

 確かに面白い絵なんてそうはない。返って、つまんなくて苦しい絵の方が多い。だから、そんな絵を供給している美術家の自業自得なんだけど。

 だけど、ある程度歳をとっていくと、落ち着いて、ちょっと眺めてみるかと気軽に入ってくるのかもしれない。

 でも、期待して入ってこなくても、皆さん驚いたり、感激したりして帰っていただいている。若者も、入ってくれば驚くはずだ。

 しめしめである。

そのまま(7月27日)

 展覧会もあと一週間である。昨日は産経学園のカルチャーセンター講師で、吉祥寺に行った。

 展覧会場に行ってから、電車で行くつもりだったが、そのままバイクで、久々に都心に行った。毎回、産経学園には、和服に袴姿で行くのだが、今回はバイクに乗ってその姿である。

 普段は電車にその姿で、ちょっと恥ずかしいが、都心に行くと、その分だけ視線がなくなる。珍しい人は沢山いるからということだろう。駅前に駐輪場があって、無事駐輪も大丈夫だった。

 そういえば産経学園の隣は新装になった、居酒屋・伊勢屋である。ビルの一階に、往年の間取りと同じにして昔と同じ雰囲気を味わってもろらおうというわけだろうが、並ばなければ席にありつけない。

 しかし、バイクで行くと産経学園の帰りにいっぱいというのがなくなる利点がある。


久々に東京(7月26日)

 展覧会も中日に入った。今日は吉祥寺の教室である。

 しかし、部屋がごっちゃごちゃで、ストレスが溜まっている。


記者が来た(7月25日)

 今日は図書館の本の整理ということで、休館日である。

 昨日朝日新聞の記者の方が来た。市長へのメールが功を奏したのだろうか?

 丁寧に長時間取材をしてもらった。今高校野球の県予選をしているので、今焦って載せると小さい記事になるので、野球が終わった後に大きく載せるとのこと。雨が降って、野球が延びないことを祈りたい。

 この朝日新聞の記者の方に今までどこの記者をしていたんですかと質問したところ、珍しいところは「南アメリカです」と答えてくれた。あの「元大統領フジモリ氏」がペルーから脱出した時の特派員だという。あの広い大陸の特派員は一人なのだそうで、現地で日系人を2・3人雇って活動をしていたとのこと。さどや大変だったことだろう。
 さてこの、図書館は人が入る割には2階の展覧会場に上がってこない。それは昔したことがあるからわかっている。上がってきた人は、こんなに人が少ないのはもったいないといってくれる。私の作品を見るとほとんどの人が感動してくれる感じである。

 新聞記事になって、人が多分増えるだろうと思う。展覧会のギャラが出ないので、図書館では異例の物品販売をしていいことになっていて、Tシャツ等を販売しているが、売れ行きも来場者が少ない割に好調である。


図書館展(7月24日)

 今回の展覧会は、市長の直の展覧会である。規模も大きい。

 しかし、マスコミから取材が一つもこない。昨日、市長に情けないとメールを打った。

 さて、どうなるやら。


図書館(7月23日)

 図書館に毎日行っている。開館前に行くと、年配の男性が入り口で15人くらい待っている。何かそのまま一日図書館にいそうな人たちだ。

 そんな男性たちが、終日ふかふかのソファでくつろいでいる。

 食事したり、休憩を取ったりする空間もあるが、そこは学生たちの学習室みたいになっていて、注意書き無視で、ここも終日占拠されている。

 年配の人たちの方はほほえましいけど、休憩空間が、学生たちの学習のたかり場になっているのは、勘弁してもらいたい。


ぞくぞくと(7月22日)

 続々と本が出版される。気持ちがいい。

 昨日はテニスをした。なかなかまたちょっとフォアハンドがスランプだ。ほんのちょっとだけど。

 バックのドライブはなかなかいい。

 相変わらずスマッシュは戻らない。今はスマッシュを集中的に考えているから、きっとぶつ当てるだろうと考えている。


うどんツアー危機(7月21日)

 東京出発のうどんツアーが危機にさらされている。

 人数が集まっていないのだ。最低20人はいないとだまだろうが、その半分なのである。まだ、時間はあるが、今回は断念するかもしれない。次の9月29日の埼玉出発に来たいしたい。

 また、山梨のファンを川越に案内するツアーも企画したいと思う。来年の4月からは、NHKの朝の連ドラの舞台が川越であるからだ。


梅雨明け(7月20日)

