日記8
(2010年6月6日・日)OB戦
今日は東洋大学工学部のOB戦だ。一日大学のコートでテニスだ。懐かしい顔も来るだろう。
東洋大学出身の、陸上部だったらしい先輩の内野さんが、糖尿病を悪くして、故郷に佐世保に帰っている。髪は短く、強面だから、一見やくざじゃないかと思われてしまう風貌である。
だが実はとても心が優しい人で、後輩の私をいつも気遣ってくれて、彼のそういう気持ちを頂いている一人である。
彼は、学生時代から入り浸っていた雀荘で、そのままいついてしまって、これまで来ていた。
仕事が終わる午前3時には、「べにや」という店で酒を飲んでいた。だから、その時間に行けば必ずいたが、近年は私はその時間仕事に入るので、ほとんど行くことがなくなってしまった。
最後に会ったとき、糖尿病発覚の顛末を話してくれたが、同時に腹にインシュリンを自分で打っていた。
ある日突然朝起きたら、布団から立ち上がれなかったという。そんな状態になるまで本人は糖尿だと気が付かなかったらしい。
佐世保では病院に入院していたらしいが、退院したという話もある。
佐世保に彼に会いに行きたいので、時間をとりたい。
鶴ヶ島に、からみ酒で、ほとんどの店から出入り禁止を言い渡されていた、私と同い年の「大五郎」が、昨年の未明に道路で倒れていて、亡くなった。
鶴ヶ島の風景もだいぶ変ったが、人もだいぶ変ってしまった。
59歳の誕生日前日である。
(2010年6月4日・金)花粉症
山梨・切り絵の森に行く。明日帰ってくる。
花粉症がすごい。目と鼻が最悪である。
目は、洗浄液を買ってきて、一日に何回か洗っている。鼻は薬を買ってきて飲んでいる。
久しぶりに、オール読物の不定期連載が入った。オールでの小説連載は何年かぶりだろう。
そういえば、昔山梨県の集まりで、隣にお座りになった年配の方に、話しかけたことがある。そうしたら、怒り出して、「俺は小説で農業新聞賞を獲ったんだ」と言われたことがあった。
ああいう経験は初めてであった。全く、一言しゃべっただけだった。だから、私が失礼なことをしたわけではないはずだ。
自己紹介が始まって、私は当時、小説新潮・小説現代・オール読物・小説すばると全部のメジャー月刊小説誌に連載していることを話した。そしたら、その人は、確か「そんなことはないはずだ」なんていわれたと思う。
話がそれから弾むはずもなく、解散したが、後日、その年配の方から手紙が来て、私が載っている雑誌を見たらしく、失礼しました、御見それしました、とか書いてあった。
何回か山梨の集まりには出席したが、その方ともうお会いすることはなかった。
好かれる事はない、あんなことをいってたら、生きるのが大変だろう
(2010年6月3日・木)花魁まだ一体
明日、山梨の切り絵の森に行くのだが、納品しようと思っている花魁が、まだ一体しか額入れになっていない。
3体ほど納品したいんで、今日何とかしたい。
面白いもので、評判のいい縄シリーズとか、この花魁はなかなか売れなかったりする。値段が高いのかもしれないが、それなりの手間がかかった作品なんだが。
しかし、いろいろな花魁を披露するというのが楽しくていい。この花魁の顔がいいとかという話題は沢山耳にする。
上流階級の文化
明治期に、政府の用人たちは、欧米の文化を真似しなければということで、歌舞伎をはじめ、小説・絵画をいっきに評価し始めたらしい。これは、各国立大学の教師というのが、欧米人で占められ、その方々が評価したものが素晴らしいとレッテルを貼られる事になる。
「ボーイズビ-アンビシャス」のクラーク博士も代表的なその一人だ。
それで、それまで見向きも去れなかった、桂離宮とかが再評価される事になる。
歌舞伎なんかは、イギリスの歌劇に想をとったらしい。ああいう高級な演劇が日本にないといけないということになって。歌舞伎は高級な演劇に引き上げられ、舞台の上で、三越なんかの宣伝口上なんかを言っていたのを止めるようになったらしい。
サービス精神一杯の歌舞伎が、こびたり、みっともない真似しなくなったようで、歌舞伎は面白くなくなっていく。
それ以前の歌舞伎を取り戻したいということで、猿之助さんや勘三郎さんが今頑張っているんだと思う。
外国人の評価したという点では、最近では、山下清がそうらしい。今まで何のことはない放浪画家に注目が集まって、山下清が追っかけられるようになったということだ。
小説も絵の世界も、文豪とか巨匠とかいたけど、もう今はいない。それでいいんだと思う。
日本人には分からないものは分からないんだから、もっと大衆的になっていいんだと思う。
私は、教科書に載っているような、セザンヌとかピカソとか、きれいだしいろいろいいところは沢山あるが、評価が法外で、その点は、はっきり言ってそれほど分からない。それほど面白くない、つまらない。
日本人というのは特殊な文化を持っているんで、欧米を真似したこと自体の無理がある。これから江戸時代のような、文化に対する感じ方をしていいと思うが、しかし、見る側はいいが、我々の立場としては、江戸にはたくさんの文化を支えた版元・お大尽な旦那衆がいたわけだから、北斎や馬琴なんかの境遇よりもっと辛いはめにはなる。
それに、大衆文化といっても皆、それを味わう忙しくて余裕もない状況がある。もう一つ、芸術を供給する私たちも人数が多すぎる。
私は知らないが、昔は日本のあちこちに小屋といわれる大衆演劇の拠点が沢山あったらしい、それが、廃れて、その小屋が映画館に代わって言ったということだ。
また、大衆演劇が少し流行っているようだけど、人間同士がふれあいのある大衆演劇が、盛んになるのは当たり前である。ちょっと高すぎるけど。
(2010年6月2日・水)これから
オペラの舞台美術の仕事は、かなり成功だったと思う。ハードスケジュールの中、いい作品を作ることが出来て、ほっとしている。
開演前にロビーで、ミニ展覧会をしたが、その中で、コーラスの皆さんが観覧されたが、お一人、同郷の富士吉田市の方が偶然いらっしゃった。曙町ご出身だとか。教師だった私の父も知っているという。
さあ、今月はアメリカに切り絵の講師として行く月である。それまでに、文庫3冊といくつかの仕事をこなさなければならない。7月からは個展が小川町で始まる。
私にとって、7月と8月は、切り絵の森と並行に個展がある。
この3ヶ月大変だ。
(2010年6月1日・火)オペラ

今日はオペラの舞台美術をした、そのオペラ開催の日だ。花粉症の鼻と目が気になる。
4時から、展覧会とライブが、ロビーで16:00からある。行ってくる。

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(2010年5月31日・月)鳥井守幸氏に

会った。グリコ森永事件の頃、テレビのコメンテーターをしていた元毎日新聞記者・鳥井守幸氏に会った。
この日記で、一度鳥井さんを見かけた話を書いたが、昨日の朝、マクドナルドでとうとうお話するチャンスが訪れた。
これまで、私が急いでいる時とか、彼が喫茶店に入っているところをお見かけしたことがあるが、話しかける機会はなかった。
奥さんと娘さんがご一緒だった。
私は近づいていって、「鳥井さんですよね」とおたずねした。そして、名刺を差し出すと、「ああ百鬼丸さん!彼はサンデー毎日の表紙をしてたんだよ。それに時代物の絵がうまくてね」と奥さんに語りかけていた。
私のことを覚えてくれていたんだと感激した。鳥井さんとは、多分岩見隆夫さんの記者クラブ賞受賞のときにお話をしたんだとおもう。
そのときにお見かけした中に後年、知り合う事になる筑紫哲也氏もいた。
それから、鳥井さんにはカレンダーを毎年送っていたが、中途で、住所がお変わりになったのか途絶えてしまった。
昨日の鳥井さんに寄ると、この鶴ヶ島地区(坂戸にお住まいかもしれない)には40年お住みとか。
しかし、以前にお見かけしたのとは違い、かなりの激痩せをなさっていた。
昨年大病されたとか。お痩せになった以外は、目の力、声のトーン・顔の色艶もよく健康そうであった。
これから、どのような付き合いになるのか、楽しみであるが、何はともあれ、展覧会に足をお運び願いたい。
(2010年5月30日・日)今年も早い
遅れに遅れて、やっと昨日一日だけ切り絵の森に行っていた。本当は4日間いるはずだった。上に掲載したオペラの舞台美術の作品を作っていたからだ。私としては及第点のあげられる作品が出来たと思う。
皆さんの反応が楽しみといいたいところだが、あの作品が拡大されて、舞台に投射されると思うと、その存在感がどの程度のものか量れず、自分としても不安がある。
昨日の切り絵の森はライブをせずに、7月始めか8月末まである埼玉伝統工芸会館の展覧会用のおいらんを作った。これで花魁(おいらん)も4人である。あと10人くらいは作りたい。
一難去ってまた一難。31日の月刊ジョイノベルの締め切り、そのあと、ゆずりはの表紙をしなければならない。
今年も時間の過ぎるのが早い。もう私の誕生日が来る。6月7日である。
埼玉伝統工芸会館が終わると、今年はイベントは自ら企画する岡田畳店での個展だけである。
9月からは、埼玉伝統工芸会館をライブの拠点にする事にしている。
(2010年5月28日・金)今日は山梨
今日は山梨。明日帰ってくる。
私の郷里・富士吉田の隣町・富士河口湖町の大石というところに、立派な東洋大学のセミナーハウスが出来る。今工事中だ。
そのセミナーハウスの宿泊室のマークを私が担当する事になっている。今日は設計を担当した、建築学科の先輩・飯吉さんが東京から現場に来る日である。
下絵は完璧に描いていないが、面白いアイデアが浮かんでいる。会って来てもいいと思っているが、もう少し完璧な下絵に仕上げた方がいいのかもしれない。がわからない可能性があるからだ。
下絵というのは、いい絵を描いていっても、完成品のよさが想像できる相手でなくては、見せると危険である。
それにしても、大学の本校といい、私のいた川越の工学部といい、東洋大学はキャンバスを作り変えていて、すごいお金をかけている。これから小子化を迎、いくつかの大学がつぶれてしまうという話だが、東洋大学はつぶれない大学の最上位にランクされているらしいが、すごい投資をしている。
川越のキャンパスは、私たちが学生だった頃の建物は、実験棟や、クラブの部室や、焼却棟のほんの少し、あとはほとんどきれいな建物に作りかえられてしまった。昔卒業した人はおどろくだろう。
(2010年5月27日・木)バルセロナからの便り





バルセロナでは日本人学校に切り絵のライブに行ってきた。小学4年生から中学2年までの28人の生徒が相手だった。
生徒たちの感想文(沢山来た 私の宝物になった その少しの子供たちの文章)
MOさん(小6)
私は切り絵という物はどんな物なのか、どんなことをするのか全く知りませんでした。だから、百鬼丸さんの絵を見ておどろくことが沢山ありました。
百鬼丸さんが、子供達に頼まれたものを紙にスラスラと書き、手ぎわ良い手で紙をナイフで切っていく百鬼丸さんの姿はとてもかっこよかったです。ふつうの絵ならば1時間ほどかかるのに、それを5〜10分くらいでやりとげる百鬼丸さんは、とてもすくて、思わずいきをのんでしまいました。
百鬼丸さんの切った絵には、とても心から感動しました。これから私たちは図工で切り絵をするので、がんばって百鬼丸さんに近い絵を作りたいです。
MOさん(違う人 小6)
百鬼丸先生のきり絵の技術は、私の想像をはるかにこえていました。私はきり絵を見たことがなく今回が初めてで、ドキドキしました。そして「ギュービッド」様を切ってくれている時、私は百鬼丸先生のせなかが、とってもかっこよくて、とってもたくましくてびっくりしました。でも実は「ギュービッド」様を切ってくれる前は「顔なんて切れるのかなあー。」と半信半疑でした。そして、サクラダファミリアの細かいところにもびっくりするほどの手先でこれも、と、またまたあいた口がふさがりませんでした。これからも、きり絵をつづけてください。
STさん(小6)
私は、百鬼丸さんの切り絵を見て、とてもすごいと思いました。
絵だけ見ても、とても上手でさらさらとかいていました。私だったら、きっと、絵だけに30分以上はかかると思います。でも、それを切り絵にもしていて、あいた口がふさがりませんでした。特にパンダがかわいくて、バルサ(サッカーチーム)の切り絵はFCBのところも切ってありました。(3mmくらいで!!)
百鬼丸さんのようにさらさらと切り絵を出来るようになるには、何年もの努力が必要だと思いました。でも、私も切り絵にちょうせんしたいと思いました。
とっても楽しかったです!!
