集英社文庫 昭和61年4月10日発売
珍しい装丁である。切り絵を使っていないが集英社の西岡さんが、とても急いでいて、本来なら、デザイナーに頼むはずの仕事を私に持ってきた。パンフレットにあった白黒写真を、薄紫の紙にコピーして、さらに赤とか黄色とかを点描で彩色した。とてもいいデザインが出来たと思うが、映画上映と共に、カバーが変えられたが、こちらのほうが冷静に見てもずっといいデザインだった。

講談社文庫1989/8/15
製作の想い出
「超能力者狩り」はシリーズ四冊のうちの一冊だ。このシリーズのキャラクターは全て、作家をモデルにしている。この本のキャラは村上春樹だ。この切り絵はグレイの紙を切り、黒くしたい部分はマスキングして黒インクを、ティッシュに含ませて紙に押してつけて彩色するという方法を取った。一冊目の作品は著者である今野敏氏にプレゼントした。
富士見文庫「好色なトルコ人」は外国のポルノ小説である。この作品ももう20年前の作品である。当時は、へたくそなりに一生懸命やった。いい作品が出来たと喜んだものだ。この作品の良さもあるが、今見ると線が細すぎる。
当時は切り絵に見えなくてもいいと思ってやっていた。編集者に切り絵はどぎつすぎるということを言われたので、いつもそのことを気にして、切り絵に見えない切り絵を作っていたと思う。
この作品の襟の模様の細かさ、それから、女性の体のデッサンに時間がかかったこと、最後に帽子の柄をつけてみた想い出がある。でもいい作品だと思う。
徳間文庫
富士見文庫
文春文庫
富士見文庫 この富士見文庫の山田風太郎さんの文庫は全部私がした。今は小学館あたりで出しているのかもしれない。この頃はまだ、私も絵がへたくそだったとつくづく思う。気に入った作品がないのだ。といっても作った当時はいいと思ったのである。集英社で一冊山田風太郎の作品をやったことがあるが、その作品はよかった。
時間が経ってもいいと思う作品がいい作品なんだと思う。まだ山田さんも存命の頃で、申し訳なかったと思う。徳間文庫の谷恒生さんの作品も何冊かやった。この作品が誰がモデルかお分かりか、といっても私が名前を忘れた。当時はそんなこともしていたのであった。今はモデルは使わない。勝手に想像で描いている。谷さんも若くして亡くなられた。
そういえば、駒田さんも亡くなられた。
講談社文庫
講談社文庫
講談社文庫 この3冊は一月づつ発刊されたものである。左から第一巻、第二巻、第三巻となる。第二巻までは、私は本物の人物写真というもの見てを描いてかいていなかったのである。そればかりか、人体の裸のデッサンというものをした事がなかったのである。このあたりで、山梨県の上野原を出て、東京都調布市に住み、裸婦デッサンの集まりに参加して、本物を見てかくようになったのである。その境目の作品だ。担当編集者である根岸氏は大変驚いて、絶賛してくれた。
それからは、出来るだけ、写真を見て人体は描くようになった。たとえば、ポラで自分の裸(全部裸とは限らないが)を撮影して、デッサンしていった。顔も、自分の気に入った人の写真を集めたりして使っていた。
今は、何も見ないで描くことが多いが、たまには見て描くほうがいいと思う。
「おけい」は私が初めてやった文庫のカバーであった。文芸春秋へ売り込みに何回か行って「熱心に来てくれるから」と編集の市川氏が私に振ってくれた。「ただし、あなたの色使いは信用しないから、色をつけないで」という注文があった。それについて、自分に色に自信がないわけではないが、そういわれちゃあしょうがないととにかくやってみた。
おけいは会津の戊辰戦争の話で、おけいは官軍と戦ったが、その後、渡米をした女性の話であったと記憶している。それで、上巻は会津の磐梯山をやって、下巻がこの絵だったのである。私が絵が完成して、市川氏に渡した時、彼の表情は一変した。彼が当てにしていた作品をはるかに超えていたできばえであったからだ。
それから、市川氏は私のペンネームにもクレームをつけた。「百鬼丸なんて漫画みたいな名前」と失笑したのであった。それで、彼のせいで、その後何作か本名の「渡辺文昭」でやったのであるが、ちょっとあとで、義兄の内藤氏が、「百鬼丸のほうがいい」とおっしゃったので、また、「百鬼丸」に戻したのである。市川氏には感謝こそすれ、何もわだかまりはない。そして、すくすく育っていった私を展覧会とかには、必ず顔を出してくれて、温かいまなざしで、見守ってくれている。あれから、私は500作くらいのカバー画をしたのである。
原画は白黒です。