 展覧会に毎日通っていると、休みの日が楽しみになる。私の休みは基本的にはなしにしている。盆も正月も関係ない。それで、いやだとは全く思わない。

 といっても締め切りの終わった日が、休みという事に自然になってしまう。

 明日は図書館の休館日だから、休みだ。とても嬉しい気持ちで、何をしようなんて考えてしまう。

 きっと、仕事をするんだろうが、ちょっと違った気分なのである。


やはり危ない(7月19日)

 鶴ヶ島図書館の飾り付けを終えて、富士吉田に切り絵教室に向かった。早めに行って父に線香をあげ、少し母と話し、教室へ向かった。

 私の切り絵のコピーを切るというパターンの教室になっているが、やっぱり、自分で下絵を描いて切り絵にするというのが、本来の姿で、せっかく私が指導に行くのだから、そのようなことでの質問とか悩みとかがあって、私が対処するという教室が理想だと思うが、道は険しい。

 生徒には最強の切り絵作家がほとんどボランティアでやっているんだから、もっとハイレベルなところで戦って欲しい。

 皆さん「絵がかけない」というので、そうおっしゃる生徒を、どう指導していくのか私も大いに悩む。

 「描かなきゃうまくならないんだよ」 「買わなきゃあたらない宝くじ」と同じなんだよ。

 それにしても、帰りの車は眠くて大変だった。途中のパーキングエリアで眠ったが、眠さとの戦いで、とても危険だった。電車で帰るのも、寝過ごしたらもう電車がないわけで、これも大変なんで、泊まって行ったほうがいいようである。


Aさんから(7月18日)

 女優のAさんから弔電が届いた。しかし、一昨日届いたんで葬儀に間に合わなかった。弔電といっても手書きの手紙である。それに驚いたのはカセットに、彼女の言葉が入っているのものも添えてあった。

 展覧会のことでばたばたしているので、礼を伝えずにいたら、申し訳ない事に向こうから電話があった。あさってから、展覧会ですと伝えたら、今度はお花を贈ってくるという。いや申し訳ない。

 カセットに、言葉を入れて送るというのは初めてのことだという。私にとってはお宝である。

 さて展覧会は、私の展覧会の中でも、展示点数としては最大である。図書館での展覧会であるから、本の装丁が中心である。図書館には私がやった本が100冊くらいあるらしい。

 毎日出勤しようと思う。ご来場をお待ちしております。


即興ライブから(7月17日)

 最近歴史の本に凝っている。職業的に普通の人よりは歴史については詳しいかもしれないが、今までマニアックではなかった。歴史物歴史小説のカバーをしているので、意外と思う方も多いだろう。

 中には、歴史の見解の議論を吹っかけてくる人もたまにいて困る時がある。

 その遠因は、即興切り絵ライブで歴史のことをしゃべらなければならないことが多いからだ。マニアックを一つ欲しかったので、いいタイミングである。


楽しみな鶴ヶ島中央図書館展(7月16日)

 鶴ヶ島中央図書館は、とてもきれいで広い図書館である。一時は貸し出し数が全国一位になり、各自治体から見学がひっきりなしに来たところである。展示スペースも教室二つ分くらいある。

 この図書館には山本一力さんも講演に来たり、志茂田景樹さんも来て、私もお会いしている。山本一力さんと仕事で組み始めたばかりであったが、志茂田さんとは多分7冊くらいは仕事をしている(銀座で初めてクラブというところに連れて行ってくれたのは志茂田さんだった。確か2度ほど、銀座のクラブ巡りをした)。

 二人にお会いした時のシーンを今でも覚えている。志茂田さんとは、そのあとの宴席まで同行した。

 久しぶりの図書館での展覧会では、毎日図書館をアトリエにして、切り絵の作業を公開している。皆さん覗きに来てくださいね。

 いろは食堂の解体

 私が住む鶴ヶ島にある大学・東洋大学工学部を、35年前に卒業して鶴ヶ島を出て行ったのであるが、住宅の関係で22年前にまた、舞いもどってきた。

 越して来た当時、学生当時の建物がかなりあった。しかし、現在はほとんど消え去ってしまった。

 学生当時、流行った食堂があった。「いろは食堂」という。凄い混み方で、並ばないと食べられなかった。揚げ物中心であったが、何より魅力だったのが、普通盛りがてんこ盛りだった。その店が繁盛した証拠に、店主は店を閉じて、高級割烹料理店「網代」を作った。