NMさん(中1)
私は、「練習をするだけでは上達しない、考えてやるから上達する」という言葉で自分を振り返ってみました。
私は何をするにも練習するだけということがほとんどでした。どうしたらよくなるとか、ここをこうすればいいとかを考え、行動をしたいと思いました。
百鬼丸先生の講演会で、私は自分のことを変えたいと思いました。上にかいたように、考えて行動するということもそうですが、自分の短所を直し、自分を高めたいと思いました。
講演会で学んだことを、生かして思ったことを思っただけで終わらせないように、がんばりたいと思います。
百鬼丸先生、本当にありがとうございました。
講演会に参加できて嬉しかったです。
MOさん(中1)
今回百鬼丸さんの講演会に参加して、百鬼丸さんのすごいと思ったことは、百鬼丸さんは切り絵をしながらも、話しかけていたところです。僕も百鬼丸さんのようには行きませんが、切り絵をします。ですが、集中しすぎて周りが聞こえなくなる事があります。だから百鬼丸さんが切り絵をするのに集中するともいますが、それプラス話すとうのは簡単に見えてとても難しいものなのだと思います。
もう一つ、おどろ生かされたのは、切り絵にしてほいしいものを聞き、それをとてもかなり正確に切っていた事です。
あの短時間で、絵を見て(分からない時は写真を見ながらデッサンをしていた)切り絵にするのは、かなりの観察力が必要と思います。そして約1時間の中で、6個の作品を完成させたことにはとてもおどろきました。
そのすばらし技術を見せていただいて、自分もこうゆう人になれたら。いいなと思いました。また、今後の百鬼丸さんのさらなるご活躍を期待したいです。
(2010年5月26日・水)明日は山梨
オペラの前に山梨。だが、明朝までにオペラ用のカット5点を終わりたい。
その前に一つ、文庫の締め切り。それが終わると、月間小説誌の挿し絵1カット。そのあと会員誌ゆずりはの表紙と進む。
だが、6月1日はオペラの会場のロビーでライブとかしなければいけない。
ライブは喋々夫人を切る事になるだろう。
うどんツアー終わり
こういう生な活動は、心の体調がベストでないとなかなか難しい。その点、少し落ち気味なところだったので、スタートが良くなかった。
あいだみつおが沁みる。「だって、にんげんだもの」
今度は、オペラだ。
さあ、仕事。
(2010年5月25日・火)うどんツアーの日
一日ファンと一緒である。今回は27人。行ってきます。
(2010年5月24日・月)女子野球
昔女子野球のプロがあったそうだが、記憶にない。だが、また女子野球のプロが出来たという。テレビで見たけど、やはり見ていると華やかでいい。
一時、ちょっとサッカーに惹かれたときもあるが、少年野球出身者としては、やはり、野球の方がいい。
どうにか、日本でメジャーなスポーツになってリーグを形成して欲しい。
相撲が終わったね。こちらも、相撲取りになろうか野球選手になろうか幼い頃悩んだくらいだから好きなスポーツ。
白鵬は強いが、回りにも飛び道具のような外国人力士がいるから、白鵬も取りこぼしがあるだろう。大鵬時代のような事にはならないだろう。
考えて見れば、私が漢字を覚えたのは野球と相撲のお陰だった気がする。そういう人多いのじゃないだろうか。
(2010年5月23日日・土)玄米食
切り絵の森に行くと、泊まるとこといえば、富士吉田の私の実家と甲府のテニス仲間の小田切氏の家と、もう一軒が六郷町の鈴木美枝さんのところだ。
今回二泊したが、鈴木さんのところに泊まった。
彼女は陶芸家で、家に隣接して、つむぎ窯という陶房がある。そして何と藁葺き屋根の古民家に住んでいる。古民家生活が出来るだけでも、ご馳走様である。
彼女とのつながりは、私の高校二年の時のクラスの渡辺知恵子さんが、彼女の弟子で、私が甲府のデパートで展覧会をしたときに隣で、陶芸教室の団体展をしていたことから友達になった。毎年秋には、この六郷町がある市川三郷町の祭りに切り絵作家としてイベントに参加してきた。
切り絵の森から、車で10分位の距離である。
この鈴木さんの家で、お酒を飲みながら仕事をさせてもらい、また夜中に起きだして、仕事をすごい勢いでさせてもらった。お陰で昨日は切り絵の森はパスして、二冊の文庫作品を収めることが出来た。
しかし、この鈴木さんのところに泊まると出てくるのが、玄米食だ。これだけ続けて玄米を食べた経験はない。玄米は歯ごたえがあって、とてもいい。それにとても栄養があるらしいから、何で玄米をみんな食べないのか不思議だ。
私はそこで、陶芸もしているので、ここにくると多彩なことが出来る。陶芸作品は何点かひび割れが出来て失敗しているが、ぐい呑みと湯呑みを作っている。
花魁の絵を描いたものは、展覧会で売り出すつもりだ。
そして歩いて200メートルのところには、つむぎの湯というスーパー銭湯がある。のんびりをそのうちに味わいたい。
鈴木さん、有難う御座います。
(2010年5月20日・木)今日は取材
今日は山梨「切り絵の森」に行ってくる。忙しいので明朝帰ってくるかもしれない。
今日は地元・UTYテレビの取材が入る。
私がギャラリーの案内をするのだそうだ。
花粉症が、いつものように五月が絶好調。目がしょぼしょぼしている。目薬をさしているが。
テニスの基本(2010年5月19日・水)
テニスのラケットを握る時、軟式テニスのようなグリップで持つと厚い握りという(近頃のストロークは、軟式グリップで硬式テニスをするのが主流である。私もそうだ)。
しかし、それとは別に、テニスは「厚いあたり」という表現がある。これを文字にするのは大変難しい。
だが、この厚いあたりというのを、ストロークにしろボレーにしろサービスにしろ、そのようにしない(ならないと)とうまくならない。
厚いあたりの正体というのは、ボールがラケットに当たって、ネットに食い込むが、それが今度はネットから離れていくが、離れていくボールのスピードより、ラケットのスピードが速くなると起こる現象である。
そうなると、ボールはずっとラケットのネットに張り付いたままになる。この現象を厚いあたりという。
この現象で常にボールを打っていないとテニスはうまくならない。
この厚いあたりの正体は、本にも雑誌にも書いていない。厚いあたりの正体は、私が頭で考えて分かったことだ。(昔は「押す」と言う言葉で表現したが、それは大いなる誤解を生むので、使わない方がいい。あくまで「打つ」である。私はこの「押す」で大いに迷惑をした口である。)
この厚いあたりの正体を知るのにどれだけの年数が経ったことか。
しかし、この厚いあたりをさせるには、コツがある。そう簡単ではない。
ラケットの握り方も大いに関係ある。握り方というと、握る位置のことかと勘違いする人がいるが、あくまでも握り方である。
ほとんどの人は、ボールが当たった瞬間からラケットスピードは落ちてしまう。私も、その人たちと同じことをしていれば同じ現象をもよおす。
身体で覚えろというが、頭でわからないとテニスはうまくならない。
昔から、球を見ろだの、足を踏み込めだの、後ろで打つ、前で打つとか、学生時代から陳腐な表現で教えている人がいるが、そんなものでうまくなったら、誰もがうまくなっている。そんなものはテニスの基本でもなんでもない。
基本というなら、厚いあたりになる方法を見つけることだ。
なかなかテニスが出来ない。
切り絵ーター(2010年5月18日・火)
昨年の、時代小説挿し絵画家13人展でライブをしたが、そのときにいらっしゃったお二人の女性がいる。
その女性たちは、二度ほどライブを見にいらっしゃったと記憶している。そして三度目は私が何故かライブをやらなかった日だった気がする。
その女性のおひとりから電話が入った。
切り絵の森に行きたいんだけど、百鬼丸さんの個展はやっていますかという問合せの電話だった。
私のいる時に見えるという事になったので、近々再会する事になるだろう。
こういう方々が表れたのは初めてである。
昨日、私の肩書きにいい名前を思いついた。「切り絵ーター」どうだろう。「切り絵イスト」というのもあるなあ。
今度名刺に入れてみよう。
久々の大泉町(2010年5月17日・月)
昨日は久々に埼玉伝統工芸会館で、ライブをした。花魁ちゃまシリーズというののライブバージョンを3点やった。
山梨の切り絵の森で人気を博したシリーズをこちらでもやったのだった。好評で、3点とも売れた。
その後は、親友の服部氏と伝統工芸会館のS氏とその友人たちと、何と群馬の大泉町に、飲みに?いや食事に行ったのであった。
大泉町というと2年前に個展をしたところであり、日本でも指折りの、ブラジル人が住んでいるところ。まず大泉町に到着して、ブラジル人相手のスーパーに行った。そのスーパーは先日は鳩山首相が訪れて、その写真が飾ってあった。
勿論ブラジル人が、一杯なので、日本にいる気分ではない。ちょっと前のバルセロナを思い出す。
行ったメンバーは服部氏と私の男性陣と、あと同年代の女性が5人だった。さすがに、女性人はスーパーで好奇の目を輝かせて買い物をしていた。驚いた事に同じパンをいくつか買っても、レジの人は数を数えないんだそうだ。
自己申告なのだそうで、そこらへんはブラジル情緒が楽しめる。
さて、7人で行ったレストランだが、そこはブラジルの装いというわけでなく、欧米しつらえのレストランであったが、あまり食べた事にない料理が並んでくる。
パクパクむしゃむしゃ、喋りがぺちゃくちゃ、その料理が、我々7人がどんどん平らげていく。全部盛り付けた皿がきれいに、「まっさら」になっていく。まるで、イナゴの大群が料理をさらったような感じだった。
同年代の男女のおっちゃん、おばちゃんであるから、明け透けの会話が面白い。
普段酒ばかり飲んでいて、料理を大量に食べない私だが、今日は普段と違い、酒を飲んだというより、料理を食べたという気分であった。
圧巻だったのは、わたり蟹だと思うが、その蟹の、脱皮したばかりの姿の料理が出てきた。蟹!蟹!と車の中で騒いでいたから、何のことと思ったら、私も初見の脱皮直後の蟹のことだった。
その明日の希望を持って脱皮した蟹をとって、料理にしてしまっているのである。なんと蟹を丸ごと食べられる。そして歯ごたえがいい。少しできかかっている殻もすべて食べられるのだ。
いや楽しい晩餐であった。
会館においてきたバイクを今から取りに行かなければならない。
幼馴染のその兄さん(2010年5月16日・日)
マダムバタフライ、下絵が4点しか出来なかった。まあ、進んだほうだろう。
故障していたスキャナーが、直ったとヤマダ電機から連絡があった。意外に早かった。
先日山梨に行った時に、私の兄が○○さんが亡くなったんじゃないかと地方新聞の訃報欄を見て言った。私の同級生で幼馴染のその兄さんであった。
この人は元気者だった。
私はこの家に同級生とクラスになった小学校3年から出入りしていた。兄弟みんな喧嘩が強かった。家にはボクシングのサンドバックが吊るしてあるほどだった。
家業は、お母さんが編み物やから焼肉屋と転業していたが、最後の焼肉やというか、ホルモン屋さんがヒットして客を集めていた。
私が初めて酒を飲んだのも、高校3年のこの場所であった。初めての酒は、そこでげーげー吐いた。その次飲んだのが、大学のテニス部の新入生歓迎コンパだった。
お父さんの陰がになく、どうしたのだろうと思っていたら、高校生くらいに現われた。どうやら、他の街でパチンコ業をしていたらしい。そして失敗して帰ってきたらしい。
亡くなった兄さんには、よくのみに連れて行ってもらった。学生時代は東京にいて、モスとライバルの大手ハンバーグチェーンの社長の息子さんと遊んでいて、私も一緒に遊んだ。
なんといっても彼の一番は野球だろう。二つ上で、中学・高校の野球部に所属し、中学では私も野球部に入部した。しかし文字通り、3日で止めた。部室に置いておいたグロープを取りに行く時は、兄さんがとても怖かった。
私がテニス部に入ったということで、許してもらった。
だが、私が小学4年生の時に、違う学区に行ったのに、元の学区の中学に行ったのは、仲間と野球部に入るためだった。まだ寒い富士吉田の3月に、ランニング一枚で球拾いをさせられ、夜は9時頃の帰宅ということで、親にも免疫がなくて止めてしまったのだが、次に入ったテニス部も実は現状はランニングシャツはなかったにしても、帰宅時間は同じだった。
亡くなった兄さんの高校時代は華やかなものだった。野球部では他の選手より何をやらしてもうまかったから、ショートをしたりキャッチャーをやったりしていたが、最終的にはピッチャーをしていた。
私が一年生の時の、夏の甲子園・県予選に応援に借り出されたが、兄さんの吉田高校は、県で優勝した。
しかしこの頃は、各県一校ではなくて、埼玉との決勝があった。埼玉での決勝は確かのちに大洋ホエールズで活躍する竹内がピッチャーをしていた深谷商業であった。
この決勝で吉田高校は負けてしまう。
ほとんど、互角の戦いだったが、たった一球で勝負が決まったようだったと記憶しているが、その話を後々兄さんに聞くと、きかねぇでくれといったから、よほど悔いの残る一球だったんだろう。ビビッて投げちゃったとか。
竹内はいいピッチャーだった。プロ野球の新人でいきなり活躍したが、残念な事に数年後肩を壊して引退していった選手だった。
蛇足だが、高校野球の記憶で、今度自民党から立候補する、元巨人軍の堀内恒夫氏が、甲府商業から甲子園に行って、大石という主戦投手の、救援投手として登場したのを覚えている。彼はまだ高校一年生だったが、ものすごい球を投げて、解説者が素晴らしい投手ですねと誉めていたのを覚えている。
その試合で甲府商業は負けてしまったのだが、もっとはやく堀内を出していたら、勝てていたのかもしれない。そのくらいすごい一年生だった。その後、彼が甲子園に行くことはなかったが、関東大会で、山梨に堀内ありとして恐れられていたらしい。
そして、ドラフト制度がしかれた第一回で堀内が巨人軍のドラフト一位に選ばれた。
私は、兄さんの通夜には出席しなかった。通夜が終わった後、弟に呼び出されて、久しぶりに会った。小学生の時切り絵を教えた子供も、180センチの大柄な社会人の青年になっていた。奥さんにも会った。二人ともあまり歳を取っていない感じだった。
また、彼とも酒を飲みたいものだ。とても面白い、味のある男だからだ。
吉田高校は兄さんの時、そして次の高橋さんがピッチャーの時、私たちの時の新田がピッチャーの時、下の赤池君がいた時と4年連続山梨で優勝している。しかし、一度も埼玉に勝つことがなく甲子園にその時代は行くことが出来なかった。
初めていく事になるのが、西武にいた田辺が高校生の時である。
私は同期の野球部のSと高三の時、キャッチボールをしたことがある。「文昭(私の本名)が野球やっていたら、ノンプロくらいいけただろうな」といったのに驚いた。少年野球時代で私はピッチャーをしていたが、甲府選抜との対抗戦も先発で投げている。肩が痛くて途中降板したが、完璧だったら、甲府をやっつけることが出来ただろう。
私のピッチングの特徴はスナップだった。球がバッターの手元でホップするという話しは聞いていた。きっと回転のいい球を投げていたんだろうと思う。
しかし、野球仲間はそんな評価だったんだと、そんな自惚れはなかった私としては感慨深かったし、今の私の自慢の一言である。
こんな学生生活をしていたから、今の生業である切り絵にたどり着くはずはない。絵を描くなんてのとは程遠い生活をしていた。
同時に二つ(2010年5月15日・土)
忙しくやっている。私はずっと、小説の挿し絵あるいは本のカバーの仕事をしてきた。
それは脇役であった。
何とか主役の仕事をしたいというのが、私の心の底にあった。
今、展覧会を頻繁にし、ライブをしている。それは私の主役の場である。
今、従来の脇役の仕事と主役の仕事を同時にこなしているのである。
そうすると忙しいのである。
絵描きの主役の仕事で暮らせる、というと何があるだろう。
絵本を出す(これは最近発行部数が少なくなって、難しそうである)、漫画を描く。
普通に絵を描いて暮らすとなると、日本では無理だと思う。外国もシェアにしないと。
その他にあるのかもしれない。
一つ文庫を終えて、今日はオペラの舞台美術の絵を作る作業である。マダムバタフライである。今日一日で6点出来ないものか。
17日のバスツアーは中止(2010年5月14日・金)
17日の日本文芸家クラブのツアーが中止になった。事務局の篠田さんと話し合いの末である。
また、同じような企画をするか、別の企画にするか考えたい。ただ、何をしても会員がのって来ない可能性がある。
考えたい。
話は違うが、日本で自殺率が高い県は山梨県だとか。自殺の名所「青木ヶ原の樹海を抱えている山梨県」と紹介があるから、樹海の効果?でということなのだろうか。
今年のバスツアーは(2010年5月13日・木)
今年のバスツアーは29人と、若干少ないが、この人数が集まれば、いい。
その前の17日の日本文芸家クラブのツアーは、何とクラブの方は事務局の篠田さん夫妻と企画者の私だけで、実質的には0人といっていい。私のファンが3人だから、合計6人で、小回りのきくツアーになりそうである。
人数が少ないと、マニアックなうどんのお店に入れる。そこがいい。
前から故障していた、スキャナーを修理に出した。保障期間が過ぎていたが、5年保障の料金を払って(500円だったか)つけていたので、無料である。3週間は、スキャナーがない状態であるので、このHPに画像は取り込めない。