中央公論・ノベルス「嶽神忍風」は中央公論の若い編集者・後藤君が担当した作品だ。とても熱血な人で、私のアトリエにずっと張り付いて作品ができががるまで、待っていてくれた。それに、待っているといっても、部屋の掃除から、ダンボールの箱の製作とかしてもらっていたのであった。とっても頭が下がる編集者だった。今は営業部のほうに、移ったものだから、一緒に仕事をしていないが、また一緒にしたい存在である。
新潮文庫
新潮文庫の「果報は練って待て」の担当編集者は、桜井さんというちょっと私より上の女性だった。私が、新潮社に初めて売り込みに行ったときにお相手していただいた編集者であった。
その時、彼女が言ったのであった。「画家さんなんて食べていけないから、止めたほうがいいですよ」と。確かにその当時の私の作品は、レベルが低くとても、印刷物に使ってもらえるようなものではなかった。だが、私は将来切り絵界を背負って立つくらいのことは思っていた。だから、そのことを言われた後、「私が切り絵をやめれば、国家的損失です」といってしまったのだ。
彼女もカチッと来たらしい。そのことは後年いい想い出として、話したことがある。もう一つ「何でもやります」ってのもマイナスだとおっしゃっていた。しかし、その当時私の型というものを持っていなかったから、何が出来るのわからなかったというか、何でもしたかったのだ。しかし、私のその態度は、将来も変わらず、本当に何でもすることになるのだ。切り絵の可能性を広げたといってもいいのかもしれない。
彼女も、新潮社を退職した。仕事も沢山もらったくらいだから、とても仲良しな編集者となった。
潮出版・単行本
新門出版・単行本
潮出版の「わが沖縄ノート」は私にとっては初めての単行本であった。縄目の一つ一つを切り抜くという大変な切り絵であった。作品もA2くらいのでかい作品だ。カバーの裏までイラストが続いている。私が30歳の時の作品だと思う。
担当は能登谷さんという編集者で、10年位前に連絡がないので、訪ねたら、亡くなられていた。私のことを温かい目で見てくれていた方だった。私が初めて、出版社のパーティに出たのは潮賞という賞の表彰式のパーティだった。誰も、パーティに知り合いはいず、緊張していたものだ。その時、ある銀座のホステスが近づいてきて、私の隣で、「俺、たいした人間じゃないんで、他の人と話してください」と言ったものだが、何故かずーっといて私に話しかけていたのである。私はきれいな女性と話しているわけで、とても恥ずかしかった。彼女は眉という名門の文壇バーのホステスだったが、その時連れて行かれたら、まだ眉があった時に間に合ったので、惜しいことをした。その後すぐ、眉は解散したのである。
その後、そのホステスは一年に2度くらい電話がきて、誘ってくれたが一度もいかなかった。熱心だなあと思ったものだ。だが、彼女も眉が終わった後、お店を出したので行ったことがある。だいぶ前にその店もなくなった。彼女はどうしているのだろう。
能登谷さんにはとても会いたいなあと思う。いつかあの世で!
「渓流師の快楽」はJTBの編集者だった人のお父さんの本である。ギャラが出るのかと思ったが、なかったのである。そんな義理のある人ではなかったので、こういうことはやってはいけないことだと思う。またやってくれと連絡が来たが、断った。もう付き合いはない。
百鬼丸のフランス紀行

掲載された雑誌はどこかにあるだろうが、見つけるのは後にする。雑誌の「旅」は私のデビューした雑誌である。そのことから、JTBの出版事業局には15年くらい切れずに連載をもらって、育てていただいた。フランスには、JTBの社員の研修旅行に便乗して行った。だから、案内役の神谷さん以外は全員若い女性だった。
その女性社員たちは、全国から集められた初対面同士であった。東京もいれば新潟もいた。後は忘れた。私にとっては香港の次の、2回目の外国旅行であった。バブルの時代で、日本人が外国を闊歩していた時代で、我々はそれらの客を斡旋する業者ということで、各ホテルからはビップ扱いであった。
だから、私の部屋はとにかく広いところがばかりだった。ドアの表札には実際に「ビップ」と書かれていた。フランス語でだが。
もう、個人ではとても泊まれないだろう。バス旅行で、フランスを一周した。フランス人の髪の毛の色が黒ではないので、風景に黒色がなく、風景がパステル状態だったのには驚いた。
楽しい想い出の旅行となった。
切り絵は、とても忙しかったので、撮ってきた写真を目の前にして、下絵もかかずにナイフで紙を切っていった最初で最後の作品なのである。いわば、ナイフでデッサンしていった切り絵である。だから、天然の絵の狂いがあって面白い。いつかまたこの手法を風景画でやってみたいものだ。
左上はパリのムーランルージュ・右上はニースの城壁都市・下は有名なモンサンミッシェル。私は切り絵を裏から切るので、絵は左右が逆になっている。ご注意を。