日記6
終わった(09年6月6日)
大変な量の先月分の仕事が全て昨日終えた。下絵を早く作ることが出来たので、それで助かった。皆平均点以上の作品に仕上がったと思う。
「百鬼丸様
本日はありがとうございました。
突発的事故とはいえ、
本川越までのご足労も恐縮いたしました。
いただいたカバー画、
社内の明るい光の下でも、
読者を呼ぶ力を感じます。
今後ともよろしくお願いします。」
終えたといっても、今月の分の連載とかとつながってしまって、もう、月曜日には締め切りがある。その次は10日に3点の締め切りがある。みんな書籍カバーでなくカットであるから、それほどのプレッシャーはない。アイデアだけである。
カバーとなると、絵の大きさが必要になる。スケールといった方がわかりやすいだろうか。スケールが大きい作品を作らなければならないから、アイデアだけの問題ではない。
だから、気持ちの持ち方が、カットとは違う。
カットというのは意識としては、数時間で作るという感覚がある。カバーとなると何日である。それだけに、がバーのギャラが少ないと困るのである。
編集者のメールの突発的事故というのは、東上線の人身事故で電車が動かなかったのである。夜にも、東急東横線かな?人身事故があったようで、これから、自殺者急増で電車が走れないじゃないだろうか。
バイクでどこかに(09年6月5日)
昨年休みを一週間とって、バイクでそれこそ北海道にでも行こうと思ったが、仕事が入って実行できなかった。
今年は、短くしてどこかに行こう。それとも電車にしようか。電車の方がいいかもしれない。
火祭りのポスター今年も残念(09年6月4日)

父の死で、昨年私の絵が火祭りのポスターにならなかったが、今年も駄目だったようだ。7月7日というちょっと微妙な時に亡くなったので、難しいと感じはしていた。
市の方では使いたかったようだが、神社側の判断である。確かに死というのは日本の文化の根底にある穢れであるから、昨年は当然である。だが、作った人間が死んだわけではない。いつになったら禊という事になるんだろう。
父はさぞかし無念だろう。そちらの怨霊の方が怖くないだろうか。良くないことが起こらなければいいが。
ふじこねえちゃん(09年6月4日)
私の父は教師だったが、副業で母がはたを織っていた。私が高校1年くらいまでは織っていたと思う。
ちっちゃい頃その手伝いに来ていたのが、「ふじこねえ」と呼んでいたふじこねいちゃんだ。面長の、ちょっと品がないところがよくて、わたしには美人に見えた。私はとてもなついていた。
デートの時、私を連れて行ってくれたりした。一度、ダンスホールみたいなところに入った。そのとき私に飲み物が来たが、水だと思って一気に飲んだら、「ハイボールを全部飲んじゃったよ」と笑っていた。酒だったのである。私は酒とは感じなかった。
それから、石原裕次郎の「風速40メートル」を見に連れてってもらった。「紅の翼」ももしかしたら連れて行ってもらったかもしれない。石原裕次郎は、大好きだった。裕次郎がスキーで怪我して復帰した時に、太ったなと思った。
それ以降の裕次郎との分かれ目だった気がする。
私のHPのアクセスが50000になった。その50000人目が私だった。何かラッキーな気がする。いいことないかなあ。
キャラクターデザイン(09年6月3日)
キャラクターデザインといえば小説の中の登場人物を、描くのもキャラクターデザインであるだろうが、それはしょっちゅうやっている。
しかし、漫画というかそんな類のキャラクターのデザインを頼まれてはしたことがない。
私が作ったキャラクター「火の玉小僧」は頼まれて作ったものではなく、私が勝手に作ったものだ。
今回キャラクターデザインの仕事が入っているが、私はそちらの方も得意だと思っているが、実践で同自分が感じるのか楽しみである。
元々私は27歳の時に絵を始めたのであって、それまで絵なんていたずらで描いたくらいで、プロになるほどとは思っていなかった。だから、始めた時(切り絵)、これでプロになろうとすぐ思ったのであるが、まだ、スタイルというのを持っていなかった。
とにかく、食っていくことが先決だったので、2年後にプロになってから、依頼された仕事にあわせてイラストをしてきたから、いろいろなタイプの仕事が出来るようになってしまった。自分の本来のスタイルはなんだろう?と思うくらいである。
時々「百鬼丸さんらしい」なんて、絵を見て言われると、「これが俺らしいんだ」と本人がわからなくて面食らったりする。
携帯に振り回された(09年6月2日)
今日で、昨月の仕事の分が終わりそうだ。
昨日の携帯がやはり、そのまま使っていると故障が起きるということで、携帯を買い換えた。
ここには書かないが、ちょっと買い替えまでに修理とかの選択肢もあり、時間をかけ過ぎた。忙しいのに無駄な時間を過ごした。
次はキャラクター7つくらい作らなければならない。早く作らないといけないギャラである。
雨にぬれた携帯(09年6月1日)
さあ、6月だ。私の誕生日が7日である。58歳である。
携帯電話をちょっと外においておいて、忘れて昨日の雨にチャップリぬらしてしまった。今日は画面が曇っている。このままそっと干して置けばいいのだろうか。でも、壊れていなくてよかった。
あと1週間から10日で、仕事の山場が去るだろう。長い山場で、山脈のようだった。5月も、森村さんの文庫で忙しかった。
6月はどこかに行きたいなあ。
あなたに!(09年5月31日)
突然アトリエに来て、初対面で、でっかい声で「あなたに市民大学の講師になってほしいんです」という。
私は人にものを頼みに来て「あなた、あなた」を連発する人に往きあったことがない。似ている「君に」に置き換えればさらにへんだとわかる。
私が学生で、相手が先生とか、私が30歳くらいで、相手がかなり年上というならありえる。しかし、年齢もせいぜい3つか4つ上なだけだろう。多分それに私がボランティアをするのだろう。
「百鬼丸さん」とか名前を言うのが通例だと思う。最近多いのは先生。先生でなくてもいいけど、「先生はよしてください」は、もう言う人が多くなりすぎて、ほおっておいている。
「あなた」を連発したところを見ると、きっと私のことを研究もせず、、ぽっと出の新人で年齢も40歳くらいだと思ったのかもしれない。でも一般的には使わないだろう。
私は珍しく「あなたはないでしょう」と怒った。
普通の感覚の人ではないな。こういう人に関わりたくない。
さあ、二日間(09年5月29日)
二日間ほど、何も対外的な用事はない。
昨日は、春樹事務所のカバーの仕事を終え、浅香さんの展覧会をしているという上野松坂屋に行った。行ったら、会場では浅香さんの曲にのって劇団の人たちが踊っていた。私は、待っていた編集者と打ち合わせをしてたら、突然弟子の浅香光司さんから、「百鬼丸さんこっちへ来て」と声がかかってしまった。
いきなり人目にさらされる事になった。
私の絵も飾るということであったが、まだ飾ってなくて光司さんが私の絵を持ちながら、お客の前で私と会話のやり取りをした。
しばらくしたら、NHKの元アナウンサー山川静夫さんがいらっしゃった。私は挨拶をして、名刺交換をした。彼に絵を見せられたのはラッキーだった。しばらくいたが、デパートは人が入っていなくて寂しかった。
帰りは、上野の鈴本演芸場に入った。私の即興のライブの絵を持っている中堅落語家のS氏が出演していたので、私は入場して、一応挨拶をしようと呼んでもらった。全く親しさを感じられない目であった。帰りにこちらが何も言わないのに「今日お付き合いは出来ませんけど」と来た。まるで、何かを警戒している様子である。これでは駄目だ。
人付き合いが下手な人である。もっと見たかったが、眠ってしまいそうだから、3組のお話を聞いて出てきた。落語家の方々、何か虚無的な雰囲気が漂っていた。客が少ないからだろうか。人生をあきらめているような。
それにしても良く笑うお客がいる。私なんか全然笑わなかった。本当におかしくて笑っているんだろうか。あんまり笑いすぎると落語家が勘違いしてしまうと思うけど。
キャンセルの多い年(09年5月27日)
今年は、埼玉新都心の法務省の建物内の陶壁画の話が決定していたが、法務省の建物に検察庁が入らないことで、一般人の出入りがないということで、上司からクレームがつき、多分この時期に話がないので、その仕事はなくなったのだろう。
また、山梨のほうとう○○のインテリアの話もこれは駄目で決定だろう。
今日は、一昨日は言ったアメリカコロラド行きの話が、コロラドの受け入れ先の方の病気で、キャンセルになった。
まあ、話があるだけ、ましとしておこうか。
花粉症(09年5月26日)
本日はうどんツアーの本番である。花粉症がひどい。目もうるうるしている。薬を飲んだ。
無事に帰って来たい。
郷里の富士吉田市から、「姉妹都市のコロラドから、私にワークショップをしに来てくれ」という要請があった。急な話で、6月17日から22日までである。いい経験である。行ってこようと思う。
一つ終わりました(09年5月15日)

長谷川卓著「寒の辻」
巌流島に滞在中(09年5月24日)
うどんツアー33人(09年5月23日)
今日は忙しい。吉祥寺の教室に、東洋大学の父兄会で切り絵即興ライブをするのである。ゲストトークは私が手配した山本一力さんだ。
吉田のうどんツアーが33人に決定した。私も入れると34人である。今回も、すごい人数である。このうどんツアーが一年のうちで一番、気が引き締まる。
締め切りも抱え、今月は四苦八苦である。
次から次へ(09年5月19日)
次から次へと下絵が出来るのは気持ちいい。だけど、締め切り大丈夫だろうか。
草食系の若者(09年5月17日)
先日出版社の編集者と飲む機会があったが、最近の若者は草食系で、女性を口説けないということだった。
若い時代に、女性をくどいて、エッチまでもって行くというのは、大変なことである。
昔からそうだけど、今のつけ睫をつけて、けばい恰好をしている女に会えば、たいていの男はひいて、ある種の軟体動物系の男ばかりが接近してくる。こんな男に引っかかった女性は、大体が不幸になる。
男はけばいのが嫌いではない、好きである。だけど、女も男に何とか接近して欲しいなら、けばいばかりでなく、接近し易い手を考えて欲しい。
東洋大ライブ(09年5月16日)
今日は東洋大学工学部の、新入生の前で何かしゃべって、ライブをする。何をしゃべって何を切ろうか。
今日は郷御前(09年5月15日)
昨日は、8人の方がライブに見えた。下絵をあらかじめ描いていたので、切りながらずっとしゃべっていた。今日は義経の正妻・郷御前だ。
今日は河越太郎重頼(09年5月14日)
今日のライブは河越太郎重頼である。義経の正妻・郷御前の父親である。その郷御前(さとごぜん)は義経と共に、奥州まで落ち延び、共に自害して亡くなっている。
私は河越太郎を以前にも切っているが、その時始めて娘が義経の正妻であることを知った。どうしても、白拍子出身の静御前の印象が強い。だが、義経に従い亡くなっているのであるから、この夫婦の絆の強さを感じてしまう。
河越氏は、義経との関係から、頼朝と対立する事になり、多少の浮沈の後歴史から消えていく。
この河越氏の館は、今の観光の中心街から東上線で一駅分ずれて駅名では霞ヶ関駅にある。であるから、観光客が来ることはない。
高学歴と小子化(09年5月13日)
日本はほとんどの人が大学に行くようになった。親の負担は昔に比べると大変なものである。
その負担のために最近の夫婦は子どもは作らない。婚期が遅くなった今なら、いい年まで、子どもを育てなければならないと思えば空恐ろしくなるだろう。
昔は、収入を上げるための労働力として子どもを沢山作った。貧困の国では今でも、同様の理由で子どもが多い。貧乏からの脱出には子どもを作るのは安価な投資だった。
そもそも大学に行くのはいい就職口を探すことが出来るからだ。知識を得るのだったら、別に大学に行かず本を買い込んで勉強すればいい。
夫婦が22才まで、働かせず大学までやるというのは、動物としての習性から逸脱しているのだと思う。ある程度、労働に耐えられるようになったら働かせる。それが動物としての人間の営みとして自然なことだと思う。
しつけの問題も、そこらから発生していると思う。子どもが、丁稚に行くとか他に家の飯を食べなければならないことが昔は多かったのだろうと思う。その奉公先で、客に失礼のないようにとしつけられる。あるいは、共同社会であった農家なんかは他人の子であろうが、生活のためだから、いうことをいわなければならなかった。そんな社会だった。親のしつけが悪いというが、昔から親は甘くて、しつけられなかったと思う。
小子化を防ごうと思えば、大学卒でも高校卒でも中学卒でも、給料を同じにしてしまえばいいんだと思う。
言いか悪いか微妙であるが、労働力に子どもをいっぱい作る状態にすれば、子どもは増えていく。何も国家がそのためにお金を家庭に税金をつぎ込んでいたら、いくら税金があっても足りないと思う。
中国も韓国も高学歴に向かっている。これらの国も日本と同様に、少子化問題を抱え込むだろう。
だが、日本は人口が多すぎると思う。
ずっと巌流島(09年5月12日)
東洋大学工学部のOBとして、昨年顕著な活躍をした人に送られる賞があるが、今年は20歳下のテニス部の後輩の建築学科卒業の田中伸明が受賞した。大学で1時間半の講演の後、私のところに来て、助教授と現役のテニス部員2名とともに飲んだ
第一回が私で、今年で3回目である。テニス部出身者が3回で二人である。
彼は群馬県の中之条町に住んでいて、県の建築の賞を何回か獲得しているし、私もテレビにも出ているのを目撃している。
田中が現役時代、テニスはあまりうまくはなかったが、試合では、見ているほうがひやひやしているほどの強気のテニスをしていた。技術もないのに、強打をして行くのである。珍しいキャラである。
高校時代はバンドを組んで、ボーカルをしていたというので、カラオケで歌わしたら、とんでもなくうまかった。
頼もしい社会人になったものである。そういえば、私は彼の結婚式に、切り絵の即興ライブをした。二人の似顔絵を、その場で切ったのである。
それにしても、本のカバーの仕事が突然昨日2冊入り、今月はあと7冊である。ファイト。
9日は(09年5月11日)
9・10日と忙しい日を過ごした。とりわけ9日はいっぱいいっぱいだった。
岡田畳店で、即興のライブをした。客は4人ほどだったが、太田道灌を切った。そのあと、すぐ浅香光代さんに絵を教えに行った。電車に乗って銀座線・田原町駅に。浅草六区の浅草演芸ホールを通ると、山梨県の身延に出来る「切り絵の森」に出演を計画している、私とは旧知の林家正楽さんの文字があった。きょう演芸ホールに出演なのである。
私は、彼が来る8時にまいりますからと名刺を置いていった。そして、その切り絵の「プロデュース」をしているs氏に電話。そしたら、彼は群馬の切り絵作家「関口コウ」氏にあって、今東京駅に着いたところだという。何という偶然。氏を浅草に呼んで8時まで、演芸ホールを楽しんでもらっている事になった。
浅香光代さんに、絵を教えるが、彼女は多弁のため、話があっちへ行ったりこっちへ行ったり、それが元に戻るには大変なのである。絵の筋はとてもいいと思うし、こだわりもあり向上心はとてもすごいと思う。
いろいろな絵描きさんとも付き合いはあるようだが、そういう絵描きさんから、ちょっと下手だといわれたりして自信をなくなしているようだった。素人としたら、場数を踏んだ絵であるだけにいい絵はある。ただでき不出来が激しいなあと思うのである。それは下絵もかかずぶっつけ本番で絵を描いているのだから、出来不出来が出てくるのは当たり前である。
あとから旦那さんの世志凡太さんが見えた。予定通り8時前に、教えるのが終わると思ったが、終わらないので浅草演芸ホールに行き、正楽さんをS氏と引き合わせて、また浅香さんのと頃に戻った。
24日に宇都宮にカラオケボックス?を世志さんが作るのだそうで、そこに私が出演しないかと誘われた。行ってみるつもりである。
9時には集英社の編集者と単行本の打ち合わせの約束が会ったので、浅香さんのところを出た。初めて会う女性の編集者だが、まだ大学を出たばかりの人だった。飲みながら、打ち合わせをしたが、時間を忘れて完全に鶴ヶ島に行く電車がなくなってしまったことに、電車に乗ってから気がついた。で、ホテルに泊まった。
10日の朝は東京でのんびり過ごしたが、土金(つちかね)に行くのを忘れていて、急いで川越のお土産品店・土金にいった。池袋から西武線で珍しく行った。土金は西武線本川越駅の近くだからだ。土金で、Tシャツを売りながら、川越の手拭いを作る計画で、先の太田道灌につぎ天海僧正を公開制作で切った(即興ライブとは違い、人前で仕事をしているといった感じ)。これで2人目である。これから川越太郎やその娘で義経の正妻になった郷姫を切る計画である。
その後、川越アトレの生徒展の作品を搬出のため、鶴ヶ島に戻り、車にのってまた川越へ。全て終わったのは7時であった。
無事鎮火(09年5月9日)
尻に火がついたが、昨日晩無事鎮火した。
今日は忙しい一日である。展覧会で即興ライブがあり、そのあと浅草に行って浅香光代さんに絵の指南に行く、次が集英社の編集者と打ち合わせである。
浅香さん、5月26日の上の松坂屋の個展で人前で色紙に絵を描くのだという。日が迫りとても不安がっていて、私に何とかしてくれとの召集である。
武蔵の尻に火(09年5月8日)
小次郎とつばぜり合いの最中だが、私の尻に火がついている。あっちち。
巌流島にて。
今日は岡田畳店で、即興ライブで帰参しなければならないのだが、間に合うのだろうか。
川越喜多院(09年5月7日)
昨日は特別展をしている喜多院に行った。歴史は奈良時代に至るが、家康の信任を得た天海僧正が着任して以来、繁栄をした天台宗の密教寺院である。
境内には、家光誕生の間・春日の局の化粧部屋等がある。江戸城の創建当時、喜多院が消失したため、江戸城の一部を喜多院に移築した建物である。その後、今度は江戸城が、有名な明暦の大火等にみまわれ、天守閣を始めとして城内の建物のほとんどが消失、今の江戸城内には残っていない建物があるという事で、この喜多院はすごいのである。
皇女和宮が嫁いだ時の長持展示してあり、天皇家の菊の紋と徳川家の葵の紋の螺鈿がいっしょに施されているのには驚いた。公武合体の長持なのである。
この川越が、今のように観光地化したのはNHKの大河ドラマ「春日の局」からなのである。春日の局が、居住した建物があるということで、大いに宣伝したのである。
有名な蔵作りの建物は、私が学生時代は、川越のお荷物だった。今は関東では鎌倉に次ぐ観光地である。だが、観光地としては日が浅く、観光地ずれしていないところがあり、そこがまたいい。しかし、蔵通りは日進月歩で変貌しつつあり、中国で作られているような安価な土産を売る、全国チエーンの土産品店が進出している。
クリントのほくろ(09年5月6日)
仕事をすればいいのに映画に突然行った。久々である(話は飛ぶが、映画のことをキネマというが、あれはシネマのシネが縁起が悪いからということだ)。突然行った映画に「幻の邪馬台国」がある。あの映画はひどかったから、今度は大丈夫かと下調べもそこそこなので、恐る恐る行った。
クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」を見た。多分上映中に眠るだろうと予告編でうとうとしていたのが、全く目が覚めて最後まで飽きずに見入った。いい映画だった。
クリント・イーストウッドは荒野の用心棒以来大好きな俳優だが、初めて気づいたことがある。私と同じところにほくろがあった。とても光栄である。
生徒の展覧会(09年5月5日)
生徒の展覧会が川越駅ビルアトレ6階「ビーポケット」で始まった。すごい展覧会である。いやたいしたもんだと頭が下がる。
決して大作があるわけではないが、その作品のバラエティなこと奇抜なこと。私の「自分で絵を描いて切り絵にしなさい」という言葉を守って、描けない能力(こう言っては失礼かもしれないが)で、一生懸命描いて切り絵にしている。
以前、甲府の切り絵協会には悪いが、甲府を見終わって、同時期に開催していた生徒展を見たものだが、はるかに私の生徒の展覧会のが勝っていた。今回はさらにそれに磨きがかかっていた。
とても誇らしく思う。
親父が化けて出る(09年5月4日)