山梨「切り絵の森」から帰る(2010年5月12日・水)
帰国してから、すぐ山梨だったが、宿泊が実家や友達のところだった。
意外に疲れてはいない。
山梨の切り絵の森は、連休は人が沢山入った。連日私も切り絵のライブをした。8日間で20作近く、全てその場で完売であった。
5000円という価格で手ごろだったからだろう。
今度行くのは、17日のバス旅行である。それまで、仕事に頑張ろうと思う。
今日から山梨「切り絵の森」(2010年5月4日・火)
帰国したばっかだが、今日から8日間、山梨の「富士川・切り絵の森」でライブをやってくる。
仕事が忙しいため、連休後は様子を見て帰ってくる可能性がある。
長野の著名な切り絵作家・柳澤京子氏から、切り絵の森の展覧会参加をお知らせいただいた。今やっている後の切り絵作家がどうなるのか、作家の参集に関わったものとしては気になるところ。
柳澤さん以外は、まだ決まっていないようだ。
ライブの手ごたえ(2010年5月3日・月)
絵は、高価なため今回はほとんど、売れることはなかった。何社かがかぶさってくるので致し方ない。価格の設定が今後の課題だろう。
ライブは、毎日と思っていたが、ギャラリーの都合で2回実現しただけだが、その両方が大変好評だった。日本の反応とほぼ同じようだったのである。その程度はわからないにしても、少なくとも、受けた。
作品は最近のものを持って行った。立体作品がほとんどだったが、平面作品の新しいシリーズを立ち上げるつもりであるが、それが完成すれば、平面でも十分海外での展覧会は、やれると思っている。
そのシリーズは、夏休みの埼玉伝統工芸会館での展覧会で披露できればと思っている。
個展での写真をアップしたいが、膨大な量のため、ちょっと遅れている。
下痢(2010年5月2日・日)
バルセロナから帰って、日本の街を見るとやっぱり人の髪の黒さが印象的だ。日本は黒の多い絵のような国だと思う。
バルセロナ滞在、二日目にしてアクシデントが起きた。友達の例の日本食のお店で、ビールを日本ほど飲んで、ホテルへの帰宅途中、おしっこをもよおしたのだった。
その後、腹がおかしくなったのである。ところがこのバルセロナには、公衆便所もあまりなく、コンビない、後から聞いたら、BAR(バル)という、朝ごはんから昼ごはんから夜ご飯そして、酒場と全てをこなすレストランがあってそこを皆さん借りるのだという。
私が泊まっていたのは、サクラダファミリアの近くにある、日本人が経営するペンションだったが、そのありかも、まだわからない状態で、緊急事態をもよおして帰らなければならず、とうとうその中で道に迷ったのである。
地図を持っていたので、完全に迷うわけではないが、この辺りにあるはずというところをうろうろ、その間、下痢になったんだろう状態は続き、とうとう漏れ出してきたのである。そして、ペンションが見つかる20メートルに近くになって、完全に漏れ終わってしまったのである。
こうなると、今までの苦労がなんだったのかと思うほど楽になることを、勉強した。
ペンジョンに付いたら、急いでトイレに行き、下のものを脱ぎ、洋式トイレの中で洗濯をした。
飲んだビールでおなかが冷えたのだろう。
良い想い出になった。
帰国(2010年5月1日・土)
スペイン・バルセロナから帰ってきた。言葉が分からないということが、これほど不自由なことと思ったのははじめてである。
バルセロナの友人が、日本食堂をしていたので、滞在の18日間、日本ではなかったような、逆に日本料理漬けだった。
高校三年のクラスメート、M・Kさんという女性のお店である。彼女はバルセロナに来て20年近く、7年前から食堂を始めている。
だが、毎日行ったので、店の繁盛振りがよくわかった。
アイスランドの火山の時は、足止めを食らっている日本人の方々が多数見えて、日程が狂ってうんざり顔のかたが多かったが、私はその方々と良く話をした。
今度は6月のアメリカ行きである。こちらは私の郷里の富士吉田市の姉妹都市、アメリカ・コロラド・スプリングス市から招かれているのである。
出発(2010年4月12日・月)
ちょっと頭が痛い。今日からバルセロナである。
どうなることやら。
行ってきます。
今日は荷造り(2010年4月11日・日)
最後まで仕事をしているので、荷造りが今日になる。とうとう明日はスペインだ。14時間飛行機の中にいるらしい。
今月締め切りの月刊誌のイラストも、終えて送った。
どうしようかと思っていたビデオカメラも、もって行こうと思う。映像・画像を取るのが不精な私だから、大丈夫かと思うが。
敬遠(2010年4月10日・土)
確かに、ここ何年かのテニスの進展は素晴らしい。昔出来ていたものを取り戻し、思考の末、獲得した技術もある。
そして、他の人との差が開いていくと、一緒にテニスをするのを嫌がられる。
ジレンマである。
川越の大会で本戦に残るような女性のダブルスチームと試合をしても、百鬼さんのボールは女の人が打つようなボールでないので、調子が狂うといって敬遠された。確かに打ちにくいと思う。
男性のロートルグループとやることが多いが、手を抜かなければならない。とにかく相手にゆるいボール返す事にしているけど、そうするとこちらは無理をしないから全然ミスをしない。だから、勝ってしまう。
百鬼さん、相手にならなくてつまらないでしょうといわれる。そんなことはないけど、手を抜いているのがわかるから遊んでもらっていると相手は思うだろう。
しかし、それにしても、私はいつも実験がしたいんだと思う。ゆるいボールだけど、ついつい回転だけはかけてしまう。やっぱり打ちにくいと思う。
ちょっと自慢話になっているが、どうしたものだろうと思う。
クラブが土のコートのところに移ったから、今年の天候不順で、週に一度くらいのテニスのペースである。自然にこのくらいになるのはいいのかもしれない。
着ていくもの(2010年4月9日・金)
本当は、着物を着て行きたいのだが、トイレに行く時が大変だ。我慢している状態だったりすると臨戦態勢に入るまでが時間が掛かる。
それで一度失敗したことがある。
それはふんどしを締めていたときだった。普通のT字形の後ろから持ってきて前で垂らすようなものならいいが、相撲取りがやっているようなふんどしの締め方だと、取り出しにくい。
これをしていて失敗した。具体的には説明しないが、大変だった。
洋服にしていこうと思う。バッグは布のバッグだが、昨日洗った。
スペインあと3日(2010年4月8日・木)
今年は頼まれ仕事が少なく、スペインへ行くのも、何も支障なく行くことが出来そうだ。いいのかわるいのか。
手塚治虫さんからのお手紙を、今日スキャンして、お見せすることが出来た。
手塚さんの思い出は数少ないが、キャラクターデザインの依頼を受けての打ち合わせに、私はアニメスタジオがある新座に行った。
手塚さんと昼飯時にファミレスに打ち合わせで行ったものだから、満員のファミレスは手塚さんの登場に、驚いた様子で、歓声が上がった。通路はまるで劇場の花道だった。
そこで、マネージャーの清水さんが時計を見て、おしゃべりでついつい長くなる手塚さんの癖を管理していた。
その通り、手塚さんおしゃべりは滑らかで、よくおしゃべりなっていた。中で、女性の話が出て、「女性、お好きなんですか?」と私が質問したら「もちろん男だから好きだよ」とお答えになったのが印象的だった。
それから、将来は漫画をしたいと私が言った時に、怖い顔になった。
きっと手塚さんの、誰にでも抱くライバル意識からだろう。第一人者の大御所になっても、そういうところをいまだに持っていた手塚さんのならではの表情だったのだろう。
手塚さんと私を並べるのは、申し訳ないが、切り絵の分野では同じような意識を持つ私である。
手塚さんからの手紙(2010年4月7日・水)
私のペンネームは、手塚治虫さんのどろろの主人公・百鬼丸から来ている。多分そこから来たんだろうなと思う人は意外と多い。
だから、質問する人はあらかじめそお想像して質問してくるケースが多い。
この百鬼丸という名前を、ペンネームにしようと思ったのは、切り絵をする前の常滑に焼き物をしにいく直前にである。
それまでしていたモデルのマネージャーを止めて、次に目指したのが焼き物作家であった。ところが借金があってそれをきれいにしてから、常滑を目指さねばいけなかった。
とにかく朝から夜まで働いた。昼は渋谷東映の映画館、夜はリキパレスビル(力道山が作ったビル)にあるマンモスキャバレーエンパイアーのボーイである。
その生活の中で、ささやかに楽しんだのが手塚さんの漫画を古本屋で買って読むことだったのである。
当時は、西武線の新井薬師に住んでいた。
という訳で、小学生のリアルタイムに読んでとても好きだった「どろろ」がやっぱり好きだと確認した。それで、焼き物作家になったら作陶名は「百鬼丸」にしようと思ったのである。
名前を二つ持つというのは、人はやらないから贅沢であるし、お金もかからない。そして、地味に焼き物をやるつもりだったんで名前は派手にと。その名がまさか活字になるとは思っていなかった。
そして常滑に行って、焼き物を3ヶ月でやめ、切り絵をはじめて、そのまま「百鬼丸」と名乗り続けたのである。
5年が経過し、私はプロになりサンデー毎日の表紙をしていた頃だから、34歳くらいだろうか、手塚さんに会ったのである。
今は有名になっている「ザ シェフ」という漫画を描いている加藤唯史さん(奥さんが私の幼馴染ゆえに、友達になった)から、秋田書店の漫画の表彰式のパーティがあるんでいかないかという誘いを受けた。そして行った。
何とその時、手塚さんにお会いしたのだ。
ここでペンネームをかっぱらったことを言わないと、告白する機会はないと思ったの手塚さんに近づいていった。
白状した。
手塚さんは、大変喜んでくれた。
握手があったり、肩をたたかれたり。
ラッキーな事に、サンデー毎日で知ったいたとおっしゃる。
手塚さんからの手紙は、その直後に、テレビに出演するからという内容の手紙だったのだある。
しかし、とても忙しい人で、いろいろな編集者に聞くと手塚さんはほとんど、人に手紙を書くような人ではないというのである。
ところが、その手紙を、大事に額に入れて飾っていたものを、人に出して見せて、そのまま紛失していたのである。もう10年くらい経つと思う。
もうあきらめていた。だから手紙のことも思い出すことはあっても、探すようなことはしてこなかった。
それが昨日見つかったのである。
いろいろな書類が山積みになっているところを整理していたらである。
もう、あきらめていたので、とても嬉しかった。
手塚さんは私と会って嬉しかったのだろう、お会いしてすぐ、彼の実験アニメーション「村正」のキャラクターデザインを頼んできたのである。しかし、残念ながら2年後に、他界された。
もし、長生きされたら、きっと私の支援者になってくれていただろう。
あと一つ(2010年4月6日・火)
スペインに出かけるまでに、あげなければならない作品は、あと一つである。今日あと一つが終わる予定であるから、順調である。
そういえば、先日運送屋さん、荷物に薬品は入れてはいけませんといわれたが、一番最初に言われた薬品が、バイアグラだった。
持ち込む人が多いということなんだろう。
銀河堂(2010年4月5日・月)
銀河堂という画材屋さんが、鶴ヶ島市の隣の日高市にある。そこに額の裏側の留め金具などを買いに行った。
その店主は元々画材の大手世界堂の番頭だったという。その世界堂の、社長と頼まれたが、独立してしまって、その日高市に額の工場とお店を構えたという。
店の位置は誰も知らないような、辺鄙なところにある。当然どこかに下ろしているから、そこでも店が成り立っているのだろう。
しかし、話をしていると、変った人である。普通の人の喋りではない。
だいたいが、その留め金他をを300ずつ買ったのであるが、店主が数えるのではなく、私が数えて、店主はしゃべりっぱなしだったのである。いつもは息子さんと私で、数えているのであるが。
実は、伊勢丹相模原での「時代小説挿し絵13人」展で、全員が掛け軸を2点、そのために作ったのであるが、その掛け軸職人さんが、その銀河堂の店主と、子供の頃からの知り合いなんだという。
もう80歳近い職人さんだったが、その展覧会で、長いこと私と話をしていて近所の銀河堂に出入りしていることが分かった。
その職人さんの話を昨日聞いた。東大卒業で、特攻隊から帰ってきて、掛け軸職人になっているのだという。
銀河堂の店主がその職人を変わり者といっていた。
切り絵千点(2010年4月4日・日)
昨年の、伊勢丹相模原の展覧会で「時代小説の挿絵画家13人」展をしたが、そのときの参加作家の絵の値段の付け方が興味深かった。
私はそのメンバーの中で、上から二番目の値段を付けた事になった。
宇野亜喜良氏・横山明氏の金額の低さには驚いた。文庫のカバーの原画が宇野さんは8万円、同じく横山さんは5万円である。横山さんの絵はみれば、とても手が入っていて見事な絵であったが、その値段である。この値段から、デパートの手数料が引かれると情けない金額である。
何とか、さすがに売れてはいたが、値段が低すぎる気がするが、皆さん、現実に売れていく絵の値段を意識しての反映なのだろう。
つくづく最近は、絵では食っていけないを感じる。それは芸術全体といった方がいいのかもしれない。
欧米では、絵というのが投資として考えられていて、日本の絵に対する対し方と違うのだと思う。
でも、絵で食っていけないという日本の方が理解できるのである。絵で食っていっている人が多い欧米の方が不思議である。
ちなみに、一番高い値段をつけたのは耽美派の山本タカト氏であった。彼にはコレクターが付いている。
それが分かったのは、初日に会場に電話が掛かってきて、絵も見ていないのに40万くらいの作品の予約が入ったのだ。他にも何点か売れていた。勿論、その展覧会で、一番の儲け頭だった。
昨年のレオ澤鬼さんとの二人展で、彼のマニアのコレクターがいたが、金額は安いが、それなりに絵が売れていく。これは気持ちのいい事に感じた。
この間建具屋さんに、プレート状にしてもらった木片を1000作ってもらった。これに切り絵を張って売り出そうと思っているのだ。
当然安い値段でだ。しりあがり寿さんの影響である。一番低い値段で、1000円。一番高くて3000円くらいかな。値段はもう少し検討したい。
しかし、1000の切り絵を作るというのは至難の業だ。7月8月の埼玉伝統工芸会館での個展の目玉にしたいのだが、暇さえあればきっている状態にでもならないと難しいだろう。
荷造り(2010年4月3日・土)
今日やっと荷造りが終わって、スペインに送ることが出来る。国によって違うようだが、薬品を荷物の中に入れてはいけないようだが。スペインがそのようである。
だが、一端きれいに入れてしまった荷物をまたとかなければならなかった。あとから運送会社に知らされて、取る羽目になったのだ。
たまにたまに頭痛になるが、それは喉をルゴールで焼くと治ったりするがそのための薬品。それから、花粉症のくすりだ。
荷物も投げたりするらしいが、投げたりされたら中の絵が壊れないことを祈るだけである。
そういえば、郵便局も荷物を投げる習慣があったらしい。そこでバイトをしていた人が言っていた。
いくら割れ物注意と書いてあっても関係なく投げたらしい。
私は友人に焼酎を送ったことがあるが、ゆうパックだったのかな?焼酎が割れちゃったと人が謝りに来た。きっと郵便事業鰍ノなってもその習慣はなかなか取れないはずである。
そういえば、郵便局の窓口で、人に「うん、うん」という器量の悪い女性がいたなあ。客に「うんうん」はないだろうと思う。「はい」だろう。たまにそういう人もいるが、相手がおばあちゃんだったりして、TPOを使い分けていたが、その女性だけは、やたら使っていた。
スペイン行きの荷物が、8日に着く予定だが、13日の最終期限まで付く確証はもてないというが、お国柄ということもあるんだろう。
展覧会最終日
展覧会が終わった。「ぶらり途中下車の旅」に出演して、展覧会の日にちをづらしたが、結果としてはテレビ出演の効果は少なかった。
以前に一都六県というNHKの番組に出たことがあるが、その時は会場にすさまじく人が来ていただいた。私はスーパーのレジ内のように忙しかったものである。そのことがあって、同様に忙しいと想像したのであるが、民放とNHKの違いもあるのかもしれない。
長い展覧会で、平日は人が見えない日もあった。だが、この川越では辺鄙なギャラリーも、合計すれば何とか多くの人が集まってもらった。
畳のPRのために、私をギャラリーに招聘した岡田畳店であるが、客の中には畳を頼んだ人も、これから頼みそうな人もいた。
岡田畳店の方々は、私をかなり大切に扱ってくれていて、ファンになってくれている。私も、これまで発表してこなかったような連載を、こちらで勝手に個展として発表することが出来る。
この畳店で、生徒が今回3人ほど集まった。岡田畳店での教室である。
次はやるとしたら、9月になるのかもしれない。スペインでの個展・切り絵の森での個展・埼玉伝統工芸会館での個展・と数珠繋ぎに個展が続いている。また、海外での個展があるだろう。
それなりに大変なことだろうが、私の理想に近づいてきた気がする。幸せ者である。
たぬき死(2010年4月2日・金)
たぬきがまた道路で死んでいた。ここには書かないが、何匹か死んでいたのを目撃しているが、かわいそうだ。
切り絵の森は?