 その女将も、7年位前になくなり、いろは食堂は「スナックcoco」となっていた。たまに連れられていくスナックだったが、間取りが同じで、懐かしく思っていたのであるが、スナックも閉じられ、昨日は解体工事をしていた。

 また、想い出の場所がなくなる。それに大家さんの、森(こちらでは山という)が何にするのかわからないが、木がかなり切り払われていた。鶴ヶ島から森がどんどんなくなる。


少し休む(7月15日)

 今日は休日にしたい。


展覧会の準備(7月14日)

 今週の土曜日から、鶴ヶ島中央図書館での久々の個展である。確か4回目の個展になるのかと思うが、今回初めて広報とかで宣伝をしていただいているが、こちらはまだ葉書も作っていない。川越地区と日高・坂戸の方々に遅れるが連絡したい。

 だが、その前に山梨にある作品をとりに行ってこなければならない。

 今から出発である。


没(6月13日)

 親父の話ではない。いや繋がりはある。

 火祭りの風習に、縁者が死ぬと火を見てはいけないという慣わしがある。それで、死人が発生した一家は
火祭りの区域外から、その日は出ていなければならないのである。

 それで父が亡くなったので、私のポスターは使えないというのである。印刷は終わっていた。踏んだりけったリな感じがするし、父も、私に申し訳ないと思ってあの世に旅立ったのではないだろうか。

 作品の出来も良く、とても残念であるが、仕方ない。永遠に、表に出てこない最悪なことも想定しながら、いつか日の目にあってほしいと祈りたい。


再び富士吉田(7月9日)

 再び富士吉田である。幸い仕事が立て込んでいない。しかし葬儀の次の日は東洋大学での講演会である。三人出席者がいるので、私がかけてもいいのだろうが。

 相談してみよう。


父死去(7月8日)

 先月から、入院危篤だった父が昨日なくなった。94歳で、多臓器不全であった。

 本当に、ちょっと前まで歩いていて、急にであった。ほとんどの臓器が機能停止をして、ロウソクがとぼれるように亡くなった。

 通夜は11日6時から、告別式は12日の13時から、富士吉田シティホールでおこなわれる。

 私が先月、火祭りのポスターの制作を始めた日に入院し、私はずっと富士吉田に滞在していたので、父の部屋にはよく顔を出した。肺炎を起こしたため、熱があり食欲もなくなっていたようだが、元気で、点滴で命をつないでいた。

 「大正二年10月生まれ、94歳」とかしゃべっていたり、「もう終わりだ」とか叫んでいたり、心乱れながらも覚悟はしていたようだが、様態が回復の兆しが見え、本人も落ち着きを取り戻し、家に帰りたいといっていたし、歩けないまでも、帰れるのかと私も思っていた。しかし、肺ばかりでなく、腎臓も駄目になり、昨日亡くなった。

 父の最期に、かなりの時間立ち会えて、とてもラッキーだった。悲しいというより、寂しい感じだ。


浅香光代公演観劇(7月7日)

 前に浅香さんからもらった、若い頃にヌードの仕事をしていた時の写真をもらっている。本人が面白がって、友人に配っているらしい。そのヌード写真と日舞を踊っている写真をキーホルダーにして持っていった。

 楽屋で、それを浅香さんに渡したら大笑いしていた。

 そしてTシャツの新しいのを渡したら、これを舞台の上で渡してくれという。きっと他のお花を持ってきている人とかいるんで、それと同時に私もあげるのかなと思っていた。

 そのシーンは最初の浅香さんのおしゃべりの時だという。

 しゃべりがはじまった。私はいつ持っていくのだろうと思ってどきどきしながら待ったいた。だけど、そんなシーンは現れない。最後に、三味線片手に階段に降りて、どどいつを歌い始めた時、一番前の女性客に手を伸ばして「女か、女じゃ駄目だな」なんて訳のわからないことを言った。

 後からわかったのであるが、このときである。彼女は、私をその階段に座らせて、どどいつを私に語りかける演出をしたかったようである。

 でも、何とか私が入れる合図なりしてくれないとは入れないですよね。400人の観衆の前で、スポットを浴びて浅香さんとむつまじい様子になればいいのだろう。浅香さんと見つめあい、微笑み会う。そんなことを考えていたのではないだろう。

 結局後から、浅香さんに何で出てこないんだなんていわれちゃいました。「一本刀土俵入り」がよかったですね。いい味出しています。

 今日は富士吉田に行ってくる。


今日は(7月6日)