今日から、生徒の展覧会が東武東上線川越駅ビル「アトレ」の6階「ビーポケット」で始まる。私は車で、搬入の手伝いをしなければならない。
昨年は、富士吉田市役所から依頼されて、「吉田の火祭り」のポスター製作をし始めたころだろう。だが、そのポスターは印刷されたものの、私の父親がなくなったものだから、お祭りの神社の浅間神社側から「穢れたポスター」であるとなり、没となってしまったのだった。
しかし、その顛末を当然親父は知らないのであるが、空から見ていて「文昭(私の本名)申し訳ない」と思っているかもしれない。だからまだ、迷って冥土にたどり着いていないのかもしれない。ぜひとも、今年使ってもらいたい。
親父の冥福のために。
母校(09年5月3日)


甲府のイベントのために、前日富士吉田の実家に行った。自転車を積んでいって、富士吉田の町を走った。母校の吉田高校が途中にあったので、校長に挨拶しようと思いついた。
校長は、前に教頭だった方だった。当たり前だが校長にもいろいろタイプの方がいるもんだと思った。私は最近3代の校長と会っている。町のがらんとした雰囲気と違い、母校は生徒が沢山いてにぎやかだった。
農業科と紡織科で始まった高校でったが、私の頃に普通科となり進学校に転換を始めていったが、今は県内有数の進学校になっている。生徒も私と行き会うと「こんにちは」と全員が言って来る。私が生徒だった時代にタイムスリップしそうな素朴な生徒ばかりである。
食堂の私の壁画はとても好評であるという。私の快心作であるから多分嘘ではないと思う。それにトイレのマークもしたといったら、女子生徒が女子トイレのマークのポーズをとってくれた。これも印象的なのだろう。
かなわない(09年5月1日)
テニスに行ってきた。平日の朝早くはうまい人は来ないが、今日は65歳くらいの上級者が来た。ということで、テニスの打ち合いをした。
スピードでは圧倒的に私のが上だが、とにかく球が帰ってくる。軽くやっている分には、こちらのほうがいい感じだが、いざ向こうがコースをついてくると、とたんにこちらが大崩。それに、川越の大会に出てこなくて、その上の埼玉や毎日テニストーナメントにエントリーするほどの人だから、信じられないところに球が落ちてくる。
どんな技術的な根拠があって、球を置くようにいいところに球を落とすのだろうか。いや、いくらフォアやバックを良くしても、あのコントロールは私には身につかない気がする。
私はダブルスプレーヤーであると、再認識した。
土金で仕事(09年4月30日)
お土産品店「土金」は、西武本川越駅からの客が主に前を通る。東武東上線からの客は、裏のにぎやかな通りを通る。観光客も、圧倒的にその裏通りを通る。
歩いている人は年配の方が多い。不況のせいで、お土産を買って帰らない人が多いという。帰りのお客を見ると、確かのお土産みたいなものはぶら下げていない気もする。
お土産を頭の中につめて帰るのだろう。
今日は土金で(09年4月29日)
今日は急遽、山梨からマネージャーが来るので、土金でTシャツ販売。展覧会葉書に、今日は岡田畳店は休みなのだが、休みとしていないのが気がかりだ。誰も来なければいいんだけど。
岡田畳店で仕事(09年4月28日)
展覧会二日目であるが、まだ葉書が着かないと思うので、客はこのHPをみている方しか来ないはずである。多分誰も来ないだろう。
今日は会場で、いっぱい入っている仕事をしよう。どんどんこなそう。いい仕事が出来ますように、チチンプイプイ。
忙しくて(09年4月27日)
もう9:00。飾り付けにまだいけない。
明日から展覧会だが(09年4月27日)
まだ葉書を出していないし、その前に葉書を作っていない。急いで葉書を作りたいと思う。
忙しくて、後手後手になる。やあ、迷惑をかけてしまうなあ。
三国志(09年4月24日)
東洋大学のスポーツマンクラブの集まりを忘れてしまって、行かなかった。申し訳ないことをした。
昨日は、小川町の埼玉伝統工芸会館に個展の打ち合わせ、部屋の修理用の木材購入、建具屋のKさんのところに支払い、プリンターの購入と車で動き回った。埼玉伝統工芸会館で三国志をする事にした。たいした数の作品があるわけではないし、イラストも探さなければならない。それが一番頭が痛い。
この三国志のイラストは集英社の単行本で伴野朗氏の「長江燃ゆ」で制作したものである。
彼の息子さんは、長男の方だったか、実は東洋大学の工学部でそれも、硬式テニス部だった。。だから、単に後輩といっても、濃い関係である。その頃、留年してバイトに来ていたテニス部の後輩が彼と同期で、伴野さんとの仕事を目にして、「この伴野さんの息子は、同期の伴野かもしれない」と言い出したのである。
私はそのことを知ってから、銀座の飲み屋に一人で行った時、偶然その息子さんと飲みに来た伴野さんと会っている。すごい遭遇であった。
プリンターの故障(09年4月23日)
展覧会を前に、プリンターの故障である。今日買いに行って、使っていたのは修理に出そうと思っている。
しかし、プリンターの接続という苦手な作業が待っている。プリンターは買って3年だが、新しいプリンターはどれだけ進歩しているんだろうか。
吉田のうどんツアーの参加者が32人になった。あと6人である。これで、大型バスで行く事になったと思う。本当は定員をはるかにオーバーして、次のツアーにまわせるくらいにしたいと欲張っている。だから、私の人気もまだまだと思っている。
信玄のファンは多い(09年4月22日)
11日12日に、甲府の信玄公祭りでライブをしに行って、グッズ売り場も持ったのであるが、そのお店にグッズを探している信玄ファンがいたのを思い出した。
10年連続広島から来ているという信玄ファンもいたし、神戸から5年連続という人もいた。二日で10人くらいはいたと思う。
だから埼玉では売れない、武田の二十四将の缶バッヂもそこでは売れた。武田二十四将の一人ひとりにファンが着いていたりして、Tシャツもその武将のものを作ってくださいという依頼もあった。
信玄時代の建物もあまり残っていない山梨であるが、信玄そのものが観光資源であることを知った。
25日と5月2日に、再びライブに山梨に出かける。今度は平山さんという山梨大学の教授の歴史の講義がある。そのあとのライブである。私は信玄軍の詳しい合戦状況とかは知らないといっていい。歴史の勉強はしているが、歴史全体と、江戸の話である。まだまだ、知識は浅いがこれから人前で話せるような実力を付けたい。
仕事(09年4月21日)
細かくやることがいっぱいである。展覧会の葉書も出さないといけない。一つ一つこなしていこう。
また会った(09年4月20日)
吉祥寺の教室に向かう途中、実業之日本社の編集者O氏に駅のホームでお会いした。久々に会うなあと思ったら、退職されたそうだ。一人で井の頭公園を散策しに来たという。公園のほうまで歩きながら話していった。
昨日は、来月の上野松坂屋での個展のために、私は絵の特訓を女優の浅香光代さんに頼まれていたので浅草に行った。浅草の道端で、友人の林家木久翁さんに出くわした。この人は面白い人で、会うと何かをとっさにプレゼントする習慣がある。
前回、甲府でお会いした時も、鞍馬天狗のストラップをいただいたが、今回はお弟子さんが持っていた「われせん(割れたせんべいを商品にしたもの)」をいただいた。お別れした後、浅草演芸ホールの前を通ったら、木久翁さんの出演の日だった。彼はその帰りだったのである。
浅香さんとは、一昨年の木久蔵さんの木久翁襲名披露のパーティの円テーブル席が一緒であったことから仲良しになった。私と浅香さんとのご縁をいただた、そのキューピット役にお会いした日に浅香さんと会うというのも何かの因縁だろう。「木久蔵(間違ってこう呼んでしまった)さんからのご縁をいただいて、浅香さんと仲良くなったんですよ」と木久翁さんにお伝えした。
浅香さんのところには、3時間程いた。彼女は、絵を描くと誉められてもっといいものを描きたいと思うようだ。しかし思うように絵が描けなくて悩んでいたようだ。絵を見たら、下絵もなく具象を描こうとしていた。私でも難しいようなことをなさっていた訳だから悩んでも当然である。
ある秘策を伝授して、帰って来た。3時間とても楽しく過ごさせてもらった。今度、浅香さんのショーの時にライブを披露してほしいと、言われた。チャレンジしてみたいと思う。
吉祥寺教室(09年4月18日)
今日も東京である。今はでも、いろいろな仕事の企画を実行したいと、気持ちは高揚している。
そろそろ、岡田畳店の葉書も作らなければならない。5月からは新しい仕事の展開である。
さあ終わった(09年4月17日)
昨日劇団プークのロゴ及びデザインとカットの絵の制作が終わった。
劇団プークでの缶詰めで全て終わることが出来た。行ってよかったと思う。
劇団プークのある場所は、代々木駅下車だが、文化女子大の近くであった。実は私が24歳くらいに働いていたファッションモデルの事務所「モア」がその100mくらいのところにあった。懐かしいといえばいえるが、山の愛子美容学校が巨大な建築になったことや、代々木ゼミナールが高層ビルのようになっていた。とても変っていた。
まずは、そのプークの仕事を完了して、今年の仕事の山を越えた。
これから、自分の仕事をどんどんやっていくつもりだ。楽しみである。
今日は東京(09年4月16日)