切り絵の森に平日のお客の入りを聞いてみた。やっぱりかんばしくないらしい。
私が足を運ぶようにしたい。そして、もっと私の名が知られるようにならないといけないなあ。
名が知られるように、というのは至難の業だ。
川越ギャラリーマップに(2010年4月1日・木)
川越ギャラリーマップ(無料で配布する公のマップ)に、私の常設ギャラリー・岡田畳店本店2Fが載りました。
これで、川越の人、川越に観光に来て絵に興味のある人は寄る人が出てくるだろう。いい方向である。
準備
ダンボール(2010年3月31日・水)
朝帰り(2010年3月30日・火)
泊まりは不二ホテル(2010年3月27日・土)
明日から二日間「切り絵の森」(2010年3月26日・金)
相撲が面白くなかった時代(2010年3月25日・木)
磋牙司(2010年3月24日・水)
吉祥寺教室撤退(2010年3月23日・火)
一年とちょっとやっていた、吉祥の産経学園の講師をやめる事になった。
生徒が一人になってしまうからだ。一番多いときで4人だった。私が悪いわけではないと思っている。
もうカルチャーセンターが流行らないんだと思う。
一番はお金が高いこと。
吉祥寺と少し付き合えたのが良かった。
武田二十四将
焼き物(2010年3月22日・月)
今日は飾りつけ(2010年3月21日・日)
仕事が遅れている(2010年3月20日・土)
喉が痛い(2010年3月19日・金)
テニス(2010年3月18日・木)
スペイン行き(2010年3月17日・水)
八光亭 春輔師匠
切り絵の森の準備(2010年3月16日・火)
相撲が始まった(2010年3月15日・月)
体調悪い(2010年3月14日・日)
放映(2010年3月13日・土)
帰りは11時(2010年3月12日・金)
会議のかけもち(2010年3月11日・木)
喉が痛い(2010年3月10日・水)
花粉症で歩いて5秒の耳鼻咽喉科病院に行ったばかりだが、喉が痛くてまた行ってきた。
花粉症で喉が痛くなって、1週間前に喉をルゴールで焼いてみた。それがいけなかったようだ。
普段喉が痛くなると、すぐルゴールで自分で焼く。私はもうそれで20年近く風邪を引いていない。だが、今回は細菌による炎症でなく、花粉による炎症だから、ルゴールはいけなかったのかもしれない。
咳が出るし、痰も出る。
病院では知り合いが3人いた。全部で6人くらいの人数で3人いたとはすごい確率だ。道で、知り合いの弁護士に会ったから4人という事になる。一人は、鶴ヶ島市の元助役。ひとりはテニスの仲間。一人は、私のことをブログで紹介してくれている女性だ。
テニスの仲間以外は話をして来た。
頑張って仕上げたい
今日一つ作品をあげないといけない。寒い夜だなあ。
久々の水虫?(2010年3月9日・火)
水泳のクラブに入っていたときには時々出来たが、久しぶりの水虫なのかもしれない。痒くはないが、足の指の間に、水虫状のものを見つけた。
病院からもらった薬が見つからない。病院に行くのはもったいないなあ。
花粉症で喉が痛かったので、ルゴールで焼いたら、今度は咳が出るようになった。
時々寒くなったり、暑くなったり、今年は極端な気がする。
そういえばこのホームページの「幻の」切り絵作家の「幻」はいつとるんだろうなと思うことがある。
まだ私がなんとなく目標にしている知名度から遠いと思っている。絵を見ている人は一番多いと思うんだが。
最近グーグルで「切り絵作家」で検索しても、上部の「他のキーワード」蘭に「切り絵作家 百鬼丸」と出てくる。光栄なことだ。多分これはアクセスが多い人でないと出てこないんだろうなと思う。
他には、蒼山日菜さん・福井利佐さん・タンタンさんとかがいる。アクセス数だと、私が一番下だ。
現在の切り絵作家のそれがそのまま人気と知名度のランキングなのかもしれない。
蒼山さんは私の10倍、福井さんは3倍のアクセス数である。きっとこの人たちを上回れば「幻」をとってもいいのかもしれない。
久々の英会話教室(2010年3月8日・月)
月曜日飛び回っていて、一月英会話教室にいけなかった。今日は参加する事にする。
グーグルサイトに翻訳機能があって、ホームページを英語やスペイン語にしてくれる。私のこのホームページもほとんどどこの国の言葉にも翻訳出来る。当然間違ったりしているケースもあるが、勉強になる。
これを印刷して、語学の勉強も出来るかなと思ってチャレンジ中だ。
新しく英語の辞書を買った。高校時代は研究社の辞書を使っていたから、やっぱり懐かしくて研究社の辞書である。
結構その辞書は使ったから、手が掛かる場所は手垢になっていた。
しかし、英語を勉強するにつけ、高校時代に知らなかったことが多い。新しい発見が多くて、知る喜びを知り始めている。
歴史の勉強もしているが、こちらはもっぱら、私が彼の小説のカバーを何冊か手がけている井沢元彦氏の「逆説の日本史」が中心である。高校までの授業で習った歴史がいかに上っ面であるかがよくわかる。
昔、週刊新潮で、2年か挿し絵を担当した安倍龍太郎氏の小説「血の日本史」は、毎回文字通り血で塗られた日本史の歴史を小説にして行ったものであるが、日本史はたしかに血でおおわれていることがあらためてわかった。
今埼玉伝統工芸会館で「神山蒔風」さんの地蔵曼荼羅の絵の展覧会をしている。
彼に付属のレストランで会ったが、展覧会で作品が売れ残ったりすると、コレクターのところに売って歩くという。
これは「私の絵を集めている人」と自他共に認める人がいないと成立しないことだ。いや、こういう作家をはじめて知った。
私の絵のコレクターは、服部氏くらいのものだ。
その蒔風さん曰く、「百鬼丸さん有名ですよ、私の仲間は全員あなたのことは知っている」なんだそうである。
久々のライブ(2010年3月7日・日)
今日は小川町の埼玉伝統工芸会館で久々のライブである。
12日からは、川越の岡田畳店で、毎日ライブをする事にしている。
何故、そんなにライブをするかというと、ライブの絵画集を作りたいからだ。その絵画集は、私の切った切り絵を、塗り絵と同じように切り抜きだけしたい切り絵愛好家のために作る。展覧会をすると、そんな方を見受ける。
私が本気を出したら、なかなか素人は難しい。細かくなってしまうからだ。
ライブの作品というのは、それなりに荒っぽいから、素人でも大丈夫なんだと思う。
展覧会(2010年3月6日・土)
展覧会が12日から川越の常設ギャラリーの岡田畳店である。
元々3月2日からやるつもりだったものが、「ぶらり途中下車のたび」の出演で、放映が3月13日ということで、展覧会を先に延ばしたのだった。
当日から、数日は混雑するだろう。どのくらいの人が来るのか見当がつかない。
前にNHKの一都六県の夕方版に出たときの次の日と数日はすごかった。展覧会場がスーパーのようで、レジはとんでもなく忙しかった。
それと同じようだったら、そんなに広くないギャラリーだから整理券を配らなければならない。
それに、ライブも映したから、ライブの要望もあるだろう。
想像が付かない。
歌謡曲(2010年3月6日・土)
絵は自分がプロの腕前になる才能があったとは27歳まで全然知らなかったが、どうも歌もよく知っているようだ。
初めて知った歌謡曲が小坂一也の「青春サイクリング」だったと思っている。
その頃映像といったら、映画か、映画館で見る映画ニュースしかなかった。ロカビリーの様子も映像が頭にあるが、それは映画ニュースからなんだろう。社会党の浅沼委員長の刺殺事件は、まさに映画ニュースでの映像が記憶にある。
ロカビリーの歌手が、歌謡曲になだれ込んできた過程は知らないが、後から聞くとほとんどの男性歌手がロカビリーからの転出組みだった。ロカビリー3人男・「三人ひろし」もそうだ。かまやつひろしも・尾藤いさおそうだ。
前に書いたが、三人ひろしの守屋ひろしは、私がバイトしていた渋谷松竹に来た。女性と二人、そして乳母車を引いた少女と。乳母車の中には赤ん坊。
1時間ちょっと、その乳母車を少女は映画館のロビーを行ったり来たりして引いていた。私は、もぎりでそれをずっと見ていた。勿論映画の上映中のロビーに人はいない。
可愛らしいくりっとした目をした少女だった。私にはこういうことは出来ないと思った。映画館の従業員も可哀想だなあといっていた。
だから、守屋ひろしにはいい印象はない。
ただ、彼の歌は懐かしくて好きである。「僕はないちっち」
過激派の影響(2010年3月6日・土)
今日は雨が降るようである。花粉がすごいらしく、目ははれ上がり、喉も痛い。薬を飲んでいるから、鼻は大丈夫だ。
今日は吉祥寺教室。
24歳くらいだったか、吉祥寺に住みたかったのか、吉祥寺の不動産屋を廻り、アパートと契約した。
ところが会った大家が、過激派じゃないかと後から不動産屋に取り消しを求めてきた。契約してからだら、あちらの違反なんだろうが、私は退いてやめた。そんな時代だった。
切り絵をはじめて、愛知県から東京に来たが、高くて見つからず、どんどん中央線を西にさかのぼって、東京の外れの高尾駅で部屋を探したが、ここでも過激派と思われて、こちらは契約にはいたらなかったが、断られた。
こういう被害はロングヘアーで汚らしい恰好をしていると誰であった被害だろう。
過激派の悪影響は私にもあったのである。
展覧会(2010年3月6日・土)
展覧会が12日から川越の常設ギャラリーの岡田畳店である。
元々3月2日からやるつもりだったものが、「ぶらり途中下車のたび」の出演で、放映が3月13日ということで、展覧会を先に延ばしたのだった。
当日から、数日は混雑するだろう。どのくらいの人が来るのか見当がつかない。
前にNHKの一都六県の夕方版に出たときの次の日と数日はすごかった。展覧会場がスーパーのようで、レジはとんでもなく忙しかった。
それと同じようだったら、そんなに広くないギャラリーだから整理券を配らなければならない。
それに、ライブも映したから、ライブの要望もあるだろう。
想像が付かない。
歌謡曲(2010年3月6日・土)
絵は自分がプロの腕前になる才能があったとは27歳まで全然知らなかったが、どうも歌もよく知っているようだ。
初めて知った歌謡曲が小坂一也の「青春サイクリング」だったと思っている。
その頃映像といったら、映画か、映画館で見る映画ニュースしかなかった。ロカビリーの様子も映像が頭にあるが、それは映画ニュースからなんだろう。社会党の浅沼委員長の刺殺事件は、まさに映画ニュースでの映像が記憶にある。
ロカビリーの歌手が、歌謡曲になだれ込んできた過程は知らないが、後から聞くとほとんどの男性歌手がロカビリーからの転出組みだった。ロカビリー3人男・「三人ひろし」もそうだ。かまやつひろしも・尾藤いさおそうだ。
前に書いたが、三人ひろしの守屋ひろしは、私がバイトしていた渋谷松竹に来た。女性と二人、そして乳母車を引いた少女と。乳母車の中には赤ん坊。
1時間ちょっと、その乳母車を少女は映画館のロビーを行ったり来たりして引いていた。私は、もぎりでそれをずっと見ていた。勿論映画の上映中のロビーに人はいない。
可愛らしいくりっとした目をした少女だった。私にはこういうことは出来ないと思った。映画館の従業員も可哀想だなあといっていた。
だから、守屋ひろしにはいい印象はない。
ただ、彼の歌は懐かしくて好きである。「僕はないちっち」
過激派の影響(2010年3月6日・土)
今日は雨が降るようである。花粉がすごいらしく、目ははれ上がり、喉も痛い。薬を飲んでいるから、鼻は大丈夫だ。
今日は吉祥寺教室。
24歳くらいだったか、吉祥寺に住みたかったのか、吉祥寺の不動産屋を廻り、アパートと契約した。
ところが会った大家が、過激派じゃないかと後から不動産屋に取り消しを求めてきた。契約してからだら、あちらの違反なんだろうが、私は退いてやめた。そんな時代だった。
切り絵をはじめて、愛知県から東京に来たが、高くて見つからず、どんどん中央線を西にさかのぼって、東京の外れの高尾駅で部屋を探したが、ここでも過激派と思われて、こちらは契約にはいたらなかったが、断られた。
こういう被害はロングヘアーで汚らしい恰好をしていると誰であった被害だろう。
過激派の悪影響は私にもあったのである。
冷たい雨(2010年3月5日・金)
冷たい雨が降っている。昔、橋幸夫の歌にあった。「江利子」だったかな。「江利子は死んでしまった」って。
大映で映画化されて、その江利子の役をしたのが三条摩子(字はわからない)とかいったかなあ。大映版・愛と死を見つめてみたいなどラマだったんだろうな。見た記憶がある。
その純真可憐な役の三条摩子さん。大映の衰退と共に、お色気路線に走っていて、子供心に不思議だった。
大映の映画は、家に大映の株券があったので、ただで見られたので本当によく見に行った。子供のクセに帰りは一人で9:00頃帰ってきたりした。まだ、子供の一人映画鑑賞をうるさく言わなかった頃なんだろう。
だから、若尾文子の文芸路線や高校生のいやらしい映画(松坂慶子が主演していり)を沢山見た。だけど、どれも面白くなかった。
この映画館ではもっと子供の頃、新東宝の嵐勘十郎の鞍馬天狗や宇津井健のスーパージャイアンツなんかを楽しんだ。この新東宝も末期は、池内淳子がお化けのような役をしたりしていた。子供心に三原葉子というお色気女優が言葉には出せなかったがひそかに好きだったのを憶えている。
花粉症(2010年3月4日・木)
私にも花粉症がやってきた。
最初に発症したのは、15年くらい前だろうか。5月が一番ひどく、花粉症とは分からなかった分、目がとんでもなく赤く痒くなっていた。
それから、毎年発症するんだが、5月が一番ひどい。2月は例年まだ、そんなでもない。
しかし、今年はちょっと勢いがありそうで、あと少しでひどい状態になりそうだ。
花粉症の嫌なところは、眠っていて、鼻が詰まって、息が出来ずに死ぬんじゃないかと思うパニック症状である。
あの症状になるのが嫌だ。
病院、どうしよう。
書くことが浮かばない(2010年3月3日・水)
書くことが浮かばないんで、しばらくしてから日記を書こうと思う。
焼き物絵付け(2010年3月2日・火)
山梨県・身延の美術館「切り絵の森」を見てきた。私の会場は広かった。かなりの数の作品が並ぶ事になりそうだ。
もうあと20日にせまった。頑張って準備をしないといけないと思うようになった。
その隣町の六郷町の焼き物作家の鈴木さんのところで、焼き物を作ってきた。まだはじめたばかりで、焼き物を作るおいしいところしかやってこない。窯の温度を管理したり、干したり、素焼きしたりという作業は鈴木さんにお任せだ。
私はもっぱら、粘土を器の形にしたり、絵付けをするだけの作業である。
ものを作る最初というのは試行錯誤が激しいから、いろいろ発見する。今回は素焼きの焼き物に、鉛筆デッサンしても、その後が焼きあがりに出てこないということで、下絵を素焼きの焼き物に描いて、絵付けをして行った。
だが、人物画を描こうとすると、すごい集中するんで、一つの焼き物を作るのにくたびれる。
焼き物の新しいシリーズを立ち上げた。花魁の絵である。他に浪人とか子供とかも描いていこうと思う。
勿論、展覧会で売っていくつもり。