今日は午後から浅香光代さんの公演を見に、銀座に行ってくる。それまでに一仕事しなければ。


S社(7月5日)

 S社で缶詰になってきた。缶詰といっても、昨年の後半のような、寝袋で床で寝ていたのと違う。それこそ指折りの出版大手だから、仮眠室がありシャワーもある。だから、そこで、眠った。

 まる一日のリミットだった。公の締め切りはとうに過ぎていた。小説を読み、シーンを選択して下絵を描き、切り絵作品を4点作った。下絵がかなりいい加減な段階で、切り絵に入った。

 最近、完璧な下絵を作らないで、切り始めるケースがある。ちょっとばくちである。やっぱり、気に入らない作品が2点出て、自らやり直し。やり直しをするというのは珍しいケースである。私はほとんどない。

 このS社に、私の母校・吉田高校の同級生と3つ上の先輩が2人、役員になっている。それに各部長がその同級生の同期がなっているから、親しみがある。また、女性誌の部長をしているI氏は、私がモデルのマネージャーをしているときからの知り合いであるから、私が変化しているさまを目の当たりにした珍しい人物である(マネージャーの時に知り合った編集者にあって、そのつてで営業はしなかったので、マネージャー時代からの付き合いの編集者は少ない)。彼は私が切り絵作家として、再びS社に現れた時は、大変驚いた様子だった。

 ということで、この会社は私の世代が運営しているのである。その親会社であるS社には、兄の大学時代の友人が、役員になっている。大学時代に私の実家に遊びに来たり、6大学野球に連れて行ってくれたり、遊んだ仲である。


火祭りポスター完成(6月4日)

 火祭りのポスターが完成した。A0の大きさだから馬鹿でかい。時間もかかった。6月の13日に入って、途中抜けたりしたが、実質2週間かかったと思う。

 3年連続して火祭りのポスターを手がけたが、これで終わりという事になっている。いい作品を残せて満足している。

 富士吉田に帰って、町中に飾られているのを見てみたい。


ハードな(6月30日)

 ハードな1週間になりそうである。ポスターもそうであるが、文庫が一冊・月刊誌が4カットである。両方とも今日が締め切りであるが、無理だ。


女子美から講演依頼(6月29日)

 このホームページのメールアドレスに女子美から学園祭の、講演依頼が入っていた。候補なのだそうだが、本のカバー画が主な仕事の私に、そんな依頼があるとは。私の知名度が上がってきた証拠である。

 ただ、このメールは私の受信欄をすり抜けて、迷惑メールのほうにダイレクトに行ってしまった。であるから、このメールをいただいてから半月以上過ぎてしまっていた。

 もし、間に合うようだったら、面白そうだから受けたいと思う。

再び富士吉田(6月29日)

 今日鶴ヶ島の教室が終わるとすぐ、富士吉田に戻る。仕事が送れて場所を変えて再チャレンジという事になった。

 火曜日に終わって撮影にしたい。さて、どうか。


うどん食べ歩き(6月28日)

 富士吉田の火祭りのポスター制作が長引いている。

 来週の水曜日にはかえって来たい。しかし、そのお陰で、昼ごはんは毎日「吉田のうどん」を食べ歩いている。今まで人に紹介されたところばかりだが、余り聞いたことのないところを、富士吉田市が発行している「うどんマップ」を参考に訪ねてみた。

 ほとんどの店に客は入っているようだが、内容にはかなりの差がある。明らかに手打ちでないお店、具が貧相なお店、それに遅い店がある。

 私の麺の好みは、吉田のうどんであるから、固いのは大歓迎である(ただし、甲府に吉田のうどんという店があって、そこの麺は固すぎていくら私でも、嫌になるほどだった)、そして、麺がくねってねじれていること。喉越しがつるっとしていない。そんな麺だ。

 汁はほとんどの店が、おいしい。醤油仕立て、味噌仕立ていろいろある。私はうまければどれでも良い。

 一軒だけ、隣の町の忍野の街にある「渡辺うどん」に行った。忍野の「吉田のうどん」である。この店は最高だった。11時半に行ったが、客でいっぱいで、それに次々と客が来ていい回転をしていた。噂では聞いていたがその通りである。

 このように吉田のうどんは、最近どんどん広がっている。HPをご覧の皆様も是非「吉田のうどん」を食べに行ってください


巌流島は富士吉田(6月22日)

 また、富士吉田に行って来る。用事が結構あって、行ったり来たりになる。

 この一週間ハードなものになるだろう。名物・吉田のうどんを食べてがんばる。


一日帰る(6月21日)