銀座クラブ「エル」の31周年のパーティである。多分かなりの規模のパーティになると思う。
昨日、美術評論家のヨシダヨシエ氏のところに行って、誘って朝飯をご馳走した。近くを通ると臥せっていないか気になる。
その行ったレストラン・ガストの気立てのいい店員「佐々木さん」が大好きで、彼女が通路を通るたびに、彼女をチラッと見るヨシエ氏であった。その彼女と一緒に写真に納まりご機嫌である。のどかな能天気である。
残念(09年4月14日)
「ぶらり途中下車の旅」出演は、今回も見送られた。2回目のオファーだから、もう、出演はないだろう。
それはともかく、私はその話とは関係ない、ある決心をした。これから仕事の意識が変るだろう。
信玄公祭り(09年4月6日)
信玄公祭りに合わせて、即興ライブとグッズ販売に行ってきた。私のブースは、屋内会場の奥にあり、その前が休憩テーブルになっている。
武田二十四将の平面作品の大きいのが飾ってあるから、とても目だっていい看板になって、客がいっぱい来た。
武田信玄が好きで、毎年来ているという客が多かった。中には10年連続広島から来ているという客もいて、武田信玄の人気のすごいのには驚かされた。ただ、その割には、その客たちに供給する楽しい武田信玄グッズは山梨県にまだ充実しているとはいえないと思った。
その客たちは、コレクションでもしているのだろう、信玄グッズを買い集めていたような気がする。皆さん目にマニアっぽい迫力があった。
それからライブを二回やった。しかし、気がついたことがあった。テーブルで休憩している人に向かってライブをした下のであるが、これがいっこうに乗ってこない。それでわかったことは、テーブルについて休憩する人は、目の前にある私の絵のブースに関心がなく座っている人たちだったのである。
いわば、絵に興味がある人かどうかをふるいにかけて、ふるいに残った関心のないほうの方たちばかりが座っていたところであるわけだ
。
こういう人たちの前でライブをするのはとても大変である。逃げ出したくなる。
そういえば、25才くらいのとき渋谷にあるマンモスキャバレーでバイトをしたことがある。そこには毎日ゲストで歌手が歌いに来た。このキャバレーは力道山が作ったキャバレーである。
ショータイムは酔った客で、ショーがかき消される時もあった。しかし、中には会場がシーンとなる魅力をもった話術やおーら持つ人もいた。その中の一人が、中尾みえだった。彼女が歌った時、場内はシーンとなっていた。
逆に騒がしくても、そんなの関係ないとロックンロールを歌って、自分自身で楽しんでいたのがアンルイスだった。
あらたにファイトの沸いた甲府での2日間だった。
挿し絵も完成(4月11日)

2009徳間書店問題小説5月号挿し絵 犬飼六岐著
気持ちがいいスピードである。いつもこんなならいいんだが。
森村文庫終了(09年4月10日)
もうとっくに収めなければならなかった森村さんの文庫が終わった。
8点まとめてということで、時間の余裕があるときに一挙にと思ったが、その時間が取れずこんなに遅くなってしまった。
この企画は、森村さんがカバーを私に換えてくれということで、指名できた仕事である。もっとも森村さんの時代物の文庫は全て私のカバーである。きっと私の絵で統一したいのだろう。光栄なことだ。
菜の花(09年4月9日)

鶴ヶ島の菜の花畑である。むんむんの何の花のにおいである。この景色は桜より魅かれる。
バイクは私のバイクである。
バイクの後ろの箱には仕事道具とか下絵とか資料とかいろいろ入っている。
巌流島に滞在中(09年4月7日)
小次郎との勝負、勝算あり。無事で帰ってこられそうだ。
真打披露宴(09年4月6日)

落語界の真打披露宴が昨日、新宿の京王プラザで行われ、私も行ってきた。
今回の、真打5人の中に東洋大学工学部出身で、何度も私の即興ライブとガチンコしていた三遊亭遊喜君が、そのメンバーに入っていたのだ。師匠は、私の友人の三遊亭小遊三さんであるから、なおのこと出席の意欲に沸いた。
予想より、強大な宴会であった。
桂歌丸師匠も、スピーチで行っていたが、年々派手になって行ってるのだという。昔はそば屋の二階とかで、ちょちょっとやるだけだったようだ。
私は、一昨年に伺った「林家木久扇襲名披露」の帝国ホテルでの披露宴を思い出した。さすがに、ベテランの木久扇さんのお客さんはすごい著名人が参集されて、今回の披露宴とは比べ物にならないくらいの華やかさだったが、それでも、結構な著名人も、いらっしゃった。
私の席は、東洋大卒の先生方とかがご一緒の席で、私は近頃とんと飲まなくなったお酒を、たらふく飲んでご機嫌で帰ってきた。久々に、恩師の山下先生にもお会いできた。
一合枡のプレゼントがあり、私はその枡に落語のお歴々にサインをせがんで、いただいた。宝物である。そんなものにサインをしてもらっている人は誰もいなかったから、さらに嬉しい。
写真左から、真打の面々・三遊亭遊喜さん・師匠の小遊三さん
東洋大のトイレ(09年4月5日)
母校の東洋大学工学部のキャンパスは、私のアトリエから歩いて、10分くらいのところにある。
たまたま、歩いてキャンパスを横断する事にした。
大学は、私がいた35年前の建物は一つもないといっていい。今も、一つ建物を建設途中だが、秋に出来た新食堂のトイレに入った。
驚いたのは洋便器というのか?あれが温水が出るものだった。
贅沢だ。
食堂の内容もよさそうだ。確か、今までの調理会社ではなくなったはずである。何かコじゃれた料理がメニューにある。
親父の健康法(09年4月4日)
親父が94歳で、昨年亡くなった。しかし、父親は健康にはすこぶる注意を払っていた。家族があきれるほど、健康薬品を買いあさっていたのはともかく、健康な食品を食べていたようだ。
晩年の父親が何を食べていたか具体的に知らないが、私がちょっと野菜を食べ始めただけで、長年悩んでいた鼻血が出なくなってきた効果に驚いている。逆に言うと、相当長い間、血管が痛んでいたんだと思う。
私は長生きをしたいと思っている。そして寝こまずぽっくり行きたい。だから、親父が長生きした理由を、食材から家に聞いてみようと思う。
親父は、家の料理とは別に、自分で独自に料理を作って食べていた。私はりんごを食べ安いように、小さくきり、豆を食べていたのを記憶している。
鼻血でず(09年4月3日)
肝臓の数値が悪いのと、血管が固いということで、ダイエットと共にそのことも気にしている。野菜や果物を摂るようにしている。
幸い、好き嫌いがないので面倒でなければなんでも食べる。りんごは生前の父が良く食べていた食べ物で、私も毎日食べるようにしている。
実は、鼻を強くかむと右側の鼻から血が出るのが習慣だった。しかし、血が出なくなった。これは野菜・果物摂取のお陰なのだと思う。牡蠣も3日に一度は食べている。
体重も3k減って、昨年の秋の数値67kに戻った。この勢いで64k台に下げたい。
振込み詐欺防止(09年4月2日)
ニュースで、警視庁から「振込み詐欺防止に貢献した」ということで、NHK「振り込め詐欺防止キャンペーン」のキャラクターになった萩本欽一さんとあき竹城さんが表彰されたという。何か変じゃないかなあと思う。彼らはNHKから頼まれて、ギャラをもらって仕事をしただけだと思う。それとも、自分から申し出て、ボランティアでやったのだろうか。
もらうんだったら、この企画と立ち上げたNHKのプロデューサーがもらうべきだと思うのだが。
そういえば、大学生の頃、欣ちゃんが監督として作った映画「ああ眠いな」って映画を見て、ひどい駄作であんまりじゃないかと思ったことを思い出す。
欣ちゃんの映画は、それで失敗して以後、彼は映画を撮らなくなったと思う。あの頃欣ちゃんは、絶好調の頃で、皆もしかしたら映画監督の才能もあるのだろうと、買いかぶって作らせたんだと思う。
見に行った私もその一人だった。
ちょっと間をおいてテレビを見ていたら、年齢別の睡眠時間の目安の表があった。私の年齢だと、睡眠時間は6時間半でいいそうである。新しい知識である。
本塁憤死(09年4月1日)
子供の頃、新聞のスポーツ欄に高校野球の記事があり、「本塁憤死」のでかい見出しがあった。私は家族に「本塁で滑り込んで死んじゃったんだって」といった。
みんな「えっ かわいそうだなあ、本当か」と。しかし、しばらくして記事を見た母が大笑い。ただ単にホームでアウトになっただけだった。小さい子どもには酷なタイトルだったと思うのだが、私があほだったのか。
今ニュースで、警視庁から「振込み詐欺防止に貢献した」ということで、萩本欽一さんとあき竹城さんが表彰されたという。何か変じゃないかなあと思う。彼らはNHKから頼まれて、ギャラをもらって仕事をしただけだと思う。それとも、自分から申し出て、ボランティアでやったのだろうか。その可能性はないだろう。
もらうんだったら、この企画と立ち上げたNHKのプロデューサーがもらうべきだと思うのだが。
イチローのコメント(09年3月31日)
ニュースステーションで、WBCについてのイチローのコメントを聞いた。イチローの話はとてもリアルで好きだ。心の葛藤が、自分と照らし合わせてリアルにわかり易く伝わってくる。
WBCに釘付けになって、私のテレビを通じての視界に入っているイチローの自らが解説する心理、また舞台裏と周りの仲間たちの心理・気づかいが立体的にわかってとても美しい。それを、ひねくれて思う人もいるだろうが、ここで感動しなければ、人生どこで感動するんだと思う。
素直に、人間て捨てたもじゃないと思う。
「いやーっスポーツって本当にいいものですね。」
ぶらりの面談(09年3月30日)
多分見ている人も、「ぶらり途中下車の旅」が偶然に訪れるのではないという風に思っていると思うので、この日記を書きます。
昨日、その番組の候補として、面談を受けた。まだ、出演するかどうかわからない。後日、局で誰を訪れるか検討会があるのだそうである。通知があれば、この日記で報告しようと思う。
ただ、当日の東上線沿線のぶらり旅の尋ね人は秘密で、教えてもらえなかった。
ぶらり途中下車の旅は、とても長寿番組である。確か日曜日の朝の日本テレビ「所ジョージさんの番組」の後の番組で、視聴率も高い番組であると思う。
実現してもしなくても、幸せな男である。
劇団プークチラシ(09年3月29日)