スケート(2010年2月27日・土)
キム・ヨナは色気がある。19歳なのにと思うが、考えて見れば、そのくらいの年齢で当たり前のように色気のある子はいたから、おかしくはない。何か子供に思えてしまうんだけど、それはこちらが歳をとったからなんだろう。
浅田は、きっと歳をとっても、キム・ヨナのような色気は出てこないだろう。私は浅田のようなタイプを、男性として好きなとか嫌いとかのタイプではないが、思い切って大きく笑うという表情の作り方のほうが、対抗するにはいいんだろうと思う。
安藤は、ファンなのであるが、気持ちがこじんまりしているんだと思う。もっといろいろな表情が出来たらチャーミングなんだと思うけど、表情のメリハリがない。
鈴木を見ると今いくよくるよの太った方の人と似ていて、それがいいんだか悪いんだか。とにかく顔を見るたびに思い出す。
人の顔を覚える私であるからか、面構えというのが気になる。
でも、韓国人と日本人の対決ってのが寂しい気がする。
山梨に、2泊3日である。3月末から開催される美術館「切り絵の森」の下見。11月に作っておいた焼き物の色付け、切り絵教室と3つほどの仕事を片付けてくる。
真田三代(2010年2月26日・金)
今日のうちに、一つ作品を仕上げたい。初陣の真田昌幸の絵を切り絵にしようと思う。
今回の絵は昌幸の活躍を描きたいのだが、敵と対するシーンを描こうとすると、困った事に初々しい昌幸の顔とかが、うまく描けない。
だから、ちょっと考えてしまうが、単純に昌幸の甲冑を佩びた立ち姿を描こうと思う。戦いのシーンは、別の時考えたい。
挿し絵というのは、中のシーンをただ描けばいいというものではない。その連載の過去の作品にさかのぼって、同じような絵にならないように配慮する。
そして、自分の得意とする人物画を中心に、パターンをいくつか変えてやっていく。ただ、切り絵というのは、風景画をすると、その効果が薄れる。やり方もあるのだろうが、単純な方法では、つまらない切り絵になってしまう。
効果的な手法で、たまに風景画をするというのは、いつでも頭の隅っこにある。
いつか一点くらいやるのかもしれない。
鼻血(2010年2月25日・木)
花粉症の季節で、鼻をかむと鼻血が出始めた。必ず右側なんだけど、昨年は野菜を食べたら鼻血が止まって一年間でなかった。
これから、生野菜を食べ始めようと思う。
東洋大学のクラスメート二人と先輩の大学準教授が飲んでいて、誘いがあったので行った。一人は、鹿島建設に勤めていて、定年を来年迎える前に辞めて、赤坂の有名なホテルだけど、名前を忘れたが就職するという。
彼の家は、元々川越のにぎやかな通りにあった金物屋さんだった。時勢におわれて、店をだいぶ前に閉じたが、まだ金物問屋をお父さんがしていた。かなりの大きな倉庫があって、手広くやっていそうだったが、金物問屋も閉じるという。カインズホームとかのショッピングセンターなんかがあれば、相当こたえていただろうから、うなずける。
来年は60歳である。「村の渡しの 船頭さんは 今年六十のおじいさん」という歌を思い出せば、おじいさんである。嫌だなあ。
みんな仲間が、定年を迎えて辞めていくことだろう。寂しいなあ。
考えてみれば、クラスメートはこの三人しかこの川越にいない。たまには3人で旅行に行くというのもいいだろうな。
熱海旅行で、団体旅行が好きになっちまった。
病気(2010年2月24日・水)
昔よく行っていた飲み屋に、友達に誘われていった。
良く飲んだ、大学の先輩が後から来た。現役時代は陸上部の長距離選手だったという。今だったら東洋大学の花形クラブである。
今年になって、寝て起きて立てなくなって、病院で診てもらったら、糖尿病だったのだという。
自分で血糖値を計って、インシュリンを打っていた。
とても寂しそうだった。私もそんな姿を見ると寂しい。
私を可愛がってくれた人だ。郷里の佐世保に帰ると、明太子のお土産を必ず持ってきてくれた。
ただ、私がお酒を飲む時間は昔と違い6時頃になったから、その店が始まる7時には行かなくなった。終わる3時頃は、私が寝て起きて仕事をする時間であるから、当然飲みにはいかない。
時間は経過する。
ばたんきゅう(2010年2月23日・火)
仕事柄、団体で泊まりの旅行に行くことが珍しい。昨日は日本文芸家クラブの方々と熱海に一泊旅行であった。私がこのクラブで事業委員長を任命されたので行くのである。役員でなかったら行くことはなかっただろう。
だが寝食を共にするというのは、楽しいものである。今頃になって気がつくのも変な感じなのかもしれない。
行く時の電車の隣の年配の女性が、時代小説を読んでいたので、私のカレンダーをあげた。それから、彼女が降りるまで、彼女の趣味の踊りの話をして行った。
若い女性3人が私の前に座っていて、トイレに行っていて降りるのが遅れている女性(団体の一人)のことを笑っていたので、電車の中で気持ちが悪くなったらしいよと教えてやった。そしてカレンダーをあげ、ちょっと話をして熱海で別れた。
悪くないスタートだった。
熱海というのはでかい街であった。24歳の時建築設計事務所に勤めていたときの社員旅行で行ったことがあるが、あまり記憶がなくて、ワニ園に行った事だけを覚えている。
MOA美術館に行った。展示してあるものより、美術館のエスカレーターの長さに驚いた。そして、やたらときれいだったが、その割に所蔵品が少なかった。
私の実家のうえに前住んでいた、同年の女性が熱海の近くに住んでいるということで、前来る機会がありそうだったので、友人を通じて電話番号を聞いていたので電話をした。
近所だったが、引っ越してきた私は中学校で越境入学をして引っ越す以前の中学にいったので、本来その彼女とは、同じ中学に行く事になるはずだった。だが行かなかったので近所だいうことで、少しは話したことがあった。その程度であった。
ただ、その後共通の友人を持ち、話題にのったので、お互いに印象深かったのだろう。よく姿かたちも憶えていて、彼女も電話をしたら、私のことを憶えていた。彼女と大人になって話をしたことはなかったのだ。もう二人の孫がいるという。
親がなくなり、3人兄弟の昨年二人亡くなりショックで、今は誰とも会えないという。
さて、熱海の散歩をして、5時半にホテルに。
全員ほとんど、知り合い程度の中なのであるが、楽しい人たちであるのですぐ竹馬の友同然になっていった。宴会をし、仲間の芸者が踊りを踊り、楽しい時間を過ごした。二次会のカラオケも私は3曲歌った。
私の酒は寝酒だから、終わったらばたんきゅう。いくらでも飲めたり、からんだりする酒ではない。
愉快な仲間が出来たなあ。
バスツアー(2010年2月22日・月)
熱海へ今日は行く。現地に5時半集合だから、連れ立ってを誘われてもいないんで単独行である。
MOE美術館に行ってみようと思う。意外に絵描きのクセに美術館に行かない方だ。
「冨士山観光と吉田のうどんツアー」というのを例年やっているが、今年はうどんは食わずに山梨県身延の久遠寺と切り絵の森に案内しようと思う。
その前の週が、日本文芸家クラブのツアーをするかもしれないんで、こちらはうどんツアーとすると思う。
4月はスペイン、5月はバスツアーと忙しい月が連続しそうだ。
朝帰り(2010年2月21日・日)
一日日記を飛ばしてしまった。昨日は、朝帰りだった。それというのも直木賞のパーティのあとに、編集者とのみ、そのあとちょっと行かなければならない店があり、飲んでいたのだ。だから最終電車(11時48分)にトイレが気になったが飛び乗ったが、やっぱり我慢できず途中下車、池袋に戻り、カプセルホテルに泊まる事になったのだ。
でも最悪のパターンは免れた。最悪というのは、眠って乗り越しである。
二度ひどいのがある。小川町で起こされたこと、西武線の小手指で起こされたこと。二度ともタクシー代が1万円掛かった。小川町にはホテルも旅館もあるが、もう空いていない時間だ。
あとは東松山とかの5000円区域、川越市駅から(これはもう鶴ヶ島に行く電車がないとき)の3000円区域が何回かある。
帰ってから、小川町のライブをやり、プークのメンバーが小川町に公演に来ていて、会いに行った。人形劇を見たけど、ちょっと眠ってしまった。かなり疲れていた一日だったようだ。
月曜日には、日本文芸家クラブの団体旅行がある。志茂田景樹さんなんかと熱海に行くのだ。そして夜は芸者さんと遊ぶのである。
走る(2010年2月19日・金)
昨年一時走ったことがある。私は長距離走は苦手だ。
でも、今年の冬はテニスが出来ない。クラブをクレーコートのところに変えたからだ。そこで走った。
走るのが苦手だから、ちゃんと走ったのは昔のことで、今はすぐくじける。そこで昨年考えた。
お金を電車の片道だけ持って、走りたい距離の駅で降りて、帰ってくるというものだ。それに加えてすぐくじけるから、電信ごとに走り、歩くというふうな走り方を考えたのだ。これだと確かにくじけない。電信と電信の間の距離くらいなら、根性は保てる。それで、川越から走ってかえって来た。だいたい10kmちょっとの距離だろう。
忙しくなればその気にはなれないから、今のうちだ。
テニスコートまでの距離があるから、そこ走ったらと思うが、テニスが早くしたくてそういうことが出来ないんだ。バイクである。
こんな人も(2010年2月18日・木)
山梨金精軒での個展が、5ヶ月間を経て先月で終わった。私も飾り付けに行っただけで、行くことはなかった。
客の芳名録の中に二人、珍しい人を見つけた。一人は江良潤さんという役者さんである。
私が、まだ出版デビュー前に、彼の友達だった江幡連という役者(私がマネージャーをしていたころ、事務所が同じだった。彼のマネージャーをしていたと思って良い。彼は映画「八甲田山」に出演して、私はその撮影現場に行ったことがある)から、演劇のポスターを作ってくれと頼まれて制作したことがある。
まだ、下手くそな時代で、よく使ってくれたものだと思う。
池袋の本町にあった劇場で上演され、私も見に行った。まだ私も20代の後半で、若かった。
その時出演していたのが、江良潤さんだった。エラの張ったあごをしているので、いわれなくてもエラから江良とつけたなと分かった。
今でも時々テレビ映画に出演していると思う。私の友人の江幡さんは、役者をやめ、故郷の水戸で家業を継いでいる。
もう一人は、石田さんという切り絵界の重鎮。日本セン画協会(センというのははさみで切るという意味、漢字がわからない。日本では切り絵と呼んでいるが、セン画とは中国での切り絵の言い方)の会長さんをしている。山梨に住んでいる。その会の副会長さんが私のかつて弟子だった。
日本に切り絵協会が3つほどあるが、申し訳ないが、切り絵の優れた人材を見受けない。
忙しい前の(2010年2月17日・水)
これから、いろいろ忙しいことがある。3月末に山梨に美術館・切り絵の森が出来、4月の初旬にスペインへ行って来る。
スペインでは個展をしてくる予定である。
しかし、珍しく依頼される仕事が途切れている。ある面ラッキーである。その間に出来なかったことができる。
ぶらり撮影(2010年2月16日・火)
ぶらり途中下車の旅の撮影隊が岡田畳店の展覧会場に来た。来たタレントは香田 晋さんだった。
どんな按配になったか、楽しみにしてください。3月13日土曜日9:30〜10:30日本テレビです。だいぶ面白かったらしく、長い時間の放映になるかも知れないそうです。
特別ライブ(2010年2月15日・月)
今日は川越岡田畳店で特別ライブがある。
オリンピックが始まった。4位で上村さんの泣き顔の笑顔が印象的だった。きっと素敵な人なんだろう。
ライブ中止(2010年2月14日・日)
忙しいので、今日の伝統工芸会館のライブは中止した。
昨日は、ライブで歌を歌い始めた。3点作ったが、歌を題材に絵ができないかなと思ったからだ。
最初は恋の奴隷・次は越後獅子の歌・青春サイクリングだ。
歌を歌って切り絵をするというのもいいアイデアだったと思う。
ライブ作品(2010年2月13日・土)
ライブ作品は頻繁にしていないと、なかなかいいものを作ることは出来ない。3月2日から川越の岡田畳店で展覧会があるが、毎日ライブをする事にした。きっといい作品が出来ることだろう。
これまで、毎日しないといい作品が作れないということはわかっていたが、展覧会で毎日やるのも安っぽいなあなんて考えていた。しかし、このライブ作品を本にしようと思い始めて、その考えは変った。毎日して、作品を作くれば、早く本が出来るからだ。
それにしても、この作品群が、私の収入の半分になれば、本の装丁画家という自分自身で抱いているイメージから変るのかもしれない。
それもよしであるが、これで食べていくなんてこの時勢で考えられない。
展覧会準備(2010年2月12日・金)
仕事は切れているが、なかなか忙しい日々である。自分の商品の開発の仕事である。今年は手拭いに力を入れたいと思っている。
3月2日の展覧会開始に間に合わせたいが無理なのかもしれない。
監視の目(2010年2月11日・木)
山梨県の今度出来る切り絵の森というのがある。県とかかわる仕事であり、私もそれに参加している。
そんなこともあり、県の方が私のこの日記を監視しているらしい。だから、県にあまり公にして欲しくないことはマネージャーにメールしてくる。そんなチェック係がいるらしい。だから、この日記も見ているだろう。
まだ書こうと思えばもっと沢山いろいろあるが、書いてはいない。
なかなか難しい県である。
新井規矩雄さん(2010年2月10日・水)

昨日行きつけのお店で飲んでいたら、東洋大学の野球部監督の高橋さんの一段が二階で飲んでいた。私はもう何回も、ご一緒に飲んでいるから、特段ないのだが、今回紹介されたのが、この写真の方、プロゴルファーの新井規矩雄さん。
東洋大の先輩だったようだ。とても気さくな方だった。
学生自業自得(2010年2月9日・火)
私が夜というか朝というか、通って、切り絵の作業をしているレストランが、ついにこの数日、夜間が学生で満席になったらしい(私は少し減った時にいっているらしい)。
この近くにある城西大学と明海大学の学生が、押し寄せて勉強しているのである。
しかし、ところが、その学生たちが夜ばかりでなく朝昼夕方と無節操に、テーブルを占拠して、中には6人掛けのテーブルを一人で占拠するやからまで出てしまって、この近辺のファミレスは学生を締め出して、ついに私の来ているレストランだけになって押し寄せているのである。
仲間で来ているわけだから、他の席にうろうろする、土足でシートにのる、馬鹿笑いをする、賭けとランプをすると学校でしていることを我が物顔でやるわけだから、店の方も最近だいぶ困っているようだ。
そこで、ウエイトレスに尋ねたら、学生締め出しも考えているそうである。社会人にもいるが、学生は生きるか死ぬかで生きているわけではないから、そこらあたりのことにはとても鈍感である。もし自分がこの店の人だったら困るだろうなと人事ではないと思うのは彼らが社会人になってからである。
結局、自分たちも困り、未来に入ってくる学生たちにもレストランでの勉強の道を閉ざした事になるのだが。