 今日は作品のデザインと鶴ヶ島の教室で埼玉に帰った。明日また富士吉田に戻る。

 本の装丁も今月末までに3冊もあり、それに、月刊誌が久々に2誌。スリルある6月である火祭りのポスターも、途中まで描いた絵を気に入らなくて消すということもあって、進行が遅れている。

 もう切り始めて入るが、みこしを担ぐ人が多いので大変な作業である。早く仕上げて、次の缶詰に入りたい。

 川越での公開制作、鶴ヶ島での公開制作は中止である。申し訳ない。


もう一つ行き場所が(6月15日)

 昨日は建築のOB会に出た。東京でやるのは初めてなので、もう少し来るかと思ったが、どこの集まりもそうであるが、来る人は決まっている。

 パーティの前に武部実さんという先輩の講演があった。建築学科1期の先輩である。私は9期である。彼は日本都市設計の創業者で、昨年35年の社長業を引退され、相談役に退いたという。業界でも屈指の優良企業であるという。

 「お金儲け」の話ということで、150人ほど来たOBは食い入るようにその話を聞いていた。一生懸命営業して、仕事を取ったということだ。今は人と会わずに、パソコンとかで営業したりするが、やはり人と人の繋がりが大切ということで、やはりそうかと思った。

 そのあとのパーティで、武部氏に私は呼ばれた。私が東洋大学の後輩であることを知る前からしっていたというのである。ファンだったのだそうである。「それが後輩だったとは」と驚いたといっておられた。

 今年の夏に、夏休みをとって、函館在住の作家・宇江佐真理さんのところにいくつもりだが、そのあと、札幌の武部氏のところに寄ることを約束をした。

 彼は衆議院議員の武部勤氏の弟である。武部勤氏と友人の浅香光代氏とは友人である。ここで、トライアングルがつながった事になる。


変更(6月14日)

 今日吉田に帰るつもりだったが、東洋大建築学科のOB会に出席する事にした。今迄で一番大きなOB会だから、もったいないと思うからだ。きっと大学卒業以来会ってない人も来るだろう。もうこれで会わない人も出てきたりする。

 やっぱり会っておきたい。

 それから生徒の展覧会を原宿でしているから、それも見に行ってこよう。


締め切り(6月13日)

 今日は14日だと思って戻ってきた。腕時計を久しぶりにはめて富士吉田に行ったのであるが、一日時計の日付が間違えていた。ああ失敗。

 一応、一つ締め切り作品を提出できるし、それと一つ仕事を終えることが出来る。だが、今日だと思っていた東洋大学建築学科の全卒業生の14日のOB会は、今日また富士吉田に戻りたいと思うので、行かないようにしよう。

 ああ失敗。


吉田の火祭りポスター制作(6月10日)

 吉田の火祭りポスター制作に、行って来る。しばらく日記を更新できない。出来るだけ早く仕上げてかえって来たい。ファンの皆様行ってきます。


コント集団・百鬼丸一座(6月9日)

 コント集団・百鬼丸一座が、これから活躍する予感がある。

 川越のアートイベントのプログラムにのる可能性が出ている。これを皮切りに、切り絵作家とコント集団のコラボがほうぼうで展開しそうである。

 皆さん楽しみに。


次への突進(6月8日)

 57歳と1日を迎えた。伊東屋展も終わり、次は明後日富士吉田市に行って、火祭りのポスターの公開制作だ。

 落ち着かない日々が続くが、手塚治虫さんのことを考えたら、こんなものじゃないだろう。今は、あんなに忙しくやっていた手塚治虫さんの気持ちがよくわかる。

 それから、手塚さんが他の漫画家に対して「私が第一人者だ」という自負から、ライバル意識があって、いつも嫉妬していたと聞いるが、私も同様の気持ちである。

 ただ、まだ私は「幻の切り絵作家」である。この幻を早く取るためにも戦いたい


最終日(6月7日)

 私の正念場第二幕、伊東屋の個展が終わる。

 そして、私の切り絵が業30周年の日、そして誕生日。57歳になる。

 今回の展覧会も思い出深く収穫のあった展覧会であった。

 今日は、私の仲間が出演してくれる、コント仕立ての特別バージョンだ。私が目立たなくなるかもしれないが、私は彼らのファンだから、私も楽しみたいのだ。とっても楽しいことが無料で見られるんですよ。来てくださいね。