今年の8月にNHKの人形劇でおなじみの、人形劇団プークが興行を行う創業80周年記念作品「怪談牡丹燈籠」のチラシである。ほぼ完璧に出来た気がする。
この作品の技術的な売りは、切り絵特有の輪郭線がないこと。一番外側のシルエットに黒い縁取りがないといったほうがいいのかもしれない。
実は、平面作品のこの輪郭線にずっと悩んでいたのだ。切り絵の場合、かなり太い線にならないとさまにならないが、下絵のシルエットより、太ってスマートなフォルムではなくなってしまう。
そういう意味では立体作品というのはそういう心配は要らないが、立体作品は制作時間が大幅にかかってしまう。
今回の方法をとると、組み立てという時間がなくなるので、時間の短縮にもなる。新しい平面作品の誕生である。
ただし、この作品は金色を使っていて、その金を光らせるために写真撮影をしている。
寒い(09年3月28日)
今日は吉祥寺の教室の日である。昨日は寒かった。寒いと展覧会でいただいた蘭が気になる。でも、4つあった株が寒さにやられて、もう一つになってしまった。一つは何故だか、元気はないが、葉が緑でいる、多分今年生き延びるだろう。
生き延びたら、今年の冬は暖かくしてやろう。親友の画家・西のぼる氏からもらったものだ。
一つやっと仕事が終わったが、また、仕事を立ち上げなければならない。頑張ろう。
またぶらり途中下車のたび(09年3月27日)
前に一度、アプローチされたぶらり途中下車のたびのスタッフから「出演の打診」があった。前と同様、どうなるかわからない。しかし、テレビに出るとなると、この部屋を何とか片付けなければならない。いや大変だ。
週刊文春が来た(09年3月27日)
週刊文春の50周年特別号が届いた。いつもと違って、9カットも私のカットが入っている。江戸のエロのお話であるから、それにそってエッチな絵もある。自分で作っておきながら、ちょっと恥ずかしい。
WBC(09年3月26日)
選手たちが嬉しくって嬉しくってたまらないって感じが良く出ていました。スポーツ選手として過ごした時期のある私はあの雰囲気、あの気分はよくわかる。こころから、「よかったね」といいたい。
感想を問われて出てきた野村克也楽天監督が、原采配を批判していたから、珍しく、顔を緊張させてコメントを言っていた。岩隈やまあ君の方に話をそらせて、やっといつものお笑いに周りを誘い込んで逃げた。そうだろう。批判していた監督が優勝しちゃったんだから、狼狽が顔に出るのも当たり前だろう。みっともないったらない。
ご本人相当WBCの監督をしたかったんだろう。でなかったら、WBCの最中に原監督の批判をするはずがない。未練がましい。大人気ない。さもしい。
発起人(09年3月25日)
銀座のクラブ「エル」から、創業30周年の招待状が届いた。年に何回も行っていないクラブであるが、付き合いは25年くらいで長い。その招待状の中に発起人の一覧が入っていた。
「百鬼ちゃん、発起人になって」とママから電話があって、了承したが、30名ほどいる発起人のお名前は、皆さんが知っているような著名人ばかり、この名簿は私のとって記念にもなりそうなものである。とっておこうと思う。
ドックの結果(09年3月24日)
人間ドックの結果が来た。肝臓が悪いようだ。動脈硬化もある。高血圧であるという。この高血圧は、レントゲン撮影のための筋肉注射の後だからし、その後私の持っている血圧計では、全く正常である。
肝臓と動脈硬化が問題だろう。体重も減らすように指示もある。
これから健康を趣味にしよう。
サボった(09年3月23日)
昨日は久々に映画三昧で、仕事をサボった。映画は20世紀少年と何だっけ? 20世紀少年は意外に面白かった。主演の唐沢に役者としての存在感を感じないんで、見なかったが見ごたえがある。面白い。
脇にいい役者がいっぱい出ていて厚みもある。
第二作目の映画館での上映は終わってしまったが、DVDを借りてみるつもりだ。
WBC好きな日本選手(09年3月22日)
城島・岩村の面構えが好きである。青木・岩隈もいい。他の選手が嫌いというわけではないが、どちらかというとJリーガーに多い、素っ気なくマスコミに対応する人に好感を持たない傾向がある。一時のイチローも好きではなかった。
そういえば、長嶋茂雄世代で素っ気ないマスコミ対応の野球選手がいただろうか。昔は、いなかった気がする。だから、夢があったんだろうか。野球選手には少ないが、サッカー選手には素っ気ない人が多い。もったいない気がする。
野村監督が、テレビで原監督のことを批判しているが、私は野村克也が星野仙一同様、大監督だと思っていなし、野村沙知代の旦那として恥を知ってほしいから、でかい面をして欲しくない。原監督には頑張ってほしい。
巌流島に(09年3月21日)
今日は忙しいが、沢山予定がある。劇団プークの井上氏が来るそうである。
緑色(09年3月20日)
ホームセンターに買い物に行き、風で飛ばされてどこかに行ってしまったすだれを買った。
アトリエの廊下はひさしがないので、廊下は温室状態になる。植物は暖かくてよく育つが、夏は日差しが強くて、焼け死んでしまう。
私は植物が好きらしい。ホームセンターに行くと植木や観葉植物のコーナーにひたってしまう。昨日もミニ観賞植物5点を買ってきた。
9カット終わり(09年3月18日)
週刊文春が50周年を迎えるそうだ。その記念号で、今連載中の江戸の悪知恵というコーナーが拡大されて、いつも一カットの絵であるが、その回だけいつもの一カットに9カットがプラスされる。
そのカットを今終えた。
一昨日、東上線に乗ったら「百鬼丸さん」と呼ぶ人がいて、私の生徒のお母さんだった。私は東京に向かったのであるが、中央線の電車の中で、山梨に住んでいる友達のお兄さんに似ている人がいることを発見。その人が座っているところにいって、「・・・さん」ですかと声をかけたら、やはり本人だった。
今から角館に行くのだという。彼とは実は富士吉田の私の幼馴染の会社で昨年会っている。実は彼がその会社に入社しているとは知らなかったが、高校時代に友達の家で行き会った友達の兄さんではないかと思ったのだ。
40年ぶりの再会だった。その人が、中央線に乗っていての再会だったのである。
やはり、私はすぐわかったうところが自分でもすごいとあらためて思ってしまう。
いい天気(09年3月17日)
WBCを見ている。点獲られちゃった。
東洋大の相撲部(09年3月17日)
私は相撲が好きだ。今は相撲が面白くなっている。モンゴル様様である。
母校の東洋大学の相撲部も最近強い。十両の木村山も東洋大のはずだ。前は小兵の選手が売りだったが、大型化しているし、大学選手権でも優勝なんかしている。
この相撲部の部室に私が即興ライブでやった、相撲部の取り組みを描いた切り絵が飾ってあるという。
東洋大学は、これまで地味だったが、最近スポーツが花盛りである。
女優A氏の近況(09年3月16日)
A氏はテレビも、普段も変らない。多弁である。
A氏がある日、外に出たら、男性2人がAビルをながめて「ここがAさんの事務所か」といっているのを見つけたという。それで、話すようになりビルに招き入れたという。その二人は、九州の焼酎製造業者で社長が代わり、東京に営業に行ってこいといわれ、やってきたのだという。しかし思うように仕事がとれず、困っていた矢先だったという。
気風のいいA氏は、何ダースもの大量の焼酎を注文したという。事務所の方も、大反対をしたが押し切って買ってやったという。私が見せてもらった酒は2升で2万円の酒であった。
ところが、その会社から仕事が入ったという。テレビコマーシャルである。そのギャラが何と600万だったという。それに他にカメラ撮影でもギャラが発生したという。
その会社に行った時、営業に来た男性は副社長に就任していて、現在社長になっているという。
しかし、会うたびに思うが、この人の懐の深さはすごい。本人はまるで意識していないが、こんな人はもういないと思う。
疲れて(09年3月15日)
二箇所の缶詰めはさすがに疲れた。文春では眠れなくて、やっぱり疲れが残って、全て(50周年号は10カットで合計12カット)は出来ずに3作収めて帰ってきた。
女優のAさんに絵を教える約束をしていたので、なかなかいけないという電話をしたら、今日が休みだというので、疲れていたけど、出かけてみた。
麹町から銀座線の赤坂見附まで歩いたが、歴史案内があって、「紀尾井町」の名の由来が書いてあった。紀は紀州家の紀、尾は尾張家の尾、井は井伊家の井で、ここにその藩の屋敷があったことから名づけられた町名だということを知った。
Aさんから、受講料をいただいた。辞退したが、押し問答は苦手なのでいただいておいた。全く予期しなかったことだ。額に入れて飾っておこうと思う。5月26日に松坂屋で、展覧会及びイベントをするそうだから、芸能ニュースで流れるから「先生を紹介する」といってくれたが、その日はうどんツアーで行けない。
残念。
缶詰め(09年3月14日)
恒例の缶詰である。今日は講談社。ここでは初めての缶詰である。一泊して、週刊文春缶詰と漂泊する。
今調べたら、「缶詰」は、食べるかんづめで、「缶詰め」は「仕事を缶詰め」という時に使うのだという。以後、「缶詰め」を使用する。
講談社の缶詰めの本の作家の宇江佐真理さんとの付き合いは、古い。初めてお会いしたのは、吉川英治賞の新人賞を彼女が受賞した時だ。「雷桜」という小説の原画を見せたくて、授賞式の最後の頃に行って彼女に作品を見せに行ったのである。
私は着の身着のままで行ったので、かなりよれよれだったと思う。
そのときのことを北海道新聞で、タイトル「百鬼丸」でエッセイで彼女は書いている。それを友達の友達が送ってきてどこかにあるはずである。私のことを書いた人は最初で最後である。それもタイトルがずばり「百鬼丸」であるからすごい。
彼女は何回も直木賞候補になっているが、もう取れないのかもしれないなあ。
でも、そんなことを気にしない、とてもおおらかな人である。彼女の住む函館にバイクで行く目標があるが、もう7年くらいその目標が達成できない。何歳か年上のお姉ちゃんである。
落語家からの郵便(09年3月13日)
東洋大学工学部出身の、私より25歳くらい下の後輩が、落語で真打になるのだそうだ。
その昇進祝を、落語協会から昇進を認められた何人かと合同で京王プラザでお祝いをする。名前は三遊亭遊喜。私の友人でもある三遊亭小遊三師匠の弟子である。
昨今、こぶ平の林家正蔵襲名以来、落語界はこういうイベントで大賑わいだ。
私は、大学関係のイベントに呼び出されて紙きりをするんだが、その時彼が落語を披露してセットで出くわすことがある。彼は大学では私なんかより、ずっと恵まれた扱いを受けている。工学部という、あまり芸能とは縁のない学部だから、大学からの期待は大きいと思う。幸せなスタートを切っている遊喜君である。
だが落語以前に、まだまだ修行しなければならないところがある。それを克服したらきっといい落語家になれると思う。
襲名披露の通知には、手拭いと扇子が入っていた。この間、木久扇師匠の襲名披露でもらった扇子も息子さんの木久蔵とセットの二振りあり、その前にもいただいたことがあるので、せっせと使わないといけない。
普通祝賀会というと、会費というのが書いてあったりするが、さすがご祝儀の世界だから書いていない。さて、どのくらい包もうか。
うどんツアーの葉書(09年3月12日)
一昨日、吉田のうどんツアーの葉書を出した。出した人は、埼玉・群馬だけである。東京には出さなかった。このHPを見て応募していただけたらありがたいと思うのだが。
今のところ2人である。まだ、リピーターとしていく人があるから、10人くらいだろう。
これから、何とか40人に向けて、応募があるといいなあと思う。
かなりの年配の方がいて、吉田のうどんが固くて食べられないという人もいる。そういう方は「ほうとう」のほうに廻ってもらおうと思う。忙しい展開になりそうである。
下絵大体完成ほっとしている(09年3月11日)

講談社文庫 宇江佐真理著「アラミスと呼ばれた女」下絵が出来た。ほっとしている。
痩せカロリー(09年3月10日)
昨日、4日ぶりにジムに行って、担当の女性から初日にもらったチラシをあらためて見た。一日の食事の摂取カロリーが書いてあった。
何と1300kカロリーである。朝が500kカロリー 昼が400キロカロリー 晩が400kカロリー。私はダイエットにためにジムに通い始めたのであるから当然の数値である。
でも、ある人に誓ったから、やれるかもしれない。
私はこの手で、禁煙と禁パチを実現した。
今日は人間ドックである。忘れて食物を食べてはいない。良かった。
明日は人間ドック(09年3月9日)
昨年から始めた。異常はある。秘密だ。
今年も出るだろう。だからテニスのほかにジムに入った。しかし、4日間行かない。テニスは面白いが、ジムは面白くないから、このジムに通うのは確か5回目である。
今日は絶対行きたい。
明日は人間ドックだから、朝は飯は抜きなはずだが、何か食べてしまいそうである。
テニスの最上級者と(09年3月7日)
先日仕事をサボって、テニスコートに行った。クラブで最上級者で川越の大会でも、一般で本戦に入って優勝するかもしれない若い人とダブルスをやった。しかし、私の得意の高速トップスピンロブも通らず、かろうじてだが戻してくる。ドロップショットも、追いついてくる。コート全てをカバーしてくる訳だ。
私のショットもかなり通じたが、まだ出来ていないプレーが自然と穴になる。
フォアのストローク、バックのスライス・ドライブは、もう彼らと肩を並べるか、ちょっと上かもしれない。だが、この連中の全体の領域に達するのは、もっとフォアボレーを良くして、スマッシュが戻らなければ駄目だ。それにしても、総合力で彼らの領域まで、上達するのだろうか。彼らとは気迫・執念・体力でだいぶ劣っていると思う。
しょうがないか。
ストレス(09年3月6日)
花粉症で鼻がふさがり、ストレスになっている。
一つ仕事を終えた。また次の仕事に入っていく。そしてまた次の仕事、そしてまた次の仕事。有難い。
新しい絵を探し出すこと、それが楽しみ。
亀田(09年3月5日)
亀田興毅の試合を見た。勝ちはしたが色褪せた感じがした。昔のビデオを見ているみたいだった。
歳をとったせいか、時間の立つスピードが早い。亀田が古いボクサーのように感じた。
偲ぶ会(09年3月4日)