学生!困った半端な立場である。私もかつてそうだったことは間違いない。
細かい仕事(2010年2月9日・火)
仕事が切れたが、また入ってきたようである。電話の到着履歴に入っていた。
仕事が切れて、いくつか雑多な仕事を済ませた。もうすぐ申告である。その整理もある。3月から、岡田畳店で展覧会であるから、そのはがきの発送もしなければならないし、額の制作もしなければならない。
その後は山梨の切り絵の森の展覧会の準備である。はがきが届いているから、それに住所のラベルを貼らなければならない。3000枚である。
気持ちよくこなして行きたい
働くぞ(2010年2月8日・月)
締め切り2日前に作品を提出する宣言をして、仕事が早くなり、依頼の仕事が切れてしまった。
幸にもやらなければならないことが沢山あるのでそれを、何日かやっていようと思う。仕事を早く済ませばこういう効率のいいことも生まれるわけだ。
まず、何作か出来るはずの「手拭いの文字」を切って、デザインをする。やれば手拭いがすぐ3本くらいは完成するはずだ。
制作風景とライブのビデオを作ってある会社に送らなければならない。それもやらなければ。
申告の準備もある。
昨日の埼玉伝統工芸会館のライブは強風にもかかわらず、たくさんの人が会館を訪れ、ライブを見てくださった。作品も2作完売。
今、ライブを見た方にはカレンダーを無料でお配りしている。展覧会のライブでないので、私のことを知らない人ばかりであるから、自己紹介のつもりで、お配りしているのである。やはり、効果は抜群で、ちゃんと皆様見てくださる。
今年はかなりの枚数をすったので、まだまだ在庫がある。すっておいてよかったと思う。
強風で昨日も電車で往復したが、大量に山歩きの高齢者が、リュックと登山靴の姿で電車に乗っていた。流行っているんだなあ。
強風にあおられ(2010年2月7日・日)
強風だった。バイクを運転して伝統工芸会館ライブに向かったが、後悔した。運転を中止したのが2回あった。それでも何とかたどり着いたが、帰りは電車で帰ってきた。
客も少なく、会館の人たちと内輪でライブをやった感じ。それでも、お客に山梨の身延出身の人が来てライブを見てもらった。娘さんがこの近くにお住まいのようで、本人は練馬にお住みだとか。
来月には身延で富士川切り絵の森美術館が開業するから、そのお客さんの親族・知人にも見てもらいたいものである。
残念ながら、開館時以外は私は切り絵の森の方には顔をださい。
ライブのオファがあったら行くつもりであるが、残念ながら、切り絵の森ではライブの人気を知らないのだ。
今8チャンネルで、同郷で年末に29歳で亡くなったリーダーでボーカル志村ひきいる富士ファブリックのコンサートをしている。人気があったんである。惜しいことをした。
また途中下車の旅が(2010年2月6日・土)
また、途中下車の旅のオファーがあった。今度で、3度目である。今度は、なしになると思っている。
衰退(2010年2月6日・土)
昨日の日本文芸家クラブの新年会は、人数が少なく、悲惨な状況であった。理事長の志茂田景樹さんと私とこの状況を打破するべく、闘志を燃やす事になりそうだ。
さしあたり、5月に日本文芸家クラブの日帰りバス旅行を行いたいと思う。「作家と行く富士山漫遊のバス旅行」である。作家・画家のファンが一緒にバス旅行をするという計画である。
年二回のバス旅行をしたい。秋の10月は「群馬の旅」。「テーマは作家の利益と知名度のアップ」である。
何とかその時60名の参加をつのりたいと思う。大型バス2台である。
新年会(2010年2月5日・金)
今日は日本文芸家クラブという、作家や我々のように出版と関わる画家が参加している会の新年会がある。
私はその会の事業委員長をしている。昨年の夏からだが、まだ何もしていない。今年は必ず何かするつもりだ。一つか二つの企画を立てたい。作家の利益と知名度を上げることを視点にしてイベントを起こしたい。
今日は、参加して来た皆さんのプロフィールを知るべく、出来るだけ全員の方と名刺交換をしたい。ただ、顔は忘れるだろう。
勢いが違う(2010年2月4日・木)
ということで締め切り二日前提出という宣言をしたものだから、作品を作る気迫が今までと違ってきた。
この勢いでがんがんやっていく。
締め切り二日前仕上げ(2010年2月3日・水)
ある編集者に、締め切り二日前に必ず仕事を仕上げるという宣言をした。
これまで、禁煙・禁パチ・禁酒(一人で飲まない)宣言を人にして成功している。
きっとこの締め切り厳守宣言も、効果を表すだろう。
いい編集者である。
締め切り(2010年2月2日・火)
今日は締め切りである。何としても仕上げなければならない。でも、夜はパーティで、東京である。どうしよう。
スキャンがたまった(2010年2月1日・月)
私が担当した本のカバーとか挿し絵とかライブの画像がたまったが、スキャンしていないのでアップしていない。
二月に入って、やること満載だが何とかこなさなければ。手ぬぐいも作らなければ。
今日は英会話教室である。何とか英語は毎日勉強をしている。しかし、先生のオーストラリア人の人の話では、オーストラリア人はのんびりしているらしい。日本人の過労死なんて信じられないという。
締め切りも催促され、明日には一つ仕事を終えるつもりだ。
1月最後の日(2010年1月31日・日)
一月最後の日だ。冴えない月だったが、よくそれでも動いたと思う。
2月の2日から銀座の伊東屋で親友の蓬田やすひろ氏の個展があり、パーティがある。蓬田氏は今年何と菊池寛賞をとっている。
私なんかはるかに及ばない華やかなパーティになるだろう。
今日も埼玉伝統工芸会館でのライブがあるが、わたしに絵を教わりたいという人が3人いて教室をする。切り方としては丸をきるのが一番難しい。絵を習得するにはコツはない。ただひたすら、一杯描くことだ。
ただ、描くことは飽きてしまう。それでそれを何とか飽きないようにするというのが私の役目だと思うが、その手段を考えているが果たして効果があらわれるかどうか。
隣の部屋(2010年1月30日・土)
前に隣の部屋も借りたということを日記に書いたと思う。この部屋は今までの部屋と違って、日当たりがすこぶるいい。三方が窓だから、明るいし暖かい。
こちらを今はメインの仕事場にしている。かなりエコである。
先日、ミニ胡蝶蘭のことを書いたが、この部屋に置き始めて胡蝶蘭が復活した。当然夜は、照明・暖房入りのケースに入れるのだが。
夏は暑すぎて、この部屋は無理だろう。最上階のビルで、窓に庇もない。とんでもない暑さになるはずだ。その暑さとエアコンを入れて戦わせるつもりはない。
一つの社会(2010年1月29日・金)
東洋大学のスポーツサポーターズクラブの会合があり行ってきた。15人くらいの常任理事が集まって会議をする。
3月には東洋大学の現役・OBから優秀な成績を上げると表彰し、また70いくつかあるスポーツクラブに援助金を送るというのもある。
ほとんどが私より高齢の方だ。しかし、学生時代のクラブの話をすると面白い。ある店で先輩がいるのに知らずに騒いだ次の日に、大学の校庭で全員正座させられたそうで、「俺にタバコの火をつけに来なかった」という理由だったのだそうだ。
とにかく当時は理不尽な理由で殴られたりしたらしいが、いたんだからいいところもあったんだろう。
いろいろな販売用のグッズやデザインと絵だったら私に任せてくださいといっておいた。東洋大のスポーツグッズが、私の絵で埋められる時代が来るのかもしれない。
珍しく時計のはリが次の日になった頃かえって来た。
久々東京(2010年1月28日・木)
今日は東洋大学のOBで組織するスポーツサポートの会合がある。
箱根駅伝での、快挙もありこの組織も佳境に入る事になるだろう。
久しぶりの東京である。終わってからの先輩たちとの酒宴が楽しみだ。
私は30歳40歳の若い連中より、年配者と話した方が好きである。落ち着いて、あきらめることはあきらめて、少なからず悟りに近づいて菩薩さんのような、そのゆったりさがいい。
その会に行く前に何箇所か展覧会とかで寄り道をして行く事になる。
ミニ胡蝶蘭(2010年1月27日・水)
昨年もらったミニ胡蝶蘭。山梨で作っていて、全国の贈答品の品評会で一位を取ったものなのである。そのおっそうわけを友人から頂いた。
だが、胡蝶蘭を生かし続けるのは冬場が難しい。展覧会で胡蝶蘭を頂くのであるが、一冬越したのは一度だけ、あとは惨敗である。
今度はミニ胡蝶蘭で、大きさは牛乳パックの普通サイズくらいである。
そのミニ胡蝶蘭を、ちょっと電気の無駄遣い的なところが気になるが、夜は箱に入れ、電球型蛍光灯を入れ暖房している。ちょうど胡蝶蘭が限界の15度ちょっとを夜間は上回ってくれる。それで、明るいから、育ってもくれる。
今は元気に葉を増やしている。実は夏を過ぎて、めっきり元気がなくなっていてどうしたものかと考えたのだ。
今年の冬は何とか越しそうだ。夏には元気な立派な姿にはなるだろう。
英語教室(2010年1月26日・火)
英会話は、いろいろなところで頭に英語が出てくれば良いと思うが、さすがに会話教室の直前になると、頭に英語が飛来する。
いいくせになるといいが。
昨日は私も積極的に会話に参加できた。ただ、昨日は市民会館の教室が取れず、レストランでの教室だったからBGMがうるさくて、聞き取れないところもあった。6月にアメリカに行くが、もしかしたら、少しは英語がしゃべれるのかもしれない。
問題は4月に行く事になっているスペインである。スペイン語はまだ入り口というレベルだ。
二つはいらない(2010年1月25日・月)
ライブは二つしたが、二つとも時間が掛かりすぎた。私もしんどいが客もしんどい。
重いテーマは一つで終わっていいのかもしれない。ライブは難しい。
今月も残り少ない。あと3作の締め切りがある。のんびりしてしまって、こんな事になってしまった。
一週間は早いもので、今日は英会話教室である。教室に通うことで、少しは英語の勉強をするところがいい。
即興ライブのテーマ(2010年1月24日・日)
今日は埼玉県小川町・埼玉伝統工芸会館で即興ライブがある。
しかし即興ライブのテーマというのが難しい。ないときはリクエストに答えたりしているが、気軽なテーマが見つかった。
北斎漫画というのがある。日常の江戸の人たちのしぐさを絵にしたもので、大変な数がある。
その江戸の人たちの立ち居振る舞いを私の場合はリアルタイムで生きていないから、想像で描いていく、百鬼丸漫画である。
それに、現代の人たちの風俗を描くというのもいいだろう。こちらは現代版百鬼丸漫画となるが。
どちらがいいだろう?どっちもやろうか。一回に二作作って。
勿論それを手拭いにして売るという方向で。
久しぶりのしまらない月(2010年1月23日・土)
先日のパーティで、作家の睦月さんに会ったことを書いたが、寡黙である方で余り話せないが、わずかに話した中に「私は年中無休だ」というようなことを話していただいた。
休むと調子が狂うのだそうで、私も全く同じ理由で年中無休を通しているのである。
休んではいないが、昨年仕事が切れて、忙しくやってきたのが一息つけるなあと思ったとき、気持ちが緩んでしまった。実際にはすぐ仕事が入ったので、一息ついてはいけなかったが、もう気持ちの緊張が切れて、それが今も尾を引いている感じで、緊張感がない。たまにはこういう時間があっていいと思うなんて思いたいけど、気持ちが良くない。
私の仕事は、依頼されている仕事をこなすこという意識が強い。本当は自分で企画して、いろいろな商品を開発するのが仕事と思う方向に行かなければいけないと思っている。
だが、両立させることは無理なのかもしれないから、この意識は一生抜けないのかもしれないが、頼まれ仕事を止めるという決断をすれば出来ないことはない。
私の晩年の最大の決断になるのかもしれないが、そんなことをして、生活が成り立つものなのか、そこが問題である。
もうすぐ、その決断をせまられる機会がやってくるかもしれない。
話は違うが、昨年の今頃、頭の毛が薄くなったことを嘆いたものだが、今頭に手を当ててみると、ふさふさである。ツムラ製薬の「もうが」を使い始めて3ヶ月、効果は抜群である。ちなみに、使った翌日には、頭の毛のはリを感じて、驚いて、すぐこれはもしやと信じはじめてその通りになった。
しかし、その話をすると、毛生え薬で毛が生えることを信じていない人が何と多いことか。当然、効目は個人差があると思うが。
ある間(2010年1月22日・金)
知り合いの小母さんが、彼女の姉に不満があるらしく、私にその不満をいった。
だが、私はその姉さんの方の弁護をした。その時、小母さんにほんのちょっとうろっとした間があって言葉を飲み込んだ。
こんな瞬間がたまにある。
ある小宴会に参加して、その中のひとりと仲良くなっていた。みんなが彼と友人なれてよかったですねといった。その瞬間、私と友人以外に妙な間が出来た。「よかったですね」といいながら、この間は、その友人に問題があることを示していた。
その間がなんであるか、あとになってわかるのである。
テニス心得(2010年1月21日・木)
いつものように朝、テニスをした。暑いくらいの陽気だった。いつも、年配の方とばかりやっている。年配といっても、私とコンビを組むのはいつも76歳の人だ。ほとんど動けないから、私がコートを飛び歩く。
他の人もレベル下の人ばかり。だが、昨日は年下の上級者が来た。2年半前に入っていたクラブだから、その上級者も仲間であるので、すんなり入れる。
この2年半で私はかなり、昔を取り戻して、時期時期に良かったショットが、今全部そろって復活しつつある。
スマッシュは、学生時代の1年生・2年生の頃、手が付けられないほど良かった。バックーボレーとバックのドライブは大学4年の時。フォアハンドのトップスピンは、15年前。
バックのスライスは今が全盛。
プロに出来ることは私でも出来るはずという気持ちでやっている。バックのスライスは普通の人は、あまり力を入れて打たない。ミスが多くなるからだ。それは単に技術がないからなんだけど。私はバックのスライスでも思い切り打つ。それで入れるコツを知っているからだ。
そのバックハンドが試合できれいに入っていくから、皆驚いていた。
3試合して帰ってきた。
久しぶりに見た年配の方々は、うまくなっていた。しかし、昨日やった上級者はあまり進捗がない気がする。
私はコートに行かなくても、よく考えるし、それを実験をしてきた。考えないとうまくならない。
人は私にパワーがあるからとか、手首が強いからだとか言うけど、違う。テニスは物理だ。コツさえつかめれば誰でもできる。そのことを知らない人がとても多い。
一つ人に言う言葉がある。「テニスでやろうとしていることが、出来ていないからうまく打てないんじゃなくて、やろうとしていることが間違っているから出来ないんだ」ということ。人間の運動神経というのは凄くて、自分の意思どおりに動作をしているものだと思う。
頭が痛い(2010年1月20日・水)
昨日起きたら頭が痛かった。
夕方に血圧を計ったら、下が60で上が90.二度計ったが同じだった。この頭痛はその影響なのかもしれない。
でも、なんでだろう。