昨日は集英社に缶詰になるつもりだったが、資料を忘れたりで止める事にして、18時からの村咲数馬を偲ぶ会に参加した。昨年の12月に、奥さんといっしょに亡くなったのだ。事故ではない。
遺族も何も彼の友人知人に語らないので、亡くなった理由も状態もわからない。40人くらい会には集まった。作家と編集者が中心だった。私も共通して知り合いの人がいて、会は湿っぽくはならずにぎやかなものになった。
村咲さんは私より12歳くらい下の東洋大学出身者である。だから、会うと「先輩!」と私に懐いていた。個人的にも飲んだことがあり、変則的に面白い人であった。そして、正義感と義侠心が強い真面目人間だった。
私とは2冊仕事をしていて、最初の1冊は増刷が3回かかったそうである。まさにこれから、絶好調を迎えるかもしれない真っ最中に亡くなったのである。
みんな星になっていく感じがする。
まだ仕事がある(09年3月3日)
このHPに完全に仕事をした作品を載せているわけではない。印刷物をスキャンして、HPに載せるのは手間がかかるから、やらないことのほうが多い。
私の作品数というのは10000点を超える。新聞連載をしているわけではないので、作品点数は少ないが、少ないといっても、ここに載せている数ではない。
話はそれるが、私には出版社で出している作品集はない。地方に行くと作品集を出していることがステータスになる。出版社とたくさんの仕事、切り絵作家としては、飛びぬけた量の仕事をしているが、作品集がないことが不思議に思う人がいると思し、そこに評価の基準を持っている人は、私が売れていない人間だと思うだろう。
実は、私の仲間の売れっ子イラストレーター蓬田やすひろや原田維夫・西のぼる他は作品集を出してもらっていない。関わっている大手の出版社は、編集者の給料が高いから、あるレベルの売り上げが上がる作品を出さないと出版することがない。画集というのは、とても割に合わないのだ。
大手の出版社が画集を出そうするイラストレーターというのは名前を聞いてすぐわかるイラストレーターだけである。絵を見て知っていても名前は出てこないイラストレーターは手を出さない。
画集とか切り絵の教本を出しているところというのは小さい出版社ばかりだ。つまり、そういう出版社に「切り絵の教本を作りませんか」と自らが営業しないと本は出せない。
勿論私が出せそうな小さな出版社に行って、「教本を出しませんか」といえば多分出してくれるところはあるはずだったと思う。過去形にしたのは、切り絵作家で私の個展の時に「百鬼丸さんの技法を盗みに来ました」「百鬼丸さんが切り絵の第一人者ですね」といった成田一徹氏とかが、そのような営業で教本を出しているから、もう私にはその機会を与えてくれる出版社はないかもしれないからだ。
ただ、これから画集はともかく教本については、出版社に当たって出すようにしたいと思う。
おじさん2(09年3月2日)
前日の日記のおじさんを見かけた。自転車の後ろの荷台には紙が乗っていた。缶を持っていなかった。
次に見て缶がなかったら、紙に鞍替えしたんだろうか。
あのおじさん(09年3月1日)
自転車で袋いっぱいに空き缶を集めていたおじさんをこの頃見ない。金属の相場の低下でもう空き缶集めは止めたのかもしれない。
どうしているんだろう。昨年の正月元旦に、バイクで出かけていた昼間、バイク用のぶっとい3mの鎖がなくなった。彼の仕業だったのかもしれない。鍵を付けておかなかった私がうかつだった。
噂によると彼にはちゃんとした家があるのだそうで、家の周りは缶だらけだという。
懲りた(09年2月28日)
昨日の宴会のあと、行きつけの店「ますみ」に行った。飲み仲間がカラオケを地下でしているということで、ちょっと飲むだけと思っていたが変更して、カラオケをした。
そして予定よりも多く酒を飲んでしまった。もう、身体は戻っているが、おきぬけは頭が痛かった。
やはり予定通り行動しよう。
今日は吉祥寺のカルチャーセンターの講師である。早く出かけて、カルチャーセンターで仕事をしよう。
修羅場(09年2月28日)
私が卒業した大学のテニス部の追い出しコンパにOB会長ということで出席した。卒業生たちの挨拶に、この部がずっと問題を抱えていたことが垣間見られる。社会に出て、こんなにばらばらな集団というのは多分少ないと思う。
いろいろな経験から導き出された発言や行動ではなく、とても頭でっかちな人間がいる。こういうのを教条主義( 状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度)というのだろう。
こういう人間が上に立つと、下の人間は大変である。
そういえば、私の二つ上の文系のテニス部の主将がいた。この人はとても今思えば爺臭い人だったが、とても教条的な人だった。社会に入って、職場の女性と次々と出来てしまって、女性が自殺未遂をするという状態にまでなった。新聞沙汰にもなったという。
学生時代の説教臭い人に自分はふらふらしていたので憧れたものだが、今は私はそんな人ほど胡散臭い人間になると思っている。学生なんてふらふらしていて当たり前だったんだと思う。
缶詰だった(09年2月27日)
一昨日は私が展覧会のとき、招集している「百鬼丸コント一座」のメンバーが池袋でコントの公演をするということで行ってきた。最初から下北沢という頭があって、東上線から武蔵野線、中央線、井の頭線と乗り継いで着いたが、下北沢の駅で、公演のチラシを見て、公演が池袋であることを知った。
他人のコントを見る前に私がコントを演じてしまった。
そのうえ、公演を6時と思っていたら7時だったから、私のコンとも二重丸というか、全く「コント百鬼丸」というひとり劇団の役者のようである。転んでもただでは起きない百鬼丸は、途中の喫茶店で1時間、仕事の小説・小杉健二著の柴新九郎シリーズを原稿を読み、「何て主人公は悪い奴だ」と思いつつ読みふけったのであった。
コントだが、とても面白かった。さすがにプロ集団である。コントとというのは肩もこらない軽さがいい。こういう芝居だったら何回見ても楽しい。
打ち上げに招待されて、みんなと飲んだ。コントやる皆さんだけ合って、とてもさっぱりしている役者さんばかりである。他の劇団の打ち上げに参加したことがあるが、その時は役者さんが抜け殻のようで、ちょっと暗いだるさがあった。その劇団は劇団自体がメジャーで経営が出来、芝居が日常としてあるから、いちいち打ち上げに思い入れがないのだろう。
だがコントの役者さんたちにはが全くないそれはない。それは役者たちがまだまだ上を目指すエネルギーあるからだろう。
昔、「お江戸でござる」の脚本を書いている岡本蛍さんの演劇のチラシをしたことがある。勿論芝居を見て、打ち上げも出た。打ち上げの席の私の前は、テレビで見たことがある男の役者さんだった。「テレビはつまらない、舞台は面白いけど食べられない」と顔を曇らせて私に言った。私は「我慢してテレビは出ていたほうがいいですよ」といった。
それからほんのしばらくして彼は「踊る大走査線」の織田裕司の敵役のほうのレギュラーとしてでてきた。名前は知らないのでここでかけないけど、人気が出てコマーシャルまで出るようになった。
だから、このコントの仲間たちもいつ大化けするかわからない。
打ち上げのあと、文芸春秋にむかい、宿泊して3週分を仕上げ、次の缶詰双葉社に向かった。双葉社では、将棋の羽生氏の写真集を出すのだそうで、その中にある団鬼六氏のエッセイにカットを3点が欲しいということだった。その絵の構想については担当者は特にないということなので、私は羽生氏と彼を破った渡辺明氏の似顔絵をすることを提案した。
ただ、似顔絵はそんなに早くはできるものではから不安はあった。だが、それが一番似合うカットだろうと思った。自分を信じて作り始めた。意外にも4時間ほどで2カットが出来た。もっと追い詰めればいい似顔絵が出来るのだろうが、そんなに時間をかけてはいけないギャラである。それで、終えて帰ってきた。もう一点は大山名人と升田名人の似顔絵一枚のカットの中に入れる。それは後日ということで。
新しい弟子(09年2月25日)
浅香光代さんと親交があるが、デパートのチャリティに絵を描いて売るのだそうで、絵の指導と切り絵を教えて欲しいと連絡があった。今私も忙しいし、浅香さんも相変わらず忙しい。
何回か連絡を取ったが、日程が合わず延び延びである。
顔が全て(09年2月24日)
久々にレストランに行って作業をした。下絵の顔がすぐ出来た。
これが出来ないことがよくある。もう力が落ちたのかなと思うときもある。だが、こうも早くできると、そんなことはないと否定する。それ以上に天才!なんて思いたくもなる。
しかし、すぐ出来ないことが最近多い気がする。
川越散歩(09年2月23日)
昨日は作品撮影があって、カメラマンが撮影している間に、川越の観光メインルートを歩いた。それでも、現地人らしく、マニアックに路地あたりから散歩した。
裏通りに、普通の民家で苔玉を売っていたので買って帰った。前から、欲しかったものだ。
ちょっとしゃれた食べ物やが路地には沢山ある。川越の町は観光地としては歴史が新しく、大河ドラマ「春日の局」が放映されてからだ。川越には喜多院というお寺があり、そこには春日の局が家光を育てたという建物が、江戸城から移築されている。移築されてから、江戸では大火があり、今の江戸城にはそんな古い建物はない。
川越に春日の局がいたわけではないが、春日の局が家光を育てた建物があるという理由で観光地になったのだ。
私が、川越にある東洋大学工学部建築学科にいた時は、今の蔵作りの建物をどうしたものか、市や市民も悩んでいたはずであった。
だから、まだ完璧に観光地としての街が熟成されていない。ちょっと前はシャッターどおりに近かった面影もまだ残っていて、観光から取り残されている店がある。
観光メインの蔵通りは今はすごい観光客が押し寄せている。4月からはNHKの朝の連ドラが川越が舞台になるから、ますます客は増えるだろう。
暖かいひざしにとぼとぼと歩いて、知り合いのお店も2件寄って話し、大き目のボタンを一つ買った。帽子につけようと思う。
吉田のうどんツアーの募集(09年2月22日)
このツアーの募集をそろそろ郵便でしなければならない。今くらいの時期から募集しないと予定の人数は集まらないだろう。早くしなければ。
今度のうどんツアーも多分リピーターが多いと思う。9月の2回目のツアーは、かなりの人が2度目であった。そして、初めての人とリピーターが混じるので、私のガイドもワンパターンではいけなくなる。
だから、このうどんツアーは私にとって大変な修行の場である。そして、今年の仕事の中でも、昨年同様、最大級のイベントである。
久々に(09年2月21日)
ここ2年生徒をほっぽりぱなしで、教室を開かなかった。生徒が減るはずである。
教室の日も、安定して開くようにして、生徒も増えてきた。これから教室にも力を入れようと思っている。
そういえば、東上線沿線新聞が来たが、表紙が私の絵になっている。そして中のページに教室の宣伝が入っている。
それから、今度の火曜日には、川越ケーブルテレビの取材があって、勿論私も出演するが、教室の宣伝もしてくれるようだ。久しぶりのテレビ出演である。
行けない(09年2月20日)
今日は直木賞のパーティだが、文春文庫の仕事が終わってないのでちょっと、ばつが悪くて行けない。こういうことはある。
パーティに出て、困るのは人の名前をおぼえていない時、こんな時は私でも、その人を避けてしまう。今は出来るだけ近づいていって、正直に「お名前忘れました」というようにしている。
一番のドラマは作家と編集者だろう。本を出して欲しい作家と、売れなくなった作家をけむったがっている編集者だろう。当然、見つけた編集者は作家を避けるだろう。作家は追いかけたり、あるいは避けられているのがわかると傷ついたりする羽目になると思う。
5月に個展(09年2月19日)
5月に、また川越の岡田畳店で個展がある。同時にその前半と重なって、生徒の展覧会もある。生徒の展覧会は川越駅ビルの6階ビーポケットである。ビーポケットの客が岡田畳店に流れてくればいいなあというもくろみもある。
そして、岡田畳店では生徒の作品を売れるようにしてみたい。生徒の喜ぶ顔が思い浮ぶ。
生徒でも自分の作品が売れるのは、寂しいようでもあり、嬉しいものでもありなのである。
日記休み(09年2月18日)
何も持っていない(09年2月17日)
私の友人に野田亜人というペーパークラフト作家がいるが、彼は珍しい人である。珍しいにも程があると思うが、こんな人は日本にいないだろう。
自分の作った作品をほとんどいや、全く持っていないのである。それは保存するのが立体だから大変というのもあるだろうが、全てポイポイあげてしまうのである。アトリエには本らしいものはない。それに、自分の画集が何冊か過去に出ているんだが、それさえ持っていないから、必要な時は図書館から借りてきたりしている。
日本人体質では全くない。
喉が痛かった(09年2月16日)
花粉症で、目が痛かった。喉も痛くなる。私は喉が痛くなると必ず肩こりが来る。頭痛も来る。
鼻を強くかむと必ず右の鼻の穴は鼻血を出す。耳もかゆくなる。
確か身体もだるくなるはずだ。それは現れなかった。目のほうは昨年の点眼薬で、何とかなった。
忙しい(09年2月15日)
申告もあり、仕事もあり忙しい。こんな暖かいと虫や動物や植物はどういう反応をするんだろう。夏が恐ろしい。
今日はパソコン前に根が生えるだろう。
ご心配かけて(09年2月14日)
文芸春秋に缶詰になっていた。ファンの方には、HPが更新されていないんで、心配された方もいるようだ。申し訳ない。
森村誠一さんの文庫が下絵はアップしておいたが、まだ作品が出来上がっていない。焦って缶詰になりにいった。
3作しか出来なかった。間に切り絵の森のプロデューサーとの打ち合わせ、オール読物のカットの仕事と、挟まれたため、なかなか仕事がはかどらなかった。
あと5作、先は長いし、その間に他の文庫が1冊挟まっている。忙しいのはいいことだが、人形劇団プークのポスターの仕事も早く手をつけないと。
先日終わった「岡田畳店」個展会場の作品を撤去し、また新たな作品と入れ替えてきた。規模は小さいが、見ごたえのある作品を飾れた。
病院梯子(09年2月10日)
昨日は本当は、人間ドックだったが仕事の関係でキャンセルした。
3時からの予約していた歯医者には行った。検診で行ったが虫歯もなかった。私の歯は今のところ全部ある。
次に、胃が痛いんで胃腸科病院へ。相良胃腸科というが、この病院が開店して以来の私は古い客である。ここの院長は個性がある。みのもんたに似ている。
そのあと、膝が痛かったので、中国整体院に行った。この整体院はとても優良だと思う。
ふくらはぎの前のほうを揉んでもらっていたら、とても痛かったが「ここはこっていますね。胃かなんか悪いんですか」と言った。
胃が痛い(09年2月9日)
もう一週間になるが胃が痛い。
何回か胃腸科の病院に行った時に言われた「胃が風邪を引いている」状態と同じである。
いつもなら早く行くが、今回何故か行かない。今日行ってみたい。。
さすがに即興ライブは人が入った。20人くらいは入ったと思う。今回は急遽、美術評論家のヨシダヨシエ氏の講演を入れてみた。
しかし、私と打ち合わせしていた「Hな話で笑わす」は出ず、客は一回も笑わなかった。私が即興切り絵を終わると、ヨシエ氏の講演途中でもお客が帰ってしまった。彼は公演中自分が難しい話をしているのはわかっているようだったが、根が真面目だからついついこういう展開になるといった。
そうかそうだったか、そういう彼の側面を私は知らなかった。いつも、個人的に会うとエロい話ばかりしているエンターテナーだと思ったが、ぶきっちょだったのである。
そうはいっても、話の中の博識と記憶力は素晴らしい。80歳の老人が、あれだけの知識を披露できるというだけでも、講演を聞くだけの価値はあったろう。それに人によっては、面白く聞いた人もいたと思う。
ヨシエさんに拍手だ。
今日が展覧会最終日である。美術評論家のヨシダヨシエ氏をお呼びして公演と対談をしようと思う。ヨシエさんの語りの中ではエロが得意だから、きっと出てくると思うが、そちらの話も私も苦手ではない。だから何とか話は出来るだろう。
それに、エロの実践となると彼の右にも出られない。私のファンの女性も来るだろうが、ヨシエさんの話を聞いて、妊娠しなければいいが。だけど、もうそういう可能性がなくなっている女性ばかりか。
新人物往来社は神保町にある。私のが仕事をしていた窓から他のビルを見ると、灯りがついていないビルが沢山あった。テナントが入っていないのだ。
銀座を歩いていて、ビルの看板にテナントの社名があまり入っていないビルが沢山あった。
私は昔、モデルのマネージャー時代、このビルの一軒一軒のぞいて、一つのビルに一つは入っていた広告制作プロダクションに営業に入ったものである。その頃は、ビルにテナントはぎっしりであった。そして、今はその制作プロダクションのネームが、ないといっていいほどである。
一昨日は亡くなった作家の早乙女貢さんのお別れ会だった。いつも着物を着て、さっそうと歩いていた早乙女さんだった。
私とは書籍カバー700冊の1冊目が早乙女さんの「おけい」という作品だったのである。
このとき担当していた編集者は文春の市川森生さんだった。ちょうど集まりで、森村さんの文春文庫を担当しているI氏の上司のM氏がいたので、早乙女さんとの関わりを話をして、市川さんの話になった。
そしたら彼は、「市川さんは、昨年亡くなったよ」という。驚いた。65歳くらいではないだろうか。もう退職なさっていたはずである。
市川さんから最初に文庫のカバーをいただいたとき、とても嬉しかったが緊張した。「渡辺さんが、一生懸命営業しに来るから、あげようと思うんだ」ととてもニヒルな顔で笑いながらおっしゃった。
「百鬼丸なんて漫画みたいなペンネームやめな、やめな」と言われて、ちょっと不満だったがしょうがなく本名の「渡辺文昭」でイラストレーター名は入っている。だから私にとっても珍しい文庫になっている。
後に、義理の兄が「百鬼丸というペンネームを何故変えたんだ」とクレームが付き、復活させて今日に至っている。
その市川さんとの話はまだ続く、「あなたの、色は信用しないから(センスを感じないからという意味)墨一色でやって、四色でなくて」と言われた。
だが、四色の意味がわからなかった。墨の意味もわからなかった。聞き返すのが恥のような気がしたから、聞かなかった。しかし、冷や汗がドット出た。でも墨は黒のことだろうと、想像した。
そのときの市川さんの顔は、タバコのヤニで汚れた歯を出して、意地悪そうな顔で笑っていた。あの顔はなんだったんだろうと思う。
そして、提出した作品を見て、彼は驚いた様子だった。上出来だったからである。それから、彼は立て続けに仕事を配給してくれた。その仕事のイラストレーター名は全部本名であるから、市川さんがくれた作品だとわかる。
だが、彼は私の展覧会には、よく顔を出してくれた。その頃には、昔のいたぶっているような顔ではなく、「応援しているよ」という慈愛に満ちた顔だった。優しい人で、照れ屋で、だから表現が反対に出ていたのかもしれない。
寂しかった。
もう何年前になるだろう、週刊新潮で連載した「クイーンズ海流」の作家・佐江衆一氏と担当編集者のN氏と私の3人が一堂に会した。嬉しい再会である。早乙女さんに感謝だ。「久々にガツーンというイラストを、週刊新潮でやらしてくれ」とN氏には伝えておいた。
会では他に、挿絵画家の西氏・文芸評論家の細谷氏・同じく高橋氏・作家の北原亜以子氏・鈴木輝一郎氏もっともっとたくさんの人と話をした。
次の日の朝、駅のホームで昨夜あった集英社の元編集者のY氏と偶然会った。早乙女さんは病院に行ったことが子供のころからなかったという。子供の頃から親兄弟がいないで育ったのだそうだ。知らなかった。
胃がんはどうしょうもないところまでいっていて、2ヶ月の入院後の逝去だったという。
早乙女さんの着物姿は出版社のパーティの風物であった。
会が終わったら、早乙女さんのよく通ったクラブ数寄屋橋にママの誘いもあり、一人で行った。したたか酔って、文春の仮眠室で寝て、朝4時から週刊文春のカットをベッドの上で3点仕上げ、次の缶詰新人物往来社に行って一点仕上げ、亜人プロデュースの展覧会を銀座に見に行って、今帰ってきたのである。
亜人氏、彼は強烈な個性である。
私の仕事や、役者・歌手一般にいう芸人はたかられる。別におごらされるというのではない。ただで使われ易いのである。
基本的に、ものを作る人や芸人はお人よしが多い。
その点からいうと、この仕事が嫌になるときがある。またそんなことを考える時はとても寂しい。
文春カットは早々にいっぱい作りだめしていたが、10日に入れないとアウトとなる。
だが、文章は3回分現在来ているが、下絵はもう描いてある。私はこの手のカットは得意である、いや好きであるにとどめておいた方がいいのかもしれない。
元々、早々に絵描きになったら、「私は漫画家になっていただろう」というところが、良く現れている作品である。27歳に絵を描き始めたが、まさかプロになれるほどの絵の才能があるとは思っていなかった。高校時代に美術部にでも入っていたら、漫画家に間違いなくなっていたろう。
だが、早々に挫折して別の仕事についていたかもしれない。だから、切り絵作家でも十分に満足である。
盟友の蓬田やすひろが、私と同じことを言っていた(彼は小学校から絵描きになろうと決めていたようだが漫画家になろうか迷ったようだ)が、私と彼は、挿し絵で人間の顔を描く数少ない二人である(後の人は描いても、同じ顔を描いている)。
2月は、人形劇団プークの「牡丹灯篭」という8月の舞台のための、宣伝チラシの製作がメインの仕事になる。
あまり、本の仕事以外はしてこなかったが、今年は、法務省の建物の陶壁画の制作も依頼されている。これは夏に製作に入る予定だ。
しかし、産業界が軒並み赤字に転落しているが、どういうめぐりかわからないが、私の仕事にも微妙に響いてくるはずである。
今日は切り絵教室の日だが、参加者が誰もいない。この2年間、展覧会だらけで教室の日が毎月違ったし、やらなかったりしたら生徒が減ってしまった。
今年から、また第一日曜日・第二金曜日・第三土曜日・第四水曜日と固定した。今回の展覧会で一人生徒が増えた。また少しずつ増えていくだろう。
その展覧会で、人が入ってないとは思うが、昔はとんでもなく入らない展覧会を経験している。同じ川越での展覧会だったが、あまりにも入らないんで会場でダンボールを引いて眠ったりしていた。
それに比べれば、今回の展覧会はずっとましである。
風のある日はテニスはしない。今日は展覧会が休みでテニスを楽しみにしていたが、アトリエで仕事である。
昨日が展覧会のライブであったが、本来今日がライブの日であった。私が間違って葉書にライブの日を30日にして発送してしまったのだ。
だから、今日はマスコミに出てしまった、31日ということで、一応準備をしておこうと思う。
それにしても粒の大きな雨だなあ。テニスが出来なくて寂しい。
川越から甲府へ行く高速バスがある。これは知られていないのではないか。
昨日は行きは三人、帰りも三人である。赤字路線である。4月から、川越が舞台の朝の連ドラが始まるから少しは客が増えるだろう。往復で4000円で、2時間半で到着する。
昨日の舩木市の受賞パーティは華やかなものだった。富士急行の社長・堀内光一郎氏をはじめ山梨の財界人であふれていた。彼のカリスマを垣間見た。私も多くの方と名刺交換をした。カレンダーも持っていったが、もっともってくればよかったと思う。朝6:00のバスで帰ってきた。
今日は即興ライブが午後からあったのだ。仕込みもしなければいけない。しかし、この雨の中10人ほどのお客が見えた。
作品はあまり出来のいいものではなかった。ライブの作品というのは、毎日やらないといい作品は出来ない。。
もったいつけて、展覧会の数日しかやらないと健康な作品は出来ない。次の個展では、毎日午前午後の両方にやってみよう。良い作品として残る作品を作らないと、作品もかわいそうである。
今日は甲府へ行って来る。清里・萌木の村代表の舩木氏の何かの賞をもらった祝賀会が甲府富士屋ホテルである。山梨で、文化に貢献したという趣旨での受賞だと思う。
昨年夏に、フィールドバレーのビデオを送ってきた人がいて、熱心にいろいろな人に配っているんだなと、あまり気にも留めなかったが、この舩木氏、私と何とかつながりたかったらしい。だから、ビデオを送ったのは私だけだったと推測する。
昨年の3箇所レンチャンの忘年会の最初の山梨県の集まりの弁士として舩木氏が来ていて、偶然往きあった。偶然というより、私がビデオを送ってきた人を記憶していたら、偶然ということにはならなかった。
彼は私の顔も知らなかったので、他のメンバーに私を紹介されて、大変驚いていた。「えっ!あんたが百鬼丸さん?」って具合だった。「もっと爺さん」と思っていたとも、言っていた。
この舩木氏、弁舌がなかなか巧みな人だった。
フォアボレーが見つかった。大学時代を通して、フォアボレーが出来たためしがなかった。
人に聞くと、前で捉えるとか、後ろで捉えるとか全く逆にいう人がいる。それから、フラットに当ててからカットするとかいう人もいる。だが、フラットに当ててからカットするというのは間違いだと思う。
すごい速い球をフラットに当てていたら、手にゴツンと来てとても耐えられるものではない。
人からテニスを教わって、うまくなったことがない。苦労なしでたまたまうまくなった人は、教えるのが下手である。
不思議なものだが、学生時代に出来なかったファアのストローク・バックのスライスは他を圧倒するして、ほぼ完璧だが、学生時代に出来たバックのドライブ・バックのボレー・スマッシュがまだ完全でないのである。特にスマッシュは、標準以下である。
今日は展覧会2日目。この展覧会で、週刊文春で宮部みゆきさんと組んだ「ゼプツェン」の挿し絵を展示しているが、すさまじいアイデアで絵が展開している。この個性的な作品群に賛否両論があるだろう、事実嫌いな人もいたし、大好きな人もいた。だが、もうこれだけのエネルギーを注ぎ込める連載作品を作ることはないだろう。
この連載はもう8年前である。8年も前の作品を見ると幼稚で嫌になるものだが、自分がこの作品を作ったんだと誇らしくなるくらいのハイレベルな作品である。逆に今この作品を作れないかもしれないと思う。
この展覧会に当たり、ゼプツェンの文春掲載を一挙に整理して見せている。それに今まで、新聞・冊子に私が記事として出たものを整理して展示している。
ファン必見である。
今日から個展である。
それはともかく、皆さんが驚く偶然な遭遇というのがある。もう15年以上前だ。私はJTBの雑誌「旅」の取材で、フランスへ行った。JTBの社員の研修旅行に同行して、フランスでの紀行文を書いて切り絵も入れるという仕事だ。
その帰りの飛行機である。私は通路側に座り、窓側に男性が座っていた。お互いに、「む?」といった表情で挨拶を交わした。しばらくして、「あのー!」と声をかけて、ひょっとして「にい」さんの友人の方ではないですか?と質問。「百鬼丸さん?」と返事があった。
数ヶ月前、銀座の切り絵4人展で切り絵作家のにいみずよし氏の友人として紹介された人だったのである。
勿論あのいっぱい乗っている飛行機の中で隣り合わせというのが、すごい。しかし続きはまだあった。その人は川越に住んでいたのであった。兄が成田に車で待ったいるとのこと。結局私は私がすむ鶴ヶ島の隣の川越まで車で帰ることが出来たのである。すごい偶然であると思うがどうだろう。
この偶然はどうだろう。もう15年前だが、蓬田やすひろと原田維夫と3人で、石川県の松任市の西のぼるを訪ねるために成田空港にいった。ロビーで腰を下ろしていると、蓬田の二人隔てた席にパーティで見知った作家の大下英治氏が座ったいた。しかし、私は名前を思い出せなかった。
みんなに目配せしてもわからなかったが、そのまま飛行機に搭乗した。蓬田と大下氏は確か同じ列の2つ人を置いて座ったいたと思う。
実はこの二人週刊文春でまさに当時連載していた「女の学校」の書き手と挿絵画家だったのである。私が名前を思い出せば、偶然の出会いとなるはずであった。普通は週刊誌連載ともなれば、画家と作家は一席設けられて見知りとなるものであるのだが。
実は10日くらい前にも、久々の出会いがあった。劇団プークの芝居を見ていた時、座席の3列前の斜め45度の角度に、マスクをしていた方がいた。私はちょっと、じっと確認してそれが、NHKの人形三国志の人形の作者である「川本喜八郎」さんであることがわかった。
この方と私は20年前に新宿ギャラリー高野で初対面であった。私は、このギャラリーで出来た画家集団「草鞋之会」の展覧会場として特別展を開いてくれないかという依頼に来たのであった。その時個展を開いていたのが川本さんであった。私は名刺をお渡しして、自己紹介をした。彼は私のことはご存知であった。光栄であった。
話はそれだけではない。もうお亡くなりになっていた手塚治虫さんの奥さんである悦子さんが、会場にお客としていらっしゃっていたのである。手塚さんと私の繋がりを悦子さんは知らなかったと思うが、一緒に仕事をしたりしたことをお話したり、まあ、ペンネームが百鬼丸であるからストレートにお分かりになったと思う。
偶然のそのお二人のお陰で、ギャラリーの支配人は私のことを知らなかったが、もう、ペースはこちらのもので、とんとんと特別展を開く事に話は進んだのである。
話を戻そう。その川本氏らしい人に、芝居が終わってから近づいていった。近づいてみたら、やはりご本人だった。私が挨拶したらマスクをはずして、「ご無沙汰」と返してくれた。確かどこかのパーティでお会いしているので4度目の再会である。
吉祥寺の教室の後、ハーモニカ横丁?で生徒3人と飲んだ。ほんの間もなく、二人の男性が、隣のカウンターに腰を下ろした。横顔が、彼に似ている。じっと見たが、やっぱりデザイナーの川合氏である。声をかけたらやっぱり彼だった。
15年ぶりで位である。彼には集英社の単行本・井沢元彦著「信濃戦雲緑」のカバーデザインをしてもらった。その個々人的にあったりもしていたが、ご無沙汰であった。
お隣にご一緒なのは、多田進さんという同じくデザイナーで、私のカバーのデザインをしているという。だから、多田さんも私には親近感を持たれているようで、話が弾んだ。
私は、自分でも楽しいほど、人の識別がいい。だから、偶然の出会いというのは多い。
だが、きっと他の人も自分の縁者が近くにいるのに気がつかないことが多いのだろうと思う。
お二人とも私より高齢である。しかし、お互いに良くここまで、仕事がつながってきたものであると同感した。そういえば誰かがなくなったとおっしゃっていたなあ。講談社のO編集者である。私の個展にも顔を出された方である。残念だ。
切り絵を初めて30年が経つ、そのうちの28年はプロ生活である。
しかし、最初は人を描くときでも、ちゃんと人(写真)を見て描いていなかった。だから、漫画を切り絵にしている感じだった。これではいけないと、東京に引っ越して、裸婦デッサンを始めたのである。画家の「堂昌一」さんのところに遊びに行ったとき、私は「見なきゃ描けない」とおっしゃるから、どの画家も見て描いていると思って、自分でポーズをとってポラロイドで写してデッサンをしていた。今思うと、だから当時の私の絵は硬い。
そんな経過をたどって、自然にデッサンの力は付いたと思う。しかし、見ないで描いている人がいるということがわかったのが10年前である。仲間の「蓬田やすひろ」に電話して「見て描いているの?」と質問した。「見ないよ」という答えであった。私は絵の学校に行った訳ではないから、そういう情報にうとかった。
だから、この10年は再び見ないで描き始めている。切り絵だから、絵を切る作業があるが、下絵を描く方が最初は3倍もかかったものだ。だが、今は下絵は切る作業の3分の一かもしれない。でも平面だったら、同じくらいかもしれない。
そして、下絵を描いているときが一番スリリングで面白い。
人間ドッグの申し込みに病院に行った。
その近くに前に日記に書いた美術評論家のY氏の家があるので、久々に訪ねた。家の中は新聞雑誌、衣類とすさまじい見幕ぶり。
脳梗塞以来、仕事が減って今は何もないから年金暮らしらしい。ちょうど今レストラン・ガストに行ってきた帰りだと、ストーブにあたって、暖をとっていっていた。しかし、頭はすばやく回転する人で、話は相変わらず面白い。ちょっと、口が災いして、男は特に離れていくが、無類の女好きで、一日一人、週7人をとっかえ引返していたと豪語しているが、そのとおり女にはもてもてなのだ。
前に、女性を連れて行って、私がトイレに行った留守に、何故だかその人の前にご老体が移動していた。あとから聞いたら、舌まで入れてキスされたという。私に「トイレにいろいろなコレクションがあるからじっくりながめて来い」と言っていたのはキスをするためであったのだ。全く手が早いという表現だけでは足りない。
しかし、脳梗塞がために、女の交通整理が出来なくなり、電話が来ても何でも来いよといってしまうようになり、自宅で女の鉢合わせ、バトルが頻発、今はもてるもてると豪語しているが、このちらかりようが女の来訪がしばらくないことを物語っている。
お子達も二人いると聞いているが、多分この「最後の無頼」という写真集まで昨年出た頑固者に、付き合って入られないだろう。

とうとう1月も20日だ。早い。
今のアトリエの前に「とんでん」というレストランがあるが、その敷地に学生時代すんでいたアパートがあった。だから、アトリエの今の大家と同じである。
3年まで別のアパートにいて、文化団体連合の委員長(私は体育会の事務局長)をしていた佐竹さんが出る事になったので、そのアパートに転居した。4畳半と3畳と台所とトイレ、そして共同の風呂が付いて6000円だったと思う。駅には3分であった。
その佐竹さんだが、社会人になっても遊びに行ったものである。学生時代に付き合っていた人と、卒業と同時に結婚した。がしかし、乗っていたヘリコプターが墜落して18年位前になくなった。まだバブルの頃で、会社のゴルフ大会を伊豆大島でやる事になって、それの下見をヘリコプターで行ったのである。
バブルがなかったら、彼はなくなることはなかったろう。
ヘリコプターが墜落したニュースは私はたまたま深夜まで、仕事をしていてラジオで聞いていた。佐竹何々という名前がでてくる。先輩と同じ名前だなあと思った。次に出てきたのが、新宿区のであった。私はそこで佐竹さんと確信した。夜遅かったが、彼と親しかった大学の教授に電話をした。
明るい楽天的な先輩で、亡くなる何週間前に、朝日新聞に「小金持ち」なんて記事に彼が写真入で出ていた。