昨日は暖かかった。今年からアトリエの隣の空き部屋を借りた。広さはアトリエより広い。作品の倉庫にしているんだが、東と南から陽が入る。明るいし温室のように暖かい。それで、冬場だけアトリエにする事にした。だが、夏は暑くてアトリエには向かないかもしれない。
ファイトいろいろ(2010年1月19日・火)
英会話は全然駄目だった。しゃべれない。逆にファイトが沸いてきた。頑張るぞ。
久しぶりの東京だった。見知った人も結構いた。作家の睦月影郎氏がいらっしゃったが、良く会う。
この睦月氏、HPを見たら、漫画も描いている。これには刺激を受けてしまった。
見た目よりかなりさばけていそうな人だ。
(2010年1月18日・月)
今年からやることになった英会話教室の今日は初日だ。先日のは新年会。進展があるといいが。
スペイン語も今のところ独学だが、やっている。まだ、頭にしみこむまでになっていない気がする。
夕方には、東京の某出版社で新年会をするというので行ってくる。カレンダーを折って持っていってプレゼントしようと思っている。
着物で行くつもりだったが、伝統工芸会館に置いてきた。別ので行こうかと思う。
皆さんに会うのが楽しみだ。
伝統工芸会館ライブ(2010年1月16日・日)
昨日は寒かった。バイクに仕事道具と着物と紙入れの筒を乗せて、荷物満載で行った。
今日は販売用のTシャツと大工道具を持っていく。
午前中客の姿が見えなくて心配したが、ライブが始まる時間には人がぼちぼち来て、10人以上の方が観覧してくれた。
中に高知から来た方がいて、だから、坂本竜馬を切った。なかなか出来がよかったので、お客さんは買っていった。
皆さんに楽しんでいただけたようだ。
今日も行くががんばりたい。
郷里に帰ってきた(2010年1月15日・土)
郷里・富士吉田に行ってきた。雪が5センチくらい積もっていた。だから道路を歩くのは滑って転びそうで怖かった。
富士山もくっきり見えて、きれいだった。でも、寒かった。
母親も元気だった。もう外には出ず、もっぱらテレビの前のコタツの前に椅子を置き、足をコタツに突っ込んでいるというスタイルで座っている。兄とも前日の晩にお酒を飲んだ。
兄は写真を撮るのがここ10年くらいの趣味で、山梨の新聞には常連で一位とか入賞をしている。
私が絵がうまくなったのは、子供の頃姉の絵を見てからだったが、兄だけはそういう美術とかの話を聞いたことがなかった。ただ凄iい学校の成績がよかった。だから、兄が写真のセンスがあるということで、兄弟三人全員美術が得意という事になる。
昼に帰ってきた。
急遽富士吉田(2010年1月14日・木)
正月として富士吉田に帰ります。明日の日記はなしです。
富士吉田は寒いでしょうね。
アメリカから(2010年1月14日・木)
郷里富士吉田の姉妹都市・アメリカのコロラドから、6月のお祭りに私に来てくれと連絡があった。
昨年、行く予定だったが、先方の受け入れの方が病気で、中止になった。
理由がそれなのかなと思っていたら、本当だったらしい。女性の方らしいのだが、手術をしたということだ。
とにかく行って見たいと思う。ついでに、ニューヨークの友達のすし屋の壁の一部のインテリアをやってほしいというから、やってもきたい
ピロリ菌の検査(2010年1月13日・水)
今日は歯医者と胃腸病院に行ってくる。歯医者は近所にある歯医者だ。名前が「鬼丸歯科」。面白いんで行く事にした。
もお2年くらい掛かっている。あちらは私が百鬼丸だとは知らないし、百鬼丸という名前の切り絵作家がいることも知らないのかもしれない。
でも、広報とか新聞に私の名が載るときもあるんで、誰かから情報をもらっているかもしれない。
胃腸病院は、昨年のピロリ菌退治の結果の検査をしに行ってくる。胃腸病院は混んでいるんで、診察券を出してから、歯医者に行ってくる。さて、ピロリ菌はどうなっているんだろう。検査の結果、まだ死んでないとしたら、違う薬を飲む事になるらしい。
ただ、最近はピロリ菌退治をしたせいか、腹の調子がすこぶるいい。前は、下痢が良く続いた。
テニス快調(2010年1月12日・火)
昨日は今年からはじめる英会話教室の新年会に参加した。12時からだったんで、その前に1時間ほどテニスをした。
6年位前に、私の得意のフォアハンドは10年以上のスランプを経て、戻っていた。だが、何かが違う感じがしていて、その証拠に好不調の波があり、その原因が分からなかった。
その原因が、わかったのである。本当にちょっとしたことだが、ラケットの握り方のあるチェックが違っていたのである。前は、それを気にして握っていたのを思い出した。でもそれを意識するのとしないんでは、結果に大きな違いが出てくる。
よく、テニスを頼まれもしないで教える人間がいるが、たいていが踏み込んでいないとか、前で打つとかで肝心なことでないことを教えている。そんなことでテニスがうまくなったら苦労しない。私が学生時代から、言われてそれで出来ないんだから、それがテニス習得に重要なことではない。
技術というものは、習得すれば自然に踏み込むようになる。踏み込めない根本的な原因があるのだ。
これから、フォアの安定感が増すだろうし、威力も増すだろう。
15年以上前、山中湖に後輩たちとテニスの合宿に行き、一日目は良かったが二日目に不調に陥り、その原因が分からず、10年以上もスランプが続いていた。フォアハンドの好調のときは、何も考えなくなって、チェックポイントを忘れてしまっていたのである。慢心だったんだろうと思う。
ライブ快調2(2010年1月11日・月)
昨日はNPOザブン賞の表彰式で、宇都宮に行ってきた。最後に私が講評をしゃべることになっていたんだが、私はライブをする事にして、それを誰にも知らせていなかった。
緊張の空気もなくなり、ライブのスリルに皆さんひたってもらった。いっぺんに空気が変ったといっていい。
やってよかったと思う。
終わってからは、宇都宮の屋台村で一杯スタッフと飲んだ。
ライブ快調(2010年1月10日・日)
埼玉伝統工芸会館でのライブの通知は、私のHPのスケジュールに記載しておいただけで、何にもしていなかった。本当に私がいけるかどうか分からなかったからだが、ちゃんとやり始めたので、このホームページで通知する事にした。
昨日は、それにもかかわらず10人ほどの方が、見えた。偶然いらっしゃった方もいた。
これから、人が休暇を楽しんでいるときに、そういう方を相手に仕事という事になる。私のような画家で、こういう活動をしている人も少ないだろう。
画家というのは、大体が仕事の現場を見られたくないものだ。会館に行く日は、開館から文庫本のカバーの絵の公開制作もするから、珍しいので、きっと見たいという需要はあるはずだ。
そのうちに私とコラボレーションしたいという人も出てくるだろうし、勘がいい人だったら、会館のロビーで、単独で大道芸をしたいという人も出てくるだろう。それを見に客が来たらいい展開になる。時間がかかるかもしれないが、埼玉伝統工芸会館の一つの方向だろう。
昨日は寅と河童を切った。河童の方は久しぶりだったがいいものが出来た。
服部さん昨日はご馳走様でした。楽しかったですね。またやりましょう。今度は柴生田さんたちも入れて。
今日はNPOザブン賞の表彰式で、宇都宮へ行ってくる。
一つ終わり(2010年1月9日・土)
今年3つ目の仕事が終わった。すぐに4つ目の仕事に取り掛からなければならない。
今日は、昼間は小川町にある埼玉伝統工芸会館でライブである。今年一年、土日は埼玉伝統工芸会館で、ライブである。文庫本のイラストの制作も公開でやるつもりだ。
絵を描いている人、絵に興味がある人には楽しみになると思う。
今日はその初日で、いろいろ運ばなければならないので、遅れる可能性がある。ただ、1時半のライブには間に合うようにしたいと思う。
私のライブの日程は、会館か、私のHPを見れば分かる。私の都合でできない日もある。
緊迫感なく(2010年1月8日・金)
一昨日の軽いギックリは、その前日のバイク転倒で、バイクを起こすときに腰を痛めていたという前兆があったのだろう。
昨日は整体院に行った。
暮・正月のせいで、まだ緊迫感がなく本調子でない。だから、休みたくないんだ。
取り戻すのが大変だから。
軽いギックリ(2010年1月7日・木)
昨日は初テニスをした。私の残る課題はフォアハンドボレー。これが分からないが、ただ、球を当ててから、ボールがラケットから抜けるまでのスピードを加速できるかが、テニスというのは課題なのだと思っている。
テニスをある程度やった人なら分かる言葉で、早く言えば「厚い当たり」というものなのだが。
フォアボレーでその厚いあたりをさせるにはどういう風にすればいいのかということを考えた。
大学時代から、ラケットを立てろといわれ、うまい人から最近も教わると、同じことを言う。
しかし、わからないのはその上級者が果たしてラケットが立っているかというとそうでもなかったのである(ましてや、プロ選手も立ててはいない)。私はこの立てるというのが嘘だと思う。立ててから、どういうスイングをしても、スイングスピードが増すスイングというものは見つからない。だから、立てるという前提が間違っていると結論付けた。
頭で考えると、ラケットをスリークウォーターか水平くらいにしないと、ボレーの当たってからのスイングを早くするなんて出来ないはずなのである。
そのことを考え付き、実行してみた。やはり推理どおりある程度うまく行った。このアイデアの芽を育てていこうと思う。
フォアボレーが完成すれば、もお、ほとんどのショットが平均点以上になる。
しかし、久しぶりにやって、軽いぎっくり腰になってしまった。
いや危ない(2010年1月6日・水)
一昨夜の雨の朝は、路上が凍っていた。バイクで大丈夫かと思ったら、転倒した。
まるでスケートリンクの上で転んだように、滑っていった。
反対車線に入らず、後続車もなかったから、追突を免れた。
初めての経験だった。
氷の上を滑ったので、擦り傷はないが、体の何箇所かが痛い。これからあんな日はバイクは止めよう。
それにしても途中で、赤ん坊を背負って自転車の女性とか、後ろに子供を乗せての自転車の人もいた。これは危ないと思う。全国で事故になったケースはあると想像する。
いろいろな人と(2010年1月5日・火)
昨日は、浅香光代さんの観劇に出かけた。開場は1時からだと思ったら、1時が開演であって、行ったらすぐ演目が始まって楽屋にいけなかった。失敗した。
これが後から、予想通りならなかった原因であった。
会場のゴロゴロ会館に向かう途中に、浅草演芸場がある。その前で、木久蔵ラーメンを売っていた。見れば今日は木久翁さんの出番であった。売っている人を見れば、木久蔵という法被を着ている。
もしや木久翁さんの一門の方かと、たまたま持っていた、寅の小さな置物を「百鬼丸といいますが、木久翁さんにお渡し下さい」と手渡そうとしたら、その若者は「百鬼丸さんですか、いやどうも」なんて知ってて、他の若者に「百鬼丸さんだよ」なんていって、皆さんご存知なのであった。
そしたら、すぐ木久翁さんの息子・木久蔵さんも見えて、お久しぶりですと挨拶を交わした。皆さんにカレンダーを配り、木久蔵さんからは手拭いをいただいた。時間がせまり急いでゴロゴロ会館に向かった。
ゴロゴロ会館では相変わらず、花がずらっと並んでいた。さすがに自民党の議員さんのは少なくなっていた。
昨年の浅香さんの作の演目も良かったが、今回の「まぶたの母」もなかなか良かった。浅香さんのちょっと間が後れて出てくるセリフも、味を感じた。
後半になると私も、昨年、舞台に立たされた場面が来る。昨日は遅れたが、幕間に、楽屋に浅香さんをたずねているから、浅香さんも私が来たことは分かっていた。
しかし、今回もその場面になり私は緊張して、呼ばれたくなくなった。しかし、呼び出されるメンバーがすごい。長門勇さんや私が知っている人ばかりである。10人ほど並んだだろうか。私は呼ばれなかった。人数が多すぎたからだろうなと思った。でも、ほっとした。
終わりの場面に客席に来て、お客と握手し始める浅香さんに私も再び挨拶すると。何で出てこないんだと怒られた。
旦那さんのセシ凡太さんとは、ロビーで往き会っていたので私が来たのは知っていたはずだが、私を呼び忘れていたようなのだ。最初に楽屋を訪ねてないから、こうなったんだろう。でも、これでいいんだけど。
もう一度来なさい、紹介するからと浅香さん。どうしたものか。
持っていったカレンダーを殺陣師で私のファンだという、私も大好きなキャラの藤森さんに渡した。役者の方に全員わたる数をもって行ったのだった。席の隣の人とも仲良くなった。西船橋の「百花亭」という酒どころのご主人だった。カレンダーをお渡ししたら、お店に来ればご馳走するよとおっしゃった。
場内から出るところで、昨年私の席の近くに座っていて、品の良さが目立った女性が今年もいた。この方にもカレンダーを渡した。説明したら、憶えていた。奇遇である。
浅草を後にして、ファンの中島さんに寅の切り絵を渡しに、小平に行った。お宅で酒宴になった。お宅に上がりこんで飲むというのは、酒飲みでもなかなかないことである。オーディオがばっちりそろって、アンチィークなお店を感じさせるお部屋で、凝り性らしい中島さんの作った美術作品を拝見した。旅行も100名山踏破を目指して、もうすぐ達成するということで、そのアルバムもずらっと並んでいる。
すごいマニアックな人であった。いや感心した。そういえばマニアックを最近感じたことがあるなあと思ったら、文芸評論家の細谷さんを思い出した。
かなり遅くまで厄介になって帰って来た。いろいろな人と会った一日だった。
今日は夜に雨が降って路面が凍っているだろう。
東洋総合優勝(2010年1月4日・月)
東洋大が2連覇した。横浜の崎陽軒で、大画面の前で160人のOBが応援した。
私の恩師の太田邦夫先生も見えた。
ただ、去年はOBは優勝すると思っていなかったらしく、びっくりしたようで、大変盛り上がったようだが、今年は、皆さん画面を見るのも少なく、余裕の歓談をしていた感じであった。
しかし、この2年ほどは、東洋大のOBとしていろいろなイベントに参加させてもらって、東洋大閥のというのがあるんだととても楽しい思いをさせてもらっている。
崎陽軒が終わって、関係者から、高田馬場に選手の祝勝会があるから行こうと誘われ、行ってみたら、柏原君をはじめメンバー全員がやってきた。部員が60名近くいるらしく、イレギュラー部員がかわいそうに我々にビールを注いだりと接待をしていた。本来逆な気がするが、部というのはそういう習性があってしょうがない。
只、レギュラーも挨拶が終わったら、料理に群がること。相当は腹がへっていただろうし、食事制限とかもしていただろうから、その有様は当然だろう。
東洋大往路優勝(2010年1月3日・日)
ページの上の寅を、毎年買っている人に遅れてしまった。
今から送るつもりだったのだが、額のサイズを間違えて作ってしまった。今日は横浜に行くから、作業が出来ず。
明日は、浅草に浅香光代さんの公演の観劇で、やれず。そのあとになってしまう。
申し訳ない。
さて、東洋大の総合優勝なるか!