富士吉田は降っていたわけではないが、雪が積もっていた。浅間神社でお守りを買いたかったが、神社はアイスバーンでノーマルタイヤは危険なので、止めた(電車は3時間かかるが車は1時間で行けるので車でやっぱり行った)。
たまたまその神社に差し掛かった時、埼玉伝統工芸会館の局長さんからメールがあり、吉田は雪ですね、なんて入っていて私が滞在しているのに、通過して行ったらしいく電話したら、私がいるのを勿論知らずに通過していったということだ。
昼時だったんで、吉田のうどんをご馳走したかったが。
エースコックから吉田のうどんが全国展開で発売されたが、そのように「吉田のうどん」はメジャーになっている。吉田に前回の日記のように新しいうどん屋さんも続々出来ている。
全てのうどん屋さんが混んでいる訳でない、昼j地元の人が元々食べているうどんであるから、昼休みの時間にさっと食べられないと流行らないし、明らかに手打ちでない店、おいしくない店は流行らない。私も何件かはずれの店も入ったことがある。
画像のカップうどんは吉田のうどんとは程遠いものだが、固いうどんを即席めんで作るのは無理だろう。プロデュースした「麺ズ富士山」といううどん屋さんは屋号を「いかりや」というから、私の本家と30mくらいしか離れていないし、屋号も同じであるから曾爺さんあたりが兄弟であるだろう。
でも「いかりや」というのも「いかりや長介」が現れて、おもしろい屋号である。何かの機会に使ってみたい。
今日昼飯は兄貴とお袋で富士吉田の天野という「吉田のうどん」にした。ここのうどんは驚異的に固かった。吉田で一番かもしれない。でも、吉田のうどんを代表するお店であるだろう。だが、うどんツアーには無理である。高齢の方も結構いるからだ。やわらかい派と、分ければいいのかもしれない。
ということで、お袋は「固い」と途中で止めた。ここに客で来ていたのが、同級生の登喜とバスケット部だった郁子さんだった。別々の客だった。しかし、この登喜とは良く出くわす。だから久しぶりという感じではない。彼とは小学5・6年クラスで、申し訳ないが、よく殴った。一番喧嘩した仲だったのではないか。当然今はそんなことはなく喧嘩したのも懐かしい仲である。
郁子さんはかなり太ったが、面影があるし、私の得意の識別感覚で、「郁子さん?」と即答した。彼女は20年振りである。高校時代はだいぶおてんばで目立った美人であった。お互いにテニス部とバスケット部という運動部仲間だったから知っていたと思うが、在学中は話したことはなかった。
今年初めての里帰りである。電車で帰ろうと思う。自転車でも分解してもって行こうか。省エネになる。そうして帰りの大月までは、かなりの下り坂だから自転車で行く、大月から電車で帰る。
ただ、荷物があるからなあ。寒いだろうな。自転車は止めよう。素直に電車でのんびりと。夕方に着くつもりだ。
昨日の埼玉県立近代美術館での、副館長さんとの面会についてだが、結論を言うと「生きている人の企画の展覧会はやっていない」ということだ。
美術館で一番何とかしたいのは集客だろう。だから、集客が出来る生きている人気のある人の個展だったらしたいはずである。また埋もれている素晴らしい絵描きのプロデュースもしたいだろう。だが、絵のレベルより、持ち回りで賞をもらった人や高名な先生の弟子であり紹介だからということでやってこられたら、頭を抱える。
勿論、いいお話はいただいた。これから埼玉県のいろいろなイベントに参加していただきたいということである。また積極的に私のことを通知していただけるということである。おべんちゃらではない。私を必要とすることはあるはずである。行って良かったと思う。
今日は光文社文庫で私が絵を担当している作家の小杉健治氏と浅草で会食である。
埼玉県知事の計らいで、埼玉県立近代美術館の副館長さんに会いに行くのである。私はこういう県の施設で企画の展覧会をするのが、一つの夢というより目標であった。
2年前に、郷里の山梨県立の美術館の目の前のギャラリーで個展をしたことがある。美術館に行って勿論、「展覧会をしているんで見てください」と乗り込んだが、学芸員が「自分で売り込みに来る画家はいません」とむっとして引っ込んで、展覧会にも顔を出さなかった。渡した資料も見ていないんだろう。ある程度の学芸員だったら、私が提出した資料を見たら、反応するはずである。
昨年は館長さんにもパーティで会ったが、私を企画の展覧会の対象とは思っていないようである。
対応に差がある。
今日も粛々と仕事である。今、畳を切っている。畳といっても実際の畳を切るんじゃんない。
私がレストランで仕事をしているというと、ボーイをしていると思う人がいる。
紙を切って、畳に見せるという作業だ。こういう言い方でいいのだろうか?
おとといはマラソンのあと、足が痛くて階段を下りるのも大変だった。1週間は駄目だろうと思っていたが、そのあと爆睡したのがよかったんだろう。もう、びっこも引かず歩ける。足も痛くない。
実は、マラソン会場の帰り道、薬局で久々にトクホンを買ったのだった。恥も外聞もなく、空いている電車をいい事に、足のあちこちに助かりたい一心で、惜しげもなく張ったのである。これははがす時に痛いだろうなと思いつつである。
しかし、今のトクホンはすぐはがれることがわかった。痛くない。トクホンも効いたのだろう。
テニスが出来る。
昨年末に、出版社缶詰をしていた。編集部でしているのならいいが、部屋を取ってもらったりすると困る。
文芸春秋での缶詰は、執務室を取ってくれて、呼ばなかったら誰も来ないヴィップルームであった。作家志望の人だったらきっと憧れる部屋だろう。そして、数多くの著名なプロ作家がそこで原稿を書いただろう。
前にも書いたが、この部屋はホテル使用になっていて、トイレも風呂もベッドも付いている。
私はそこで仕事をしたときに、普段食わないような量の食料を買い込んでしまったのだ。それがきっかけで、太ってしまった。それから、なかなか痩せない。
パソコンをいじっていたら、記帳ダイエットというのがあった。食ったものを全部ノートの記入していくのである。カロリーを計算できたらベストである。やはり、幾分効果はあったようである。
昨日は、下絵が一つ終わった後、領収書の整理をした。3ヶ月ほど、展覧会が続き出納帳に記入をしてこなかったのだ。半分ほどして、アシスタントに任せた。
ここのところ名刺の整理もアシスタントにやってもらっている。名刺は終わったが、展覧会が続いて、入場者の住所録への登録がまだ済んでいない。これも一仕事である。
人任せに出来ない質なんだけど、雑多な仕事を一人ではとても出来ない。とても、有難い。
カレンダー・画集等資料を埼玉県の上田知事に送った。知事から手紙が来た。私の装丁は本屋さんで見て知っているとのこと、教育委員会に指示して、美術館で展覧会を企画するようにしたいそうだが、期待は今のところ半分である。(私のアトリエの大家である県会議員の長峰宏芳氏が前知事の土屋氏に私の存在を知らせたらしいが、当時土屋知事と群馬の切り絵作家の石井一臣氏との蜜月があり、私は相手にされなかった)
仕事を終えて、話題の映画ウォーリーをもて来た。気が遠くなるほどの程の凝ったCGであった。
お金がかかっただろうなと思いながら見ていた。「地球が静止する日」と同じようにテーマは、地球と人間のかかわりを警告する話である。でもディズニーの話である、やっぱり救われる。
もう7日である。私の常設ギャラリー岡田畳店本店で、今月末に展覧会をする。展示物は2000年から2002年まで週刊文春で連載された宮部みゆき著「ゼプツェン」の挿し絵の展示にした。
宮部さんとは、JTBの出版事業局の雑誌「旅」編集者だった、友人であり同い年で今は推理小説作家である折原一さんの結婚式の二次会で初めて会った。その二次会のあと、今は第一線でやっている、まだ、30歳代だった大沢在昌・井沢元彦・高橋克彦とうそうそうたるメンバーが作っていた雨の会(今はない)の打ち合わせに私も同席させてもらったものである。
それから、何回か出版社のパティで宮部さんとは出会い、親交を深めていった。私はこの連載の中で、本来やってみたかった現代物を、ちょっとやりすぎくらいやったのかもしれない。でも、それは気持ちがいいほどのものであった。
技術的なことを言えば、このゼプツエン以降写真など見ないで、デッサンは空想だけでやり始めている。顔もポーズもモデルはいない。そのお陰で、下絵の動きはすこぶる良くなった。
まさか、舞台に呼ばれるとは。昨日の浅香光代公演で、来客の友人を舞台に上げた。昨日は4人。その中に私が入っていたのであった。
その上、ご挨拶であった。固まったちゃって大変だったが、何とか切り抜けた。でも、ありがたい経験をしていただいた。浅香さんには感謝したい。
今年の初仕事だった気がする。
とうとう正月も行ってしまって、背中を見る感じである。
今日の浅草行きは着物に羽織で行こう。飲みすぎ食べ過ぎに注意しよう。
明日は、浅香光代さんの観劇に浅草に行く。だいぶ前に予約をしようと思って、電話したら浅香さんのプライベートな電話らしく、彼女自身が出た。5日に伺いますと伝えたが、チケットが来ていない。
たぶん、事務局に伝えていないのだろう。電話したが、暮れで出なかった。今日またしてみよう。私はすぐ忘れてしまうんですねえ。
明日観劇の帰りに、浅草でいっぱいやっていくのが楽しみだ。演芸も見に行ってみようか。落語より、演芸のが好きなんですね。気どってないから。会話に芸人の生活観なんかが出ていて、いいです。
箱根駅伝・往路優勝(09年1月3日)

昨日は昼間から、ワインを飲みながら仕事をしていた。
我が東洋大学が箱根駅伝・往路優勝。まさかと思ったが。柏原が神様と呼ばれていた今井の記録を破って、こうもあっさりと新記録を作るとは。
一昨年、風林火山博で甲府滞在中、甲府にテニス仲間がいて、二日にいっぺんは彼と甲府の河川敷にあるテニスコートで夜明けとともにテニスをしていた。その時自転車でコーチに伴走されていた黒人を見た。多分モグスだったんだろう。
無理すれば箱根にいけたが、仕事を優先してしまった。
ラベルに私のイラストが付いた東洋大学ビールを祝勝会で飲んでいることだろう。もったいないなあ。
残り5作だから、あと3作作れば安全圏である。本当は4作目は動きのある作品を作りたいが、女形の役者を描くつもりであるから、ちょっと動きがない。
4巻には盗賊も出るんで準主役ともいえる、そちらという手もあるが、盗賊より、途中まで出てきて殺されてしまうが役者の方が華やかであるから、役者を選んだ。頑張る。
さあ、スタートだ。とても新鮮な気持ちである。
今年もよろしくね。
とうとう大晦日である。
昨日近所に飲みに行った。女将が、広報に載っているねといった。かなりでかでかと載っているので、鶴ヶ島では知られる事になっただろう。
ここのところ個展をいっぱいしているから、私を知り、、ファンになった人が増えたことは実感している。
知られることは本懐である。私が、群馬の切り絵作家で埼玉の観光大使だった石井一臣さんに対抗して、宣伝活動を始めて、10年以上経つ。
昨日、川越の岡田畳店に干支の小さな作品を置いてきた。それとともに来年の岡田畳店での個展の日を知らせてきた。1月26日〜2月7日(日曜休み)である。もちろん小規模の展示はいつでも岡田畳店でやっている。
即興ライブも2日ほどやるつもりである。足を運んでいただきたい。
来年は個展が少ない。いろいろ忙しい企画が始まりそうであるから、それでいいのかもしれない。
絵描きがよく使う練り消しゴムを1年前から使い始めた。これを忘れて外で下絵を描いたりしていると、そのレストランで消しゴムを借りても、いらだった仕事を止めてしまう。それほど便利なものである。
それまで、紙の中に膨大に描き込む鉛筆の線の量を、普通の消しゴムで消すと時間がかかる。それに消したゴミが出る。そして、ついでの事によかったのが、細かいところだけピンポイントで消せる。
今まで消しゴムを使っていたときは字消し版を利用していた。だが、今はその必要はない。ただ、欠点は消しゴムより良く消えないことだろう。だが、圧倒的に便利なものだ。
昔からその存在は知っていたが、使っていなかった。弟子が持ち込んだグッズだったのだ。試しに使ったら、便利さがわかった。切り絵を初めて30年になるが、もっと早く使っていればよかった。
やっと、森村誠一さんの文庫8冊の製作にかかった。これから、正月明けに納品であるから、大晦日も正月もない。助かるのは平面作品であることだ。立体だったら、せいぜい2作か3作作るのがやっとだろう。
がんばります。
きょうは吉祥寺の教室である。今年東京に行くのは最後だろう。今日の教室を何をするかまだ決めていない。
アトリエに2畳程の部屋がある。そこを仕事部屋にした。これまで、アトリエで仕事が出来ず、レストランなんかで仕事をしていたが、ここで仕事を始めたらやり始めた。
その部屋のせいでもないかもしれない。ストップウォッチのタイマー機能で、何分と何分と設定すればその二つの時間をずっとチャイムで刻んでくれるのだ。ボクシングジムで3分に1分のロー手ションで常にチャイムがなっているのとおんなじである。
片方は仕事タイム、片方は休憩タイムだ。休憩タイムに何をしているかというと、もっぱら本を読んでいる。趣味の本もあり、仕事の本もありだ。これだと、ボーっとしているとチャイムが気を引き締めてくれる。
笑っちゃうかもしれないけど、我々のようなひとりで仕事をしている人間には、仕事が手に付かないとかいうのは深刻な問題だ。それで仕事をしない人が沢山いると思う。いわば、仕事をしない自分との戦いである。
日曜日に、約20才下の東洋大学のテニス部のOBとテニスを大学でやった。私のアトリエからバイクで3分くらいのところにある。
大学にはしゅろの木が所々に生えている。たぶん自然に生えたものだろう。昔からある。ところが久しぶりに行ったコートの周りに、しゅろの木の実生の芽が沢山出ていた。かつて見たことのないほど群生して生えているのである。
温暖化のせいだろう。ちょっと薄気味が悪くなった。一本抜いてきて鉢に植えた。
しゅろの木は子供の頃父と植木市に行って、私がねだって買ってもらって、植えたことがあった。寒い富士吉田ではなかなか大きくならなかった。そして1mくらい育った時枯れてしまった。それでも、15年くらいは生えていたんだろうか。だから憧れがある。
無造作に引っこ抜いてきたから、根が痛んだろうと思ったが、強いんだろう、もう新しい葉が出てきている。根付いたようだ。
建築設計事務所を辞めて、あることをしたが、そのあと夢のある世界に行こうとコマーシャルモデルのマネージャーになろうとした。新聞で、「モデル募集」と広告があった「モア」というモデル事務所に連絡をとった。モデルを募集しているならマネージャーも必要だろうと思ったからだ。
そして、来てくれというので出かけた。そのときのいつも着ないスーツと眼鏡をかけたいかにもサラリーマンという姿で行った。私の相手をしてくれた原田という人は、そのサラリーマン全とした姿に、こりゃ駄目だと思ったという。
「まあ来てください」ということで、次の日めがねをはずして、ラフなスタイルで行ったら、同じ人物だと思われずにびっくりされた。
その、発出勤の日いきなりあるスタジオに行ってくれといわれた。これがパンティストッキングのパッケージのの写真撮りの仕事だった。モアのモデルが派遣されているのだ。
俗に言う足タレ、足のタレントのモデル・ココが派遣されていた。ココはとても顔が良いとはいえないモデルだった。あまり知性も感じない。ただ、それを売りにすれば何とかなるかなというモデルだった。
パンティストッキングの撮影は、ココが寝転んで、足だけ高くすっと上げて、カメラマンは横から撮っていた。下着ははいていないからである。
私にとってはいきなり刺激的な場面に立ち会ったのである。
壊れたものが最近続けて二つあった。デジカメとストーブである。デジカメは昨年、修理に出したがまた壊れた。最近の普通なら、買い替えである。しかし、ゴミにしたくないと思って、修理に出したが、また壊れて、裏切られた気持ちになった。
デジカメは買った。
ストーブは長年よく働いたと思う。私が一人でいる時は使わないが、教室をするときには必要であった。壊れたストーブも、後々修理するつもりだ。1万円くらいかかるようだ。
今日は休日であることを今知った。日記を何を書こうかと考える時がある。
私はモデルのマネージャーをしていたが、止めようと思ったとき、あるプロダクションが仕事をしてくれと誘いがあった。そのプロダクションを辞めた女優から、そのプロダクションは酷いから止めた方がいいという電話もあった。しかし、言うことを聞かなかった。
しかし、実態はその女優にいったとおりだった。私には給料を払わないし、役者へのギャラも支払わなかった。私は4ヶ月でやめた。私が一生懸命営業していても、その会社を運営している男優が毎日何もしないで遊んでいるのだった。どうもそれがおかしいと思った。
普通はバイトをするなりするはずだと思うのである。会社に金がないんだったら。TBSテレビにそこの女社長と行くと、誰かに見つからないかと、きょろきょろしながら、行ったりしていたのである。
ほうぼうでトラブルを起こしていたのである。
私はそこにいたお陰で借金が出来た。辞めた後常滑に焼き物をしに行く事にしたのであるが、その借金を返すために、昼は映画館のバイト、夜は有名なキャバレーエンパイアーのボーイのバイトをしたのである。
その芸能プロダクションは代々木上原にあったが、マンションの隣に女優が住んでいた。そのことを男優に話すとその男優は、彼女のところを訪ねたりしていたらしい。中に入ったかどうかわからない。しかし、間もなく引っ越していったのは、その男優のせいなような気がする。
その女優は私が知らなかっただけで、その頃でもかなり有名な女優だったらしい。まもなくテレビ・映画にいっぱい登場してきた。名前は思い出さない。
先日、昨年放映された「どろろ」をDVDで見た。手塚プロから券をもらっていたのであるが、柴咲コウがどろろの役をするのでは見る気がしなかったのだ。
テレビドラマを見ない私は柴咲コウは知っていても演技を見ていなかった。
柴崎コウが走るシーンがあったが、走り方に気どったところがなくとても良かったし、彼女の人気があるのが演技でわかった。しかし、老けすぎである。せいぜい10代後半の柴咲だったらよかっただろう。
妻夫木の百鬼丸はよかったが、衣装は漫画の衣装にして欲しかったし、髪も束ねて欲しかった。しかし、この映画は私が想像した以上に頑張って作られていて、劇場で見なかったのが残念だった。
映画の前売りを最近買っている。子供の頃よく見た映画が衰退するのが寂しいんで、頑張って映画を見ている。しかし、最近の映画は良く出来ている。先日見たのは「地球が静止する日」という映画だ。
人類が滅亡するというような映画が多い。この映画もそうだった。タイムリーな映画だ。濃密で、説得力を持つ映画だった。前売りは、「WALL・E ウォーリー」と007を買ってある。
この日記を書いてから、ちょっと「どろろ」を見直したら、漫画の服は中に来ていたし、髪も結んでいた。失礼。
前日の日記の、その小さな庭は想い出がある。鶏を飼っていたのである。当然卵を採って、鶏もいつか食べたようである。
祭りの夜店で買ってきた亀も飼っていたが、飢えで果てた。近所の人が本栖湖で大量に取ってきたがま蛙も飼っていた。これも、私の犠牲になって果てた。
ケシの花を姉といっしょにりんごの箱に植えた。ケシの花はひ弱かったが、とてもきれいな花で愛着を持ったものである。朝顔も植えた。蟻はビンに入れてか飼っていた。昆虫も見つけて遊んでいた。まだ、私も小さくて視線がかなり下にあったから、動植物とは親しい間柄であった。
しかし、今年はトンボが飛んでいる姿が少なかった気がする。