箱根駅伝パート1(2010年1月2日・土)
明けましておめでとうございます。今年も、百鬼丸自らが毎日更新している手作りホームページをよろしく。
今日は、昨年見損なった箱根駅伝に釘付けとなる予定。
ただし、また仕事をしながらになりそうだ。
明日は、母校東洋大の校友会(OB会)の横浜支部が横浜駅前・崎陽軒に集合して、大画面テレビの前で応援するが、私も昨年の講演でお仲間になったんで、一緒に応援する事になっている。
今年は全国から、東洋大のOBが応援に来るそうだ。
昨年暮れに埼玉伝統工芸会館で冬と夏(春と秋は川越・つちかね)の毎土日に即興ライブをしに行くことが決まった。これは非常に楽しみだ。
良いお年を(2009年12月31日・木)
あと一日、過ぎれば希望の年が来る。
皆さん良いお年をお迎え下さい。
書かなければ(2009年12月30日・水)
カレンダーを送くると、礼状が来たり品物が届いたりする。逆に申し訳ない気がする。
そして、品物をいただいた方には、お礼状を書かないといけないと思うのだが、量が多くて遅れてしまう。
一日のうちに仕事以外に手紙もそうだが、やることが沢山ある。
仕事がしたくなくて、そちらに逃げ込みたくてしている時もある。そんなときが手紙を書くいいチャンスだ。
今、少し緊張感のない日々を過ごしているのかな。勿体ない気がする。
カレンダーのお礼というのではなく、ある人から、日本酒の大吟醸の古酒がとどいた。飲むのが楽しみである。
フジファブリックのギター/ヴォーカル、志村正彦 急逝(2009年12月30日・水)
私の郷里富士吉田生まれの、志村正彦が29歳の若さで急死したという。寂しい富士吉田が、また、寂しくなった気がする。
フジファブリックは、私の中学のクラスメートがお嫁に行った織物工場の名前からとったらしい。フジファブリックは当初、私の母校・吉田高校のメンバーで構成されていて、メンバーの一人がフジファブリック工場の息子だったことから、機械が動かなくなった夜の工場が練習場になったようだ。
また、志村さんのお母さんは私の同級生だと聞く。旧姓を聞けば、きっと知っている女性だろう。志村だけでは分からない。
私のクラスメートの息子は、家を継ぐために数年前メンバーから外れていた。小学校から何回もクラスメートになった親しいお母さんなので、家に行って家族全員と話をしたことがあるので、彼とも会っているが、とても真面目そうな人であった。
フジファブリックの楽曲はとても個性的だと感じた。惜しい人をなくしたと思う。
(2009年12月29日・火)
劇団プークの忘年会に行ってきた。
朝起きて仕事をしようと、新宿ワシントンホテルに部屋を取った。先にお話しすると、酔っ払いすぎてとても起きられず、頭が痛くもないがとてもやれる状態でなかった。
仕事道具の重たいのをよっちら持って歩くのがしんどかった。
さて、劇団プーク。私にとっては劇団との付き合いは、糸操り人形劇団「結城座」についで二つ目。不思議に両方とも人形劇団というところが共通している。
劇団プークは創設今年で80周年。で、結城座は何と400年。どちらもすごい。
劇団プークは、新宿駅の近くに自社ビルを抱えている。建物は古いが、一等地であり、周囲には近代建築が並ぶ。でも、味のある建物の5階で忘年会はおこなわれた。
やはり、私が付き合っている仕事上の方々とは違う、何か懐かしい感じのする人たちである。中にいる方々はそこで生計を立てているのだから、それなりに人間関係のわずらわしさとかがあるのかもしれない。しかし、外から見ると皆さん魅力的な方々で、話していると心地いい。ゲストの方々が紹介され私も、ちょっとだけお話をした。
そして、若い人から、かなりの年配までが集うという形になるが、若者は、年配者の手練に憧れ、年配者は若者を育むという感じが現われている。
しかし、忘年会の雰囲気は私が若い時代の以前のもっと前の雰囲気をかもし出していてとてもアンチィークだ。
皆で歌を歌い始めるところは歌声喫茶をほうふつとさせる。
年配者が多いせいか、皆さん、ご馳走を余らせて食べない。私は容器にご馳走入れてもらって、持ち帰った。
健康的な忘年会であった。
思い残すことはない(2009年12月28日・月)
今日は劇団プークの忘年会で、行ってくる。皆さんと別れたのはだいぶ前のような気がするが、8月の紀伊国屋ホールの「牡丹燈籠」の人形劇から、まだ5ヶ月しか経っていない。
時のたつのは早いというけど、こう考えると遅いともいえる。あの演劇から私はよく働いて、いろいろなことに遭遇している。
充実した一年であった。思い残すことはない。
身体を大切にして、長く切り絵作家としてやっていきたい。
昨月から、酒を一人で飲まなくなって、自然に毎日飲むことがなくなった。それが、健康に良いという事になってくれていればいいんだが。
寅を作らなければ(2009年12月27日・日)
そういえば、伊勢丹相模大野の展覧会の前に、作家の朝松健氏の100冊刊行記念のパーティが、東京ドームの近くで行われたが、私はその前に、新宿の宿泊予定のホテルに向かって、新宿駅の出口の階段に差し掛かった。
ところが年配の酔っ払いらしい男性が、階段から落ちたらしく、頭からすごい出血をして倒れていた。駅員が3人が必死で声をかけていた。
私が外に出る頃には救急車のサイレンがなっていた。どうなんったんだろうな。
田舎に帰る予定を急遽止めた。まだしたいことがあるからだ。
昨日は、埼玉伝統工芸会館に、私の商品ワゴンを取り付けた。一番いいところに据えつけたんで売れてくれればいいなあと思っている。楽しい看板もつけた。今日も持って行き忘れたものがあるんでいってくる。
干支の寅を頼まれている。早く作らなければ。
スーパージャイアント(2009年12月26日・土)
DVDを借りてきた。新東宝の宇津井健主演の和製スーパーマンのSFだ。私が本当に小さい頃の作品で、夢中で見たものだ。
宇津井健の代表作といったら、ガードマンではなく、スーパージャイアントだと思う。
大学時代に、池袋の文芸座でオールナイトの全シリーズ放映があったが、見に行った。場内は超満員だった。
昨日日記に書いた、手拭い用ラックが完成した。われながら素晴らしくきれいに出来た。
常設ラック(2009年12月25日・金)
埼玉伝統工芸会館(小川町)に、私の専用のグッズラックを置く事にした。これから増えていく手拭いを置こうと思う。
手拭いにも、ランクがあるのを知らなかった。これから、もっと生地の質を上げていこうと思う。
昨日は、そのラックを設計して、カインズホームで材料を切り出してもらって、制作を始めようとしたら、実業の日本社から、今日中に作品が欲しいということで、さぼっていて中途で止めていた作品に取り掛かって終えて、銀座にもって行った。
京橋で、しりあがり寿さんの作品展があったので、一作小さくて安いのを買ってきた。
中央公論のH氏と京橋の龍馬という店で酒を飲んだ。H氏の家が今年の3月火事になったと聞いた。出張先から彼のところに電話があり「Hさんの家が燃えているそうです」と知らせがあったそうで、夕方のニュースにも流れたそうだ。
本人さぞびっくりしただろう。
忘年会(2009年12月24日・木)
劇団プークから忘年会の誘いが来た。これは嬉しい。行く事にした。
仕事でいずれ会えるが、懐かしいメンバーに会えるのが嬉しい。
やはり(2009年12月23日・水)
やはり、伊勢丹相模原での13人展は、日付を間違えたチラシをカレンダーと一緒に送ったものだから、間違えていった人がいた。とても申し訳ないことをした。
再来年あたりに、伊勢丹相模原での個展が実現するかもしれない。何とか、それでお会いできればと思う。
埼玉伝統工芸会館の館内で、冬と夏の暑い時期に仕事の公開制作と切り絵即興ライブを計画している。春と秋は川越の土金(つちかね)の露天で、手ぬぐいを売りながらの公開制作をしているから、来年は土日は皆ふさがってしまう。
その前に手拭いとか、Tシャツのラックを作ろうと思う。
(2009年12月22日・火)
昨日はお酒を飲んだ。人とであるが。このところ、酒を飲まないから、眠れなくて3時間布団の中で悶々としている時がある。ついつい、ベストな時間に起きれなくて困ってしまっていた。だが、今日はまあまあの時間に起きることが出来た。
睡眠がうまくとれないと、一日の計画が狂ってしまう。
テニスクラブも変えた。以前行っていたクラブである。今度はクレーコートであるから、雨のあとは出来ない。前はオムニコートという雨以外で来てしまうコートで、朝7時からやっていて、年中無休だった。今度のコートは火曜日が休みだから、今日がその日に当たる。
始まるのが9時だし、前ほどテニスが出来ないが、マニアックな私にはいいと思う。
環境はすこぶるいい、住宅地の外れにあって森がまわりにある。鳥も沢山いる。
舞台で踊る(2009年12月21日・月)
望月吾郎さんという作曲家兼歌手を囲む会にいってきた。望月吾郎さんは知り合う前は、名前を聞いたことがなかった。しかし、一曲彼が作曲した作品はヒットしている。
山梨出身の同県人だ。まだ、数回あったことがあるだけなので、知人といったところである。お客はご老体ばかりである。円テーブル席だったので、カレンダーを全員に配った。いや、「頑張ってね、応援するから」と励まされたりした。「いつもは何をしているの?」と質問もされた。
絵描きは食っていけないから、どこかでバイトをしているか、本業があると思われたのである。
最後はよさこいソーランに引っ張り出されて、舞台で踊る羽目になってしまった。派手な着物を着ていったから、不思議はないけど。
今年(2009年12月20日・日)
確かに、今年は息をつく日がなかった。展覧会と同時進行で、いつもの依頼されている仕事をこなした謂わば、二毛作的な展開だった。
来年も展覧会をどんどんやっていこうと思うので、その状態は変らないだろう。
まず分かっている範囲以内で、2月28日から川越の岡田畳店で「歴史読本の連載作の展覧会」が2週間あり(岡田畳店での個展は、年に3回から4回ある)、3月の後半には山梨の切り絵の森のオープンがあり、そのごそこで5ヶ月間の展覧会がある。
4月の初旬から20日くらいスペインで何かをしてくる。それについては後日報告したい。7月から8月の2ヶ月間は埼玉伝統工芸会館展がある。
東京での個展のスケジュールを入れたいが、まだ依頼がない。
起きられない
ずっと何ヶ月も緊張して仕事をしていたからか、気が抜けて早く起きられないのか。8時間は眠ったと思うが、よく眠る。まだ眠い。
テニス復帰(2009年12月19日・土)

夏の手首の痛みもなくなり、先日慶應病院に最後の診察に行って、何もしなくていいことになった。勿論テニスも解禁である。
昨日は、作り終えて講談社に作品をもって行った。宇江佐真理さんの「虚ろ舟」という単行本作品だ。
そういえば彼女の「雷桜」という小説が映画化になるそうだ。その単行本は私がカバーを担当したものだ。文庫のほうは違うイラストレーターがやった。
実はこの作品のカバーイラスト製作の時には思い出がある。カバーにイラストのメインは、赤ん坊がかごの中に入っている絵なのであるが、それはすらすらと描けたが、バックに稲光を描こうとして、どうしても稲光のいい造形が描けなかったのだった。
結果的には、長考で、何日も考えてアイデアが浮かびとてもいい稲光が出来た。
それだけではない。確かその頃彼女は、吉川英治新人賞を取って、授賞式で彼女の住まいである函館から上京していた頃で、私はその原画を見せに、その受賞パーティ会場に彼女に会いに行ったものである。
とにかく忙しくて、着の身着のままで行った想い出がある。
後日彼女は北海道新聞に「百鬼丸」というエッセイを載せてくれた。私の友人の友人が切抜きを送ってきてくれた。
北海道に遊びに行く約束は何年も果たしていない。とても楽しみにしているのだが。
伊勢丹相模原展2(2009年12月18日・金)
私にもファンがいて、展覧会には見えるが、伊勢丹相模原展には、宇野亜喜良の親衛隊らしい7人ほどが来た。
最初この人たちは宇野さんとどういう関係なのだろうと不思議だった。大体が年齢、40歳前後なんだろうが、私のファンより若い。
宇野さんはトークショーのあと、その人たちに囲まれてレストランで話をしていた。
宇野さんが昔の展覧会の日にちとかを質問すると、ちゃんと暗記して答えたりしていた。マニアのようだ。
今まで、横山明さんとか下谷二助さんとかに挨拶していた時、広告業界の仕事をしていないので、あまり私の認識がないのでそれなりの挨拶しか返ってこなかったが、多分これからは違うだろう。
私の作j品を見て、何か、お二人とも私を認識した視線を送ってきたような気がする。
これから彼らとの交流が少し始まると思う。
今年締め切りの仕事が、昨日で終わったと思ったが、二つの仕事が入ってきた。ハツカネズミがくるくる廻るかごを走っているのと同じ気がしてくる。
最後のカバー画(2009年12月17日・木)
今日の夕方に、東洋大学のスポーツ支援の団体の会議がある。私はそこの役員なので行ってくる。
伊勢丹相模原の展覧会の昼ごはんは、社員食堂だった。自ら望んでいったのである。社員食堂というのはどんなだろうと好奇心がわくのである。伊勢丹相模原店の食堂に向かう通路は、女性用の下着の販売をしていた。「おおなるほど」とながめながら通った。
社員食堂といえば、昔モデルのマネージャーをしていた頃の30年以上前、NHKの社員食堂を思い出す。私は営業でNHKに行ったのであるが、その頃は、NHKに入るのもチェックもなしでは入れた。それでも、何もおこららなかったわけだから平和な時代だ(出版社はビートたけしの講談社乱入から、ガードマンを配置して受付を通らないと会社に入れないようになった)。
NHKの社員食堂は、ちょんまげを結った役者とか、著名な方が、当たり前の顔をして食事をしていて、とても楽しかったのを思い出す。
伊勢丹相模原の社食は、当たり前だが、女性だらけだった。
ところで、今回の展覧会は初対面のイラストレーターがいた。友達になれるなあと思う人もいた。
「しりあがり寿」さんは、とてもフランクな人で、私の込み入った作品に感心していた。この人とは友達になれるだろう。
伊勢丹展(2009年12月16日・水)

伊勢丹相模原展での13人展は、ずっと来ていたのは私一人だった。他の方は初日のパーティとトークショーの時だけだった。それも来ない人もいた。
私はライブをするので、他の人とは展覧会に対しての気持ちが違うので仕方ない。
初日のライブはリクエストに答えてということでやったが、まだのれなくていい作品が出来なかった。二日目は、切り替えて江戸の物売りの「草履売り」をしたが、これものらずに失敗。3日目は、「枝豆売り」をしたがまあまあ。4日目は「がまの油売り」をしたが、これが気に入って5日目は、一挙に3作を客がいなくてもした。
それがこの作品だ。
8作出来たら、「江戸の物売り」手拭いナンバー2を制作するつもりだ。
相模大野から帰って来た(2009年12月15日・火)
数多くの想い出を作って、伊勢丹相模原店での時代小説13人展を終えて帰ってきた。
ホテルに泊まりこんで、嬉しい旅行気分だった。
今日は締め切りなので、日記はこれだけにする。日記を読めなかった方申し訳ありませんでした。
日記(2009年12月7日・月)
私の誕生日が6月7日であるから、今日はその6ヵ月後である。半年で日記の束を交替させる。だから、今日から下にあった、これまでの日記7から日記8にこの日記は保存される。
私は自分のHPを作ってから日記を書き始めた。何故日記を書き始めたかというと理由は二つある。
まず、HPというのは、更新しないと検索の時に上位に出てこないと聞いたからだ。今だと、グーグルで「切り絵作家」で検索すると最初に出でてくる。「百鬼丸」でも最初に出てくる。
以前は百鬼丸で検索すると手塚治虫さんの漫画「どろろ」の百鬼丸が上位に来た。
理由の二つ目は、見に来る人が代わり映えしなければしばしば立ち寄らないと思ったからだ。
絵なんて毎日できるものではないから、そうそうHPにアップできない。文章ならば、何とか毎日書けそうだったからだ。
私のHPは自分で立ち上げたし、毎日自分で更新している。
会社に委託すれば、お金はかかるし、毎日なんて更新が出来ない。とても不便である。
それから、表紙があって、クリックしていろいろなところに飛ばすというのも面倒で、他の人のそういうHPだととてもいらいらする。だから、下にさげていけば大体あらかた見られるようにしてある。
それから、全体に気どりたくない。出来るだけ、まんまの方が読んでる方が自分に投影できて面白いと思うからだ。
私は「感覚がそれほど人とかけ離れていると思っていない」と思っている。