子供の頃住んでいた家に、猫の額ほどの庭があって、牡丹が植えてあった。だから、牡丹はとても懐かしい。他に野バラがあって、毎年咲かなかった。両親とも興味なかったみたいだったけど、子供心に不思議だった。
ある時、長く延びすぎたんで、バラを切った。そしたら、花が咲いた。私はとても驚いた。今でも、その咲いたバラの画像を覚えている。
先日、ホームセンターに行って、牡丹を見ていたら買いたくなったので買ってみた。大きな鉢に植え替えて、春に花が咲くんだろうか、それを待っている。宝くじを買ったような気持ちである。
バレーを始めてみた。とても、きれいで優美であった。これぞバレーといえそうな出しものだったんだろう。このバレーから、いろいろなバレーへと変化しているはずである。そんな亜流を見てみたい。
久しぶりにバイクで遠出をした。八王子までである。かなり防寒をして行ったので、寒いと感じないで帰ってきた。
ガソリンが安くなっていた。100円を切って97円のところもあった。
そういえば、バレーに一緒に招待された作家の内藤みかさんもお見えになっていた。お見掛けしたことはあるのだが、お話をするのは初めてであった。お子さんをお連れだった。子どもから手が離れたらやりたいことをしたいそうだが、エネルギッシュな方のようである。

編集者、作家、画家の忘年会である。もうこんな集まりはめったになくなってしまった。
メインの売れっ子作家・稲葉稔氏のいけ面を何とか売り上げに結び付けようという話も出たりしたのが面白い。
それでちゃらちゃら出て行くと安っぽくなるという話だけど、ためしに出て行くのもいいと思うのだが。引っ込むことはいくらでも出来るので。
私は、髭をそのレストランのトイレで剃ったら、切ってしまって絆創膏を鼻の下に張っている。血が止まらなかった。
稲葉氏の顔もいいが、声がいい。ちょっと酒焼けしたような声だが、味がある。私は稲葉氏を思い出すと、顔だけでなく声も思い出すのである。
今日はT書店で彼のカバーを担当している作家のI氏と会う。担当編集者も一緒である。
その前にイラストレーターのS氏の展覧会にも顔を出す。彼女は15年近くも週刊文春の林真理子のエッセイのページを担当していた方だ。
昨今の出版社事情を聞いてみたい。
今日も頑張ろう。明日のために。
今日の仕事を終えて、次の仕事にかかりたいのだが、まだ出来ない。
今日は一日アトリエで仕事である。作品を一つ仕上げなければならない。頑張ろう。そして、撮影。そして、カバーデザインである。
東洋大学工学部のテニス部の納会に出た。今年の練習納めということだ。
しかし、部というものは封建的な感じがするのは昔からだが、しかし、磨きがかかっている。この見事な形式主義に堪えられれば社会に入って、有効にはなるだろう。だが、「楽しく」というのには程遠い気がする。
私が終わりの挨拶をしたら、「渡辺さん(本名)退場!」と私がみんなの前で突然退場するのである。この方法は、多分一緒に活動している文系のテニス部のやり方をまねたんだろうと思う。これが礼儀だと思っているのだろう。私は寒空に一人放り出され、とぼとぼ帰った。
時と部員の推移によって、やり方は刻々と変るものだ。ただ、新入部員は前からそのようにしていると思っている。
工学部のテニス部にとって、ちょっと強い文系は日本にとってのアメリカと同じである。工学部の自主性・独立性はない。
その形式があって、コートにゴミがあり、部室はしっちゃかめっちゃかであり、壊れたものは直さない、目に付かないほかの部分はほったらかしで、いい加減なものである。理念もない、物真似しかない、子どもたちの集団である。
昨日は、副都心線という地下鉄に乗った。近いというより便利なのかもしれない。でも急行なんてのがあるからやっぱり早いのかもしれない。
糸操りの結城座公演、眠ってしまった。頑張ったが、疲れているようだ。申し訳ない。
ハルキ事務所の文庫締め切りは、月曜に延びた。タイトルが決まらなかったのであるから、私のせいではない。最も作品は下絵にとどまっているが。
なかなか良い作品である。可愛らしい、宇江佐真理さんや山本一力さんの文庫カバーに使ったキャラクターを使っている
今日は、糸操り人形劇団の結城座の公演を見に行ってくる。
もう10年も前だろうか、この劇団の出しもの「あのこ」で私の絵が使われた。1ヶ月吉祥寺のアパートにこもってやった。大変気が疲れた仕事だった。演出は黒テントの主宰・佐藤信氏だった。
ある公共施設でやった、その演劇の稽古風景を見に行ったことがある。役者が佐藤氏の演出に駄目だしを何回も出されていた。20人もいるスタッフの中で、怒られたりしているわけだから、とてもタフな神経でなければやっていけない。見てる私も緊張した。
その夏はとても暑い夏だった。怪しげな作品で築地本願寺の堂内でやる出しものだったから、夏の上演だったから、皆その暑さにぐったりしていた。稽古場というのが、天井裏のない、トタン張りのプレハブだった気がする。
飛行機に乗ることは少ない。だから、乗る度に段取りがご破算になる。私の場合、ナイフを持ち歩いているもんだから、手荷物検査の時に引っかかる。そして戻って、ナイフその他の危険なものを、手荷物預かりに預かってもらう事になる。
今回も忘れて、面倒くさい羽目になった。
小樽の町を歩く女性の、ハの字歩きも目に付いた。困った現象だ。若い女性の4分の1くらいはやっているんだろうと思う。
本来なら締め切りである。しかし、本も完読していないから作業も始まっていない。
私は古着屋さんで服を買う。自分が好みの服を掘り出すととても楽しい。くじに当たったような気持ちになる。服を買うというのはストレス解消になる気がする。
今は無性に服を買いたい。いっぱいあるのに。
さてと、その完読していない小説を読むと、これが何と面白い。まだ仮題だが「かいご侍」という。4前後の浪人ご夫婦の奥さんが、脳卒中を患い寝たきりになってしまい、ままならなかった生活がさらに困窮。それで、人を切るという仕事を請け負うのだが、何ともほのぼのとしていて涙を誘う。さて、こんないい小説にあってしまうと、力が普通は入るのだが、さて。
蜂谷涼氏の最新刊(文春文庫) 私のイラストではない
小樽は高校時代に兄の北海道旅行にくっついていって、行っている。しかし、全く記憶がなかった。
小樽という街は、講談社の単行本・蜂谷涼著「海明け」という小説のカバー画をした時に、その小説が小樽が舞台だったことから、知るようになった。小樽が、明治から昭和の北海道の海運・商業の中心地だったことをそれで知った。ロシアからの物資あるいは北海道の物資は小樽から日本海を通って、西日本に運ばれていったわけだ。
商社の古い建物・倉庫がいっぱいである。そこを観光客が行きかう。雪が積もっていた。時折、屋根から雪がどっさっと落ちる音が聞こえる。観光のメインどおりは、驚いた事にすし屋がいっぱいある。客引きもいる。グッズ屋さんの姉ちゃんが、兄さんと私を呼んでいた。「おじさん」でないところが、立派に壺を心得ている。
客引きの叔父さんに誘われて、すし屋に入る。もう客がまばらであった。私は食べたことのないうに丼を注文した。とてもおいしかった。一気に食べてしまうのが惜しい味であった。海産物屋さんでは焼きほたてとかが売っていて、私は一つ食べた。
コロッケ屋さんもある。男爵いもの産地だからだ。
ちょっとの観光だった。小樽を去り新千歳空港へ。羽田に着いたのは6時だった。
週刊文春でやりかけの仕事があったので、そのまま缶詰になった。ただ、やるきがしなかったので、部屋を取ってもらって、いっぱい引っ掛けて眠った。
今日の朝は5:00に起きて、麹町のジョナサンへそこで仕事をして、8:00に週刊文春へ。この時間にならないと編集部が開かないのだ。つつがなく3点を仕上げて、帰ってきた。
前述の蜂谷涼さん、私は知らなかったのだが小樽在住であった。知らずに彼女(女性であるのも知らなかった)のことを話をしたら、小樽の有名人だった。それで、そのことをザブン賞の出席者にお話をしたら、一緒に飲もうという事になり、昨日おすし屋さんでスタッフと一緒に会ったのだ。
べらんめえでとても親しみ易い、ぶっちゃけトークの楽しい人だった。まるで旧知の仲のような突っ込んだお話もして、お金を払いたくなるほどのホステスとなってもらった。「ちょっとまた」とは遠くていかないが、東京の出版パティに出席するそうだから、再会は出来るだろう。
小樽は雪だろう。小樽は一泊で明日は小樽見物である。
小樽での仕事は、先日なくなった筑紫哲也さんが会長をしていたザブン賞委員会の、小樽支部の作文コンクールの表彰式に行くのだ。私はザブン賞の理事としてプレゼンターと講評をしゃべらなければならない。切り絵のライブもしてこようと思う。
小樽には大学時代のテニス部の二つうえの先輩がいる。この人はテニスがうまくて、当時埼玉テニス協会の大会で優勝している。つまり埼玉一になったことのある人である。性格穏やかで、恰好のいい人だった。
小樽から帰ったら、週刊文春にいって缶詰になるつもりである。昨日おとといと、週刊文春と人物往来社で缶詰だったが、週刊文春がやりきらなかったのだ。
明日は小樽(12月7日)
昨夜の忘年会3つは梯子で渡ってきた。5時から山人会(山梨文化人の会)は講演会つきであるのでそれだけ聞いて、次の文藝春秋の忘年会へ。
しかし、山人会の講演会の講師は山梨県清里の萌木の森の舩木氏だった。それで、彼と会ったが、彼は私と会いたがっていた人であった。今年、清里のバレーをやっている劇場からDVDが届いた。手紙付きでであった。私はほおって置いたが、その彼であった。
とてもパワフルな人であって、私と仕事をしたいということであった。さんざんいろいろな人に百鬼丸に会いたいといって廻っていたようである。いい出会いであった。
それから、高輪プリンスホテルの東洋大学の野球部の祝勝会である。ひょうっとしたらと切り絵の道具を持っていった。やっぱり、リクエストが来た。舞台で切り絵をしてくれとのことだ。500人くらいいただろうか。切った。
作品はあまり良くなかったかもしれないが、出来た作品は監督の高橋さんにプレゼントした。
しかし、帰りは監督が出口で待っていて来客に握手をしたのだが、そこを通り過ぎて出口に向かうと、両側に学ラン姿の学生が延々といる。凄い人数である。野球部の学生である。この人数からレギュラーになるのは大変だろう。